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レポート2022-11-30幸遊記NO.387 「穐吉敏子への旅」2018.6.18.盛岡タイムス
1974年秋。秋吉敏子=ルータバキン・ビックバンドのデビュー作「孤軍」をLPレコードで聴いて以来、これまでの44年間、彼女の全作品(別バージョンも含む)を探し求め聴き続け、コンサートを主催し、その他日本各地での、コンサートやライブ、はたまた、アメリカでの重要なコンサートがあると聞けば、僕の知る全国の穐吉ファンに声を掛け一緒に何度も聴きに馳せ参じてきた僕の半生は、まさに「穐吉敏子への旅」そのものである。
そのことから、僕は今年2018年4月1日「穐吉敏子への旅」(添乗員・照井顕)というタイトルの穐吉敏子全作品写真集本を出版した。中味は彼女のデビュー作(1953)年から最新作(2017年)までの全作品で、シングル盤、ソノシート盤、LPレコード、カセットテープ、CD(コンパクトデイスク)など、ジャケットや収録曲などの、いわゆるバージョン違いのものや全集まで180タイトルを収録。 他に穐吉さん自身の著作本や語り本など6冊。雑誌(表紙)新聞(トップ)など18点。他彼女が一番最初に聴いたジャズのレコードと、一番最初に買ったレコード(どちらもSP・78回転盤)までおまけに収録した。「世の中には有名奏者などのデイスコグラフィーはあるけれど、作品の裏表までを収録したものは在りそうで無かった初めての本、凄いね!」(全部を持っている人でないと作れない)と、都内のとあるジャズ関係者のことば。 僕はこの穐吉敏子作品全集にVo.1とナンバーリングをしたので、彼女に関する本を今後何冊かシリーズで出してゆきたいと、次作を練っているところですが、この2018年6月、穐吉敏子さんと関係、関連のある人々と街を訪ねる初めての一人旅をしてきた。その第一日目、花巻から大阪に飛び、穐吉さんが「姉トリオ」と呼んでいる三人の女性達「穐吉さんの姉(4人姉妹の2女、美代子さん)」そして「穐吉さんのステージ衣装を作ってきた春名道子さん」「その二人の友で美術家の上村雅代さん」。二日目は初めて広島へ行き、あの「ミナマタ」に次ぐ社会的な作品「ヒロシマーそして終焉から」の原爆ドームや国立広島原爆記念館、オバマ前大統領が来た平和公園など見学。三日目は秋吉さんにその作曲を依頼した善生寺の中川元慧住職らにお会いして話を聞いて来た。
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johnny -
2022-11-29幸遊記NO.386 「菅野俊吾の海浜健康文化都市」2018.6.12.盛岡タイムス
昭和54年(1979)から2期、岩手県議会議員。昭和62年(1987)から4期、陸前高田市長だった菅野俊吾氏が今年2018年3月26日、82才で亡くなった。かつての自宅は陸前高田市大町商店街にあったが、2011年3月11日の東日本大震災で流失、節子奥様の実家が有る住田町にて借家住い中だった。そのお別れ会が6月2日陸前高田市のコミュニティホールであり、盛岡の東北絆まつりに背を向けて行って来た。彼が東北大学法学部を卒業して七十七銀行に入ったのは1969年。そして家業の高田活版所を経営するため、銀行をやめて印刷会社にて半年間見習いし、陸前高田に戻ったのが、あの東京オリンピックの年(1964).
僕が平泉の中学を卒業して夜間の高田高校へ通うため、叔父(父の弟)が経営する照井クリーニング(3・11で被災し廃業)に、住込みで働き出したのが1963年。聞いた話は、照井クリーニング創業時は「高田活版所の一角を借りていた」とのことだったから、1977年、その何となく親しみの覚える高田活版所の数軒隣り並びの大町へ荒町から僕は店を移転し列島唯一の「日本ジャズ専門店」とし、地方から東京を狙い撃つべく自主レーベル「ジョニーズ・ディスク」を立ち上げた。 その甲斐あってか当時の専門誌には「電車(ジーゼル)は2時間に1本、その町には海があり、町の人々の生活がしっかりと息づく中、ジャズは自然に流れていた。日本のジャズが海の向うへ届けとばかりに」「陸前高田は小さな町にもかかわらずジャズ熱盛んで日本有数、東北一」。「マスターの駄洒落の連発はとみに有名。奏者は、演奏よりこちらに疲れ、帰ってくるのが常識」などと書かれたりした。そんなある日、菅野市長が店にやってきて「会議であちこち行きますが、名刺を出すたび、あっ!ジョニーのまちですね!と言われるんでまいりますよ!」と言うのだった。盛岡に移ってからも来店して「ジョニーさんのルーツ、陸前高田市!(海浜健康文化都市)と色紙にしたためてくれたりもした。 1980年から度々陸前高田市を訪れた世界一のジャズピアニスト秋吉敏子さんに1989年の日本ジャズ祭ステージ上で陸前高田市は感謝状を贈ったのですが、「実は議会で否決されたのを市長が土下座して頼み何とか可にして貰ったそうよ」と節子夫人から聞いたことがあった。秋吉さんもその市長に頼まれ「陸前高田ふるさと大使」という市の宣伝役を1997年に引き受けたのでした。
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johnny -
2022-11-28幸遊記NO.385 「紫波町上平沢の古書・恒久堂」2018.6.4.盛岡タイムス
盛岡市西青山のオリエンタルプランニングサービスの深谷幸夫氏からの葉書が届いたり彼が現われたりすると、僕はふと1980年代、盛岡夕顔瀬にあった、ジャズレコード店のことが頭に浮かぶ。何故かと言えば店の名が、「オリエンタルレコード」。経営していたのは故・菊池幸代さんという方でしたから、オリエンタルな幸つながりからである。
前置きが長くなった!。その深谷氏が言うことに「葛岡はジョニー教にすっかりはまってしまってるもんね!」だった。葛岡さんは名を恒久(つねひさ)といい、二人は高校の同級生同士である。深谷氏が帰ったあと、僕の女房は「あなたこそ葛岡教にどっぷりじゃないですか!」と言う。あっはっは! 紫波町高水寺で名曲喫茶「これくしょん」を営んでいた故・小畑倉治さんの跡を継いで今店をやっているのが葛岡恒久さん。彼は同町の「本のくずおか」の店主だったが、盛岡上ノ橋町通りにあった「みみずく書房」をたたんだ彼の弟に本屋をゆずり、自分は古書・名曲・喫茶の「これくしょん」を2015年12月12日再開させた。開店したその月日は「ジョニー・ジョニー」と僕は読むのだが、それは僕の再婚記念日あり、僕の教祖・穐吉敏子さんの誕生日である。これくしょんに流れている音楽のほとんどは僕が制作した「秋吉敏子の1980」をはじめとするジョニーズ・ディスクのオンパレード。もちろんクラシックのレコードやCDも沢山あるのだが、リクエストでもしないかぎりは掛けない、かからないを、開店以来今なお平然とやってのけ、しかも電話での第一声は必ず「おせわになっております」なのである。 彼の家は東北自動車道紫波インターから西へ数百メートル行った上平沢商店街の一角。近所にある紫波八幡宮の境内で年に2回行われている「志和蚤の市」の実行委員長でもある彼。4月末に「古書恒久堂」(こしょ・こうきゅうどう)と看板を書いて!と古い板を持参。「無休だったこれくしょんを5月から火曜定休にして、火曜日だけの週一、古本屋を始めます。売上げ目標は月2万円です」と笑った。看板を書いて持って行ったらその恒久堂は古本に囲まれた昭和レトロ感たっぷりの高級堂で、「珈琲」に「こがしまんじゅう」も最高でした!一日で一ひと月の目標クリアが続いているそう!です。
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johnny -
2022-11-27幸遊記NO.384 「横浜ドルフィーの佐藤允彦ライブ」2018.5.28.盛岡タイムス
4月30日2018横浜「ドルフィー」での穐吉敏子さんのライブ88歳88鍵ピアノソロが、同じ横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」との共催ということでスタートした時、本当はすでにドルフィーのスケジュールは久米雅之(ds)クインテットに決まっていたのでしたが、穐吉敏子さんのライブが出来るのならと、申し訳ないが久米さんには今回降りて頂くことに致しました!でのスタート。
ドルフィーのマスター・小室さんと連絡を取りながら僕も郵便封書や携帯でショートメールを出し、30日のライブには横浜、東京、大阪、千葉などから8名の予約を受けていた。その穐吉さんが緊急入院し、その後の予定がキャンセルになったけれどもスタジオソングスの岩崎さんからの電話では、もしかすると月末のライブは大丈夫かも?だったので、望みは持っていたがやはりキャンセル。そこでドルフィーのマスターがピンチヒッターに選んだのが、何と、日本のジャズピアニストの第一人者・佐藤允彦氏だった。穐吉さんのこともあり、僕は女房と連れ立ってドルフィーへ行くと、佐藤允彦さんはステージに立ち、穐吉敏子さんのことをお話しになっていた。 佐藤允彦(まさひこ)さんは、6台のピアノによる6人のコンサートで穐吉敏子さんと一緒だったのを二度聴いてはいるが、ソロは初めての体験だった僕。彼は若い頃から、あらゆる音楽分野のあらゆる仕事に挑戦し、多忙な活動をして来た方。1966年アメリカのジャズ専門誌「ダウンビート」の奨学金を獲得して、穐吉敏子さんに次ぐ二人目の日本人ピアニストとして、ボストンのバークリー音楽院に留学し、作編曲を学んだ。 卒後帰国して同じく同大で学んだベースの荒川康男さん、それにドラムの富樫雅彦さんを加えてトリオで吹き込んだ彼のファーストアルバム「パラジウム」を聴いた若き日から今日に至っても尚、このアルバムこそは、僕の中での日本のジャズレコード10大傑作の一枚に入っている素晴らしい作品なのである。 その夜、穐吉さんの穴埋め演奏の一曲目は何と彼女のライブテーマ曲とも言える「ロング・イエロー・ロード」だったからさすが佐藤允彦さんだなあと、僕は泣きたいくらい嬉しくなって女房の顔を見たら、その大きなまなこは、すでにうるうるで涙こぼれそうでした。
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johnny -
2022-11-26幸遊記NO.383 「福島市音楽堂のレコードコンサート」2018.5.21.盛岡タイムス
このところ、それこそ連載風に穐吉敏子さんの米寿記念ジャズピアノソロツアーのことを書いてきたが、東京のジャズワールド社が発行している月刊のジャズ新聞「ジャズワールド」2018年5月(通刊471号)に依頼されて書いた800字詰4枚の原稿「穐吉敏子日本縦断米寿記念88歳88鍵ジャズピアノコンサート」(顚末記)が第一面トップ記事として掲載になってビックリ。だが、考えてみれば穐吉さんの記事、しかも緊急入院された話までとなればやはり、日本ジャズトップの話題なのだった。
その彼女の予定していた4月27日の福島市音楽堂ホール。主催の「福島市音楽を楽しむ会」の代表・松本秀勝さん(幸遊記№294・音楽で世界平和を)にキャンセルを知らせた時、彼は、あっさりと「じゃあ、穐吉敏子さんのレコードコンサートに切り替えます。ジョニーさんレコード貸して下さい!」だった。その決断の早さと、懐かしさをともなう、そのコンサートに僕はLPレコードを持参した。 コンサート会場の受付でチケットの払い戻しをしながら、無料の穐吉敏子レコードコンサートを案内。会場入りしたファンは穐吉敏子=ルー・タバキンビックバンドのデビューアルバム「孤軍」を始め「ロングイエローロード」や「インサイツ」などの名盤の数々を世に送り出した井阪紘氏(幸遊記№162)の解説とそのエピソードを聞くまととないチャンスに恵まれたのでした。 事の発端は「照井ちゃんと久し振りに話したいから、僕は福島のコンサートにも行きますよ。穐吉さんのコンサートが終ったら、どっかで一緒に飲もう!」と言うことになっていたから、まさに渡りに舟だったのです。でも彼にコンサート中止を知らせた直後にはホテルをキャンセルし翌日朝から仕事を入れてしまってた。でもレコードコンサートのこと言ったら、戻るので終わりまで居れないけどそれでももしいいならと、福島へ来て解説してくれたのです。しかも話を聞けば福島音楽堂ホールは懐かしい!ここのパイプオルガンをお世話したのも、その音を初レコーディングしたのも僕だったのよ!と。松本さんが案内してくれた喫茶店で井阪紘さんの話を聞いた。彼は今年39回を数える「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」のプロデューサーでもある。
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johnny -
2022-11-25幸遊記NO.382 「佐々木照江の一期一会」2018.5.14.盛岡タイムス
宮城県気仙沼市にある三陸新報社の社員である佐々木照江さん(59)が、先週のこの欄に書いた穐吉敏子さんの米寿記念コンサートを聴きに盛岡へ来て、翌日午後に開運橋のジョニーへ寄ってくれた。彼女は僕の陸前高田時代には時折店に来てカウンターに座り、穐吉さんが来ると知れば必ず聴きに来ていたし、気仙沼では海蔵寺の住職だった故・大場文隆さんが主催する穐吉コンサートではいつも楽屋係を仰せつかっていた。
「私が穐吉さんを知ったのは女性雑誌・MORE(1983年4月号)。その記事を読んでこんなにも素晴らしいピアニストが居るんだぁって、感動したんです。そしたら、その人のコンサートが陸前高田であるって、新聞社に手書きの原稿を持って来た人がいて、私それをタイプ(写植)打ちしたんです。それが照井さんとの出会いでした。持ってくるたび打ちましたよ」と笑う。 小学5年で母、中学1年で父、3年で祖母を亡くし、父の妹の嫁ぎ先にお世話になって、鼎ヶ浦女子高校(現・気仙沼高校)を卒業。三陸新報社に入社したのが1977年。その後「モア」を読み、憧れの女性となった穐吉さんと出会い、コンサートを手伝いながら、人間としても大好きになり、「穐吉さんの自伝“ジャズと生きる”(岩波新書1996)にサインを願ったら、“私が一番好きな言葉です!”と言って“一期一会”と書いてくれたのです」それは照江さん自身が一番大切にしていた言葉だったから、物凄く嬉しかったのだとも。 2004年気仙沼市のホテル観洋で行われた穐吉さんのソロコンサートの後の打ち上げがホテル内のパブ。「中国人のダンサーと歌手が終演後、客の相手をするため席について水割りなどを作った時、穐吉さんは隣りに座っていた私と、その歌手を両手で抱き寄せ頭をくっつけて、“誇りを持ちなさい。やりたいことは曲げちゃいけない!アーチストがこんなことをするもんじゃない!”と言いながら涙声になって二人をギュー!と抱きしめてくれた穐吉さん!あれは私の宝になりました」。「日本のジャズ界をリードしてきた唯一の女性“決して折れることをしない音楽への真摯な姿勢、強靭なしなりを感じさせる”」と書いていたあの「モア」の記事そのまま照江さんも穐吉さんの生き方に憧れ続けている。
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johnny -
2022-11-24幸遊記NO.381 「盛岡市民文化ホールの奇跡」2018.5.8.盛岡タイムス
穐吉敏子さんの88歳88鍵記念録音盤「マイ・ロング・イエロー・ロード」というジャズピアノ・ソロ2枚組CDの制作発売をしたスタジオソングスの岩崎哲也氏から「秋吉さんより伝言あり、以降のコンサート、キャンセルして下さいとの事です。時間ある時に電話下さい」とメールが届き、心臓が止まる程驚いた。目の前は一瞬にして真っ暗闇!すると脳は、その原因を突き止めようとするのかパニック状態となって頭の中が真っ白!少し冷静になってからもう1度メールを見れば、岩崎さんからの“未読の先着”メールがあり「秋吉敏子さん入院しました。電話下さい」僕の落度でのキャンセルではなかった!と胸なでおろすと同時に、それは大変!と、彼に電話!すると「袋井市でのコンサート後、ホテルで深夜に具合が悪くなり、救急車で病院に運ばれたらしい」というのだった。
ああ、どのようにして皆さんに中止を知らせるか。すでに使い込んでいるコンサート経費のこともあり、払い戻しの現金をどうやって工面するか、又僕が担当している福島と横浜の主催者へのキャンセル通知とその対応をどうするか?それより何より、穐吉さんは一体大丈夫なのだろうか?心配で心配でどうしようもなかった。誰にも何も言わず迎えた当日(4月17日)、前売の全員を会場に入れてからドアを閉め、当日券を求めて並んだ30人程の人に初めて実は穐吉さんが会場に来てないのですと知らせ、お帰り頂いたが、それでも会場に入りたいと残った人達もいた。 開演のベルが鳴り、僕はトボトボと舞台へ出て行き、事の説明。誰もがどん底へ突き落とされたかのように静まり返ってしまったけれども、皆さんそれぞれが、穐吉さんを心配しているのだと、逆に僕の方にひしひし伝わって来るのでした。 その日は急遽、穐吉コンサートを聴きに来る予定のバンドマン、歌手、ピアニストに声をかけ、演奏してもらうことにした。しかし世界の穐吉を聴きに来るファンの前で代演することのプレッシャーで大変そうでしたが、逆に、それが皆良く作用し、それぞれが名演をやってのけたのですから3ステージとも全アンコール。終演後の払い戻し最中に「最後のアカペラによる穐吉さんの曲、ホープのソロも感動でした!」と涙ながら語る人。そして「絶体絶命のピンチから飛び立つ不死鳥の姿を見ているような最高にドラマチックなコンサートでした」と払戻金を受け取らないで帰る人もいて、ピンチを救われました。
11:13:00 -
johnny -
2022-11-23幸遊記NO.380 「小西啓一のテイスト・オブ・ジャズ」2018.4.30.盛岡タイムス
東京神田のアデロンダック・カフェで、ジョニーさん!この方ラジオ・ニッケイの小西さんです!とマスターから紹介され、差し出された名刺には番組担当プロデューサー・小西勝明、だが彼は啓一ですと言った。僕の頭の中で大切なものを仕舞い込んでるジャズ棚の扉が自然に開いた。僕が店を始めた1975年創刊になったジャズランド誌。確かその76年正月。彼、小西啓一氏が執筆していた「ジャズプロデューサーについてのこと」
「若い演奏者がどんなに優れた力量を持ち、圧倒的な演奏をしても、その能力を認めレコーディングの機会を持たせてやる様なプロデューサーとの出会いが無い限り、その人は幻のように、永遠に、ジャズシーンから消えていってしまうのだ」という様な事を書いていた。そしてその「プロデューサーとは音楽に対する深い愛情と、その音楽を正確に判断できる耳と、自らの音楽感を持ち、確固たる信念にもとづく気骨ある制作の必要性」を書いていたのだ。 そんな彼が担当する短波ラジオの「テイスト・オブ・ジャズ」は1950年代から続く最長不倒記録を持つライブ感たっぷりの人気番組。その2018年4月21日(土)18時からの放送は盛岡出身在住のジャズシンガー・金本麻里さんをゲストに虎ノ門琴平タワー21階にある日経ラジオ社のスタジオから山本郁(かおる)アナの進行で、小西ディレクターの元でオンエアーされ、その後21、22、29日の再放送。更には来月5月6日、日曜22時30分からの最終再放送があるので、短波ラジオNIKKEI第一、又はインターネット、radiko.jpで聞いてみて下さい。僕もちらりと出ています。 その番組コメント「小西敬一の今日もジャズ日和・Vol・406ホープガール参上」をネット上で読んでみたら、麻里さんと僕の出会いからデビュー、そして横浜ちぐさ賞受賞のことなどを紹介しながら「彼女の実に堂々とした、気風もよくソウルフルで聴くものを温かく雄々しく包み込んでくれる。大器と言った表現がぴったりなシンガーで、名刺代わりにアルバムを作る新人ジャズボーカリストとは、その心構えや覚悟からして異なり、歌を通して伝えたいものも多くあり、それがダイレクトに伝わってくるのだ。こういうシンガーが地方に居続け、そこに根を張り、活動を続けるその心意気を見習わなければならない」とあった。
10:56:00 -
johnny -
2022-11-22幸遊記NO.379 「大分と板橋の穐吉敏子コンサート」2018.4.23.盛岡タイムス
4月10日大分県大分市の海辺(小樽運河みたいな処)かつてのレンガ造りの倉庫を改装したライブハウス「ブリック・ブロック」は、九州全域から300人の穐吉敏子ファンでぎっしり埋まり、88才88鍵ソロライブ。僕が声掛けした人達も大阪、長崎、佐賀、別府などから手土産持参でかけつけてくれて、ヤアヤア!と久し振りの再会。同店は創業30周年での、リニューアルオープニング記念ライブ!としての開催で、ステージの上には大形スクリーンも用意され、1階と2階から見る演奏者の姿が交互に写し出されていた。感動の拍手鳴り止まずアンコール3曲!。
翌11日は東京都板橋区立文化会館。羽田からタクシーで穐吉さんと品川のホテルへ直行。そこから僕は一足先に会場入りし、会館ロビーでの東京初開催となる穐吉敏子全レコード展の飾り付けをして、横浜在住で40年来の友、柳澤信広さんの運転する大型ワゴン車で穐吉さんを開場15分前到着にあわせて迎えに行ったのだが、夕方の首都高速道ラッシュに遭い遅刻。急遽緞帳を下ろしての音出し、聴衆600名、内1割程は僕の声掛けで関東圏から集まってくれた人達だから、嬉しい忙しさ。12月に発売になった穐吉さんの2枚組CD88才88鍵ソロピアノ「マイ・ロング・イエロー・ロード」も飛ぶように売れ、制作元のスタジオソングスの社長・岩崎哲也氏も驚きの様子でした。サイン会は長蛇の列で1時間に及んだ。 板橋区長夫妻が招待してくれた打上げ食事会はイタリアン。同席した中の1人に、口羽尚子さん(旧姓・高槻。旧満州時代大連にあった弥生高等女学校の同級生)もいたことから美味しい料理とワインでご機嫌になり久し振りに様々なことを皆に喋ってくれた。その貴重な時間を過して居る時、店の若いシェフにその日、子どもが生れたと聞き、穐吉さんが色紙にお祝いの言葉を書いてあげたから、シェフは大感激して帰って行った。 それはそうと板橋区文化国際交流財団気付で1通の手紙が穐吉さんに届いていた。それによると差出人の父中村哲(あきら)さんというバンクーバー生まれの日系カナダ人2世で、1940年に来日し歌手並びに俳優として仕事をしていた方「もしかしたら穐吉さんが昔いたバンドで父の伴奏した!しない!の問合せだった。
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johnny -
2022-11-21幸遊記NO.378 「伊藤タエの世界第8位人生」2018.4.16.盛岡タイムス
「常連客」とだけある、差出人名のない封書が届いた。おそる恐る封を切る・出てきたのはB4のコピー1枚。週刊新潮2018年4月12日号の52~53Pに掲載された、作家・五木寛之氏が連載中の「生き抜くヒント!」(連載第194回)の「百年人生とハラスメント」の主題。途中の「広がる荒野」そして最後の小題「米寿記念コンサート」その下にサインペンで注目!矢印が付いていた。とりあえず、そのその部分を読み進むと「オイハラ(老ハラスメント)に心を悩まされているおりに明るいニュースが届いた」とあり、「おなじみ陸前高田のジャズ喫茶・ジョニーと盛岡の開運橋のジョニーとが、共同で穐吉敏子米寿記念コンサートを開催するという。八十八歳のジャズピアニストの健在ぶりは百歳人生時代への力強いメッセージである。荒野をめざす見事な人びとが、ここにもいる」とあって、僕はジーンと目頭が熱くなった!。
昔は人生50年と言った時代があり、70才は古来より稀(まれ)だったことから70才は古希とされているが「夏目漱石がロンドンに留学していた頃、日本人の平均寿命は40代前半だったという。最近は人生百年時代とか百歳人生時代と、しきりに騒がれている」と五木寛之氏。 僕等団塊の世代が20才前後だった頃、五木寛之作詞の「青年は荒野を目ざす」というレコードが発売になって当時僕はそのはしだのりひことフォーク・クルセイダーズのシングル盤を買いよく聴いていたが、そのレコードのB面に入っていた歌というのが北山修作詞の「百まで生きよう」だった。いまから50年も前に人生百歳時代を先取りしていた歌だったといまにして思うだが、ここまで書いて思い出したことがある。それこそ僕の店の常連客である伊藤洋一さんから昨年聞いた話「父は6人兄弟の末っ子なんですが一番上の長女・タエ(叔母)さんが11月下旬114才で亡くなった」というのだった。「えーっ!114才?」と僕は耳を疑いながらも、ひゃくじゅうを超えた人!114才の人生の重さとその深さを想った。伊藤さんが「どうやら世界8位の長生きだったらしい」とも(凄~い!)。我等が穐吉さんは、88才88鍵日本ツアーを敢行中である。これも凄いこと!。
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johnny -
2022-11-20幸遊記NO.377 「穐吉敏子の日本縦断米寿ツアー」2018.4.10.盛岡タイムス
業界紙、月刊ジャズワールド4月号その一面トップ「国際ジャズ名声の殿堂入りを果たした秋吉敏子、北海道から九州まで米寿記念コンサート敢行!」の見出し。4月3日札幌「coo」。6日広島「善正寺本堂」。7日三重「津市文化会館」8日岐阜「STUDIO・F」。10日大分「BRICK・BLOCK」。11日東京「板橋区立文化会館大ホール」。13日静岡「袋井市月見の里学遊館うさぎホール」。14日東京「赤坂B♭」。15日山形「シェルター本社ホール」。17日岩手「盛岡市民文化小ホール」。21日東京「ディナーパーティ」。27日福島「福島市音楽堂ホール」。30日神奈川「横浜ドルフィー」。3日大阪「高槻市コンサート」の一ヶ月間14公演。
米国立・J・Fケネディセンター「生きたジャズの伝説賞」。米国立芸術基金「NEA・ジャズマスターズ賞」などなど日本人初となる受賞の数々を手中に収めてきた彼女が、「これまで私を何度も呼んで下さってきた人たちのところだけを歩きたい」と、2年前に計画を立て今日に至った。初日となった3日の札幌は2年前の2016年9月に銀座・ヤマハホールに呼ばれて帰国し、リサイタルを開いた時、彼女はカゼをこじらせ体調最悪状態。楽屋では僕を含める3人しか会えなかった。そこで聞いた話は翌日昼に長時間の新聞取材があること。夜は、代官山でのライブ、そして翌々日札幌の予定。ところが翌日に肺炎を起こし札幌には行けなかったことから、真っ先に!と今回は札幌からのスタートとなった。 札幌は2年前予約していた人達から優先的に案内されたと帯広の穐吉ファン・井上洋一さんから電話があり彼は札幌で聴き、盛岡にも来るという。穐吉さんは「昨年88歳の誕生日、12月12日に目の手術をして、ヤギュー何とかさん(柳生十兵衛)のように片目ですが、日本に帰る頃には完全になってると思います」とのFAXが届いていたけれど、まだ完全ではないらしく、「鍵盤の位置がずれて見えたり、ホテルでは床と同じ色の大理石段差に気付かず、転んでしまい足が痛い」と6日昼に彼女からの電話だった。それでも「今夜の演奏のためにこれからヤマハに行ってピアノを借り練習して来ます!」と元気な声。鍵盤と同じ数の88歳、生涯現役を貫く姿勢は感動ものです。
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johnny -
2022-11-19幸遊記NO.376 「新沼茂幸のしょうゆ天使」2018.4.2.盛岡タイムス
「おそれるな、がんばるんだ、勇気の花がひらくとき、僕が空をとんでいくから、きっときみをたすけるから」と、あの7年前の東日本大震災の被災地に勇気を与えたアンパンマンは、2013年10月13日94才で亡くなられた漫画家・やなせたかしさんの作。そのやなせさんが、陸前高田で被災した「ヤマニ醤油」のために描いた「しょうゆ天使」ラベルは、ヤマニマークのティアラを付けた天使が、お日様耀く海の上を、しょうゆさしを持って配達する、何とも可愛らしい姿。
被災前、このヤマニは御用聞きと称された商法(醸造元が直接お得意様のご家庭を回って販売し、意見を聞き歩く)をやっていた会社であったから、一般的な自社の味を押し売りするのではなく、時代と共に変化するお客様のニーズにあわせ、顧客の味覚を一番としてきた蔵元だった。そうすることで客が客を呼ぶ、いわゆるお客様こそ会社の研究員であり工場長であり、営業部長であると四代目社長の新沼茂幸さんは言う。 被災後、花巻市の佐々長醸造の蔵を借りての製造だが、基本となっているヤマニの味は完全復活して、現在は僕の店の近くにあるクロステラスなどでも販売しているので、そこから買い使いしているのだが、震災以前は陸前高田まで仕入れに通った。最近社長と久し振りに会い話をしたら、どれでも何本でも届けますと上級とほんつゆを持って来てくれた。僕は再び「ご用聞き」を利用することになってストレス解消!。 たまに「ジョニーのたべものはおいしい!」そう言ってくれる声の元は、味にうるさい女房と、基本となっている醤油。僕はその醤油に市販のこうじを入れておき更にまろやかな味にして使う。味噌も新旧あわせておけば、より早くおいしくなるのでそうして使い、酒類にはスピーカー振動と超音波熟成機器での再熟成。全ては自分と自分に関わる人の体のため。現女房の小春は知り合った頃ヨナヒナで病気のオンパレードだったが、日に三食僕の作る手料理で完璧?な健康体となり元気に孫の子守。彼女の昔を知る同級生は「本当に死んだだろうと思っていた」「生きてるはずがない人」だったらしいから、元気百倍の姿に皆ビックリ。その女房の味へのうるささを減らす努力をする僕。それはお得意様からの味への意見、要望を取り入れるヤマニ方式と一緒だっと、しょうゆうことに気がついた!。
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johnny -
2022-11-18幸遊記NO.375 「福田隆の青柿坊・伊藤酒店」2018.3.26.盛岡タイムス
盛岡駅から開運橋を渡り開運橋通り2つ目の信号交差点を渡った左角に古い公衆電話のあった酒とたばこの「伊藤酒店」が道路拡張工事の為解体され、この春姿を消した。経営していたのは伊藤泰二さん(84)美佐子さん(84)ご夫妻。道路拡張が発表されたのは僕が盛岡に来た2001年の春。当時僕はヘビースモーカーでロングピースを日に3箱(60本)起きてから寝るまで、ひっきりなしに吸っていたことからよく店に買いに走った。ところがある日たばこを吸うと体がビクッ!ビクビクッ!とあちこちケイレンするようになり、これはやばい!と誕生日だった2003年4月20日、30年間吸ったたばこをやめた。
話が外れた。伊藤酒店のご主人にいつだったか店の2階に案内され、通されたところは美術家の故・福田隆さん(1917~1991)が亡くなられるまでの10年間使っていたという創作室「青柿坊」だった。福田隆さんは「おひげさん」と呼ばれ、彼の一生は「人を愛し、酒を愛し、日々是好日の境地」だった様子だが、太平洋戦争、シベリア抑留、戦後は美術工芸教師、染め絵作家、さらには俳人、エッセイストとして市井に在り続けた人であったらしい。その部屋で「染め作品が出来る度に1枚必ずくれたので、それを全部額装している」と見せてくれた。それはまさに、師・汲泉氏の泉を汲んで飲んだがごとき同系作品の数々。そして「青柿坊」を訪ねて来たという人達との写真に登場する長岡輝子、深沢紅子、栗原小巻、杉村春子、樫山文枝、斉藤美和、秋山ちえ子、船越保武、藤井勉氏等々の顔々。 伊藤酒店の奥様・美佐子さんは宮古の出身の方、それこそ福田隆さんの師・中井汲泉氏(1892~1970)の京都の家にも行ったのよ!そしてこれ船越保武さんに描いてもらったのよという美佐子さんの横顔色紙を見せて貰ったら、“なんという美しさ”であった。更にもう1点と深沢紅子さんの花の絵(昭和49年5月18、額装した人・福田隆)の裏書まで拝見。 そうだ3月25日は美佐子さんの誕生日。福田隆さんが作った昨日までのような「どごがで泣いでる吹雪いでる、足コ冷(つめ)でど鴉(からす)の子、橋のたもどのおら家さ来(こ)」。や今日のような「お山の雪コとげ出すて氷(すが)コいっぺ流れでる、土手はばっけァやめめんこ」の北上川昼曲の詩がふと頭に浮かび、以前「しゃぼんだま随想・福田隆」「夢十夜・中井汲泉」この2冊を僕にくれた2人の女性の顔も浮かんで来た。ああ!春だ!幸福だなあ!
10:47:00 -
johnny -
2022-11-17幸遊記NO.374 「日本のロック&ポップスアルバム名鑑」2018.3.19.盛岡タイムス
先日本屋でふと目に止まった「日本ロック&ポップスアルバム名鑑」1966~1978.そして1979~1987の2冊(2014株・ミュージックマガジン)。僕がレコード作りを始めたのは1978年からだから、もしかしてと79~89版を手に取りパラパラとめくってみると、ありました!「ジョニーズ・アンダーグラウンド~ベスト・オブ・ジョニーズ・デイスク」の紹介。
「岩手県陸前高田のジャズ喫茶ジョニーが78年に発足させた独立自主レーベル・ジョニーズ・ディスクがリリースしてきた各種音盤の中から、主にジャズ系ともいえるものと、それ以外の雑多な作品をそれぞれ1枚づつコンパイルしたCD2枚組。78~02年までの音源だが、79~86年の作品がかなりの部分を占める。ムード歌謡・ジャズ・ラップ・演歌・シャンソン・テクノ・ブルース・ジョニーのマスター照井顕の歌、など特異で頑固な音楽する自由を伝えるパワーが放出されている」(湯浅学)。 その中、僕の歌だけはジャンル分けせず?出来ずに?“照井顕の歌”としていることが気に入って買い求め、全ページに目を通すと、もう1枚のジョニーズ・ディスク盤がありました。そのタイトルは「職業・三上寛・古澤良治郎」JD-16・1987年発売盤。「1979年6月に岩手県陸前高田市民会館で録られ、三上がアルバムを出していない時期に出たライブ盤。既発表曲ばかりとはいえ古澤良治郎とのコラボレーション初作。ジャズドラムと和太鼓が混じった(太鼓の音のようにも聴こえるが実はドラムの音)グルーブが曲に新たなビートを吹き込み、朴訥とした佇まいながら雄弁なパフォーマンス、モノラル録音ながら音質まずまず」(行川和彦)とある。 先のベスト盤はイリシューした監修者・若杉実さん(ミュージックライター)が僕がデザインした顔半分のレーベルマークを反転させプラスした普通の顔?ジャケットで変に目立つ盤!。三上、故・古澤の「職業」はイラストレーターの黒田征太郎氏が、描いてくれた音符を銜(くわ)えた1本足の鳥の絵。その足は何故か人間の足という不思議なジャケットでモノラル録音と相まって話題となった三上さんの傑作レコード!(良好な中古盤で今15万円もするそうです)。するとそこに本田珠也さん(故・本田竹広の息子・ジャズドラマー)から「昨日三上寛さんとデュオだった。照井さんの話もしたよ」のメール(2018年3月15日)が届きビックリ!
10:46:00 -
johnny -
2022-11-16幸遊記NO.373 「河内大祐の最先端と行進曲」2018.3.13.盛岡タイムス
マスターに見せたくて持って来ました。そう言いながら広げて見せた一本のコウモリ傘は、なんと曲がり柄から先端まで木製。聞けば栗の木(色も栗色)で出来ていて、キングスマンという、それこそセビルロースーツ(背広)の語源となったテイラーが考案し、スウェイン・アドニー、ブリック社が制作したものなのだという。金メッキの施されたリングプレートには「○KのマークとBRIGG・RONDON」(王室が認めたメーカー)の文字。傘の先端には真鋳のキャップ。まさに杖にもなるステッキな傘(4万円もした!)。
持ち主は河内大祐くん(27才)ジャズファン。山形の出身である彼は、中学2年の時長井で撮影された映画スイングガールズに感動。長井工業高校時代には夏休みにジャズを流している「龍上海」という子どもの頃から知っているラーメン店でバイトしジャズにドップリ!。卒後マイクロフォンの会社に就職して4年勤めたのち、2013年現在の自衛隊員(あこがれの職業軍人)になった彼の体は、男もほれぼれするほどの筋肉質。 笑える戦争!いわゆる戦争コメデイが大好き、マッチョ系、メンタリー系も好きとあって、生活隊舎前にあるジムにて、個人的に筋力トレーニングを限界まで7、8回繰り返すことを毎日3セットやり続けているのだという。隊では第1から第5(だんだん低くなる)ほふく前身や10kgの水とダンベルを背負って20~30kmも歩く訓練など、彼にとっては当たりの職業で、なおかつ「めし泊付」のいい職業なのですよ!と笑う。 休日には映画を見、ジャズを聴く。開運橋のジョニーにてもレコードを聴きながらデータのメモを取り、顔を上げ「聴く音楽はどんどん古い方に向いています」と笑うが、今、彼は岩手駐屯地から選ばれ昨年10月から千葉県下志津駐屯地にてレーダーについての基礎勉強からその機器の取り扱い、レーダー情報を取りまとめて指揮することなどを学び、仕事では最先端に向っている様子。 東京が近いので、休日に山形から父母を呼んで、実家の孫とディズニーランドへ行ったり、又、横須賀にある記念艦三笠(大日本帝国海軍時代の戦艦)で海軍カレーを食べる時、自衛官の身分証を見せれば、好きなトッピングをサービスしてくれるんですよ!と実に嬉しそうに笑う彼!昔、海上では曜日がわからなくなるのでそれを避ける為、金曜日にカレーが出たという(確かにカレーは金色だね)。
10:44:00 -
johnny -
2022-11-15幸遊記NO.372 「阿木耀子の艶もたけなわ」2018.3.5.盛岡タイムス
昨2017年12月25日、東京千代田区にある紀尾井ホールにて行われた「Pray For Peace Concert愛を集めて広げて行こう、この地球(ほし)に生きるすべての子どもたちのために」と日本国際社会事業団の(ISSJ)子ども支援事業として世界で活躍するミュージシャンが集結してのチャリティーコンサート。そこへ我等が穐吉敏子さんも夫のルー・タバキンさんと一緒にステージに上るというので僕も女房と聴きに行った。企画したのは「コンコルデイア」の藤橋由紀子氏。その会場ロビーに大きな花が飾られていたので贈り主の名を見ておもわずガラケイのカメラで写真に収めた。会場に入ってすぐのあたりに座っていたのがなんとその贈り人・阿木耀子さんと彼女のご主人宇崎竜童さん。ドキッ!。
「ジョニーさん!これあげます!」と紫波の菅原恭子さんから頂いた「サンデー毎日」2月18日号。穐吉さんが載っているというので開いて見れば何と「阿木耀子の艶もたけなわ」第190回「穐吉敏子ジャズピアニスト・帰還した小野田少尉が軍刀を返すシーンを見て“孤軍”を思いついたんです」の副題。その記事中「国境を超えた子どもたちの支援団体からお声を掛けていただくでも嬉しいことです。お役に立てて良かったなと思っています」と秋吉さん。阿木さんが昨年末に出版された岩崎哲也さんが聞き手のインタビュー本「エンドレス・ジャーニー」でピアニストとしてのサクセスより人間として成長を最終目標としていると答えていることについて問えば「人間関係が一番大事。基本的には愛。具体的に言うと誰かに何かをしてもらったら、そのことを忘れずに感謝をするというような」は、まさに穐吉さん。 このことについて1980年に僕が穐吉さんの初コンサートを開いて以来、一年も欠かさずクリスマスにアメリカからケーキが届くのだが、僕と一緒にNYへ穐吉さんのコンサートを聴きに行った人達へも、そのつど贈り届けて感謝の意を表しているのだからさすがです。届けられた方々は、もう天にも昇る想いにかられ、そのことを僕に報告してくれるのだから僕も二度、天空へ。すると又ニュース!「今日の朝日読んだ?」と牛崎隆さんから電話!「政治へジャズ語で訴え続ける秋吉敏子4月来日ツアー」という3月3日付記事。岩手、石川、大分、東京、三重など回る予定とありました!
10:43:00 -
johnny -
2022-11-14幸遊記NO.371 「小林ゆうこのゴールドボイス」2018.2.26.盛岡タイムス
あれは2009年9月1日、目黒駅前のジャズクラブ「BLUSE・ALLEY・JAPAN」加藤アオイ・真由親子のCD「葵繭(あおいまゆ)」(ジョニーズ・デイスク)の発売記念ライブの夜、岩手出身で東京で活躍中のジャズギタリスト・小林道夫さんと連れ立って来た女性シンガー・野崎ゆうこさんから一枚のCD「ミスターワンダフル」を頂いた。盛岡に帰ってからそのCDを聴いたら、ジャケットの素人臭い作りとはうらはらに、その歌の本格的さに驚いた僕。その後地下時代の「開運橋のジョニー」のセッションに来てくれてそののどや腕を披露した二人は間もなく結婚。
小林となったゆうこさんは2010年の「浅草ジャズコンテスト」翌2011年の「神戸ジャズボーカルクィーンコンテスト」でグランプリに輝き、「上野JAZZ・INN」「神戸新開地ジャズ音楽祭」他、副賞でのアメリカ「シアトルジャズアレイ」出演などを果たした。 共に東北出身だった二人は、震災後の2012年4月27日に、夫・道夫さんの実家がある岩手県滝沢市に移住。その直前十日前の4月17日、それまで在住した東京国立市のホールで彼女は小林名でのファーストとなるセカンドアルバム「Two fo The Road」を録音。岩手で道夫さんが立ち上げた「グリーン・レーベル」から発売。2013年からは自分達の演奏活動の傍ら「小林ゆうこ音楽教室」を開き、夫と二人でヴォーカル、ギター、作曲、音楽理論を教えている。 小林ゆううこさん(47)は福島会津若松出身、母のお腹の中にいる時から父にジャズを聴かされ子どもの頃には母方のおばさんからピアノを習い、郡山女子短大音楽科声楽専攻を卒業。カワイのピアノ講師を数年やり上京。一年半後に帰省した時、高校時代からジャズが好きだった父は、本当にやりたい人ならアメリカに行って来たらと後押ししてくれて一年間ナッシュビルとシカゴへ語学留学、帰国後、英語の発するリズム、メロデイに合わせた話すときのようなアクセントを大切に歌うよう心がけてセッションに通い、気の会う人とライブをやり始めた頃、紹介され親しくなったのが道夫さんだった!と彼女。 さて、いよいよ、その小林ゆうこwith金谷こうすけ(p)小林道夫(g)中嶋明彦(b)による「開運橋のジョニー」での初ライブは2018年3月2日(金)19:00スタートである。
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johnny -
2022-11-13幸遊記NO.370 「日本ジャズボーカル賞表彰式」2018.2.19.盛岡タイムス
2018年1月14日、新宿「SOMDAY」にて行われた第33回日本ジャズボーカル賞・表彰式及びジャズワールド新春JAZZパーティ!。15時の開演から22時の終演まで7時間身動きがとれぬ程入れ替われ立ち代わり超満員。旧知の歌手たちとハグハグ。
司会役の高山恵子さんがインフルエンザで欠席の為急遽、歌手正木まどか、大地耀子さんの交互司会でボーカルセッション。演奏は2組のピアノトリオプラスゲストミュージシャン。終宴まで新人やベテランボーカリストが何十人も出演しノドを披露。その間の表彰式で選考委員を代表して瀬川昌久氏が乾杯の音頭をとって「おめでとう!」新人賞・金本麻里、特別奨励賞・瀬戸カオリ、大賞・丸山繁雄の3者。表彰状を読み上げる瀬川氏。 「表彰状、平成29年度第33回日本ジャズボーカル賞・新人賞・金本麻里殿。貴女は現在障害者施設で生活支援員として働き、その心優しい博愛心は地域の方々から尊敬されています。またジャズボーカリストとして精神に励み明るい正統的な歌唱と深遠な曲の理解、そしてボーカル仲間との深い友情はジャズ界から高く評価されております。ここにそれらを賞賛し、新人賞を贈り表彰いたします。」と賞状と金一封! 「瀬戸カオリ殿。貴女は音大でピアノを学び、未来劇場で女優として活躍、さらにジャズボーカルに転じて研鑚に努め、国内はもとよりニューヨーク、スイス、ドイツ、フランス他国際的ジャズフェスにも多数出演豊かな感情表現、伸びやかな美声、エンターティメント性溢れる華やかなステージで魅了し多くのファンに愛されております、、、、。」 「丸山繁雄殿。貴方は早稲田大学ジャズ研時代からボーカルインプロビセーションを志向し独創的、革新的にジャズの本質を探究し、その驚異的な唱法はジョンヘンドリックスをして彼こそ本物と言わしめ絶賛されました。又、作編曲にも優れ多数のアルバム著作を発表、ジャズ史をひもとき、学術的にもジャズの根源を追求。さらにジャズ界史上初の芸術博士号を贈られるなどその栄誉は他の模範となっております。」であった。 それにしても2足のわらじ、地方在住での新人賞受賞!毎日新聞は夕刊(1月26日付)で「2つの天職」として報じた。開運橋ジョニー発、大応援団の参加。麻里のアカペラ「希望(ホープ)穐吉敏子作曲・谷川俊太郎作詞」では酒宴の会場が静まりかえった程、圧巻の歌唱!嬉し涙が溢れた!
10:33:00 -
johnny -
2022-11-12幸遊記NO.369 「松川寛幸・麻由の吉浜食堂」2018.2.12.盛岡タイムス
盛岡駅から開運橋を渡った正面にある大きなTVのあるビル。その右隣り1階にPRIDEの洋装店(4階に僕の店)。その開運橋通りの3軒先、沢内甚句さんの2軒手前、KATEKYO学院の入っているビルの1階に昨2017年7月26日にオープンした「吉浜(キッピン)食堂」が、じわりじわりと客足を延ばしていて嬉しい。
経営しているのは松川寛幸さん(39)麻由さん(34)ご夫妻。「夜の街じゃない、駅の近くで観光客にも、三陸の新鮮な海の幸を食べさせたい!と開店。貝出汁スープと自家製麺のコラボによる海藻ラーメンは、見た目も味もまったく別もので漁師ならではの自然な素材の味が生かされている一品。絶賛の海鮮丼、アワビやめかぶのしゃぶしゃぶにはじまり、さしみは勿論、貝や魚の自家燻製、海藻類、生ウニ塩ウニ、ウニのバター焼き、いかの丸干炙り、はたまた紫波豚のステーキやトンカツに至るまでのメニューは日本酒、焼酎、ウイスキー、ワイン、ノンアルコール、それぞれに合わせたつまみとしてもこと欠かない。 店主の寛幸さんは大船渡市三陸町吉浜の出身。北上市の黒沢尻工業高校時代はボクシングをやり、2年生の時インターハイで全国3位に!今では料理の腕前にも自信あり!の彼は、かつて東京世田谷の千歳(ちとせ)というところで、軽トラックを改造したキッチンカーで警察の許可をもらい、海鮮屋台をやった。車は、吉浜で食堂を開いていた彼の母が、土日イベントで使用していたもので、何故、千歳だったかは、大船渡にも同じ字の千歳(せんざい)というところがあったから!アーッハッハと笑い転げる。 2年後の28才から盛岡南イオンにオープンした彼の母が経営する吉濱ラーメンを12年手伝い、その間に彼(寛幸さん)が作ったアワビのおにぎりに食いつき、釣り上げられてしまったのが麻由さん。彼女は釧路の出身。洋服屋さんになりたいと、イオンに入っている会社に高卒で採用となり、本社、釧路、名古屋、青森、各地で売上げを伸ばす才能を買われ盛岡南イオン店長で来た時に、吸い付いたら絶対に離れないというアワビに出会ってしまったのです。その2人が創り出した古風で新しいセンスの居心地がいい空間。隅々まで心配りをしながら、笑顔で接待する!は、まさにキッピン!ベッピン!スッピン!
10:31:00 -
johnny -
2022-11-11幸遊記NO.368 「森三紗の賢治と父・森荘已池の絆」2018.2.6.盛岡タイムス
昨2017年4月23日、コールサック社から発売なった森三紗さんの本「宮澤賢治と森荘已池の絆」の刊行祝賀パーティーが、今年(2018)1月28日の午後1時半よりサンセール盛岡であり出席した。開宴少し前に会場へ着くと、受付で、もう始まってますのでどうぞだった。えっ!と思ったが、始まっていたのは「ラトゥールカルテット・山口あうい・馬場雅美(バイオリン)熊谷啓幸(ヴィオラ)三浦祥子(チェロ)による弦楽四重奏の耳洗う音だった。
その前夜、実は出版元のコールサック社の代表・鈴木比佐雄さんと盛岡出身で埼玉詩人会会長、村上昭夫研究「雁の声」を主宰している北畑光男さんが開運橋のジョニーへ現れてビックリ。話を聞けば、村上昭夫(啄木・賢治に続く動物哀歌で全国的に知られる詩人、1927~1968)の資料が収められている北上の詩歌文学館や盛岡の先人記念館へ行き、そして昭夫さんの末弟・成夫さんにお会いして来たばかりだと言うのだった。 又、1ヶ月前にはそれこそ同・コールサック社からの「宮澤賢治の心といそしみ」(2015年度第25回宮澤賢治賞受賞作)の著者・吉見正信さん(幸遊記№155)が来店し「森三紗さんの著書出版のお祝い会をやろうという者がいないから俺が声をあげ出版パーティーをやることにした」と言う。「さすがだなあ」と僕は心の中で一礼。 その「宮澤賢治と森荘已池の絆」の著者・森三紗さん(73)は父、荘已池(そういち)が生命の次に大切だと言っていた賢治からの書簡(21通)を目にし、教師として花巻に赴任。宮澤家に1年間寄寓した時、戦災から命がけで守ったという茶褐色になった原稿を賢治の弟、清六さんから見せてもらったことが、彼女にとっての賢治研究と平和の祈りの原点であるという。 今年お正月に僕は賢治の弟清六さんの孫・和樹さんから林風舎にて昭和28、29年頃に賢治の父・政次郎、母・イチさんら家族4人が「悪いごとしたごども良いごどしたごども書いて残して頂いたことはほんとにいいことだ」とか「あのわらすは、なかなかするどい」などと言っている生録の音声を聞かせて貰った縁の不思議。森三紗さんは1943年盛岡生まれ。2016年新装再刊なった「ふれあいの人々、宮澤賢治―(森荘已池ノート)」(盛岡出版コミュニティー)の解説者。詩人でもあり「カシオペアの雫」など数冊を出版している。
10:30:00 -
johnny -
2022-11-10幸遊記NO.367 「年賀状という名の念願状」2018.1.29.盛岡タイムス
今年(2018)の年賀状は1月8日以降に差し出す場合、10円分の切手を貼り足していただく必要があります!と日本郵政株式会社の全戸配布年賀状。お蔭様で7日夜9時までかかって宛名を書き、女房に郵便局へ持って行かせた。まにあうの?あと何枚?はらはらしながらずーっと僕の作業を見ていたお客さん達が、マスター!一杯どうぞ!おめでとう!僕に飲ませたいのをガマンして待っていた!というのだった。
僕の今年の年賀状は「戌信伝心(いしんでんしん)」2018.の書。表にはTOSHIKO・AKIYOSHI!NEWS!NEWS!NEWS!4月17日(火)19時盛岡市民文化ホール・穐吉敏子米寿記念コンサート・88才88鍵・ジャズピアノソロ・の告知。折り返し予約のメールや電話が入り、正月早々嬉しさでいっぱいになりながら浮かんで来たことば「年賀状=念願状」だった。 そう思いながら今年届いた賀状を読み返すと「素晴らしい一年でありますように」。「明るく平和な年でありますように」。「いいこといっぱいぬくもりにあふれる一年でありますように」。「ご健勝とご多幸を心よりお祈りいたします」。「よりよい年になりますように」。「ワンダフルな年になりますように!!」。「にっこりほっこり笑顔の花が咲きますように」と、送り届け先の人々の一年の幸せを想うことばの数々は真に念願!。 又「金が信念・とは申しませんが」と金の氏。「かわりばんこ雪の甘露をくみかわし水仙たちは初春いはう」と歌人。「83才とぼとぼと歩いています!」と講演行脚の和尚さん。「バンドマン五人客五人ジャズ暑し」と俳人女性。「一念をこの一年に!」と画家。「人前で演ることなく山中にてオオカミの遠吠えの毎く叫ぶのみ!」と独然尺八奏者。「禁じ手の出力4倍真空管シングルアンプを試作中」とジャズキチ農園主。「悠久」と文筆家。「食われても良し、潰されても良し、干されても良し!」とワインソムリエ。「勝手なことばかりしゃべっているオバサンたちに今年もガマンしてつきあって下さい」と読語家。「地域活性化でナンバーワン!米の消費拡大でおかわりもう1ワン!」と広徳家。ワンコの里の森林資源活用観光を!とイヌセンボンタケ茸写真の森林インストラクター。「穐吉敏子さん米寿ソロ凄いですね。豪雪に負けぬよう僕も頑張らねば!」と北の寺から。
10:28:00 -
johnny -
2022-11-09幸遊記NO.366 「トシコ=マリアーノ・イン・ウエスト・サイド」2018.1.22.盛岡タイムス
茨城県水戸市から、ご夫妻で「開運橋のジョニー」へやってきた小山田貢さんに「マスターもどうぞ」と赤ワインをおごっていただきながら、僕の姉も茨城県常総市に住んでいるんですに始まり、問われるまましゃべりだし、レコードの話になり、彼も持っているという和ジャズ・ディスク・ガイドの本「Japanese Jazz 1950S~1980S(リットーミュージック刊・2009)に至った。
その本の裏表紙と巻頭グラビア1頁目に載っている、「海を見ていたジョニー」(坂元輝トリオ・ライブ・アット・ジョニー)と「トシコ=マリアーノ・カルテット・イン・ウエスト・サイド」は、帯付き美品なら中古市場価格10万円の高値で取引されているといううわさが随分前からあったから、上京の度中古レコード店で探してたら、一昨年遂に見つかったのが「トシコ=マリアーノ」(ニッポンレコード・1963年発売)のウエストサイド盤、飛び上がらんばかりに喜んだら、帯なしでも9万8千円!4階の自分の店から飛び降り覚悟で月賦で買ったものでした。 このレコードは2度目の帰国公演だった「トシコ=マリアーノ・カルテット」の日本でのデビュー盤。僕が中学校を卒業した時の1963年3月30日、東京杉並のテイチク・レコードのスタジオで録音され、当時大阪にあった、ニッポンレコードから発売された(NS・1001)幻盤!しかもサイン付!ウッヒョー!であった。のち、タクト・レコードから再発された盤がオリジナル盤だと思っている人が多くいるのは、それすら入手困難だからなのだが、本物のオリジナル盤には、なんと秋吉敏子さん自ら「アルバムを作るにあたって」とライナーノーツを書いていた。それによれば「アメリカの人気プレイヤーたちのまねしたプレイでなくても独自のカラーが如何に新鮮なものであるかということ、そして音楽は自然で美しく、楽しいものであるということを考えつつ選曲しました」である。 その独自カラーの演奏で思い浮かべるのは1980年録音の「海を見ていたジョニー」(和ジャズの名盤中の名盤といわれる)が何と昨年2017年遂にLPレコードで東京・HMVから再発になり、初版プレスはあっという間に売り切れたもよう。この話に小山田さんはCD「海を見ていたジョニー」と「秋吉敏子トリオイン陸前高田1980」を買い上げお釣りはご教授代にと言った。
10:27:00 -
johnny -
2022-11-08幸遊記NO.365 「森隆朗のデイリー・サン・ニューヨーク」2018.1.15.盛岡タイムス
ニューヨーク、ニュージャージー、コネチカットなどの日系のスーパーマーケット、レストラン、書店、病院、日本人学校、旅行会社など数百箇所にて配布される日刊の無料新聞(日本人企業の広告でまかなわれている)「デイリー・サン・ニューヨーク」(2万部発行)のアートディレクターを務める森隆朗さん(43)がヒョッコリ開運橋のジョニーへ現れ、僕を喜ばせた。
彼と出会ったのは2003年。盛岡の四十四田ダム近くに1年だけ存在した「カレー&喫茶・ギャラリー・1244」。あの頃彼は市内の広告会社でクリエイティブ・デザインを担当していた時期。「1244」で2004年1月12日の成人の日から、2月11日の建国記念日まで「森隆朗(たかあき)デザイン展「PRAM・WITH・EARTH」開催が決定していた。 その開催直前に、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんが30年間持っていた「ジャズオーケストラ」を解散(解体)することになって、その最後の演奏が12月29日にNYのジャズクラブ「バードランド」で行われるのを聴きに行こう!と「ジョニーと行く秋吉敏子への旅・2003」を企画していた時で、彼、森君も行くことになった。しかも、彼があこがれているデザイナーがNYに居るというのだった。その人の名は橋本純さん(僕の友人で気仙沼市出身・幸遊記№268)でしたから、じゃあ紹介するからとNYで就職活動することに!。 だが橋本さんは日本の実家に年末帰省中。で、森君は彼の奥様に会い、紹介先で面接し決まったのが現在の「デイリー・ワールド・プレス社」だった。間もなく本格的に渡米!となって「1244」でのデザイン展は幻となったが、今ではニューヨークの新聞紙上にて毎日が彼のデザイン展であるとも言える。 2008年に帰省した時のNYみやげは、彼がアート・ディレクターとして制作に携わった「ニューヨーク便利帳Vol・14(2005)」だった。これは食生活や鑑賞、ナイトライフから人材募集まで、ニューヨークのすべてがわかる686ページもの分厚い大版本。不来方高校、秋田県立美術工芸短大を卒業して、デザインの仕事につき、将来はアメリカで6年は仕事がしたい!だったのが、すでに14年。久し振りの対面となったが、いまだ、出会った時のままのような青年の顔をしていることに驚いた僕、顔も自分でデザイン!?
10:25:00 -
johnny -
2022-11-07幸遊記NO.364 「大晦日の夕日、元旦の朝日」2018.1.8.盛岡タイムス
年越しの31日、元旦と店を休んだ。31日は女房が一関のベイシーに行きたいというので、車を走らせる。車は、義娘からのクリスマスプレゼントの、お下がりマーチ。初のナビ付き!小さくて運転しやすいかわいい車だ!。昨年11月11日、12年一緒に居た、室内犬チワワのゴウくんが亡くなった。そのことで話し相手が居なくなり、ストレスだらけなの!と、常連客に話ながら僕の顔を見る女房に、ケンという名の僕はうん!ともすん!ともいわずにワン!と笑う。
一関に向う東北自動車道途中・金ヶ崎付近を通過中、奥羽山脈の雲の中に沈み行く黄金色に輝く太陽と、その美しい夕焼けを見た。5時頃ベイシーはすでに本日終了の貼り紙 だったが、ドアを開けて店に入れば、常連の客。僕等が座ると次々と客がやってくる。菅原マスターは「さっぱり閑で、誰も来ないから閉めたのよ!そしたら来るんだもんな」と笑いの話とクラシックで一年の〆。 「昔は、味噌屋・菅東の蔵だった(現・ベイシー)で一関一高時代夏休みのアルバイトで攪拌や煮豆運びをした。学校では上野音楽学校(現・東京芸大)卒の古藤先生(疎開で 一関に来た人だった)が、解説してくれた“オールマン・リバー”の歌は忘れられない」といつぞや言っていた盛岡の小野寺靖さん(80)のことが、ふと頭に浮かんだ。「当時正二(昭二)さんは小学生でしたね」とも。 その正二さんが鳴らすサウンドを僕は密かに「エア・ソニック」と名付けている。体を揺らす程の大きな響と音圧、なのに心地良い!つまり店自体が巨大な一個のスピーカー・ボックスであると思えば簡単だ。その箱の中の音圧を適度に逃がすのがバスレフ方式の穴。それをヒント?に一階天井(二階床)の一部をはずして、音圧を上へ逃がす。つまり音楽を鳴らすスピーカーと聴くスペース(部屋)を、巨大なスピーカーボックスの中で完結させてしまっているのだから、実音よりデカイのに気持ち良く体を包みこむ音となり、皆その魔法にかかってしまうのだ。「ベイシーへ行くとあの蔵の中に入っただけで、すっぽりと母親に抱かれたように癒されるから、昔っからストレスがたまるとベイシーに行ってたのよ」そう言う女房のひとことは、まさにそれを証明して余りある。元旦の朝に開運橋の上で初日を観た今年の僕。開運橋のジョニーの音?もちろん快音!バシッ(橋)!。
10:23:00 -
johnny -
2022-11-06幸遊記NO.363 「ケイコ・ボルジェソン」2017.12.25.盛岡タイムス
ケイコ・ボルジェソン。数年振りに彼女のピアノソロライブを「開運橋のジョニー」と「くるみの家」で聴いた。期待にたがわぬ、しびれる程に素晴らしい演奏とボーカル。彼女はスエーデン在住のジャズピアニスト、兼・ボーカリストである。彼女のご主人、ホーカンさんはジャズ・バイオリニスト。毎年、年明けに、東京で開かれる、ケイコボルジェソン・ニューイヤーコンサートも2018年1月14日、サントリーホールで開催されるが、14回目である。コンサート会場へ行けば彼女のコンサートを後援する、スエーデンを始め北欧を中心とする国々の駐日大使たちが夫人を伴って会場に現われる程、彼女の日常における様々な国での活動は、いかに貢献度が大きく大切なことなのかをかいま見せる彼女は、本当の国際人である。
日本で、彼女の名を知り、その演奏の凄さを知る人の数は少ないようだが、僕の中ではジャズの歴史を塗り替え前人未踏の境地をゆくアメリカ在住のピアニスト・穐吉敏子さんに次ぐ日本が誇る、真のカリスマ的ジャズピアニスト、であり、ボーカリストである!と信じてうたがわない。音は格調と気品に満ち溢れ、優雅にして豪快、パワフルな奔放性と彼女にしか表せない極上ともいえるリズム感を兼ね備えた体から発せられるボーカルの感情創出。その得も言われぬ心地良さは最高!。 ケイコさんは1947年東京生まれ。東洋英和女学院、桐朋学園大学ピアノ科を卒業。1973年に室内楽を学びにイタリアへ留学。76年にはアメリカに渡りハリーフィールド・ミュージック・スクールでポピュラー、ジャズボーカルを専攻し、全ての学びと体験から現在のフィーリングを見につけ、それを磨き続けてきたのだ。彼女の親戚に当たる、日本最高のクラシックピアニストと言われた安川加寿子氏に師事し、昔よく叱られたことが、一番の身になった様子。 2007年僕がプリデュースして紫波の野村胡堂・あらえびす記念館で録音した「A・LA・EBISU」はジャズオーディオ・ディスク大賞で世界の8位入賞。また、あらえびす合唱団を組織してあの「百万本のバラ」を原語でうたうコンサートなどをやってくれたことや、ラトビア大使を連れて来てくれた日のことを思い出す。
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johnny -
2022-11-05幸遊記NO.362 「丸山繁雄のジャズの著書と歌」2017.12.18.盛岡タイムス
盛岡のジャズ好き弁護士として自他共に認める吉田瑞彦氏が主催するプロジャズライブ「丸山繁雄酔狂座」2017年12月3日すぺいん倶楽部に、女房と二人聴きに行って来た。店は満席数十名の入り。僕等は指定されたステージ直前の席。あまりに良い席なので借りてきた猫のように静かに座っていると、ジャズライブ・ファンの鈴木女史が僕の肩を揉んだ。
この夜のライブが決定した時点では決まっていた訳ではなかったそうだが、ジャズボーカリストの丸山繁雄さん(66)は、今年2017年度「日本ジャズ音楽協会会長賞」並びに「日本ジャズボーカル賞・大賞」に輝いたのだから、主催者や店、ファンにとっては、まるでボーナスの様な豪華で粋なジャズボーカル&エンターティナーズ・ナイト!と相成った。しかもゲストプレィヤーがこれ又、日本を代表するサキソフォン奏者の山口真文さん(71)。そして長年丸山さんをサポートし続けてきたピアノの米田正義さん(67)と、宮上啓仁(ベース・35)小松伸之(ドラム・40)の布陣! ステージでの丸山さんの第一声が「今日は照井さん(僕)が目の前にいるので緊張しています!」だったが、そのボーカルの素晴らしさに男ながら僕はうっとりとした。想い起こせば、彼がレコードデビューした当時、陸前高田にあった僕の店でライブを開いたのは1982年3月,宮坂高史(ds)遠藤律子(p)是安則克(b)松井洋(g)。又、山口真文さんに至っては1975年僕達が立ち上げた「プレイ音楽実行委員会」による「ヴァージン・ジャズ」と題した初ライブ「山口真文カルテット」で1976年5月陸前高田市民会館ホールにて、素晴らしく感動的なコンサートを開いてくれた彼なのだから、僕の心の中では、いやおうなしに期待がふくらんでいった。すると間もなく、ステージへ今年ジャズワールド紙の第33回・日本ジャズボーカル賞・新人賞に選ばれた盛岡在住の金本麻里さんを呼んでくれて、ソロで唄わせ、デュエットも!で感謝!感激!。 それはそうと、丸山繁雄さんが10年の歳月をかけて書いた10年前の著書「ジャズマンとその時代」(弘文堂。アフリカン・アメリカンの苦難の歴史と音楽)は、ジャズの始原から現代に至る遠く遥かな道をわかりやすく、そして詳細に調べ尽くして書かれており、僕の知るどの歴史本より僕は感心しながら読ませて頂いた凄本!さすがジャズマン初の博士!
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johnny -
2022-11-04幸遊記NO.361 「浅井泰雄の音楽を奏でる人の絵」2017.12.12.盛岡タイムス
兵庫県宝塚市から時折やってくるジャズファン井上訓一さんからの紹介だった。「友人が絵を描いているから、いつかジョニーに飾れたらいいなあ」そう言って帰ってから間もなく「WAY・OUT・WEST」という関西ジャズガイドブック昨年の1月、2月号をその紹介してくれた浅井泰雄さんという京都にお住いの画家が、絵はがきや作品集と一緒に送り届けてくれたのだった。以来その「WAY・OUT・WEST」は1号の欠番もなく毎月、毎月レターパックで届けてくれていることに感謝感謝。そして彼が描く、様々な音楽家たちが、色んな楽器で演奏している姿からは一緒に音も聴こえるような音楽画のはがきに添えられる手紙を、毎月毎月心待ちにしている僕。ある時には、京都のCandyというライブハウスで録音された演奏CDとともに、その演奏時の風景を描いたジャケットまで付けてくれたりしたが、僕はまだ彼と一度もお会いしたことはない。でも、昔からの友人のような気がしてならないのだ。
彼、浅井泰雄さんは僕と同じ1947年、京都の生まれ。1980二科展の吉村勲氏の師事。99年から同・中原史雄氏に師事。1989年二科展で彼の娘さんがピアノを習っている姿を描いた「レッスン」で初入選。以降連続入選を果たしながら30年近くにわたって「音楽を奏でる人」をテーマに描き続けている。個展は1990年から関西を中心に22回。昨年の手紙によれば、4年間続いた恵美須神社の総代仕事から解放され、好きに絵を描けるはずとあったが、出し続けていた二科展への出品を休み、小品を描いて、12点も開運橋のジョニーへ飾ってくれたのです。 その絵はキャンソン紙ボードに油彩で描かれているもので、B4からB3の大きさ「打楽器奏者」「フリューゲルホーン奏者」「唄うケイコリー」「ソプラノサックス奏者」「ベーシスト」「エレキベーシスト」「街角でバスクラリネット奏者」「ジャズタイム」「サックス奏者」「ジャズピアニスト」。「えーッ!これ油絵なの!」と皆がいう。2017年度浅井泰雄作品展in CAFÉ JAZZ 開運橋のジョニーは12月10日から2018年1月10日まで。珈琲でも飲みながらどうぞ!観にいらして下さい!。
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johnny -
2022-11-03幸遊記NO.360 「松橋幸正の魅惑的なクラリネット」2017.12.4.盛岡タイムス
先週、釜石のタウンホールの事を書いたばかりのところへ、ひょっこりと、開店少し前の開運橋のジョニーへ現れた釜石の松橋幸正(ゆきまさ)さん(76)。ヤアヤアお久し振りと話がはずむ。かつては釜石のピアニスト故・坂野のぼるさんのユニオン・シックスにいた方で、アルトサックスとクラリネットを吹く彼。「今、吹くのが大変になってきたので、もっぱらバイオリンをやっている」というから、こちとらはビックリであった。
彼の本職は美容師でマツミ美容院の店主。27才での開業だったから、丁度50年。店は釜石中妻町なので震災はまぬがれたが、ちょうど髪を切っている最中の地震で大変だったと言う。昔ベニーグットマンのクラリネットの音が大好きで、中学からクラリネットを始め18才の時には市内にあった「太平洋キャバレー」でクラリネットを吹いた。 それが高じバンドマンになりたいと上京し美容院に勤めながらその機会をうかがっていた時、キャバレー「エンパイヤ」に勤める女性客にその話をしたら、五反田のキャバレーバンドに入れて貰える事になり、行ったら、クラではなくサックスを吹くことに。チェンジバンドで歌謡曲を吹き、ちあきなおみなどのバックをつとめた。 釜石へ戻って美容院を開店したのが1967年、昼パーマ、夜は坂野のぼるさんがいた「銀河」というキャバレーでクラリネットを吹き。のち坂野さんが独立して開いたスナック「ノクターン」でも演奏。1989年(平成元年)から始まった釜石オリジナル歌謡シリーズでの伴奏では、坂野のぼるさんのユニオン・シックスでアルトサックスにてレコーディングに参加した。その録音などは僕が担当しジョニーズ・ディスクで制作した五巻のカセットテープで15曲のオリジナル曲。ながしばまさよし作詞、坂野のぼる作曲のコンビによる、釜石の自然と歴史と文化の伝承というものでした。 松橋幸正さんが僕の店で、遠野市在住の故・菊池コージさんのドラムと盛岡在住の藤原建夫さんのピアノ、高橋勝親さんのベースと共に「魅惑のジャズクラリネット」というライブを開いてくれたことがあったなあと、彼が帰ってから思い出し、調べてみたら2005年5月27日(金)のことでした。
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2022-11-02幸遊記NO.359 「金野克人の釜石・タウンホール」2017.11.27.盛岡タイムス
今年(2017)の4月頃から、電話だったり、新聞の切抜きを持参しては、「これ誰が書いてるかご存知ですか」「書いている人の名前わかりますか?教えて下さい」という問い合わせが何件もあった。その新聞は「交差点」という何人かの持ち回りコラム欄。問われたエッセーのタイトルには「入試問題」「訳本」「渡辺貞夫」「映画館」「ブロッツマン」「ニューヨーク」「街の本屋さん」などなどだが、すべての著者名は(克)であった。
恒例となっている一関ベイシーへの大人の遠足、今年4月28日、マスターの菅原正二さんが「俺は朝日新聞に、ジョニーは盛岡タイムスに、タウンホールは岩手日報にとジャズ喫茶の連中が3人も新聞に書いてるんだから、ジャズ喫茶は盛り上がってんだなと思わせようよ!」と言って僕を笑わせた。そう!三人目の(克)さんが、1980年に開店した釜石・タウンホールのマスター金野克人(こんのかつひと)さん(63)なのだ。 11月23日釜石市のシーガリア・マリンホテルで行われた、釜石オリジナル歌謡同好会(長柴政義・会長)主催の震災復興事業感謝祭(チャリティ)に友人達と5人で行って来た。震災で消えた街、大槌にあった岩手最古のジャズ喫茶「クイーン」の跡地にあったコンクリートの土台もすでに消え、復興は徐々に進み、まるで知らない街のようであった。 釜石のタウンホールは二階にあった店だったために一階天井まで水没したが店は無事だったので6ヶ月後に再開。最初に鳴らしたレコードは、彼の最も好きな、ジョンコルトレーンのアルバム「トランジッション」。ジョンの命日7月17日に毎年彼のレコードを掛け続けていた彼らしい再スタート。(ふり向けば 海はそのまま 冬かもめ・菊地十音) 多少は年令を重ねたが、ハンサムで背が高く、スマートでダンディな彼は、岩手ジャズ喫茶の若手のホープと言われてのスタートだったが、今も店は彼の文章のように端正な開店当所の雰囲気のままに、年数を重ねたことを感じさせないくらいきちっと整理され、営業年数のあかや汚れも見当たらないほどキレイで、まさにジャズ喫茶の鏡のような店。日大法学部を卒業し、26才で彼を生んだ母が体調くずしたために、釜石に戻り彼も26才でジャズ喫茶・タウンホールを生み、育ててきた。
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johnny -
2022-11-01幸遊記NO.358 「藤井武のTBMレコード」2017.11.20.盛岡タイムス
今年(2017)4月、伝説のジャズレーベル・スリー・ブラインド・マイスの、コンプリート・ディスク・ガイド「TBM」小川隆夫著(駒草出版・証言で綴る日本のジャズ1、2の著者)が発売になった。1970年10月、峰厚介(ts)の「峰」。今田勝(p)の「ナウ」を同発し、日本のジャズ専門レーベルとしてスタートを切った「TBM」のオーナー・プロデューサー・藤井武さんが、140タイトルもの優れたジャズのアルバムを世に送り出してきたストーリー。
その藤井さんが制作するTBMレコードを基準に、僕は陸前高田市で「日本ジャズ専門店」を掲げながら全タイトルを買い聴いた。現在、日本ジャズ界の大物達のレコードを無名の時代にリリースして、しかもその一枚一枚がオリジナル中心。演奏の凄さと素晴らしさ、その細心の注意を払った日本最高の録音だったから、海外ではオーディオチェックにも使用され、レーベルの信頼性は世界的だった。 藤井武さんは1941(昭和16年)東京神田生まれ。小学6年か中1でジャズが好きになり、高校生時代に映画「ベニー・グットマン物語」「グレンミラー物語」にしびれ、3年生の夏には、自分が30才になる時点で、誰も日本のジャズのマイナーレーベルをやっていなかったなら、トライして国内ジャズを育てて行こうと決心!そして29才で創業。コマーシャルな物は一切出さない!プロデューサー・藤井武自身がその演奏に興奮するくらい感動しなければ絶対に録音には進まない!それがTBMの姿勢だった。 「経営上のバランスは10枚のうち3枚はレーベルの水準を保ちたいもの。5枚はやわらかいものからストロングなものまで、ジャズファンが聴きたいもの。残りの2割はオーケストラやボーカル。英語は日本語なまりでも意味が伝わればいい。言葉知らなくても歌唱力だけで心が揺れることがあるだろう!だからハンディ以上に解き伏せちゃう説得力がなきゃ、英語だろうが日本語だろうが同じよ!」藤井さんが長時間僕に語ってくれたのは1990年の夏。その年はTBM創立20周年でその記念パーティの発起人の一人に僕の名も入れてくれた。彼が29才から日本のジャズの興隆、発展を導き続けた33年間のTBMの実質的黒字は10年間だけ。資金繰りに苦労し結果は破産。TBMは彼の手を離れたが日本ジャズの財産である。作品は生き続け発売され続けている。
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