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レポート2022-09-30幸遊記NO.326 「衣笠祥雄のジャズとホームラン」2017.4.11.盛岡タイムス
僕が子供だった頃の遊び場は、平泉町の達谷窟の広場だった。(現・達谷窟毘沙門堂前の庭園)そこでの遊びは野球。ボロ布丸めて引き裂いた布糸や麻糸でぐるぐる巻きにしたボールと、山の木をノコで切りナタで削って、茶碗の欠片でカンナかけした手作りバット。打球が広場を超え田んぼに落ちればホームラン。その楽しさの延長で中学で野球部に入ったが、暗くなるまでの球拾い、毎日夕方に真空管のラジオにかぶりつき、聴いていた「少年№1」が聴けなくなったことから即退部!。
以来野球とは無縁になったが、チリ地震津波の後に陸前高田に市営松原球場が出来、間もなくプロ野球2軍のイースタンリーグ戦が行われ見に行った。どことどこの対戦だったかのかもまったく記憶にはないのだが、唯1人、ホームランを打った衣笠(祥雄)という人の名と、その光景だけは、今も鮮烈に覚えている。彼は僕と同い年1947年に京都に生まれ、平安高校から広島カープに入団。1970から連続出場で世界記録を塗り替えた人で、75年赤ヘルブームの立役者。87年には国民栄誉賞を受賞した鉄人(初期の背番が28号)。 昨2016年、広島東洋カープがリーグ優勝した時、大阪で発行されているテイクフリーのジャズ誌「WAY・OUT・WEST」10月号に、その衣笠氏のインタビュー記事(2012年12月号の再掲)が載っていたので読んでみた。 彼は、広島カープに入団して間もない頃に出合ったのが流川のジャズ喫茶。その店で知り合った「アメリカ海兵隊さん(ベトナム戦争に行く若い2等兵たち)が死と隣り合わせながらも、音楽が聴ける喜びを語っていた彼らに接し、野球が上手くいかずイライラしてくさっていた自分を本当に恥ずかしく思ったことを覚えている。その時からジャズの持つ自由な広がりや、お互いをぶつけあうスリリングな展開に惹かれていった。選手生活を終えてから初めて参加した故・大橋巨泉氏主催のハワイ・マウイ島ゴルフ大会で聴いた故・ジョージ川口、日野皓正等が夕陽を背にした演奏は最高の瞬間で今でも忘れられない」という。それは僕の見た若い衣笠さんのホームランと同じ一瞬の永遠なのだろう。1975年僕等が主催した歴史的革命の大音楽祭」の会場だったあの松原球場がリニューアルなった直後の2011年3月11日あの津波でした。
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johnny -
2022-09-29幸遊記NO.325 「若杉実のレコードの渡良瀬方」2017.4.3.盛岡タイムス
僕は何がしかの用事があって上京すると、少しでも時間がある時は必ず中古レコード店や古書店に足が向く。先日は復活なった横浜野毛日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」の5周年にお招きを受け、上京した際、新宿3丁目の集中するデイスクユニオンに足を向け、最初に入ったロック館を眺めていると、マスクをした男性に「ジョニーさん!」と声を掛けられた。
マスクを外し現われた本物のマスクは、音楽ジャーナリストの若杉実さん(48)。手には何枚ものレコード。会計も並んでいて時間がかかりそうなので、「僕はジャズ館に行ってますから」と声を掛け、ジャズ館にやって来た彼と近くの喫茶店で少し話をした。若杉さんは昨2016年4月20日(僕の誕生日)に、シンコーミュージックから「東京レコ屋ヒストリー」(460p)を出版した人。 この本は1903年から現在まで東京の音楽文化を発信し続ける“レコード屋”の歴史をつぶさに追った史上初のドキュメンタリー!と帯にある様に、日本最古の輸入レコード屋に始まる過去から未来までをもあぶり出しながら、昨今のオンラインショップの利便性も説いているが、居ながらレコードを受け取れる恩義と同じくらい、空虚感も溜まっていく。同じレコードなのにどこかが違うのは、いつどこにどうやって行き、どんな思いでどんな風に探し、どんな対応をしてもらってこのレコードを手に入れたか!とその愛着の違いまで説いている彼は2万数千枚の収集家でもある。 ジャズレコード史も今年2017年で丁度100年。僕のレーベル「ジョニーズディスク」も40周年を迎えた。当時僕が制作したそのレコードも何枚か見つけたが、1枚7000円から1万円以上もする高値で売られていることに驚きと喜び、そしてため息までが同時にこみあげてくる。5作目の「海を見ていたジョニー・坂元輝トリオ」解説・五木寛之に至っては和ジャズの名盤中の名盤と言われ、1枚何と10万円を超す超高値。 それらジョニーのレコードはCD盤に焼直し2007年から渋谷ジャズ維新シリーズとしてウルトラヴァイブから再発!となったが、その監修をしたのが若杉実さんで、以降、新作の宣伝にも一役買ってくれていて、ありがたい存在の人。彼は栃木県足利市出身、現川崎市在住。2014年には「渋谷系」(シンコーミュージック)という本もものにしている渡良瀬の男なのである。
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johnny -
2022-09-28幸遊記NO.324 「アナログレコードのある暮らし」2017.3.27.盛岡タイムス
去る3月20日(祝・月)付盛岡タイムス一面の「天窓」欄、1982年のCD誕生以降衰退の一途をたどってきたアナログレコードについて「唯一残った国内レコードプレス工場やレコード針の生産工場が風前のともしびから、今やフル回転へと復活したようだ。時代は回りながら進む」と。
又、昨2016年12月23日付朝日新聞、一関のジャズ喫茶ベイシーの店主・菅原正二さんのコラム「物には限度、風呂には温度」の第120話「イースト・オブ・ザ・サン」にて「来る年2017年から爆発的なアナログ・レコード・ブームが湧き起こるという。ホントかいな?と思うが、ホントらしい。実はマニアックな人たちの間では10年以上も前からそれは起こっていたのだが、飛び火して、何の罪もない人々にまで伝染そしてバンデミックが起こるのが来年だとマスコミが騒ぎ出している。これはしかし日本だけの話ではなく世界的な雲行き、、、、」とある。 音楽鑑賞スタイルがレコード、CDなどの固体物から配信という無形物?へと変化しCD,レコードの大形店廃業が相次いだアメリカで、個人経営のレコード・ストア・デイが始まったのが2008年。4月第三土曜日に、有名アーティストがアナログ盤限定作品をレコード店で発売する世界同日開催の原典。日本も本格的に参加したのは2012年。今年2017年は4月22日(土)の同時開催で、21ヶ国、数百のレコードショップが参加を表明している。 実は今、レコードフェアや東京の中古レコード店はどこへ行っても黒山の人だかりである。盛岡出身・在住のジャズシンガー・金本麻里さんが、第一回ちぐさ賞を受賞した時の副賞として制作されたのもCD付アナログレコード盤2014年での発売で、あっという間に売り切れる人気振りでした。昨2016年秋には「レコードのある暮らし」というフリー冊子も創刊されて大人気。プレイヤーも一万円弱のものでアンプ、スピーカー内臓という簡単なものが若者達の間に普及している様子なのだ(僕も高校生時代を思い起こさせられた)。 「効率と合理性に追われる生活の中で、ふっとひとときこの音に包まれるということ。人類ではなく“にんげん”みたいなことを思い出させてくれる気がする」とゼロからスタートし、その後のレコードライフを語る宇宙女子・黒田有彩さん(30)の感動体験のNASAり方も面白い。
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johnny -
2022-09-27幸遊記NO.323 「早坂澄子のやる気根気の大切さ」2017.3.20.盛岡タイムス
この原稿の元は紙と鉛筆、以前はコクヨを使っていたが、最近は年令にふさわしく
?オキナの原稿用紙。文字は年々書き進む速度が落ちるし消す数が多くなり、時間だけが過ぎてゆく。その消しゴムと鉛筆で忘れられない一編の詩がある。「えんぴつ、私の口よりも心の中を正確に表現する、コンピューター。 消しゴム、まちがいだらけの汚い文字を 白紙にもどす、魔力。日記、私の短い生果てるとも永遠に存在する、宇宙。 えんぴつ、消しゴム、日記、ひととき心をつづる私の友達」早坂澄子さん(60)が独身時代に「青磁」のペンネームで書いたファーストポエムである。 彼女は今、都内で看護士をしながら、趣味?の組紐(くみひも)に取り組んでいる。何百本もの様々な用途の美しい作品の数々には、見事という他はないのだが、どうやら、そのきっかけとなったのは彼女が子育てをしている時に、父が怒りながら言った「箸を上手に使う!紐を結ぶ!は日本の文化だ!それをちゃんと子供に伝えないでどうするんだ!」だった様子。 高校を卒業する頃,自立出来る職業は何かと考えた末、縫い子になろうかとも思ったらしいのだが、おじいさんの弟が入院し、おじいさんに連れて行かれた病院で嗅いだ消毒液の臭いが自分の感にふれ、看護婦になろうと3つの看護学校を受け浦安で学んでの看護士生活。子供達が自立して上京したことから、自分も宮城から上京。東京で看護士生活を始めた時に気になりだしたのが、お茶と組紐だった。 そのどちらも結局のところ歴史を勉強しなければならないことに気がつく!。その組紐の文化をさかのぼれば、何と世界遺産の平泉藤原三代の秀衡公御棺(おひつぎ)の中にたどりつくという。その「秀衡公の組紐」は黄、赤、白、縹(はなだ)、紫の五色の絹糸で組まれ、その色彩と紋様の美しさ、出来栄えの見事さ、精緻な構造などから、日本組紐の最高傑作であるとされ、重要文化財となって「中尊寺組」と呼ばれる。その組紐を模して現在によみがえさせたのは東京の「有職組紐道明(ゆうそくくみひもどうめょう)」の故・山岡一晴氏の考案によるもので、その組紐は最近まで中尊寺の秀衡公の木像の胸を飾っていたのよ!と誇らしげに、今160本の糸とコマを使い紐を組んでいた。
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johnny -
2022-09-26幸遊記NO.322 「菅野有恒の東松照明の世界展」2017.3.13.盛岡タイムス
東日本大震災の津波から丸6年。3月11日が巡ってくる度に思い出すのは、陸前高田駅前で写真店「カメラの和光堂」を経営していた菅野有恒、太佳子夫妻のこと。あの地震のあと店の近くで一人暮らしをしていた有恒さんの母を車に乗せて逃げようと迎えに行った時、近所で一人暮らしをしている女性達3人が道に居た。自分が降りればみんな乗れる!と太佳子さんが残って車は避難先へ。皆を降ろして母を頼みます!と言い残し猛スピードで引き返した彼は津波と正面衝突し波にのみ込まれた。その時有恒さんは56才、太佳子さんは55才だった。
僕がジョニーをはじめて1~2年たった頃、彼は大学を卒業して陸前高田へ戻ってジョニーに通い、学生時代に好きになったシンガーソングライター・豊田勇造のレコードを店に持参して「マスター!俺この人呼びたいんだ」と言った。そのシンガーがジョニーにて弾き語ったのは、市内荒町にあったジョニーの店舗を大町に移して半年後の、1978年の5月17日のこと。 ちょうどその時、ジョニーに次ぐ市内2軒目の音楽喫茶「灯」が駅前通りに開店したので共同主催した記憶!。以来2~3年に一度のペースで来演した。有恒さんも太佳子さんも独身時代、別々に僕の店・ジョニーに通っていた常連客だったが、とある深夜、酔いつぶれカウンターでウツラウツラしていた僕を起こして「マスター、俺結婚するから!」だった。「誰と?」と僕がたずねると、太佳子さん!で、僕が眠っている間に話し合ってお互い即決したのだ!と言う。 結婚披露宴は市民会館の大ホールで開催した「豊田勇造コンサート」。いわゆるディナーショー形式の宴会で、親戚ビックリ,友人大喜び。以降彼は「人力舎」名で、毎年のようにジョニーで豊田勇造ライブを開催し続けてきたのでした。82年3月31日から4月4日まで、市民会館を全館借り切るという前例のない写真展「東松照明の世界展」を大々的に開催した。その直前僕と彼は太佳子さんが当てたヨーロッパ半額旅行チケットでギリシャまで行き、パルテノン神殿でポスターを外国人女性に持たせ、有恒さんが撮影。その写真を広告宣伝に使った想い出は今も消えず。その時の実行委員は和光堂とジョニーの常連客達だった。
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johnny -
2022-09-25幸遊記NO.321 「増田れい子の母・住井すゑ」2017.3.6.盛岡タイムス
電話の向うで「照井さん、夢のゆくえという本をお持ちですか?26人の熱い女たちのことが書かれていて、その中に穐吉敏子さんも載っているんですが?」だった。僕は知らない持っていない。後日、その電話の主が現われ「つれあいのお千鶴さんの本だけど再読して“好きな書き方をする人だよ”と言ってました。ハイプレゼント!」
本は1982年鎌倉書房刊。登場の女性たちは、向田邦子、黒柳徹子、吉原すみれ、安川加寿子、兼高かおる(僕の息子の名も兼高)、森英恵、前橋汀子、赤尾三千子、橋田寿賀子、澤村貞子、高田敏子等々読みたい人だらけ。中でも「スープのそばの音楽」と題された秋吉敏子を真っ先に読んだ。その冒頭「この曲は別府の知り合いに何かつくってほしいと言われて書きました“タイム・ストリーム”です。ハスキーな声のあとに続いた数分の曲が忘れ難く、耳に残っている。この曲はとりわけ私にはあえやかにやさしく聞こえた。」とある。 35年以上も前のこの話の主、つまりこの曲をつくって貰った人と僕は、来年(2018)米寿で米国から帰国公演する穐吉さんの出演について連絡を取り合っていた最中だったから、何とタイムリーなストリームなのだろうと思った。 著者・増田れい子氏は、穐吉さんと同年の1929年に生まれ穐吉さんの誕生日12月12日(2012)に亡くなられた。毎日新聞初の女性論説委員や学芸部編集委員など歴任した方で、1984年女性初の日本記者クラブ賞を受賞。マスコミ九条の会、女性九条の会などに関わった。著書は「くらしのうた」「午後の思い」「独りの珈琲」「風の行方」「ゆりかごの歌」など30冊程。彼女はこの「夢のゆくえ」の26人目に母を登場させて書いている。 母とは、あの不朽の名作「橋のない川」の著者・住井すゑ。差別され、“部落民”と呼ばれさげすまされ続けた悲惨な境遇から栄光の日を目指して立ち上がった人々の、心の純粋さ明朗さを迫力ある筆で描いた大ベストセラー(450万部)は連作映画(1969、70)にもなった。戦時中長男を軍隊にとられると連日部隊長に手紙を書き送り「人殺しにするな」と訴え続け、自分を軍法会議かけるならかけろ。逮捕するなら逮捕せよ!と言い続けた。それはまさに子の生命を生んだ“母”だからこそ言えた真実であろう「人間は生命を生む、権力は命を奪う」が母・すゑの根底にある認識とあった。
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johnny -
2022-09-24幸遊記NO.320 「山崎純醒の義経北紀行伝説」2017.2.27.盛岡タイムス
「義経北紀行伝説・第一巻・平泉編」(批評社)の出版を祝う会(代表発起人・藤井茂・一般財団法人新渡戸基金・常務理事・事務局長)が去る2月18日(土)2017、サンセール盛岡にて行われ、発起人10名の1人に僕の名も連ねられて出席した。作家の金野静一氏、斉藤純氏や紫波町平泉関連史跡連携協議会の瀬川勲氏、紫波町長・熊谷泉氏、衆院議員の階猛氏、高橋比奈子氏等、約100名が参加し出版を祝った。
著者・山崎純醒さん(60)は以前、義経自害説を信じていた様だが、高校教師で歴史家の佐々木勝三著「義経は生きていた」(東北社)を読んで衝撃を受け、引越し先の紫波町にて平泉に関連する史跡を訪れては浮かんでくる疑問や理由を調べているうちに、義経の生存を暗示する事実に出会い、幕府や朝廷の目だけでは見えない、征服された東北の消された史実を、文章として残したいという衝動に駆られ、四方八方、ありとあらゆる歴史本を読み、それらを検証し、実際に伝説・伝承の地を歩き見聞してモノにした、正史の虚構を覆す実証本とも言える力作!。予定では第五巻の10年先まで見据えているという。 これまで幾度となく「出します」、「出ます」の繰り返しあり、自ら日本ペンクラブ正会員を退いた経緯もあり、出版は泣くほど嬉しいだろうなと思いながら、少しずつ読んでいる。その間彼は本に関わる講演や、義経北行ミステリーツアーの企画実行。ヒューマンネットワーク「ONE・WORLD」(人材銀行)を立ち上げての異文化交流の実践や、いわて賢人会議などを開いても来た行動派である。 山崎純醒(本名・稲造)、30代より、新聞や文芸誌などに寄稿を始め、40才でフリー・ライターとして独立。日本文芸家協会会員、日本詩人会議メンバーとなって詩の個展を開催。エッセイは、文芸書評、自然科学、日本語と言霊、仏教思想、氏姓と家紋、歴史人物など7本の連載していたが、ガンを告知され休筆。だが、義経北紀行伝説書かずして死ねるかと生還してのこの本の出版は、正に彼自身の死をくつがえす北帰行伝説そのものであるのかも知れないし、彼の父が書きのこした3万ページの姓名科学の海を「櫂(かい)」で漕ぎ渡ったのか? 「今は黙してゆかん、何をまた語るべき、さらば祖国いとしき人よ、明日はいづこの町か」小林旭の歌がくちびるからこぼれ出る。
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johnny -
2022-09-23幸遊記NO.319 「青木嘉賀利のジャズのかがり火」2017.2.20.盛岡タイムス
お名前なんでしたっけ?と何度か問い「かがり火のかがりと覚えれば」との彼のことばに反応して浮かんだのは、ほつれ難いかがり縫いのかがりだった。以来彼とは来店の度にそのかがり縫いの部分が多くなって一生ほつれないような気分である。彼・青木嘉賀利さん(58)が「母は昔、花巻で“花”という名の店をやっていた」との話しに反応したのが、近い席に座っていた花巻出身のご婦人!「どこそれにあった店でしょ。私よく行ってたもの!あの“花”の息子さんなの?」だった。
母の名は明子。だけど店内は黒色で、灯りの下には絶対立たないし、昼の顔は客に見せない徹底ぶりだったと、少年時代の母を振り返る彼。お客さんが店に置いていたレコードを聴き、音楽好きになり、ジャズは大学一年18才の時、新宿ピットインにて聴いた板橋文夫(p)の“渡良瀬”に感激、以後今田勝(p)鈴木勳(b)浅川マキ(vo)本田竹広(p)を聴き歩いた。 大学を出る頃、仏像にはまって寺めぐりを。般若心経を丸暗記して意味を紐解いては本に夢中になり、帰郷して本屋勤め。母の父が営んでいた旅館を手伝う為母が釜石に戻る時、自分も盛岡から釜石の本屋へ転勤。市内の「タウンホール」大槌の「クイーン」などのジャズ喫茶へ通い、そこで読んだのが、ジョニーの本「瑠璃色の夜明け」だったと彼。 そんな釜石時代に独自ルートで世界のジャズレコードを輸入販売している大坂のレコード店「ライトハウスE」から通販でレコードを買い聴いては、その感想文をレポート用紙に書いて店に送ること、10年でLP一千枚分を超えていたと彼!。そして40才の時、盛岡で仕事をすることになり、買って聴いたレコードは全部頭に入っているから、あとはジャズ喫茶で聴こう!とレコードを処分。以来、ジャズの店を中心に、ロック、ブルース、フォーク、ポップス、ライブハウス等、盛岡市内の全音楽関係の店の常連となって聴き歩き続けて来た真の音楽ファン。よく行くブルースの店「フィール・グット」に先日盛岡公演に来たあの「ジェフベック」が公演後やってきて、サッチモ(ルイアームストロング)をリクエストしてガンガン大きな音で鳴らしてくれと言ったそうで、帰りには店の壁にサインをしていったと、携帯の写真を見せてくれたことに僕はかがり(かなり)ベックりした。
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johnny -
2022-09-22幸遊記NO.318 「佐々木健一のカザルス的生き方」2017.2.14.盛岡タイムス
「これ貸すから見てけれ!」そう言って2016年の正月、佐々木健一さんが置いて行ったのは、パブロカザルス(1876~1973)のJSバッハの無伴奏チェロ組曲第一番ト長調のレーザーディスクだった。1954年プラドの聖堂における貴重な録画。動くカザルスを見たのが初めてだった僕は大感動、次にはカザルスのSPレコードまで持って来たのでこれまた蓄音器で鳴らし聴いた。そこで僕は彼に「カザルスとの対話、JM・コレドール」の旧装初版本を見せたら、彼の目が点になった。当然同本は持っているが初版ではないというので、僕は古書店で新装版を見つけてからその旧本を彼にプレゼント。
すると間もなくレコードの中古市で僕の目の前に現れたのが、健一さんに見せられたあのバッハと、もう一枚「鳥の歌」のLDだった。その盤には1971年国連でのコンサート時、この曲を弾く前に「生まれ故郷の民謡を弾かせて貰います。鳥の歌という曲です。カタロニアの鳥たちは、青い大空に飛び上がると“ピース、ピース(peace・平和)といって鳴くのです」とカザルス94才のことば。 前置き長すぎ!とめよう。そうだ!とめよ!で想い出すのは僕の陸前高田時代や盛岡に来た2000年代初期、彼は何度か僕の店への送電を止めた。電気料請求書を届けてから50日支払いが滞ると止めるのだそうだ。彼は一応昔からの友人だが同僚への示しがつかないこと、から、心鬼にして止めたのさと笑う。 陸前高田時代、ステレオ再生音が昼、夜、深夜と違うことを話したら、検査して電柱に登りしかるべき処置をしてくれた、彼・佐々木健一さん(61)は、昔盛岡夕顔瀬橋際にあった米と新聞販売をしていた人のせがれだった。中学を卒業して家事の手伝いをしていた時、東北電工の下請会社の人がいばりくさってたから、ヨシ!俺はヤツの上の会社に入ってやる!と変な決心!電気理論の1、2、3を独学で猛勉強!。電気主任免許を取得し東北電力へ入社した話はどこかカザルスの精神に通じている様な、まるでネジ花の様な性格なのだ。 彼は、花巻、水沢、江刺、陸前高田、大船渡、釜石、盛岡、二戸、北上、現場を転々とする社員をまっとうし、定年。昔も今も家で音楽を聴く時以外、自室ではローソク生活。自作のバイクやヘルメットまで検査を通し、それで東京までも走った話も又、健(すこやか)そのものである。
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johnny -
2022-09-21幸遊記NO.317 「マンデイ満ちるのイエローバード」2017.2.6.盛岡タイムス
昨2016年9月11日(日)に東京六本木「キーストンクラブ」でテナーサックス奏者・ルータバキン・国際トリオのライブを聴き、同14日(水)同地六本木の「ビルボード・ライブ」にて、ボーカリスト・マンデイ・ミチルのライブ。そして同22日(木・祝)銀座「ヤマハホール」に於ける穐吉敏子ピアノリサイタル。と3つの演奏会を聴いた。
このアメリカ在住3人の、それぞれ別のコンサートをひと月に、しかも10日余りの内にまとめて日本で聴くことが出来たのは、初めてのことであり、奇跡的な、そして一方的な僕の蜜月!でした。ルーさんと穐吉さんは言わずと知れた夫婦で、マンデイさんは穐吉さんとチャーリーマリアーノ(前夫・アルトサックス奏者)との間に1963年2月の帰国公演(盛岡にも来た)の後、日本滞在中の8月19日東京で生まれました。その誕生日が月曜であったことから「マンデイ」そして人間として年々満ちてくれる様に、「満ちる」(マンデイ満ちる)と、母・敏子さんが名付けたのでした。 その母と娘、義父の3人が初めて同じステージに上ったのは1998年11月19日。場所は岩手県陸前高田市・キャピタルホテル1000・カメリアホール。帰国ツアー中だった穐吉トリオの陸前高田公演日にマンデイグループも、更にニューヨークからこの日の為にルーさんに直行して貰っての世界初,秋吉敏子ファミリーコンサートの実現だった。 その公演後、ジョニーで打上。ピアノの脇に飾っていた額「21世紀への手紙---秋吉敏子」(15才時のマンデイ宛)をピアノに寄り掛かりながら読んでいた35才のマンデイ満ちるの姿は今も忘れられない!。それは、母から娘への手紙(新聞掲載)の文章。「満ちるが、何か創り出す事の出来る人間になってくれればとも思ったりしますが、最終的には、ママが今まで生きてきた間に習った一番貴重な事は“思いやりのある人間に!”“故意に人を傷つけない人間に!”“そして果たせない約束はしない人間に”この三つの事柄です。この三つを心掛けて生きてくれればそれだけでママは満ちるを誇りに思い幸せです!」というもの。果たして、満ちるは新しい分野を切り拓き、その新ジャンルのカリスマとなってアメリカと世界をリードし続け、最近は母のテーマ曲「ロングイエローロード」にも詞をつけ歌っているのです。
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johnny -
2022-09-20幸遊記NO.316 「小宮一祝のジャニーが見ていた海」2017.1.30.盛岡タイムス
旧満州国遼陽(現・中国)にて、穐吉敏子さんが生れた1929(昭和4年)、本国日本ではジャズ喫茶店が誕生。本郷赤門前に野口清氏の「ブラックバード」、新橋に寺田雅宏氏の「デュエット」。1933年開店の9軒目は、現存する日本最古の横浜野毛「ちぐさ」。この店は今もあるが、かつての常連さん達が、店主の故・吉田衛さんを讃え、同地区に店と彼の記念館を2012年3月11日に新しく再開し現在に至っている。
では、ずーっと続いている最古の店はというと、日本橋に生まれ育ち、埼玉県朝霞市にてジャズ喫茶を始めた小宮一晃氏の「海」昭和27年(1952)である。この年は戦後のアメリカによる占領が終り、アメリカ進駐軍クラブへ出演するバンドの格付審査(国の特別調達庁)も廃止となり、バンド景気が徐々に冷め始めた年だが、朝霞は米軍基地の街。当時の写真を見せてもらったら、店の名前は「JOHNNY」。米兵たちから店主は「ジャニー」と呼ばれ親愛された様子。 当時店の近隣には「フラミンゴ」「サンフランシスコ」「レジェンド」などのクラブがあり、米兵相手の女性ダンサーを運ぶ専用バスが何台も連なっていた。クラブのステージ写真には秋吉敏子・コージーカルテット(54年頃)が写っていた。ジャズ喫茶「ジャニー」は米軍基地から正式に基地外認可店“A”印を付けられ、客のすべては白と黒の米兵。彼等が持ち込むジャズのSPやVディスクが店内に流れる毎日。店を一週間休んで米兵と温泉に行けば、店の売り上げを米兵たちが負担した程愛された店主。 1960年代米軍基地は日本の自衛隊に変わり「ジャニー」は「海」となり、店の壁は10インチ(25センチ盤)のジャズレコードが飾られていたという。今は30センチ盤の古いLPが壁一面に飾られていて壮観!。でもなぜ内陸の街に海なのかは、一祝さんの父(創業者)が海軍の出身者であったから、海を見ていた「ジャニー」である。僕の店はベトナム戦争時代の小説「海を見ていたジョニー」(五木寛之作)からの名で、ラストシーンは海。スペルは同じ。ジャニーは海から戦後に内陸へ!。僕は1975年、海の街でジョニーを開店し2001年内陸の盛岡へ。その時住んだアパートの名は小宮荘。今は「海」へ流れゆく川(北上川)を見ながらジャズを聴いている不思議なご縁である。
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johnny -
2022-09-19幸遊記NO.315 「小津昌彦のジャズプラザ」2017.1.23.盛岡タイムス
手元に「ドルフィン・ダンス」というLPレコードがある。トランペット、テナーサックス、トロンボーンの三管とピアノ、ベース、ドラムの6人編成によるハード・バップ・ジャズアルバムである。リーダーは日本屈指のドラマー・小津昌彦さんが1983年に録音したダイレクト・カッテング(演奏はテープを介さず直接ラッカー盤に刻む方法)である。
このグループをジャズ評論家の故・いソノてルヲさんは「日本のジャズ界に咲いた一輪の名花である」と評した。リーダーの小津昌彦(1941~1997)さんは、三重県松坂市生まれ、高校生の時に労音が主催した、白木秀雄コンサートを見て感激、立教大学在学中にジミー竹内さんにむりやり押しかけてドラムを教わり、当時同大学生だった大野雄二、鈴木宏昌、佐藤充彦ら、のちの一流ジャズピアニスト達と一緒にバンドを組み、大野さんとは大学4年の時、銀座のファンタジアに出演注目を浴び、卒業と同時に№1テナーの宮沢昭クインテットに抜擢されプロとなった。1967年ジャズ界の異才として知られたアルトサックス奏者・オーネットコールマン来日時のレギュラードラマーの他、サラボーン、カーメンマクレー、クリスコナー、アンバートン、サリナジョーンズ等世界の一流どころと共演。そのドラミングは日本の歌手達からも絶対的に支持され続けた。 今は故人となった宮沢昭、尾田悟の2人のテナーマンは日本の宝物だから生の音を全国に届けたい!と1980年から小津昌彦ジャズプラザを立ち上げ97年9月の亡くなる日までスケジュールを入れて、北へ南へその大物たちを運び届け自ら一緒に演奏したドラマーのそれは、勝れたジャズドラマでもあった。僕の陸前高田時代、1984年7月宮沢カルテットがジョニーで演奏した時、あまりお金を払えない僕に「僕等が本当に聴いてほしい人ってのは、お金をくれられない人だから、いいですよ」と快く言ってくれたこと。又87年に来た時、宮沢さんから「日本ジャズの陸前高田で、しかも市民会館ホールで気持ちよく演奏出来たこと、とても感謝しています」と言ってくれたことなどが浮かぶ。小津さんも亡くなられて今年で20年。月日のたつのは早いもの、その彼のお弟子さんで盛岡出身の村井洋介さん(ジャズドラマー)が帰省した正月、一緒に酒を飲みながら僕は彼の師・小津さんのことをも想い出したのでした。
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johnny -
2022-09-18幸遊記NO.314 「高梨勝夫の水上の音楽会」2017.1.16.盛岡タイムス
店で使う「たたら清水」を汲みに、深夜2時半雪降りしきる中、車を走らせる。頭の中で歌っていたのは、アダモの“雪が降る”。カーラジオから流れて来たのはアルフレッド・ハウゼ・オーケストラの演奏でタンゴの名曲「碧空」。水汲み場に着くと、水の音を聴きながら浮かんできたのは、ちょうど300年前の1717年に作曲されたヘンデルの“水上の音楽”。ここは簗川の近くだが、水上の音楽はイギリス・テームズ川の船上。ジョージ・一世が喜んで3度も繰り返して演奏させたエピソードまで浮かぶ。
それはそうと僕も、水上の音楽を実践したことがあった。1989年陸前高田市。古川沼と呼ばれる和野川の河口(大震災の津波で消えた高田松原の後側)にイカダを浮かべ自分の店「ジョニー」のグランドピアノを乗せての水上ライブ。名付けて“古川沼クリーン・キャンペーン・コンサート”。水は実によく音を反射させるため岸辺で聴く心地の良さは最高でした。そうそう、その構想を面白がり、力を貸してくれたのは高梨勝夫さん。大船渡の建設会社・佐賀組創立者の1人で常務だった彼はニコッと笑い、会社からクレーン車を持って来て店からピアノを運び出し、クレーンで湖上イカダの上に降ろす作業を、無償でやってくれたのです。ピアニストはニューヨーク帰りの健未路(たけびみろ)さん。コンサートが始まると、高梨さんは持参した魚でカモメ(海猫)まで呼んで最高のシチュエーションを創ってくれたのでした。 そんなカモメ達とも友だちだった彼は当時、同市小友町の「海上七夕」代表世話人でもあり、「小友海上七夕賛歌」を作りたい!と、大船渡市の東海新報社編集長だった鈴木周二さんに作詞を依頼、出来たのは「一千二百年のいにしえ、北の海人たちは、氷上(ひのかみ)の国めざした、吹き抜く風、地果つる彼方に、いのち源求めて、反り返り音立つ、大笹竹小笹竹(おおたけこたけ)、、、、、」。作曲は僕。演奏は氷上山金太郎(イカダを造った製材所の社長・大和田幸男さん)で海上の音楽が誕生したのは1990年のこと。 高梨さん(75)は佐賀組を定年退職した後、その人柄を買われてか、高田建設の社長にもなった。理容師の奥さん(キヨコ・73)とは金婚の50年。今は孫の世話で忙しい毎日である。
11:42:00 -
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2022-09-17幸遊記NO.313 「年末年始の店内配置換え」2017.1.9.盛岡タイムス
昨年末の30日深夜から正月2日の昼まで、女房と二人で店で使用しているステレオ(オーディオ機器)を右から左へ移動させた。心臓バクバク、体がガクガク、関節イタイタの大変な作業であったが、終ってみれば、同じスペースなのに、店の中が広々、音も予想通りのゆったり、はっきり、心地良い。レコード棚増設にともなう、LP、CD、万枚の移し変え作業が、これまた大変ではあったが、仕舞い忘れたものが見つかったりと、なかなかに面白い数年ぶりの仕事?であった。
昨年(2016)1月2日に肺ガンで亡くなられた、盛岡のアルトサックス奏者・片岡政樹さんのお姉さんから10月に電話があって「家の中を整理中で、政樹の聴いていたレコードを貰ってくれませんか」とのこと、「それはありがたい!すぐ行きます」で、西下台の彼の家に行ったらお姉さんと、政樹さんの娘さん二人が片付けをしていた。頂いて来たレコード見聞すれば、サックス奏者だった彼らしいコレクション。敬愛していた「チャーリーマリアーノ(as)の真髄が」真っ先に目に飛び込む。チャーリーパーカー、アートペッパー、ジョニーグリフィン、アーチーシェップ、デクスターゴードン、ジャッキーマクリーン、ジョンコルトレーン、ソニーロリンズ、スタンゲッツ、渡辺貞夫などなど、サックス陣がその大半をしめるコレクション。それらは順次僕が再生音として開運橋のジョニーで鳴らしているので片岡さんも喜んでくれているに違いない。 店内配置換作業中、思い出していたのは澤口良司さん(ドラマー・67)のこと。彼は今、片岡さんと同じく、タバコ好きが高じてか?肺ガンで入院中である。いつも僕の片腕の如く陰に日向に様々なことを手伝ってくれて、特にも力の必要時にはすぐに頼んでいたし、31日の年越しの夜は、一緒に過したが、今年はそれもかなわなかったことから、僕は年とりの夜の食事を抜いて、澤口さんに頼む分まで一所懸命の力と女房の知恵を借りて、重量物の大移動を成し遂げ、澤口さんに報告したところ、「1月12日(木)19時より、ピアノの高橋秀さんとベースの高橋勝親さんと一緒にジョニーで演奏しますから」と元気な声!。入院後初となった12月24日の演奏の素晴らしかったことが頭に浮かんだ。
11:41:00 -
johnny -
2022-09-16幸遊記NO.312 「磐井正篤のさんずいの酉」2017.1.3.盛岡タイムス
昨年末(2016)陸前高田市小友町の友人から電話があって「オーディオの調子がおかしい」とのこと。行って診て直し、配置換えまでして喜ばれた帰り道、昔、店のお酒を配達してくれていた磐井正篤さん(60)政江さん(60)の店「いわ井」の仮設店舗に寄ってみた。店内は、外からは想像も付かない程オシャレで、器、和雑貨、地酒等の商品の選び方からレイアウト、陳列に至るまでのセンスには、益々磨きがかかって、そのあまりの素晴らしさに、そこが陸前高田であることを忘れてしまいそうなくらい、ステキが満ち溢れていた。4年間同じ1枚のCDジャズピアニスト・キースジャレットのジャスミンを流し聴き続けていることも凄いし快い。
かさ上げされた新しい商業地域の一角には、かつてのショッピングセンター「リプル」の再建設が、やっと始まったばかりだが、いわ井さんも、同地に出来る新商店街へ夏頃に引っ越す予定だと言う。帰り際に店の出入口上の壁に目をやれば、何と!陸前高田・大町商店街の両側に立ち並ぶ1982年の全商店(あの3・11の大震災の津波で消えてしまった)一軒々の写真!。通りの北側一番左端・大町商店街の入口に僕の店だった「ジャズ喫茶ジョニー」があってそこから右並びに22軒、南側の26軒。それぞれ真正面から撮影した写真で大変貴重。その写真を撮ったのは森下暢雄(のぶお)さん。この方は磐井さんが明治大学文学部・地理学科の学生時代から3年仕事した地図製版会社の社長だった人。彼が家業の酒屋を継ぐために会社を辞めて陸前高田に戻ったあと、森下社長が訪ねて来て撮影。そのリバーサルフィルムを震災後に届けてくれたのだったという。それをボランティアで陸前高田入りした芸大の女子学生たちが、コンピューターで繋ぎ合わせてちゃんとした商店街写真にしてくれたもので、様々な話題に発展し、まるで同窓会の様だと彼はいう。 「学生時代から、浅草の“フラミンゴ”、お茶の水の“響”、阿佐ヶ谷の“ドンガラ”などにジャズを聴きによく通ったものでした。帰郷してから“ジョニー”へ」という彼だが、僕の企画するコンサートをジョニー・ジャズ・フレンズとしてよく手伝ってくれたことをつい昨日のことの様に思い出す。今年は酉年、水のトリは酒!彼のつくった酔仙のおいしい酉酒をありがとう!。
11:39:00 -
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2022-09-15幸遊記NO.311 「工藤良孝の“物質は全て光ではないか”」2016.12.26.盛岡タイムス
例えば僕が、何も考えずに日常使用しているオーディオ機器の一つ、CDプレイヤの表面に組み込まれているガラスの部分(曲数や時間を表示するディスプレイ)が、三極真空管だということを最近知り、恥ずかしくなった。真空管といえば昔はラジオやテレビにオーディオ。コンピューターさえも真空管、ジェット機もそれで飛んでいたし、今も実際、オーディオ・アンプで僕も使っているのだから、目からウロコのコンタクト!。
教えてくれたのは工藤良孝さん(63)。彼は秋田市の人だが、「年間250日以上は旅がらす、自宅にいることもままならない。仕事場にたどり着くことすら大変な、よくわからない人生です」そういう彼は電気系。通常は電力会社の面倒な作業や鉄道の防災制御システムのメンテナンスが主な仕事だが「それこそ2011年の大震災後、鉄道のバス路線化(BRT)などで岩手の仕事が減り東日本各地を飛び回されているので、なかなかジョニーにたどりつけないのです」。 そう言って再来一杯!と酒酌み交わす。彼が僕の店に来るようになったのは、「秋田経済大学付属高校生だった頃から、スイング・ジャーナルを読み、通ったジャズ喫茶“ロンド”では“ジャズ日本列島”の本を読みジョニーへ行きたい!それがやっと30年前に夢が叶ったのでした」と笑う。 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とばかりに表示の光の色問えば、普段意味も知らずに使っている紫外線や赤外線のことにまで発展した。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。いわゆる虹色といわれる可視光線はアクリルや水などを透過する時間差や角度で分かれて見えるらしい。それ以外の見えない長短の光、それが紫の外側つまり近、遠紫外線で更にX線、ガンマ線、放射線があり、赤の外側が近、遠赤外線そして電波に続いているという。 「公私混同が花」と館山コンコルドの佐久間先生から言われたという言葉から、彼は「一説には炎とする説あるが、物資というものは全て光ではないか」と思っているという。その言葉で僕は思い出していた「光る光る全てのものは光る。自ら光らないものは外からの光を浴びて光る」といつか何かで読んだ言葉である。
11:36:00 -
johnny -
2022-09-14幸遊記NO.310 「照井幸男の達谷窟毘沙門神楽」2016.12.19.盛岡タイムス
昭和6年(1931)生まれの兄、幸男が今年(2016)9月に85才で亡くなった。ゆきおあんやは長男である。次男、3男、長女、そして末っ子の僕の5人兄弟で、誰一人、病に無縁で生きて来たのだが、兄は呆け、介護施設でお世話になっていた。脳卒中で倒れた祖母と母を看取った幸男兄の嫁・好子さんが55才でこれまた同じく半身不随となったのが1989年4月。以来、兄は嫁さんの介護をずっと続けてきたのだが先立ってしまった。
それでも兄には命を懸けたともいえる神楽があった。家の2件隣にある平泉・達谷窟(たっこくのいわや)西光寺には江戸期に神楽鳥舞奉納の古文書があり、その起源は中世にまでさかのぼるとされる県内最古の、達谷村鎮守毘沙門堂奉納神楽は戦時中の混乱、戦後の毘沙門堂焼失(1946)により途絶えたが、それを再興したのが1971年。86年より現在の名称「達谷窟毘沙門神楽」とした。 同時に兄は「芸事は子供のうちに体で覚えれば永く残り続ける」と地区の幼稚園児たちに教え始めたそれは、婦人達にも広がり、更には若妻、小学生、中学生(中学校では選択学習までに)その指導に一生懸命になって、自分の子や孫にも踊らせ、イギリス人(僕の同級生の奥さん)ローズ・マリーさんに太鼓を教え、それが縁でイギリス公演にまで発展したものだった。それ以前、ブラジル、オランダ、ハワイ、ニューヨーク、などなど海外公演と年に数十回全国からの声掛り。 村上護朗先生(1912~2005・南部神楽著者)にはご指導と舞台での解説で大変お世話になった様子。僕も何度かお会いしたが、神楽の為に生れて来た様な方でした。そのお蔭もあってか、平成10年(1998)子弟や保護者たちが組織した活動10年を「讃える会」(代表・立谷窟浩亮住職)から感謝状を貰い、同年10月には青少年指導により日本善行会から「成人善行表彰」を受け、のち平泉からの町勢教育功労賞を受けたりし、一族でお祝い会を開いたりもしたものだった。 今年最終回となった紫波ビューガーデンでの「いわてあづまね山麓オータムジャズ祭」(9月4日)で、兄の娘・幸子(62)などが踊り、孫・久美(35)が太鼓を叩き唄い、ひ孫・大翔(ひろと・4)が父・慎介(34)と見た達谷窟毘沙門神楽の鳥舞や御神楽が兄の生前最後の舞台となったこと、孫が一人前になったこと、など、嬉しや悲しや楽しや、である。
11:35:00 -
johnny -
2022-09-13幸遊記NO.309 「IBCラジオのFM放送開始」2016.12.13.盛岡タイムス
来る12月23日(2016)から、あの水越かおるさんの「すっぴん」や大塚冨夫さんの「TOWN」でおなじみのIBC・ラジオ(AM)放送が、なんとFMでも聴けるようになるという。もちろんAMは今までどおりの684.それをFMで聴くのは盛岡FM/90.6MHz(メガヘルツ)。同時に二戸と大槌80.5MHzで開局するし、すでに岩泉小本80.3、山田76.7、一関85.5で開局済み。「AMもFMも、ラジオきくならIBC」とのキャッチコピーである。
IBCラジオで忘れられないのは1983年5月1日から3日間、盛岡の中三デパート(現・ナナック)で開かれた、放送500回記念同窓会「風のグラフィティ」展。千輝順子、田村貴子、村松文代、佐藤敏行さんらIBCの面々の顔が浮かぶ。僕はSTAX社からお借りしたコンデンサースピーカーでJAZZを聴かせるジョニー盛岡店として3日間営業した。その時がグリーンに白字の「ジャズ喫茶・ジョニー」というスチロールのハレパネで看板を作ってくれたのが、中三のポップ担当者だった故・西山久美子さん。店で出す、焼きうどん作りも手伝ってくれて「おかかは、たっぷりと入れた方がおいしいわよ」と、ニッコリと笑いながら、フライパンを振っていた姿まで浮かぶ。 その一ヶ月前の83年4月、岩手放送は開局30周年を迎え、IBC・ラジオスペシャルとして、4月4日から8日までの18時30分から21時の2時間半、5夜連続の生放送「JUST・ JAZZ・TIME」を企画放送。初日の4日は「ジャズ・ナウ・今どんなジャズが・・」とダンテの高橋了さん。5日「ジャズ・ボーカル」パモジャの佐々木賢一さん。6日「日本のジャズ」ジョニー・照井顕。7日「名人達のジャズ」ベイシー・菅原昭二さん。8日「みんな集まれジャズセッション」伴天連茶屋・瀬川正人さん。(IBC・TVスタジオから公開生放送)というもので、この日は当時僕の店に毎週土曜出演していた、松本和子(p)トリオ+ワンも陸前高田から出演して好評だったことを覚えているが、「FM東京」では偶然にも同じ4月4日から8日までの、同時間帯に「モダンジャズへの道」という特番を組み、ジャズシーンを塗り替えた5人のビックアーチスト、バドパウエル、クリフォードブラウン、アートブレーキー、ソニーロリンズ、マイルスデイビスを特集したものでした。
11:33:00 -
johnny -
2022-09-12幸遊記NO.308 「杉田誠一のJAZZ誌とその現場」2016.12.5.盛岡タイムス
1971年3月19日号「アサヒグラフ」(表紙の写真・秋吉敏子)を見つけて来て、僕を喜ばせたのはサンライズマンこと高橋日出男さん。昨年(2015)のことである。僕はそれを今年(2016)3月「ジョニーと行く“NY・穐吉敏子の旅”」のお供にもって行き・セントラルパーク・ウエストの穐吉さん宅にて「3-6-‘16・ニューヨーク自宅にて・穐吉敏子」とサインして頂いた。
そのグラフ誌をカバンに入れ、筆者にもサインを頂こうと¥15.000で4日間(JR東日本)乗り放題の大人の休日チケットを利用して横浜・白楽駅に降り立ち「ビッチェズ・ブリュー」というジャズスポットへ行った。店は開店前であったが、オーナーの杉田誠一さん(71)と久し振りに感激の再会。彼は1969年の創刊から76年6月号まで「JAZZ」誌の編集長だった人(新潟生まれ)で、独協大学経済学部中退のジャズ評論家でありフォトグラファー。 NYのジャズクラブ「ビレッジゲイト」が地下から一階に移って「トップオブザゲイト」となった店で1968年に穐吉さんはケニードーハム(tp)、ロンカーター(b)、ミッキーロッカー(ds)そして結婚前のご主人・ルータバキン(ts)とクインテットで「トップ・オブ・ザ・ゲイトの秋吉敏子」というアルバムを録音しているが、翌69年杉田さんがそこへ行った日はビルエヴァンスと秋吉敏子さんが交替でピアノを弾いていたが、何と客は僕一人しかいないライブだったよ!」と驚きの証言。 彼は高校一年の時、横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」に行ってコルトレーンをリクエストしたら、「若いから激しいの好きだろうけど、昔からのバップジャズを聴きなさい!」と言われたという。そして鑑賞クラブを作り、芝公園のアメリカ文化センターからブルーノートレコードを借りてきては聴きまくった。JAZZ誌の編集長時代は、日本のジャズが最も熱かった頃で、編集も燃えに燃え、海外取材にも積極的だったが、70年代の中頃フュージョンが流行し始め、ジャズがジャズらしくなくなったと、あっさり編集を降り、フリー・ライターとして活躍し、本や写真集を出版。10年前からはマイルス・デイビス(tp)の記念碑的アルバム「ビッチェズ・ブリュー」を店名としたジャズスポットを開いて,現場に戻り、現在「ジャズ批評」誌などに執筆中である。
11:32:00 -
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2022-09-11幸遊記NO.307 「マーサ三宅と娘の“徹子の部屋”」2016.11.28.盛岡タイムス
「お母さんは歌手、いつも歌をうたう。お母さんの声はきれい。なぜだろう。歌手だから、努力したから、きっとそうだ。」1971年、まだ小学生だった頃の、現ジャズ歌手大橋美加さんが母の「マーサ三宅・愛の哀しみを歌う」という、イージーリスニング・ジャズ・アルバムに書いた詩文の一部分。
そのマーサ・三宅さん(本名・光子・83)と長女の美加さんが初となる母娘共演を果たしたCD「HOME」が今、全国的な話題となって好評の様子。発売になったのは今年2016・9月。その準備中の7月12日、かつて「11PM」や「クイズダービー」の名司会者として活躍した父・大橋巨泉氏(82)が亡くなった。彼が未だ若かった頃、歯に衣を着せぬジャズ評論家であったことから、反権力、反戦への思いを最後まで貫いた人でもあった。そんな父を娘の美加さんが「ファミリー・ビジネス」というCDアルバムで共演したのは1997年。 母・マーサ三宅さんは、ジャズボーカル界のゴットマザーと呼ばれ、人気、実力№1歌手として1972年からこれまでに4.000名を教えて来た人。満州四平街(現・中国吉林省四平市)生まれ。戦後引揚げ、日本音楽学校を卒業したものの超ハングリーな時代、死活問題で苦し紛れに米軍キャンプで歌い始め、プロデビューしたのが卒業直後の1953年5月。 1990年僕が歌について質問した時、彼女は「歌!ってっ私にとっては人生ですね。キャラクターっていうか、性格も出るし、背景の生活状態もわかると思うし、健康も、今倖せかどうかってこともわかりますよね。自分の人生を唄えるだけの表現力が出来るまで唄い続けていけるか!売れない時にもどのようにしてキチンと生活をまかない、知名度も落とさないで保っていくかってことですよね」と話してくれたっけ。 1985年「日本ジャズ祭in陸前高田」ではトリのステージに立ってくれたし、僕が彼女にお願いして、とあるレコード会社からリリースして頂いた2009年のCDは第22回ミュージックペンクラブ賞を受賞した。そして来る12月3日(土)18時~は彼女の娘、大橋美加さんに僕の店の階下(3F)に出来たばかりのライブハウス「ヨッシー’S」に出演してくれる様お願いしたら快く引き受けてくれました。又12月9日にはTV「徹子の部屋」に母娘出演し二人で歌うという。
11:30:00 -
johnny -
2022-09-10幸遊記NO.306 「宮本賢のポパイ・ジャズ・落語」2016.11.21.盛岡タイムス
今年2016、創刊40周年を迎えた「POPEYE」というファッショナブルなシテイ・ボーイ・マガジン9月号の特集は「ジャズと落語」だった。表紙には「ジャズと落語は似ているか?それはおいといて、とにかくどっちもいいもんだ。」のキャッチフレーズ。LA,NYのステッカーが貼られたトランクに右足を乗せ、赤い服着たトランペッターがプッー、ペットとお尻とで二重奏。七枚重ねの赤座布団の上に座った落語家が「よっ!乙な音だね」と柳の下で反応するマンガの表紙。
中味はジャズと落語の街へ行こう。新宿、神保町、渋谷、浅草、野毛、いわゆるジャズと落語が同居する街の特集である。ジャズと落語は「人生とやらをちょっぴりわかった気にさせてくれるもの。立川志の輔」で始まるそれには、記者が彼の落語を聞き、まるで大作映画を見た後の様な気分になり、翌日には彼に取材を申し込み「初めて落語とジャズの特集をやることになりました!」で「ポパイ!お前もか!」。この懐かしいフレーズ読んで思い出したのは同社・マガジンハウスの兄弟誌「BRUTUS」2010年の3月号。あれはアンチTOKYO?・クールLOCALと東京にはない東京に負けない地方カルチャーと魅力ある地方都市ランキング50の特集だった。そこへ登場した第9位の盛岡、そのトップページが僕の店「開運橋のジョニー」。後日、新聞もその記事を報じ、ちょっとしたうわさに。 さて本題のポパイ。東京のジャズと落語を取材したのち、ジャズをもっと知りたくて!と岩手のレジェンドを訪ねる特集まで組んだのだ。「先輩に聞かされて以来気になっていた二つの店の名は“ベイシー”と“ジョニー”。今こそ、その扉を開く好機に違いない。いざ北へ!」ときたのでした。ベイシーはいわずと知れた全国区。ジョニーは、まるで落語のオチのようなダジャレの、ちほう区。 「盛岡を訪ねる決意を先輩に伝えたら“これを聴いていきなよ”とジョニー製作の“海を見ていたジョニー”という幻のレコードを貸してくれた」とある。そして開運橋のジョニーでその音を聴き「この音楽が出来るまでの経緯を含め、日本には欠かせない一枚なのだと知った。40年前岩手から日本のジャズ界に一石を投じるとしたジョニーズレーベルはチャレンジング!」とは東京生まれのポパイライター・宮本賢さん(27)なのでした。
11:29:00 -
johnny -
2022-09-09幸遊記NO.305 「吉島英信の“ライブハウス・ヨッシー‘S”」2016.11.15.盛岡タイムス
今年(2016)の秋、18年間勤務した冷凍設備の販売保守会社を定年退職した吉島英信さん(60)は、50才の時に将来構想を立て「定年になったら、ライブハウスをやりたい!そこのマスターはピアノを弾けたら、最高だろう」と夢を見た。電話帳にて「ポピュラーピアノ」と名打っていた盛岡市開運橋通の松田京子さん(56)の教室を見つけ、1年1曲はモノにすると自分に誓った。「ウィアー・オール・アローン」「ムーン・リバー」「星に願いを」「枯葉」「シェルプールの雨傘」「マイ・ウェイ」「シャドー・オブ・スマイル」「イマジン」「明日に架ける橋」「いとしのエリー」念願の10曲をマスターして、遂には、僕の店「開運橋のジョニー」の階下・MKビル3Fに「ライブハウス・ヨッシー‘S」を11月4日にオープンした。キャッチフレーズは「音楽でハッピーになろう」である。
ライオネル・リッチーを現代の救世主とあがめ、彼が作曲したラブバラードは、人々に捧げる永遠の歌である!と、彼とダイアナ・ロスのデュエット曲「エンドレス・ラブ」やロバータ・フラック&ピーボ・ブライソンの「愛のセレブレーション」は吉島さんのカラオケ18番(オハコ)でもある。「学校では“いじめられ”父には“しかられ”ひきこもった小学3年生の頃から音楽を聴く様になり、布団の中にもぐっては、ラジオから流れて来る音楽で自分をなぐさめる毎日。いつしかアメリカン・ポップスに憧れ、夢中になっている自分がいた。盛岡第三高校を卒業すると、父と同じ職業への道を歩まざるを得なくなり大学へ入学したが、自分自身の心は納得が出来ず、中退し会社員となって働いた。趣味のギターで心を癒し、兄の影響もあってオーディオにはまり、ジャズに魅せられた。 「まったくのど素人です」と言いつつも遂に念願のライブハウスを開店。80年前のヤマハグランドを完璧にオーバーホールして弦をドイツ製に張り替えたオールドニューの不思議なピアノと、デノンのCDプレイヤー。アキュフェーズのプリメインアンプ、JBLのスピーカーから流れる音は実にゆったりとした心地よい鳴りである。更には130インチのプロジェクタースクリーンまで設備した店舗ホール60席を1時間2千円、第二,第四(土)夜のセッションは参加費千円と格安ですヨッシー‘S賛!
11:27:00 -
johnny -
2022-09-08幸遊記NO.304 「柿崎幸史のクリエイティブジャズ」2016.11.7.盛岡タイムス
「演奏中のエナジーだけは、どんなプレイヤーにも負けたくない!」そういうのは、盛岡市出身、現在川崎市在住でドラマー・コンポーザーとして活躍中の柿崎幸史さん(29)。彼は、3才からピアノ、小学5年からパーカッション、中学から作曲、高校からドラム。初見でもピアノを弾ける兄がいて、家の中には練習スタジオまで造ってくれた父母。最高に恵まれた音楽環境で育ち、大学時代にはジャズスポットで、ドラムの腕を磨き、上京してプロになった。
倫史(ともふみ)幸史(たかふみ)それこそ初見では読めない兄弟名。彼らに出会ったのは倫史さんが岩手大学の学生時代だったから幸史さんは盛岡三高生の時である。彼を見ていると、プロになりたい気持ちが店に出入りする誰よりも強かったので、僕は時折、店に出演する凄腕のジャズピアニスト・明田川荘之さんや、故・板倉克行さん等々に頼んで彼とセッションをやって貰ったりした。演奏が終ると彼は精魂尽き果てバッタリと店の長椅子に倒れこんでしまうことも度々だった。 彼自身演奏で表現出来ない分、口数が多くて僕は閉口したが、しゃべる能力は作曲という形となって現れ、彼は大学時代に組織したブルードットサウンズや、その他のバンドで演奏するオリジナル曲の演奏には感心した。音楽をやることがステータスと思って始めたことが「様々な音楽に対応しなければ食べて行けない現実の厳しさから、喜びと絶望が一ヶ月交替でやって来る」のだという。 それは見聞する側から言えば個性(魅力)のない音となり、音楽家(特にジャズメン)にとっては命取りになりかねないもの。だから「自分にしか出来ない生き方で、自分でなければ出せない音を創って、国外まで、ちゃんと勝負してゆく、今はその駒並べ状態の序盤だと思って基礎的なところから見直しているところ」だと目を輝かす。 見慣れたメガネをはずしての、アイコンタクト。上京後初となったリーダー作クリエイティブジャズカルテット「エンパシー」は全曲彼のオリジナル。ガンバレ!本当に将来を期待し、懸け、願い、心から応援しているひと達がいるんだからね。
11:26:00 -
johnny -
2022-09-07幸遊記NO.303 「渡辺諒の穐吉敏子ストーリー」2016.10.31.盛岡タイムス
「ジョニーさん!毎日新聞に穐吉さんが載っていたのでお届けに来ました!」と藤井朋子さん(毎日新聞盛岡支局記者)。珈琲飲んで帰った後のメールには「ジョニーさんのおかげで穐吉さんを知れました。新しい世界が広がりました」。記事のタイトルは「S(ストーリー)」ジャズの長い道のり・・・穐吉敏子さんの70年。人欄の拡大版記事的で、第一面中央四段から第四面全ページを使い、穐吉さんの誕生から現在に至るまでの86年余りに及ぶジャズ人生ドキュメント。「一期一会」の演奏、常に聴衆とデート、鼓や謡を融合・私の音、のサブタイトル。
4時間余りに及んだインタビュー。更にはその話に関係する人々をも取材した充実の内容である。書いた人は2008年同紙入社の東京科学環境部・渡辺諒記者。彼は高校時代から穐吉敏子さんのレコードを地元・山梨のジャズ喫茶で聴いてきていて、彼女が1976年に発表してジャズ・ディスク大賞・金賞に輝いた「インサイツ」(平和な村、繁栄とその結果、終章)での21分37秒もの大作「ミナマタ」の印象的な曲の影響からなのか?水俣病などの公害や地球温暖化の環境問題にまで及ぶ取材をしてきた様子。 ストーリー記事中に登場する岩崎哲也さん(スタジオソングス・プロデューサー)は彼女の小編成演奏のCDを作ってきた方で「穐吉敏子さんは、頑固で、ぶれない人」と敬意を込めて評していた。又、広島「善正寺」の中川元慧(げんえ)住職(ジャズ愛好家)は、ミナマタを書いた穐吉さんが適任と考え「21世紀を前に、改めて原爆で犠牲になった人々への追悼曲を作曲依頼の時に、彼もまた市内いきつけのジャズ喫茶を通じ穐吉さんに会い、出来たのがその後の全コンサートで演奏している「HOPE(希望)」をテーマにした組曲「ヒロシマ~そして終焉から」(43分の大作)だった。 「作曲は、テーマについて、こう感銘を受けたいとか、聴きたいとか“最初の聴衆”としての想像から始め、譜面を書く際はプレイヤー個々の音を考える」「ジャズ奏者といっても社会の一員。こういうことがあったら困るということを表現して歴史に残すべきだと考えたんです」作品の人気はキャラメルに付いてくるおまけのようなもの!と明日への努力を続ける穐吉敏子は「一期一会」をいつも心の中に置く。
11:25:00 -
johnny -
2022-09-06幸遊記NO.302 「小林佳恵の“創造しいJAZZ”の取材」2016.10.24.盛岡タイムス
結婚披露宴のテーブル名「海」で新婦恩人席名カードを開いたら「ジョニーさん、本日はご多忙の中、遠くまでお越しいただきありがとうございます。取材で伺った“開運橋のジョニー”での数日間は、私にとって宝物です。作っていただいた納豆パスタがおいしかったことも、皆さんとゆっくりお話出来たことも懐かしく思い出します。またおじゃまさせて下さい。本日は楽しんでいただけましたら幸いです」小林。とあった。
その新婦・小林佳恵さん(28)は産経新聞の記者。彼女と最初に出会ったのは横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」の2階にある、かつての店主・吉田衛さんの記念館でした。岩手在住のジャズボーカリスト・金本麻里さんが、新生「ちぐさ」が2013年に制定した「ちぐさ賞」の第一回受賞者となった時、なんと産経新聞は「きょうの人」欄に登場させてくれたのです!。その記事を書いたのが当時若干25才だった小林佳恵さんその人だったのですから、僕は2度ビックリしたのを覚えている。 そして更には翌年に「復興の架け橋」と、同紙の神奈川県版取材の為に金本麻里さんが横浜と出来たご縁の延長取材で開運橋のジョニーでのライブを聴き、震災後に陸前高田市の斎場で彼女が歌ったことを現地まで行き取材して大きな記事にしてくれたことなど、まるで昨日の様に思い出す。「ありがとうございました」 その後佳恵さんは横浜から東京本社へ転勤となって、現在社会部遊軍記者として頑張っている様ですが、取材記者同志で心まで出会ってしまったのが、ライバル紙・読売の社会部記者で、山形出身の新郎・狩野洋平さん(32)、二人は海の日に入籍したという。彼は早稲田大学時代の2004年日本初となる男性チア「ショッカーズ」を立ち上げた張本人だったことから、百人近い男性のアクロバットチアの凄さ実演。披露宴で配られた「嫁入り新聞」に産経の「さん」の字もないと嫁入(読売)に文句をつけて皆の笑いを取った産経の原口部長。同紙神奈川総局から東京本社の社会部へ移動となった大塚次長は「お祝いのライブ」で唄った金本麻里と僕の席へ来て、あの人欄を書かせたのも、岩手取材させたのも僕だよと差し出したその名刺には「大塚創造」と言う名。僕の頭の中はすぐ「創造しいJazz」とつながった。
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johnny -
2022-09-05幸遊記NO.301 「菅原聡の津軽三味線弾語り」2016.10.18.盛岡タイムス
「オラ、オメナンカスカネッ!」そう言ったのは彼・菅原聡。「オラモダ!」と返したのは僕・照井顕。場所は遠野市の川べり。ドラムの故・菊池コージさんのコンサート打上げで飲みながらクキ(川魚)を焼いて食べている時のことだった。お互い初対面の20数年前。
以来どう言う訳か変?な関係?となり、忘れた頃にやって来る災害のような、僕の歌伴を完璧な即興演奏でやってくれて来た。1999年あの村上昭夫(詩人1927~1968)の動物哀歌を、故・くつわだたかしさんと二人で唄ったCD録音時、僕の歌伴演奏した「鳩」曲はイントロで鳩を飛び立たせる奏法であったし、各地の寺院でのライブもそうであったように、僕の腰掛歌には彼の自転車の腰掛(サドル・聡)は欠かせない。 先日(2016年10月2日)久々に彼からの誘いで一曲唄いに行って来た。震災後の2013年11月、気仙沼市に俳優・渡辺謙氏が「心の港」を作りたいと始めた「カフェ・K・Port」での「芸人・菅原聡単独ライブ!」。店内には満杯の50人。前座では彼の教え子・菊池郷平君(小学一年生)が聡先生と津軽三味線二重奏、皆感激のアンコールで前座いきなりのトリ状態。しかも郷平君のお母さんは僕の娘と陸前高田高校で一緒だった同級生の静さんと聞き二度ビックリ!。三度目は「うちの娘です。聡さんに習ってるの!」そう言ったのは、僕が10代から30代にかけて、いつもツケで買っていた陸前高田の金繁レコード店の店員だった紺野ユキ子さん(66)でしたから更にビックリ。数十年振りの再会に当時の顔や姿が浮かんだ。 さて芸人・菅原聡さん(57)は胆沢町(現奥州市)生まれ。祖母の影響で5才から民謡を始め10才でステージに立ち、12才で三味線を始めるとあっという間に才能開花し、一年後には教えはじめ、19才で「津軽三味線・聡友会」を立ち上げ教え子千人超え。その天性ともいえる音感を元に、血のにじむ様な技術修得の努力と、門付の実践から一人立ち上げた音は、雪中や極寒の野外にあっても揺らぐことはない彼の魂そのもの。北島三郎や三橋美智也などの伴奏からジャズピアニスト・穐吉敏子とのセッションまで、相手の音楽精神性を理解することで融合をはかってきた「三味線バカ」。津軽三味線の歴史的音を徹底的に探究し、更に長唄へと手足延ばしつつある。
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johnny -
2022-09-04幸遊記NO.300 「上西健志の珈琲とパウエル」2016.10.10.盛岡タイムス
埼玉県久喜市に「珈琲パウエル」という自家焙煎珈琲を提供しジャズを聴かせる店がある。店主は同市生まれの上西健志さん(62)。奥様は和服姿で料理や食事を担当する千純(ちずみ)さん。店名の由来はもちろんジャズピアニスト「バドパウエル」から。そのバンドの演奏「ボディアンドソウル」をラジオで聴き、わたしもあんな風にピアノを弾きたい!と憧れ、若き日に「女バドパウエル」の異名をとったのは、我らが「穐吉敏子さん」。
珈琲パウエル入口付近カウンターの上に並べて、売っているのは何と「1980・秋吉敏子トリオ・イン・陸前高田」のCD。彼女が「1956年1月米ボストンへ留学の為に着いた日の夜に聴いたバドのライブも運命的でした」と懐述する彼女が、60年代パリでバドと会い女流№1ピアニストだと言われた事をはげみに、その後世界一の実力と名声を得た彼女。 そんな二人を信奉するマスター・上西さんの企画と実践、その行動力には頭が下がる。先ずはあの3・11以降、久喜音楽文化振興会名で「復興支援コンサート」を久喜総合文化会館にて開催し続け、毎年東日本大震災復興支援財団子供サポート基金へ寄付しており、来年(2017)も3月4日(土)久喜銀座商店街の後援を受けて開催することを決定。すでに前売中である。もちろん司会、進行、解説は上西さん。 そして本流の「アメイジングジャズクラブ」をもって、ジャズの底辺拡大のため初心者からジャズファンまで楽しめる「ジャズ鑑賞会」と称するライブコンサート(無料)を同市中央公民館で主催。11月11日で43回を数える。さらには「街の名人は語る」と久喜周辺で暮らす名人(一つのことに取り組んでいる人。職人、作家、研究者、芸術家、活動家、等々)を店に呼び講演してして貰い、話が終ってからは、出席者と名人が語り合える場を作り、人生を豊かにするヒントを皆に与えていることは、まさにジャズ喫茶の鏡と僕は彼に尊敬の念を抱いている。開店10周年まだ若いジャズ喫茶であるけれど、店はすでに老舗の風格。中学生の時にセロニアスモンクのピアノが好きになり、会社員時代には年に100回のライブを聴いていたことが高じてのジャズ喫茶経営。スペースに合わせた音量と選曲の心地よさは流石です。「オータムジャズ祭ファイナルご苦労様。皆で飲んで!」のビール到着にビックリ!ありがとう。
11:20:00 -
johnny -
2022-09-03幸遊記NO.299 「山中芳郎の古希を楽しむ音」2016.10.3.盛岡タイムス
知り合って20余年のギタリスト・山中芳郎さんは(Y・Y)だからとワイワイワールド演奏会(弟子のYつく人達と)・他楽器とジョイントでエンジョイのJoi Joiコンサート。生涯一度の還暦リサイタルなどなどこれまでに何度の誘いの御案内を頂いてきたことだろう。CDだって「音楽いろいろ(1・2・3)」「だ~いSUKIバロック音楽」そして模範演奏CD付の「50才からのクラシック・ギター入門」というギターメゾット本(現代ギター社版)の出版等、リリースする度に僕に贈り届けてきた人。埼玉のギター製作者で友人の荒井勝巳さんに連れられ、テンプロムジカ(音楽寺)という彼の「山中ギター音楽院」におじゃまして彼の演奏を聴かせて頂いた事が始まり。その時、芳郎さんの誠子さんという奥様が大東町(現一関市)出身ということを知り、当時陸前高田でジャズ喫茶をやっていた僕はまるで隣組気分で親しくなったのでした。
そんなことから、芳郎・誠子ご夫妻の娘・のぞみさん(武蔵野音大卒・ウィーンでアレキサンダーイエンナ氏の指導を受けたピアニスト)が「ジョニーと行く穐吉敏子への旅2006」に参加し、米国立ケネディセンターで穐吉敏子コンサートを一緒に聴いたことや、常総市での穐吉敏子コンサートの打上げで芳郎さんと一緒に飲んだ時の笑顔まで頭に浮かぶ。彼は阿部保夫、中林淳真両氏に師事。メキシコやスペインで学び「ストリップの伴奏までやったクラシックギタリストは俺ぐらいかな」と笑っていう彼の裏芸ハーモニカで「紅い靴」「津軽平野」などにも心を吹き込む。 今年2016年は山中芳郎古希を楽しむアフタヌーンコンサートを地元茨城県古河市と東京でやるというので、東京なら行けると5月22日、目黒雅叙園に女房の小春と駆けつけた。会は食事とコンサート。彼の演奏「愛のアランフェス」で幕を開け、サンポーニャや琴、アルパ、ギター、等々の演奏家たちと二重奏、三重奏をしながら様々なジャンルの音楽を披露する山中さんの多様な才能に酔いしれ、感動・感心していると、会の中頃には僕までステージに呼ばれて、冷や汗ものの挨拶するはめに。終盤頃には日本・ギター連盟の代表理事・荘村清さんも「アルハンブラの想い出」を弾き大拍手。そして芳郎さんは奥様へ感謝を込めて大きな大きな花束を渡す花々しさで幕でした。
11:19:00 -
johnny -
2022-09-02幸遊記NO.298 「渡辺一夫の工芸・琴一竹ペン」2016.9.26.盛岡タイムス
ジョニーは柿ピーが主食じゃないの?と皆から言われるほど、落花生が大好きである。そのことを知る数少ない遠来客(友人)の武政俊郎さん(62)は様々なピーナッツの加工品を来店の度に持参してくれることから、どの様な加工がなされ様とも、ピーナッツとしての個性が厳然として際立っている美味しさに僕は個性の音楽であるジャズと重ねてしまうのだ。
最近、彼は琴一ペンという、竹製のペンを持参し、僕に使ってみてくれないかなというので、インクをつけながら数百通の宛名書きをした。なんという自然な書き味!。そのアイディア製作技術の素晴らしさにも感動し、上京の折、足を伸ばして製作者のいる小田原へ「ワタナベ工芸」を訪ねた。主は渡辺一夫さん(62)で武政さんとは中学2年の二学期に神奈川県二ノ宮中学への転校生同士だったことから、自然に友達となり、のちにジャズ好きとなった2人!。 武政さんは大船技術高校へ渡辺さんは小田原城北工業高校へと進み、武政さんは35才で転職した金型の会社で特許も取った発明者。渡辺さんの本職は看板屋さん。関連するむずかしい仕事をアイディアでクリアすることから同業者からの依頼が多く来ると武政さん。それは全てを可能にする道具を造るための工具さえ自分で創り出す柔軟な頭と腕の良さのたまもの。仕事柄、絵も描く字も書くことで行き着いたのが、原始的な竹ペンであった。ことの発端はベンシャン(BEN SHAHN)の絵を見て、どんなペンを使ったら、こんなにも魅力的な線が描けるのだろうか?ということだったらしい。 今僕の手元に渡辺さんから頂いてきた10本程の竹ペンや竹筆がある皆それぞれに素晴らしい個性を内に秘める。地下茎竹を用いた筆の書き味などは、えもいわれぬ程だ。竹ペンはペン先のインク溜りが一重二重のものもあり竹軸、銘木軸ともに様々な形状で自然色から漆塗りまで色々取り替え出来る楽しさもあり、竹製ペン立て、竹筒ケース、桐箱ケース、スケルトンまで多種多様で飾り物にしたいくらい美しく魅力的、銀座の文具店で人気という。帰り際渡辺さんが作った盤と駒を見せられ一ばん将棋!予盤中盤で大駒を無償で渡すヘマ2度やり、注意散漫な自分の性格をさらけ出す結果となったが、実に楽しいひとときでした。渡辺さん「照る照る坊主」への巻物手紙ありがとう!うれしかったです。
11:17:00 -
johnny -
2022-09-01幸遊記NO.297 「石井一の“冤罪”出版パーティー」2016.9.19.盛岡タイムス
「田中角栄100の言葉」(別冊宝島編集部)に始まった、田中角栄氏ブームはとどまるところを知らず、店頭には数十冊もの角栄本がうず高く積まれて並ぶ。そんな中「天才」を出版した宿敵の元都知事・石原慎太郎氏と「冤罪(えんざい)」を出版した元側近、石井一氏が語る田中角栄の魅力と功罪がBSフジのプライムニュースとして放送された日(9月13日)の翌14日、東京永田町のキャピトルホテル東急で開催された「冤罪」(田中角栄とロッキード事件の真相・石井一著)の出版記念パーティーに招かれ出席して来た。
冤罪とは“ぬれぎぬ”のこと、根も葉もないうわさや無実の罪をうけることを差すことばである。昭和51年7月27日早朝、外国為替及び外国貿易管理法違反被疑事実で現職の内閣総理大臣が逮捕されるという前例の無い、いわゆる「ロッキード事件」。世論の9割が「有罪」と考えた嵐に抗い、田中の側近として独り田中批判の矢面に立ち、田中を信じて発言する度に叩かれながらも、客観的検証判断をし、冤罪であることを心底信じるに至り、自分の信念に基づいて行動してきた40年の揺らぎない無実実証本。 「日本人としてのプライド、無罪になることを信じ切っていた田中が異常な世論に裁判所が負けた決断(米裁判所にコーチャンらの証人尋問を嘱託、それを証拠採用するに当たって公訴提起されることはないことを宣明した免罪府を捜査段階で最高裁が米側に与えた)ことでの有罪判決に田中の怒りはすごかった」と石井氏が言う。「田中の翳(かげ)に光をあてた石井、司法はきわめて堕落している。裁判ながら馴合いを最高裁がやってしまった!」と亀井静氏。「冤罪を晴らしてゆくために田中ファンは協力し合おう」と二階俊博氏。等があいさつ。田中の日本自主外交でアメリカのトラの尾を踏んだことで、はめられた事件それを「マスコミがバッシングした結果としての世論裁判」は、小沢一郎、村木厚子事件に新しい。 SPレコード時代日本マーキュリーレコードの社長だった石井氏の父。その子、一氏(82)んnはパーティーの後半、バンドを従え、ジャズヴォーカルを披露。これが又演説のように凄いパワーと味があり、最後までいてくれた人が本当の僕のファンだと皆を喜ばした。
11:15:00 -
johnny -
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