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レポート2022-06-30幸遊記NO.234 「浅香満のジャズピアニスト里恵」2015.7.6.盛岡タイムス
「6月定年なんだよね。だけど、今、出向先の会社でもう少し居てくれっていうから、もう半年いることになってさ」と金沢から時折帰って来ては僕の店に寄ってくれる浅香満さん。その半年という言葉の裏側には、これまで金沢で探し楽しんで来たジャズの店を、もう少し深く味わいたいのだろうなと僕には感じられた。何せ彼は盛岡に帰って来るたび、僕に金沢のジャズの楽しさを教えてくれてきたし、盛岡の友を金沢まで連れて行き一緒にジャズを楽しんだりもして来た程の根っからのジャズファンなのだ。こういうジャズファンを僕は一番に尊敬してしまう。
そんな彼がある夜、初めてリクエストしたのは、ジョン・コルトレーン(1926~1967)の「至上の愛」だった。テナー・サックス、ソプラノ・サックス奏者のジョンが、何とラブ・スプリーム、ラブ・スプリームと自ら歌っているレコードであり彼の頂点となった作品。「僕にとってコルトレーンは神様だった。彼がいたからジャズが好きになったのよ」ジョニードラム(バーボンウイスキー)を美味しそうに飲みながらそう僕に言った彼。 「自分の娘・里恵(昭和62年生まれ)が3才になった時ヤマハに連れてってさ、ピアノを習わせたの。そしたら、うたったり、おどったり、喜んでさ、俺が毎週送って終るまで待っている時、聴こえてくる話や音が、自分の勉強にもなったのよ」と笑った顔も最高だった。その娘さんが中学生の頃、家では自分の妹、弟、そして親たちにまで何かの音を出させて、それを聴き分けピアノの音で再現する絶対音階遊びをしていたという。 「ジョニーに聴いて貰いたくてさ!ユーチューブからの音源だけど」と一枚のCDRを浅香さんから渡されたのは2012年の2月だった「Tifon」というそれは浅香さんの娘、里恵さんのピアノと竹中志穂さん(フルート)の二重奏ライブ。その12曲中4曲は里恵さんの作曲。すばらしい能力を持った娘であることに驚き感激しうれしくなって生演奏を聴き、昨2014年の第8回あづまね山麓オータムジャズ祭に彼女のトリオで出演してもらったら、聴衆を大興奮させる圧倒的な演奏を繰り広げ、デビューCDが売り切れたのでした。
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johnny -
2022-06-29幸遊記NO.233 「アサヒカメラの南部馬の里」2015.6.29.盛岡タイムス
この欄「幸遊記」の第113回(2013年3月4日付)で紹介した遠藤広隆さん(37才・ブライダル写真家)、彼は幼い頃から親しんできた馬たちをテーマに見すえ日本写真芸術専門学校入学時から、自然に写してきた南部馬のネガフィルム(36枚撮り)は、間もなく一千本に達するという。その甲斐あって今年2015年、写真集「南部馬の里」が岩手復興書店から発売された。それを期に、開運橋のジョニー15周年記念に開設した店内ギャラリーの第2回展として、彼の写真展「丸泉寺牧野」(岩手町の馬)を昨日(6月28日)まで一ヶ月間開催した。
馬好き高じて“馬のそばでくらしたい”と東京から最近盛岡に引越して来たという方のお話を聞かせて頂いたことも貴重でした。最も嬉しかったのは今月発売7月号「アサヒカメラ」誌に6ページにわたり、7枚の写真「南部馬の里」というタイトルで遠藤広隆さんの特集が組まれたことである。「農耕馬としては役割を終えた南部馬」と題す彼の文章も添えられていて「最近ではフィルムでの写真はやりづらい。それを考えると、フィルムや印画紙が減っていくのも、馬が減っていくのも同じだなと思う。馬たちが私の中で同調している」と。 写真展開催中の第2土曜日「五月柳の北上川へ鈴コチャグチャグ音響く」。ベランダから開運橋を眺めれば、渡り来る無形民族文化財・チャグチャグ馬コの行列。カメラ(フィルム用)を持って店を飛び出す僕。南部馬の立派な体格に圧倒されながら、目を馬の背に乗って手を振るかわいい幼子に移せば、とっさに浮かぶは「去年祭りに見染(初)めて染めて、今年や背中の子と踊る」の一節。80数頭の馬に見とれてる間には、頭の中ではビクター少年民謡会や井上一子、菅原やす子、古館千枝、佐藤みどり、坂下誓子、菊池マセ、高八掛智恵子等、レコードに吹き込んだ1960年代から80年代までの民謡歌手たちによる歌の競演。はたまた、チャング、チャングと創然な唄のように、又、蒼前とした神のように鳴り響く民謡の歌声。 かつては農耕馬の休息日と無病息災を祈願する素朴な民族行事だった様ですが、今ではそのチャグチャグの日だけが年に一度の大仕事になってしまった馬たち、ごくろうさま!ありがとう。
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johnny -
2022-06-28幸遊記NO.232 「田代愛のはるかなる愛」2015.6.22.盛岡タイムス
「無駄な語を省き、一語一語に意味を濃縮させた、短い美しい文章を書く。そのコツを小中学時代に徹底的に叩き込む教え方の米国。大学入試すら学力テスト以上に、文章での自己表現の方に一番ウエイトが置かれている」というようなことを、英会話教師として盛岡にやって来た石戸谷愛さんが語っていた。
あれからもう10数年もたったけれど、当時僕の店によく来ていたお茶屋の田代正さんを気に入って、こういうお父さんの息子さんとなら結婚したいと、まだ見ぬ男性に想いをはせたことから出会い、2007年に結婚。その朗さん(38)との間に生まれた祐詩(ゆうた)くんも間もなく8月で5才になる。 時折愛ちゃんと店にやってきて、都道府県庁所在地を各ブロックごとに言い、たし算、九九算、日本地図から世界地図、国旗、最近は元素記号やピアノに興味を持ち、そのすごい暗記力の一端を披露して僕達を驚かす祐詩くん。母の愛ちゃんも、今88才になった弘前の治子おばあさんに、編み物から、ソロバン、習字、ピアノなどに自然に誘導させられ、おだやかに育てられた子供だった。と振り返る。 愛さん9才の時アメリカの人と再婚した母と弘前で2年。デトロイトで半年。ヒューストンに8年住み、大学時代はボストン暮らし。そのボストン大学では言語学を専攻し首席での卒業。学生時代ロシアの男性歌手ヴェルティンスキーの「水兵の歌」や「私たちの部屋」にはまり、その歌を唄いたいがためにロシア語を、次にはシャンソンのフランス語などと、次々と何ヶ国語も勉強し覚えての帰国だった。 盛岡との縁は、ボストンに「イーオン」のオフィスがあって、そこで採用され、ラッキーにも、ふるさとの弘前に近い盛岡に配属されて来たのでした。2002年、会社のクリスマス会の会場探しのために僕の店に来たのが愛ちゃんとの出会いだった。確かに彼女はその会で歌も唄った。その後、翻訳会社や短大に勤務。現在は子育て中のため、自分自身の能力を生かしきれていないことから、経済的安定と社会貢献を考え、他国の人にどんな盛岡を発信してゆくのが良いのかを、日本人なら日本人らしく、それこそ真剣に、味噌汁やお茶で、顔を洗って出直すくらいの気構え心構えで自らに臨んで行こうとしている。
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johnny -
2022-06-27幸遊記NO.231 「盛岡駅前の日米合作」2015.6.16.盛岡タイムス
「開運橋のジョニー」が盛岡に来た2001年時の名は「陸前高田ジョニー」だった。行きたいが場所がわからない!といろんな人から言われ続けたことから、陸前高田を、開運橋に変えたのが2003年、あれからちょうど12(ジョニー)年になる。「開運橋のジョニー、いい名前ですね」遠来のお客さんが皆口をそろえる。地元や盛岡を知る人には開運橋だけで場所の説明にもなり、郵便も盛岡市と店の名前だけで届く有難さ。
その開運橋は今、塗り替えのための足場組立工事が、深夜10時から朝6時まで行われ化粧直しが終るのは12月。橋の歩道上に工事用のチカチカ灯が並んでいるのを見て浮かんで来たのは宮澤賢治の「そら青く開運橋の瀬戸物のランプゆかしき冬をもたらす」の大正時代のうた。平成27年(2015)の3月まで400回以上も本紙盛岡タイムスに「賢治の置土産」を連載した岡澤敏男さんの小泉とし夫名による「開運橋、大河の岸のネムの木の、茂みに今年も、泳ぐきんとと」のうた。 賢治作は当時出来たばかりの鉄骨製橋の欄干に瀬戸物製の油壺付ランプが灯されていた様子をうたったもの。とし夫作は、最近まで橋のたもとにあったネムの木に咲く、あかい金魚みたいな花が、それこそランプのように灯っていたうた。また「開運橋、遠い旅から戻って来た、雪のアーチの、白いリベット」では「2度泣き橋」(開運橋の別称)の由来話まで頭に浮かぶが、盛岡に転勤で来た人は、その後皆、出世するとの噂を聞くが、何せ2度泣き橋と言ったのは、かつて日銀盛岡事務所長の古江和雄氏だったそうだから、うなづける話。 僕の店も今はアメリカの古いジャズもアナログレコードで聴かせる様にしたが、それまで35年間続けた日本ジャズ専門からの大転換だった。それは僕にとって不思議ともいえる自然さだった。その原因もやはり橋にあったのだと今にして思う。盛岡駅が出来た明治23年、石井知事が有料橋として造った開運橋。その木造橋は何度か流され、大正3年に永久橋としてアメリカに発注した2連のトラス橋。当時は第一次世界大戦の最中、届いたのは1連、もう1連は海に沈められたために日本で製造、大正6年6月完成。まるでジャズ物語のような日米合作開運橋なのでした。現在の橋は昭和28年(1953)の完成!
11:14:00 -
johnny -
2022-06-26幸遊記NO.230 「高橋久祐の外山森林公園」2015.6.8.盛岡タイムス
「今、外山森林公園で“ハタケシメジ”が大量にとれてるんだって」とタブレットを見ながら女房の小春。「キュースケくんか?」と聞けば「そう、配達もしてくれるって!」というので「じゃ頼んで!」で5月4日持参してくれた。
その彼、高橋久祐さん(36)は盛岡森林組合の職員で盛岡市外山森林公園の管理人。外山から浮かんで来るのは、民謡外山節にうたわれる“日陰のわらび”。公園内入口の「外山そば屋」売店にある“わらび漬け”は正に絶品!年に1、2度外山に食べに行くようになって10年余りになる。 昨年の秋には、スエーデン在住のジャズピアニスト・ケイコ・ボルジェソンと一緒に行ったら久祐さんが公園内を案内して、キノコの話でケイコさんと盛り上がり「スエーデンにキノコ採りにいらっしゃいよ!」となった。それは、山に関することに精通する久祐さんという若者の研究熱心さと、その実践している姿に感動したからなのだった。 彼は紫波町上平沢自宅から1時間以上かけて車で通勤するスーパー木こり。現在90才になる俊子おばあちゃんに、家の跡継ぎとして洗脳?されて育ち、幼少から田畑の手伝い、ニワトリの世話、犬の散歩、牛の乳しぼり、牛乳缶を道まで一輪車で運ぶ等しながら紫波高校農業科、そして秋田県立短大農業科へ進んだ。小学校の時、友だちに誘われて入ったボーイスカウトは大学時代までやり、指導者にまでなった程のアウトドア派。 その趣味が高じての林業作業士。グリーンツーリズム・コーディネーターなどなど、様々な資格と顔を持つ。「何事も、興味あればとことんやるもの!運は努力の積み重ね」そう言いながら、しいたけ、まいたけ、ひらたけ、くりたけ、たもぎたけなど12種類ものキノコ栽培。そのキノコや山菜をのせた、外山の地粉で打ったそばを食べに、1日数百人が訪れる凄さ。 東京ドーム20個分もある91ヘクタールの森林公園は山菜の宝庫でもあり、彼は毎日ソバを食べ山を歩くこと半日。草刈、植林、木登り、炭焼き、リース作り。夏のキャンプ、野活ゲームの指導等々、体がいくつあっても足りないのに、何とその満ち足りた毎日を12年間も続けている自然体児なのだ。子供は5才になり、親戚のアベがいるサッカーに夢中だ。
11:13:00 -
johnny -
2022-06-25幸遊記NO.229 「森川ともゆきのタンゴ・アンサンブル」2015.6.1.盛岡タイムス
千厩町(現一関市)の農村勤労福祉センターで1984年9月2日に開かれたシャンソンとタンゴのミュージック・あらかると「泉れい子&森川倶志(ともゆき)とアンサンブル・フォンティーヌ・ジョイント・コンサート」を、実行委員長の佐藤広徳さんに誘われて聴き、感激したことから、僕は、盛岡にあるタンゴの店「アンサンブル」に行くようになった。
アンサンブルは当時、3周年記念に藤沢嵐子。5周年記念に菅原洋一をゲストに迎え森川倶志(バンドネオン)花田慶子(バイオリン)熊田洋(ピアノ)による岩手県民会館大ホールコンサートを開催していた。あれからすでに30年、時折店に行く程度の僕に丁寧な手紙を添え、店の通信を送ってくれるタンゴ・アンサンブルに尊敬の念を持ち続け、今日に至っている。 森川倶志さんは1936(昭和11)年1月10日東京生まれ、中央大学在学中よりバンドネオン奏者としてデビュー。「坂本政一とボルテニア」の一員として1966年にタンゴの地アルゼンチンをはじめ、南米やヨーロッパを巡演。帰国後、タンゴの女王・藤沢嵐子が所属する「早川真平とオルケスタティピカ東京」に入団。のち自己トリオ結成。77年盛岡に出来た店「ローレライ」に3ヶ月契約で来演。それが好評で1年半も出演した。東京へ戻った半年後には、又、ファンに呼び戻され再び盛岡へ。そしてバイオリンの花田慶子さんと大通に自分たちの店、「アンサンブル」を79年に開店。 89年1月TVIで特集されてからは、バンド名を「森川ともゆきとタンゴ・アンサンブル」に改めた。同年夏、僕等が主催した「第2回日本ジャズ祭in陸前高田」の時、森川氏からお祝の金一封が届いてビックリ!胸が熱くなった記憶が今も残る。 10周年記念レコードを熊田洋。20周年記念CDを高田菜穂、平山(旧姓・渡辺)順子。30周年記念に松永裕平、工藤溶子、と店で育った各ピアニスト達と一緒にアルバムを録音、北の街盛岡にタンゴの砦あり!を全国に知らしめてきた。昨今タンゴが又昔日のように若い演奏者達によって復活してきたが、2013年88才で亡くなった藤沢嵐子さんと最後まで親しく心の交流をし続けた森川さんと花田さんは、今尚、日本唯一とも言えるタンゴの店を経営しながら日々演奏し続けている。
11:11:00 -
johnny -
2022-06-24幸遊記NO.228 「山川モリマサ・NAOのムラサキのわけ」2015.5.25.盛岡タイムス
2003年から4年頃、頻繁(ひんぱん)に開運橋のジョニーへライブで歌いに来ていた山川モリマサさん(59)は、当時10曲入りのファーストアルバム「桜のつぼみのあの時に」を、宮城県古川市のジャズスポット「花の館」のコネクションにより、ジャズピアニスト・大石学さんの編曲と演奏(カルテット)をバックに自作曲を唄ってリリース。当時僕も担当していたFM岩手の番組「オールザットジャズ」に2003年9月出演して生で唄ってもらいCDも放送させて貰った。
今「桜のつぼみ・・・」を聴き返せばあの3・11の大震災でなくなった友人達のことが浮かんで来る様な内容だが、彼にとってこの曲は、当時営んでいた山川電子という町工場の同僚だった故・高橋敬子さんに捧げて書いた追悼歌だった。そして2005年にリリースした「ムラサキのわけ」、2012年の「福は君鬼は外」のCDにも収録してきた程、大切な歌曲。 1956年1月24日栗原市生まれの山川護正(もりまさ)さんは築館高校から横浜市立大学文理学科と関東学院大学社会学部で学びながら、オリジナルソングに夢中になった。卒後何年かのブランクの後に書いた「桜のつぼみ・・・」を「花の館」のマスター・佐々木栄寿さんがピアノで弾いたことから評判になってのデビューだった。仙台市で次の「ムラサキのわけ」を歌っていた2013年、聴きに来ていたファンが、居合わせた仙台在住のプロ歌手・NAO(安田直美)さんに「この曲、NAOさんが歌ったら」がきっかけとなってはじまった、ジャズ歌手が英語の歌を引っ込めて、山川モリマサの日本語の歌を唄うプロジェクト。 キャバレー時代最後の歌手としてステージに立って以来、28年プロとして仙台国分町を中心としながらも月2回は上京して歌ってきた彼女。ジャズアルバム「アイム・ア・フール・トウ・ウォント・ユー」に次ぐ「ムラサキのわけ」を2014年にリリース、演奏はもちろん大石学トリオである。「・・・すみれは教えるムラサキのわけ、遠い記憶の秘密を」彼女・NAOさんは今年から「デート(Date)FM」(仙台FM)で毎週水曜昼12時から25分間「NAOのお昼だNyao」で、音楽、食、健康、美容、などに関するトピックスをNAO流に放送中である。
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johnny -
2022-06-23幸遊記NO.227 「柴田輝二の自我像の私」2015.5.18.盛岡タイムス
先週、先々週の幸遊記に次ぐ2度あることは3度ある映画の話。「典子は今」を製作した活人堂シネマの代表・柴田輝二さん(1917~1999)は、あの「ああ直立猿人」が没った翌年の1984年、事故で中途失明したヒロインが、盲導犬と共に明日に向って生きる「しのぶの明日」(日本ヘラルド配給)を製作。当時はまだ皇太子でした現天皇陛下もご覧になり、主演した紺野美沙子さんと、原作、脚本、製作者の柴田輝二さんの2人は東宮御所に招かれご懇談。
その後、夢野久作の代表作小説を発表から50年を経て映画化した「ドグラ、マグラ」(シネセゾン配給)を発表。この作品は88年ベルリン国際映画に出品され、香港国際映画祭招待作ともなった。その柴田輝二さんの思想背景は、一貫した社会的弱者救済の一助となること。それは「個の主張」に基づく、反骨、反権力、反体制型の社会貢献であり、劇的因子を持った娯楽的価値観の追求でもあった。 そして1990年から、99年に彼が亡くなるその日まで、それこそ死にもの狂いで完成させ150万人を動員させようとした劇映画「自画像の私」は、企画・製作から脚本、監督と、全身全霊を傾けて取り組んだAIDSがテーマの作品。3人の男と女の出会いによってもたされたエイズ感染という性と死の純愛ドラマ。 画家をめざしパリへ渡った主人公がエイズに感染し帰国、美術教師だった父親の故郷、陸前高田を訪ね父の同級生だった僕、照井顕の店・ジャズ喫茶ジョニーへやって来る。その日はもう一人の同級生、日本屈指のジャズドラマーの追悼ライブが行われるというシーンが折り込まれ、主人公は献体登録して死を見つめながら自画像を描き上げるという内容。 百年余りの映画史上初となる「三万人映画製作委員会」を立ち上げマスコミに発表。一般から出資金を募って3億円の製作費を調達し、町田康、手塚理美、剣持たまき、などが出演、中島みゆきがテーマ曲を担当するという段取りだったが「八年の企画歳月のストレスと遺作覚悟のシナリオ補訂の苦労でしょう、鬼の撹乱で9月から現在まで病態で作品にする精神力と肉体との相剋(そうかつ)です」という手紙が柴田さんから届いたのは、なくなる20日前、1998年の師走だった。自らも白菊会に献体し、この世を去って行った。
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johnny -
2022-06-22幸遊記NO.226 「斉藤耕一のああ直立猿人」2015.5.11.盛岡タイムス
「斉藤耕一映画音楽の世界」というアルバム(1975年発売)が今僕の手元にある。このレコードは当時ビクターRCAのプロデューサーだった井阪紘さんが、2013年8月30日、何十枚も僕のところへ贈ってくれたレコードの中に入っていた一枚。その収録曲の中で目に付いたのは「旅の重さ」「約束」「津軽じょんがら節」。あの時僕の頭は1983年に戻って行き、その夜、柴田秀司さんに電話をして頼み事をした。それから一年半経った今年2015年3月26日、彼から電話があり「トランクルームの奥からやっと“直立猿人”の台本が見つかりましたので送ります」。で届いた本というのが、「ああ直立猿人」のあらすじ本と、映画撮影稿の台本。
企画制作・柴田輝二(活人堂シネマ)“輝二さんは柴田秀司さんの父”。脚本・監督・斉藤耕一(1929~2009)。登場人物、市原俊幸(藤岡琢也)、照井顕(松崎しげる)、三上寛(三上寛)、宮利恵(中原理恵)、照井美佐子(照井泉沙子)、他ジャズミュージシャンが多数出演する、夫婦三人、子供一人、犬一匹の三角四角関係ジャズ物語。それがなんと、撮入の一週間前、藤岡琢也扮するピアニスト・市原俊幸(当時63才)が急死したことから色々あって結果的に撮影に入れずじまいになった、又してもの幻の映画。 柴田、斎藤両氏と新宿にあった市原俊幸さんの店に行き、彼の二枚組アルバム「わが青春わがピアノ」にサインしていただいたら「照井さん江、映画楽しくやりましょうね。」(83年3月3日)だった。飲んだその夜遅くタクシーで斉藤監督と一緒に自宅へ。ジャズのオーソリティとしても知られていた彼の家の中には膨大なレコードコレクションがあったが、僕は斉藤耕一さんが監督した映画を見たいと言ったら、レーザーディスクや、業務用大形プロジェクターで、先の三作を朝まで付き合って見せてくれた。 四国へ放浪の旅にでた少女の物語「旅の重さ」。汽車の中で知り合った男と女の三日間の出来事と繰り返される音楽が印象的だった。「約束」。高橋竹山の三味線と斎藤真一の絵に触発されて作った音楽彷徨映画「津軽じょんがら節」の三作は今も僕の記憶に鮮烈に残っている。ああ、それにしてもあの幻映画で生れた子・直立猿人は今どうしているんだろうか?
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johnny -
2022-06-21幸遊記NO.225 「大和屋竺の幻のジャズ映画」2015.5.4.盛岡タイムス
あれは1982年(昭和57)のことだった。前年、全国的なヒットを見せた映画「典子は今」(サリドマイド児の辻典子さんを描いた話題作)“松山善三脚本・監督”の次回作品として企画されたのが僕をモデルにした本格ジャズ映画。制作はシバタフィルムプロモーション(株・活人堂シネマ)代表の柴田輝二氏はとても意欲的で、元日活映画の監督で当時フリーだった大和屋竺(あつし)さんが脚本を書き、直接メガホンをも取るというものだった。
当時ジャズは軽いロックのようなフュージョンが持てはやされていたが、僕は「日本人による日本のジャズの復権」をめざしレコードを制作、全国に向けて発売していた事から朝日グラフ、毎日グラフ、週刊宝石、などがジョニーを取り上げ、NHKでも全国放送したことなどから持ち上がった話。水谷豊、根津甚八、秋吉久美子、山下洋輔、等の出演による「ジャズに魅せられた男が地方の小さな都市でジャズを生活の中に持ち込んで活発な活動をしながら、日本ジャズの拠点を作るという軽さや、やるせなさをテーマ」に、制作日数5ヶ月、制作費7千万円、1983年1月に全国での封切予定!と、陸前高田にて記者会見したのが7月16日。しかし肝心要の脚本が年明けても出来上がらずに没となった。 「映画を撮る時、僕は先ず音楽を先に考えたい。そうすりゃ映画ってのは、何とかなると思ってるんだ。だからジョニーの映画はやろうと思ってんだ。もちろん表現として世界に通ずるものをですよ」と、お世辞にも大和屋さんは7年後の平成元年に僕を東京日野市の自宅に招き語ってくれた事が、嬉しかった。 大和屋竺(1937~1993・北海道三笠市生まれ)私立足立高校、早稲田大学文学史科卒、日活助監督八期生。監督作は若松プロの「裏切りの季節」「荒野のダッチワイフ」「毛の生えた拳銃」など。脚本は「野良猫ロック・セックスハンター」「八月の濡れた砂」「悲愁物語」「マタギ」「ドグラマグラ」「ルパン三世」などなど。彼が映画に憧れた決定的作品が黒沢明の「七人の侍」。本当は黒沢氏の弟子になりたかったそうだが叶わずじまいで、今村昌平氏のいた日活へ。「やるからには徹底的にやりたいと思うし、やってもらいたいのだ」と、それを実践した人。1971年の映画「八月の濡れた砂」(主題歌・石川セリ)は、今も数少ない僕のカラオケ用愛唱曲の1曲でもある。
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johnny -
2022-06-20幸遊記NO.224 「大場文隆の大般若縁」2015.4.27.盛岡タイムス
68才の誕生日で「幸遊記」掲載日だった4月20日朝、僕はギターを鳴らし歌を唄った。所は宮城県気仙沼市南最知の太白山・海蔵寺(大場文隆・住職)の本堂。曲は摩訶般若波羅蜜多心経をうしろから唄う、僕流の「逆説般若心経」や「千年の響」「明日の今日(経)」「南無大悲観世音」「光の羽根」「潮騒の森」などの自作曲。
「20日に寺で行事あるんだけど、始まる前にチョット唸(うな)ってみない?」。そう電話があったのが数日前で「前泊でもいいし、当日なら朝8時までに来て!」だった。寝たら起きれないので夜中に盛岡を出発して、気仙沼に着いてから、車内でウトウトし以前に何度か海蔵寺で唄った夢まで見ていた。目覚めて見れば、すでに多くの車々。くりに入って座ったら、和服姿の女性が運んで来たのは抹茶、そのおいしさに大感動。和尚は「持って来た(ギター)?」僕「はい!」「じゃ始めるから」と本堂へ。「盛岡からジョニーさんに来てもらったので唄って貰います」と和尚のあいさつで、僕へバトンタッチ。 唄い終わって間もなく、本堂に出て来たのは白足袋、白衣、黒衣、木蘭の袈裟の和尚達30名程。机の上に置かれていた経本を物凄い速さでもって、パラパラ・パラパラ・波羅蜜多の如き開経掲。流れ落ちる滝の如きその圧巻的な美しさに只々見とれ、和尚さんたちの大合唱般若心経を聴く。集いとは、そう、全六百巻にも及ぶ「大般若波羅蜜多経」をひもとき読破する行事「大般若大施餓鬼会」だった。 主催者、大場文隆和尚は、昭和24年(1949年10月4日生まれ)。考え方は血液型と同じ大(O)型。かつては気仙沼の鼎ヶ浦女子高校の教師だった人。もう一つの男子校だった気仙沼高校から駒澤大学へ。卒業後総持寺で修業、笹川財団に就職した経験から、単なる教科書解説員としての先生にはなりたくないと、人生を裏側から教える不良先生を自認。血の通った授業を実践し、地域紙・三陸新報にもよく投稿していた。外では歩くイベンターとも呼ばれ、好きなジャズピアニスト・穐吉敏子さんのコンサートを寺の内外で開いたりもした。そして今、気仙沼に「やすらぎ観音」の奉安を提唱し円成を願いながら、京都清水寺・森清範貫主と釜石大観音の石應寺との仲を取り持ち来る5月6日には「縁」の講演と一字揮毫会への協力に奮闘中である。
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johnny -
2022-06-19幸遊記NO.223 「1947年の4月20日」2015.4.20.盛岡タイムス
きょう2015年4月20日(月)は僕の68才の誕生日である。そのことから、僕が生れた1947年は一体どんな年なのだったか?と少し調べ書き。
「日本国憲法」の施行。第1回参議院選挙(4月20日)。日本教職員組合(日教組)結成。6・3・3・4制発足し、9年間の義務教育。学問の自由。最高裁判所発足。独占禁止法。性の解放。田村泰次郎の「肉体の門」劇化上演。東宝「音楽五人男」(音楽を志す5人の男の友情を描いた映画で藤山一郎の唄「ゆめ淡き東京」(悩み忘れんと貧しき人は唄い、せまい路地裏に夜風はすすり泣く・・・サトウハチロウ詞)。二葉あき子の「夜のプラットホーム」。近江俊郎の「山小屋の灯」などのヒット。菊池章子の「星の流れに」を唄って大変な人気を得た天才少女歌手。“美空和枝”のちの“ひばり”出現。 そしてジャズは、進駐軍(米軍)クラブに出演するバンドの格付け作業をGHQが終戦連連絡中央事務局(外務省下部機関)に依頼。「日本ミュージシャンズ・ユニオン」初代理事長・菊池滋弥の力を借り芝公会堂でのオーディションを手始めに横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、呉、福岡などで200バンドの格付けを行い、スペシャルA、B、普通A、B、C、Dの6つに分け、出演料が決められた。格付審査委員会(野川香文委員長)野川は淡谷のり子が唄った「雨のブルース」の作詞家で日本ジャズ評論の先駆者。 それにしても戦中の昭和18年2月に廃棄すべき!とした米英盤「適性レコード」一覧表を公表し取り締まった国(情報局)。戦後は国(外務省)がその米英音楽を演奏する」楽団を率先して募集し格付け作業まで行ったという歴史の事実。 又、アメリカではサッチモの“ペニーズ・フロム・ヘブン”、デジーガレスビー“ツーベースヒット”等のヒット曲。ノーステキサス大学で初のジャズ学位。日本ではジャズの専門誌スイングジャーナルが創刊された1947年、ジャズマンではピアノの加古隆、ベースの古野光昭、ドラムの小山彰太、ギターの川崎燎、サックスの大友義雄、ヴォーカルの中本マリ等が生まれている。僕は火事あとに先に建てた馬小屋にて生まれ、その後新築の母屋に移った同年、キャサリン台風での裏山崩落にあい家がつぶれ、その下敷きとなり顔にケガをしたが助かった。そして今もこうして生かされている。
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johnny -
2022-06-18幸遊記NO.222 「宮川武士のトヨタ、イオン、マーク」2015.4.13.盛岡タイムス
1980年前後、三陸町(現・大船渡市)にあった北里大学水産学部の生徒だった宮川武士君(55)。丸くて大きな顔が口で二つに割れるみたいな、そうあの当時流行っていたTVゲーム「パックマン」の様に赤ら顔でテンション高く、僕の店「ジョニー」に来てはガハハ、ガハハと大声で笑っていた彼。すでに絵や版画に夢中だったが今も変わらず。
当時大船渡市盛町にあった「第一画廊」の新津氏に見せられた一枚の絵。そして「この本物の画家をたずねて行き、話をききなさい!」と言われたが、彼はすでに大学1年の1977年、一ヶ月も荷物の受け取りを拒否し続ける人がいて、そのヤマト便の荷を手渡す役を買って届けた。差出人は宮内庁、受取人は画家・熊谷守一(1880~1977)その人だった。何度も断られたある日、玄関先で焚火をしながら虫メガネを片手にじっと蟻を観察していた彼に「僕も絵を描いてるんですよ」と言ったその一言で彼の表情が一瞬変わり「よし受け取ってやる。その代わり明日来て一週間泊れ」だったという。 そこで体験したのは彼と奥様二人の和服での清貧この上無い生活や、昼にじーっと何時間も物を見、頭に入れたそれを夜に描く。描く時間よりも観察の時間がはるかに長いのだったと語る彼。将棋を誘われ知らないと言うと、「じゃ音楽を聴け!」と自らギーコギーコとひどい音のチェロを弾き聴かせ、ナイフとフォークでエビフライを食べさせてくれたという。 大学卒後、征矢(そや)広告デザイン室で働いていた時、入ってきた電通のコンペ仕事。言われたのは「Tの字のデザイン」をしなさい。何百と考え、最終的に次元を超えた宇宙をイメージしアンドロメダの大星雲をテーマに動いて見えるロゴを完成させた。使用社は、後、世界一のメーカーとなった豊田自動車だった。 そしてもう一つの日本一!それは、今をときめく「イオン」。そうあの楕円入りマークこそ、角ばったテクノロジーの字と、永遠に続く人間の愛の融合をテーマに彼が考え出した秀逸のロゴ。又イオンの前身、サティ(エリックサティ・作曲家1866~1925)の音楽からヒントを得た店名とロゴも彼の発案によるものだった。その彼は今も、赤帽で軽運送業をしながら、自ら手描きした小さな絵を各地のフリーマーケットにて百円で売る仕事?に夢中である。
11:00:00 -
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2022-06-17幸遊記NO.221 「千葉岳洋のジャズの架橋」2015.4.6.盛岡タイムス
大きな体をして、どっしりとピアノに向い素早い音も出す若きジャズピアニスト・千葉岳洋(たけひろ)君(24)。その彼を見ているとなぜかあの故・オスカーピーターソンの姿が想い浮かんでしまうのだ。開運橋のジョニーの卒業生で、プロのジャズドラマーになった柿崎幸史(たかふみ)君とのT・T・T・Trioライブで東京からの来盛演奏終了後、泊まるところが無いというので泊めることにし、二人でウイスキーを飲みながらおしゃべりをした。
僕が、先ず驚いたのは、彼は東大を卒業してジャズピアニストになった点であった。8才の時自分で見つけた教室に通いピアノやエレクトーン。その後にファゴットを5年習い、仙台の東北学院高校時代には吹奏楽部に所属し、ほとんどの楽器をやったと言う程演奏が好き。だから当然なのだろうけれども、進学指導で進められたのは音大ではなく理系。一ヶ月で自分に向いていないと、文学部で美術史を専攻。19世紀頃の絵や文献に夢中になった。同じ絵を先生と生徒が見て言葉と目を磨く、それは楽器も一緒だという思いに至った。 東大にもジャズ研究会やビックバンドがあり、一年の時から東大と慶応のビックバンドに出入りしトロンボーンを吹いた。高校生の時、吹奏楽の譜面を編曲していたことを活かし、大学時代からコンボやビックバンドの曲を作り始めて、その数は現在50曲余り。「コンテンポラリー、クラシック、ロック、様々な要素を取り入れ、あまり聴いたことの無い感じがする、自分の理想の曲を創る作曲家に!そして世界に爪跡を残せるピアニストになりたい!それが、漠然とした一番の目標!」という若い彼。 ライブで印象に残った彼の曲「トナンクイロ」(イタリア語でかすかな星の光)同じフレーズの中でハーモニーの色が少しずつ変わってゆくブルース曲。「以前の僕はソリストの音に後から反応するというごまかし!今はバックに回る時、ソリストがどういう筋書きを考えているか、どういうプレイをしたいのか、普段の人隣りから読み取って先回りの音を出す。するとソリストもバンドのサウンドもアップすることに気付き、その架橋になる演奏が出来る様、自分でもソロの右、バックの左手で、言いたい事を音にする練習に打ち込んでいるという。
10:55:00 -
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2022-06-16幸遊記NO.220 「熱田純生(あつたすみお)の響とコーヒー」2015.3.30.盛岡タイムス
最後の名曲喫茶とも云えた「これくしょん」(紫波町高水寺土手)のマスター・小畑倉治さん(81)が、3月22日の朝(7時50分)膵臓(すいぞう)ガンのため、盛岡日赤病院で亡くなられました。翌23日午前11時、紫波町かたくりの丘斎場での火葬。喪主は小畑さんの長男・博司さん(初めてお顔拝見)でしたので、小畑さんが若返って目の前に立っている様な不思議な想いにかられる光景でした。
その23日は僕達の店も休日だったので、昼は久し振りにジャズが流れる十割そばの「はらぺこ」で“だったんもり”をたべた。この店には様々な方達の色紙が沢山飾られていますが十年余り前に書いた僕の色紙、ソバとジャズをかけた「体によく聴く」もあるのですが、あの時「お礼です」とソバ代を受け取らなかったことも想い出しました。 想い出しの連鎖で「東緑ヶ丘の新しい喫茶店“響”に行って来たよ!」と言っていた医師の八木淳一郎さん(“開運橋のジョニー”と“これくしょん”で、時折開いてきた“小泉とし夫・口語短歌朗読ライブでのギター伴奏者)のことをふと思い出し、女房と一緒に行ってみた。 店に入るとすぐ、“響”という店名の由来がわかる大型のスピーカーが、4本専用のステージに立ち並び音楽を響かせているのでした。その中央には炎の見える薪ストーブ。カウンターに座ったら、かけてくれたレコードが「ジョニー・ハートマン」の歌、それにビックリしていたら、何と!次のレコードはフォーレの「レクイエム」、まるで古い友人が当然のように気を使ってくれた様な偶然に、女房は泣き出してしまったのでした。 僕の店で使っている豆はKEY・COFFEEなのだが、何と“響”のマスター・熱田純生さんは、34年間KEY・COFFEEで豆の買付けや鑑定をしてきた人なのでした。定年で奥さんの出身地盛岡に来て土地を探し、店舗兼住宅を建て、昨2014年12月30日にオープン。本格的なロースター機を導入しての自家焙煎。昼にクラシックをタンノイで、夜はジャズをアルテックのスピーカーを、ウエスギの真空管アンプで鳴らす本格的な音楽喫茶。不思議なほどの自然な出会いに、僕は心の中で感謝しながら“小畑さんありがとう”と手を合わせた。
10:52:00 -
johnny -
2022-06-15幸遊記NO.219 「佐々木茂光の県議ラッパ」2015.3.23.盛岡タイムス
「気仙中学校の同級生だった畠山直哉君(幸遊記№63)が、銀座ニコンサロンで「陸前高田2011~2014」という写真展を開く(2015年3月25日~4月7日)ので、初日に行って来ることにしました」と、僕に言う佐々木茂光さん(57)。彼は陸前高田・住田地区選出の岩手県議会議員である。議会の会期中盛岡に居るので、僕の店にも友と連れたってやって来る。彼が県議になる前は、陸前高田市議を3期やって、県議選に立ち、2度目の挑戦となった震災の年に当選。現・県土整備部の常任委員会副委員長、県政調査会理事。
市議会では現陸前高田・戸羽太市長と同期だった。津波で一千年前の姿に戻った陸前高田を、せめて高田松原だけでも12、5Mもの防波堤や水門を造らず、昔のように海水が行き来出来る自然的な古川沼や高田松原の再生をして欲しいと言う多くの人達の声を聞くにつけ、執行者である市長がそういうことに配慮しながら街づくりをしなければと気をもむ。かつてのリゾート(利増都)計画によって600億円もかけた「コースタル・コミュニティ・ゾーン」が地震津波という天災により一瞬にして消え去ったことを、教訓として重く受け止めている様子。 県議選に当選した時、中学校時代バンドをやっていた同級生たちから、お祝いだ!と贈られたのがアルトサックス。「俺はバンド仲間ではないのだが、還暦の時に一緒に演奏しよう!ということだったのさ!」と笑う。「教育の原点って、俺は音楽だと思うんだ」と真顔で言ってニコッとする。宮城県北の気仙沼高校時代は「ヴァンガード」「ガトー」といったジャズ喫茶にも通った程の音楽好きで、地元消防団ではラッパ隊で吹いていた。 かつての陸前高田には「喜のじ」という焼き鳥屋があった。うちわを使っての炭火焼「だっつぁん」と呼ばれた店の主人は、ギターを奏で、唄う客たちの伴奏をする歌声居酒屋。「先輩市議が新米市議の俺を喜のじに連れてってくれたことは、今でも忘れられない」。その時の常連客たちから聞いた音楽のような市民の声、それらを市議会に県議会に届けて来た漁民議員なのである。「広田湾産のカキは今、日本一の値を6~7年間キープし続けている」と誇らしげだ。
11:51:00 -
johnny -
2022-06-14幸遊記NO.218 「沼田智香子のオール・ザット・ジャズ」2015.3.16.盛岡タイムス
盛岡駅ビルのフェザンを訪れたことがある人なら、誰もが耳にしたことがあると思われる駅デパート案内放送。あれをしゃべっている声の主は沼田智香子さんである。3月14日のきょうも僕はその声を聴きに行ってきた。「学生割引キャンペーン」の放送が流れていました。実は彼女10日前の2015年3月4日、54才で亡くなられてしまったのです。
FM岩手開局と同時に始まった番組「オール・ザット・ジャズ」。それを週変わりで担当したのが、当時岩手最古のジャズ喫茶「クイーン」佐々木賢一・店主(大槌町・店は3・11の津波で流失)と「伴天連茶屋」瀬川正人・店主(盛岡市・平成元年3月24日閉店)と僕の「ジョニー」(当時、陸前高田・2001年4月から盛岡)の3人でした。 その開始から数年後に番組アシスタントとして席につき、それを2010年9月に番組が終了するまでの20年余り担当していたのが沼田さんでした。放送中の僕のダジャレに時々反応したりする事はあっても、番組を聴く立場を考えてか乗り過ぎる事無く、それとなくけん制し、ジャズとも付かず離れず、気さくで優しい人柄の中にも気品を漂わせ、自分の気持ちを曲げない信念を貫き通した人でした。 3月9日、盛岡の龍谷寺で行われた葬儀の時、沼田さんが所属するアナウンス会社・パネットの代表・畑中美那子さんが、「岩手の歴史に残る長寿番組“オール・ザット・ジャズ”を担当した“沼ちゃん”」と弔辞で語っていましたが、その沼田智香子さんのご主人・甘竹明久さん(現・読売岩手広告社・社長)が、番組の広告スポンサーを探すなど、裏で妻の仕事を支え続けても来た二人三脚番組でもありました。 その主人・甘竹さんが火葬場と葬儀場で智香子さんとのお別れに参列した人たちに語った「人の死というものが、こんなにも悲しいものだということを、初めて知りました」は、参列した全ての人々の胸に深くしみ渡ったに違いありません。そして「あの2011年3月11日に亡くなられた人々の一人一人の遺族にもこんな悲しみがあったのだということを知りました」とも。 これから彼女は声として心に残している方や録音で側に置いてる人と共にずうっと、幸せに生きていくことでしょうが、智香子さんご本人は、まだ亡くなられた事を知らずにいるのではないかと、僕は感じます。
11:49:00 -
johnny -
2022-06-13幸遊記NO.217 「高田邦生の黒川さんさ太鼓」2015.3.9.盛岡タイムス
「はるばる」という3枚目のアルバムをリリースした、笛と太鼓のユニット「朋郎」が、4月8日(水)開運橋のジョニーへ8年振りにやって来る。武田朋子と内藤哲郎、二人合わせて朋郎(トモロウは明日)。過去の音に未来を学び紡ぎ出す和太鼓と篠笛の世界観「どこまでも心地よく人々の胸に届くこと」をモットーに旅で出合う様々なことにインスパイアされて生れた音楽を更なる旅で披露する二人。
その朋郎の友が、盛岡在住で福岡県福津市出身の高田邦生さん(37才・盛岡中央消防署の消防士長)。この3人、実は新潟県佐渡ヶ島の太鼓集団「鼓童」が取り持つ縁で結ばれていた。鼓童の前身、鬼太鼓座(おんでこざ)は、秋田の舞踏集団わらび座出身の田耕(でんたがやす)氏が佐渡の芸能鬼太鼓にちなんで立ち上げた集団だった。あの林英哲もそこの出。 30年以上も前、僕は鬼太鼓座のレコードをよく聴いた。今にもレコードの針がぶっ飛びそうになる凄音で、オーディオのチェック用としても使った記憶が残る。その陸前高田には1989年から続いてる全国太鼓フェスティバルがあり、鼓童も出演したことがあるけれど、高田さんが盛岡に就職した理由は「さんさ太鼓」だった。 さんさ(参差)は「目出度いこの御庭を見申せば四方の隅からサァ黄金湧く」の御門讃めの唄に始まる盆踊唄。その唄数も飯岡、米内など十指にあまり、踊りは太鼓と笛を先頭に右回りの円陣を作り急テンポで踊られてゆく輪踊り。又の名を「そそぎ踊」とも称され、一隊は門付けをしながら家々を順々に踊り歩いた。(武田忠一郎・1892~1970) さんさの太鼓は今ギネスに挑戦するほどの大規模な祭りとなったが、元の輪をくずす行進性にかたくなに背を向け伝統を守り、ギネスの挑戦に参加しなかった唯一の団体、それが「黒川参差」。そんな見応え、やりがい、気骨のある「さんさ太鼓」に高田さんが出合ったのは、彼が大学3年の時。2年間休学して学んだ、鼓童の芸能大学でだった。「さんさ太鼓は教えるが、鼓童の舞台に乗せてはならん」その郷土芸能のかたくなな守り方に惚れ込み、復学した大学を卒業して黒川さんさの会長・松本敏邦氏の門を叩き今に至った。3人の子の父でもある。
11:48:00 -
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2022-06-12幸遊記NO.216 「ルイ・アームストロング家の日本庭園」2015.3.2.盛岡タイムス
明治45年(1912)に日本から、アメリカに友情桜として贈った三千本の苗木が、百年を経た2012年、その桜の名所・米首都・ワシントン・DCで大きな節目の年を祝うかの如く、観測史上最も早く開花した。
その4月「ジャズって何?ときかれると、サッチモの言葉を思い出すの」と1991年の朝日ジャーナルに語っていた、我らがジャズピアニスト・穐吉敏子さんのコンサートを聴く為「ジョニーと行く穐吉敏子への旅・ワシントンDC&ニューヨーク」に皆と出掛けたツアー中、僕らは「ジャズとは何ですかときくようでは、その人はジャズがわかっていない」と答えたサッチモことルイ・アームストロング(1900~71)の自宅だった現・ハウス・ミュージアム(NYの103ストリート)にも行ってみた。 ジャズは個人的な音楽。その「ジャズを語る時、ルイははずせない。何故ならルイは友を呼ぶから!」は、僕のダジャレだが、ミュージアムの受付案内人は、穐吉オーケストラのトランペッターから習っているという若者。生前、自分が決定的な影響を受けたコルネット奏者・キング・オリバー(1885~1938)を最も尊敬、彼の偉大さや敬愛の心情を人々に伝えたルイもまた、今なお世界中の人々に愛され続けている。 自伝で「母・メイ・アン(マヤン)を教会員からヤクザに至るまで誰もが尊敬し大切に扱っていた。いつも胸を張って生き、他の人をねたむことは決してしなかった。私もこの性質をを受け継いだのは、きっと母からに違いない」と語るルイ。「祖母は奴隷だったの」と、ルイの妹・ベアトリスは別の本で明るく語る。 桜が米国に渡った12年末12才のルイは、ピストルを放ち少年院へ。そこで習ったのが様々な楽器と、コルネット。日本へは1953年、63年、64年と彼のオールスターズで来演。自宅庭の片隅には池もあり、赤い錦鯉が泳いでいた。そこにはジャパンテイスト・ガーデンとあり、居間には現在も僕が使っているデュアルのプレイヤー、マランツのアンプがセットされていてビックリ!レコード棚には、自分の唄や演奏の他、マリアン・アンダーソン、ベッシースミス、W・C・ハンデイ、ビックス・バイダーベック、チャーリー・クリスチャン、ガーシュイン、ラフマニノフ、等の名が読め、それだけでも彼の心根がよくわかり、胸が熱くなったのでした。
11:46:00 -
johnny -
2022-06-11幸遊記NO.215 「鈴木明義のJAZZ・USA」2015.2.23.盛岡タイムス
「富士通コンコード・ジャズフェスティバル・イン・ジャパン」や、「100ゴールド・フィンガース」などの日本ツアーに、1994年から2000年までスタッフとしてかかわり、穐吉敏子ジャズオーケストラとも旅をした“アキヨシ”こと鈴木明義さんは、根っからのジャズファンであり、サックスプレイヤーである。
彼は愛知県豊川市生まれ。高校時代にフュージョンにはまり、愛知大学(法学部)に入ってからはジャズ研究会に入り浸って人生を踏みはずし?て、女性と秋田へ。そこでジャズライブハウス「キャット・ウォーク」にマネージャーとして16年勤め、ある時、ジャズも会話も同じ人間同士でのコミュニケーションの取り方の違い。そこに気付き、NTTに入社。2011年秋、盛岡勤務となった。ジョニーに現れては、僕に最大限の敬意を払い、ライブやセッションにテナーサックスを持って来て加わった。サックスが膨らむ程いい音を出せる人は中々居るものじゃないが、彼はそれを軽々とやってのける「怪物」だった。本物の音を間近で聴き体得の努力を惜しまなかったであろうことは一聴して判断出来た。プロにならなかったのは?彼が笑いながらいう「ノンポリシーだから」。 だから?か、自分のポリシーを貫き通してジャズに生きる穐吉敏子さんに、僕と同じ思いを抱く。「ステージが上の人。僕のなかには、日本人では居ない人。独特のアイディンティを確立した人。だれに対しても平等。私はこれであると表現し、自分の音楽で生きている人。考えている領域の広さが違う人。1950年代、アメリカにあこがれた日本人コンプレックスを克服した人。それであの“ロング・イエロー・ロード”(黄色い長い道)を聴くとジーンとする訳ですよ」とトシコ賛論。 その穐吉ツアーでの印象に残ったこぼれ話をひとつと、聞かせてくれたのが「穐吉さんの故郷・大分県に凱旋コンサートで行った時、日本三大八幡宮の宇佐神社に寄って、オーケストラ全員でお参りした。その時、玉砂利の上を歩く音がJAZZミュージックの様だと誰かが言ったら、すかさずベースマンが、「ここはUSA・GOD!!ジャズの神様がいるところ!」と(宇佐とアメリカ)を引っかけたシャレで皆を笑わせたという。ドンドハレ!さすがNTTコミュニケーションズ青森センター長のアキヨシさん!!聞かせますね!
11:44:00 -
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2022-06-10幸遊記NO.214 「チャーリー・パーカーのバードランド」2015.2.16.盛岡タイムス
今年から、ブルーバード・シルフィーのハンドルを握っている。コロナ・エクシブという中古車に10年乗って僕が16万キロ走ったら太陽燃え尽きコロナが出ず泣き別れした。どちらも初売りで買ったのだが、店も10年前と同じ。担当者の遠藤忠臣さんは「一時会社を辞めて、戻ってきたら、又、照井さんが僕から買ってくれて嬉しい」と泪目。盛岡ナンバー・1424。かつて四十四田ダム近くにあった僕のカレー店「1244」と重なった。
ブルーバードで浮かぶ曲は「青いカナリヤ」カナリヤで思い出す歌詞は「うたを忘れたカナリヤはー」で、頭の中には「奏家(カナリヤ)は唄を忘れず、歌手は奏者を忘れず!」とダジャレが浮かぶ。新宿のジャズスポット「J」(1978年開店)のバードマン・幸田さん(タモリの親友)は、いつもニコニコ。サックスも吹く、幸せな鳥男(バードマン)さん。 サックス吹きのバードマンと云えば「バード」と呼ばれたチャーリー・パーカー(1920~1955)。ディジー・ガレスビー(1917~1993)等と共にビバップ・スタイルのジャズを創出した第一人者。NY在住のジャズ・ピアニスト穐吉敏子さんによる「彼のアパートからサックスの音がしないのは、彼が留守の時だけだったそうですよ。それだけ猛烈に練習した人」との話を思い出す。その穐吉さんの「1980・in・陸前高田」のCDを昨2014年に僕が発売したら、バードマン・幸田さんが6月24日付「赤旗」日曜版に紹介記事を書き、開運橋のジョニーまで来てくれたこと等、とても嬉しかった。 チャーリー・パーカーが、何故“バード”と呼ばれる様になったかは、1940年、テキサス州へ車で公演に出でかけた時、一羽の鶏を轢いた。その時パーカーは両手で頭を押え金切声をあげ、引き返して鶏を拾い、包んでホテルに持参し、フライドチキンにして貰い、それを食べたという。以来、彼は“バード”とか“ヤード・バード(ニワトリ)”と呼ばれる様になり「ヤード・バード組曲」などバードにちなむ曲をいくつも作曲演奏した。1949年には「バードランド」というジャズクラブがNYにオープン。彼が亡くなる一週間前1955年3月にもそこに出演していた。そんな話をジャズ講座でしゃべったら、菊地章子(のりこ)さんが「それこそが命の尊厳というものですよ!」と言い、僕を含め皆を感心させた。
11:42:00 -
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2022-06-09幸遊記NO.213 「柿崎倫史のスムースバンプス」2015.2.10.盛岡タイムス
2002年12月、当時ダイエー(現・モスビル)で食材を買って店に戻ると、若い男がピアノを弾いていた。それが柿崎くんとの最初の出会い。彼は岩手大学の一年生だった。翌2003年フルアコと呼ばれるジャズギターを持って現れたのは、当時岩手高校に通う中村慎くん。
一緒にやってみたらと言って出来たのが、一番年下の慎くんをリーダーとする中村慎カルテット。中村慎(ギター)柿崎倫史(ともふみ・ピアノ)遠藤大作(エレキ・ベース)川口幸宏(ドラム)という十代後半のバンドが出来て、僕の店で毎月演奏して注目され、IBCラジオで特集され評判になったが、一身上の都合?で中村がバンドを退いてしまった為、ピアノの柿崎がベースの遠藤と岩大後輩の三ヶ田伸也(ドラム)でニューグループ「スムースバンプス」を結成。2004年9月26日の再スタートとなった。 このバンドのテーマは「ジャズ・スタンダード・ブック」にある全曲を、今月はA、来月はBで始まる曲を順繰りに演奏するという様に、毎月違う曲に挑戦するもので、トリオに時折サックスなどゲストプレイヤーを入れたりし、大学を卒業するまで続けた。2007年11月のライブには、密かに練習していたという、穐吉敏子さんの「ロング・イエロー・ロード」を演奏して、僕を泣かせもした。 卒業後数年間、僕が薦めた東京の小さなレコード会社に務め、会社を軌道に乗せてから離職し、岩手で音楽教師になりたいと戻った。岩泉中学で臨時教員としてスタート。本採用で宮古一中の予定だったがあの大津波。結局実家に近い、盛岡市の黒石野中学で音楽を教えることになって丸4年。「今年2015年3月、初めて丸3年教えた150名の卒業生を出すのです」と、くりくりした目を輝かせて僕を見た。 大学時代のジャズの生演奏。その後のレコード会社での様々な経験が「教える時に自分の背中を見せれる音楽人として、生徒をいざなうことが出来る。先生が憧れていることに、生徒をあこがれさせれば、引っ張らずとも、自分で歩き出し、伸びてゆく。だから音楽をよく聴きなさい。好きな音楽を持ちなさい」と、生徒たちに言い聞かせているのだという。僕の店の立派な卒業生なのでした。おめでとう!.
11:39:00 -
johnny -
2022-06-08幸遊記NO.212 「大場冨生のジャズ版画」2015.2.2.盛岡タイムス
「メモリーズ・オブ・ユー」というタイトルをつけた木版画のカレンダー・2015年度版を持参してくれた、版画家の大場富生さん(66)。1月の絵は11コマからなるマンガの様な酒とバラの音楽シーンを盛り込んだ作品、これは1981年の岩手芸術祭版画部門で奨励賞を貰った初出品作(以後連続出品)。10年後の91年に同祭大賞を受賞。
初で思い出すのは、僕の唯一つの小説「瑠璃色の夜明け」の表紙に彼の作品を使わせて貰った事。あれからすでに20年。年月の過ぎ去ることの早さに驚かされる。あの一冊で、僕は2013年に出版された「東北近代文学事典」に当選?して、名前が載った。ありがとうお蔭様。2003年穐吉敏子ジャズオーケストラの日本ツアーポスターもでした。 大場富生さんの版画は一見して彼の作品と分かる印象深さがあることから、幾人もの方達が彼に名刺を作って貰っている人気ぶり。1996年「賢治のトランク」(河出書房新社)、2002年「夕焼けこやけでジャズが鳴る」(函館工藤)、2013年「果てもない旅」(晶文社)と三冊の出版。そういえば、僕の店に飾ってある盛岡の観光ポスター(3部作)は、2004年「日本都道府県観光ポスターコンクール」(国土交通省)で「金賞」を受賞したものでした。 大場冨生(本名・富生)1949年、盛岡仁王新町生まれ。盛岡四高卒後上京。マンガ「空手バカ一代」のモデル大山倍達にあこがれ、当時流行ってたキックボクサーになったが、網膜剥離により引退した。そこでボクサー一辺倒だったことに気がつき、師が言っていた「文武両道。絵を描いたりすることも大事だよ」の言葉を想い起こし「もう一つの格闘技」絵や版画を始めたのでした。「展示会場は四角いリング。ボクシングをやる気持ちで、これしかない!と、自分で自分を律して挑む。時には人格さえ変えて人前に出るのだ」とも。 そんな彼の心の置き処は音楽。47才からトランペットを吹き、ギターを弾き語ってみて、その表現の深みにはまり猛練習。最近は個展会場でライブも行う「唄う作家」の異名を持つ。時折僕も彼にギターを持たせて店で唄ってもらうことがある。居合わせた人は、彼独特の、ちょっと黄昏た男の哀愁感が漂う版画の様な音楽と歌に、皆魅せられてしまうのだ。
11:37:00 -
johnny -
2022-06-07幸遊記NO.211 「岩間正男のカワトク・レリーフ」2015.1.26.盛岡タイムス
盛岡城跡公園(岩手公園)下の岩手教育会館が今年の夏、解体されるという記事を見て頭に浮かんだのは、1992年に陸前高田でジャズ喫茶をやっていた僕が、ニューヨークの穐吉敏子ジャズオーケストラを教育会館に呼んだ日のことと、昔日の同会館ホールロビーのまるでオーロラの下で、七夕の日に天の川を見る様な短冊群に心奪われたことの二つだった。
そしてもう一つ美しかったものが消えていることを想い出しました。それは、パルクアベニュー・カワトクの正面入口から空に向かって飛んでいた、あの色とりどりのとりたち。その群れなす姿の美しかったことは今もしっかりと頭の中にある。あのレリーフを制作したのは、画家でもある造形作家・岩間正男さん(1926~2013)だった。 彼は大槌町出身で、武蔵野美術学校(現・同美大)卒で新象作家協会創立に参画した人。アメリカやメキシコでの活動を経て帰国後、学校、図書館、市民会館、デパートなど、公共建築物を中心に石や金属、陶板などによる外壁を含めた空間装飾を多数手掛けた。「絵から造形へと発展していった自分の表現が、仏教の自然四大原則“地・水・火・風”に、自分が自然とそれに向かっていたということに気がついた。それで今は意識的にやっている」。そう言っていた彼。 絵を描き仕事とすることになった原因は「1945年(昭和20)10月5日海岸の上から見た松林が灰色の螺旋の様に見えてビックリしたこと。自然が持っている不思議な力、その偉大さに感動したことからだった」。アメリカからの帰国後仕事もなく収入がなかった時、奥様が仕事に出て、そのお金で彼の絵を買い上げ、彼にお金を渡す。そのお金を今度はこれで生活せい!と言って返す。(まるでゴッホのようだと思った僕)そんな時代もあったのだと話してくれたのは1988年。まだ新幹線が上野発だった頃、上野駅で偶然お会いして、お酒と食事を御馳走になったこともあった。 「鉄の作品の場合腐食するだろうから、残すかどうかは大事だと思うかどうかだからね」は彼の言葉。川徳は2004年1月末、その飛ぶ鳥たちを落としたけれど、一階軒下に羽を広げる黒鳥たち240羽は、今も生息し黒字?に導き続けている。
11:36:00 -
johnny -
2022-06-06幸遊記.NO210 「佐々木貴の幸せジャズソング」2015.1.19.盛岡タイムス
時折、開運橋のジョニーに顔を見せては、ニコニコとビールを飲んでくれる久慈市の佐々木貴さん(54)が、先日、たまたま居合わせた玉澤裕子さんのピアノで、夜が美しい調べのように語りかける「マイ・フィーリッシュ・ハート」を唄い、僕は彼に呼びかけられた様な気になり話を聞いた。
彼は北上の黒沢尻高校時代に吹奏楽でアルトサックスを吹き、店で見つけたアルトサックスを持った外人(アートペッパー・1925~1982)のレコードを買って聴いたのがジャズとの出合いだった。東洋大学国文科に進学してからも、フュージョンのサークルにまぜてもらい、当時全盛だった渡辺貞夫さんのコピーをしたりしていたという。それこそ、アートペッパーに関しては、最後の日本公演(1981)も東京で聴いたと誇らしげだった。 野田、山形、大野、普代、夏井、宇部中で教え夏井一中時代、出向で日教組執行員として上京。臨時教員の待遇の改善、非常勤の常勤化などを訴えに文科省に言いに行く役を荷負っていた時に震災が起きたのだったという。秋田経由で久慈に物資を運んでいた時、開運橋のジョニーで飲んだ酔仙の酒(最後の一本)の記憶は消えずに今もあるという。 久慈のアマチュアビックバンド「ブルー・ノーツ」には、彼氏も奥さんも娘さんも参加していた程の音楽一家。今彼は連合岩手の県北地域協議会で岩手教職員組合九戸支部に所属しながら協議会議長を務め、最低賃金の底上げ、非正規労働の賃金上げ、労働条件の改善、正社員化への要望、条件などの取り組みに頑張っている様子。 学校の子供達には「正しいこと、間違っていること、それをちゃんと見抜く人になってほしい。そのために、いろんな勉強があるのだから!」という想い。2001年10月24日、久慈市民会館で穐吉敏子さんのジャズピアノを聴いた小学生の娘・道子さんは今、大学で哲学を学び「中古レコード店で、ジャズを掘り出しはじめたので話が弾む!」と、父親の貴さん。娘さんのリクエストに応じて、自分のLPレコードをせっせとCD化して送っていることなど、嬉しそうに顔をほこらばせながら、幸せな話を僕にしてくれました。
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johnny -
2022-06-05幸遊記NO.209 「青木明のスポーツオーディオ」2015.1.12.盛岡タイムス
忘れられない音というものがある。昭和40年代、とある一流オーディオメーカーの仙台支店に勤めていた方(名前失念)の住居に招かれ、聴かせてもらったレコードの音。あの時の音が瞬時にして甦った音に出会って驚いたのは昨、2014年10月、東京は板橋のスポーツ店でだった。
「穐吉敏子・1980・IN・陸前高田」のCDを、都内全ジャズ喫茶を巡りながら、販売も頼んでいた成田隆さんが「照井さんに是非会わせたいオーディオ好きの人が居る」と言って上京の折りに、成田さん夫妻が僕を連れて行った先がそこだった。店の奥脇から通された所はオーディオルーム、一部屋ぎっしりオーディオだらけ。EMT、ガラード、マッキントッシュ、マークレビンソン、などなど一流ブランドのヴィンテージものの名機と、数多くのカートリッジ群。使われていたスピーカーは何と40数年前に聴いて、いまだ忘れずにいた音の、ゴトウ・ユニット。それにアルテックウーハーをプラスしたもので演奏家達がそこに実在するかの如き響を伝えてくれる、実に心地のいい音なのだった。ホーンの鳴きをアスファルトで消した4ウェイマルチシステム。アナログレコード、プレイヤーやカードリッジを次々取り替えては、様々なジャズを聴かせてくれる、極上のひとときを過しながら、心に残っている音というものの確かさをあらためて実感させられた。話を聞けばもう40年以上も使っているという。 店の名は有限会社アオキスポーツ。店主は彼青木明さん(70)。皇室御用達の馬具店として明治期に創業した「青木馬具店」が前身。満州から引き揚げて来た父が「これからは馬具だけではダメ」と銀座でスポーツ店を営んでいた叔父のアドバイスで始めたスポーツ店。明さん30才の時、その父に「これからはお前がやれ」言われて以来「自我をを出さず、お客様の言葉に耳を傾け、客観的立場で接して来たことから今日がある」のだとも。父の仕事の仕方(球友会、山岳連盟、ハイキングクラブ、テニス協会などを立ち上げて事業を軌道に乗せた)を尊敬しつつ、母のやっていたタバコ屋も引き継いでタバコとスポーツを融合させたユニークな店として知られている様子。ご自身は休日の自転車、毎日犬との散歩が体のスポーツ。その愛犬と一緒に聴くオーディオと音楽は彼の心のスポーツなのでした。
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johnny -
2022-06-04幸遊記NO.208 「村田林蔵の日本画暦」2015.1.5.盛岡タイムス
2015年の、素敵な絵画カレンダーを二人の画家から頂いた。一つは岩手の山を中心にしたブナの巨木を描き続けている兵庫県芦屋市の画家・伊東美砂代さん(幸遊記№96・2012年11月5日付で紹介)の新作「涼音」ブナの森を2014年12月29日、ご主人の真人さんと一緒に持参してくれました。ブナを見上げる美砂代さん独自の構図が生命感に溢れている2ヶ月毎のもの。
もう一つは岩手出身の日本画家・村田林蔵さん(60)の「季(とき)へのいざない」。12月に盛岡川徳ギャラリーで行われた個展の最終日にやっとすべり込んだら、プレゼントされ、いつか僕の書とコラボレーションしたいとも言ってくれました。有難う!。林蔵さんは昨2014年6月~7月、岩手町石神の丘美術館でご夫妻による「村田林蔵・山田宏子・日本画二人展」を開催。数千人もの人が訪れた程の、本当に素晴らしい企画展でした。 開催期間中も終了後も川徳展の時も、盛岡市立高校時代の同級生や友人達と連れ立って、開運橋のジョニーにやって来ては、話に花を咲かせてくれたのも嬉しかった。そして石神の丘で林蔵さんのお母さん・村田マサさんに偶然お会いし、ひとときいろんなお話しを聞かせて頂けたことも幸運でした。マサさんは繭(まゆ)雛や、繭こけし、無事来身(くるみ)などで知られる盛岡三ッ割の「村田民芸工房」の女主人。後日、林蔵さんが描いた陸前高田の一本松の絵ハガキで「初対面ですのに長いお付合いの様に親しくお話が出来ました。美を通じて御縁が出来ました事、本当に有難う。嬉しく感謝いたしております、、、、」と、届いた。 村田林蔵さんは1954年大迫町(花巻市)生まれ。東京芸術大学日本画科卒。在学中、日本画の最高峰故・平山郁夫氏(1930~2009)に学んだ人で、1990年、第45回院展に「地」で初入選、97年奈良橘寺(聖徳太子生誕の寺)の天井画。99年東京芝・増上寺の格天井絵。00年院展入選作を外務省が買い上げ。同年、平泉・中尊寺金色堂の切手画、などなど、今では日本を代表する日本画家の一人に数えられる、岩手が誇る芸術家(神奈川県在住)。 見る人に音楽が聴こえる様にと描く、林の美しさや山雲水面に映る心の情景。牛の目に広がる深い宇宙。そして花鳥風月の円形画に至っては、僕の実家の座敷に描かれている、百枚の格天井画を想い出させてもくれました。ありがとう!
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johnny -
2022-06-03幸遊記NO.207 「心の通う歌謡の数々」2014.12.29.盛岡タイムス
釜石オリジナル歌謡同好会(長柴政義会長)が12月25日に「ホテル・シーガリアマリン」に、同市内4つの仮設住宅に住む、東日本大震災の被災者120名をバスで無料招待して、行った記念講演と年忘れ歌謡コンサートに、僕も来賓として招かれ夫婦で行って来た。
被災者達に、震災復旧復興事業の進行状況について話をした野田武則・釜石市長。三陸鉄道の全線開通とJR山田線の三鉄編入について語った三鉄社長の望月正彦氏。中心市街地の復旧復興について住民側から、みなとかまいし地区会議議長・高橋松一氏の意見的なお話。2部では、釜石オリジナル歌謡同好会からオリジナル曲でデビューした人や、持ち歌にしている歌手達、梅原初夫 / マッシュ / 吉田守 / 瀬戸小太郎 / 佐々木智明 / 小松清一 / 井上るみ子さんらが次々とステージに登場し、自慢のノドで4半世紀にも及ぶ創作歌謡の一端を、会場を埋めた200名に披露。それは地産地翔の夢と希望と安らぎの為に大切な「心の復興支援」の実施なのでした。 特にも吉田守の「橋野川残照」(藤原清明・作詞 / 大橋博・作曲)。佐々木智明の「さらば高炉よ」(ながしば・まさよし・作詞 / 坂野のぼる・作曲)。井上るみ子の「おんな北海流れ節」(飛鳥井芳朗・作詞 / 坂野のぼる・作曲)は、心に沁みました。三陸釜石・自然と歴史と文化の伝承を掲げ、それこそ我国初の鉄づくりを行った釜石の「橋野高炉跡」を世界遺産に!と「夢高炉」曲で登録への応援を市民レベルでする熱さ。 釜石!で、すぐ思い浮かぶのは、1972年にあんべ光俊らが結成した「飛行船」の「しょうよう歌」や「遠野物語」。それに民謡から歌謡歌手になった佳川ヨコ(本名・佐々木ヨコ)が故・水原弘と競った「君こそわが命」や「銀座のマリア」だ。まもなく大晦日、第65回NHK紅白歌合戦である。今年雫石町民栄誉賞を受賞した福田こうへいは2回目の出場。岩手出身者としては、及川三千代「愛と死のかたみ」(1962)、千昌夫「星影のワルツ」(1968)、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」(1970)、新沼謙治「嫁に来ないか」(1976)の初出場に次ぐ5人目の福田こうへい「南部蝉しぐれ」(2013)。余談だが福田も及川も民謡の出身者であり「雫石音頭」は及川三千代の吹込(1970)だった。
11:29:00 -
johnny -
2022-06-02幸遊記NO.206 「玉山秀之のレイ・チャールズ」2014.12.22.盛岡タイムス
岩手奥州胆沢のシンガー兼ピアニストのタマ・チャールズこと玉山秀之さんが、公演先の神奈川県で亡くなったのは、2010年11月23日58才だった。年月は早く過ぎ去り、すでに丸4年がたった。
僕がタマさんに初めて会ったのは、何十年前だったかな?東京で流行ってた“イカ天”をもじった“イワ天”というアマチュアバンドのTV勝抜き合戦。それをIBCが企画・放送したもので、TVに出て演奏する二つのバンドにコメントや甲乙をつけて、演奏終了後すぐに県内各地の審査員が局にFAXし、それを放送中に集計し勝負を決め、何週か後の決勝戦はスタジオでの生演奏を審査する番組。その審査員の一人が僕であり、タマさんだった。 彼は中学からギターにのめり込み高卒後の70年代から80年代にかけては、コンテスト荒し男と称された程、様々な賞を勝ち取り、世界歌謡祭に彼の「LIVING・ON」がノミネートされるなど、高い評価を得たりした。でもタマさん本人にとって真の転機となったのは、1980年代の末に来日した、盲目のピアニスト兼歌手のレイ・チャールズ(1930~2004)の公演を聴き、すっかり魅了され「愛さずにはいられない」状態になってしまったことからだった。僕もそのステージを見聴きした一人。今、鮮烈に思い出せるのは高校生時代に見たレイの主演映画「星空」のいくつかのシーンだ。 それはともかく彼はそれ以来ギターからピアノに転向した。レイ・チャールズの歌唱、身のこなし、髪型、服装、メガネ、歩き方まで全てを研究、そして遂に「タマ・チャールズ」を名乗るに至ったのでした。2001年から開運橋のジョニーにも幾度となく出演したが、忘れられないのは、不況で沈滞している東北に活!ふるさとに活!ついでに自分にも勝!と自作曲「東北6県ロール」と「縄文」曲CDの発表だった!。 東北を中心に北海道から九州までステージの声がかかる程のエンターテイメント「音楽は永遠のチャレンジである」は彼の名言。「歌は僕の命なのだ。音楽はすべて真面目に心から演奏されたものでなければならない。クラシックだってジャズだって、ポピュラーだってその点に変わりはないさ」とは先立ったレイ・チャールズの言葉である。二人は今、あの星空でサングラスをしながら夢のデュエットをしていることだろう!
11:27:00 -
johnny -
2022-06-01幸遊記NO.205 「佐々木勉の鐙庵南部絵馬」2014.12.15.盛岡タイムス
まもなく午(うま)年だった2014年(平成26)が終る。僕は今年正月、ずっとずーっと御無沙汰していた年賀状(念願状)をやっと出しました。ハガキの裏面には馬の字の4つの点(足)を心に変えた絵文字の様な「まごころ」。久々に年賀状を書こうかと思ったのは、僕の店に飾ってあるレコードの様に丸い板に描かれている馬、そのお尻の上に止まった鳥が、仲良く馬と話をしてる様な、気持のいい絵馬を見ている時でした。これはきっと「馬の心得」(作者の心絵)なのだと感じた僕。
絵馬の作者は、「ささべん」さんこと、南部絵馬師・鐙庵(あぶみあん)つと無(佐々木勉)さん(1937~2009)、昔、家は馬鍛冶だったという紫波町の「権三ほーる」で開かれた絵馬展2006年5月に買い求めたものだった。“紫波町日詰郡山駅”そのホールの住所から「パカポコ、パカポコ、トンテンカン、トンテンカン、紫波・暮れなずむ頃、蹄(ひづめ)の町は人と行李(こうり)の山になる」ダジャレの様な詩が僕の頭の中に浮かんだ。 後にも先にも佐々木さんと出会ってお話しをしたのはあの時一度っきりしかなかったけれど、おだやかに、少し茶目っ気のありそうな感じで、家庭の話をしてくれたっけ。そういえば昔、彼の友だった詩人の故・宮静枝さん(1910~2006)が何かに書いていた彼とのエピソードが面白かった。 ささべん「宮センセ!何だい、見ぬ振りして!。」宮センセ「すれちがい、先に声かけた方が負けよ!。」ささべん「20才ぐらいの美しい娘っこ3人来たと思ったら宮センセだったもんな!。」宮センセ「やっぱり私の負けだった(私の歳を3等分した)」と。 「お金というものは受け取るとすぐお足になって飛んで行ってしまう、ありゃ、おはねというべきだ!」そう言った勉さん。確かに彼の絵馬はハネて行くが、年の始めの正月、盛岡市神子田の嶋岡商店ギャラリーでみた「鐙庵つと無」さんの作品展でおハネにダク点つければバネになると思い、来年1月同店で僕は昨年出版した本「かつし」(横澤かつし詩・照井顕・書、写真)にちなんだ「“かつし”と“けん”のひつじ(筆事)展」を開かせてもらうことになりました!つとむさん、ありがとう。
11:25:00 -
johnny -
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