盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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レポート

2022-10-31

幸遊記NO.357 「水島早苗のジャズボーカル賞」2017.11.14.盛岡タイムス

 今年(2017)第33回目を迎えた「日本ジャズボーカル賞」は、日本のジャズ専門紙「ジャズワールド」(1979年創刊)と津村順天堂の共催により、本邦ジャズボーカルの先駆者・水島早苗さんの音楽へのひたむきな情熱とその精神を後世に伝えると共に、わが国のジャズボーカルの向上発展を願って、1985年に制定された「水島早苗ジャズボーカル賞」(第1回、第2回)が前身。その水島さんは順天堂の社長・津村昭(バンジョウ奏者)の「ストリービル・ダンディーズ」の名付け親でもあった。
水島早苗(本名・相良喜子・さがらよしこ)さんは1909年九州鹿児島市に生まれ1978年東京で亡くなられた方で、わが国ジャズボーカルの草分け!。1932年本名でプロデビュー、戦後は米軍キャンプ及びクラブを廻り1949年永田清嗣のリズムランブラーズの専属歌手。1957年水島早苗ボーカル研究所を設立。65年宝塚歌劇団のジャズ教室講師を兼任。1974年にはニューオリンズ名誉市民の称号を受け、門下生にはマーサ三宅、峰純子、水森亜土、戸川昌子、佐良直美、金子晴美、上條恒彦氏など多数。
 その彼女、水島早苗が歌手生活に於ける初リサイタルを開いたのは、ジャズを歌い出して27年後の1960年1月10日、産経国際ホール。第1部、デキシーランドジャズ。第2部、スイングジャズ。第3部、ジス・イズ・サナエ・ミズシマ。この3つのステージが示しているように「日本のジャズがどのような経路を歩んで来たのかと知っていただき、あすのより良きジャズへの皆様のご支援をお願いしたいと存じます」と当日のパンフレット。
そのリサイタル評(1960年2月号SJ誌)によれば「歌というものがこんなにも人に強い感動を与えるものだったのかと、思いを新たにさせ、感涙をそそる出来であった」。
そして1975年日本ジャズの名門レーベルTBM(スリー・ブラインド・マイス)の50枚目のレコードが66才にして初めてLPに吹き込んだ水島の「ユーヴ・ガット・アー・フレンド」だった。その発売記念コンサートでは「歌詞などまったく解からなくても言い知れぬ説得力に打ちのめされてしまう、たくましい力強さ」(行田よしお・1975・11月号SJ誌)であった。僕はその2年後に出たLP「サタディナイト&サンデーモーニング」(ビクター)も聴き、そのゴスペルとブルースが調和する彼女の“うた”に唯一無二を感じたものでした。
10:52:00 - johnny -

2022-10-30

幸遊記NO.356 「内田晃一のジャズワールド紙」2017.11.6.盛岡タイムス

 月刊紙「ジャズ・ワールド」の編集長・内田晃一さんは1927(昭和2)年1月15日生まれ。間もなく91才にならんとする人だが、まあ、とにかく若い。僕が内田さんと最初に出会ったのは1979年の夏、日比谷野外音楽堂で行われた「サマージャズ祭」会場。同年3月創刊なったばかりの「ジャズワールド紙」を聴衆に配り歩いてた時。
 以来それを読み続けていたのだが、僕が盛岡に来る以前の同紙は皆、陸前高田へ置いて来た事から津波で流出。そのことでバックナンバーを問い合わせたところ、1981年3月号から97年12月号までの残部を53部も送ってくれたので感謝感激でした。
 内田晃一さんは栃木県鹿沼市生まれ。小学2年東京世田谷に移住。芝浦工業専門学校(現・芝浦工業大学)を卒業。新宿区の工務店に入社するも肺結核になり宇都宮の親元で療養後栃木新聞社に入社。その頃、宇都宮工業高校生だった渡辺貞夫と知り合い、アマチュアのジャズバンドを結成。メンバーは内田晃一(vib)渡辺貞夫(cl)大関和夫(b)永田武夫(ds)1949年~1950年にかけての約1年の土、日、市内のダンスホール「新世界」に出演。高校を卒業した渡辺貞夫さんは父親に「東京出て1年間バンドマンをやって、うまくいかなかったら戻って家業の電気屋を継ぐから行かしてくれ!」と頼み上京。1ヶ月後渡辺の誘いで内田も新聞社をやめ上京。1956年には自己グループ「内田晃一ファイブスポット」を結成し浅草「ニューモアナ」に出演。その後数々のネームバンドで演奏。
 1976年、スイングジャーナル社から「日本のジャズ史、戦前,戦後」を上梓。79年3月月刊新聞「ジャズワールド」を創刊、以来38年8ヶ月1号も欠く事無く発刊。また1985年に、本邦ジャズボーカルの向上発展を願い「水島早苗ジャズボーカル賞」(現・日本ジャズボーカル賞)を設け、今年2017年度で第33回目。それがなんと今回の新人賞に盛岡市出身在住のジャズ歌手・金本麻里さんが輝いた。大賞は丸山繁雄さん。それはそうと、主催者・内田晃一さんは昨2016年12月我が国文化の振興に貢献、日本文化の国際交流の功績により平成28年度文化庁長官表彰を受け、90才の誕生日にその祝賀会と第32回日本ジャズボーカル賞の表彰式を行ったのでした。
10:50:00 - johnny -

2022-10-29

幸遊記NO.355 「松坂妃呂子のジャズ批評誌」2017.10.30.盛岡タイムス

 隔月刊(かつては季刊)の専門誌「ジャズ批評」創刊50周年記念特集号「私の好きな1枚のジャズレコード・パートⅡ」が発売になった。30号、36号、62号で特集した同じタイトルの本から、拾いあげたジャズをめぐる一篇一篇の物語再録とニュー。日本の時代背景や文化の変化も読み取れる199、200号である。僕にジャズ批評社からの原稿依頼が
あったのは1988年の62号、後にも先にもこれ1回こっきりだけ。その文章何故か200号に拾われ再揚なった。その中味はといえば、僕がジャズにのめり込む原点となった故・本田竹彦(竹曠、竹広)作曲・演奏の「破壊と抒情」が入ったレコード「ザ・トリオ」にまつわる話。それを今年20年振りに来盛した元奥様の歌手・チコさんと本田の妹さんに昔のそれをコピーして渡したばかりだった。その62号にはジャズファンの水谷良重、細川護熙、萩原朔美、竹中直人、田中泯、鈴木治彦、大林宣彦、太田裕美、石ノ森章太郎、荒木一郎、浅井慎平、秋元康氏等。そしてジャズ批評家や演奏者、レコード会社、ジャズ喫茶店主等の文。
 編集人の松坂妃呂子(比呂)さんは1932年10月22日、福島県川俣町生まれ。1953年上京。本と映画と美術に音楽、料理まで。好きなことが出来たのは、女学校時代2階教室の床が抜け落ちた下敷きになり、腰から首にかけての骨が潰れたケガや肺結核の治療、女児出産後の卵巣切除など30才までに7回もの大手術。結果、松坂姓に戻っての自立。1965年サックス奏者・ソニーロリンズの名演奏「オレオ」を店名とするジャズ喫茶を銀座に開店。活字も大好きな松坂さんは店で「オレオヴォイス」というミニコミ誌を作り、これが前身となって、思想抜きの自由な「ジャズ批評」を発刊。1970年に4年契約だった店をたたみ、自宅での本格編集開始。パートしながらの10年で経済的軌道に乗せて今日にある。 
 その松坂さんが1982年1月僕に言った「最も売れなかったのは、日本のジャズメンを特集した1977年の25号。非常に残念でした!だからその売れない日本のジャズだけで、しかも岩手でやってらっしゃるあなたは、どうしているんだろう?と思います」は今尚鮮烈!確かにその10年後だった62号の私の好きなジャズのレコードでも日本人ジャズを取り上げたのは124人中僕を含めて4人だけ。その中の1人は外盤と間違えて買ったものだったが、心ゆくまで楽しめるとあった。
10:49:00 - johnny -

2022-10-28

幸遊記NO.354 「内田修のヤマハジャズクラブ」2017.10.23.盛岡タイムス

 「ジャズを愛しジャズに愛された男、内田修・ジャズコレクション」!と、月刊ジャズジャパンの2017年1月表紙を飾った内田修さんはドクタージャズと称されて、多数のジャズミュージシャンと交流し、支援。日本のジャズの興隆に大きく貢献した名古屋の外科医。彼はジャズピアニスト・穐吉敏子さんと同じ1929年生まれ。亡くなられたのは2016年12月11日87才だった。
名古屋大学の医学生だった頃からジャズに親しみ、穐吉敏子さんを始め、渡辺貞夫、富樫雅彦、宮沢昭、高柳昌行、日野皓正、菊地雅章、佐藤允彦、小津昌彦氏など、日本のジャズを形成牽引してきた人達と交友を結んで1964年2月のレコードコンサートから始めたヤマハジャズクラブを結成!。2回目の4月にはレコードと生演奏会を企画、当時の先端を行く「新世紀音楽グループ」(金井英人、宮沢昭他)を名古屋に呼んだのが始まり。4回目の1965年1月17日、再渡米直前の穐吉敏子サヨナラコンサート(荒川康男/b原田寛治/ds)を企画するなど、その数は1997年までに150回。彼は1961年出身地の岡崎市に内田病院を開業し院内にピアノやその他の楽器、録音再生装置を完備したスタジオを作り、練習や交流の場としてミュージシャンに開放、自らは創刊間もなくからのスイングジャーナル。アメリカのダウンビートなどで最新のジャズ情報をもとにレコードを入手し、ミュージシャン達やファンの研究に供した。又日本ジャズメンの主事医でもあった。
 名古屋・ヤマハ・ジャズクラブ30名のスタッフの中にヤマハ関係者も3名おり、その中の1人石村和子さんが今年2017年7月開運橋のジョニーへ現われビックリ!彼女は、1984年晶文社から出版された内田修さんの著書「ジャズが若かった頃」の出版に助力した方。帰って間もなく、「ヤマハジャズクラブ150回記念コンサートパンフ」(1997年9月13日発行の最後の1冊)を僕に送ってくれて感激していると、また第2次資料が届けられた!それは「内田修ジャズコレクションCHRONICLE」というCD付本で岡崎市が市制100周年の記念事業として出版したものだから凄い本なのだ!そしてそのジャズの街岡崎発信連絡協議会では、7回のジャズ塾を開設、その第1回講師が石村和子さんで「内田先生。そしてYJCと関わって」なのでした。
10:47:00 - johnny -

2022-10-27

幸遊記NO.353 「片方志穂のドラマーだった父」2017.10.16.盛岡タイムス

 ドラマーの澤口良司さんが2017年10月7日夜10時半頃この世を去った。彼は僕より1年と2日遅く松尾村(現・八幡平市)に生まれた人だが、自分からは24年生まれと言っていたのだから、まるで昔の芸能人みたい!と皆が言う。実際芸能人には違いない。通夜の会場にはミュージシャン仲間が大勢駆けつけて、聖者の行進を演奏し唄い、アベマリアを唄うオペラ歌手や津軽三味線での即興とうた。ロックやロマン歌謡、様々なジャンルの演奏会となった。
 いつもサーチャンはレコードから流れる様々なスタイルのジャズに耳を傾け、常にテーブルの上で指を動かし、リズムを取り続け、いつもドラマーとしての勉強を、休むことなくしていた人だった。そんな彼だから、変拍子だろうが何だろうが叩けないリズムというものがなかった。ジャズもロックもブルースもはたまたシャンソンやポップスなどあらゆるバンドに引張られ、入院する1年前の10月までなんと7個ものバンドに所属しドラム演奏をしていた。
 そんな彼だから、名前の呼ばれ方も澤口良司(りょうし)さん!に始まり、澤口サン!サーチャン!サワちゃん!サワさん!リョウチャン!、リョウシさん!グッチ!と様々で彼の虹色のような人生を物語っている。結局彼の命取りとなったのはタバコ。そう!ニコチンなのだから、下ネタの大好きな彼にとっては本能だったのかも?。なにしろ抗がん剤治療はコーガンにもよく効くのかな?と僕が思った程、元気になったりした。
 不平、不満、人様の欠点や悪口一切言わず、僕からの頼みごとには公私にかかわらず、全てのことに対し、無償で快く協力してくれた。真の意味で僕の“左右のうで”の様な人だった。本当は右利きなのだが、ドラムの時だけ左利きになる。サーチャン!本当にありがとう!またね!。僕はサーチャンに出会い親友になれたこと、大変に嬉しく誇りに思っています。肺ガンのステージ4を宣告されてからの1年、とても大変だったようですが、1人娘の素敵な志穂ちゃんと毎日会えて、幸せだった!ね。“生きる希望!”のジャズドラムも自分のバンドで毎月“開運橋のジョニー”で演奏し、最後のステージ仙台定禅寺に行ったことなど“演奏者の鏡”ですよ!。
10:45:00 - johnny -

2022-10-26

幸遊記NO.352 「中島ノブヤの音楽絵画展」2017.10.9.盛岡タイムス

 2017年10月、開運橋のジョニーで開催中の「中島ノブヤ音楽絵画展・金本麻里ジャズボーカルの世界」は、なかなかにおもしろい。盛岡在住の金本麻里(38)が歌を唄っている顔や、その姿が描かれているのだが、その背景には彼女が録音した歌のタイトルや歌詞を想像させるアイディアが盛り込まれ表現されていて、見る人見る人、なぁるほどとうなずいている。
 中島ノブヤさん(50)は東京生まれ松戸育ちの会社員だが、現在仙台営業所に勤務するかたわら、ミュージシャンや画家としても活動している人。早稲田大学時代にはニューオリンズジャズクラブに所属しキャナルストリートジャズバンドのメンバーだったことから1988年のジャズ人名事典にその名が載っており、2度ニューオリンズへ。現在は「早栄軒ブルースバンド」を率いているが、バンドの名は学生時代に通った定食屋の店名から。
 それこそ彼が市川市で婦人服チェーン店長をしていた時代の1991年、ジャズクラリネット吹きのご主人が営んでいた、魚屋兼居酒屋に入り浸ってた時、ジャズ評論家の石原康行氏(故人)と奥様、そしてあのジャズピアニスト・秋吉敏子さんがやって来て一緒に飲んだ10月1日が宝物の夕食会になったのだと彼。その居酒屋の後藤夫妻は秋吉さんのファンでもあり、自分達も銭湯を借りて「セントールイスブルース・コンサート」を開催してた方だったと。
 現在の会社務めは1999年から。震災後にたまたま買い求めたカラーサインペンでスケッチを始め、最初の一線から次々と完成までの行程を写真に収めながらの人描きが楽しくなって、ダンスやライブなどをする人々を描くうちに、演じ手の電波をキャッチして描けるようになった。CD聴きながら、あるいは食べながら、飲みながら、五感を刺激し使いながらの作品は2013年仙台での個展へとつながり、これまですでに7回もの展示。今年になってやっと案内ハガキの絵が売れたんですと言う彼は、仙台以外では盛岡のここが初めて、今回は自分がファンでもある盛岡のジャズボーカリストが歌うキャラバン、この素晴らしき世界、星に願いを、私のお気に入り、枯葉、センチメンタルジャーニーなどなど17作品。A列車で行こう!が真っ先に売れましたよ!開運!開運!。
10:44:00 - johnny -

2022-10-25

幸遊記NO.351 「菊池冬真の第2位ちぐさ賞」2017.10.2.盛岡タイムス

 長年ジャズ喫茶をやっている僕にとって嬉しいことは、最近、小中高生達がジャズピアノに挑戦していることだ。盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズ・ライブ・第27回・2016年8月には7人もの小中高生ジャズピアニストが大人のリズム隊をバックに、伸び伸びと演奏して話題をさらったことから、その中の3人、西川さくら、米澤ゆりや、菅原有史くんが、9月に行われた紫波の「第10回オータム・ジャズ祭」に出演成った。
 そんな中、12月27日にはフルート奏者の君塚彩さん(26)と盛岡四高1年生で15才のピアノ奏者・菊池冬真君が、開運橋のジョニーでデュオライブ熱演!観客驚きの大拍手。半年後の2017年6月27日2度目の出演。8月には来盛した日本のトッププレイヤー・鈴木良雄さんのグループから一緒にやろうと1曲ステージに呼ばれ堂々としたプレイで将来性を期待されたばかりだったが、その冬真君の父・雄宇(ゆう)さん(39)は、息子を高校生のうちに何かのコンテストにチャレンジさせてみたい!と調べて決めたのが2017・第5回横浜ちぐさ賞。〆切ギリギリに家のピアノに向う冬真くんのプレイ動画を応募。75名の応募者の中から1次選考で7名にしぼったその動画を一般公開。そこから3名が選ばれ、最終のライブ審査へとなるのだが、なんと、冬真君はそのファイナルに残ったのです!。1位になれば、LPレコードとCDでの本格デビューが約束されている[ちぐさ賞]!。
 そう!第1回の受賞者は今をときめく金本麻里(盛岡)いやがうえにも期待ふくらんだ選考会(9月24日)にて何と堂々の第2位!で、来年のファイナルへの出場権を手にしたのです!しかも今年の優勝者は仙台出身東大卒のピアノ・千葉岳洋さん(幸遊記・№221)。男泣きした彼は4度目の挑戦だった!。「お酒がこんなに美味しく感じるのは久し振りです(笑)」と僕にメールが来た。冬真君も「来年は絶対優勝したい!」と熱い闘志を燃やす!
 TVがこの冬1番の冷え込みと報じた真冬の1月28日(2001)に生まれたことから冬真と名付けられ、小1の時に佐藤充彦氏の凄いジャズピアノを聴き感激し、教室に通うようになった。小3の時、母が買ってくれた古いアップライトピアノに夢中になり、アートテイタムやバドパウエルのピアノ演奏に反応しては、「どう弾いたらこんな風に音が鳴るんだろうか」と猛勉強・猛練習。作曲もすでに30曲。コンテストライブでは4曲中2曲が自作。それをトリオで弾き切っての第2位である。
10:40:00 - johnny -

2022-10-24

幸遊記NO.350 「ニール・ストルネイカーのトランペット」2017.9.25.盛岡タイムス

 盛岡劇場の地下「タウンホール」にて毎月第3水曜日に行われている「モリゲキライブ」第273回のニール・ストルネイカー&フレンズのコンサート(2017年9月20日)を聴いた。女房と2人最前列中央に座っているとステージに出て来たニールが僕等を見てジョニー!と、手に持ったトランペットを向けてビックリした様子。メンバーはピアノ・鈴木牧子。ベース・下田耕平。ドラム・柿崎幸史。バリトンサックス・岩持芳宏の5人。
 リーダーのニール・ストルネイカーさんは僕の一回り下、1959年2月6日生まれの58才。アメリカ・ウエストバージニア大学卒。彼が最初に開運橋のジョニーへ現れたのは2010年10月。東京の音楽学校で教えているとのことだったが、学校経営が父から息子へ代わった時で、内情がしっくりこなかった様子がうかがわれ、盛岡で生活したいとのことだった。当時ジョニーで行っていた第1、第4土曜のセッションに参加し、皆から親われた事から、店の営業時間外を彼の練習場や教室として無償で使って貰い、プロを目指してた若者たちへの指導をして頂いたりした。
 その中の1人、柿崎幸史は上京し現在プロとして活躍中で、今回のコンサートでドラマーとして参加しているが、これまでも何度となく彼と一緒のステージを経験してきたし、ニールと牧子さんは2011年春から共演。僕は彼の音の素晴らしさをスエーデン在住のピアニスト・ケイコ・ボルジェソンに紹介し、2人は東京で一緒のステージに立った。僕は2011年2月、そのピアノとトランペットのデュオをCD録音したのだが、直後に大震災があり、リリースの事はすっかり忘れ去っていた。
 震災後あらゆるコンサートが中止となる中、僕はこういう時こそ普通に音楽をやってゆくべきと、店のライブも中止せずスケジュール通りにやり、盛岡の大通で前年から始めたビックストリートジャズライブも4月から開催それに出演し、5月には紫波古舘公民館での復興支援チャリティライブなどに参加した。その後彼はガンと闘い、一時はもうトランペットは吹けないのではとも噂されたこともあったが、それを克服しての演奏活動は、まだ以前程ではないが九分通りの復活。それはまさにニールが12才の時に観て鳥肌が立ち、トランペッターを目指すことになったサッチモことルイアームストロングの「ハロードーリー」そのものなのかも!。
10:39:00 - johnny -

2022-10-23

幸遊記NO.349 「後藤匡徳のカクテルピアノ」2017.9.18.盛岡タイムス

 2012年4月11日、ニューヨーク・ウェリントンホテルのロビー。ホテルのボーイと日本人の会話が僕らの前で始まった。白人のボーイは日本語で、日本人の若者は英語での珍しい?不思議なトークセッション。白人は日本の秋田大学へ留学した経歴。日本人は前年の2011年からNYの音大に留学中の後藤匡徳(まさよし)君、当時25才、奥州市水沢出身。まるでパロディー映画でも見ている様な光景、しかも白人の日本語が秋田弁だったからなおさらだった。
 その後藤君は1987年水沢生まれ。盛岡中央高校。そしてハワイ・オワフ島の短大、TPHCにて天文学を学んでいた時、心理学科教授のジャズピアノを聴いたことから、彼の中に眠っていた感覚(小学1年からのピアノ、小学4年からのエレクトーン)が呼び戻り、ピアノを再開。卒後フリーターを3年やって帰郷し、開運橋のジョニーへちょくちょく現れてはピアノに向った。一聴テラテラとした弾き方だったが、芯のしっかりした心地良いピアノの音だけに、その場の人達が驚きを隠せなかった様子が今も目に浮かぶ。
 2年前の2015年NYから日本に戻って東京証券取引所に就職したと聞いていたが、やはりピアノで仕事がしたい!と今年再びの渡米。あの2011年NYでの学生生活が始まる日に、暗がりで後からきた若物たちにカバンを奪われたことがあった苦い経験活かし?、ホームレスの生活からスタートしてみようと、学生時代の友人にボストンバックを預け、自分をピアニストとしてやとってくれる店を200軒以上も探し歩いたという。しかもセカンドアベニューの70丁目から95丁目(お金持ちのいるエリア)に的を絞って探し歩き、200店舗ほど交渉した3日目に、ビルの持ち主が経営するイタリアンレストラン「デリジア92」が雇ってくれて、ノーギャラ(チップのみ)からの3時間演奏をスタート。
 それが20、30、40ドルプラスとギャラも上昇の一途だが、ビジネスで客に気を使う演奏には耳を貸さず、自分に集中してやる演奏でなければ客足はすぐに遠のくのだとというNYの厳しさ。就労ビザの申請で一時帰国したのでと、開運橋のジョニーへ顔を出してくれた時、丁度TVIのニュース・プラス・ワンから金本麻里(vo)の取材話あったので急遽、ピアノ伴奏をしてもらい「岩手から世界へ」として今週の放送予定だそうです。
10:37:00 - johnny -

2022-10-22

幸遊記NO.348 「北島貞紀のサンデーモーニング」2017.9.12.盛岡タイムス

 FM岩手の朝番組「北Gのサンデーモーニング」でおなじみの北Gこと、北島貞紀さん(65)が、久し振りに開運橋のジョニーへ現われたので、自然と昔話に花が咲く。彼がジョニーで初めてピアノを弾いたのは2004年1月。TV取材が店に入る日に、故・片岡政樹さん(as)等と一緒に演奏してもらったのがきっかけ。それ以降毎月彼のカルテットと絵美夏(vo)。2005年8月から「トリオ+1」として出演。同年秋、北島さんが作曲したオリジナル5曲入りCD「アフタヌーン・ティー」をトリオの演奏で発売!僕はそのライナーノートに「北のジャズランド」と記した、その1千枚はあっという間に売り尽くしたらしい。次作「サンデーモーニング」と3作目の「蔵」は北島貞紀&スマイルキャッツ名でリリース。
 それが功を奏し、2006年6月から、本紙盛岡タイムスに彼は「あの頃僕はバンドマンだった」を連載。翌2007年8月からは先にのべたFM番組のスタートと、タイムス紙への2度目の連載「北Gのライブトーク」を執筆。2008年には先の「あの頃僕はバンドマンだった」を版画家・大場冨生さんの装画で盛岡タイムス社から出版。パーティもホテルで盛大に開かれたものでした。2015年9月には、彼の同級生だった脚本・演出家の坂田裕一さんによって、「あの頃―――」は音楽劇となり、もりおか町家物語館・浜藤ホールで上演された。
 もちろんその間には花巻市石鳥谷酒蔵交流館や盛岡市仙北町のセレモニーホールいわて、同市鉈屋町の町家ホールなどでのコンサート、更には上田公民館、中央公民館等での音楽鑑賞講座の講師などを務め「人はなぜジャズに魅せられるのか」とその魅力と楽しさを解説しながら、生演奏を聴かせる。
 北島貞紀1952年旧沢内村(現・西和賀町)生まれ、関西大学英文科卒。学生時代よりバンド活動し、ベースを担当。ピアノは21才から。大卒後大阪にて10年プロ活動。35才でピアノを乞われ盛岡へ。クラブで1年間ピアノを弾き、その後20年間演奏活動を休止していたところへジョニーでテレビの為の演奏をしたことから再活動!「これまでの人生で最も充実した10年でした。またジョニーで演奏させてくれませんか」でした。「はい!いつからでもどうぞ!」
11:35:00 - johnny -

2022-10-21

幸遊記NO.347 「山田敬蔵のボストンマラソン」2017.9.4.盛岡タイムス

 来る2020年の東京オリンピック!その前年2019年放送予定のNHK大河ドラマ「いだてん」の主役の一人に決定した金栗四三(しぞう・1891~1983)氏は、1912年の第五回ストックホルム五輪(日本初参加)のマラソン選手。27キロ付近でコースをはずれ消えたオリンピック選手として今でもスエーデンで語り草の人。それから55年後の1967年、ストックホルムのオリンピック委員会から「果たせなかったオリンピックのゴールインを祝賀行事で!」と招待された会場には、正式なゴールテープが用意され75才になった金栗選手が両手を挙げてゴールインした。その時会場に流れたアナウンスは「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもちまして第五回ストックホルム・オリンピック大会の全種目を終了いたします」会場われんばかりの大拍手!それは世界で最も遅いマラソン記録となった。
 その「世界で最も遅い」で想い出すのは、ご自身が語る作曲家としての穐吉敏子さん。彼女の自伝「ジャズと生きる」(岩波新書1996年)に「ボストンマラソン」という章がある。彼女がボストンのバークリー音楽院の学生だった1957年、ボストンマラソンに参加する日本の選手達に、自分の城(住居)を開放して、キッチンやバスを使用させた話。その中の1人山田敬蔵選手(秋田大館出身)は、何と1953年に2時間18分51秒のボストンマラソン史上最高記録で優勝した人(その時の監督が金栗四三氏・熊本出身。別府や箱根マラソンの創始者)。その1957年山田選手の成績は6位だったが、当時のハイネ・ボストン市長と穐吉敏子さんがゴールで山田選手に花束を贈る(写真あり)。
 更に4年後、穐吉さんが渡米後、初帰国ツアーでの秋田公演(1961年3月14日)終演後、山田選手や57年の時の渡辺監督等が穐吉敏子カルテットのご一行を市内の料亭に招待して57年に穐吉さんにご馳走になったスキヤキのお礼にと秋田名物のキリタンポで歓待し、想い出話に花を咲かせた。との秋田魁新聞の記事を持参してくれたのは、山田敬蔵氏のことを調べ書きしている秋田市の石垣隆孝(りゅうこう)さんという方。「東京の古いジャズ喫茶なら穐吉さんの昔のことがわかるだろうと訪ねたら、紹介されたのが盛岡のジョニーだった」と来店し年月を確かめ、地元秋田で記事を探し出して来たので僕も大変嬉しかった。
11:33:00 - johnny -

2022-10-20

幸遊記NO.346 「鈴木良雄のベーストーク」2017.8.28.盛岡タイムス

 日本のジャズ界を牽引するリーダー格の一人であるチンさんこと鈴木良雄さん(71)が今年も自己グループ「BASS・TALK」を率いて、開運橋のジョニーにやって来た。満員のフアンを前に、熱のこもった素晴らしい演奏を披露してヤンヤのかっさい!アンコールでは盛岡在住の歌手・金本麻里に肩を貸し、自分もアドリブスキャットで金本へ、その手本を示してくれたことに胸が熱くなった。更には、ジャズピアニストを目指す高校生とも凄いセッションを展開し将来への期待も!
 ベーストークというけれど、やっぱりジャズは近く!がいい!とは僕のシャレだが、チンさんははるか昔の1973年にそれこそ遠くのニューヨークに渡り、サックスの巨匠・スタンゲッツグループや、ドラムの巨人・アートブレイキー&ジャズメッセンジャーズのレギュラーメンバーとして長年全世界を旅してきた人。僕がレコードで彼の音を最初に聞いたのは1970年、トリオレコードが発表したジャズシリーズの第一弾「本田竹彦の魅力」でのベースだった。
 彼は長野県生まれ、音楽家の両親と鈴木メゾットの創始者で伯父・鈴木鎮一氏のもとで幼少からバイオリンとピアノに親しみ、早大文学部時代にジャズにのめり込み早大モダンジャズ研究会でピアノを担当。卒後、渡辺貞夫(as)氏の勧めもあり、ベースに転向し渡辺貞夫グループや故・菊池雅章・本田竹彦(広)等のグループで活躍し、デビュー時から注目を浴び続けてきた№1ベーシスト!。かの穐吉敏子さんも、日本人奏者と共演する時は必ず彼を指名するほどの人。作曲家としても中々の才。
 かつてはピアノ奏者だったこともあってか2009年、ベース生活40年を記念し、ケイ赤城、小曽根真、イサオ・ササキ、野力奏一、山本剛、穐吉敏子と、6人のピアニスト達とのデュオCDを制作、南里文雄賞を受賞!その直後の2010年2月その6人のピアニストと紀尾井ホールでコンサートを開き、僕も聴きに行った。
 今回のメンバー井上信平(fl)野力奏一(p)岡部洋一(per)さん達と一緒にチンさんのニューヨーク時代の話を聞いてたら市と国で収入の少ないアーティストを養護するための45階建てアパート「マンハッタンプラザ」には中庭があってテニスコートやプール、ゲーム場まで付いている素晴らしい所だったよ!でした。さすがアメリカ!
11:32:00 - johnny -

2022-10-19

幸遊記NO.345 「石原裕次郎の嵐を呼ぶ男」2017.8.21.盛岡タイムス

 先日本屋さんで「石原裕次郎シアター“嵐を呼ぶ男”」が目に入り、とっさに6、7年前紫波町古館公民館で観た事を思い出し、即買い!この映画で裕次郎人気が決定的となり大スターへとなった作品。しかも中味はジャズ映画。ドラマー(国分正一)役に扮する裕次郎が、歌手・笈田敏夫が扮した売れっ子ドラマー(チャーリー桜田)とドラム合戦をやり、裕次郎が突然「おいらはドラマー、やくざなドラマー、おいらがおこれば嵐を呼ぶぜ」と歌い出すあの大ヒット曲シーンが頭をよぎる。
 嵐を呼ぶ男は当時、渡辺プロダクションを創業したジャズベーシスト・渡辺晋氏の夫人・美佐さんの活躍にほれた井上梅次監督が、彼女をヒントにして書き描いたジャズバンド界の内幕話。その1957年12月末封切の正月映画には当時人気№1のベース奏者だった渡辺晋率いるシックスジョーズ(コンボ人気投票第3位)がそのままシックスジョーカーズとして出演するシーンに始まる映画自体今となっては貴重と云えるもの。
 裕次郎は当時人気・実力共に№1だったジャズドラマー・白木秀雄(本姓・柏倉)にレッスンを受け映画に望んだ。もちろん音は白木の吹き替えであったが、動作サマになっていた。そしてライバル・チャーリー桜田こと笈田敏夫の音を吹き替えたのは当時やはり人気投票ドラム部門6位にいた猪俣猛(シックスジョーズのドラマー)。笈田自身は男性歌手2位の座にあった。そして字幕にも名が出ず、たった5秒間ほど顔が出てシーンをさらったのは、当時やはり人気ドラマーだったフランキー堺だったから、まさにドラマーなドラマとも云える作品でもある。
 映画の舞台となった東京銀座のジャズ喫茶店は1953年10月にオープンした「テネシー」にそっくり。そのテネシーは中国人妻・林千冊子さんの経営。店のオープン直後、あのオスカーピーターソンが穐吉さんのピアノを聴き、レコーディングを持ちかけ、アメリカデビューした話で有名になった店だが、穐吉に昼の演奏をまかせたのが夜に出演していた渡辺晋(シックスジョーズ)だった。僕の数少ないカラオケレパートリーの中に裕次郎の表題曲や「夜霧の慕情」あるけれど、浮かんでくるのは横浜の総持寺に泊り、その裏山にある大きくて立派な石原裕次郎のお墓に行った時のことである。
11:30:00 - johnny -

2022-10-18

幸遊記NO.344 「鈴木俊一の父、鈴木善幸・元首相」2017.8.14.盛岡タイムス

 2017年8月3日、第3次、安倍改造内閣の発足。岩手2区選出の鈴木俊一氏(64・自民)が、五輪相に!。2020年に開催される56年ぶりの東京オリンピック・パラリンピックは、復興五輪と云うらしい。彼は2002年に小泉内閣時、現都知事の小池百合子氏の後任として環境相を務め、岩手と青森にまたがる、県境産業廃棄物問題に力を注いだことは、環境復興といえるものであったし、東日本大震災の被災地出身の彼が復興五輪相というのはふさわしい!岩手県人としては党派を超えて喜ぶべきこと。加計学園問題やPKO(国連平和維持活動)部隊の日報隠ぺい問題等々、で内閣支持率が低下する一方での土俵際作戦的な改造だけに、内閣自体が果たしていつまで持つのかとの不安もあるが、達曽県知事も復興に期待している様子。
俊一氏の父が岩手から40年ぶりに4人目の首相となった時のこと僕は思い出している。鈴木善幸氏が第70代目の首相指名が伝えられた日(1980年7月17日)地元山田町2万6千人の町民が大フィーバー。海に陸に花火と漁船と車のパレード、商店街のたれ幕、横断幕、ありったけの大漁旗、善幸さんの母校山田小学校鼓笛隊を先頭に全町民小旗振りパレード、子どもみこしやら神楽山車まで登場させ、山田2千年の歴史で最高の日と興奮した木下禎治町長。その夜県都盛岡では3千人のちょうちん行列。
 田中内閣時代、日本列島改造の目玉だった全国の新幹線計画にゴーサインを出した鉄道建設審議会長だった善幸氏は以来「直角」と呼ばれ、三木、大平(急死)内閣後の登場。その首相に変わって、あいさつに駆けつけた、今五輪相の俊一氏は当時27才。「父から、皆さまの温かいご支援に感謝いたしていることをお伝えするよう、ことづかってまいりました」と深々と何度も頭を下げた姿が今も印象に残る・
 当時岩手の大有名人は歌手の千昌夫さん「北国の春」が流行ってた頃で、今度は「北国の夏」かと騒がれ出したのは 手塚千砂子・作詞作曲、四条たか子唄「ゼンコーさん」だった。「岩手三陸荒浜育ち海の男の心意気。あの人だから、それだから国の柱に選ばれた。選ばれたあ~ゼンコーさん、ゼンコーさん」だったなあと久々にレコード聴く。
11:28:00 - johnny -

2022-10-17

幸遊記NO.343 「のなか悟空のイカズチドラム」2017.8.7.盛岡タイムス

 夏が来れば思い出す~という昔の歌あるけれど、雷、鳴ると思い出す人がいる。悟空!こと、イカズチドラマーの野中光政さん(66)大分生まれ。彼は、1985年、1989年と僕等が陸前高田で開いた「日本ジャズ祭」の時、開催日の3日前から、県内各地を走り回るトラックの荷台で上半身ハダカで延々とドラムを叩き続けた男。そのノボリ旗や車のボディ用宣伝幕を書き作ってくれたドラマーな看板屋の故・菊池コージ(幸吉)さん。運転手付きトラックを無償で貸してくれた大和田産業の大和田幸男さん。など思い出す。
 それこそ、お釈迦様の持つ如意棒ごとくステックを振りおろす悟空のカミナリドラムはあまねく十方に聴こえ至り、行く先々で犬吠え聴こえ、近づいてドンと叩けば小屋に引っ込む野性的な音。子ども喜び、ご老人は腰抜かし、若者アゼン!止まって叩けば、ビックリする人、逃げる人、興奮する人、笑う人、差し入れする人等、その様まるで走馬灯の様であった。
 その直後、富士の山頂にて“悟空雲に乗る”ライブ。逆シルクロードを一人ドラムと旅し、キリマンジャロの山頂でドラムを叩き、万里の長城など中国では黒山の人だかりをつくった彼は「バチ当たり」という本を書き大当たり!。次は「アフリカ大陸を叩け」と、原住民のリズム感覚が変になる程メチャクチャなドラムを叩き、現地で原木をくり抜き、ドラム胴製作してのアフリカゴクー混血音。「黒人女性の胴を知らずして南ア問題語るなかれ!おいらは昔の日本には興味あるけど、これからの日本に興味なし!」
 タン、タタン、スタタン、タンスタタ。ドラムを叩く時、木や川や橋や街などの風景ではなく、太陽を見ながら叩けば、現実に引き戻されることなく、ジャングルの中での太陽、チベットの太陽、アフリカでの太陽と、その状況の中でドラムを叩いた光景が浮かびあがるのだ!」と。
 あれはいつだったろうか(90年代)?メーカーからトラクター借りて、ドラムを乗せたリヤカーを引張りノボリを立てて、日本縦断ドラム旅!。陸前高田にもやって来て僕を喜ばせたっけ。黄黒バンド。ウルトラ寿邪頭管弦太鼓。野中悟空と人間国宝。くのいち・じんこく。様々の形態のグループ他、僕と寺での除夜ライブ、悟空楽団で僕が歌ったCD発売。そして“いわてあづまね山麓オータムジャズ祭”に2度の出演!先日また新バンドつくったよとデンワあり。
11:27:00 - johnny -

2022-10-16

幸遊記NO.342 「アンダーパスの今夜はりんごハイボール」2017.7.31.盛岡タイムス

 盛岡りんごハイボールを店で提供してくれませんか!そう言いに来た広告社の人に誘われるまま、いいでしょうと返事をして話を聞いたら、盛岡産のりんごジュースとジンビームウイスキーを使ってのハイボール。昨2016年にレシピを考案した藤原和広さん(遊食屋FUJIオーナー)の店で、その一周年を記念した「盛岡りんごハイボールの日」(毎月22日)制定の集いがあるというので参加した。
2杯飲んだら次の1杯無料になるスタンプラリー(7/21~9/20)でいろんな店を飲み歩こうというもの。PR大使は、盛岡りんごハイボール・テーマソングを歌う男女(夫婦ペア)の「アンダーパス」と、タレントの「フジポン!」ハイボールの日と定めた22日は、考案者の名「FUJI」ではなく、りんごの「ふじ」からだそうで、その、ふじの原木は今でも盛岡農業試験場にあり、そこからふじの栽培が全国的に行われるようになったらしい。その盛岡りんごハイボールのPR大使の一人、フジポンさんは、父が盛岡農試の職員であったことから彼女もそこでポン!と生まれ育ったと言って皆を笑わせた。その時僕が思い出したのは何十年か前、黄色いりんごの新種を岩手県が開発した時、その名付け会議に何故か僕も呼ばれて県庁に行った記憶!。それはさておき、アンダーパスは「今夜はりんごのハイボール」を唄い、自分たちのステージでは最初にこの曲を唄っていますとPR。
 盛岡駅地下道で歌っていた北上の後藤雅弘さんとゴスペルのシモンズ・カンパニーで歌っていた鳩岡美香さんがアンダーパスを結成した頃、美香さんは、ピアニスト・坂本千恵さんと「ティアラ」というユニットの活動もやっていて2004年から2005年の一年間程、開運橋のジョニーに出演。鳩岡さんのオリジナル曲や歌に将来性を感じた僕は、2005年ジャズ批評誌の女性プレイヤー最前線特集にパーカッション・ヴォーカリストとして紹介記事を書いた。その後彼女はアンダーパスに主力を置き、2008年米作りの人達に捧げた「大地の唄」、2009年NHKのみんなのうた「たらりら」、2010年「わんこきょうだい・いぬではございません」、2012年三陸復興応援ソング「One」、2016年岩手国体応援ソングの「ビクトリー」他、様々な岩手プロスポーツ応援ソングを発表し続けている。
11:25:00 - johnny -

2022-10-15

幸遊記NO.341 「鈴木牧子の初リーダー作CD」2017.7.24.盛岡タイムス

 ジャズの巨人・ジョン・コルトレーン(ts.ss)の没後50周年を記念する、JCメモリアルバンドの結成35周年記念ライブ(バンドの最終公演)を満員の盛岡劇場タウンホールで聴いた。リーダーのコルトレーンこと、黒江俊(ts.ss)以下マッコイタイナー役の鈴木牧子(p)、ジミーギャリスン役の下田耕平(b)、エルヴィンジョーンズ役の戸塚孝徳(ds)、この4人は結成以来35年間、不動のメンバーだったのだからそのことだけをとってみても僕は“凄い!”と思う。
 バンドのデビューはコルトレーン17回忌の1984年7月17日。当時盛岡中ノ橋通にあった伴天連茶屋でのライブ。2度目は僕が声掛けした1985年の「日本ジャズ祭in陸前高田」。本来ならJCメモリアルバンドなのだが、当時素晴らしい才能を発揮し始めていた20代のピアニスト・鈴木牧子さん(現・58)に注目していた僕は、そのバンドを「黒江俊=鈴木牧子カルテット」という双頭バンド名にして晴れ舞台に出演して貰ったのでした。
 30代になるとJCの他、自分のグループを結成して活動、横浜ジャズプロムナードで‘96、’98年に優秀賞。97年吉祥寺ジャズコンテストで優秀賞を受賞した経歴を持つ彼女は盛岡生まれ盛岡在住。3才からピアノを始め桐朋学園短大卒後、アン・ミュージックスクールでジャズピアニスト・弘勢憲二氏に師事し、帰郷後はジャズを中心に演奏活動を開始。かたわらピアノ教室で教える他、盛岡大学での音楽講師、ライブハウスでのハコバン、盛岡市のキャラホール・ジャズ鑑賞講座の講師などを務め、この数十年間、盛岡市を中心に夫であるベーシストの下田耕平さんと二人三脚で、ジャズの普及にその身を捧げ続けてきた人である。最近は僕の店との縁は殆んどないのだが、僕が盛岡に来た頃の2000年代、彼女の教室の発表会に何度か僕の店を使ってくれたり、ささき絢子さんの唄伴などで出演した。
 そんな彼女が初リーダー作CDをリリースしたとの新聞記事を目にしたのは今年2017年2月。エーッ!初!?なのと僕は思わず声が出た。嬉しかったのは7曲中2曲が彼女のオリジナルであったこと。活動の原点となったかつてのジャズ喫茶だった蔵の中で録音したこと。しかも若い人に録音させたこと。プロデュースを夫に頼んだことなどでしたよ。
11:23:00 - johnny -

2022-10-14

幸遊記NO.340 「盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズ」2017.7.17.盛岡タイムス

 宮澤賢治の親友・藤原嘉藤治が開墾した土地、紫波の全景が見晴らせる東根山麓の天然舞台。(現・紫波ビューガーデン)で、地元の人達と一緒に僕等が立ち上げた実行委員会が主催した「いわて・あづまね山麓オータムジャズ祭・イン・紫波ビューガーデン」の第一回開催が2007年9月16日(これは昨2016年まで10回続けられた)。
 片や盛岡では、同年博報堂が企画した「いしがきミュージックフェスティバル」がロックのライブハウス・クラブチェンジ(2002年12月開店)の黒沢亮介さん主導の元に始動。実行委員会会長は盛岡市長の谷藤裕明氏。「城下町に音楽があふれ出す!」のキャッチコピーよろしく、盛岡城跡公園(岩手公園)を中心に10ステージ100組程の出演で年々盛り上がっているが、資金繰りが大変な様子で、インターネットを使った資金調達法クラウドファンディングを活用し募金を募り、市も資金援助している様子。その点、最初から10回を決めて開催し、入場料と地元企業カンパのみで運営し、官には一切頼らないでやり遂げたあづまね山麓・オータムジャズ祭の実行委員長・瀬川勳氏の実践力は真の意味で尊敬に値する。
 音楽は聴く人が居て、はじめて演奏する人が成り立つものなのだが、今の時代は聴く人よりも演奏する人の方が多く、しかも、自分が演奏すること以外に他の人の音楽に耳を貸したがらないアマチュア。昔のプロは聴く人を神様と言ったものだが、今は耳よりもスマートフォンな目の時代、昔ながらのレコード、CD、オーディオ、コンサートチケットを販売していた老舗・大通佐々木電気が閉まった時のショックから、人事では済まない!と始めたのが2010年4月からの「盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズ・ライブ・フェスティバル」。盛岡大通商店街協同組合と開運橋のジョニーが共同主催する全員完全ボランティアのこのフェスは7月(2017)第28回を数え、12時から17時まで6グループ42人が出演!夏の暑さを吹き飛ばした。
 その帰り道、大通の新聞店前に貼り出されていた「うちまるジャズフェスティバルin盛岡」に目が止まった。県公会堂と内丸緑地公園で7月22日に行われるもので、沢山の協賛企業、県や市の後援による鳴物入りポスターを拝見しながら様々なことを考えさせられた僕でした。熱い暑い!
11:20:00 - johnny -

2022-10-13

幸遊記NO.339 「西條正人のジャズボーカリスト記事」2017.7.10.盛岡タイムス

 ジャズ歌手・金本麻里とバップバンドの共演によるCD話のつづき。ジャズライフ誌のディスクレビュー「金本はちぐさ賞第一回受賞者(2013)で,その名に恥じない見事なヴォーカル力に気持ちが急上昇。丸みのある太い声でノリノリにパフォーマンスするナンバー。情感たっぷりのバラードなど、全楽曲から金本の熱い“気”が伝わってきた。全員がひとつになって彼女をサポートしているバップバンドのライブ感ある演奏もこれまたスインギン」(菅野聖)。
 全国流通してくれているウルトラヴァイヴの前田氏から5月、6月とCDのインストア・ライブ申込で仙台と盛岡、レコード店でのライブ実現。更にそれが高じて、FM東京の全国ネット番組「シンプルスタイル」の「お昼の音」で麻里のCDから「キャラバン」が6月19日オンエア。選曲者はタワーレコード盛岡店の小森さちこさんでしたからビックリ!。
 CD発売東京ライブ日の取材申込は赤旗日曜版・文化、芸能担当記者・西條正人さん(46)。実は彼、2015年にジャズピアニスト・穐吉敏子さんと、彼女の娘さんでシンガー・ソングライターのマンデイ満ちるさんが初共演したアルバム「ジャズ・カンヴァセイションズ」が発売になった時、来日ツアー中に二人を取材し「音楽と親子、平和について」の記事(9月6日付)を書き、それを読んだ新宿のジャズスポット・Jの幸田さん(同紙CD紹介欄ジャズ担当者)から、穐吉ファンの僕のことを知らされ、記事を「開運橋のジョニー」に送ってくれたのでした。
 その新聞が届いた9月12日、それを読み終えたとたん店に現われたのが、記事を書いたご本人・西條さんだったから、今日は最上の日!と駄洒落が飛び出した。その僕を訪ね、岩手まで来てくれたそのことをとても嬉しく思い、同時に親近感をも覚えたのでした。後日更に数部の新聞を届けてくれ、ありがとう!そんなこともあって、穐吉さんの曲「ホープ」を歌っている麻里の新作CDを彼に送ったところ、新宿で取材し、7月2日付文化蘭に世界をめざすジャズボーカリスト・金本麻里の大きな記事「岩手からジャズの新星が生まれました。3枚目のアルバムでは、桁外れのパワフルな歌声を響かせています。ニコニコ笑顔たえない明るい人です。歌い始めると声量と響の豊かさに驚かされます!」でした。感謝!
11:18:00 - johnny -

2022-10-12

幸遊記NO.338 「バップ魂のモダンジャズ歌手」2017.7.3.盛岡タイムス

 この5月2017・盛岡出身、盛岡在住のジャズボーカリスト・金本麻里さんの第3作目のCD「金本麻里ウィズ・ザ・バップ・バンド」を僕のレーベル「ジョニーズ・ディスク」から東京のソリッド・レコード「ウルトラ・ヴァイヴ」を通じて全国リリース。
 本紙・盛岡タイムスは「キャラバン。ハウ・ハイザ・ムーン。といったアップテンポの演奏が多い曲も大半をミディアムからスローテンポで演奏。金本さんの歌唱の伸びやかさが引き立つ」と評。情報誌・遊悠に「ジャズ評論家も絶賛する陰影に富んだニュアンスを表現する歌唱力、その声を最大限に生かすバップバンドのジャズ、その素晴らしいコンビが織りなす曲を聴いてみては」。岩手日報は「豊富な表現力と歌唱力で魅了する金本は1979年生まれ、2011年“ホープ・ガール”でCDデビュー。現在も障害者施設で働きながらボーカル活動を続ける」。
 全国紙の県内版、読売は「この素晴らしき世界、ルート66、など代表的なジャズ10曲を北上のホールで収録。秋吉敏子さんが作曲した“希望”も収めた。力強く伸びやかな歌声とトランペット、ピアノ、ベースなどのリズミカルなバンド演奏が楽しめる」。そして毎日、「“店主(僕)からの歌唱指導に、どうしてだめなのかを悩みけんかして泣いた時もあった。人見知りだし、人前に出るのも苦手”。そんな金本さんの成長を見守り続け、歌う姿を見ては涙を流して喜んでくれる人たちにステージに上がる力をもらっているという」。と彼女の内面を拾った。
 専門誌・ジャズワールドは「金本麻里は第1回横浜ちぐさ賞受賞。その記念アルバム、金本麻里シングス・ジャズ・スタンダード・ウィズ・今田勝トリオに次ぐ3作目。本作プロデューサー・盛岡開運橋のジョニー店主・照井顕は確たるジャズで哲学を有し、いささかの揺るぎもない。はるか昔、陸前高田市で日本のジャズを標榜して、ライブ、アルバムリリースなどをスタートさせ、今日までの足跡はそのまま日本のジャズのストーリーである」。と僕をほめごろし。ジャズジャパン誌は「金本の歌は奇をてつらうところがない直球勝負だがのびやかな声、表情から伝わる大らかさにひきつけられる。演奏も楽しめるカラフルな好ましい作品に仕上がっている」でした。(つづく)
11:16:00 - johnny -

2022-10-11

幸遊記NO.337 「平田弘史の劇画・道慶根」2017.6.26.盛岡タイムス

 あの3.11の津波以前、陸前高田市高田町大石の西屋敷・村上家の庭に道慶松と呼ばれる、気仙隋一のみごとな松の木があった。そこは元和元年(1615)年に村上道慶翁(1559~1644)が寺子屋「西光庵」を開いた場所。翁の本名は織部。祖先は因幡の国の武士。生まれは清水浜(宮城志津川)天正年間に今泉村(陸前高田)に移り住み農民となり、その後高田村にて先の寺子屋を開いた人。
 今からちょうど380年前の寛永14年(1637)年6月の記録的な豪雨によって氾濫し流路が大きく変わってしまった気仙川。それがもとで川の両岸の村・今泉と高田による鮭の漁権をめぐるトラブルから村同士の対立に発展した紛争をおさめようと、自刎(じふん)を決意し「誠あれやこの身をすてて行く水の瀬は渕となる末裔の世までも」「濁りなき名にあふ水のあわれ知れや世の仇浪(あだなみ)に浮き沈む身を」と辞世の句をよみ、遺書を巻き物にしたためて気仙川の真ん中で自らの首をはね、仲よく一日交替で漁をする様論したと云うもの。それを「大日本産業事蹟」という書籍で知った平田弘史氏(知る人ぞ知る日本最高の劇画家)が1993年ミスターマガジン(講談社刊)の「異色列伝・無名の人々」というシリーズマンガ其の六に「道慶根」として発表。巻末には翁の遺徳を称え、大漁の鮭を足元に配し、自ら刀を首にあてた立派な立像を誌上に建立したのでした。
 その彼平田弘史氏は昭和12年(1937)東京板橋生まれ。1958年「愛憎必殺剣」(日の丸文庫)でデビュー。時代劇画を得意とし「武士道無残伝」「薩摩義士伝」「日本凄絶史」「黒田三十六計」などのシリーズ物や、海外向け「SAMRAI SON OF DEATH」を発表、その作風は「痛憤と怨念の渦、頑固なまでに剛直な<士魂>のすさまじさに圧倒される。誇りに満ち、なにものにも屈さない強靭な意志の力にあふれている」(菊池浅次郎・1970年3月現代コミック)と評された。
 道慶根現地取材で陸前高田を訪れた時、音楽大好き楽器大好きな平田さんがジョニーへ現われビックリした記憶もいまだ鮮明。彼は今年2017年東大近くの弥生美術館で」「平田弘史原画展」やらサイン会、80才パーティなど開いたと、顕左衛門のリクエストに応えて近況知らせる手紙が弘史左衛門氏から届いたのでした。
11:13:00 - johnny -

2022-10-10

幸遊記NO.336 「1990年の韓国東亜日報記者話」2017.6.19.盛岡タイムス

 本紙・盛岡タイムス(2017年6月6日付)一面「天窓」に宮城県北のローカル誌「大崎タイムスが韓国の舒川新聞社と姉妹交流。政府間に難しい問題があっても、地方同士の理解を深めることは隣国として大切だ。さりげない話題の背景に日本や世界が見えたとき、面白みを感ずるはず、国を超えた地域紙の結びつきもそこに意義があり、大崎タイムスと読めば“期待”と響くのがうらやましい」とシャレ込んでいた。
 これを読んで思い出したのはやはり盛岡タイムスと交流のある大船渡「東海新報」に僕が「照井顕のプライベート・インタビュー」をほぼ1ページを使って書いていた頃(1990年10月30日付第96回)に登場願った安容男(あんよんなん)さんのこと。初めて行った韓国のソウル市で当時140万部発行の東亜日報編集部を訪ね李部長から日本語を話せる安さんを紹介して貰い、仕事がハネた夜に韓国の伝統的な音楽と踊りと料理と酒が楽しめる店に案内され、御馳走になりながら聞いた話。
「新聞は民衆と政府の意見の中間に立っている。民側にあれば政府から圧力かかり、政府側にあれば学生達が攻撃するが、自分は若者の意見に同情することが多い」「大統領が宣言を守らなくても国民は意見が言えません。独裁よりは弱いですが、労働組合を政府が財閥法で弾圧しています」。「金大中が前に日本で逮捕された(連れ去られた)それは全部韓国政府がやったのだが、今でもだまっています。でも国民たちは全部わかっていますよ!政府がやったことを。だから国民は納得しません」「侵略された反日感情は小学校の時から日本は駄目な国という雰囲気を作ってあります。日本の若者はそんなこと知らない人々が沢山おりますが、韓国ではそんなことを知らない人は一人もいません」。「南は北の共産主義に反対する教育がなされ、今も若者は全部2年6ヶ月間軍隊生活をします」「前には民主主義とか共産主義とかの意識はなく、朝鮮戦争の終戦時、全然わからないうちに38度線が出来て、その時ソ連(現ロシア)の共産主義に反対する人が南に来た。でも自分は故郷を守るという父母が残っても子どもは南へ行く場合もあった。私の父は11人兄弟ですが一人で南へ来た。自由に北へ行ければ父の兄弟に会えるのに、それが出来ない。残念なことですよ」は、今も忘れられない。
11:11:00 - johnny -

2022-10-09

幸遊記NO.335 「吉久修平の横浜Down Beat」2017.6.13.盛岡タイムス

 先月(2017年5月)横浜から河村和宏さんという福岡出身のジャズファンが、開運橋のジョニーに現れ、CD(1980・秋吉敏子in陸前高田)を買いに来ました!と言った。話によると昨年買っていった同CDは、横浜のジャズ喫茶「ダウンビート」に寄贈したから本日又自分用を買いに!だった。店の客から二代目の同店マスターとなった田中公平さんが、3月で引退し、4月から又、店のお客さんだった吉久さんと言う方に代わったと言うのだった。
 この5月、金本麻里のボーカルアルバムをリリースした僕は彼女の関東ツアー初日(6月2日)に新宿Jに僕のジャズ講座生達と聴きに行き、翌日、盛岡に帰る前に横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」と「ダウンビート」を訪問した。ちぐさは昼前から、ダウンビートは夕方の4時開店なのだが、ニュー・マスターが2時頃に特別に開けてくれたので、店内を探検しながら、不破大輔(b)の「渋さ知らず」の活きのいいレコードを聴いた。新マスター・吉久修平さんは32才の若さだ!カッコイイ!彼は座間市の生まれ。立教大学社会学部卒。IT関連の会社に就職し、中学、高校時代の友がバイトしていたダウンビートに通うようになって10年。脱サラしてその老舗名門ジャズ喫茶の店主となった。新レコード係はバイトの横浜国立大生の種崎夏帆さん。リストブックを見てパッと取り出す!
 初代店主・安保隼人さんは戦前、東京両国で音楽喫茶を開いていた人。戦争始まり、廃棄すべき敵性レコードだと没収され、彼も徴兵された。戦後はベーシストとして米軍キャンプで演奏。昼は再開した「ちぐさ」に通い勉強。1956年3月横浜中区若葉町にモダンジャズクラブ「Down Beat」を開店。1961年1月同区花咲町に現在の同名ジャズ喫茶を支店として開店した。店は米国の同名ジャズ誌に紹介され、毎月同誌が届けられた。釣好きだった店主が音のためにつくった「つり天井」にその雑誌を貼り、80代まで店に立ち僕にも年賀状をくれた。その奥様文枝さんから経営交替の知らせを受けたのは1996年6月のことだった。
 昔ジャズ喫茶のお宝は、どこもかしこも外人盤レコードのオンパレード。だが、ダウンビート・安保さんの自慢はチャーリーミンガスのタウンホールコンサート(秋吉敏子・ピアノ)や彼女の米国盤「トリオ&カルテット」だったことだ!感慨ひとしおである。
11:10:00 - johnny -

2022-10-08

幸遊記NO.334 「西一知の詩“ぼくらの理由”」2017.6.5.盛岡タイムス

 「詩はすべてである。個はすべてである」そう言ったのは詩人の西一知さん(1929~2010)。詩人・大坪れみ子さん(63)が滝沢村(現・滝沢市)に2000年4月オープンした、詩と音楽と珈琲の店「ぼくらの理由」。店の名は西さんの同名の詩のタイトルから。僕の店が五木寛之さんの小説「海を見ていたジョニー」に由来するのと同じ様な関係かも。僕は陸前高田からのちょっとしたお上りさんだが、彼女は高知から故郷に戻っての開業。
 どちらからともなく、ぼくらは知り合いお互いの店を往き来し、西さんも時折れみ子さんと連れたって店に来てくれた。少し酔いが回ったある夜彼はピアノを弾いた。曲は「リベルタンゴ」その凄いリズム感の良さに僕はあっけにとられ、女房を見れば同様にビックリ顔!。その詩人・西一知さんの東北初となった「詩の朗読ライブ」を開運橋のジョニーで開いたのは2005年8月。同年10月花巻市東和町で開催された街かど美術館「アートつちざわ(土澤)」(10月8日~11月6日)にて八丁土蔵を舞台に詩の朗読。旧藤村酒店には「ぼくは小さなピーナツを一つつまむ、それから窓越しに、通りをへだてた板塀のチョークの跡を眺める、、、」で始まる「ぼくらの理由」(西一知・詩/照井顕・書)が展示され、作品カタログ本に収録された。
 西さんは1975年、46才の時に、季刊同人誌「舟」(レアリテの会)を創刊(現在も大坪れみ子さんが継続)。1999年には660ページを超える西一知全詩集(沖積社刊)。2003年「詩の発見」(高知新聞社刊)などを出版した彼は、2007年78才で舟の同人・大坪れみ子さんと再婚。幸せな毎日を過していたが、肝臓ガンのため2010年5月81才で亡くなられた。れみ子さんは翌2011年、西一知を偲ぶ「岩手山麓、詩朗読フェスティバル」を開催、更に2012年には、西さんの部屋だった同店奥の間を「西一知記念資料館」として整備し、一般公開。同時に「西一知研究会」を発足させたのです。
 結婚記念にと、二人の詩を僕が書にして同店に展示したのは2007年11月。少量のアルコールは人を優しくする。少しアルコールをのんで冷静にやさしくなって詩を書くのがいいという西さんの「詩はすべてである個は全てである」から僕は「故は個の全てである」と気付かされた。
11:08:00 - johnny -

2022-10-07

幸遊記NO.333 「三島黎子の陸奥烈女伝」2017.5.29.盛岡タイムス

 歴史の紐解けば女としか書かれていない系図だが、どんな時代でも女性たちは次代へ繋げる子を産み育てて来たからこそ、男性以上に精一杯の生き方をしてきたのではないか・・・。その女性の観点から、安倍、清原、藤原三代を支えた母たちの源流をたどって書かれた「陸奥(みちのく)烈女伝」(ツーワンライフ出版刊)は、今静かなるマイブーム。
 作家三島黎子(本名・宇部真澄)さん(72)野田村出身は現・紫波町在住。千葉県に住んでいた1990年代、彼女と僕の共通の友人からの紹介をうけ、当時僕が編集していた月刊の“ケセンよみうり”随筆欄に連載をお願いし、20回程執筆して頂いたことがあった。中味は彼女が中国の大連大学で日本語を教えていた時の話「(東北はズーズー弁)は各国共通?」と「日本でも中国でも東北地方はズーズー弁が似合う」で始まった彼女ならではの筆。当時その連載で僕の興味を引いたのは「楊貴妃の墓は日本にある」だった。遣唐使として日本から渡った安倍仲麻呂が連れ帰ったという話は、義経伝説とおんなじで民衆の同情を集める者には死なせずにおきたいのが人情。大陸からこちらに渡って安楽な生涯を送ったというわけだった。ここまで書いてハタと気づいたのはこれも女性の話、こういうとこらから端を発し、前作「沙羅双樹の花の色」(宗・契丹茶立女ものがたり・東洋書店刊)そして今回の陸奥烈女伝へと繋がって来ているのかと一人がてん!。
 三島さんの処女作だった「櫓(やぐら)」も確かスカートをはいた女の子がやぐらに登って下りる時、はずかしさに気付く話だった様なとあいまいな記憶をたどれば、彼女の作品に一貫して流れているものは女性の立場としての書き方なのだった。彼女は井上靖氏のファンで、氏が「人間は40才になったら誰でも本の一冊は書ける」と書いていたものを読み、「じゃ私も書いてみるか」で書いた短編の櫓が選者井上靖氏の北日本文学賞選奨に輝いたのが始まりなのだから縁の不思議!。「女性も自分のやりたいことを自分の責任で人生をまっとうして生きなさい!他人がごちゃごちゃ言ったってあなたの人生!雑音にまどわされず望む道を進んでほしい」と女性から女性へ願う彼女の顔が平泉の一字金輪仏頂尊・人肌大日如来の顔と僕の頭の中で重なった。
11:06:00 - johnny -

2022-10-06

幸遊記NO.332 「八木淳一郎の星にかける願い」2017.5.22.盛岡タイムス

 前回この幸遊記にて前盛岡タイムスの編集長だった関口厚光さんの本「賢治詩歌の宙を読む」について書いたが、本紙に2週に1度木曜掲載している「夜空に夢見る星めぐり」の筆者は医師で盛岡天文同好会の八木淳一郎さん(70)。実に16年間も書き続けているのだからまさに星の数。昨2016年9月29日付までの数年間その星めぐりコラムに添えられていた素晴らしい星空の写真、それを撮影していたのが、実は関口厚光さんでした。
八木淳一郎さんは2003年に火星の大接近に合わせて開いた観測会で、天体望遠鏡をのぞいた人々の喜ぶ姿に喜びを感じ、すぐさま、街行く人々に星空を!と「星空の屋台」を同好会の人達と盛岡中ノ橋のたもとで毎週木曜日の夜に開き始めた。橋を渡る人が思いかけず天体望遠鏡で星が見れる!体験できた人々は大感動し、子どものような純真さにかえる。「その人間観測もまたおもしろいんだよね」と言っていた八木さん。
 その星空の屋台は、第17回「星空の街・あおぞらの街」全国大会で、小池百合子環境大臣(現・都知事)賞に輝き、高円宮妃久子様が来県した折、星空を観察して頂くご案内役を果たしたのも彼だった。その縁あって、穐吉敏子CD(2006年度SJディスク大賞、日本ジャズ賞特別賞に輝いた、僕のプロデュース作品・渡米50周年日本公演)は、県を通じて皇后・美智子様に献上させて頂いたものでした。
 盛岡天文同好会は1949(昭和24)年の創設。1965(昭和40)年に新生盛岡天文同好会として再発足。会誌連星を発刊。’67年県教育センターへ天体観測施設設置を県に要望、この運動実り’69年、口径20センチ屈折望遠鏡とドームが設置され市民観望会も度々開かれていた。’88年同センターの花巻への移転にともない、小岩井農場への移譲を県と農場に働きかけ、’93(平成5)年「小岩井まきば天文館」がオープン。’98(平成10)年には盛岡市議会が盛岡天文同好会の請願「盛岡子ども科学館への天文台設置」を満場一致で採択。それから14年後の2012(平成24)年、ついに天文台が出来ることになったと喜んでいた笑顔と、盛岡天文台が出来るまでコラムは書き続けると言った言葉は、そのまま賢治詩を解読した関口さんの文へも連なる様な気がする。
11:05:00 - johnny -

2022-10-05

幸遊記NO.331 「関口厚光の賢治詩歌の宙を読む」2017.5.15.盛岡タイムス

 本の出版社「岩手復興書店」の店主である関口厚光氏ご自身初本となった「賢治詩歌の宙を読む」の出版記念会が、5月12日(2017)サンセール盛岡にて開催され出席した。関口さんは東日本大震災のあった翌年、本紙「盛岡タイムス」の取締役編集局長を退き、すぐさま「岩手復興書店」を開業した方。
 大西民子講演録「昭和十年のころ」、遠藤広隆「南部馬の里・写真集」、外崎菊敏「胡堂伝・百年分の借金をはねのけた男」、八重嶋勲「父の手紙・野村胡堂に注いだ愛情」、武藤美由紀「被災の町の学校再開」など20冊程生み出した。「岩手の人たちの、知の営みを伝えたい」これが彼の理念。始まりは電子書籍での出版であった。
 歌人で「北宴」の代表編集者でもある小泉とし夫さんの口語短歌を、僕が書にした書歌集「八十二歳の朝とエリーゼのために」が彼の手により、電子書籍というCD本(パソコンやタブレットなどで再生)を出版してくれたのが2012年10月1日のことでしたが、その彼が小泉とし夫さん(90)に「読んで貰いたい」と「賢治詩を読む」の原稿をたくし、ちょうど4年後の2016年9月30日午前0時00分発、銀河鉄道の客となって、あこがれた恒星間飛行に旅立ってしまったのです。
 その関口氏(60)が盛岡タイムスの編集長だった2009年1月19日、僕のために週一の連載コラム欄を設けてくれてたので、世界に誇るジャズピアニスト・穐吉敏子さんに関する「トシコズ・ドリーム」を百回書かせて貰った。すると「次週から交友録を書いてみては」の彼のアドバイスを受け「幸遊記」を連載させて頂く様になり、これがその331週目。
 浮かんでくるのは小泉とし夫さんの「きみといて ことばなくして おきなぐさ もうわたくずとなったぼくで」だ。小泉さん自身も「詩人・村上昭夫の肖像」や「賢治の置土産」を本紙に本名・岡澤敏男名で連載させた関口さんだけに遺稿となるものを彼に送り読ませ、読んだ彼もそれを北宴誌で連載を開始、その半ばでこの度の遺稿集の出版となった。その労をとったのは岩手大学名誉教授で宮澤賢治記念短歌会の望月善次さん。宙の星々と地上の星々の恋物語を写真で証明してみせた関口さんは賢治の詩からその恋物語を読み解きそれを遺稿に顕示してみせた。流石です!
11:04:00 - johnny -

2022-10-04

幸遊記NO.330 「北湯口佳澄のジャズクラリネット」2017.5.9.盛岡タイムス

 今年2017年東京都文京区にある「尚美ミュージックカレッジ」のジャズ・ポピュラー学科に入学した岩手県大槌町出身の北湯口佳澄さん(18)は、クラリネットを吹くことに無我夢中の様子である。そのクラリネットを始めたのは中学1年の時。「吹いてみてと指導者から言われ、全員で吹いてみたのですが音が出たのは私だけ。何ていい音なんだろうと思った。でも音階のシとドの音を出すのに3日もかかったの」。「それはシドかったね!」と僕!彼女はクラクラと笑いこける。「ゆっくりと吹いて、だんだん慣れてくると楽しくなって、皆と合わせながら、難しい曲も吹ける様になりたいと、ひたすら練習してきました。」
 佳澄(かずみ)さんは三姉妹の一番下。長女の佳織さん(26)は大槌ウインドオーケストラでクラリネットを吹き、次女の美佳さん(22)はホルンを吹く。上のお姉ちゃんの吹音にあこがれ、次女の美佳さんの同級生でトランペッターの臺隆裕(幸遊記№289)さんのJAZZプロにあこがれ、大槌高校では吹奏楽部に所属した。だが部員は女子だけの8人。大会には出られそうもにもなかった。
 そこで同校の先輩・臺さんに相談したら、来校し、ジャズで挑戦してみようよ。と指導してくれて「チキン」という曲にアレンジをほどこし「キチン」とクラのソロを取り入れた演奏で「とても楽しかったんですよ」それが佳澄さんにとってのジャズ初体験!。その高3の挑戦的演奏は、降参ではないジャズが理由の落選だった。しかし「尚美」の高校生ソロコンテストに於いては、バンドをバックにソロパフォーマンスした演奏・「ボヘミアン・アフターダーク」で何百分の2位に選ばれ、学費半額の特待生になれたのだから、彼女の努力はおして知るべし!。
 佳澄さんが努力する基となったもの!これまた、小学校の同級生で、中学では3年間同じクラスで仲の良かった優しい子・臼澤みさき(本名・岬)ちゃんが6年生の時「第49回青少年民謡全国大会で「民謡グランプリ大賞」を獲得。中学2年の時「故郷」で歌手デビュー。昨年には彼女の歌「花は咲く~盛岡2016」でNHKフィギアエキシビジョンにて羽生結弦さん荒川静香さんらが舞ったことなどの刺激からなのでした!クラリネットの名演、故・鈴木章治の「鈴懸の径」佳澄流はこれからです。
11:02:00 - johnny -

2022-10-03

幸遊記NO.329 「菊池智のエコロルコーディネート」2017.5.1.盛岡タイムス

 歌手・郷ひろみ・1955(昭和30年)と同じ年、同じ月(郷は10月18日、自分は8日)生まれなのが僕の自慢!そういうのは北上出身、現・雫石町に家を持つ菊池智さん(62)。彼が僕の店に現われ始めたのは2003年。同年3月25日~31日の一週間僕の写心展を東京・原宿のギャラリー・ハセガワで開いたあと、一枚を店に飾っていたら、菊池さんがバーボンウイスキーを飲みながらその写真をまじまじと見つめていたが、そのあと「マスター、この写真どこで撮りました!」だった。「雫石駅の手前辺りだったかな」いい場所でした、眼下の田んぼの中の三叉路に車がさしかかった時の一瞬。手前には上を走る道の下にある家の屋根が半分写ってた。「この屋根、僕の家ですよ!」だったから、僕もビックリ・ポン!と彼にプレゼントした。後年、その下町の彼の家は御所湖広域公園にかかって同町御明神に移転、再度ログハウス風に家を建て直した。その新転地は農地で1500坪。景色のいい高台で自家用野菜を作って、それを調理して食べさせる店「Café・Gance」を開店したのが2011年2月。
すぐ震災が起きたが、震災を期に東京から戻ってきた同町出身のプロギタリスト・小林道夫さんや彼の奥様で、やはりプロジャズ歌手の小林ゆうこさん、ピアノの北島貞紀さん等が-店に出演する様になり、町長も来店したりと知名度が上がり、翌2012年7月15日、14時から18時、店の庭先を使っての「JAZZ&ROCK・ガーデン野外ライブパーティ」出演・金本麻里(vo)・澤口良司(ds)カルテット&いちごスターで大変な盛上がりを見せた。
菊池智さんの父は国鉄職員だったことから小学を北上、秋田、釜石と3回も転校、中学の時、父が買ってくれたギターはヤマハじゃなくてマルハだったと笑う。黒沢尻北高時代にはサッカーとギターにはまりフォークバンドを作り労音や新音に出演した後上京。日本獣医畜産大ジャズ研に所属、卒業後八王子の臨床検査の医療系会社に就職。岩手に転勤でUターン。
カフェ・ガンスを始めて2年経過した時、県の非常勤職の話があり店を閉め、ゼロエミッション(廃棄物減量化推進事業)、豚、牛の糞尿、汚泥、産廃などのエコロルコーディネーターとして働きながら、最近手に入れたジョーパスモデルのジャズギターに夢中の日々。
10:59:00 - johnny -

2022-10-02

幸遊記NO.328 「及川浄司の古希の花籠」2017.4.24.盛岡タイムス

 僕達夫婦にとって特別な存在であるマリア様のような方から誕生月プレゼントのご招待にあずかり、今話題の歌と音楽とダンスのハリウッド映画「ララ・ランド」を見に、久し振りに女房の小春とフォーラムへ行って来た。映画はジャズ演奏のスタンダードな形態をもちいた様なストーリー展開で、バースの奇想天外な場所大渋滞(高速道路)での大群のアクロバットダンスで始まる女優とジャズピアニストの恋物語。監督は世界中に興奮と熱狂を巻き起こしたあのジャズ映画「セッション」のデミアン・チャンゼル氏。
 その2017年4月20日僕が古希になった日の夜、大きな花籠を抱えて花巻から開運橋へやって来たのはピアニストで歯科医の及川浄司さん(58)。真紅のバラとガーベラ、ワインレッドのカーネーション,紫の小さな蘭と真白い大きな蘭。ララからランラン(蘭蘭)「ジョニーさん、お誕生日おめでとうございます」でした。ありがとう!ありがとうございます!。
 彼、及川浄司さんのピアノを初めて聴いたのはもう30年余りも前のこと。三陸町(現・大船渡市)の小松歯科で彼が研修を積んでいた時、小松さんと一緒に、当時陸前高田にあった僕の店にやって来てピアノを弾いた。その曲の流れをつくる一音、一音に、僕は体が震える程感動した。上手下手ではないそれは美しい魂の音色!。演奏するということは、音の神様を天から地上へお連れし、演奏者の全てを意のままに使わして音楽してもらう、その無心さにこそ音楽は宿るのだということを感じさせられた瞬間だった。
 及川浄司、花巻生まれ、盛岡一高で始めたドラムを大学時代(岩手医大歯学部)にピアノへと転向、だが譜面も読めなかったことから自己流での耳コピーを始め、くる日もくる日もピアノに夢中になり、大学は一年遅れでの卒業!。今では、歯科!とした医師(意志)を持つジャズピアニストとして多くのファンを持つ。
 かつて僕が担当していたFM岩手のジャズ番組にも1994年11月、96年1月の2度放送の為に、ジョニーで録音した彼のオリジナル曲を含む演奏を流しながら出演して頂いた。又、彼のカルテットで盛岡大通ビックストリート・ジャズフェス、紫波ビューガーデンでのオータムジャズ祭、開運橋のジョニーでのライブと彼の演奏を長年見聞してきたが、彼は一音一音の隅々まで全身全霊を傾けて弾くまったく稀有(けう)なるピアニストの中のピアニストなのだ。
10:58:00 - johnny -

2022-10-01

幸遊記NO.327 「森鍵清造のホームスパン紡毛機」2017.4.17.盛岡タイムス

 平成25年(2013)、パプアニューギニア、ビスマーク諸島慰霊友好親善訪問団(戦没日本兵親族)に参加し、昭和18年6月4日戦病死した盛岡出身の森鍵清造さん当時(33才)の戦没地を訪ねた時の現地の新聞コピーを、昨2016年7月僕に見せてくれた森鍵清一さん(78)。
 彼の父・清造さんは明治44年生まれ、少年時より大工見習い。ホームスパンの全行程の中で、その最も重要な部分(綿を糸にする)そのホームスパン用の紡毛機を考案し製作、販売した(盛岡市の森鍵製作所)。その最初の簡易紡毛機は昭和9年(1934)に、大日本総合青年団理事長から「その研究と成績見るべきものあり、依って茲に助成金を交付す。尚一層の奮励により右研究完成望む」の證。
 受け取った森鍵清造さん(23)はその後も研究改良を重ね、3年後の12年5月、社団法人・帝国発明協会会長の正三位勲一等男爵、阪谷芳郎氏から、紡毛機で表彰を受けた。それに依れば「右ハ東北六県、北海道、樺太、朝鮮、台湾、及、関東州ニ於ける発明ニ付商工省発明奨励費交付規則に基く本会発明表彰規程に依り審査の結果實施ノ効果佳良ナル発明ト認メ之ヲ表彰ス」の表彰状。その発明証に関西以南だけが含まれていない不思議は、その時愛知での競技会でトップだった森鍵さんが、ライバルの豊田織機(トヨタの前身)にその座をお裾分けをしたからだったらしい。
 その紡毛機のことを清造さんの一人息子清一さんから聞いたのは2003年。そして今年(2017)4月5日、彼から電話で「ホームスパンのみちのくあかね会に来てるんですが、父の紡毛機がここにありました。いま皆で実際に動かしているところです!」と声の様子から感動と感激が伝わってきたのでした。
 みちのくあかね会!僕の頭があの2003年に戻る!いわて・そめ・おりネットワークが「岩手の布土・作品集」と言う写真集を制作した折、その作品写真を撮ったのが僕で、あかね会に行った時のそのたたずまいや、紡毛機や機織など、どれをとってもすべてが古いものを使っていた。えもいわれぬ印象だった。その昔で思い出すのは深澤七郎のベストセラーで映画化なった小説「樽山節考」昭和32年の表紙と中表紙の絵。描いた画家の故・高橋忠弥さんは清一さんの母の姉のご主人だったことだ。
10:55:00 - johnny -
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