盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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開運橋のジョニー6/30(火)31(水)はお休みになります。[05/29]

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レポート

2023-05-31

幸遊記NO.569 「花坂吉兵衛の相撲講本」2021.12.12.盛岡タイムス

 「穐吉敏子ジャズミュージアムに、役立つかも?。双葉山(穐吉定次)が盛岡に来たこと知ってるか?」とOさんからの電話だった。後日、彼が最近見つけたという「ああ青春、盛岡第一高等学校白亜外史」(毎日新聞盛岡支局)昭和53(1978)年本の中から、その部分をコピーしてくれた。嬉し!
 「戦後まだ間もない頃、人々は娯楽に飢えていた。双葉山の一行が興行相撲。現教育会館あたり、一代の名横綱を一目見ようと黒山の人だかり。だが彼以上に観衆の視線を集めたのは、土俵上で双葉山と四つに組んだ小柄な男だった!」と。その不世出の大横綱(時津風親方)は、男に対しこう言ったという。「先生の胸を借りて稽古したいものです」。その言葉は男にとって生涯忘れられぬ思い出となった。
 男とは宮古出身花坂吉兵衛(1898~1967)。旧制盛岡中学校相撲部から大正6年角界入り、同15年幕下二枚目で引退し、海軍兵学校相撲教員兼参考図書館勤務を経て、昭和10年(1935)「相撲講本」を刊行。(医学博士・軍医・広島県高田郡可愛村“現・安芸高田市”出身の枡岡智・共著・岩手県立図書館蔵)それによれば、相撲道48手中「忍」の一手に勝つものなき定説。心技体の一致「心を修め、気を養い、体を斎(ととのえ)る」。これが国民精神たる相撲道(国技)の最高指導原理であると。昔から、口伝、伝承あるが、学問的成書が皆無だったことからの資料収集調査研究は、時の内務大臣・後藤文夫氏にして「その苦心の跡歴然たるを観る」であった。
 「古代人類発達史から見ると、体育方法として見られるのはエジプトの角力と球遊び絵。アジア・ニネーベの角力壁画。ペルシャ、ギリシャの武を練る基礎教育。蒙古の形式」など。さて日本は、、、、と。ここで思い浮かぶはペリー日本来航上陸時・米俵両手に一個ずつ持ち運ぶ力士たちの図であるが、奈良時代に相撲作法が定められ、その目的は天下泰平穀物成就の祭典に相撲を取らせた。それは角力の二字が悪事の端をなすとの理由から「相撲」の字、いわゆる「神相撲方式」勝負終われば互いに礼を以って退き、遺恨なきことを示さなければならんと。
 それこそ大横綱・白鵬が破竹の63連勝した2011年、引退の今年2021年、再び注目浴びたのは、第35代横綱・双葉山(穐吉敏子さんの親戚)。勝つためにだけを目的とした手段を一切用いぬ求道・泰然如木鶏での69連勝。70連勝を阻まれた安芸の海には、その後、引退までの5年間1度も負けたことはく、千秋(穐)楽はほとんどが白星であった。
11:24:00 - johnny -

2023-05-30

幸遊記NO.568 「SP・蓄音機・佐藤安蔵」2021.12.6.盛岡タイムス

 今年2021は随分と昔のSPレコードに縁のある年でした。年2回の紫波蚕の市で見つけたペレスプラードの「セントルイス・ブルース」、フランクシナトラの「愛の泉」、そして淡谷のり子、四家文子の歌。そうかと思えば、又、紫波町のF子さんから、人づてに届けられた3枚入り2セット、コロムビアSPアルバム。第1集、スチールギター。ワイキキセレナーダーズ「素敵なあなた」。第4集、ハリージェイムス「アメリカン・ヒット・ジャズ」ワーオッ!思わず声が出た。
 すると今度は、昔からジャズが好きなんですけど、ジャズ喫茶はどこの店にも入ったことがないんです!と言って、ちょくちょく開運橋のジョニーに来るようになった盛岡市のY子さん。骨董市で見つけたと20枚余りのピッカピカの新品状態のSPレコード持参。その音の良さに驚く。ダイナショア「青いカナリア」、ナットキングコール「プリテンド」、「トウヤング」、ハリーベラフォンテ「日の当たる島」、ジョースタッフォード「霧のロンドン」、フランキーレイン「OK牧場の決闘」、「吹き荒ぶ風」など、ジャリジャリ音のない自然音。
 1940~50年代製造のこれらのレコードを聴きながら想い出していたのは、岩手・西和賀町の「蓄音機の家」故・佐藤安蔵さんのこと。平盤最初の片面だけのSPレコードはもちろん、明治から今日までのあらゆるジャンルの音を、自分で設計、製作した真空管アンプで鳴らしてくれた。そのアンプ、昔の木桶や足付御膳、おぼん、などに組んでスイッチを入れれば真空管に灯がともり、まるで夢の中のごちそうのような美映え。昔のTVケース利用の、ジオラマアンプなどユーモアにあふれて楽しかった。
 昭和のレトロ音楽流れ来る中で、安蔵さんの話を聴けば、音楽を聴く環境がいかに大事か、そして、自分なりの健康管理法を貫いて生きる事、「体を使う、頭を使う、心を磨く」の3点を毎日続けることだと、雪かきをし、アンプの設計図をいくつも書き、因果を知らざる者は邪けん!と自分の病いの原因を追求し、つきとめたならば自ら取りのぞくことをし、日常生活をあやまらぬ様に務め、若説俗間経書治世語言資生業等皆順正法を毎日読書き、過去、現世、来世、昔の結果が現在なのだと言った人。昭和4年(我らがジャズの穐吉敏子さんと同じ1929)8月15日生まれ(90才頃?没)でした。
11:22:00 - johnny -

2023-05-29

幸遊記NO.567 「児玉正昭の水産即興音楽」2021.11.29.盛岡タイムス

 児玉正昭さん(76)が亡くなったと知ったのは昨年(2020)の暮れ。8月30日でした、と奥様からの電話で僕は絶句した。彼は以前大船渡市三陸町にあった「北里大学水産学部」の教授。のち母校の「東京大学」で教鞭を取った。生徒たちからは「ヒゲモジャのダンディー」として親しまれ、愛された人。水産学部にはおよそ似つかわしくない?方で、とにかく音楽が第一?の人。とはいえ、国内外での学会で発表や講演をしていた世界的な学者あり、研究者なのですが、そういうところは僕なんかにゃちっとも見せず笑ってるだけ。店によく来る生徒達からは、彼のことをよく聞かされたものでした。
 サックス、ピアノ、ベース、ドラム、ギター、フルート、ビブラホン、ハーモニカ、、、ほとんど出来ない楽器というものはなかった。特にもクラリネットは折りたためることから、外国へ行くんでも必ず持ち歩き、学会終わればジャズの店に出掛けては各地の演奏者達と即ジャズる凄腕だった。
 水産学部では「浦崎スタンダーズ」というジャズ研究会を発足させ、生徒と一緒に音楽を楽しみ、毎年卒業が近づくと卆演という、リサイタルを僕の店で開くのが通例だった。ある時確か学校OBたちからの寄付金の使い道について水産学部らしく魚のレプリカを購入しようとした時、一度見て終る物より、さわる度聴く度に感動するものを、とピアノを買わせ、学生たちを喜ばせた人で、当時僕が一人で取材編集していた月刊「ケセンよみうり」(‘95~‘97)にも、何度か、心温まる原稿を書いて貰ったこともありました。
僕が盛岡に移って来てからは、児玉先生も時折店に現れ、セッションしピアノを弾き、はたまたギターの弾き語りをやり「どこにどう隠れたって、バカにはバカの居所がすぐわかるのよ。お前はバカだなー」とニコニコ顔をほこらばせ酒を飲んでいた。「盛岡での学会のあと、パーティやるんで、お前んとこのバンド貸してくれよ」と言ったのは2009年。日本水産学会秋季大会、開場だったホテルメトロポリタンニューウイング、それこそまだ岩手大学の学生だったピアノの荒川陽輔君、それにベースの村井秀児さん、ドラムの澤田貴之さんのトリオにボーカルの金本麻里さんをプラスして貸し出し?一緒に数曲を演奏し「ペニーズフロムヘブン」を金本と先生がデュエットまでしたのでした。その彼が聴いていたレコードたちは今、僕のところでそれこそ楽し気に児玉(木霊)するように鳴っています。
11:21:00 - johnny -

2023-05-28

幸遊記NO.566 「五木寛之の孤独に寄りそう本」2021.11.23.盛岡タイムス

 11月15日(2021)新潮社出版企画部からゆうメール届く。表書きには「五木寛之著・新潮選書在中」。本は「私の親鸞」、(孤独に寄りそう人)の副題。帯には「ああこの人なら自分をわかってくれる」(五木寛之・わが心の親鸞を語る)とある。親鸞は1263年1月90歳で亡くなられたそうですが五木さんは先日他界された作家・瀬戸内寂聴さんより10歳下の89才である。本を開くと謹呈・著者「寛」の朱印しおり。久しぶり、この僕に!と心底感謝。「僕のみつけたもの」「さかしまに」「風の王国」などなど頂いた記憶も頭に浮かんだ。そしてなによりものあの小説「海を見ていたジョニー」をレコード化した時に書いてくれたライナーノーツのことなどワッと僕の頭の中が膨らんで動く。
 日本の植民地だった北朝鮮で、彼が高校一年の時に終(敗)戦。ロスケのマダムダバイ、抑留、脱北、引き揚げという極限状態の中、発疹チフス(延吉熱)の蔓延。想像を絶する状態からの帰国は「心優しい善き者ほど帰って来られなかった」だから生きて帰って来た悪人という意識が心に根付いた。
 そう、その根底に起因する、「戦争は人を殺さなければ生きて帰れない」その戦場から帰って弾いたブルースの凄さに感動する人人。そのことで、信じていた“ジャズは人間だってこと”が信じられなくなった主人公の、心の葛藤を描いた、彼の日本初の本格ジャズ小説「海を見ていたジョニー」を読んだのは僕が定時制高校を卒業してレコードコンサートを始めた20歳のときだった。
 「ジョニーが新装版として講談社文庫から再発なったよ」と親鸞本が届いた日に読売新聞11月14日付を写真メールで女房に送って来たのは茨城に住む6つ年上の姉だった。僕もその新聞を手に近くの「さわや書店」に走ると、「これです!」と大池隆店長。久し振りに再読してみた。そしてまた「私の親鸞」本中の「語りたくない記憶」や「“許されざる者”としての自分」「悪を抱いて生きる」「“ロスケ”の文学」の章に書かれていたことは「海を見ていたジョニー」が生まれた背景であった。あの海を見ていたジョニーのライナーノートはレコーディングされた坂元輝トリオの演奏に列島一万年の縄文のリズムが流れているのを感じながら宗教はジャズなんだ!と、戦後30数年を経て両親の遺骨を寺に納めた話だった。そして「ジョニーが目指すものを開花させるのは、それこそ私たち側の仕事だ。点じた火を消したくない」でした。あぁ・・あれから40年かぁ!
11:17:00 - johnny -

2023-05-27

幸遊記NO.565 「ジョニー・ハイフン・ジャズ・ドット・コム」2021.11.14.盛岡タイムス

 開運橋のジョニー・ホームページ(johnny-jazz.com)が開設されたのは2005年の事。開設してくれたのは菅村巻雄さん(現80才)。株・システムエンジニアリングの前社長でした(現社長は息子の覚さん)。これからはネットの時代だから、ホームページを見て店に来る、あるいは店を知るように“ジョニーがジャズでどっと混む”様にとのメールアドレスを取ってくれて、しかも「お金はいりません」なのでした。
 時折店に飲みに来ては、「アクセス数が思っていたよりずっと多いから作った甲斐があるよ」とニコニコして、それこそ翌年の2006年には僕達と一緒に20人程で、アメリカ・ワシントンDCの国立ケネディセンターで行われた「穐吉敏子コンサート」(3月31日)を聴きに行くツアーに奥様の雅子さんを連れ立って参加。NYの穐吉さん宅でのパーティや、別荘(カトーナのピアノ練習場)など見学したことなどが思い浮かぶ。
 あれからすでに16年の歳月。女房にまかせっきりのホームページ。今までにいったいどのくらいアクセスがあったのだろうかと、紙と鉛筆の僕も、古くなって捨てられていた女房のタブロイド端末を拾って、昨年秋から始めたフェイスブックで本日ジョニーのホームページにアクセスしてみたら、現在までの閲覧数は、276万5千回にもなっていた。ワーオッ!。そこで!という訳でもないのだが、女房の娘さんにお願いして、本紙・盛岡タイムス連載中のこの「幸遊記」を、2011年1月4日付の№1「ジャズが好き、人が好き」から順番に1日1回分ずつをホームページにアップ出来る様にセッティングして貰った。僕も公開している自分のフェィスブックに、このホームページ住所を貼り付け、誰もがすぐ見て読める様にし、自分もアップされた10年前の幸遊記文章を読み返している。
 その1回目の幸遊記、僕はこんなことを書いていた「自分自身の記憶をたどってみればそのほとんどが消えかかっていることに毎日の様に気付かされる。その消えゆくものを消さぬ様にするためにはいつも記録する作業が必要なのだが、筆不精の僕はそのメモすらしないできた。そのことはあいまいな話は出来るとしても、正確な記録とすることは出来ない。そのためには調べる時間が膨大に必要になる僕自身へのツケなのだ」と。ここから10年余りの今も僕は昔のツケを払い続けている。
11:15:00 - johnny -

2023-05-26

幸遊記NO.564 「上島洋の立体等高線ジオラマ」2021.11.8.盛岡タイムス

 特定非営利活動法人「穐吉敏子ジャズミュージアム」への旅。という僕達を知り、穐吉さんを知る人達への手紙のようなパンフレットが出来上がった日、それこそ、若かりし頃の穐吉さんが通って、レコードから採譜するなど、お世話になった横浜野毛の現存日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」で、金曜夜のバータイム・スタッフとして数年前からカウンターに立っているという上島(かみじま)洋さんがひょっこり開運橋のジョニーを訪ねてきた。
 「本職の仕事で釜石に行くのですが、ここに寄りたくて前乗りで来ました」と。で、開運橋のジョニーへ寄ると言ったらちぐさ関係の皆さんから宜しく!と言われてきました!と。店は閉店間際の時間でしたが「何かリクエストは?」と尋ねてみたら、すかさず出て来たのが、な、なんと三橋美智也を聴きたいという。思わず耳を疑ってしまったが、無い訳ではないから聴かせましょう!で始まりました。「赤い夕陽の故郷」「笛吹峠」「古城」などなど。すると女房が「どうしてこういうのが好きになったの?」と尋ねれば、田舎(長野)のおじいさんおばあさんが好きで聴いていたのだという。なるほど!年令聞けば、僕の息子たちと同年代の50才!
 彼の住む横浜と言えば、何と言っても伊勢佐木町ブルースの青江三奈。街のモニュメントのスイッチを押せば歌が流れますよ!と彼。彼女が歌っている英語ジャズバージョンは?と問えば「聴いたことがない」と言う。で、かけてあげたら、上手い!と、感激しきり。じゃあ、せっかく盛岡に来たのだからこれも聴いてって!と青江三奈の「盛岡ブルース」。感激新たになった彼、LP、シングルと2枚のジャケットを持って僕と記念写真。喜び満足した様子でホテルへ戻って行きました。僕にとっても“ほっこり”な夜となりました。
 彼は釜石市で開催の「防災国民大会2021」への参加で来県したのだそうで、山も街も一緒に描く鳥瞰図みたいな立体の等高線ジオラマを作って見せれば、自然に街の全体像を楽しみながら自分たちの住んでいる地域の地形も手に取るようにわかり、そこへ土砂崩れの場所や津波浸水区域にカラーの光を当てることで結果的には「よくわかる防災」にまでつながるようにと、コンピューターを使ってダンボールを切り重ねて実物等高線をつくっているのだそうで、パソコンでの映像見せて貰った。それは、まさにJAZZYな芸術そのものでした。
11:14:00 - johnny -

2023-05-25

幸遊記NO.563 「夢の“長谷川誉”美術館」2021.11.2.盛岡タイムス

 ある日の夕方、店にやって来た若者の話を聞いていた。「盛岡に来て中津川原を散歩しながら上を見上げたら“野の花美術館”!すぐ道に登って絵を見に行き、自分の祖父も花の絵を描く画家だったことを告げると、館長さんが出て来て色々話をしてくれました!と。そして自分が生まれる前に亡くなった祖父の「美術館を作る!」ことを決心。それで先ず髪を切ろうと、美容院や理髪店に行ったけど、どこも予約なしでは切ってもらえず“しょんぼり”乗ったエレベーターの中で4Fジャズ喫茶標示を見て来たのだと。
 5年制の国立一関工業高等専門学校時代にベイシーに通ったこともあったからと、水沢(奥州市)からの長谷川晴紀君(22才)。祖父は晴紀君が生まれる前に亡くなっており「祖母から、祖父は顔料を使って描く日本画家だった事を聞かされたが、家に残っているものはスケッチブックが2冊だけ、絵は描きあがるとすぐ売れた?売った?ようで家には1枚も残っていないんです。だから、どうやって探したらいいものか、、、、おじいちゃんの絵を実際に見たことがないので、、、、」と、彼。
 僕は頭の中で、水沢、長谷川、22才の孫?「もしかして、誉さんじゃないの!」といったら突然泣き出して「どうしておじいちゃんの名前知っているんですか?」と。
実は僕の実家(平泉)の座敷天井には誉さんが描いた、花鳥風月の絵が100枚もあり、僕は朝な夕なそれを見ながら中学を卒業するまで、その下で寝起きしていたのだが、どれも見飽きないいい絵でしたよ。でも実家は建て直したので、その絵は半分位しか残っていないけど新しい家の天井に今もあるよ!。
 しかも誉さんが何ヶ月も実家に逗留して描いたようなので、当時中学生だった僕の兄はその後、画家になったんだから、兄は誉さんの弟子みたいなもんだと思うよ。と一回り上の兄に電話をつないで彼と話をさせた。兄もビックリした様子でした。それからすぐさま、僕は姪に電話し、彼を車に乗せ平泉の実家へ連れて行き、座敷の天井やら、姪夫婦のベットルームの天井にもある、その誉さんの絵(70年以上も前に描いた)を見て貰い、それこそ弟子であった?僕の兄(次男)が、平泉達谷窟毘沙門堂や、田村麻呂が彫ったとされる岩面大仏、そこで神楽太鼓を打つ長兄の姿などを描いた襖絵なども見て貰った。晴紀君はほぼパニック状態の一日だったようで、その日の事を忘れない様に彼がメモった字数は僕もパニくる程の14000字という凄さだった。まずはネット上にバーチャルな祖父の美術館を開きます!という。
11:13:00 - johnny -

2023-05-24

幸遊記NO.562 「セロ弾きのゴーシュの息子マーシュ」2021.10.25.盛岡タイムス

 1933年38才の若さでこの世を去った宮沢賢治が最後まで推敲に推敲を重ねて書き上げたと伝えられる童話で、一番に完成度の高い「セロ弾きのゴーシュ」。「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾くかかりでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした」で始まる物語。ネコやカッコウ鳥、たぬきの親子、野ネズミ親子たちと会話し、毎日夜通し合奏練習するゴーシュの音に癒されて病気が治ったうさぎのおばさん、たぬきのお父さんやみみずくたちの話。流れる音楽はクラシックとジャズ。躍動感あふれる言葉と文体。金星音楽団公会堂演奏会のアンコール。「インドのとらがり」を弾くゴーシュ「よかったぜ。普通の人なら死んでしまうからな」と努力の成果をねぎらう楽長。
 コロナの昨今、心に響く童話です。1966年初版、75年第18刷の絵本は僕の長男4才の時に買い読んで聞かせた茂田井武・画(福音館書店)。この絵本が出版されたその年に持病の喘息で48才という短い生涯をとじた茂田井武さんは、東京に生まれ、学校に行かず、たくさんの本を読み、絵を描き、パリに暮らし、帰国して転々と職を変えながら、誰も歩かない道をひとりで歩いた心情をうたう絵、内面を物語る絵描きさんだったようで、この物語にはピッタシ。
 しかもこの物語に続編があったことを知ったのはつい最近。「面白い本屋さんを見付けました」と、昔々小鳥店や出版社に勤めていたという女性から聞いた、盛岡西青山の「シダナイ古書堂」を探し訪ねてみたら入り口に沢山の絵本。その中にな、なんと、朗読CD付「ゴーシュの息子」!しかもCD未封切。文と朗読・今成友見。絵・水野ぷりん。オビには「心が癒される、あったか、童話です。家族みんなで読んで下さい」(たま出版・2004)。「ゴーシュはあれから、とても気立ての良い娘さんと結婚して、かわいい男の子を授かった」。この物語はその息子マーシュのお話。セロは弾かないがゴーシュが動物たちの病気を治すのを見て育ったマーシュは評判のいい外科医となったが、「おじいさんのコブを取っても取っても大きくなりとうとう死なせてしまった」。そこから、手術をしないでガンや難病を治療する名外科医となった野島政男(マーシュ)医師がモデルの童話。憎む相手の幸せを心から祈り、手当てをすると自分の病も一緒に消えたいい話でございマーシュた!
11:12:00 - johnny -

2023-05-23

幸遊記NO.561 「菊池花のSPレコード鑑賞会」2021.10.18.盛岡タイムス

 本紙・盛岡タイムス7月5日2021付の本欄「SPレコード極上再生」の続編的幸遊記。10月5日「SPレコードを持って行ったら、店で掛けて頂けるでしょうか」という、女性からの電話だった。
 コロナまん延防止の為9月の飲食店時短営業要請を受けたことから、その時間を使って、大昔のSPレコードを再生する手廻しのゼンマイバネ蓄音器の改造に取り組み、電動式、いわゆる電蓄に造り替えて正確な回転数でのSP音再生。蓄音の鉄針、クリスタルカートリッジのサファイア針、MMカートリッジに人工ダイヤ針、MCカートリッジに天然ダイヤ針、4種、4本のアームを3台のプレーヤーに取り付け、それぞれの時代音を楽しめるSP鑑賞装置が出来上がったところへのSP持ち込みのお客様だったので、僕は大喜び。
 曲は「雨に歩けば」(ジョニー・レイ)。「マンボ・イタリアーノ」(ローズマリー・クルーニー)。そして3枚目が「セントルイス・ブルース」(ジーン・クルーパ)であった。しかもこの3枚目がグランツレコード。グランツと言えば、あの穐吉敏子さんをレコードでアメリカに紹介したノーマングランツ氏のレーベルである。ワーオッ!。ジャケット袋にはチャーリーパーカーを始め、1953年に穐吉さんを日本で発見しグランツに穐吉のレコーディングを薦めたオスカーピーターソン、穐吉をサポートし一緒に録音したレイブラウン等々、1940~50年代当時のジャズジャイアント26名の顔写真入り。貴重な資料的価値観にあふれており、聴き終えたら「置いていきます!」とプレゼントされビックリ。じゃあサインを!と言ったら「菊池花」と書き「母の名です」と、ニッコリして帰って行きました。
 日本よい国いい気質。そう思ったら急に国歌が頭に浮かび、それこそ聴きたくなって取り出したのは「國歌・雅樂―君が代「(宮内省樂部謹奏)。日本レコード文化史本によれば、昭和8年12月8日、宮内省樂師30名で吹き込みしたビクター盤。「幽玄なる日本古式の声調によって国民精神をより深く感得させるのがねらいだ」(東京日々)。そしてもう1枚は東京音楽学校(現・東京芸大)の生徒270人で学校創立50周年。国歌制定50年の昭和4年12月18日に吹き込んだコロンビア盤。この年この月はジャズピアニスト・穐吉さんの誕生年月であり、また天皇を現神として敬い国民が日本の国に誇りを抱いていた時代だった様です。85年前(1936)の10月17日は東京日々が「君が代」についてコラムを書いた日でもありました。
11:10:00 - johnny -

2023-05-22

幸遊記NO.560 「助川太郎のレクイエムンド・ギター」2021.10.10.盛岡タイムス

 ギタリスト・助川太郎さんのニューアルバム「レクイエムンド」を聴きながら、僕は若かった頃を想い出す旅に出ていた。彼は、1973年11月生まれ。名前が示すようにれっきとした長男。僕の二人目の息子と同い年ということもあって、親しみを覚えました。しかも僕はつい先日十何年振りに息子夫婦とあって少しばかりの会話をしてきたばかりであるせいか、ギターの音色が心に沁みた。
 レクイエムエンド。このタイトル見てすぐモーツアルトの曲浮かんできたが、会社員だった彼の父が昨2020年亡くなられたのだと。中学校音楽の先生だった母の影響か?高校時代はエレキギターを弾き歌っていたという。東京都立大英文科を卒業すると、米バークリー音大の奨学金を得て留学。ジャズギター、音楽理論、編曲を二年半で修得。更にニューヨークへ出て、演奏し学び経験したことは、誰かのマネやコピー演奏では、観衆は拍手せず、本当に自分スタイルを見付けなければということ。ひたすらジャムセッションに通い、彼が会得したのはジャズを素材とする自由な作曲法。いわゆるストレートなジャズを演奏しない演奏家になる決心だった。帰国して3年後、自分が好きな南米の音楽を体験しにブラジルを旅し、結果的に現在のスタイル「南米の音を土台としたギターのためのオリジナルミュージック」にたどり着いた様子。
 その新作は全曲オリジナル。僕も若い頃プロデュースしたレコードは必ずオリジナル曲メインとしたことなどを想い出させてくれて嬉しくなった。ブラジルのコーヒー豆、なにもない漁師町の気分、山奥のカフェ、アルゼンチンの踊りのリズム、父の畑の風景、コロナ禍の中の昨日の明日、うまくいかなかった日の演奏気分、同い年の音楽家友人が亡くなってしまったけれど、最後に美しい希望の光が差し込んでくる。そんな思いを詰め込んで作曲演奏した彼の「レクイエムンド」。そこに流れるリズムは南米のちょっとけだるいような、それでいて明るさのあるほどよい調子。上半身裸で古いギターを抱きかかえた裏ジャケは人を泣かすが昇りくる朝日の光は希望を指し示し、表ジャケは緑に輝き、空に向かう二人の魂にも見てとれる彼の絵。このCD作品もきっと終わりのない旅(エンドレスジャーニー)を続けてゆくだろう。
11:09:00 - johnny -

2023-05-21

幸遊記NO.559 「三沢洋美の陸前高田ユースホステル」2021.10.5.盛岡タイムス

 あの3・11から10年の2021年6月、震災後初めて復活なった?高田松原を歩いた。僕の脳裏にある、かつての風景はどこにも見当たらず、あった!とすれば広田湾の両側にある山並みぐらいのものだった。とはいえ西側気仙町の山は、高田町のかさ上げに用いられ姿を消し、かつての日本百景に数えられた高田松原と、県内一の海水浴場の風景を浮かべれば悲しいが、未来への小松とこじんまり再生なった砂浜、短く?湾曲した海岸線、高さを増し城壁の様になった防波堤と巨大気仙川河口水門の凄さ。
 かつて7万本あったとされる松の木。その後、県や高田松原を守る会や、ボランティアの人々が一所懸命になって苗木を育て、なんと4万本の植樹をこの春までに終えて、遂にはかつての砂浜の半分を再生して今夏、震災後初となった、高田松原海水浴場の海開き。待ちに待ったその7月17日は、それこそ、太陽さえも祝福するかの如く平年より5、6度高かった気温は、子供たちや若者を喜ばせた。それでもコロナ禍の影響もあってシーズン中に訪れた人の数は、臨時高田松原駅が出来た昔の一日分にも満たなかった様子。
 震災で地盤沈下したため、今は水の中に遺構として一本松の傍らに残る、かつての「陸前高田ユースホステル」。地所は陸前高田市気仙町砂盛。完成当時、僕は叔父が経営する照井クリーニング工場で働きながら定時制高校に通っていた時で、ユース特有のシーツ(袋状)洗濯を頼まれて集配によく通った。自分で喫茶店を始めてからも、ペアレントと呼ばれたユースの支配人たちと、交流続けて、初代から数代替わった最後の方まで皆仲良くして頂き「SEA・JAM・BLUE」と名付けた僕自身のコンサートも92年5月にユースで開催。それ以前の89年5月5日、ユースの前に広がる古川沼にグランドピアノを乗せた筏を浮かべて「水上の音楽会(演奏/健・未路p)」開催など、とても楽しかったなあ。
 そんなこんな思い浮かべているところに現れた三沢洋美さん(山梨県在住・48)なんと彼女は陸前高田ユースホステル、確か二代目の八木喜久男さん、弘子さんご夫妻の(共に故人になられた)娘さん。あのユースホステルで生まれた人は二人いますが、その最初の子が彼女。東に広がる太平洋にしては珍しく南向きの美しい砂浜。国立公園・高田松原で生まれ育った彼女は、親に似たおだやかで美しいひとでした。ああ、時はめぐりめぐる。訪ねて来てくれてありがとう!洋美さん!
11:08:00 - johnny -

2023-05-20

幸遊記NO.558 「ふたつの黒い雨と二人の黒雨」2021.9.28.盛岡タイムス

 MSKの社長さんからCD付絵本を頂いた。見開いて本を読み、未封切のCDを取り出して聴く。タイトルは「ふたつの黒い雨」その1、「黒い雨」唄・古謝美佐子/作詞作曲・佐原一哉。その2、「心の街」唄・都はるみ/作詞作曲・近藤等則。絵・黒田征太郎。発売は2005年7月(株・アートン)ピカドンプロジェクト編.
 この黒い雨の元となった「原爆投下」から76年を経た今年2021年7月“黒い雨”勝訴!上告せずの政治決断が下され、原告全員を被爆者と認め「訴訟への参加、不参加にかかわらず、認定し救済できるよう早急に対応を検討します。そして再びこのような惨禍が繰り返されることのないよう、世界唯一の戦争被爆国として、核兵器の廃絶と世界恒久平和を全世界に訴えてまいります」の菅首相の談話発表。この一年コロナに明け暮れてゴテゴテ不評だった首相、最初で最後?の立派な仕事!さすが名前を地で行く義!偉い!と拍手した僕。
 「雨が降るどんと降る、お空は真っ暗、鉛色、、、母さん痛いよ冷たいよ、、、父さんこの雨何の雨,、、名前の無い雨、黒い雨、、、」この唄聴きながら思い出したのは韓国の書家・微刻家の“黒雨”こと金大煥(1933~2004)というパーカッショニストの「黒雨」というCD。ギネス認定の微刻も又、心眼で刻む超絶技巧。30年前ソウル市内の彼の自宅で見聞したものは、超人的な努力の仕方だった。僕が唄うステージでも叩いてくれました。
 「黒い雨」を唄った沖縄の古謝美佐子さんは方言で歌う沖縄民謡歌手。初めて苦手な日本語で唄った歌。もう一つの「心の街」は演歌の都はるみさんが、ジャズトランペッターの近藤等則さんが作った歌をリズミックに歯切れよく唄ったジャパニーズブルースである。近藤等則さん(1942~2020)は、丁度40年前の81年7月、歌の浅川マキさん(1942~2010)とジョニーで演奏。又、2012年12月2日はソロで開運橋のジョニーへ来演している。彼の全盛期、東京のあちこちの駅に彼の顔がドアップの巨大看板広告が立っていてビックリした記憶まで蘇えってくる。そう!90年代は大自然の中で21世紀の音楽をつくろうと“地球を吹く”をやっていた人でした。絵本の絵の黒田征太郎さん(1939年~)は僕のジョニーズディスク(JD-16)三上寛の「職業」(1979年録音のLP1987年発売)ジャケット絵を描いています。ああ、皆、今に至る縁話。
11:07:00 - johnny -

2023-05-19

幸遊記NO.557 「細野高史のヒップなホッチー!」2021.9.20.盛岡タイムス

 ジイさんが山から木の子を持って店に帰ると、「埼玉からいらしたんですって」と、珍しく一人で店を開けていたバアさんが言う。その若者(?)は@hochieeさんこと細野高史(こうじ)さん。ヒップホップやラップ、もち!ジャズも好きで、沿岸線を北上して青森まで行き、南下して盛岡へとのこと。目的はジャズ喫茶やDJBAR,レコード店をめぐり、はたまた人に会う。日数も宿泊先も決めずに、行く先々で気に入った時間を存分に使い楽しむ、まさに男の願望を地で行く理想的な旅。いいなあ!
 採り立てキノコ汁をふるまったら、これから花巻へ行って、遠野から来る人と初めて会うのだと言う。その人のこと聞いてピンときた!え!彼と、花巻で!ならつれてってくれない!僕がずっと会ってみたいと思ってた若者だから!で、彼の車に乗っけて貰うと、流れて来たのはラップ!「アメリカ、テキサス州ヒューストンに1966年3月21日に生まれ、現在ニューヨークのブルックリンに住むDJ・プレミア(ニックネーム・プリモ)という人のラジオ番組(NY・WBLS放送)を録音したもの」なのだとすらすら出て来る程、彼のファンで、16年程前、彼・プリモが八王子に来た時、一緒に撮った写真まで見せてくれて、彼が自分を見ながら両手を拡げてくれた写真が気に入り、それを基とするバイナルアートを彼に作ってもらおうと依頼するために、今、その作家・KAZUMA(藤原和磨)さんと打合せする店に向かってるのだと、花巻駅前の「Lit・Work・Place」に行った。
 急についていくことになった僕の為に約束の時間が1時間も遅くなってしまったが、店の二階にあるベランダのテーブルで一人コーヒー飲んで持っていてくれた。その店は以前彼が作品展を開いたところで、階段途中にある、バイナル(ビニール・レコード)作品は、マイケルがクラフトビールを両手に持った「ON.THE.BEER」。着ている黒のスーツはカットしたレコード。白シャツの胸にはそのレコードのセンターレーベルを使ったカッコイイ作品であった。この店の支店が盛岡開運橋の木伏緑地にあるコンテナ飲食店「BREWBEAST」、そこにもKAZUMAさんの作品が一点あると聞いたホッチーさんは翌日さっそく行ってそれを写真に撮ってきて僕に見せてくれた彼のほっちき?歩き、感動もバイナル(倍なる)行動力に思わず拍手。ホッチー来テ、カズマに行って三者共(今日)ハツの忘れられない日となった。
11:05:00 - johnny -

2023-05-18

幸遊記NO.556 「新沼節子の星と、こすもす」2021.9.12.盛岡タイムス

 夏の日の電話だった。「本を出したんです。23年前の改訂版ですけど」。大船渡市で「NPO法人さんりく・こすもす」を運営する新沼節子さん(65)からで、初版本のタイトル「星は星なりに」が浮かぶ。まもなくして届いた本には「星は星なりにーあれからー」(自費出版)。始まりは「こすもすの花を咲かせる会」で、当時大船渡市の気仙養護学校(現在は支援学校という)に通う、知的障害を持つ子供たちの親のサークル・代表だった彼女(当時は海外さん。震災後に再婚して新沼さんになった)。
 障害を持って生まれた彼女の娘(星子)さんの幸せを願い、自分が職員になって運営するしかないと思い立って、30年程前から始めた活動。障害のある人々が気兼ねなく過ごせる事業所。リサイクルショップの運営、菓子、漬物などの製造販売、パック詰め作業などの受託の他、清掃サービス等、5ケ所のグループホーム「こすもすの家」の開設など、多岐にわたるが、どんな人であっても「自分らしく輝いて生きたい」というその思いを出来るだけサポートする24時間体制。延べ60余名の利用者に対し35名の職員で取り組み残業無しを実践。そのための企業努力、やり方は、あまりほめられたものではないが、と自ら書いている。
数年前、とある所の重度障害者施設で起こった元職員による19人もの殺人事件で「障害者は不幸を運んでくる」と言った犯人の言葉が、彼女にとっては悔しく、いたたまれなかった。そのことから、自分は地元紙に「障害を持つ人は、幸せしか運んでこない」と書き、FM放送では、その思い続けて書いた言葉を口にすることが出来た!そうです。
 2012年「私のたった一言で、勇気を持つこともあれば、絶望することもある」。そんな言葉の重要さ大切さを思い、かつて、さんりく・こすもすの職員で障害者でもあった友人の詩人「横澤和司さんの作品にあふれる珠玉の“言葉”(綿密で優しくて、鋭い)を感じ取っていただければ」と、僕の書で刊行してくれた。その、かつし・詩、けん・書・写真、の「かつし」という小冊子(イーピックス発行)は、とても、ありがたく、今もって星は星なりに僕のお宝本になっていますが、彼女にとって星(星子さん)は彼女のお宝。なんせ、かつての銀河連邦さんりく共和国で生まれ育った星びとですからね。おめでとう!
11:04:00 - johnny -

2023-05-17

幸遊記NO.555 「溝田博史の大村再発見」2021.9.6.盛岡タイムス

 長崎から船に乗って神戸に着いた、、、確かそんな歌が昔あったなぁと、自分の頭(こうべ)に浮かんだのは、長崎・大村市の旧友からの手紙を読んでいる時だった。同封されていたのは、自主、自立、共働、共助と表書きのある「シルバーおおむら」2021夏号(№61)。4回シリーズの第1回大村再発見。「オランダ牢跡、船大将・濱田弥平衛の器量」
大村駅前バスターミナルの横にある金網に囲まれた駐車場の一角にオランダ牢跡の石碑。江戸時代初期に、オランダ東インド会社の権威に全くひるまなかった大村人が居たこと。300年後になってもなお、その侍魂に大正人が共鳴したこと。弥平衛の子孫は代々大村藩に仕え、戌辰戦争時に秋田・角館で戦死した少年濱田謹吾も銃弾に倒れる直前まで太鼓を打ち鳴らした。その少年の毅然さと、出征する時に、少年(息子)の襟に縫い付けた母の愛・覚悟の短歌。それを見た角館の人たちが感動の涙を流し、その感動は、昭和になって(戦後)大村と角館は姉妹都市となり、毎年交流が続けられており、太鼓手濱田謹吾少年は今なお両市の子供たちにとってヒーローでありつづけているそうです。
 その謹吾少年の頃を読みながら、浮かんだのはあの2011・3・11の東日本大震災時、防災対策庁舎から防災無線で町民に避難を呼びかけ続け、津波の犠牲になった宮城県南三陸町の職員・遠藤未希さん(当時24)の「天使の声」が高校の教材になったことだった。
 さて本題、オランダ牢跡の件、寛永5年(1628)朱印船貿易商(幕府公許の南蛮=海外貿易商人)で長崎代官でもあった末次平蔵が所有し、濱田弥平衛が船大将を務める船が、新設なったオランダ・東インド会社台湾府によって積荷を押収されオランダとの貿易が中断するという事件。積荷の返還と自由貿易の保証を求めて再び渡航し会社の台湾長官とその息子等5人を人質に立てこもり、要求のすべてをオランダ側に認めさせ、返還された積荷と共に人質を伴って長崎に帰還。その人質たちを収容した牢跡の話。会社側は非を認め長官ノイツは役職をはく奪され、身柄は徳川幕府に引き渡すことなどによって解消され、それから300年ののち、その弥平衛に従五位の勲章が贈られ、大村公園に贈位記念碑が建ったいい話でした。
これを書いた溝田博史さんはいう「照井さんは穐吉敏子さんの大ファンですが、僕はその照井のファンですから盛岡バスセンターの穐吉敏子ジャズミュージアムを応援します」と。
10:59:00 - johnny -

2023-05-16

幸遊記NO.554 「高田和明の去りゆく季節」2021.8.30.盛岡タイムス

 本当に久しぶりの電話だった。嬉しいなあ。掛けて来たのは高田和明さん。陸前高田出身、埼玉県草加市在住の歌手(72)でした。お互い元気で何より!そして近況報告「部屋の整理をしたら、昔のレコードが出て来たので贈ります」でした。二日後に届いたのはLPレコード10枚。“愛をあなたに”の副題が付いた「去りゆく季節」(1986)と、EP10枚「三陸旅情」(1983)。歌っているのはもちろん彼、高田和明(本名・菅野健一)。のちのちのためにと、最後の二箱(未使用品)をのこしておいたものだったらしい。ありがとう。
 幾年も前に聞いていた話では、何ヶ所かでカラオケ教室を開いているとの事だったし、その合同発表会のパンフを届けてくれたこともあったが、このコロナ禍で教室は閉じたまま、ステージもなく、今は老人ホームで調理補助をやるアルバイトをして食いつないでいるとのこと。哀しいだろうなと思ったが仕事あるだけ良し!かな。
 あの2011・3・11の東日本大震災が起こる4日前の3月7日付本紙、盛岡タイムス、この欄№10に書いた高田和明の「三陸旅情」。その歌も旅情も、三陸沿岸の美しかった街々の風景と共にあった何もかにもが消えてしまったのですから、一人、北海道から沖縄までキャンペーンと称す唄旅しながら10年かけて10万枚を手売りした男のロマンさえも一瞬にして消え去った日でもあり、彼にとっては致命的な心の痛手でとなったに違いない。
 「手売りで10万枚!」この気が遠くなりそうな偉業に、ジャンルは異なれど音楽に生きる僕も感動の心押さえきれずに、1986年、全10曲書き下ろしの新曲集LP「去り行く季節」(ビクター)をプロデユースして発売にこぎつけ、東京杉並公会堂と郵便貯金ホールでその発表会。そのどちらの会場も超満員にした彼の底力に僕は再びの感動を覚えたものでした。コンサートタイトルは「愛をあなたに・高田和明オンステージ」。ストリングスやオーケストラをバックに思う存分に歌った彼にとっては、一世一代の晴れ舞台!レコード売り場も長蛇の列。陸前高田から、貸切バスで駆け付けた人たちはおらがまちの千昌夫さんに次ぐ二人目スターの凄さに驚いた様子でした。
 昨今のコロナ禍、これまでの生活様式を一変せざるを余儀なくされてしまった今「去り行く季節」を聴けば「帰らない日々だけど想い出が甦る」の歌詞が心に響き渡ってくる。
10:58:00 - johnny -

2023-05-15

幸遊記NO.553 「牛崎雅三の備忘メモ雑記」2021.8.23.盛岡タイムス

 盆の月、8月、お墓参り。亡くなられた人々に手を合わせれば、自然にその人たちが生きていた時代の思い出話に花が咲く。女房・小春の母・サキさんは、いつも黄色い花を玄関に生ける人でしたから、墓石に一文字の「咲」。彼女とその弟・孝四郎さんが一緒にねむる。字を書いたのは僕。刻んでくれたのは彫刻家・岸信介さん。開運橋のジョニー玄関にある石の彫刻「巻貝の夢」は彼からの贈り物。いつもひっそりと出入る人々の足元を見守っている。
 「生きていてこそ、こんな昔の話も出来るもの」そう言うのは、かつて恵比寿ガーデンシネマの支配人だった高橋渡さん。彼から頂いた「落語名高座全集」のレコードを盆休みに聴いていて、ふと思い浮かんだのは、高校で英語を教えた僕と同い年の牛崎隆さん。彼の「父が子や孫たちに伝えたいと書き残した雑多な備忘メモを印刷したので、、、」と、頂いていた数十ページの「余滴」(著者・牛崎雅三2019)を再読した。
 「花巻のこと、さまざまなことへの思い、先人のことば、教え、忘備録」からなる100項目。自分の思い「年齢に関係なくやることがある。それが生き甲斐といういうものである」「不平不満を持つことは人生に目的と希望を持つことである」「医者選びも寿命のうち」「灯台は航海の安全の支配者。主婦は家庭の灯台である。その明滅は家庭の喜怒哀楽と生活の安全を支配する」「無記とはノーコメントということ」。歌の効用について「軍歌=集団活動である、国家への忠誠と勇猛を鼓舞する。国家・社歌・校歌=団体的活動、個人をまとめ束ねる作用がある。演歌=個の活動、同調を強要しない、斉唱は似合わない」ここでジャズは演歌に近いのかも?と僕。
「知らぬが仏の典型的な例」では昭和18年、戦時下のため旧姓中学校の卒業式を待たず、国鉄(現・JR)へ就職。9ヶ月足らずで100人程いた駅から数人の駅(現無人)駅に転勤命じられた理由、それが50年余り過ぎて退職したある日。当時の庶務主任から電話あり「昔、駅の5円紛失で立会人だった牛崎さんに盗みの疑いがかけられ、首脳会議の結果オフレコを条件の辞令だったと。」のち、金庫修理の時に奥からその5円札が出てきて、あれは冤罪だった。潔白だった!申し訳ない!とあやまった上司は50年間もそのことを彼に言えず、頭から離れなかったのだと、ああ!ほっとけ(仏)ない話!
10:57:00 - johnny -

2023-05-14

幸遊記NO.552 「後藤克裕の地下水開発」2021.8.15.盛岡タイムス

 「はい!プレゼント」そう言って差し出された袋から出て来たものは、な、なんと、8月6日に特別出演した県民会館中ホールでのステージ写真(額入り)。写っていたのは「情け川」(吉岡治・作詞/市川昭介・作曲)を歌っている僕と、唄に合わせて踊っているお二人(華扇慱志枝・華扇和莉志枝)さんの姿。持参したのは後藤克裕さん。
 そういえば彼の歌「帰り道のちさき花をイヌフグリと教えてくれし娘今母となる」が7月27日付本紙・盛岡タイムスに載っていた。なんでも不来方大学院短歌クラブに通い、八重嶋勲さん(83・野村胡堂研究家・日本歌人クラブ会員)から、短歌の手ほどきを受けているらしい。書では克山の名も持つ人。数年前、彼が書いた文章を読んだったなあ、と。たしか?歴史本?「冬を待つ城」を読んだ感想文?。
 その中で彼が言わんとしていたことは「郷土・古人の反骨精神の裏に潜む、慈愛に満ちた脈々たる岩手県人の心意気。そして未来に向かっては、母なる北上山地の土手っ腹に数十キロメートルにも及ぶトンネルを掘るICL(国際リニアコライダー)の実験計画の終了後に迄想い馳せ、未来永劫、核廃棄物処分地とはしないことの確約証明を県民に明示することがこの計画の大前提!」という意見書だったような気もする。
 後藤克裕さん1953(昭和28年)岩谷堂生まれ(現・奥州市江刺区)水沢高校、山形大学人文学部経済学科卆後、日本地下水開発(株)に入社、44年間勤め「昨2020年に完全リタイヤしたら、昔々、初めて買って感激したあのステレオ直るかどうかわからないけど、もう一度聴いてみたい」と、言うので彼の自宅、盛岡湯沢に伺ってみた。これが何と、50年以上も前のTRIO・セパレート型。一見、無理かも?だったが、音楽に魅かれた彼の青春の日々を想えば、何とかしたいと懸命に手を施したら、温かい懐かしい音で鳴り出し、二人感激!雨、霰(あられ)。
 今年の夏は灼熱で、冬は大雪。どこの歩道もツンツルテン。川渡る橋の上はなおのこと。だが盛岡市内の主要な橋と盛岡駅から県庁まではどんなに寒かろと舗道の雪はすぐに消え、凍らず乾くありがたさ。それはみな、地下水開発のゴッド(後藤)セールスマンのお陰様なのでした。どんと晴ればれ!
10:55:00 - johnny -

2023-05-13

幸遊記NO.551 「カーネギーホールからの手紙」2021.8.9.盛岡タイムス

 音楽に感心と関係を持つ全ての人々とって、特別で最高の響き方を持つ音楽の殿堂、ニューヨーク「カーネギーホール」。完成は丁度130年前の1891年。建設したのは15才で電報配達の仕事に就き、のち鉄鋼業で大成功を収めた実業家、スコットランド生まれのアンドリュー・カーネギー(1835~1919)氏。そのカーネギーホール・オープニング週間を飾ったのは、チャイコフスキー(1840~1893)。だが彼は2年後に今時のコロナのような、当時のコレラで亡くなった彼の遺作は、あの「悲愴」交響曲だった。
 それはさておき、カーネギー氏は51才で30才の女性と結婚。一人の子供をもうけ、65才でカーネギー鉄鋼をモルガンに売却、残りの人生を慈善活動に捧げ、公共図書館建設や設置、科学研究、世界平和に力を込めた。その格言「富を得る方法は全ての卵をひとつの籠に詰め見守ること。笑い声の無いところに成功はない。やるべきこと以上のことを行えば、未来は自然に開けるもの。一番高いところを目指せ」であった。この格言で思い出したのはもう一人のカーネギーこと、デール・カーネギー(1885~1955)の本「人を動かす」(日本語訳1958初版創元社)。このカーネギー氏は名前のスペルを伝説のカーネギー氏にあやかろうと「Carnagey」から「Carnegie」に変えていたのです。
 その本代?ではなく本題に入ろう。去る7月(2021)先のカーネギーホールから僕宛の手紙が届いて驚いた!「親愛なる照井さん、コロナのパンデミックから抜け出すにつれ、希望の兆しがみられます。2020年3月以来静かだった、世界最高アーチストを戻す計画を立てています。困難な時期にカーネギーホールに居る必要があるという信念を表明したあなたのようなサポーターなしでは不可能です、、、、。未来についてのお考えを下さい。ホールサ
ポートする方法、例えば資産や保険、退職金等をカーネギーの様な慈善団体に直接寄付してください。税制上のメリットが最大になります」などとあった。
 「特定非営利活動法人・穐吉敏子ジャズ・ミュージアム」が、設立認可となったこのタイミングで届いた手紙。そういえばカーネギーホールは1960年に非営利団体となり、日本からの寄付も増えている様ですが「音楽大国といわれる日本は欧米から呼ぶだけではなく日本の演奏家を育て引き上げることが大切」と、1991年に来日した当時の、カーネギー専務理事・ジュディス・アロン女史の言葉も思い浮かびました。
10:53:00 - johnny -

2023-05-12

幸遊記NO.550 「穐吉敏子さんからの手紙」2021.8.2.盛岡タイムス

 6月22日(2021)の深夜(午前2時~3時頃)NHKがニューヨークの穐吉敏子さん宅と、盛岡・開運橋のジョニーをリモートでつないでくれて、話した映像が7月1日「おばんですいわて」で放送になった。その翌朝、店に電話があって「住まいはどちら?開運橋なら車だと30分で来れるので、自宅に来てくれませんか?」と、女性からだった。家の場所を聞き、たずねてみると「テレビを見ました。全くわからない世界のお話でしたけど、感動しましたので私の気持ちです」と「寸志」と書かれた封筒を渡され、僕こそ、心温まる、感動を味合わせて頂きました。穐吉さん、NHKさん、NNさん、TYさん、ありがとう。
 そのTVのリモート会話で、僕が穐吉さんに「どんな記念館(穐吉敏子・ジャズ・ミュージアム)にしてほしいですか?とたずねたら「それ関係ない、つくってくれる人がいるということだけでも、私にとっては運がいい幸せです」と言っていましたが、それから1ヶ月して、穐吉さんから手紙が届きました。「テルイさん御元気ですか?多忙中なので用件のみで失礼。記念館の件です(有難う。盛岡市にもお礼申し上げて下さい)。どんな記念館にしたいですか?との問い合わせに、考えていました。私としては、訪ねて居らした方達が“あー、穐吉敏子って普通の人で、努力であそこ迄行ったんだなぁー、自分も努力すれば、あそこ迄行けるんだ、頑張ろう”と感じる様な所にして下されば良いと思っています」との内容。
  そこへ、僕が10年余りお世話になっているNHK文化センターの丹千枝子盛岡支社長が現れたので、穐吉さんからの手紙です!と、読み上げ始めたら僕、感極まり涙声に。読み終えて、彼女の顔に目をやれば、彼女の目からも涙が溢れ落ちていて、女房と3人おいおい泣いた。そういえば穐吉さんある子供に「好きなピアノを良くお勉強すればいつかは世界一になれます。ガンバレ!」と、サインしていました。
 「家には最初の自己プロデュースコンサート(1967・NYタウンホール)のポスター(画家・井原康夫氏作)、同じく自己プロデュースのカーネギーホールコンサートポスター、グラミー賞ノミネーションの(額縁入り)等々、色々持って行って貰いたいものがありますので宜しく」と。更には自宅地下のバンド練習スタジオにあるピアノ(歴代の名ピアニスト達が弾いた)を提供して下さるとのことなので、来春頂戴しにNYへ行くことに。そして9月のミュージアムオープンには秋吉さん(92)が来演を約束してくれましたよ!
10:52:00 - johnny -

2023-05-11

幸遊記NO.549 「情け川・歌謡・舞踊の祭典」2021.7.28.盛岡タイムス

 来る8月6日(金)昼12時から岩手県民会館中ホールにて開催される、歌舞候〇組(WAGUMI)と華扇流徳志枝社中による「歌謡・舞踊の祭典」に、なぜか、僕も1曲、歌唱で出演することになり、そのリハーサルが7月18日、盛岡市内の松園地区公民館で行なわれ、唄って来ました。
 そう、事の始まりは本紙盛岡タイムスに連載させていただいているこの幸遊記。昨2020年11月30日付「千昌夫・新沼謙治・ふたりのコンサート」(11月14日岩手県民会館大ホール)。そして同年4月開催予定だったがコロナ禍で12月27日に延期となった、新邦楽舞踊華扇流披露記念公演「徳志枝会チャリティ舞踊会」。この2つについての幸遊記掲載紙(盛岡タイムス)を徳志枝さんに勝手に送付していましたら、今春、同会の直門名取・華扇徳幸さんより店(開運橋のジョニー)へ電話あり、後日、会主と共に4人で来店。その時に「8月6日の祭典で1曲歌ってみませんか」と誘われましたが、演歌をステージで歌う自信は無く即答出来ませんでした。皆さんが帰られてから、女房が「ジャズ喫茶のマスターが演歌をうたう!面白いんじゃない?挑戦してみたら?引き受けなさい!男らしく」という圧言に、「ハイ!」の返事で引き受けることに。
 しかし、なんで僕に?と思いきや、これまたタイムスのお陰様。3月29日付「えひめ憲一の岩手釜石歌謡祭」におまけで僕が特別出演(作曲・歌)した「文章読んでいましたから」だった。僕は自作曲(どれも同じと、ひとがいう)しか歌えないので、全く知らない曲を覚えて人前(ステージ)で歌う!は初めてのこと、しかも一語一句メロディから間合いまで、元歌と同じ運びでなければならない歌い方(なにせ踊る方々は元歌での練習を重ねているはずですですから)。いやあ、たった数分の1曲なのに、僕はどんだけ練習すれば覚えられるのか、本当に心の底から歌えるのか、自分との闘い。何百回歌っても歌詞を覚えられない自分のバカさ加減(頭の悪さ)を、よくよく理解出来たことは、ひょっとして僕の成長なのかも?と変に納得をしていたある日、コツコツ・コツコツタイプの友人・T子さんが来て「千回歌えば覚えられる」と言った。その大変さを息子にこぼしたら「父さん、書いて覚えたら?」と励まされ、両方頑張っている。トンビのように「旋回(千回)」出来たなら、「これは僕にとって、オリンピック出場と同じ事と言えるものなのかも?」と言ったら、女房「オリンピック?甘い!」の一言。
10:51:00 - johnny -

2023-05-10

幸遊記NO.548 「ジョニー・リメンバー・ミー」2021.7.19.盛岡タイムス

 原稿用紙に書かれた手紙が届いた。ジョニー(さん)への伝言。去る6月21日付盛岡タイムスのコラム「幸遊記」を材木町の銭湯・梅の湯で読んだ。ケチしたのではない、たまたまである。との書き出し。文章中のその娘、ジャズを唄ってみたら「孤独感がしっくりくる」と口にしたそうだ。そのコトバが「しっくりとくる」。その娘の歌唱をジョニー照井が個人的にセットアップしてくれたオーディオ装置から流れると、うちの妻も好みの声だとおっしゃっている、無上の音。アーデン・マークⅡ(タンノイ)。「テルイは耳のひと。わたしは目のにんげんだけど、ふたりは仲良し、、、」と。
ドリフターズのああいい湯だな、、、が口をついてでれば、「ジョニィへの伝言」は2時間も待っていたと、ペドロ&カプリシャス(1973年のヒット曲)。それ以前はアイ・ジョージの「硝子のジョニー」(1961)そういえば彼が昔「歌に国境はない」と背中にプリントして、とある国境に行った時「国境に歌がない」とは失敬な奴!と銃を向けられた事件まで浮かぶ。すると「ジョニーはどこに」とシルビィバルダン。「内気なジョニー」ジョニーソマーズ。「オージョニー」のジョニーベイカー。「ジョニーの青春」イーグルスのドンヘンリー。「いけないジョニー」10CC。「愛しのジョニー」クラウディアバリー。「ジョニー・ギター」のペギーリー。そして「帰ってきたジョニー」東京混声合唱団と共にまた日本に戻れば小比類巻かおる「両手いっぱいのジョニー」「ジョニーの子守唄」アリス。
 すると僕はここでまた、克美しげるのデビュー曲「霧の中のジョニー」霧がたちこめ冷たい雨が降ると、どこか遠くの彼方から、あの娘の声が聞こえてくるのだ“ジョニー・リメンバー・ミー”。そう、この元タイトル曲こそ、ジョンレイトンのビッグヒット作品(1961)。この歌には尾ひれまで付いていて、それこそ岩手江刺市梁川出身の大瀧詠一(1948~2013)の最大のヒット曲「さらばシベリア鉄道」。(太田裕美バージョンが僕の数少ないカラオケで歌える好きな一曲)作詞・松本隆。作曲・大瀧詠一。これがメロディ、曲の運び方から間奏の仕方まで、うりふたつ。うりふたつとはよく言ったものでそれこそエレキブームが始まった60年代初頭レイトンと同じ国、イギリスのバンド・トルネードス(大ヒット作テルスター)の‘63年曲「ライデンザウィンド」もまさに「ジョニー・リメンバー・ミー」の類似曲であり、あれもこれも皆「霧の中」の「ジョニー」だったのです。梅雨も明けドントハレ!
10:50:00 - johnny -

2023-05-09

幸遊記NO.547 「盛岡バスセンターの起工式」2021.7.11.盛岡タイムス

 待ちに待った盛岡バスセンターの起工式が7月8日(2021)執り行われました。施主である株・盛岡地域交流センター・社長・谷藤裕明(盛岡市長)、盛岡ローカルハブ(株)社長・佐藤光彦の両氏をはじめ、市の商工労働、建設、都市整備の各部長、並びに各バス会社、事業関係者、設計JV、主催者と、ご来賓の方々出席。
 祝詞(のりと)の奏上(笛、笙、ひちりき、による雅楽)の素晴らしい生音に聴き惚れながら僕は「国歌、雅楽・君が代」(宮内省楽部謹奏)と書かれている、一分間に78回転するSPレコードで聴いた昔の音に想いを馳せた。式終えて帰り際、渡された小袋の中に入っていたのは「天皇陛下御成婚献上菓」の紅白双鶴(そうかく紋様のらくがん)。
 店に戻り、その菓子を頂きながら頭に浮かんだのは、今度のバスセンター三階に出来るホテルのラウンジに開設される「穐吉敏子ジャズミュージアム」ご本方、穐吉さんの、上皇后・美智子様への尊敬の念。美智子様の穐吉さんへの想いでした。2006年のこと、穐吉敏子さんがアメリカに渡ってから丁度50年、その記念日本公演を実施する企画を立て「穐吉敏子スーパー・カルテット・フィーチャーリング・ルータバキン」ツアーを北海道から九州まで行い、東京・有楽町朝日ホールで非公開ライブ録音。それをCDとして発売した「穐吉敏子・渡米50周年日本公演」(T・TOC)は、その年のSJ・ジャズディスク大賞・日本ジャズ賞・特別賞」に。更には、ジャズ・歴史上の名盤中の名盤(ゴールド・オブ・ゴールド・ディスク)100選に唯一、新録音での選出。日本ミュージックペンクラブ音楽賞・特別賞と録音録画最優秀作品賞。その作品、皇后・美智子様と高円宮妃久子様に県を通じて献上。当時、紫波の藤原孝町長から祝電届き、町長室入り口には「祝」の貼紙。町広報へのインタビュー記事等々。
 そんなこんな思い出しているところへ、バスセンターの模型を作り起工式会場に飾り華を添えた、株・ワークヴィジョンズの林隆育(たかやす)さん来店。先日放送になったNHKTV「秋吉敏子と岩手」更に同「開運橋」を一緒に見たら彼は泣いていた。僕と同い年だった父が昨年12月にガンで亡くなったのだという。しかもコロナ禍で会いにも行けなかったと。でも、彼の高校時代の同級生でジャズ歌手の和田明さんは秋吉敏子さんと縁の深い「横浜・ジャズ喫茶ちぐさ」の賞、第4回受賞者(第1回は盛岡の金本麻里さん)という縁の深さで、「いつか彼も連れて来たい!」と。僕も涙ながら彼のルーツ話を聞いた。
10:48:00 - johnny -

2023-05-08

幸遊記NO.546 「SPレコードの極上再生」2021.7.5.盛岡タイムス

 2019年4月、和歌山から竹中郁晴さんという方が来店。話はSPレコードまで及び、「家に父が持っていたものある」との事でしたが、その10日後12枚のSPジャズレコード。何と解説書付きの立派な盤質・ほぼ新品状態で届いた。「14日にお邪魔した竹中です。お店でかけて頂ければ幸いです」。中味はルイ・アームストロング(サッチモ)。ビングクロスビー、ナットキングコール、フランクシナトラ、ディーンマーチン、ダイナショア、ドリスディ、ペリーコモ、ローズマリークルーニーのボーカルモノ。
 SPレコード(78回転スタンダードプレイ)は、ぼくらより一世代前の人たちが聴いたもので、僕たちが小学校低学年の頃聴いたラジオ体操の音がそれだった。当時は鉄針、角針、竹針。ゼンマイ式手廻しでの蓄音機再生。片面3分、両面かければ針を取り換えなければならない程すりへる重針圧。回数聴かれたレコード程、溝の中に針粉が残り、その上をまた針がなぞって、まるでヤスリをかけている様なもの。だから溝はすりへり黒から灰白色へ。それでも鳴るが、雑音のザラザラが増大。しかも落とせば割れるシェラック盤。そんなレコード今時誰が聴く!と言われそうだが、僕はその竹中さんが贈ってくれたSPを再生して、飛び上がらんばかりに驚いた。何と凄い音。大昔と言えど、新品だったらこれ程良い音なのかと。当時は再生機器の製造技術が追いつかなかっただけだったのです。レコードの素晴らしさをまた改めて思い知った温故知新!音溝知新!でした。
 頂き物が大半を占める数百枚SPを本気で再生する理想的な、特にもプレイヤー(モーター、アーム、そしてカートリッジと針)システムを組み立てよう!と、かつて秋葉原でプレイヤー関連の部品を扱っていた旧知の中村清次さんからSP用カートリッジとダイヤ針、オイルダンプアームなどを譲って頂き、取り付け。SP用極上?再生システムが出来上がって、音聴かせれば拍手される方もいて嬉し!嬉し! 
 そのシェラック盤SPは第二次世界大戦終戦頃のアメリカのVデイスク(勝利のレコード)の塩化ビニール製出現まで50年間も製造使用されていたもので、盤質よければ宝物なのです。その後EP、LPレコードも1982年に出現したCDに押され押されて消えるかと思いきや、又、少しずつ盛り返し今またCDを抜き去り逆転しているというアナログ世界です。
10:47:00 - johnny -

2023-05-07

幸遊記NO.545 「穐吉敏子とのTV電話対談」2021.6.28.盛岡タイムス

 ニューヨークに住んでいるジャズピアニスト・秋吉敏子さんと、盛岡の“開運橋のジョニー”をリモートでつないだノートパソコンで、2年2ヵ月振りに、彼女の顔を見ながら話をした。ほとんどタイムラグもなく、普通に話が出来ました。向こうからの声はテスト時からハッキリと聴こえました。こちらの声は、ちょっと聴きとりにくい様子でしたが、久しぶりに元気な声と姿を見られて、ほっと一安心(彼女は91才)。先日は大阪にいらっしゃる穐吉さんより6才上のお姉さんにも電話してみたら「あら!テルイさん!」とやはり元気な声でした。
 穐吉さんは、この半年間余りで外出したのは一度きり。近所の薬局にコロナの予防接種(一度で済む)を受けに出ただけで、一歩も玄関を出ず、ずっと家の中にいて、買い物は夫のルーさんがやってくれている。外へは、幸い家の裏側に(塀と緑に囲まれた)庭があるので、毎日そこに出ている。ピアノは昨日より今日、今日より明日、少しでも進歩したいので普通のピアノより1.5倍重くした鍵盤を特注して筋肉が無くならない様に毎日練習しています。足の運動は地下から3階までの階段を昇り降りし、大好きなワインも飲んでいる様子。
 数年前、何度か片目を手術して柳生なんとかさん(十兵衛)みたいだと言っていましたが、「今右目は全く見えません。でも薬は見えない方にも何故かつけられています。日本へは姉さんにも会いたいし今年帰ろうと思っていました。コロナ対策で何日も拘束されますので行けません。次は照井さんの所へ(盛岡バスセンター・秋吉敏子ジャズ・ミュージアムのオープンに合わせて)帰ります(2022年9月)」と約束してくれました。(嬉しいなぁ)
 「生きている間にミュージアムが、出来るということだけでも私は十分幸せ、好きな様につくって展示して下さい。グラミー賞ノミネート賞状の数々はじめ、古いポスターなども差し上げます。来て色々物色してください。家の半地下にあるバンドの練習スタジオのピアノは、アートティタム(1909~1956)はじめ、歴史に名を連ねる凄いピアニスト達が弾いた由緒あるもので、レナードフェザー氏(1914~1994.ジャズ評論家.音楽プロデューサー.ピアニスト.作曲家)から私が買ったもの。それを提供します」(来年春、伺うことを約束しました)。このTV電話の様子はとりあえず7月1日(木)NHK「おばんですいわて」で放送されるそうです。
10:46:00 - johnny -

2023-05-06

幸遊記NO.544 「僕と生年月日が一緒の種市進」2021.6.21.盛岡タイムス

 「種市さん亡くなったって新聞に載ってるぞ、知ってた?」かつて彼と同期の高校教諭だった牛崎隆さんからの電話だった。えーッと、絶句した僕。本紙盛岡タイムス6/7付お悔やみ欄にありました。「種市進(74)盛岡市湯沢、、、、」。僕が彼、種市さんに出会ったのは2009年から始まったNHKカルチャーのジャズ講座「ジャズ魅力への招待」受講者15名(男5・女10)その中の一人が種市さんでした(それ以前は穐吉敏子さんのライブに奥さんの故・和子さんと来ている)。
 第1回目(4月10日)の開講日、1人ずつ自己紹介して貰った時の彼の挨拶が忘れられない「自分と同じ生年月日の人が、どんなこと話すのかと興味持って申し込みました」。僕はビックリしました。その時60年余り生きてきて、生年月日一緒の人に出会ったのは初めてでしたから。そして一年が過ぎたころ、彼から、花巻にある岩手県立総合教育センターでの教職教養(環境・人づくり)研究講座で何かしゃべってくれないかと講演を頼まれた。知らない人達の前では緊張してしまう僕は目も当てられない話の内容で、講演と言えるようなものではなかった記憶。更には「教育研究岩手」2010という本に原稿頼まれ書くには書いたが〆切に間に合わず没ったのが「ジャズに生き、生かされ」でした。
道に憧れプロになりたいと思っても、その努力や勉強、肝心の決心無しには一歩すら踏み出せないもの。でも「なれるものならなってみたい!」と、くらいついて離れない娘が居て、デビューさせてみることにした話。その娘は「自分の必要性が全くない、私は居なくてもいいのじゃないか」と、葛藤していた時、ジャズに出会い「唄ってみたら素直になれる自分が居て、ガマンしていた喜怒哀楽をぶっつけ易い。孤独感がしっくりくる。努力してうまくなることで人が喜んでくれる」と。その言葉の中に僕は「明日のために今日行く(教育)」心配りの仕方。孤立と孤独についての大きな違いを深く考えさせられたものでした。
 種市さん!僕は入院中だったことも知らず、いつものようにBS・TVの録画を頼んだら「今、出先だけれど帰ったら録画します!」と言って郵送してくれたのが「美の壺・15周年・ジャズ」2021年4月20日放送。おまけに「いわチャン・開運橋」4月16日放送でした。ありがとう!形見になりました。うちの女房も泣いています。サヨナラ、、、、。
10:45:00 - johnny -

2023-05-05

幸遊記NO.543 「米谷隆夫の隆々詩」2021.6.15.盛岡タイムス

 「米谷さんが亡くなった」と、気仙地区に住む旧友たちから何本もの電話やメール。米谷(よねや)隆夫さん(74)。かつて、あちらこちらでジャズ喫茶に通う若者たちが、その地名を付けた「ジャズファンクラブ」が全国にあったものでしたが、僕が陸前高田でジョニーという名のジャズ喫茶を始めて間もなく、大船渡の植物検疫協会に勤めていた米谷さんを中心に「三陸ジャズクラブ」を旗揚げし、会員がレコードを持ち寄って自慢の解説をしながら鑑賞する定例会や、はたまた東京からプロジャズバンドを呼んでのコンサートなどを企画したりしたもの。あれは遥かなる70~80年代。
 近年時折電話を入れよく話した。タバコ好きだった彼の最期は肺ガン。中学から東京に出て英才教育を受け、大学時代はあの安保闘争をやり、ジャズ喫茶に通い、まだ誰も注目していなかった山下洋輔の演奏を何度も聴きに行った話などをしてくれたり一緒に県内のあちらこちらにジャズコンサートを聴きに歩いた。海の見える団地に家を建てた時、行って見たら壁一面の本本本。どんだけ本を読んで勉強しているのだろうかと恐れ入ったもの。そして仲間はもちろん誰よりも精進していたジャズの聴き方。彼のいう「ジャズに触れた時、その演奏者にジャズの歴史の痕跡と異和を聴きとることが出来る。演奏者の個性と呼ばれるものの多くは、痕跡を美しくオブラートするか、違和を極限化するかによっている」(1982)
 それより以前の彼のらくがきはこうでした「ジャズというものが難しくてわからないという人がたくさんいます。酒を飲まない人が酔っぱらいを見て馬鹿みたいだというのと同じように。先ず生演奏に接し、体験してから、更にレコードで味わってみることでジャズの本当の良さがわかる」と。
 晩年彼は句を詠んだ。「ぶおうぶおうと交す汽笛や海霧の夜」「春光や書棚をなぞる薄埃」「稜線を押し上げている若葉かな」「群青の沖の鳥島夕涼し」「のどごしに頷きながら走り蕎麦」そして彼の最高傑作と僕が思う「鰯雲釣り終えてなおいわしぐも」まるで“ジャズのような世界感”亡くなる1年前の6月、彼から僕へ「ジャズ」「現代ジャズの視点」「ジャズカントリー」「黒い肌」など8冊の古いジャズ本が届いた。「年の夜やすべて忘れて前向きに」2021・6・1、74年間住んだ地球から宇宙の彼方へと光年の旅に出た。いつかまたね!
10:43:00 - johnny -

2023-05-04

幸遊記NO.542 「仙台ジャズノート」2021.6.7.盛岡タイムス

 3月末2021、秋田県男鹿市の土井敏秀さんから封書届く。中には本と手紙。「覚えていらっしゃるかどうか若干不安ではありますが、、、」忘れる訳がないじゃないですか。あれは確か1980年代、あなたが河北新報社に勤務していた記者時代。仙台の本社から陸前高田まで取材に来てくれたこと。だって大船渡支局があったのにですよ。僕が盛岡に来てからは穐吉敏子さんのライブにも来てくれましたしね。ありがとう。
 「突然一冊の本をお送りしました。ぜひ読んでほしいからです。私の友人でジャズ演奏家の端くれが描いた“仙台市内の地図”です。ジャズと共に生きる人たちが住む街の情景が見えてくる地図です」。本の著者は佐藤和文さん、東北大学法学部を卒業して1974年から河北新報社で記者をした方。学生時代からドラムをやり還暦過ぎからはアルトサックスも吹き鳴らす、アマチュアミュージシャン。そのことから、ジャズの現場で出会ったミュージシャンに刺激され、音楽の魅力を知ってもらうための手伝いになる仙台発のネットメディア「TOHOKU360」で始めた「仙台ジャズノート」。
 コロナ禍によって芸術文化、エンターティメントなどの仕事奪われ、身近なジャズの現場でも、あっという間に暮らしの糧が失われ「文化政策の貧困」を思い浮かべたという。よく考えればメディアと一緒になって外来ジャズを有難がり、日本人のジャズを無意識のうちに軽く見てきた筆者らの感覚が、とどのつまりは、文化、芸術、芸能にお金を使わない土壌を作ってきたのではないか。と、ある。
 そうです!そう気が付いていたとしても、誰も声高らかにしないことに一人腹を立て、僕は30才の時(1977)に「列島唯一・日本ジャズ専門店」の看板を掲げた。「一生懸命やっているのに受けない。それなら自分と同じような“貧しい”日本のジャズをやってやれ。“食えない”喫茶店主が”食えない“日本人演奏家を後押しする。悲惨な構図である」とした河北新報の「正論・奇説」に「国粋主義ではないが、日本人はもっと足元をみてほしい」と僕はしゃべっていた。
それはそうと「仙台ジャズノート」には岩大生時代の4年間開運橋通のアパマン地下にあった僕の店でドラムとベースを演奏した盛岡出身の三ケ田伸也さんの、仙台での今。彼の活発な動きや動画制作、配信サービスのことなどが書かれていて嬉しがっていたら、突然!三ケ田君が店に現れ二度嬉し。
10:42:00 - johnny -

2023-05-03

幸遊記NO.541 「朝日の如くさわやかに」2021.6.1.盛岡タイムス

 昨2020年封切の映画「ジャズ喫茶ベイシー・SwiftyのBallad」星野哲也監督作品が2021韓国全州国際映画祭で「NETPAC・AWARD」を受賞した。それこそネットでそのニュースを見たのは5月8日。それが5/22新聞に出たとの知らせを受けコンビニに走る。売り切れ!売り切れ!売り切れ!どこへ行っても売り切れ。ベイシーは凄い人気!と、他の新聞は全て売れ残っているのに、朝日(岩手版)に大々的に載ったから売り切れになったんだ!脱帽。
 10数軒も歩きに歩いて暑くて帽子を脱ぐ。少し熱が引いたところで、もしかしてと!店員さんに調べてもらったら「入っていないようですね」。次の店には経営者らしき人「朝日はネー、今年3月から何故か入らなくなったのですよ」。そういわれてみれば3月29日付朝日新聞の「盛岡で開業予定の新バスセンター、仕掛け様々、秋吉敏子さん記念館・アート感じるホテル」の記事読みたくてコンビニ数軒歩いたが無かったなぁと。朝日の盛岡総局へ行って、「今日の新聞欲しいのですが、なんでコンビニにお宅の新聞置いてないの?」と尋ねたら、本社の販売局に電話してくれとのこと。電話しましたよ。2、3回、担当回されたが、「岩手の盛岡から電話してるんですが、総局がある街のコンビニどこにも置いてないってどういうことですか?」結局のところ「うやむや」の解らない結論?。
 「昔、記者は足を使って新ネタを探し、いち早く臭いと匂いを嗅ぎ分け察知し書くのが“ブンヤ”だった。だが今は、情報が来るのを待っているだけだからなぁ」と元他紙記者。
 さてそのベイシーの映画、ハワイでも上映され、ネットで全米配信。レコード演奏家の主がいるジャズ喫茶は、日本固有の形態。名演・名唱・名録を極上再生する、音楽鑑賞空間であり、その喫茶室は居心地のいい文化サロンの役割も。様々な意識を持つ人々が集い、そこからまたこの映画のような別の何かが生まれる。低迷する時代にこそ生き活きと蘇るジャズ。「朝日の如く爽やかに」コンビニに朝日がまた昇る願いと共に曲を聴く。
10:40:00 - johnny -

2023-05-02

幸遊記NO.540 「佐藤竜一の盛岡と、ずっぱり岩手」2021.5.24.盛岡タイムス

 岩泉町の箱石恵美子さんという方からの電話だった。「本を読んでいたら、村上昭夫の動物哀歌のCDのことが書いてあり、聴いてみたくなったので、、、」と。そういえば20年前「啄木・道造の風かほる盛岡」(山崎益矢・著)に、そのCDのこと紹介され、何本もの電話があったことを想い出しながら「何という本ですか」と問えば「盛岡藩と戌辰戦争」という。そこで又僕の頭の中は2020年9月15日、著者・佐藤竜一さんがその本を携え僕の所にやってきた日へと飛んだ。
 その本、彼が新聞や雑誌などに発表した文章を集め、杜陵高速印刷出版部が発行したもので1・宮沢賢治の周辺。Ⅱ・盛岡藩と戌辰戦争。Ⅲ・文学による街おこし。からなり、そのⅡ・104から107ページにかけて書かれている「ジョニーと、くつわだたかしと動物哀歌」(街・もりおか、2003年10月号に発表されたもの)そこには僕とくつわださん(2004年48才で没)の出会い佐藤さんとの出会い、1999年に、くつわださんと僕が歌ってリリースした村上昭夫の「動物哀歌」のCDのこと。詩人・村上昭夫のこと。彼の詩碑のこと。五木寛之の小説「風の王国」に出て来る陸前高田シーンなど、さまざま。
 そういえば、彼2冊目の本「宮沢賢治の東京」(1995年日本地域社会研究所)が出版された時1994年の処女作「こうえい・その詩と数奇な生涯」(賢治を中国に最初に紹介した中国の詩人)の2冊並べて佐藤竜一さんのことを僕が編集をやっていた「月刊KESEN・YOMIURI」(新聞・12月号)に書いたことも浮かんだ。
 佐藤竜一さん(64)一関市在住・陸前高田市生まれ。父は国鉄、小学5年から中学を卒業するまで母方の地・陸前高田に住んだ。一関一高、法大法学部卒後、日大大学院で国際情報を専攻、現・宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事。岩大特命准教授。かつては科学や、建築関係出版社。盛岡の熊谷印刷出版部にもいた。2000年に季刊「YUI」を創刊。2007年には「NHK連続TV小説「どんど晴れ」の放映に合わせ、95年に刊行された「ずっぱり岩手」の同名新版のプロジェクトメンバーの1人として、歴史、文化、風習の編に一関・ジャズ喫茶ベイシーを。人物編では、「ジョニーのマスター」として僕のことも紹介していた彼の著書+数冊。共訳、共著も10指超える凄さ!竜一さん、ありがとう!
10:39:00 - johnny -

2023-05-01

幸遊記NO.539 「佐藤司美子の幻日というCD」2021.5.17.盛岡タイムス

 盛岡市の芸文創造補助を受け、新アルバム「幻日」を制作したという花巻市の佐藤司美子さん(54)の本紙盛岡タイムス記事(3月29日付)を読み、僕も聴いてみたい!と彼女にメールしたら先月わざわざ届けてくれた。ありがとう!「ピアノで奏でる岩手民謡!」新境地の幻日を現実のものとした彼女。「鹿踊りへのオマージュ(プロローグ。月明かりの下で。たわむれ。いざない。彼方から。エピローグ)」、「南部牛追唄変奏曲(テーマ。フーガ。男。神。狂。鬼。女)」の2つの組曲と、「厨川節」の3曲構成。
 何度聴き返しただろう。聴けば聴くほどこのCDは彼女の真骨頂(全作曲、演奏)。底に流れるメロディは民謡だとしても、演奏はジャズであり、クラシックであり、全体としては現代音楽的であるのかもだが、そのどれでもない唯一無二的佐藤司美子(すみこ)ワールド。彼女がこれまで、形式や様式にこだわらない、とらわれない、自由な創作へのアプローチをはてしなく続けてきた結果としての音楽である。
 4才から音楽の手ほどきを受け、岩手大学在学中にロータリー財団奨学生として渡米、シアトルで作曲とピアノを学びながら演奏活動後帰国、岩大に卒論を提出して、再び渡米、ワシントン大学院音楽部でピアノ、作曲、即興、を学び、博士号を取得。以来現代音楽の作曲と演奏活動。オリジナル作品「霧の安息所(Mist haven)」は米、カナダ、ブラジルの管弦楽団によって公演され、彼女自身はユニバーサル・ユニークネスを目指し新しい音楽へ挑戦し続けている。
 僕が、佐藤司美子さんの演奏に接したのは1998年。彼女とベースの中山英二さんが初めて一緒に、花巻文化村の青雲庵(故・井堂雅夫庵主)の野外ステージで共演するセッテイングを頼まれた時だった。彼女にとっては初ジャズ演奏だったようですが、そのユニークさに感嘆した僕は、2001年に盛岡にジョニーを出店以来、幾度となく店でライブをして頂き、2007年から10年間開催した「いわてあづまね山麓オータムジャズ祭in紫波ビューガーデン」にも出演してもらい、更には、同町の野村胡堂あらえびす記念館長・野村晴一氏が制作した「巽聖歌・童謡曲集/川原井泰江・歌」(ジョニーズディスク・JD-35-CD/2011年)では44もの楽曲の譜面制作の労をとっていただき感謝に堪えなかったことなど、いろいろ想い出されます。コロナ後、又、ライブして下さい!
10:37:00 - johnny -
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