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レポート2022-07-31幸遊記NO.265 「斉藤憲司の幸せを得る笑顔」2016.2.8.盛岡タイムス
誰しもがいい笑顔を持っているものですが、その笑う時のえもいわれぬリアクションにこちらも笑わずにいられぬ幸せ感をもたらしてくれる斉藤憲司さん(62)に、今何してるの?と問いてみたら「ガスの検針を月に10日間。広田湾での防波堤釣り。あとは趣味のギター三昧。友人の佐々木功一さんと“K&K”というグループ作って週一の練習100回やったかな?たまにライブもね」。そう言ってガハハと笑う!実に楽しそうだ。
ギターにはまったのは、秋田商業高校を卒業して日本電子工学院に入った頃で、吉田拓郎や井上陽水に憧れ、バイトしてギターを買ったことから。卒業して入った会社は写真用品卸業の「株・堅村」そこで20才から54才までの34年間、富士写真フィルムを中心に卸した人で東京3年、仙台3年、岩手盛岡出張所で28年間「県内の100軒余りある写真店のうち50軒の得意先を回って歩きながら、フィルムとカメラ。そしてアブラを売ってあるいたのさ!ガハハッ!」 彼と出会ったのは、陸前高田駅前にあった和光堂という写真店で、だった。何度か顔を合わすようになったら、僕の店にも立ち寄ってくれてジャズを聴きながら、必ず特大焼きうどんを注文し、汗をかきながら汁まで飲み干す豪快な食べ方をしては、ガハハ!と笑った。当時彼のニックネームは“百獣の王”(体重・110kg超)だった。 1980~2000年代、僕はよく写真展を開いていた。テーマは一貫して日本ジャズの原風景。人は写っていないが人の痕跡を絵を描いている様な気持ちで拾い集めていた。例えばゴミの様な物にも美しさを感じながら撮っていた。そんな写真を、彼・斉藤憲司さんは見せて下さいヨ、いいなあ、これ欲しい!と言っては、何点も買ってくれたことさえあった。 僕が盛岡に来てからは、奥様と夜の散歩がてら!で寄りました!と、ニコニコしながら、ウイスキー。一人で来てもニコニコ、ニコニコウイスキー。ガハハッ、とウイスキー。そんな彼の顔を見る度、僕も幸せ気分。そう言えば50年以上も前の「幸せを売る男」といううたを思い出したら「幸せを得(う)る男」なんてシャレが浮かんだ!
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johnny -
2022-07-30幸遊記NO.264 「穐吉定次の双葉山横綱」2016.2.1.盛岡タイムス
平成28年大相撲初場所は1月24日、東京両国国技館で千秋楽を行い、大関琴奨菊(31.本名・菊次一弘、福岡県出身、佐渡ヶ嶽部屋)が、大関・豪栄道を破り、14勝1敗で初優勝を飾った。平成18年初場所での栃東以来実に10年振りの日本人力士の優勝。大関在位26場所目で、白鵬,日馬富士、鶴竜、の3横綱を破っての頂点。その琴奨菊に唯一人土をつけた豊ノ島は東前頭7枚目で3度目の殊勲賞(12勝3敗)。新入幕の正代(西前頭12枚目)は10勝で敢闘賞に輝いた。これは初代若乃花に次ぐ史上2位の速さだという。
この嬉しさで想い出すのは、昭和の名横綱双葉山。彼は明治45年(1912)2月9日、大分県宇佐郡天津村布津部(現宇佐市)に木炭業と船舶運搬業を営んでいた父義広、母美津枝の次男として生まれ、15才の時身長172cm、体重71kgの体を見込まれ、大分県警部長で立浪部屋の後援者だった、双川喜一氏の世話で入門。昭和2年3月初土俵。276勝68敗1分(33休)の成績。昭和11年(1936)1月場所7日目から連勝を続け、翌12年5月場所後に横綱となり、前人未到の69連勝(13日制)の大記録を打ち立てた人。 昭和14年1月15日(4日目)安芸の海に70連勝を阻まれ、5日目両国、6日目鹿島洋に連敗し、9日目には玉の海に敗れた。その原因は前年の中国大陸巡業で、アメーバ赤痢にかかっての体調不良。だが一言も弁解しなかった人らしい。入院中の大阪に小結時代からの双葉山ファンだった小柴澄子さんと結婚。その直後の15日制となった5月場所で全勝優勝!それは新婚旅行さえ取りやめ、けいこに打ち込んでの復活だった。その後は終戦の昭和20年まで土俵の王者として君臨した不世出の力士。 「昔のお相撲さんで双葉山という横綱がおりました。あの人は穐吉定次と言って、私の近い親せきです」そう言ったのは、今年渡米60周年を迎えた、NY在住のジャズピアニスト穐吉敏子さんだった。そのことから僕は昨2015年10月、彼女が東京文化会館でコンサートを行った翌日、荒川区の善性寺をたずね双葉山の眠る穐吉家の墓と対面しながら、ジャズと相撲の道は違えど、心の中に持つ確固たる信念と精進の精神は同じだと思った。
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johnny -
2022-07-29幸遊記NO.263 「村井秀児のミスターベースマン」2016.1.25.盛岡タイムス
皆が愛を込めて「シュウチャン」と呼ぶベーシスト村井秀児さん(1949年12月5日生れの66才B型)。今も時折本紙盛岡タイムスの出版物案内で紹介される「あの頃僕はバンドマンだった(北島貞紀著・2007年初版)」の北島さんが20年の封印を解き、「開運橋のジョニー」で毎月ライブをやり、初アルバム「アフタヌーンティー」CDをリリースした時も北島トリオでベースを弾いていたのが「シュウチャン」だった。
ジャズベーシストといえば大きなウッドベースを想像するが、彼はめずらしくエレキベース専門の人である。ピアノの北島さんは大阪で立ちんぼう(音を出さなくていい)ベースから始めたバンドマンだった様だが、ベースのシュウちゃんはピアノのオーディションから始め、ギター、そしてベースで定着したバンドマンだったらしい。 「アンプのスイッチを切ったまま立ってるだけのベースマン(ベースラインはピアノが弾く)北G(島)より4年も早い、元祖?立ちんぼうだったんだよね!」そう言いながら彼は、北島さんの本ならぬ「秀ちゃんのあの頃僕は・・・・」的な一冊の手書きコピー本を僕に差し出したのは2015年4月。表紙のコピー写真は今の本人から想像できない髪型と口ヒゲのお兄さん。「盛岡下小路中学一年の時の英語代理教員・沢藤精子さんの、今でいう歌で覚える英語の学習といった先進の授業内容」から、詩(歌)へ音楽へと入って行った彼の様子に納得した。盛岡三高から専門学校へ入学した彼は、立ちんぼうから叩き上げのベースマンとなり13年もの間、プロとして京都で活躍していた時期に「ウエストロード・ブルースバンド」「村八分」「RCサクセション」「スラッシュ」「キャロル」等々の創生期あたりの彼等とバンドでの接点があった様子が面白く綴られていた。 盛岡に戻ってからは故・阿部哲(ハーモニカ)らと一緒に大船渡でのブルースコンサートに来て僕が司会した記憶。40代からクリーニングの営業を18年やりながらのバンド活動、定年後には警備会社に務めながら、現在は6つのバンドで以前にも増してハツラツとベースを弾く秀れたミスターベースマンである。
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johnny -
2022-07-28幸遊記NO.262 「水本義美の青春時代」2016.1.18.盛岡タイムス
かつて盛岡の音楽シーンの中心を担った「東山堂楽器店」には凄腕のプロデューサーがいた。その人の名は小川道子。今は札幌に居るらしいが、夜間の杜陵高校を出た方で、彼女抜きにして盛岡の音楽史は語れない!と、熱く僕に語るのは、かつて東山堂で働いていた水本義美さん(67)。彼は今東京でタクシーを運転しているという。
彼が開店間もなかった僕の店に現れたのは東山堂が主催するコンサートや映画「真夏の夜のジャズ」上映会などの宣伝の為だったから1970年代中頃。以来様々なシーンで出会い続けてきたが、彼は岩手高校から東海大学文学部日本文学科へと進み、出身が盛岡、八戸、新潟の文学生同士で組んだバンド「花古事記」の人気が高くて、ナベプロからお声が掛かった程だったらしい。 卒後盛岡に戻り東山堂に入社したのはあの伝説のカーメンマクレー、カウントベイシー共演の1973年11月18日開催(幸遊記№191)直前の10月だったという。コンサート当日は大雪で彼女らが駅に着いたのは開演時間を過ぎてしまった6時30分、しかも楽器や衣装が届かず、ベリーファイン(売り物の楽器)を用意して、彼女は着て来たオーバーコートのままステージへ、チケットは前売りで1500枚を超えギャラは300万だったという。 僕は昨2015年東京でその時の全国ツアーパンフを入手(何と5000円)それによって先の幸遊記への記述間違いが分かった。前日、会場函館ではなく、札幌厚生年金会館。盛岡の次が秋田県民会館。又21日新宿厚生年金会館のコンサート後と書いたのは渋谷公会堂でした。公演は11月10日茨城から30日宮城まで20公演。招聘元「もんプロダクション」は「神原音楽事務所」(もんプロの故・西陰嘉樹社長は当時神原事務所でジャズを担当していたのでした“1971~74”)と歴史は「論より証拠」を「痛感」した次第。 水本さんはその後独立「キャノンボール」というジャズレコード店を経営後、CMの仕事につき、のちCMパークを立ち上げたりした人。学生時代にレコード店でバイトした時、加山雄三の妹さんがレコードの注文しに来て、その上原家に届けに行って、彼女にコーヒーをごちそうになったなぁと懐かしむ。
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johnny -
2022-07-27幸遊記NO.261 「年始の合掌・南無阿弥陀仏」2016.1.11.盛岡タイムス
2016年が始まったばかりだというのにもう二つの訃報。一つは2日、盛岡の片岡政樹さん(69)が、肺ガンで亡くなったという知らせ。アルトサックスを吹き、タバコを吸い、酒を飲んでいたから、こんなに早く先立ったのか?と。僕自身も十数年前にタバコは止めたが、酒は毎日で、身につまされる。彼のお姉さんから聞いた話だが、戒名に使って欲しい3文字を自分で選び託していったという。そして寺の和尚さんは2文字を考え「慈保政楽善居士」と名付けて旅立たせたのです。保は片岡さんの仕事(保険事務所)から。政は自名・政樹から。楽は、大好きな音楽から。その上下に付けられた慈善は、正に仕事以外の仕事であり、趣味であった彼のジャズアルト奏者としての慈愛なる善行であったことを物語っていると思った。
彼が僕の店、開運橋のジョニーで演奏を始めたのは2002年から。2004年1月14日に僕の店にTVの取材が入るというので、彼が北島貞紀(p)さんとバンドを組んで出演してくれたことをつい昨日の様に想い出してしまうのだ。それがきっかけで翌月からは定期演奏。後にJW5という各パート2名の10人編成バンドを立ち上げ、さらには月1のセッションを企画し、若いミュージシャンたちを育て、プロとして飛び立つきっかけを作った立役者。穐吉敏子さんの前夫・故チャーリーマリアーノ(as)を敬愛し、店に来るといつも彼のレコードをリクエストした。又僕は彼のサックスソロをFMで放送したこともあり、彼の笑顔とスキャットはいつもジャズだった。 二つ目は7日、陸前高田の遠野芳明さん(54)が亡くなったとの知らせ。彼は、僕が陸前高田から盛岡へ来た時、半年あまり店を手伝ってくれた人。もし店が順調に行って軌道に乗ったなら、店を彼にまかせて自分は陸前高田に帰るつもりだった。しかし、店は大変で僕が残り、現在に至った訳なのだ。彼は最近陸前高田に出来たコミニュティホールで働いていると聞き安心していたが、「心芳松信士」となって菅原聡の津軽三味線を聴きながら、地元ミュージシャン達にも見送られての旅立ち。南無阿弥陀仏・・・・・・。 葬式から帰って店を開けたら、最初の客のリクエストが2015年12月31日亡くなったナタリー・コールの歌だった。
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johnny -
2022-07-26幸遊記NO.260 「中村由利子のオルガンと佐藤新三郎」2016.1.4.盛岡タイムス
佐藤新三郎さん!あけましておめでとうございます。昨年(2015)12月に、電話でお願いしたCD“天に響け”をすぐに買い求め送って頂きありがとうございました。届くと同時に何度も繰り返し聴きました。新三郎さんも、その時電話で「CDが陸前高田に届いた時、封を切って最初に買ったのは俺だった」と言っていましたので、僕も新三郎さんに頼んだ縁を大変嬉しく思いました。なので、これをしたためています。
2011年3月11日の大津波で被災した、陸前高田市立博物館所蔵海保製リードオルガンが修復され、その音色を録音したCDが完成。先行販売が陸前高田市で始まったとの新聞記事を読んだのは昨年の夏でした。オルガンは1931(昭和6年)に村上斐(あや・1887~1969)さんが設立した私立高田幼稚園で1968年に市立となるまで使用された様子で、斐さん亡き後は子息の村上三吾さん(神奈川在住)が形見として保管していたものを修復して2004年に市に寄贈されたとありました。 2015年1月から3月まで東京国立博物館で行われた特別展「3・11大津波と文化財の再生」に展示されたそのオルガンを演奏したのが、作曲家でピアニストの中村由利子さん(57才CD“天に響け”の演奏者)で、実は彼女前年の2014年8月に陸前高田市を訪れ、旧生出小学校校舎の現市立博物館にてオルガンを弾きその音色の美しさに魅かれたらしいのです。その演奏をする際に思いをめぐらして作曲したのがタイトル曲の「天に響け」。「月の砂漠」の演奏も心に沁みました。他に陸前高田ゆかりの女優・紺野美沙子の朗読。歌手・白鳥英美子の透明な歌声の讃美歌などが続くCD。収益金は被災文化財の修復保存活動に役立てられるそうですね。 僕が中村由利子さんのデビューアルバム「風の鏡」を聴き、担当していたFMで放送し、雑誌に紹介文を書き、生演奏を盛岡大通に開店したばかりの「ブルージュ・カフェ」で聴き、そして新聞に連載していた「照井顕のプライベート・インタビュー」にも登場して頂いたのは、1987、8年の事でした。「曲や演奏には情景が浮かんできてストーリーが書けるほどこだわって、ぜいたくなくらい自由にイメージをふくらましてゆきたい」と言っていた彼女の当時の言葉が、今の新三郎さんと重なってしまいます。お元気で!今年もよろしく!
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johnny -
2022-07-25幸遊記NO.259 「モノラル・ステレオ・スリーディー音楽」2015.12.28.盛岡タイムス
今年(2015)は何回終活という言葉を聞いただろうか?終えて別の世界へ行った人も多かった気がする。世はデジタル万能の時代だが、逆にアナログという言葉も随分と耳にし、頼まれて何年何十年お蔵入りのステレオを何台も再生させて喜ばれた年。時代に逆行する様だが、そうではなく進む時代とともに未来に向って成長してゆく分だけ、それを支える根の様に後へも向進するものなのだ。
そんな訳で今年は十音さんから頂いた電蓄で78回転のSP盤レコードをよく聴いた。牛崎隆さんが持参した内側から外側へ向って針が逆音溝をトレースする2枚のラベル作曲の音楽も33回転盤の新品ドイツ製LPレコードで聴き感動!。 岩手出身東京在住の作曲家でコマーシャル音楽を数多く手掛けてきた伊藤カズユキさんが、2012年来渋谷ヒカリエのスイッチルームという立体音空間でサイマル放送してきた、スリーディー(3D)音楽が3DCD化なったのと、彼の盛岡一高時代の同級生・望月美咲さんがその「Hibike」を僕に届けてくれたので、後日上京して彼を訪ねた。銀座にあるスタジオ・モニタールームで拝聴させて貰った立体音像。そこに現れる高雄敦子(英国立音楽院首席卒業。2014年ストラディヴァリウスを貸与された若手バイオリニスト)の音が風の詩となる感動のKISSonix-○R-3DCD体験。 更には僕の店で9月25日に行われた村田浩(tp)&ザ・バップバンドの演奏を、ダミーヘッドを使用してバイノーラル録音した岩手大学工学部の西山研究室。そこでその音を世界初となる経路同時逆同定方式のトランスオーラルシステム“(株)ARIと共同研究開発した実用的な小型3D音楽2スピーカ再生システム”で聴かせてくれるというので女房と一緒に12月1日、岩大工学部・電気電子・情報システム工学科の西山清教授を訪ね入学?、生徒が操作するそれを聴いて更に驚く!ステレオに向って座った僕の両耳にイヤホンで信号を送り、そのイヤホンに付いているマイクでスピーカーから出る左右の音をキャッチしそれを瞬時にコンピューターが最良のリスニング・ポイントを計算し、立体音を再生するアメイズィングな高臨場感を体験!振り返れば凄い1年でした。
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johnny -
2022-07-24幸遊記NO.258 「畠山貞子の巽聖歌・水口に学ぶ」2015.12.21.盛岡タイムス
「人間っていいものです 神様がつくった一番いいものです 人間は亡くなる時 なーんにも持っていかないけれど 言葉を残します 言葉は宝物です 一人一人みんな違うけれど言葉を残します 心の言葉です」詩集「瞳」と、手作りの詩集から僕がいつも持ち歩いている手帳に拾い書きをしたのは2003年の秋、とある喫茶店でのこと。それは手作りの詩集だった。
その翌年(2004)の秋、童話「かじやの権三」に出合った。その又翌年には、大先輩から「紫波の権三ほーる」さんからの個展話をいただき、出向いて見たら、館主はなんと詩集、童話集の作者・畠山貞子その人で、ビックリ!展示はその又翌年の2006年1月開催で「ジョニー・てるいけん・ワールド」と題され、僕の詩書、写真、アート、自作自演ライブという盛りだくさんの5日間でした。 以来貞子さんのもう一つの仕事でもある新聞配達、その休刊日前夜には開運橋のジョニーに手作り菓子を持参してくれたり、時には趣味のアコーディオンを弾いてくれたりと他人の空似みたいな、きょうだい付き合い。2009年には彼女が出版した心で語る童話集「一杯の御飯」の題字を僕に書かせてくれたりした。 「水に学ぶ物づくり」と称し自宅の井戸水を使っての和紙づくり。その和紙でつくった、和とじ手作り本の数々。「お話童話・いじわるをしたお地蔵さん」「テコのおしゃべり集・心のすきま」「おばあちゃんが語る12のお話」「たつみせいかのどうよう詩63」などなどの他「はるかなる満州・畠山アヤ子」「紫波町日詰の先人録」「紫波の鐘つき堂・横澤重雄」などの編集、出版などすでに20冊近い手仕事はまるで物語の亀さん!。 畠山貞子(恭三の二女)昭和23年2月(1948)紫波町日詰生まれ、盛岡二高卒。職業訓練校でOAデザインを学び、歴史と文化活動の「どっこ舎」に所属し内城弘隆氏著の「巽聖歌の詩と生涯」の版下を制作。平成10年(1998)から6年間学んだ杜陵高校通信科。そこの先生、故・遠山英志さんに彼女が文章をほめられたことから文を綴ることがやみつきになったという。その師・遠山さん(盛岡タイムスに連載していた伝承の周辺・盛岡真人)の拾遺集を2012年に編集を手掛け恩返し!コテコテのテコテコ流石です。
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johnny -
2022-07-23幸遊記NO.257 「富樫和由のJAZZな椅子」2015.12.15.盛岡タイムス
「36年間務めて定年になったけど、まだ仕事しててさぁ」とニコニコしながらビールを飲んでひとりジャズを楽しむ富樫和由さん(64)は、横浜在住だが昭和から平成にかけての3年間程盛岡に住んで、一生懸命仕事をした。県営野球場やアイスアリーナ、産業文化会館アピオ、北上詩歌文学館、大槌中央公民館、宮古球場、山田球場などの椅子。矢巾田園ホールの陶板壁画、陸前高田の野外活動センターの遊具やベンチテーブルなど、相当数手掛けた人。主はコンサートホールやスタジアムの椅子納入の仕事。国立競技場、サントリーホール,埼玉アリーナ、日産スタジアム、大阪城ホールなどの外、東大、早大など学校関係。
今、盛岡に来ているのは16年前に設置した岩手県立大学野外オブジェ(大理石で創った彫刻・5つのエレメント、アメリカ人・ラリー・カークランドの作品)を、メンテナンスしに来ているのだという。彼は北海道釧路市出身。釧路市といえば、僕が高校の修学旅行の時に見学した歌碑「しらしらと 氷かゞやきやき千鳥啼く 釧路の海の 冬の月かな」の石川啄木の歌がいまだに忘れられなく、あの時見た釧路の海の風景と共に、すらすらと浮かび上がってくる不思議。 あの釧路で、美術大学を志望し、札幌に出て予備校に通っていた苦い時代に、彼が出合ってしまったのが「ジャズ」だった。札幌に現在もある「ジャマイカ」というジャズ喫茶に通い、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、ジャック・ジョンソン、ジョン・マクラフリン、ウェイン・ショーター、ミロスラフ・ヴィトス等にはまりにはまって、東京に出てからはマイルスを聴き、リターントゥフォーエヴァーのチック・コリアにはサインまでもらった。あの1970年代は自分にとっての「ジャズの宝庫」だったと言い切る。 彼は旭川東海大学のデザイン科を卒業してから、現在の会社でずーっと、椅子をはじめとするタウンアートコーディネイター役を、営業というかたちで今日まで果たしてきた。スポーツや音楽を観戦・鑑賞する側の満足度合いは、座る椅子に大いなる関連性があるということを、彼は、きっとジャズ喫茶の居心地の良さに置き換えてきたのかも?。
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johnny -
2022-07-22幸遊記NO.256 「高橋幸悦の1984・FMジャズナイト」2015.12.7.盛岡タイムス
2015年の今年30周年を迎えたFM岩手、その記念の特番で10月1日の深夜に「復活一夜限りのオールザットジャズ」が放送され、僕の声を聴いたよ!という方が何人か居て気を良くしていたら、翌11月、岩手大学や名古屋大学の教授たちと一緒に来店した宮城県砕石協会・専務理事の高橋幸悦さんがマスターも一緒にと言うので、ワインを御馳走になりながら会話。
彼は、かつて陸前高田にあったジョニーにも盛岡の地下にあったジョニーにも来た事があって、一度は僕が長崎に行く(穐吉敏子さんのコンサート)時で、店の中ですれ違ったという。すみません。その彼から出た話が「FM仙台に出たことありましたよね」だった。「あー!とっくの昔に忘れていましたが、出た記憶があります。たしか板橋恵子さんの番組だったような?」と僕。 彼は「ジャズ喫茶といえば外国ミュージシャンの演奏が定番なのに、陸前高田のジョニーは、開店10年目を迎えても、ずーっと日本のジャズ専門。しかも日本の知られていないミュージシャンのレコードまで作って世に売り出すことをやっていて、そのレコードをかけていましたよね」と、彼の口から出て来た内容に僕はビックリした。「当時僕は30代半ば、のめり込んでジャズ番組を聴き、録音し毎日寝る時に聴いていた。ところがあの放送を聴いて照井さんにあこがれ、リタイヤしたらジャズ喫茶のおやじになりたいが夢でした。なのに、まだサラリーマンやっててね」と笑う67才の彼。そのFM仙台の放送(1984年11月24日)がCDにダビングされ2015年11月18日僕の手元に届いて感激! 更に、数日後には、失業して奥様の実家(山形)で世話になっていた時、関わったサックスの故・アート・ペッパー・コンサートを録音したそれが2枚組のCDになってるんですよと、その「ライブアット・ヤマガタ‘78」(販売・バップ、1990)のCDも送ってくれた。もう少ししたら、当時の秋吉敏子さんが出たNHK-FMやスタジオライブの放送などCD化して贈るという。奥さんに捨てると言われて車のトランクに緊急避難させたカセットテープがこんなに喜ばれるとは!と電話の向うでうれしそうでした。
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johnny -
2022-07-21幸遊記NO.255 「十音のラッパ式電気蓄音器」2015.11.30.盛岡タイムス
FMチューナー、Wカセット、レーザーカラオケ、CDプレイヤー、AVアンプ、スピーカー等、かつて主人が使っていたものを自分でも鳴らしてみたいと、俳人の菊地十音さんに頼まれて、それらのステレオ・システムのメンテナンス修理をし、簡単に使える様セッティングし直したら「こういうものもあるんです」と持ち出して来たのが、なんと蓄音器!
その立派な美しい姿に見惚れていると「持って行って!」というので頂戴して来た。それは、1900年代初頭に一世を風びしたラッパ式蓄音器を、桜材を使った本体と10枚の真鍮(しんちゅう)材を張り合わせラッパを手工復元した1973年製電気蓄音器。とても音がいいのにビックリ! 僕は自分の店の音響システムでも、78回転のSP盤も聴ける様にしてあり、兄が集めていた昔のラッパ式蓄音器も1台貰って来て時折鳴らしてはいるのですが、電蓄の音はとても気に入った。興味を持ったお客様には1曲かけると感激してくれる日々。このラッパ式電蓄はリムドライブ方式でセラミックカートリッジを使用。最大出力5ワット、重さは7kg。そこはかとなく時代を感じさせる。 僕が持っているSP盤レコードは昔日に貰ったものがほとんどですが、最近もチョコチョコくれる方がいて、その数300はあろうか!だが、その半分以上は、かつて「おじいさんが聴いていた浪曲ですよ」と、店に来る度に、10枚、20枚と持参してくれたのがこの電蓄をくれた菊地十音さんこと章子さんでした。おじいさんが使っていた立派な蓄音器は、小屋に置いていたら、雨漏りでだめになってしまっていたことから、亡くなられたご主人が、この復元されたラッパ式電気蓄音器「グラフォフォン」を買ったものだったという。 あらためて聴き直した川田義雄の「浪曲セントルイスブルース」、サッチモの「ニューオリンズ」、大西玉子の「外山節」、美空ひばりの「あきれたブギ」、島倉千代子の「りんどう峠」、織井茂子の「黒百合の歌」、等等に気持ち新た。2015年11月25日付朝日新聞には、20代~30代を含む全世代でアナログレコード(LP)の人気が再燃し、TOKYO-FMは10月から「アナログ、ガラパゴス」という番組を始めたとあった。
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johnny -
2022-07-20幸遊記NO.254 「宮城健の東北ジャズ喫茶応援」2015.11.23.盛岡タイムス
今年(2015年)8月「さんさ踊りを見に行ったのですが、店に寄れず残念でした」。とメールがあった翌日の13日、1冊の本を「宮城健さんから預かってきました」と店に持参してくれた方がいた。その本は「奈知安太郎画集」で1979年6月、奈知安太郎画集刊行会、吉田孝吉代表が出版したもので第119番のナンバー入り。「僕が持っているより、ジョニーにある方が宜しいかと、、、、」とメールも届いていた。奈知安太郎さんという人は1909(明治42年)盛岡仁王小路生まれの画家。橋本八百二、松本俊介、野村千春、栗木幸次郎、藤田嗣治、草野心平、シャガール等と親交を結んだ洋画家で裸婦や裸婦の群像画を得意とした方。
その中にある裸婦習作2点のモデルになったという人に、ある時仙台で出会った宮城さんが、古書店を探し歩いて10年前に見つけたものだったという。そのモデルさんは八戸出身で学生時代に盛岡でのこと、その女性の祖父は宮澤賢治からのハガキを持っていた人で、そのハガキを彼は彼女に見せてもらい、コピーも取ったと自慢する。 その宮城さんは宮城県生まれの父母の間に1944年5月11日東京にて生まれたが、誕生から45日後に兵員として父が出征したため、宮城県塩釜市で育てられた。終戦後戦死したはずの父が戻って来て94才まで生きたのと笑う。彼は仙台商業高校を卒業してサントリーに就職。宣伝、営業、物流の仕事に携わりサミーディビスJrのホワイト、オールドのCM音楽、トリスのジャズゲーム、などなどCM撮りの場にもいたので音楽と美術に親しむようになり、ジャズに興味を持ったという。 3・11の震災後には音楽家協会が東北のジャズを応援しようと開いたコンサートを聴き、パンフレットに載っていたジャズ喫茶の全てを廻って歩いてみようと、何度も東北に足を運び、それこそ仮設で再開した陸前高田のジョニーへも行ってきましたよ!と笑う宮城さん。開運橋のジョニーにも何度も何度も足を運んでは、各地のジャズ喫茶の状況を写真とともに知らせてくれる根っからのジャズファン!。そのミヤギケン、テルイケンのケンケン遊びは古くて、懐かしく、新しくて、楽しい。
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johnny -
2022-07-19幸遊記NO.253 「革命的発想の逆溝レコード」2015.11.16.盛岡タイムス
昔から11月3日は「文化の日」と決まっているが、最近は「レコードの日」とも言うらしい!文化を代表するものがレコードであるとしたのなら、1978年30才の時に意を決してレコード制作を始めた僕にとっては尚更、嬉しい呼び名となった。
2015年11月4日、FM岩手、石田麻衣アナが読み上げた3日付読売新聞トピックス「アナログレコードの人気がじわりと復活しています。デジタル全盛の時代に温かみのある音色が見直され、若い世代にも愛好者が広がっています、、、。昨年8月には東京渋谷にレコード店が復活、8万点の品揃え。レコードプレーヤーと一緒に買い求める人達も、、、」。 1877年12月6日「メリーサンノヒツジ」と歌ったエジソンの声が、彼が書いた設計図に従ってジョン・クルーシーが作った“円筒式錫箔録音再生装置”から流れ出たことに端を発するレコードの歴史。だがその8ヶ月前、パリの科学アカデミーに詩人・シャルル・クロが提出した封書の中にはエッチング的な写真技術を使った平らな円盤で、複製すら可能な現レコードの祖となる様なアイディアが書かれていたという。 実際に平盤型が考案されグラモフォンと名付けられたのは10年後の1887年。現在のLPレコードは1948年(昭和23年)からで、ピーク時1980年は約2億枚をプレス。82年登場のCDは5年でLPを抜き、各メーカーは一斉にレコード製造を止めたが、唯一残ったレコード生産工場「東洋化成」(横浜)は今、フル稼働しても追いつかぬ程の勢いを取り戻しているという。レコード針のナガオカ(山形)で今、月産20万本近い生産という。 そして今夜(2015年11月13日)ジャズファン、牛崎隆さん(68)が持参したLPに驚き、その再生音にド肝を抜いた。ジャケットには「oreloB」のタイトル。逆から読むとあのモーリス・ラベル作曲の「ボレロ」であった。何とそのレコード、信じ難いことに内側から外側へ向って溝が刻まれている。これまでのレコードとはまったく逆の発想でドイツ製造され、「TACET」が発売した、カリオ・リッジ指揮、ネザーランド・フィルハーモニックオーケストラの演奏。録音は2012年3月、4月。理にかなった史上最高の再生音に大感動!!
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johnny -
2022-07-18幸遊記NO.252 「NHK・TVの神保町72時間」2015.11.10.盛岡タイムス
先月(2015年10月18日)台東区上野の東京文化会館が主催した「プラチナ・シリーズ2・秋(穐)吉敏子・JAZZ・LIVE」の見聞と昨年リリースとなった「1980・秋吉敏子・IN・陸前高田」のCD販促の手伝いをしに、朝一番の新幹線はやてに乗り上京した。
開演までの数時間、大好きな神保町の古本屋街ヘ。ポツポツと開店し始めた午前10時半頃、矢口書店の外にある本棚を眺めていたら、TVカメラを担いだ人達3人が僕に寄って来て、どんな本をお探しですか?何処から来ました?何をなさっている方ですか?とか、色々質問され、店内に入っても外から撮影していたみたいで、レジの前に立ったら店内に入って来て、お会計場面撮影。外へ出て、買い上げた本のことを問われて、説明やチョイ朗読をした。 撮影者から渡された名刺にはNHK「72時間」というドキュメンタリー番組名と放送日時が印刷されていた。それによると来る12月4日の夜、22時55分から23時20分までの放送。3日間(72時間)の定点観測を25分にまとめての放送らしく、もしかしたらチラリと僕も映るかも?。 その古書店にて見つけたものは、奥州市出身のシンガーソングライター・松本哲也さんと亡き母・扶美江さんとの親子の絆を描いて話題となった映画「しあわせカモン」(中村大哉監督、脚本。2009年秋公開上映)の企画制作・(株)アルファコアのシナリオ(第2稿)。それと「ウナセラディ東京」(番匠義彰・監督、山根優一郎・脚本)1965年松竹作品。の撮影稿と思われる調音担当の吉田庄太郎氏が実際に使用し本人の書き込みが随所にある台本。 「哀しいこともないのになぜか涙がにじむウナセラディ東京ンン」ザ・ピーナッツの歌声が頭をよぎる。「ウナセラディ東京」とは「たそがれの東京」という意味でありますとの注書があり、そうか!と50年後の昼近くに初めて知った僕。そして85年の松竹映画「ジャズ大名」(筒井康隆原作、岡本喜八・脚本、監督)の江戸時代末期の音楽好きな駿河の国の大名物語パンフレットを入手。ペリーが日本から持ち帰った邪頭(邪図)がJASSの国アメリカでJAZZと呼ばれ育ち、のち日本に逆輸入の説が僕の頭に甦った。
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johnny -
2022-07-17幸遊記NO.251 「藤井朋子の庫つながり記事」2015.11.2.盛岡タイムス
今年(2015)の5月。ブナの森を夫婦で訪ね歩き、その大木の根元に下向き(ひたむき?)に咲くカタクリの花を描いた50号の油絵「早春の妖精」(全国選抜作家展2012で大賞受賞)の作品等を、開運橋のジョニーに飾ってくれた油絵作家・伊東美砂代さん(兵庫県芦屋市)と、毎日新聞盛岡支局に5月に赴任したばかりの新人記者・藤井朋子さん(兵庫県高砂市)が偶然、岩手県西和賀町の安ヶ原のカタクリ群生地で出会った。
そこで2人は変種と見られる真白いカタクリの花に遭遇!。その初出合いを初記事とした藤井さんは、後日、油絵のカタクリを観にジョニーに来てその話したので「ウッヒョー!ゴみたい!」と僕。以来時折店にやって来る彼女。僕から聞いた情報を元に取材し記事にしたと新聞を届けてくれたのは「学校の 図書庫の裏の 秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず」と石川啄木が詠んだ、旧制盛岡中図書庫のことを書いた「みちのく建物探訪」7月5日付だった。 同庫は明治25年(1892)に建てられた15坪の土蔵。大正6年(1917)の旧制中学校舎移転後、蔵はそのまま旧日赤病院倉庫として活用されたのち、解体の話しを聞きつけた菊池武男さん(93才、当時宮古市在住公務員・現画家)が寄生木保存会への橋渡し役となって蔵を貰い受け、宮古市山口に「寄生木記念館」昭和44年(1969)として再生。その名の小説「寄生木」は明治42年(1909)12月、東京警醒社から発行。徳富蘆(ろ)花(本名は健次郎)著となっていたが、本当の著者は陸中山口村生まれの篠原良平(本名小笠原善平。出版の前年自殺)。 明治大正昭和を通じて小説はベストセラーとなり、劇化や歌ともなった。その記念館は2010年山口公民館に移されたことから、今度は盛岡まちなみ研究会が解体搬送し、再度盛岡(鉈屋町)に移築。今度は「日本映画史上屈指のグラマー女優」三原洋子(鉈屋町出身)記念館?となるらしい。 藤井朋子さんは加古川西高校から神戸市外語大学へ進み、ロシア語を専攻。ロシア語通訳者・米原万里さんのエッセーを読み、その考え方に魅かれ大学を休学して4回もロシアへ渡り体験勉強。それが元となってか全国いろんなところに行ける、いろんな人に会える!と新聞記者になったそうです。
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johnny -
2022-07-16幸遊記NO.250 「盛岡劇場のオータム・ジャズ・ナイト」2015.10.26.盛岡タイムス
久し振りにホールでの小さなコンサートを主催した。所は盛岡劇場の地下タウンホール。時は2015年10月23日(金)。題して「オータム・ジャズ・ナイト」。出演・金本麻里、絵美夏、熊谷絵美の3人によるボーカル。ピアノは高橋秀、玉澤裕子。ベースが高橋勝親、杉本敏行。ドラムを澤口良司、葛西良治。そしてサックスに黒江俊、村上衛。聴衆80名。その中には、今もってオーラを感じさせる前盛岡市長の桑島氏の姿もありました。
歌手は、ジョニー・キャリアの浅い順に金本麻里からのスタート。彼女がジョニーに登場したのは2006年。青二才(ささきまこと&うちだいくお)のポップスデュオにバックコーラスで参加した時、その声とリズム感の良さにいたく感激してジャズに誘い、同年12月23日にジョニーで開催した「メリークリスマス&フジワラまつり」藤原建夫(p)スイングタイム。藤原章雄(ds)ミックスナッツの出演時に藤原建夫氏に頼んで、バンドでゴスペルを唄ったのが始まり、今や横浜ジャズプロムナードの一輪の花である。 2番手、絵美夏はその頃すでに北島貞紀氏(p)のピアノトリオでジョニーにレギュラー出演していた。彼女は20才の頃、僕の店ジョニーに自分を売り込みに来た娘で、持参したMDをバックに歌を披露し僕らを驚かせた程、すでにポップスの歌唱力を見につけていた。以降バイオリン・シンガーを自称自演。最近は南米パラグアイの楽器「アルパ」(インデアンハープ)を猛勉強。今回のステージではジャズを1曲唄ったきり、他全曲アルパソロを披露。すでに自ら切り拓いた海外での演奏経験も豊富である。 トリを務めたのはエミちゃんこと熊谷絵美。彼女の父・利春さん(2003・4・18没)とは独身時代からの友人だった。2001年、家族全員で穐吉敏子ライブに来て、娘絵美を歌手にさせたいのだと僕に語り、絵美ちゃん岩大生時代の2002年、彼はハモンドオルガンの鈴木清勝氏を呼んでジョニーで歌手デビューさせCDにもした。そしてジョニーにレギュラー出演ののち子育てブランクを経て久々の晴れ舞台。彼女の母・幸子さんは真赤なバラの花束を僕に置いていってくれた。3人の歌手は共に30代、未来大輪の花になれ!
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johnny -
2022-07-15幸遊記NO.249 「富樫春生の天使のピアノソングス」2015.10.19.盛岡タイムス
今年で9回目を迎えた、岩手あづまね山麓オータムジャズ祭(2015)で、それこそ結成9年のピアノとDJ・DUOの世にも希なるサウンドに乗せて、盛岡生まれのジャズシンガー・金本麻里を鼓舞させた、オールラウンドピアニスト・富樫春生さん(62)には、06年から、開運橋のジョニー、そしてオータムジャズ祭へと,幾度となく東京から来演いただいてきた。
3才からクラシックピアノを習いジャズは独学という彼は、高校時代にライトミュージックコンテストの関東甲信越大会で特別賞。慶応義塾大学商学部に入学するもジャズばっかりの毎日で、そのままギターの杉本喜代志クインテットでプロデビュー。70~80年代はスタジオワークに没頭。録音に携わった曲数は万を数え、山口百恵、松田聖子、今井美樹、SMAP等ビックアーティストも数えればきりがない。 バンドでは吉田美奈子、後藤次利、近藤等則などに参加し3万人規模のフェスティバルまでの経験を持つ人だが、レコードデビューは27才(1974年)ソニーからの「チョコレート」でだった。以降37枚のリーダーアルバムを発表。なかでも1月から12月までのピアノソングス。それぞれの月に似合うトラディッショナル曲.唱歌や童謡。そして自らのオリジナル曲をまじえて録音した12枚「1月の天使」から「12月の天使」までをシリーズ作品としてリリースしたことは、内容からして音楽史上、特筆に価するものであると僕は思う。 「音楽をやるのは楽しいが、仕事としてのバランスはむずかしい」という彼。富樫さんは結局やりたいことだけをやってきて今があるのだからまわりも本当の自分に目覚めてくれたら嬉しいのだと。民族の起源「That I am(我は神)」本当の壁は自分の心にあり、心のあり方が変われば難なく通り抜けられるというサジェスチョン。地球人というタガを取り払って宇宙を旅するみたいな自分でいたいのだと。 「天使が君の心をめがけて降らした雪。魂を誘い出すように舞い落ちる雪。それは哀しみを燃やし尽すための真っ白な炎。冷たい闇を照らすため天使が撒いた音符の形のクリスタル(聖六角形)、、、、、。」まもなく彼の詩の季節がやってくる。
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johnny -
2022-07-14幸遊記NO.248 「時源澪の風馬・飛天散華七宝」2015.10.12.盛岡タイムス
前回、チベットの今を映したドキュメンタリー映画「ルンタ」(池谷薫監督作品)のことを書きながらそのルンタ(馬の風)と呼ばれる小さな旗のむれなす音がまるで疾走する馬の蹄の音の様に聴こえるシーンのことを思い浮かべながら、僕は盛岡の南部絵馬師・故・鐙庵(あぶみあん)つと無さんの言葉を思い出していた。「お金というものは受け取るとすぐにお足になって飛んで行ってしまう。ありゃ“おハネ”と言うべきだ。世界全体が貧乏にならなければオレの幸福はありえない。我れに我が身なし、されば我れに子等なし、我れに財なし」とまるでチベットの人々の様な世界の平和を祈って我が身を焼射する如き言葉。
その「つと無さん」が描いた絵馬(馬の絵)を遺族から著作権の使用料なしで(つと無さんの名前だけは表示)誰もが自由に使える許可を得たことから、地元で活用してもらいたいと願いを込めて、収集保存と展示を続けている、盛岡市神子田町の嶋岡商店の時源澪さん(60)。 あの映画「ルンタ」の“願いは風に乗って天空へ”の様に、時源さんは「飛天」という名のウッドバーミング作品や「飛天散華双図」と題した七宝作品を制作。その絵柄は音符のような花びらがメロディとなって天空を舞いながら、またやがて天女の元に還ってきて花となる洋風羽衣絵(銀線輪郭絵)。深い青の宙(そら)に浮く天女の体重を軽くするポーズとその衣装の美しさは、彼女のもう一つの仕事である仏教マンガ家としての輪郭線の描き方が生かされており、それこそ「えもいわれぬうつくしさ」を表現した作品なのだ。 その銀線七宝作品「飛天散華双図」は2015年第17回「伝統工芸・巧技ソサエティ美術展」で準グランプリに当たる東京都議会議長賞に輝いた。僕はその賞名を見て頭に浮かんだのは仏教での散華。いわゆる華の道ならぬ、議員たちの赤ジュータンのことだった。それはさて置き、時源さんは大本教教主の出口王任三郎氏の却本的物語(小説)「霊界物語」(和歌のセリフ)を現代語に直してのマンガ化を進めており、すでに23年。ようやく最終段階にさしかかったという。それこそが、じげんを超えた、みおづくしに光をあてる、風馬に乗った千の恵みの申し子(天女)なのか、とも思った。
10:53:00 -
johnny -
2022-07-13幸遊記NO.247 「池谷薫の映画“ルンタ”の願い」2015.10.5.盛岡タイムス
9月19日から盛岡で上映中のドキュメンタリー映画「ルンタ」の池谷薫(いけやかおる)監督から「“先祖になる”でお世話になった池谷です。明日夜7時から盛岡中劇で新作“ルンタ”の試写会を行います。非暴力に込められたチベット人の心を描いた映画です。お忙しいところ恐縮ですが、ぜひスクリーンでご高覧下さい。本当に観て欲しい映画なので何卒よろしくお願いします」のメールが届いた。
その非暴力とは、2009年以降、中国のチベット族居住地域で僧侶や住民による焼身自殺抗議のこと。チベットでの中国の圧政に対する抵抗を示すこの焼身は2015年3月3日で141名。彼からメールが届いた日の一週間前、8月31日北京共同通信は27日チベット族の50代女性の焼身自殺を配信。女性が住む村で警察や地元役人ら150人が違法建築だとして多くの村民の住宅を強引に取り壊したとあったばかりだった。その又一週間後中国政府は「チベットの各民族を指導し貧しくて遅れた古いチベットを活力あふれた社会主義の新しいチベットに発展させたと強調する最高指導部の祝賀大会演説。チベットの独立や高度な自治を求める動きへの引き締めへの強化をしめした形だ。 「蟻の兵隊」(日本兵2600人山西省残留の真相)。「人間を撮る」(魂を、命を、欲望を、尊厳を)の2冊の本、そしてNHKアーカイブからの穐吉敏子DVDを持参し、2010年5月20日、僕の前に現れた(有)蓮(REN)ユニバースの池谷薫さんは、1958年東京生まれ、同志社大学文学部卒。12本のNHKスペシャルを含むTVドキュメンタリーを数多く手掛け、初監督した映画「延安の娘」2002年はカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー映画賞に輝いた他数々の賞を受賞。2作目の「蟻の兵隊」(2005)は記録的なヒット作。「先祖になる」(2012)は陸前高田で撮影され、ベルリン国際映画祭特別賞、香港国際映画祭グランプリ。文化庁映画大賞を受賞した。 2015年9月16日中劇の幾田和美社長と一緒にジョニーに立ち寄ってくれた池谷さんは、あらためてルンタを観ながら、人を喜ばせる利他心,おおらかで明るく、いつもうたっている人々の姿から、宮澤賢治のことばが想い浮かんだという。そういえば昔、岩手は日本のチベットといわれていたことを僕も思い出しました。
10:51:00 -
johnny -
2022-07-12幸遊記NO.246 「FM岩手・復活!一夜限りのオールザットジャズ」2015.9.28.盛岡タイムス
この10月1日(2015)FM岩手が開局30周年を迎えるという。30年前の1985年は、まだまだジャズが熱かった時代である。メディアはレコードからCDに変わったばかりの頃で、新しいFM岩手はCDの枚数が日本一とか言ってのスタートでした。開局にあたっての自社番組として「ALL・THAT・JAZZ」の企画書を陸前高田のジョニーへ持参してくれた故・岡部敏男編成部長。
内容は、一関・ベイシーの菅原昭二さん、盛岡・伴天連茶屋の瀬川正人さん。そして僕、陸前高田ジョニーの照井顕が、週代わりで担当するというものでした。実際番組が始まった時には菅原さんに代わって、大槌のクイーン(岩手最古のジャズ喫茶、3.11の津波で流失)の佐々木賢一さんによる三人でのスタートでした。 数年して佐々木・瀬川の両氏が降板、その後10人程の様々なパーソナリティが去来したが、何故か僕だけは変わらず、結局番組が終った2010年9月までの丁度25年間、パーソナリティの一人として番組を担当した。FMのディレクターも岡部さん、斉藤純さん(現作家・石神の丘美術館長)、大川原義明さん(現・青森朝日テレビ)、小田島大さん(現・FM岩手)と変わってFM岩手開局からの職員は小田島さんと大野美栄子さんの二人だけの様子。 僕は専門だった「日本のジャズ」をそのシンボル的存在でNY在住のジャズピアニスト、穐吉敏子さんを中心にすえ、彼女があのヴィヴァルディの「四季」を凌駕するつもりで書いたと言っていた組曲「森田村の四季」の全曲や「ヒロシマ-そして終焉から」(広島で初演した一ヵ月後に9.11のニューヨークテロ)の全楽章をノーカット放送したことは、僕にとっては誇り。もちろん幾度となく番組にも出演してくださった穐吉さん。たぶん民放では一番の回数でしょう。 番組が始まって数年の頃からアシスタントとして全週のコーディネイト役を最後までやってくれた故・沼田智香子さんのことなどが想い出されますが、FM岩手では30周年を記念し、10月1日の深夜26時(2日午前2時~3時)一夜だけのALL THAT JAZZを復活してくれるという。案内役は石田麻衣さん、話し役は僕、よかったら聴いてみて下さい。
10:49:00 -
johnny -
2022-07-11幸遊記NO.245 「大野加奈の銅板画・木曜日の花束」2015.9.21.盛岡タイムス
只今(2015年9月)僕の店「開運橋のジョニー」で開いている銅板画展「木曜日の花束」の作者・大野加奈さん(62)のことを知ったのは1990年代なかば。加奈さんの大親友だった故・黄川田芙美子さんからの紹介だった。当時僕の店があった陸前高田市大町商店街が運営していた「まちかどギャラリー」の隣りが「ジョニー」だったこともあり、98年10月、ギャラリー開設5周年企画として僕が看板を書き展示させてもらったのが大野加奈さん(さいたま市在住)の銅版画展「うさぎの招待状」だった。
芙美子さんは犬猫を飼い、うさぎも好きだったようで、僕の店に置いていたマイカップにはピーター・ラビットの絵が描かれていた。彼女は加奈さんと同じ1953年生まれでしたが、2011年3月11日の東日本大震災で57年の生涯を閉じてしまったのです。あの年は卯年。「うさぎの招待状」ならぬ芙美子さん用の「蔵書票」を加奈さんが制作して出来上がった途端の出来事だったと、まもなく加奈さんからその芙美子さん用の一票が僕の手元に送り届けられたのでした。 1980~90年代の頃、僕等が主催する大きなジャズイベントの時には必ずスタッフになり、前売券をさばき広告までも出してくれたし、頭が良く心顔の美しい人。津波直後、陸前高田駅周辺唯一の目印は、彼女が経営していた「黄川田薬局」のビルだった。「彼女とは東北薬科大学時代の1年生の時から下宿先が同じ、3年生から卒業まではアパートの同じ部屋でくらしたのよ」と加奈さん。 新潟生まれの彼女は今老いた母の介護でふるさとの新潟と埼玉の二重生活。作品は何かを手本とするのではなく、本を読んだり空想したりと、頭の中に浮かび上がってくるものを作品にしているのだと言う。その作品一つ一つのタイトルみたいな「マリーの休日」「夜明けの夢」「旅物語」「アリスの庭」「朝のリズム」「午後の夢」「蔵書票」等々、それぞれの物語が書けそうなくらい不思議な魅力に満ち溢れている。そういえば、去る7月盛岡の「盛久ギャラリー」で行われた巡回展「私の蔵書票展」に、彼女の作品も展示されていたはず。なのに僕は顕(けん)忘性にかかって見そびれてしまったのです。ごめんなさい。
10:47:00 -
johnny -
2022-07-10幸遊記NO.244 「騒恵美子のGAYAと阿部薫」2015.9.15.盛岡タイムス
つい先日の2015年8月下旬、静岡から木戸良・容子さんという40代のご夫妻、9月上旬、栃木県那須から井戸田秀行さん、彼らは共に中学、高校生の頃に見たTV番組「PRE・STAGE」(1991年12月19日の午前零時55分から午前4時30分までの生放送)の記憶をたどって、僕の店「開運橋のジョニー」にたどり着いたのでした。当然僕の頭の中も24年前に戻って五木寛之、平岡正明、相倉久人、三上寛、芥正彦、山川建一、PANTA等の寄せ書きがあったはず!と五木寛之ファイルの中から取り出して彼等に見せながらの想い出話。その番組は、作家の五木寛之さんを中心に進行、司会はあの蓮舫女史。伝説のサックス奏者・阿部薫を特集した異形の天才シリーズの第一回目だった。
1979年9月9日29才の若さでこの世を去った阿部薫。生前「なしくずしの死」というアルバムのみを発表していた彼だが、死後は「阿部薫覚書」「ぼくらの阿部薫」等等の出版をはじめ、ライブ音源がレコードやCD化されて続々と発売になり、まるでブームの到来だった。20才にしてすでにインプロバイズドミュージックとしての自己スタイルを確立していた彼を様々な角度から語る番組。当時僕が月刊・農業富民(毎日新聞社刊)に連載していた「音楽の種まき」に書いた「阿部薫のラストデイト」を読んでくれた五木氏から彼のゲストとして呼ばれ出演したのでした。 その番組には、阿部が根城とした東京初台のライブハウス「騒」(1977~1984)の恵美子さんと福島のライブハウス「パスタン」の松坂敏子さんの二人も出ていて、阿部を知らない人の話にはニラミを効かせていた顔やことばが浮かぶ。その騒恵美子さんは現在の僕の年令と同じ68才の2011年10月20日癌で亡くなっていました。 それを知ったのは彼女が書いた本「ライブ・アット騒」(2011年12月発売)でだった。彼女は本の全原稿を提出した9日後に、地元静岡の病院で永眠したとある。この本の副題である「阿部薫・鈴木いづみ、フリージャズメンとの日々」に当時陸前高田のジョニーにも出入りしていたジャズメンも続々と登場する。おもいのほか読み易い文章で、プレステージTVの第8章では、僕の名前と僕の言った一言まで拾い書き出されていたし、五木氏の奥様玲子さんとのその後の電話のやりとりも興味深く読んだ。
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johnny -
2022-07-09幸遊記NO.243 「片山秀光の三迦葉(カッサパ)音楽」2015.9.7.盛岡タイムス
「寺のスペースは地域の人達との共有のものだから有効に活用したい!」と、行政主導の文化を速度規制のある国道にたとえ、自分がやっているのは国道から外れた横道の、いわばあぜみち文化!と言いながら、寺子屋コンサートなどを開催していた宮城県気仙沼市岩井崎にある臨済宗・地福寺の住職・片山秀光さん(75)が開運橋のジョニーに来てくれた10年前「彼・ジョニーのスピリッツは北上川の如く流れ続けている」との走り書きを残して帰った。
先日又ひょっこりと現れた時、1989年9月13日岩手県民会館大ホールで「SEA・JAM・BLUE」コンサートを僕が開いた時、藤間登三寿さんの創作舞踊・鬼子母神。「ケセン鬼の国(鈴木周二・作詞/照井顕・作曲)」の演奏を担当してくれたのが7人編成の彼のバンド・片松三津男グループ。はたまた95年7月29日、松島の瑞厳寺で僕がうたう般若心経を、守口忠成さんの尺八と一緒にキーボード演奏をしてくれたことなどなど思い浮かんだ。 江戸時代より続く地福寺本堂を建て替え、落慶3年目だった2011年3月、あの大地震で被災。地域の家々が姿を消した地にそれでも唯一骨組だけを残して建っていた寺。九死に一生を得た秀光和尚は本堂を修復再興。自ら「音楽で未来への光をさししめしたい」と「めげない・にげない・くじけない」をテーマに三迦葉(カッサパ)という音楽説法グループを、彼の弟で、プロの国際派ジャズドラマー・バイソン片山と共に結成し、CD「未来にむかって」をリリース。以来全国の寺々にて「涙の数だけ心には情けの花が咲く」と歌いながらの大震災復興支援コンサートを今日まで開き続けている。 その彼「弟、バイソンがプロのジャズマンを志したのは、仙台にジャズメッセンジャーズが来た時、私が弟を連れて聞きに行ったのがきっかけだったと、それをプロになったのちに弟に聞かされて、きっかけの大切さを思い知った」と昔に語っていた。カッサパがハワイで公演した時、その演奏は放送され、日本でその放送聴いたという三陸遍路みちを立ち上げた米在住の駒幸夫さんが寺に訪ねて来てビックリしたと言うので、僕が持っている1978年の「みちのく慕情、三陸みなと音頭」という駒さんのシングル盤レコードを見せたら、和尚二度ビックリ!
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johnny -
2022-07-08幸遊記NO.242 「糸坂昭子のママのママさん」2015.8.31.盛岡タイムス
盛岡の喫茶店で一番老舗である本町の「ママ」は僕が生まれる15年も前から続いていて、今年2015年が83周年。現在のママである糸坂昭子さん(78)は3代目。2代目ママ節子さん(1924~2005)の姪にあたる。
創業者の三浦小沙さんは節子さんの母、広島生まれ。店の名前をつける時、当時まだ8才だった節子さんは母から「何がいいかな」と聞かれ、「大好きだったセルロイドのキューピーちゃんがいいと言ったの!」と節子ママから聞いたのは1988年。その時僕は、小沙(こしお)さんというステキな名前からして、きっと「キューッピットなママ」だったんだろうなと想像したことが想い浮かんだ。 「創業当時の音楽は蓄音機でかけるSP盤レコード。ハンガリアンラプソディ、チゴイネルワイゼン、アベマリア、ウィーンの森の物語、美しく青きドナウ、ドナウ河のさざ波、パリ祭、只一度の機会、などなど、モダンな店だったんですよ」とせつせつと語ってくれた節子ママ。戦争中「ママ」は適性語だと言われて「街」と名を変えても終戦直後の一年間は喫茶店は贅沢とされ休業させられたそうで、又珈琲が入らなくなって、こぶ茶や番茶を出した時期あったと言っていた。 開店当初、小沙さんの妹てる子さんも店を手伝っていて、当時店の常連だった医専(現・医大)の学生の一人がてる子さんと結婚し、現ママの昭子さんが生まれた(昭和12年)。縁とは不思議なもので節子さんが手術入院した時、昭子さんが店を手伝いに、父が故郷青森の無医村に開業していた津軽中里からやって来た1960年~62年、ママの常連で県職員だった方と知り合い結婚。以来盛岡暮らしだったから、節子さんが亡くなってから、節子さんのご主人(パパ)が、「あんたがやるんだったら」と、店を改装して(雰囲気は昔のまま)再開し、すでに10年目。「8月13日ママ(節子)さんとパパ(昇)さんが夢に出たの」と昭子さん。 節子ママ生きていたならこの8月26日で91才。年に24回ママの店内で開かれてきた個展やグループ展はすでに1.000回余り。3代に及ぶママの継続。まるで寄せ返す波のようだと思いながら、展示作品に目をやれば、大船渡出身の女流画家・三浦千波さんの波濤の様な絵画。
11:35:00 -
johnny -
2022-07-07幸遊記NO.241 「伊藤ノリコの菩薩・ボサノバ」2015.8.24.盛岡タイムス
話し方、話す声、歌い方、歌う声、笑う声、笑い方、その表情、そう全てが不思議としかいい現せない人が居る不思議。彼女は僕の36年来の友でギター演奏者の宮野弘紀さんの伴侶であり夫人の伊藤ノリコさん。年齢不詳の歌手である。生まれは岐阜県大垣市、国鉄職員だった父・新(あらた)と琴芸家の知江子(千恵子)さんとの末っ子。兄と姉の影響を受けて小学から洋楽ポップスを聴き、中学から声楽を習い武蔵野音大・声楽科を卒業。
その後アドリブに憧れジャズヴォーカルを始め、ピアノの弾き語りでホテルのラウンジやピアノバーで日々の生活費を稼いでいたある日「セルジオメンデスとブラジル66」のヴォーカリストで、元祖ボサノバの人・ワンダ・サーに出会い「ボサノバのエキスを貰いたい!」と彼女に言ったら「ギターを弾きなさい!」だったと。 それまでの人生設計になかったギター。リズム感を習いにカナリア諸島のツアーに行った帰り、運命的に、宮野弘紀さんに出会ったのだったという彼女は、ブラジル音楽の歌詞、そのポルトガル語の持つ言葉の美しさ、空気感、リズムとメロディが一体となる魅力にひかれ、すでに17年。自分で対訳詞もする彼女だが、歌は“カタカナ・ボサノバ”と謙遜し笑う。 かのワンダ・サーは「私たちの世の中に現れた、驚くべき心地よさと才能を持つノリコ」と、2005年にリリースした、ブラジル・リオ録音の「A PAZ~平和」にメッセージ。一緒に演奏したジョアン・ドナートは「ノリコはこの上なく魅力的なカントーラだ。自分のスタイル、個性があり、自分が何をやりたいかを知っている。モダンで人の心をとらえる洗練された高い音楽性を持っている」と評価。 2004年」、リオでワンダ・サーにギターの手ほどきまで受けている彼女は「本当に強く願う夢は叶う」と世界の平和を願いつつ録音した作品「平和」。2011年天災により多大な被害を受けた方々が一日も早く心安らぎ復興されることをと、願って制作した「フォト・グラフィア」それらの曲と共に彼女・伊藤ノリコさんは2015年9月6日に行われる「第9回いわてあづまね山麓・オータムジャズ祭イン紫波ビューガーデン」に夫でギタリストの宮野弘紀さんと初出演する。
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2022-07-06幸遊記NO.240 「柳澤信広のJAZZANA人生」2015.8.18.盛岡タイムス
夏になると、予告無しに横浜から来る柳澤信広さんも59才になった。「初めてジョニーの店に行ったのは1980年の8月だったけど、陸前高田市民会館で1977年に行われた、本田竹曠トリオの演奏会にも行ってたし、81年ジョニーズディスクを全作買って、会員にもなった。この旗持って富士山に登れ!とマスターに棒ごと渡され、登りましたよ。86年には秋吉敏子オーケストラ98年、秋吉・マンデーの親子初共演」と昔話に花咲く。
85年8月に僕等が開いた「日本ジャズ祭・イン陸前高田」当時としては出演バンド数、日本最大のイベント。出演したドラマー・野中悟空はその直前の3日間、トラック荷台上での宣伝走行演奏で県内を廻り、道行く人々のドギモを抜いた。 その悟空、ジャズ祭直後の8月下旬、閉山直前の日曜日、富士山頂ライブを決行。タイミングよく横浜から来店した柳澤さんに日本ジャズ祭の旗を持たせ、ジョニー特命係として登って貰った。ピアノやドラムをブルドーザーで山頂に運ぶ大胆な企画。フライデーという写真週刊誌を開いたら、演奏者の脇方で「日本ジャズ祭イン陸前高田」の旗を誇らしげに立てている男の姿(柳澤さん)がしっかりと写っていた。山の話に「一度も登らない馬鹿、二度登る馬鹿」というのがあるそうだが、彼はあの時一度だけ登った“利口者”。だが、見学した外人は「日本にもこんなクレイジーな者達が居たのか」と驚いた記事でした。 ジャズピアニスト・穐吉敏子さんのニューヨーク・自宅リビングに今も飾ってある一枚のパネル写真。それは1986年10月13日陸前高田市民会館(2011・3・11東日本大震災で流出)で僕等が主催したジャズライフ40年滞米30周年記念・穐吉敏子ジャズオーケストラ日本ツアーの一コマ。市民会館ロビーに並べた900枚の気仙杉にオーケストラのメンバーが全員でサインし、ナンバーリングしたその板を聴衆に配る直前の集合写真。オーケストのメンバーと一緒に並んで写っている熱々のカップル。それは新婚ホヤホヤだった柳澤信広・淳子夫妻の姿。縁は不思議なもので、彼は穐吉さんが昔から利用してぃる航空会社・ANAの整備士として格納庫でずうっと働いてきた人なのでした。
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2022-07-05幸遊記NO.239 「山谷眞行の語らいの家・ゆう」2015.8.10.盛岡タイムス
山谷さんと初めて会ったのは2003年~2004年頃。北上川上流の四十四田ダム近くで「カレー&喫茶ギャラリー・1244」という昼だけの店を、僕達が二人で一年間だけ開いていた時でした。そのギャラリーで彼の長男・悠人君たちが集う「工房・ヒソプアトリエ」で、橋場あやさんの指導のもとに創作した障害児たちのアート作品を展示した時だった。
作品展の相談に来た山谷さんの奥さん・恵子さんは、その後開運橋のジョニーにまで、何度もご主人と一緒に、当時店に出演していたティアラ(ピアノ・さかもとちえ。ヴォーカル・はとおかみか“現・アンダーパスのヴォーカル”)の坂本さんと家が近所だからと聴きに足を運んだ。又、穐吉敏子さんが来演する時には必ず来てくれていたご主人・眞行さん(65)。 彼は花輪鉱山の出身。田山中学、盛岡四高を経て上京。父のすすめで日本測量専門学校へ。その後4年会社勤めをしたのち、24才の時、土木の勉強もしたいと、新聞配達をしながら読売東京理工専門学校土木科で学び、30才でUターン。岩手で建設会社に25年勤務。55才でリストラになった時、年老いた母を引き取り、一年半一緒に暮らした。老いる、年をとるということと、介護する自分の姿を、二人の息子に見せたのだと言う。 「その母の導きで今の仕事、デイサービス、“語らいの家・ゆう”を、岩手県立博物館近くに開くことが出来た」その名「ゆう」は彼の長男の名前からだが、さかのぼれば20代の新聞配達時代に、ジャズファンの間で評判の高かった評論家・悠雅彦氏にあこがれ、会社の近くにあったジャズ喫茶「ちぐさ」にも通ったというジャズファンらしい名付け方。 最近になってその横浜の新聞販売会社の社長・佐藤さんがジョニーに現れた話をしたら山谷さんは「当時、中学生だった息子さんか?」とビックリ!。僕も山谷さんに「サインして下さい」と、30年前に出版した僕の本を差し出されてビックリ!。そういえば彼の奥さんから、1994年の「アルビレオ」創刊号に書いた僕の文章を何度も読み返していますと、手紙を頂いたことがあった。そんな山谷さんたちは今、次男の庸祐(ようへい)さんと一緒に、平均年齢86才の先輩たちと共にもう一つの未来物語を生きている。
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2022-07-04幸遊記NO.238 「田中三郎のうたごえ喫茶」2015.8.3.盛岡タイムス
「定点観測に来ました」そう言って開運橋のジョニーに現れては、店のベランダから、写真を撮り続けている田中三郎さん(59)は、大学時代コーラスをやっていて、当時はデュークエイセスみたいな歌をやっていたと、随分前にカセットテープを聴かせてもらったことがあった。それが予想以上にうまかったので記憶に残った。ところが、先月(2015年7月)何と、その35年前の学生達がジョニーで“うたごえ喫茶”を開催したのである。
それは、岩手大学うたごえサークル・昭和55年卒、近辺かつ岩手近隣のなかま達+Oneによる同窓会というもの。その幹事が田中さんだった。アコーディオン、ベース、ギター、ピアノ担当の4人が、メンバーからリクエストされた曲を次から次へと演奏し、それを全員でリハ無しの、ヨーイドン!で唄うのだった。しかもリクエストした人が順番にその曲をうたう前に、それこそ、それぞれの現在をしゃべってから、みんなでうたう楽しい会でした。 話を聞けば昔とったキネヅカながら、まるで現在進行形のようにピッタリと合う不思議。「岩大学生歌」に始まり「花を送ろう」まで10数曲、2時間の音楽同窓会、しかも皆当時のニックネームで呼び合う親しさ。オイドンと呼ばれる田中さんは九州福岡に生まれ、小学時代に札幌へ、6才上の兄も岩大だったので自分もわざと?北大落ちて予備校から岩大農学部へ入学、林学科を卒業。国土防災技術(株)に入社。途中造園研究所に出てみたが、又前の会社に笑顔で出戻り。 東京に7年いたうちの2年間、大宮から大船まで「京浜東北線」の46駅全てに下りて街を歩き撮りためた写真をペンタックスギャラリーに応募したら、なんと2011年3月11日の午前中に、「選ばれました」と電話があった。だが午後にはあの大震災。それでも何とか9月に発表することが出来たのだったと言う。現在は同社盛岡支店勤務となり、昨年は盛岡「ソルナ」で盛岡での写真を展示し好評だった。写真歴もすでに15年になる。振り返れば今年94才で亡くなった彼の父・俊雄さんも写真好きな人で、昔、上から覗く二眼レフカメラで撮ってた光景を想い出すという。
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2022-07-03幸遊記NO.237 「堀江洋賀のジャズギター」2015.7.27.盛岡タイムス
千葉県大網白里市のジャズシンガー・石橋未由子さんをリーダーとする女性ジャズコーラス「シビリィ」の伴奏者として昨2014年6月、開運橋のジョニーへ初登場したギタリスト・堀江洋賀(ひろよし)さん(31)。その時、余興的に彼のギターで唄わせて貰った盛岡在住のジャズシンガー・金本麻里さん(36)と意気投合し、昨年今年と、東京、神奈川、千葉、福島、宮城、岩手、青森などをデュオでツアーをし、特にも今年のツアーは、その先々で好評を得たのでした。
その堀江さんは、船橋市に生まれ10才と8才上の兄二人のドラムとギターに感化され、小学6年卒業時の文集に「ギタリストになりたい」と書いたほど。中学ではすでにギター、ベース、ドラムにボーカルという編成のバンドを結成。Jポップやロックをやり船橋柴山高校時代には、ファミコンを使って作曲も手掛け、打ち込みとギターによる重ね録りを一所懸命やったという。最近こそギター曲も聴くが、以前はピアノ、サックス、トランペットなどを聴き、ピアニストに憧れてのプロ入りだった。 「2011年に詩人・谷川俊太郎氏の息子で、ピアニストの谷川賢作さんから紹介されたのが石橋未由子さんだった。そこからコーラスのメンバーである盛岡出身の望月美咲さん繋がりで、盛岡に来て、開運橋のジョニーで金本さんと出会い、こうして2度ものツアーが出来た!」と、人の縁に感謝する彼。「ジャズギターは、どこか不器用な楽器で、中途半端的なポジションに居る様な感じなので、逆に自分の実力をわきまえられるのが良く、それでも他の楽器では出来ない表現を出せる楽器でもある」のだという。 最近はピアノとのデュオにボーカル。ギターとギターのデュオ、唄とギター、そしてたまにバンドでの演奏という、若いのでジャンルにこだわらない演奏活動をしている彼だが、今最も楽しく演れているのが尾崎琢也のピアノ、宇山満隆のドラム、自分のギター、という編成のトリオだという。「今回の麻里さんとのデュオでは、お互い手の内がわかるようになったことで柔軟さや繊細さ、自由さが出ているんじゃないかと、思うゆとりが感じられて、やりたいことをセーブしながら、きちっと出来たのではないか」と語る。
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2022-07-02幸遊記NO.236 「片岡泰英の音楽の尊さ」2015.7.20.盛岡タイムス
1ヶ月に2週間、地方のデパートイベントで、食品販売の仕事をしている片岡泰英さん(通称・敏“ビン”57)は「今回宮城の物産“アナゴの一本巻”を売りに、数年振りに盛岡に来ました。新しいジョニー音が良くて、なごめるなあ」そう言いながら、ジャズとウイスキーを楽しんでくれた彼。
そういえば、その数年前「このスピーカー何とかなりますかね」と彼は“腐っても鯛”のJBLスピーカーを店に運んできた。箱はふやけて使える状態になくスピーカーのエッジは風化でボロボロ、ダンパーはゆがみ、磁石は錆びて、はずれ、箱の中に落ちていた。それでもコイルは生きていたので直してみたが正常に動かぬ音割れであきらめかけそのまま数年間放置した。ところが最近、お客さんから頼まれた古いスピーカーの修理をしたついでに、再度挑戦し直したらこれが何と甦り、良い音なので店のSPに追加して鳴らし始めたところに彼はやって来た。凄いタイミング!。そして音とその修理話に涙を流した。 彼は、地方のジャズ喫茶歩きが大好きで、盛岡に来れば必ず僕の店にも寄ってくれるのだ。生まれは名古屋、祖父から泰の字、母から姓。父方の親戚のいる宮城で育ち仙台育英学園高校を卒業して東京農大へ入ろうとしたが2浪。予備校に通いながら運送会社で夜中の仕分仕事に従事、その後新聞広告で1日2万円のスーパー店頭販売に飛びついて頑張り、あの名車コルベットを買い、父とマンションも買ったりはしたが「お金は音楽に使うのが一番尊いということがわかった」という。 昔日に、家にあったアンサンブルステレオで両親が聴いていた、美空ひばりのジャズやアート・ブレイキーのバードランドの夜などが記憶の中にあり、それがもとでジャズを聴くようになった。葛飾に住んでいた時、金町にあった「ジャズ38」に通っていたら、マスターの故・早井敏成さんが、照れながら「穐吉敏子さんが来る。やっと店も一流になれる」と、本当に幸せそうに言って泣いたという。「その穐吉さんが入って来た瞬間、彼女の放つ素粒子のオーラに包まれ視線までが光っていた。ギュウギュウ詰めで聴いたそのライブは最高でした」。以来彼は穐吉ファンになり、時折、穐吉さんの好きなヴィンテージワインを持参して聴きに行く。
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2022-07-01幸遊記NO.235 「佐藤文子の恵翠刻字展」2015.7.14.盛岡タイムス
「ココアを飲みながら、ここに座って景色を眺めると、まるで外国にでも来たようです。ママの小春さんも外人さんみたいだし」と溢れる笑顔で話す佐藤文子さん(82才)。「家の中で振り向こうとして転び、腰を骨折。寝込んでから歩行困難になったけどジョニーに来たい一心でリハビリをし、歩ける様になった」と、杖を使い息子さん夫婦と一緒に、ニコニコ、ニコニコ、えみを浮かべながらやって来る。
息子の潤さんと音楽を通して知り合った1993、4年頃、彼の家を訪れた時、玄関に飾ってあった「刻字」の素晴らしさに大感動。問えば作者は彼の母・文子さん。作品の朱印字の刻みは、父・勇さん(86・篆刻家)の担当。文子さんは恵翠(けいすい)という雅号を持つ書道教室「恵翠書院」の先生であり、刻字作家でありました。 その1990年代、僕は陸前高田大町商店街が開設した「まちかどギャラリー」の展示企画を手伝っていたこともあって、恵翠さんに何度も展示のお願いをしたものでしたが「私如きではね」と、断られ続けた。それでも一家で陸前高田の僕の店まで来てくれたこともありましたが、個展は出来ずじまいでした。そんなことから、実は最近、開運橋のジョニーの壁を利用した、店内ギャラリーを開設したので、20年越しの想いを是非実現させて欲しいと頼み込んだら、「いまだにそう言うんじゃ仕方ないね」と、佐藤恵翠さん初めての「刻字作品展」の承諾を頂きました。何という嬉しさでありましょう。 佐藤恵翠さんはぜんそくを患いながらも30代の末に、県書道界の第一人者・吉丸竹軒氏に師事、北日本書道専門学院の第一回卒業生として世に出たのでした。それまでは近所の子供達に無料で教えていた彼女だったが、竹軒氏が揮毫してくれた「恵翠書院」の看板を掲げてからの塾は今年で丁度40年。刻字は、毎日展の審査員だった一関の千田得所氏に50代から師事し、先生が亡くなるまでの13年間、無我夢中で書き彫った作品。「敬不忘」「嘉福成基」家の玄関に掲げられている作品には宅配のお兄さんでさえも「こんな素晴らしい作品に出合ったことはまずありません」と感動して帰る程である。2015年8月1ヶ月間の展示会楽しみです。
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