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レポート2022-08-31幸遊記NO.296 「高澤公省の人の横向似顔絵」2016.9.13.盛岡タイムス
戦時中は供出という形で没収された寺院の釣鐘。そんな中で気仙のお寺で唯一没収を免れたのが、陸前高田市・無量山・光照寺の鐘。それは鏨(たがね)で刻まれた六万九千字にも及ぶ経文が刻まれている貴重なもの。あの2011・3・11の東日本大震災の大津波で陸前高田市の中心地の全てが消え去ったが、唯一残ったのも、あの鐘のある光照寺と斎場。その斎場も避難所となり生活の場となった。
あの年、光照寺の住職・高澤公省和尚から「いろんな避難所には有名人等が慰問に来てるけど、火葬場には誰も来てくれないから、マスターが来て、何かやってくれないかな?」と電話があり、同年3月16日に「ホープ・ガール」でCDデビューしたばかりの金本麻里さんと僕とバンドの人達と行って、火葬場の中に並び演奏し歌うのを、皆が涙ながらに聴いてくれたお蔭で僕等は逆に勇気を貰った。 そのはるか以前、寺は鐘楼堂を新築。ライトアップし、その年の大晦日から「六万九千字・梵音衆会(ぼんのんしゅうえ)」を開催。お焚上げと除夜の鐘、修正会(しゅしょうえ)と梵音遊戯(ゆげ)を合体させた催しもので、暗黒舞踏やパントマイム、ドラムやギター、三味線や唄など「一年の心の垢を捨てる心のおどり会」なのですと、和尚が開催した。 それは四半世紀続けられたが「皆年をとったから、盆の日の早い時間に切り替えたので久し振りに来て歌ってくれないかな?」と和尚からの電話で8月20日の夜、寺の研修場「無量閣の一階に、震災後に造った居酒屋風の寄合所にて、津軽三味線の菅原聡さんの伴奏で僕がギターを叩きながら般若心経などを唄う会を開いてくれた。そこには火葬場で聴いてくれた人や、亡くなられた親友の奥さんなども来て聴いてくれて、僕は有難かった。 高澤公省住職(62)は絵の達人で駒澤大学時代から曹洞宗宗務庁が発行する本や小冊子の挿絵を担当してきた人。岩手県の同宗布教師会発行の「てれほん法話集」、新聞での紙上法話「やすやぎを求めて」などへの挿絵と添語は実に楽しい。酒が入ると筆を持ち店の人やお客の似顔絵をさらさらと描くが、それがまた実にうまく、人の横顔のまなざしにこそ、その人がよく現れるもの!と、さすが和尚さんである。
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johnny -
2022-08-30幸遊記NO.295 「松森一三のパインウッド・ファッション」2016.9.5.盛岡タイムス
風の噂で県北の岩手町にジャズの店が出来たと聞いたのは1989年の秋。早速僕は当時小学生だった娘を車に乗せて県最南東端の陸前高田から出掛けて行った。国道4号線脇、ちょいと高台の振興地?にその店「パイン・ウッド」はあった。店主は松森一三さん(当時は40才・現66才)。店の中に入ると、そこはまるで不思議な街角に紛れ込んだ感覚。多分こんな感じの店は東京にだってないだろうなと思った。僕の来店を事のほか喜んでくれた記憶も残っている。
最近彼から聞いた話によれば、カッコイイ店が沼宮内には無かったから、自分がカッコイイ店で酒を飲みたい!と造った店だったらしい。盛岡からはJCメモリアルバンド。東京からは、世界屈指のジャズ・ピアニスト・故・本田竹曠等が来店した。ところが彼は当時れっきとした県職員(一方井小学校の事務員だった)どうして店など開けようかと思いきや、経営者は母。なるほど頭がいい!。イス、テーブルはイギリスのアンティーク家具、正に彼の趣味の店。仕事から帰って夜には店に立つ二重労働に心臓が悲鳴を上げ、倒れ、6~7年で店を閉じたのだった。 彼の祖父は三平、父は三ノ丞で長男だったことから一三と名付けられたが誕生日さえ、3月30日と3の縁。自分で建てた築25年の家をリフォーム3ヶ月後に自らの不始末で火事で燃やした。新築した家の外観はまるでホワイトハウス。だが中はオールウッド。そう!家だって店を数えて3軒を建てたカッコマン。ファッション抜群。頭サンサン、帽子をのせて意気軒昂!彼いわく!「町会議員に2度立候補し最下位落選した。70才で3度目の挑戦をする」という。僕は応援するものではないが、議会に1人や2人、彼の様な人物が居る方が刺激的で活性化すると思うのだ。 「定年まで学校勤務した経験を持って、町の教育環境の悪さを改めたい。そして、自分たちの街を誇りに思うような子供たちを育てたい」のだと、顔に似合わないことをいう。23才の時50回月賦で買った名車「フェアレディZ」をピカピカに保存し8年前から又乗り回しているカッコよさ!それこそ東北新幹線沼宮内駅は立派だが乗降客数ワーストワン!僕はそれを高らかにうたうことこそ石神の丘に反響し、エコーとなって賑わうのではないかと思ったりする。
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johnny -
2022-08-29幸遊記NO.294 「松本秀勝の音楽で世界平和を」2016.8.29.盛岡タイムス
先日福島市からジャズファンであり、音楽イベンターでもある松本秀勝さんが初めて開運橋のジョニーにやって来た。手土産は「手のり・うさぎ」上新粉で小豆あんを包み込んだピンクの目をした白うさぎのもちまんじゅう。そのおいしさに、目を丸め製造元を見て思い出したのは、あの不思議な「千貫森羊羹」と同じところ「栄屋」のだった。あの羊羹を2度味あわせてくれたのも松本さんでした。
彼は福島市飯野町青木峠の作という7戸しかない盆地の集落に住み、今どきのパソコンはおろか、テレビも冷蔵庫すらもない、ラジオ生活。食料もその日食べる分だけを買う徹底振り。福島駅から車で20分、冬は一面雪野原、夏は鳥、蝉、虫の大合唱!ハクビシンも出て来て踊るらしい。「夜は満天の星空。本当に宇宙に住んでいる実感が湧いてくるのよ」と。 彼松本さん(61)は50才迄、その空を飛ぶJAL機の整備士さんだった。県立福島工業高校を卒業して上京した頃、成田は闘争の真っ最中で開港出来ず羽田で3~4年働いた。「今でも思うけど関係者から見れば、あそこに造ったのは間違い!都内までは1時間もかかる都合の悪さ!事故の事も考えれば絶対海のそばに造るべきなのよ!」その飛行機(ジェット機)は今、全世界で1日に60万便飛び交っているらしい。 ヘルメットにゲバ棒の連中が機動隊とにらみあって投石するその中を通勤するのは大変だったと振り返る彼。そんな複雑心をいやしてくれたのがジャズ喫茶。ケニーバレルの「ミッドナイト・ブルー」デイブブルーベックの「テイクファイブ」出会って40年余り。先日福島のコミニュティFMでその自分にとってのベスト2曲を放送したという。 「福島・音楽を聴く会」と称し、出張レコードコンサートや野外で聴くレコードコンサート。ジャズライブ主催、世界一の穐吉敏子さんを福島へ呼んだかと思えば、レベルの低さも重要と、UFOの里・サマーミュージックフェスティバルをも開催何でもどんなのでもありの2日間の祭もすでに12回。「国は音楽でどれだけ救われる人がいるかを知ること!音楽家に年金を!ヘリから音楽流し戦争の終結を!音楽は世界を平和にする!」と訴える。
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johnny -
2022-08-28幸遊記NO.293 「瀬川正子のオータムジャズ祭」2016.8.22.盛岡タイムス
2005年6月から2008年4月までの年6回3年間発行された、紫波町手つなぎ情報誌「サロン・ド・紫波」という町内全戸配布紙(A4・4P)がありました。その発行途中の2006年の2月、同町在住の作家・三島黎子さんから、照井さんも紫波町民になったのだから、編集、製作に助力願えないかなとのお葉書を頂戴したのがきっかけで「ひと紹介」欄で8名の町内人を書かせて頂いた。
その編集の中心人物だった瀬川正子さん(共同園芸社長夫人)に「かとうじ山という紫波町を一望出来るところがあるから行って見ない?」と言われ、連れて行って貰った場所が何と共同園芸が経営している「ビューガーデン」。そこは紫波の先人・藤原嘉藤治が開墾し、高村光太郎が「天然の舞台」と絶賛して長編詩を書いた場所だった。そのことから、社長ご夫妻は「かとうじ山の音楽会」という子供劇やコーラスなどのつどいを毎年開いていた。(いる)。 その芝生のなだらかな傾斜地に立った僕は、かつての陸前高田市で1985・1989年の2度っきりではあったが、マーサ三宅や、穐吉敏子ジャズオーケストラをメインにオリンピックのように4年に1度の一大イベント「日本ジャズ祭・イン・陸前高田」を開催した経験から、この絶景の地に、流行とは対極にある真に実力あるミュージシャンで、僕の店に出演経験のある人達に参集願って始めた催しが「いわて・あづまね山麓・オータムジャズ祭・イン・紫波ビューガーデン」であった。開演から終演まで6時間、東京中心のプログループと岩手在住のミュージシャンがこの祭のために新設された芝生のステージでの共演。そのスリリングで楽しく、そしてレベルの高い演奏を聴き、日本詩人会議の照井良平さん(花巻市)は「紫波平野にジャズを告げる平和の飛翔」と無数の秋アカネが稲穂の上を飛ぶ様をジャズ詩にした。それは延べ、10年間100組440人にのぼる出演。 野外フェスは冠スポンサーや広告料、補助金などを投入してが普通だが、このあづまねは無冠無補助無広告の民間力。関わる人全ての中にあるボランティア精神のたまもので成立し、野外で気になる雨や日光対策で参集者全員をカバーするテントまでも用意。このことだけでも日本唯一の野外フェスなのですよ。それにピアノの貸し出し、運搬、設置、調律、撤収まで自主完遂する入魂の「石川ピアノライン」これとて無二!感謝感激ありがとう!ありがとう!
11:10:00 -
johnny -
2022-08-27幸遊記NO.292 「熊谷絵美の明日に架ける橋」2016.8.15.盛岡タイムス
9月4日ファイナルステージを迎える第10回オータムジャズ祭・in紫波ビューガーデンに、地元勢のヴォーカル代表として出演する熊谷絵美さん(36)は、去る8月7日に行われた、第27回「盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズ・ライブ・フェス」(開運橋のジョニー・盛岡大通商店街協同組合共催)に出演し、高橋秀ピアノカルテットで、素敵なトークを交えながら歌った。
たまたま盛岡に来ていた兵庫県のジャズファンが立ち聴きしていて、ジャズ祭のチラシ配りをしていた僕に彼は「いろんなところで、ジャズを見聞きしてきたけど、盛岡のストリートジャズは、相当レベルが高いですね。しかもこの歌手の唄にはメチャ感動しました」。その熊谷絵美さんは1982年1月生まれの36才。小学生の娘さんを持つ母親でもあり、小学校の教師でもある。中学から曲も書き始め、高校でバンド活動をやり、岩手大学生の時からジャズを歌い始め、開運橋のジョニーでMrBⅢこと鈴木清勝のオルガンをバックにステージデビューしたのが2002年6月29日。「明日に架ける橋」「アメイジンググレイス」などが今も印象に残る。 03年に彼女はオリジナルバンド「オリーブ」を結成。このバンドで、2005年僕が企画した、T・STEP・BATTL・IWATEKENのCDに「MAMAMIA」を入曲。(ちなみに彼女の弟・友宏君もピアノソロでオリジナルのJAPANを入曲)。同年、「ジャズ批評誌」11月号特集「女性プレイヤー最前線」にて,美しきジャズ・プレイヤーたちの活躍(表紙・穐吉敏子)に、ピアノ、作曲、ヴォーカリストとして登場した熊谷絵美さん。 2014年には、写真のような名刺代わりの1枚として、ジャケットを着せない裸のCD「WHAT’S NEW?」を滝沢市のグリーン・レーベル(小林道夫代表)からリリースした。かつての古い友人だった熊谷利春さん(2003年4月18日亡)から、出来れば娘を歌手にさせたいと言われたことがあったことから、僕は当時店に出演していたピアノの藤原建夫さんのトリオやバンドで歌い育てて貰ったことが始まりだった。 今では小林ゆうこさん(vo)の教えのたまものか、自由自在なアドリブスキャットを聴かせる成長振りに僕は心からの拍手を贈りたい!。と思う。
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johnny -
2022-08-26幸遊記NO.291 「瀬川峰雄の円月ジャズドラム」2016.8.8.盛岡タイムス
来る9月4日(2016)10回目の開催を迎える「いわて・あづまね山麓オータムジャズ祭」。この催しに第2回目の2008年から出演してきた「トリオ・リバー」というジャズバンドがある。リーダーはカワイ音楽教室で子供たちにピアノを教えている瀬川真弓さん。ベースは滝沢市大釜で「オーデオ・ベースマン」というオーデオショップを経営している細川茂雄さん。そしてドラムの瀬川峰雄さん(62)はピアニスト真弓さんのご主人である。
3人の苗字に川がついていることから名付けられた「トリオ・リバー」このバンドが活動を始めたのは開運橋のジョニーでだった。彼女は昨年母親となった僕の女房・小春の娘がまだ子供だった頃にピアノを教えてくれた先生。ご主人の峰雄さんは、かつて日本を代表するドラマーの1人で、来日した数多くのジャズマンや歌手たちと共演した経歴を持つ故・小津昌彦さんの1番弟子だった人。 故・トニーウイリアムスのドラムにあこがれ、小学校で鼓笛隊、中学時代からドラムを叩き、盛岡工業高校を卒業してNECの開発部門に入り21才で工場長代理になったところで、郷里の矢巾町に戻って中学時代の連中とバンド結成した兄の持っていたドラムを叩いた。半年して盛岡八幡町のキャバレー「クインビー」のドラマーだった故・松田年男さんに出合い、入り浸ってはドラムを教わった。 その1年後、同じ八幡のジャズ喫茶「伴天連茶屋」でジャズを覚えそこで小津昌彦氏に出合い、再び上京して彼のボーヤをやりながら基礎から教えられて、新宿の箱バンドで演奏し始めプロになった。2人の兄が叩いていたドラムに感化され、ドラムを始めて、父に「ドラマーになりたい」と言ったら「バカッ!」と言われたが、父は峰雄さんにもドラムを買ってくれたのだったという。 「そうこうして女房と出会って俺の人生が変わったんです」彼は奥さんの実家、紫波衛生社の社長であり、町の名士の1人でもあり、五郎沼の古代蓮を守り広める人なのだ。ジャズは板倉康太郎さんのピアノトリオで26年ドラマーを務め、平行して奥さんのトリオでも10年になる。僕が彼のスティックさばきを見聞する時「眠り狂四郎の円月殺法」の剣をいつも想い出す。もちろん!いい意味でのね!
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johnny -
2022-08-25幸遊記NO.290 「高橋秀のジャズ エイジたち」2016.8.1.盛岡タイムス
コンサートのプレイガイド、音楽ソフト、オーディオ機器の販売などで県内一の知名度や売上高を誇っていた、盛岡市大通の老舗「佐々木電気」が閉店したのは2010年2月。僕は仕事柄ショックを受け、他人事ではない思いから、すぐ開運橋のジョニーに出演のバンドやミュージシャン達に声を掛け、大通商店街協同組合のご協力を得て、ささやかな野外(商店街)での無料コンサート「ビックストリート・ジャズ・ライブ・フェス」を企画。
震災のあった2011年も普通にやることだけを基本に、4月から10月まで毎月開催出来たことは、何にも変え難い。そして今年2016年8月7日で27回目、毎回楽しみに聴きに来る人達や僕達にとっても嬉しいのは、昨年8月につぐ、2度目となる将来のジャズピアニスト(子供たち)の出演である。中野綾夏、米澤りりや、米澤ゆりや、三輪暁音、矢幅心、西川さくら、菅原有史の7名。小学1年生から高校生まで、大人達のリズム隊をピアノでリードする様は、聴くはもちろん、見ているだけでも感動ものなのです。 指導しているのは高橋秀さん(57・雫石町)である。彼女の生まれは秋田県にかほ市、小学校からピアノを習い中学ではオルガンに夢中になり、秋田県立由利高校時代には盛岡まで通い、習った先生は、のちに「姫神」となって、一時代を築いた故・星吉昭さんだった。秀さん自身も先生の資格を取得し、ビクター、テクニクス、ローランド、などの教室で教えながら、自らはジャズに挑戦。だが弾けない日々の中でジャズは無理かなと思った時、自分の気持ちとは反対にジャズの人達に引張られてピアノを弾くはめに。 基本のコード(和音)しか知らなかったことから、ジャズとジャズっぽいことの違いを言われショックを受けた。以来好きなピアニストのコピーはじめ、理論、テンション等々を独学で猛勉強。ジャズの好きな父にアドリブのことを聞いたら、「ジャズのピアノだろ、上に行ったら下りてくればいいんだ」の一言でふっきれ演奏自在になった。3年前からは子供たちにも他の人とあわせる楽しさ、むずかしさを覚えてほしいとジャズも教える様になったという。「理由は単に私はジャズが好きだから。弾いて聴かせると子供たちも好き!って言うからね」と素敵な笑顔。ジャズの未来は明るい。
11:06:00 -
johnny -
2022-08-24幸遊記NO.289 「臺隆裕のTSUCHIOTO・JAZZ」2016.7.25.盛岡タイムス
被災の体験や思いを曲に込め、ジャズのCDを制作したという内容の新聞記事を読み、電話で注文。そしたら翌々日CDの演奏者から、僕の店で演奏させて欲しいとの電話があり、ビックリ!まだCDさえ届いていないのにいきなりの出演話に面食らってしまったが、注文受けたのは岩手の父。本人は東京なので知らずに電話で2016年8月9日夜ジョニーライブ出演の申し込みだった。
CDが届き、翌日に封を切り、入っていた請求書の振込先・一般社団法人・槌音へ振り込んで店に戻り、CDを聴こうとした所へ、来店したのは何と、そのCD「TSUCHIOTO」のリーダーでトランペット奏者の臺(だい)隆裕さん(21)。それじゃ一緒に聴きますかとCDを鳴らす。何と「素晴らしいじゃん!」しかも全3曲彼のオリジナルであった。 そこへ来店した花巻のジャズファンでご年配のご婦人、音楽を聴きながら「ええ!これあなたがつくった曲なの、演奏も?」とビックリの様子。そして「ジョニーさんに聴いて貰ったってこと、ここに来たってこと、正解だよ。将来が楽しみだね」と耳がかゆい。 その若干21才のトランペッター・臺隆裕君は沿岸、大槌町の出身(大槌はかつて県内随一のジャズの町だった)。彼は10才の時学校でトランペットを吹き、たまたま音が出たことからハマッて、小中高とブラバンで演奏後、上京して尚美ミュージック・カレッジに入学。本格的に音楽を勉強し、気の合う学生達と共に音楽であの日(3・11)を一生伝え続ける決意を持って「槌音」を結成。 全てのものを失った心の葛藤を、音楽というからっぽの手(空手・くうしゅ)にて描いた曲(Mr)は、僕等演奏者側からの音楽ではなく、聴く人側の想いで聴こえる、その人の音楽となる曲なのです」。高校生の時に東日本大震災にあって、避難所生活を体験しながら、そこでの大人たちの様々な行動を見聞したことから出来た「過去を振り返り、未来を見定め、今を伝える音」の曲なのだという。 臺隆裕(tp.flg)藤井星亜(tb)川満恵一郎(sax)稲荷周佑(p)鈴木芽依(b)浮嶋純一(ds)「明日を迎える勇気。生という温かさ.手のひらに積み上げたものの無価値、それを知る真の価値こそがジャズという音楽だ!」と彼!。
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johnny -
2022-08-23幸遊記NO.288 「高橋勝親のスイングベースめん」2016.7.18.盛岡タイムス
岩手県内随一のテクニシャンと言われてきた、ジャズ・ベーシスト・高橋勝親さん(63)が遂に自己トリオ(リハーサルバンド)を結成。その初リハをジョニーで開き、息の合った三者の歯切れ良いグットサウンドで僕を喜ばせた!。彼は現在ビックバンド・盛岡ジャズ・オール・スターズのメンバーとして、いわてジャズなどで活躍中だが、以前は10年先輩のピアニスト・藤原建夫さんのピアノトリオで長年鳴らした腕だけに、解散後トリオをやりたくてうずうずしていた様子。そこで最近ライブシーンで頭角を現してきた高橋秀さんにピアノを願い出て、旧知のドラマー・澤口良司さん(67)と再びのトリオ結成である。
勝親さんは山形県米沢市の出身とあって、現在の本職は盛岡市玉山区の4号線沿いに2014年に開いた米沢ラーメン“山形屋”の主人である。僕らも澤口さんに連れられ何度か食べに行ったけれど、いつ行っても行列が出来ているのだから、ビックリである。店の玄関口には、オブジェとして本物のウッドベースを立てているのも心にくい。店のカウンター内にはミニコンポ、流している音楽はCDによるジャズ。店はオール木造で板の使い方が面白く、飾ってあるポスターはジャズ・ベーシスト・故チャーリー・ミンガス。ラーメンだけに麺までスイングしていて、とっても美味しい!。 彼の出身校は2016年創立240周年を迎えた名門の山形県立興譲館高校。中学高校と鳴らしたトランペットやギターで、バンドをやりたくて入ったのが、憧れだった「ブルー・スイング・ジャズ・オーケストラ」のある日本大学。そこでジャズ研究の末、ベースに転向。女子大学祭への出張演奏、夏のビアガーデンでの演奏などなど学生でも十分飯が食えるほどの収入もあった。 大卒後間もなく父の移住先、玉山村に呼び戻され盛岡で演奏活動。そして父が盛岡に用意してくれた土地、建物を使い「南城」というゲーム喫茶を開店、その後スナック、居酒屋と姿を変えながらも30年間店を経営。その後八幡平市でラーメン店を開業。10年やって現在地へ引越し、彼の奥様とその母がつくる心づくしの味が何ともいえぬ!と評判になっているし、「いらっしゃいませ」の彼の声と接客の仕方もベースとなって大繁盛である。
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johnny -
2022-08-22幸遊記NO.287 「野口久光のグラフィックス展」2016.7.11.盛岡タイムス
一関ベイシーへ行く「大人の遠足」の日、7月8日(金)朝、岩手県立美術館へ行って来た。本当は僕の店の定休日である月曜日に行ったのだが休館日でトホホ。野口久光(1909~1994)グラフィック展で僕が一番に期待していたのは1975年、RCAレコードから発売になった我らが秋(穐)吉敏子のピアノソロアルバムのジャケットを描いた野口久光さんの原画と、1979年のカウントベイシーオーケストラの岩手コンサート(翌80年開催に延期となったポスター)の原画が見られるのではないか?だった。
結論を言うと、どちらも原画の展示はなく穐吉さんのはレコードジャケット。カウントベイシーのはポスターの展示でしたが、その左下にあのコンサートの時のベイシーリンゴの写真が、ポスターの付録のように展示されていたのには感激した。それはたぶんにベイシーの菅原さんの粋な計らいによるものだろうと思いながら眺めてきた。 僕が野口さんにお会い出来たのはほんの数回でしたが、1986年10月13日に、陸前高田市民会館で開催した2回目の「秋吉敏子ジャズオーケストラ」のコンサートの時、僕等が当日用に作ったA4版8ページのパンフレットに野口さん始め、当時のジャズ誌・スイングジャーナル・中山康樹、ジャズライフ・内藤遊人、ジャズ批評・松坂比呂、ジャズワールド・内田晃一氏等、各編集長が穐吉賛メッセージを寄せてくれた。 評論家の野口久光さんは「在米30周年記念ご帰国コンサートあめでとう」として彼女のアメリカでの活躍を紹介しながら「東洋の小国、日本の若い女性がアメリカに渡り、アメリカ、世界のジャズ界に君臨する最高のオーケストラ、リーダー、作曲家になれるとは誰もが、専門家ですら不可能な夢のようなことと思われていました。しかし秋吉さんはその夢を身を以って現実のものとした日本が世界に誇ることの出来る信念と努力の人」と紹介して下さり、プロデュースをした僕にもおまけの拍手をしてくれたっけ。 そんなことを思い出しながら、拝見した県美での野口グラフィックス展のすばらしい膨大な作品数とその絵に添えられている野口さんのタイトル文字(レタリング)の素敵さに、心は奪われっぱなしでした。
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johnny -
2022-08-21幸遊記NO.286 「沢口俊雄の世界一・ベイシーりんご」2016.7.4.盛岡タイムス
毎年恒例となったジョニー企画の「大人の遠足・一関ベイシー行き」が今年(2016)も7月8日12時9分盛岡駅発東北本線上り一関行きで出発することになった。現在16名の申込。これ読んで参加してみたい人が居りましたら019-651-6150まで電話ください。14時頃ベイシーへ集合でも構いません。1度は行っては見たいが1人ではこわくて?行けないと言う方には特に好評です。お気軽にどうぞ!
ベイシーといえば、カウントベイシーのこと!カウントベイシーと言えば一関ベイシーのこと、カウントベイシーのコンサートと言えば、1980年3月18日の岩手県民会館大ホールでの嵐のような感動と熱狂のコンサートが最高と語り継がれていますが、その時のポスターと「カウントベイシー・岩手県訪問記」をスイングジャーナルにリポートしたのが、映画や音楽評論家の故・野口久光氏。はからずも2016年6月18日~8月21日迄、岩手県立美術館で彼のシネマグラフィックス展が開催中で、7月22日19時からは、同館グランドギャラリーでベイシー・菅原正二さんのトークや久光氏の息子さん野口久和氏と岩手ジャズオールスターズの演奏もあり、参加費無料なので僕も行こうと思っています。 そのベイシー日本公演ツアーの時ベイシーの菅原昭二(現・正二)さんにカウントベイシーが突然名付けたニックネームが「Swifty」。コンサートを主催したのは「岩手県にカウントベイシーを呼ぶ会」会長はもちろん菅原昭二さんだったが会場が盛岡ということもあって、実際にそれを取り仕切ったのは盛岡のジャズ喫茶ダンテの高橋了さん。そしてダンテに当時通っていた岩手大学と岩手医大に通う学生達と社会人が中心になって全県下を走り回って満席にした凄いコンサートだった。 ステージのピアノの上には「世界一」という種類の大きな紅いりんごが載っており、そのリンゴにはBasieの白い文字(ステッカーを貼って日焼止めした字)が浮き上がっていた。このコンサート本来なら前年の79年10月14日に開催されるはずだったが、ベイシーがウィルス性水疱瘡で入院の為来日出来ずに延期されたことから10月14日にあわせてベイシーりんごを作り育て3月まで5ヶ月間保存の労をとったのは盛岡市太田の農業・沢口俊雄さんというジャズファンでした。今なお印象鮮やかで、語り草となっています。
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johnny -
2022-08-20幸遊記NO.285 「千葉征彦の艸雲窯群青」2016.6.27.盛岡タイムス
7月久し振りに聞く気仙語訛りの懐かしい声、電話の主は大船渡市にある艸雲窯の千葉征彦さんの奥さん・かよさんからだった。「昨日から岩手特産品フェアーで川徳デパートに来てます・・・・」で女房・小春と連れ立ち行って見てビックリしたのは彼の変わらなさだった。僕より3つ程先輩だったはず?だが僕よりずっと若く見えた。
そこで彼の口から出た言葉で2度目のビックリ!あの3・11の時、彼等の家は大船渡市立根町という奥まった場所にあったので無事だったが「大船渡から奥さんの実家のある陸前高田へ向かった時通岡峠から陸前高田の市街地を見た時の光景は、広島に原爆が落とされた直後の写真と同じだった。その時俺は、神はいない!と確信して神社の世話役も氏子も好きな酒すらも、全てやめましたよ!」だった。 その大自然の絶対的支配力をみせつけられてから、焼き物(陶)は火の魔力を借り、自然に近づく所業なのだとつくづく感じた様子。昔、彼が陶房をかまえた時、艸雲窯の名前の由来をたずねたら「空往く雲に憧れる草です」だった。地に根ざしながらも自由に空を往く雲の様に生きる自分の意思を表していた。 千葉征彦・1944年生まれ、県立高田高校から千葉の工業大学を卒業し土建会社へ就職したが、社の姿勢に疑問感じて止め、多摩の専門学校映画科へ入学。だが、当時は学園紛争の真っ只中、学校へは通えずバイトで体をこわし帰郷。写真をやったのち、盛岡鋳物組合にて南部鉄器の市場調査や商品企画を担当した。手づくり村立ち上げで、陶に興味を持ち愛知県立窯業専門学校に奥さんと一緒に入学。彼は作陶、彼女はデザインを学んだ。在学中、知人で岐阜の陶芸家・山田正和氏を訪ねたら、学校だけではプロになれないから、自分ところへ来いと言い、2年間で10年分教えたと言われた程、みっちり、窯たきも、織部、志野と自作陶もやらせて貰い築窯を許され岩手に戻った。 遅まきだった彼の陶芸もすでに四半世紀。千利休の1番弟子・古田織部に端を発する織部焼、その自在な造形と意匠に魅せられた彼は織部の群青で三陸の海を表し、その空に地の椿咲かすはみごとなり!
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johnny -
2022-08-19幸遊記NO.284 「駒幸夫の国連への駒進め」2016.6.20.盛岡タイムス
「以前お会いした、片山秀光和尚の事をインターネットで見たら、カッサパ音楽の事を書いた盛岡タイムスの記事が出て来まして、電話をしました。駒と申します!6月5日に盛岡へ行って肴町で12時から16時までイベントしますのでよかったら来て下さい!」と電話だった。この日は女房・小春の孫1才の誕生日、昼に祝いのお赤飯を食べてから肴町へ。
サングラスをかけて三味線を弾き、アメリカンポップスのカラオケに合わせて唄う、駒幸夫さんの震災復興支援ライブであった。彼は釜石出身の歌手で現在はアメリカ在住。三味線の吉田兄弟がでてきた頃、駒さんも三味線ミュージシャン・うたう駒幸夫として再デビュー、ウイスコンシン大学で演奏した時、学会から声を掛けられ8千人のコンベンションで演奏。更に国連の学校で教えて貰えないかと言われ、2006年渡米。あらゆるジャンルの好きな曲を集めて、三味線譜を5線譜の下に書き加えて教える方法を用いたという。 国連の学校は193ヶ国の大使の子供達が入っている学校で、先生達は無料で教え、夏期キャンプというセミナーで収入を得る方式だったらしいが、緒方貞子国連弁務官に給料のことを聞かれ、無料ですと伝えたところ、日本から国連への支援金を前倒しすることで、その利子で給料が出ることになったのだという。 彼は高校を中退して芸能界入り、その時の師は、三橋美智也、春日八郎、ペギー葉山などを世に送り出したプロデューサー・掛川ひさおさん。キングレコードで定年を迎え、コロンビアに移り、金田たつえが「花街の母」で出た時、次は君の番と言われたが彼が倒れて終り、自分もやめる決心をした。 習っていた三味線の方も二代目を望まれたが断って、クラウンから自作自唱の「三陸みなと音頭」駒幸夫(本名・駒林幸雄“さちお”)でシングルデビューしたのは1978年のことだった。その後の「宗右衛門町ブルース」は15万枚のヒットとなったのだったが、いつの間にか師の遺志ともいうべきプロデューサーへと転身、東京中のレコード店を全部歩いてあの瀬川瑛子の「命くれない」をヒットに結びつけたのでした。 津波にさらわれた母の形見の三味線で教えた沿岸の子供たちをニューヨーク国連シアターで演奏させたいと明日の夢語る。
10:57:00 -
johnny -
2022-08-18幸遊記NO.283 「鶴亀年寿斉の峰光如水」2016.6.14.盛岡タイムス
大地にどっかりと腰を下ろし、両足を大きく広げ、指で1色の絵を描く自然児の様な藍画家・如水こと菊池武男さんが、2016年6月6日老衰の為亡くなられた(93才と10ヶ月でした)。 群れない、慣れない、頼らないことが大切。世界と太刀打(たちうち)するには個性がなければ対抗出来ません!他人がつくった道は若い時に歩いたからと、後半は自分の意を決し、無欲、無所属、無冠を通し続け、心からのファンを最も大切にした幸せな人生を送った。
2014年5月の連休、僕が企画して開催して頂いた渋谷区神宮前(原宿駅前竹下通り)ギャラリー・ハセガワでの「菊池如水のやまびこ展」そこに現れた天台宗・平林山津金寺の住職・傳田和尚の目前で描いた絵が千手院聲明会で護摩供養され、そこに参列した善光寺の小松貫主さんが、いたく感動され、心順し、揮毫に至った大きな書「鶴亀年寿斉」(旧・漢字)を額装して如水さんに贈り届けたのです。如水さんはその作品を自宅で僕に見せながら、これは盛岡市とっても宝物だな!としみじみと語った言葉が鮮烈に残っている。 2015年11月8日、釜石シーガリア・マリンホテルにて行われた長柴政義さんの「戦災都市釜石から震災復興への挑戦」出版パーティの時に、終戦後に採用になった警察官としての菊池武男さんの初任地だった釜石で、交番所2階に彼が市とかけあって開設した「図書館」。そこに通っていた子供たち、(現、僕等世代)が2人もいて、当時の事を想い出し「あの時のおまわりさん?!」と感激の再会。クリスマスにリヤカーに積んだプレゼントを貰ったお礼に、リヤカーを押す手伝いをしたもの。大人になってから、あいたくて探しましたったと言う。 10年後に転勤なる時、地域の人達から一山をあげるから釜石に残ってくれとまで嘆願されたほど、愛された人だった様です。スイス、中国、香港、アメリカなど様々な国からの個展依頼が舞い込んだ程、彼の絵は東洋を感じさせる唯一無二、油絵の具一色の墨絵の様な日本画、洋画、国際画とも言え、心で評価する人たちに愛され続け、個展にはいつも全国津々浦々から数百を超える人々が見に来ていた。その展示会場でいつも瑠璃色の水の如く手伝っていたのは、娘の高橋るみ子さん、心象いかばかりであろうか、、、、、、。
10:55:00 -
johnny -
2022-08-17幸遊記NO.282 「映画・ターミナルのJAZZ・DAYサイン」2016.6.6.盛岡タイムス
幸遊記(№272・3/20付)1958年のJAZZ・DAYの事を時折店のお客さんたちに写真を見せながら話すと、皆驚くほど興味を示してくれるので、更にもうひとつ、この写真にまつわる映画の話をすることにした。すると、たいがいの人はその映画は知っている!観た!という。だが、あの映画はJAZZ・DAYの写真にまつわる物語だったことは案外と気が付いていない様子なのだ。タイトルは「ターミナル」、2004年のドリームワークス映画、スティーブン・スピルバーク監督作品である。
映画の主人公・ビクター(トム・ハンクス)が自国のクーデターにより空港から出られなくなるという、あり得ない状況に置かれながら、ターミナルの住人の様な生活?をしながら待ち望んだアメリカ入り。彼が大切に持っていた古いピーナッツ缶の中には、そう、あのJAZZ・DAYの写真、彼の父が生前その写真に写っていた全員にサインを貰っていたが1人だけ欠けていた。その父の意思を継ぎ、東ヨーッロッパのクラコウジアからニューヨークへ飛んで、生き残っている現役のテナーサックス奏者・ベニー・ゴルソン(穐吉敏子さんと同年の1929年生れ)にサインを貰うシーン。字幕翻訳はあの戸田奈津子さん(68才・現80)。 僕の手元に月刊雑誌・「いきいき」2014年8月号がある。「これ本屋さんで売ってない本なんだけど、穐吉さんが載っているから」と、菊地章子さん及川房子さんが持参してくれたもの。そしてもう1冊同本が届いたのは2015年9月4日、本の巻頭には写真入り記事になっている戸田奈津子さん、2015年8月22日のサイン入り。 それは、かつて日本ヘラルド映画社にいた高橋渡さんがご自身の誕生日にジョニーへ持参してくれて、この本に穐吉さんからもサインを入れて貰ったら稀有(けう)な1冊になりますよ!とプレゼントしてくれたもの。2016年5月2日、僕はそれに穐吉敏子さんにもサインして頂き、まるでターミナルJAZZ・DAYのような本当に稀有な1冊となった。 そんなある日に、陽はまた昇るのサンライズマン!彼の手には、な、なんと1995年に制作された、英語版「ザ・グレート・ジャズ・デイ・イン・ハーレム」のVHS記録映画。更に1999年に出版された同名の英語版本。ブックリ!凄すぎ!論より証拠!
10:48:00 -
johnny -
2022-08-16幸遊記NO.281 「スイングジャーナルの1977年7月号」2016.5.30.盛岡タイムス
僕より5個先輩、店も丁度5年先輩の同業一関ベイシーが開店したのは1970年。その年から90年代までの30年分のスイングジャーナルを持っているという高橋日出男さんに、1年分づつ貸してくれないかなと頼んでみたところ、とりあえず14年分の整理が出来たので持って行きますから、と運んで来てくれ「返さなくていいから、活用してください」でした。ありがとう、ありがとう!
その76年9月号に、全国ジャズ・スポット巡りシリーズ第8回「岩手篇」。一関・ベイシー、盛岡・オスカー、チェック、8-6、伴天連茶屋、パモジャ、北上・タック、大槌・クイーン、花屋敷、釜石・貴族院、宮古・ミントンハウスの11店(現存、ベイシーのみ)。盛岡のパモジャはリッチの跡に出来た店で僕の店より1年後の開店だったが載っていて、ジョニーは没っていたことにガグッ!と来!若かったので逆に闘志が沸いたのを覚えている。 僕はそのスイングジャーナル誌に店の広告を出したことはなかった(出す余裕がなかった)がベイシーは開店時の70年7月号には、名盤レコード「レッド・ガーランドのグルーヴィー」のジャケットの壁写真をベイシーの壁に見立てた印象的な広告を出してのデビュー。そして77年7月号に常連?のベイシー広告と並んで高橋了さんの「DANTE 7月1日正午オープン!」(盛岡市大通1丁目/現・中の橋1丁目)の広告。 その本文オーディオ欄にはジャズ&オーディオ教(狂)祖はかく語りき、と4人のジャズ喫茶店主、その1人、ベイシーの菅原昭二さんは「いい音は硬焼醤油せんべいから生れるのだ」と「奥歯でかじるせんべいの音がアゴと頭蓋骨を振動させ鼓膜のコリをやわらげ一時的に耳の機能を回復させる」と彼らしい考えを書いていた。 又読者の頁リーダーズプラザには、同誌に差し出した僕の手紙に「日本のジャズ再確認」のタイトルがついて掲載されていた。その実力に比して冷遇されている日本のジャズ、これを毎日の糧(かて)として大切にしてゆこうと、発狂的再出発をこころみた。日本人が日本人の演奏や歌を軽視するきらいに対し、政府の日本列島改造論を拒絶した過疎の街、岩手の陸前高田からジャズ日本列島の改造論を提出します。というものでした。
10:47:00 -
johnny -
2022-08-15幸遊記NO.280 「伊藤洋一のイースト&ウエスト」2016.5.23.盛岡タイムス
僕が紅い梅をいただく時、必ず頭に浮かんでくることばがある「ひとりで早春の夜更けの寒い時、これをあがって下さい」と造り遺していった人を思いながら口にする梅酒の話。遺した人は智恵子、のんだ人は光太郎。昭和20年4月空襲により中野のアトリエを焼失したその高村光太郎は東京から賢治の弟・宮澤清六方に疎開。その秋から鉱山小屋を移築した稗貫郡太田村山口(現・花巻市)の高村山荘にて自給自足の生活(63才~70才)そこは「雪は降らねばならぬように降り、一切をかぶせて降りに降る」場所だった。
丁度その頃、営林署勤めで、同村湯口の事務所兼住居に住んでいたのが、伊藤洋一さん(昭和23年8月28日生れ・67才)の御両親。仕事柄知り合い、友人となった父から「光太郎さんは伊藤の表札を書いてくれて、洋一を抱っこしてくれた人だよ」と幼き日に聞かされたことを覚えているという。ドブロクを飲みながら、山菜を食べ、特にも喜んだのは「シドケ」。いくら飲んでも足取りは乱れず、東京に行った帰りには懐中電灯を借りに寄った光太郎さんだったらしい。 そんなことからか、洋一さんは奥さんに病気で先立たれた時「なんとなく智恵子の実家を訪ねてみたくなり、行ったんですよ」そういいながら、ドブロクならぬバーボン・ウイスキー「ジョニー・ドラム」を楽しみながら話す映画好き。特にもあの1960年代の大ヒット作「ウエスト・サイド物語」が大好きで何度も見、ニューヨークへ行きブロードウエイでそのミュージカルをも数回見ているマニア。 音楽は「レナード・バーンスタイン」が作曲を手掛け、それこそ「ジョニー・グリーン」が指揮したものだが、」ジャズでは「オスカーピーターソン」トリオや「穐吉敏子・チャーリーマリアーノ」カルテットの名演奏は多くのフアンを掴んだもの!トゥナイトやマリアのメロディが浮かぶ。 この2016年3月、僕等は穐吉敏子さんを追いかけNYへ。そこでそれこそウエストの映画に出てくる鉄製の外階段が残る古くて低いビルを眺めてはウエスト・サイド物語を頭に映し出していた。旅の間中、僕と伊藤さんは同じ部屋で寝起きし、二人で飲み交わし、帰りの空港で彼は息子さん(アメリカ在住)のかわいい孫の顔を見に行く!と別れた。
10:45:00 -
johnny -
2022-08-14幸遊記NO.279 「麗(うるわ)しの78回転SPレコード」2016.5.16.盛岡タイムス
4月30日(土)2016、東京都板橋区立・成増アクトホール「穐吉敏子・ルー・タバキン・ヴィンテージ・デュオコンサート」は、自由席とあって開演数時間前から長蛇の列!前回2014年10月の穐吉敏子・マンデイ満ちる・親子デュオの時に振る舞い大好評だった一杯の岩手ワイン(大迫エーデルワイン)と紫波のブドージュース付コンサートは今回も大好評!欲しいと言う人の為の販売用も開演前に売り切れる人気で板橋と開運橋の二重橋アーチは見事に架けられたのでした。
その翌日ホテルを出て、帰りの新幹線に乗るまでの数時間女房を喫茶店に待たせお茶の水駅近くの“JAZZ東京”へ、そこで1990年91年に発売された“ジャズマガジン№1・№2”(白夜書房)を発見!確かこの2冊には僕も寄稿してたはず!とパラパラページをめくれば、ありました「鳴呼・日本邪頭専門店」と「不思議な後進曲」。昔の自(字)分にご対面!2冊とも買い求め自己満足気! その足で神保町まで歩き、もしかして!と富士レコード社に入ってみたら、ザワッ!ゾクッ!と身震いするSPレコードに、アッ!という間もなく出会った。それは今年3月あのNYハーレムのジャズミュージアムで聴かせて貰ったテディウイルソンの「スイート・ロレイン」。これは!これは!と今度はサッチモこと、ルイアームストロングのSPを探してみたら、そこにも、な!なんと!あの「ウエスト・エンド・ブルース」、僕は平静心を装いながら平成?の奇跡に打ち震えてのお会計!5月3日盛岡市民文化ホールでのコンサートに前日入りしてくれた穐吉さんに、東京で見つけて来ました!と言ってその2枚を見せたら、彼女は驚きながら、スイート・ロレインのジャケットには「私の最初の聞いたジャズレコード」。ウエスト・エンド・ブルースには「私が最初に買ったジャズレコード」と書き記しサインを入れてくれた。 スイート・・・は1946年別府で故・福井参郎さんから聴かせてもらい、本格的ジャズ演奏への開眼となった彼女にとっての恩人的?レコード。ウエスト・・・は穐吉さんが生れる1年前の1928年6月28日彼のホット・ファイブでサッチモがアドリブを吹き、歌った曲。このレコードを聴きたいが為に娼婦たちの使い走りをした若き日のビリー・ホリディはサッチモを最も尊敬した人でもあった。サッチモとトシコの2人は16才でのプロデビューでした。
10:43:00 -
johnny -
2022-08-13幸遊記NO.278 「木村一義のシェルター音楽ホール」2016.5.9.盛岡タイムス
かつて僕等は陸前高田市に、気仙杉を使って気仙大工による木造建築の小さな300名程度のコンサートホールを建設しようという運動を起こしたことがあった。会を発足させコンサート主催の益金、出演料からの寄付、音楽ファンのカンパなど、活動は10年続けられたが、実現に至らず、心の窓から解放った美しい音楽だけが形として残されておしまいとなった。
あれから30年が過ぎた昨2015年12月、山形県南陽市に、何と世界最大の木造建築コンサートホール(ギネス認定・1403名収容)の市民会館が完成した。山形産杉材を活用した耐火木構造部材「クール・ウッド」を柱とした建築で木材を石膏ボードで囲み、更に表面を木材で囲むことによって耐火性能を増すという四重層の特許柱。これを開発した株式会社シェルター(山形市)によれば2時間耐火という国の認定証を得たことにより、RC造、鉄骨造と同等の耐火性能を有することで、それこそギネス物の14階建ての木造ビル建築が可能になった!という。ホールの梁には山形産唐松の集成材を使用した、オールウッドの市民会館はこれまた「世界最大の楽器」といえるのかもと、僕はステージから客席を眺めて、その美しさにうっとりとした。そのこけら落としの一環として、初のピアノ・ソロコンサートが5月4日、一般と多くの高校生を集めて行われた。演奏者はジャズ生活70周年、渡米60周年の、世界的ジャズピアニスト・穐吉敏子さん(86)。主催したのは、シェルターの社長・木村一義氏を中心とする「シェルター倶楽部ジャズ愛好会」。穐吉さんのお世話をしたのが山形の老舗ジャズ喫茶「オクテット」のマスター相澤栄さん。 前座には日本の中古楽器市場からサックスが消えたと言われた程ブームを巻き起こした映画「スイング・ガールズ」の後継者女子達による「おれまかJAZZオーケストラ」。ハツラツとした楽しさに溢れ、とても素敵でした。 打ち上げは肉屋の奥座敷、米沢牛のスキヤキ。そのおいしさにこれまた“ウットリ”。シェルター社長の話を聞けば、なんと3・11の津波で枯れた気仙杉で、陸前高田に建てられた「みんなの家」(ベネチア・ビエンナーレ国際建築展で金獅子賞を受賞)を手掛けたのも彼だったので、きのきいた話に2度ビックリしました。
10:42:00 -
johnny -
2022-08-12幸遊記NO.277 「照井澄の画家への執念」2016.5.2.盛岡タイムス
五人兄弟の末っ子である僕の誕生日4月20日は、恒例の全員集合1泊(ワンパク)兄弟会の日でもある。今年は奥州市の胆沢ダム近くにある焼石岳温泉「ひめかゆ」にて飲めや歌えや話せや食えやの大賑わい座。当日翌日共に絶好の花見日和で温泉に続く古い街道(胆沢区若柳)沿いは延々と続く満開の桜トンネル。ゆっくりと車を走らせながら僕はこんなにも美しい季節に生れたのかと感慨無量の心地を味わった。
その温泉駐車場で次男の澄(のぼる)兄貴から10点の油絵を預かった。連休明けの5月6日から月末まで僕の店「開運橋のジョニー」に展示する作品である。思えば兄の初個展は20年前僕が企画した「陸前高田まちかどギャラリーおおまち」が始まりで50点の展示だった。 澄兄は昭和10年(1935)平泉生まれ。子供の頃から絵が好きで画家になる夢を持ちながらも父に反対され、陸前高田で父の弟が経営するクリーニング店で働き高田高校定時制に通った。(僕も同じ職場、同じ学校卒)だが絵への思い断てず、誰にも黙って卒業の日にトランク1つ持って上京。新聞配達をしながら美術学校へ通うつもりだったらしいが都会の現実は厳しく、押し戻されるように2年で岩手に帰った。 次には父の妹が経営するクリーニング店で働いたが、やっぱり絵を描きたいと絵に通ずる職業を求め、実家の天井画を描いた水沢(現奥州市)の故・長谷川誉氏に師事して塗装と絵と看板の描き方を学び、1977年35才で「テルヰデザイン工芸」を立ち上げ独立。仕事が軌道に乗った10年後に描き始めたのは自分の生まれ育った田舎の情景へ回帰する祖母をモデルにした日本画だった。 そして本格的に描き始めた90年代からは同昔の農村をテーマに油絵を始め、日本文化伝道師認定、国際文化親善大使栄誉証、日本芸術家連盟理事、ローマ芸術協会名誉会員、オスマン・トルコ芸術勲章、メキシコ国立図書館名誉作家認定、20世紀日本芸術遺産100選認定、等々100を超える不思議!「絵では食えない」と画家になる事を反対した父は歌舞伎の流れを汲むドサ廻りの役者兼座長だった。その子澄は自分の子には好きな道を進めと言ったそうだが3人の息子たちは皆親(兄)の家業を切り盛りしている不思議!
11:40:00 -
johnny -
2022-08-11幸遊記NO.276 「藤原進のみちのく浪漫CD」2016.4.25.盛岡タイムス
11年前の2005年、僕は「T・STEP・BATTLE・IWATEKEN」という1枚のCDをプロデュースした。当時、岩手県内で活動していた、個人やグループなど16組。ジャンルを問わない、オリジナル曲を募集しての制作だったから、岩手音楽カタログとして全国からそこそこの好評を得、これをきっかけとしてプロになった3人。セミプロで歌手や演奏活動している5人などと、その数指折ってみれば、たいしたもん?で中には僕の曲「君は帰ってきた」を唄ってくれた大船渡の二人組もいた。
そんな中にあって、1番の注目を集めたのが「未知国浪漫・藤原進」(現60才)だった。「あなたと出合った あの十和田の湖畔 二人で歩いた奥入瀬も 今はただひとつの青春の楽しい思い出に・・・」エレキギターを弾きながら,青春時代のあわい恋心を歌ったそれは、懐かしい様なメロディとサウンドで郷愁を誘い、制作発売元の若い社長でさえ、シングルカットして全国発売を考えた程でしたが、発売に至らず残念だった。 彼、藤原進さんは「エムズ・ポケット」という5人編成のエレキバンドを率いてイベントや温泉施設など中心にLIVE活動しているのですが、今年2016年2月、「マスター!CDを作りましたのでよろしく!」と持参して来た。タイトルを見れば「みちのく浪漫」「夜霧のコテージ」(カラオケ付)。久しぶりに聴く曲に青春さえよみがえり、幾度となく聴き返しているうちに、僕がFM岩手の番組を持っていた時、この曲放送したことも、思い出しました。 彼がギターを最初ににぎったのは小学5年生の時。中学に入る時にトンボ学生服を買えば白いギターが付いてくるはずだったが、親がトンボを逃がし?替りに先生がフォークギターをくれたのだったという。以来、エレキバンド、GSなどを独学コピー。松尾町屋敷台中学を卒業して千厩専修職業訓練校の自動車整備科へ進んだ時、おふくろが当時3万円もしたエレキギターを買ってくれたのだったと顔をほころばす。 自動車修理工、松尾鉱山鉱毒水中和処理施設、電気関連の会社などを経て、現在は学校給食センターの配送係として働く藤原さんだが、オリジナル曲を口ずさみながらCD宅配にもいそしむ毎日である。
11:39:00 -
johnny -
2022-08-10幸遊記NO.275 「瀬川昌久の自選著作集出版」2016.4.18.盛岡タイムス
今年(2016)1月23日、新橋のカフェ・コットンクラブで行われた「瀬川昌久先生の文化庁表彰をお祝いする会」にお呼ばれし女房の小春、歌手の金本麻里の3人で参加させて頂いた。瀬川先生は60年に及ぶジャズとミューシカル普及の功績により、2015年文化庁長官表彰の栄誉に浴された事と、1月に河出書房新社から刊行された500頁余りの「瀬川昌久自選著作集1954~2014」出版祝とを兼ねた二重の祝賀会。
瀬川氏は1924(大正13年)東京に生まれ、東大法学部卒。幼少からジャズを愛聴「戦争に疑問を持ちながらも戦地に赴かざるをえなかった」その体験からか1950年富士銀行(現みずほ)に入行しニューヨーク駐在員になった時には、ジャズを聴き歩きそのレポートを日本の音楽雑誌に寄稿し続けた。帰国後は日本のジャズ発展のため、寝る間も惜しみ自らの足で体験と実践を重ねながらの執筆活動。 おすすめ、気持ちよさ、楽しみ、美しさ、新鮮、進展、進歩、豊かさ、深み、実力、研鑽、信望、可能性、期待、魅了、魅力、明澄、高水準、意欲、興奮、流石、流麗、熱唱、活発、活況、立派、成果、絶対、発展、格段、強味、結合。これらの言葉は90才を過ぎた現在もなお、電車と、徒歩で現場に通い、その見聞をファンに書いている文章の中に出てくるもので、氏は温かい目で観察しながら、耳でその良きところを聴き分け語る評論家であり、特にも演奏者たちからは絶対的信頼を受け、CDライナーの依頼などは、今なお引っ切り無しの状態。 僕も2006年にプロデュースした「穐吉敏子・渡米50周年日本公演」並びに「1980・秋吉敏子トリオ・in・陸前高田」(2014年発売)2011年の「ホープ・ガール・金本麻里」の3作にライナー・ノート(解説文)を書いて頂いており、“開運橋ジョニー”の重要なパーティなどにも参加下さっている。 「私自身は、生い立ちの関係から、戦前の日本のジャズの歴史に限りない愛着を抱き続けている」としながらも、今日のジャズにもあくなき探究心を持たれ、現役最長老でありながら、若者の様に心弾ませ、体をゆらし、ジャズと共に生きる人生の素晴らしさ!!!
11:37:00 -
johnny -
2022-08-09幸遊記NO.274 「トシコ~スイングする日本の魂」2016.4.12.盛岡タイムス
来る5月3日(火・祝)午後2時から盛岡駅西口の市民文化ホール(マリオス・小ホール)で、ジャズ生活70周年、渡米60周年を記念して行われる、ジャズの 生きた伝説、全米、NEA・ジャズマスターの穐(秋)吉敏子、ルー・タバキンご夫妻による、ビンテージ・デュオ・コンサートが行われる。
これに先立つ3月27日夜、1時間40分に渡ってBS1で放送されたスペシャルドキュメント「TOSHIKO・スイングする日本の魂」。日本人で唯一人アメリカでジャズの殿堂入りを果たし、グラミー賞にも史上最多の14回ノミネートされた穐吉敏子。独自の世界を切り開き、ピアニストとして、作・編曲家として、日本女性として、想像を絶する苦難を乗り越え、一人アメリカで戦い続けて来た彼女。デビューから70年の今年、又新たな挑戦を始めた最新映像までを生誕の1929年からたどった特別番組。 僕がハーレムのジャズミュージアムで3月(2016)に初めて聴いた、テディ・ウィルソンのSP「スイート・ロレイン」。彼女はそれを70年前に聴き「その瞬間から私の人生は変わった!真珠の珠(たま)がワーッと流れたみたいに物凄くきれいなスケールなんですよ!」と語っていたところで僕の頭の中に、心地よい粒ぞろいのピアノの音が流れた。 1950年頃に、ラジオから流れてきた“バドパウエル”の胸を打つ音を聴き、バドのようになりたいと猛練習を重ねた彼女が「1956年1月、留学のためボストンに着いたその日の夜に、偶然聴いた演奏家はあこがれのバドパウエルだった」そのことに穐吉さんは運命を感じたという。 「勝つことは出来なくても挑戦する事は出来る」。その後彼女は作、編曲、ビックバンド部門で世界ナンバーワンとなり前人未踏の道を切り開いた。このことで思い出すのは穐吉定次(双葉山)が昭和12年~13年に残した大相撲69連勝の大記録。彼は穐吉さんの親せきにあたる。今回BS映像にも出て来た穐吉さん昨15年秋、上野での演奏会。その翌日僕が双葉山の墓前に行ったことは以前にも書いたが、偶然にもその時双葉山の孫・穐吉次代(つぐよ)」さんが「両国浪漫夢模様」で歌手デビューしたのでした。
11:36:00 -
johnny -
2022-08-08幸遊記NO.273 「JATPの1944年7月2日」2016.4.4.盛岡タイムス
1940年代に入って、盛んになったジャムセッションが注目されるようになった頃、純粋なジャズファンで証券マンだったロスアンゼルス在住のノーマン・グランツ氏が、41年に興行に手を染め、44年7月2日、ロスのフィルハーモニック・オーディトリアムで開催したことに始まる有名な「JATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)コンサート。
その第一回目に出演したのは、ナット・キングコール(vo)レスポール(g)ジョニーミラー(b)リーヤング(ds)JJジョンソン(tp)イリノイジャケー(ts)等。エキセントリックなブロー演奏が受け、年々規模を大きくして、スタープレィヤーのほとんどが参加するまでに発展したという。そのJATPの日本初公演が行われたのは1953年11月3日、有楽町の日本劇場(日劇)。 そのコンサートを聴きに行ったジャズピアニスト穐吉敏子さん。彼女はその時のオスカーピーターソン(p)の演奏が今なお印象に残っていると、近現代音楽人名事典のアンケートに答えている。そのオスカーが、翌日の昼、穐吉さんが銀座にオープンそたばかりの「テネシー」で演奏していると店にやって来て、彼女の演奏を聴き、夜にも彼女のコージーカルテットを「ニュー銀座」にて聴き、その腕をノーマン・グランツに推薦したことから、レコーディングが決定。 メンバーはオスカー(JATP)のリズム隊でハーブエリス(g)レイブラウン(b)JCハード(ds)。53年11月13日の深夜から14日の朝にかけて録音され、アメリカで彼のレーベル「ノーグラン」(ヴァーブ)から「トシコズ・ピアノ」としてで発売されたその日本人初モダンジャズレコード(オリジナル曲を含む)は評判になり奨学金を貰っての留学に至った。それからすでに60年の歳月。縁の不思議は僕にもおき、NY2016年3月6日、日曜のアンチーク市でサラ・ボーン(vo)のセプテンバーソング他SPレコード7枚。その中にはテディウィルソン(p)46年盤2枚も。そうテディは穐吉さんがジャズに魅せられた最初のピアニスト。演奏、録音もあのスイートロレインと同じ頃だからなお嬉しく思い、穐吉さんに報告。更に翌日中古レコード店で見つけたのが、1944年のJATP初コンサート2枚組LPレコード(1976年発売)だったから、僕にとってはまさに穐吉敏子ジャズ誕生編への旅のようでした。どんと晴れ!
11:34:00 -
johnny -
2022-08-07幸遊記NO.272 「1958年のJAZZ・DAY」2016.3.28.盛岡タイムス
世界中のジャズ関係者に愛され大切にされている一枚の歴史的写真がある。ジャズ黄金時代の記念碑といえる決定的な「ビッグ・ピクチャー」がそれ!。1958年8月12日火曜朝のニューヨーク・ハーレム。当時ニューヨークで活躍中のほとんどのビッグ・ネーム・ジャズ・ミュージシャンが、アメリカの雑誌「エスクァイア」の企画、呼び掛けに応じて集まった白人、黒人合わせての57名と、12人の子供達が一緒に、アート・ケインのカメラにおさまったモノクロ作品は時が経てばたつほど、誰しもが見とれてしまう程の、奇跡的でクレィジーな写真。
アメリカでは、それから60年近く経た今日でも、歴史的なJAZZDAYとして語り継がれており、何とその伝説の写真物語が絵本「JAZZ・DAY」となって今年2016年に発売になったばかりであったから、グット・タイミング!のビックリポン!18,99ドル+TAXを払い買い求めた。その翌々日、貸切バスで「ナショナル・ジャズ・ミュージアム・イン・ハーレム」を目指してたどり着いたら移転で、129th st58 Wの新ミュージアムへ移動。着いた所は小さくてとてもシンプルなたたずまい。 入るとお客さんは誰もいなかったから、まるで貸し切り状態だったので、僕は、そこにあったSPレコード棚の中に、ピアニスト・テディ・ウイルソンの「スイート・ロレイン」がありますかと尋ねたら、パソコンで探してくれて、「デジタル化してあり、聴くことも出来る」というので、ヘッドフォンで聴かせて貰った。戦後満州から日本へ引き揚げた、穐吉敏子さんが1946年に別府のジャズコレクターから同盤レコードを聴かせられ、ジャズに開眼したという昔聞いた話を重ね合わせながらの鑑賞はその演奏内容と共に感動的でした。 そして、ミュージアムには、先日穐吉さんとジャズピアノサミットに出演した、アーロン・デールの大きな写真。その向い側の壁には、更に大きな、1958年のJAZZDAYの特大写真ポスター!。僕は帰り際その学芸員に、写真を撮った場所を尋ねミュージアムのパンフにメモしてもらい126th stのレキシントンAveとマジソンAveの間にある17Eのアパート前に57人ならぬ僕達17人並んで感激の記念撮影!その2016年3月7日は、僕らにとっての新しいジャズ・デーとなったのでした。
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johnny -
2022-08-06幸遊記NO.271 「ジャズのウエスト・エンド・ブルース」2016.3.21.盛岡タイムス
かつてビレッジ・ストンパーズの演奏で世界的にヒットし、日本でも大流行した「ワシントン広場の夜は更けて」今でも聴けばすぐさま10代の頃に戻ってあの曲でフォークダンスを踊った光景が目に浮かぶ。実はあれがデキシーランド・ジャズだったんだと気が付いたのは20代になってからのことだった。
その舞台となったニューヨーク・マンハッタン島の南方、グリニッチ・ビレッチにその広場(公園)はあり、今なお昔を懐かしむかのように中年とおぼしきカップルたちが、ベンチで抱き合い、灯下に立ったままでキスをする目の毒的光景を見てきたばかり。 その広場から程近いところには、世界一有名なブルーノートやヴィレッジバンガードといったジャズクラブがあり、僕が必ず行く「スモールズ」もある。この店は地下へ降りる階段の途中で10ドル払えば店に入ってバンド演奏が聴けるし、演奏出来る人なら朝方のジャムセッションにも参加出来る、新人登竜門の良心的な店。ステージのバックには、帽子をかぶり、トランペットを持ってニッコリ笑うルイ・アームストロングの大きな写真パネル。 僕が行ったその日は3月6日の深夜だが、前日の5日ニューヨーク入りした僕等17名は、50人乗りの大形バスをチャーターして、ラガーディア空港に近いコロナという地区にあの、ルイ・アームストロングのハウスミュージアムに行き、彼の晩年の生活ぶりを見聞、彼の奥さんがカトリック教徒だったことから信者の多いコロナに居を定めたことや、近所の子供達のために寄付したり、楽器を教えたりと、住民からも尊敬された人だったという。 サッチモと同じ時代に生きたコールマン・ホーキンス(ジャズテナーの元祖)は知る人ぞ知る存在の人で、現在穐吉敏子さんの住んでいる、セントラルパークウエストの同じ通りのななめ前位に住んでいたそうです。「サッチモは“ハロードーリー”のコマシャールで子供にも知られる人になったけれど、彼の“ウエスト・エンド・ブルース”は、あんなの一本あったら死んでもいいってくらいの演奏ですよ」と穐吉敏子さんは僕に言う。そういえば穐吉さんが一番最初に買ったレコードは確かそれだったはず!と、 とっさに僕の頭が反応した。
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johnny -
2022-08-05幸遊記NO.270 「イエール大学のジャズサミット」2016.3.14.盛岡タイムス
アメリカの日時で3月4日(金)夜7時半(2016)に米国屈指の名門校「イエール大学」にある「SPRAGUE・MORSE・リサイタル・ホール」にて行われた、デューク・エリントン・ジャズ・シリーズ「ピアノ・ジャズ・サミット」(出演・穐吉敏子。バリー・ハリス。アーロン・デール)を聴く為「ジョニーと行く穐吉敏子への旅」を企画、盛岡を中心に北海道や宮城などから17名のファンが集まって行って来た。
イエール大学にはジャズ科もあり、その責任者ウィリー・ラフ氏から、今回は穐吉さんが他の2人の人選も頼まれ、選んだのがNEAジャズマスターのバリー・ハリス。このピアニストは穐吉さんと同じくバド・パウエルの直系で、生年月日も穐吉さんと3日しか違わない1929年12月15日生まれ。穐吉さんは12日生まれ。そして、3人目を誰にしようか相談したら、彼は若手のアーロン・デールを推薦したという。 アーロンに関して、彼女は「ピアノはうまいけど、私はちょっとね!」と、昨年言っていたのを思い出し、アーロンのことを一緒に行った皆さんとの夕食会の席で彼女に聞いてみたら「彼は、ABCのレインボー・ルームで演奏するような人ですから、ジャズバンドにはやとわれない。でもピアノは洗練され、礼儀をわきまえ、個人的にも正しく、主にイーストサイド(お金持ち達の地域)で演奏する人です」。又彼は穐吉さんに「若者たちから“イエスマン”と呼ばれています!」と語ったそうです。ホールには3台のスタインウェイピアノが置かれ、トシコ、アーロン、バリー、の順にソロを数曲ずつ弾き、その後3人でのサミット演奏。 僕は隣席の米国ご夫人に話かけられ「日本から聴きに来ました。NYからNHへはバス(風呂)を使いながらバスで来た!」とダジャレを言ったら話通じて笑いころげ、彼女の隣りにいるご主人に僕のダジャレを説明して2人共又笑い、「私は、イエールでいろんな国の子供達に英語を教えている先生よ!」と言ったので、僕は又いい気になって「日本ではティーのことを茶と言います」と、ティーを飲むしぐさをしながらティーチャーとダジャレを言ったら、これまたバカウケし、Eメールアドレスを教えてくれたE!日でした。
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johnny -
2022-08-04幸遊記NO.269 「坂野のぼるのひとすじ音楽人生」2016.3.7.盛岡タイムス
「愛の浜旅情」「太平慕情」「大橋旅情」「さらば高炉よ!」。ご当地ソングの更なる地域版カセットテープ制作のための選考会で選ばれた4名の新人歌手が、生バンドをバックに唄い録音制作した、釜石オリジナル歌謡曲集が発表になったのは1989(平成元年)のこと。そして2015年に橋野鉄鉱山・高炉跡が世界遺産登録となった原動力のひとつにもなった歌「夢高炉」「橋野川残照」に至るまでの20曲余りの作曲や編曲を担当したのが坂野のぼる(本名・友雄)さんでした。
彼は釜石在住のピアニストで今年2016年1月5日に91才を迎えたばかりだったが、2月21日帰らぬ人となった。昨年11月釜石で行われた作詞家・長柴政義さんの出版記念パーティに元気な姿で現れ、久し振りに話をしたばかりだっただけに残念です。奥様の百合子さんが倒れられてから、何年も病院に毎日自転車で通っていたそうですが、亡くなられてから、少し元気を失していたらしい。 坂野さんは1925(大正14年)山形県米沢市生れ、幼少よりハーモニカ、小学でピアノ、中学でギターを独学で覚え譜面も読めたことから音楽学校へ進むつもりが、戦争が始まり、兵隊へ。満州で軍曹になり少年兵の教育。1945(昭和20年)陸軍病院の警備隊に転属となった時その倉庫にあった楽器を見つけて、ひそかに楽しんだという。終戦後日本に戻り音楽家を目指し上京。神田でギターを買い、若原楽団で弾き歌手や踊り子、浪曲師、たちと学校回り。ためたお金で私立仙台音楽学校へ入学。卒後まもなく自己のセクステットを編成。黒人演奏家のアドリブを参考にして譜面を写し書き進駐軍クラブで演奏。 NHK昼のプレゼントで1年半ギターを弾き、東北・北海道のキャバレー、クラブ回り中に、釜石のキャバレー「ゴールド」の立て直しを依頼され4年演奏。「銀河」では16年。その後自分の店「夜想曲(ノクターン)」を百合子夫人と開店。お客さんの歌伴をしながら、そこで多くのオリジナル曲を作曲し著作権協会の会員にもなった。そういえば1989年9月、僕の県民会館大ホールでの初コンサートでは、何曲かバンド演奏や伴奏もして頂きましたね。来る3月10日正午より釜石シーガリア・マリンホテルにて故・坂野ご夫妻を偲ぶ歌の会。お二人のご冥福をお祈りいたします。
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johnny -
2022-08-03幸遊記NO.268 「橋本潤一の日本のことわざ米国編」2016.2.29.盛岡タイムス
来る3月4日~9日(2016)「ジョニーと行く穐吉敏子への旅」(JTB)に参加する人達のESTA申請をしていたら、NYから僕の店に来たのが、JUN!さん(橋本潤一・66才)。やあ久し振り!。彼はアメリカ・ニューヨーク在住のベテランデザイナー兼イラストレーターである。そこで思い出したのは2003年のこと。30年間持続した穐吉敏子ジャズオーケストラ、最後のコンサート(10月17日・カーネギーホール)とライブ(12月29日・バードランド)のNY公演。当時盛岡の広告会社に勤めていた森隆朗さん(現・41才)と知り合い、憧れのデザイナーがNYにいると聞き、名前を尋ねたら橋本さん。そこで12月NYへ僕と一緒に行ったら会えるよ!でNYへ。そこで橋本さん紹介の会社へ就職内定。6年後には日本へ戻るはずが、すでに12年のキャリア。
森君憧れの橋本潤一さんは宮城県気仙沼市の出身。日本の諺(ことわざ)100編をイラスト入りで英訳。「猿も木から落ちる」として1987年に米国で本を出版した人。彼は気仙沼高校を卒業。岩手大学特設美術科へ入学。バイトで新聞社の広告局でイラストをやり、長澤節の本に感化されて大卒後に上京し、セツ・モード・セミナーの学校に入学。卒後広告代理店に入ってはみたが、アルバイトのイラスト仕事が給料より多くなり、1年半で独立。 更に若いうちに自分の力を海外で試してみたいと思いをめぐらしていた1979年、ひょんないきさつからNY在住のステンレス版画家の佐藤正明さん(現・75才)が「日本での展覧会のため3ヶ月間空くNYのアパート、アトリエを含めて全部使っていいよ」となって奥さんとNYへ。そこでディスプレイのレタリングによる完成予想図などの仕事が沢山あって何百枚も描いたという。学生ビザのつもりが一年半後にはグリーンカードがとれたほど、人と仕事に恵まれ、困った英語も「JUN!英語下手でもガッカリするな!オレのイタリア英語はもっとひどかった。それが今では何人も使っている“ユーキャンドウ!”と言ってくれ、6人ものアート・ディレクターを紹介してくれ涙。その人達も次々と仕事をくれた。又、90年代に手仕事がコンピューターにくわれ始めた頃、ゴルフ仲間がリタッチという広告写真修正を教えてくれ、その頃出来た新会社の社員として現在があるのだという。持つべきは、友と仕事と、なぁ酒(情け)よ!。
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johnny -
2022-08-02幸遊記NO.267 「新沼好文のシンパシー・ナーヴァス」2016.2.22.盛岡タイムス
2009年、東京のレコード会社「ウルトラ・ヴァイヴ」がディストリビュートしてくれた僕の自曲自演自唱CD「般若心経・照井顕&テクノ楽団」。その時のテクノ演奏(1997年7月録音)を担当してくれたのが宮古市在住のシンセサイザー奏者・新沼好文さん。あの世界一ポピュラーな、般若心経に勝手な節をつけて僕がギターで歌い、圧倒的な音圧のリズムにのせてシンセサイザーで演奏したそれは「生きるための経(今日)を楽しむ、明日のための今日(経)歌」。
1970年代、テクノの草創者の一人であった彼は80~90年代「シンパシー・ナーヴァス」「Dr・NUMA」「O2・SOUL」と3つのネームで活躍、特にも95年のベルギーのKKレコードと専属契約を結んだ頃から、ダンスミュージック・テクノとして欧州に紹介され、97年5月には、何と!ラジオ・イタリア・ネットワーク・トップ100にて2週連続No1に輝き、その後もしばらくの間上位にランクされ、LP、カセット、CDなど10作以上が世界のテクノを席巻した。 「シンセサイザーでやれることは全てやった」と言っていた彼。その原点帰りともいえる世界最古の電子楽器「テルミン」の試作研究を行い2002年から製作を始め、2年後には寒暖の影響を受けないチューニング方式を完成させ野外でも使えるプロ用器種を発売したら全国から注文が来て製作が追い着かない様子でした。テルミンとは、ロシアの物理学者・レオン・テルミンが1920年に発明した電子楽器(高周波を利用し楽器に手を触れずに空中演奏する)。 そんな彼のスタートとなったのは中学時代、先生に「こんなに聴きやすい電子音楽があるんですよ」と聴かされたNHKFMの試験放送。「それをきっかけに未知の音楽をやってみたくなった」と言っていた。そんな話から僕が担当していたFM岩手の番組の第5週分を彼に譲って、テクノを放送してもらった時期もあった。そして彼のスタジオ兼工房があった宮古市鍬ヶ崎は、あの3・11の津波でさらわれ、町が消えてしまっていた。新沼さんはどうしているのだろうと、何人かに聞いていたら「品川に住んでいる娘さんの所に行っていたらしいが2年前(58才)に亡くなられておりました」と、2015年に探し知らせてくれた人がいた。
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2022-08-01幸遊記NO.266 「紺野郁夫の福服・シャイな人生」2016.2.16.盛岡タイムス
あれは1981年2月。「マスター!オレ、グアムに行って来たんだけどさぁ、これ、おみやげっす!」そう言いながら、常連の紺野郁夫さん(現60才)が、照れくさそうに差し出した1枚のLPレコード「バード・オブ・パラダイス」渡辺貞夫(as)がチャーリー・パーカー(as)にちなんだ曲を、「グレイトジャズトリオ」ハンクジョーンズ(p)ロンカーター(b)トニーウイリアムス(ds)と一緒に1979年5月にNYで吹き込み1980年に出たアメリカ盤。とても嬉しかった記憶が今も強く残っている。
「あの3・11、陸前高田から東京に行った時で、電車降りてホテルに向っていたら地震でさぁ、御蔭様で命拾いしたっすよ!父は入院中だったけど移されてすぐ亡くなってさ、母は今老人介護施設に、俺は一関でみなし仮設住宅のアパート暮らし、仕事は昔も今もスーパーマンで朝6時から夕方3時まで時給+アルファーの825円でさしみ切りっす!」 そう言いながら、沖縄展をやってるっていうから盛岡来て、これ買って来たから一緒に飲もう!と袋から「千年の響」というかめ壺貯蔵7年の琉球泡盛!独特の香と深い味わい。それにしても千年の響とは!「山門くぐれば聴こえてくる千年の響・・・・」で始まる僕の自作曲タイトルと同名なので尚更うまい!!と話まで弾む。 彼は根っからジャズが好き、特にも穐吉敏子さんのコンサートやパーティには欠かさず来盛してくれて、穐吉さんの曲「ホープ」を歌ってデビューした金本麻里のファンにもなってくれた。おれ!シャイだしー!と言いながら、人目を引くブランドで身を包む超個性的なファッションは誰も真似られない。 そういえば1992年僕が呼んで主催した穐吉敏子ジャズオーケストラの盛岡公演の時、彼は「マスター、これ着てステージに立ってくれ!」と、彼のカッコイイ服を僕に一式貸してくれた彼の想いが浮かぶ。あの時、僕は穐吉さんに「ヒアカムズジョニー」という曲をプレゼントされ、感激のあまりステージに駆け上り穐吉さんに抱きついたっけ!。コンチャンあの節はありがとう!そういえば2012年、“穐吉敏子への旅”の時も一緒。あのNYでも際立った程、彼独特のサプール的ファッションが頭に浮かぶ。
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johnny -
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