盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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2022-05-31

幸遊記NO.204 「飯田久美子のダブル・スインギン」2014.12.8.盛岡タイムス

 ジャズボーカリスト・飯田久美子さんの歌声を初めて聴いたのは、飯田ファンで熱烈な後援者でもある江戸ペン屋・中村寛昭さんからプレゼントされた彼女のデビュー作「マンハッタン・スイング」でだった。それはニューヨーク・マンハッタンの名門・アバタースタジオで2010年5月に、ジャズピアニスト・ジュニアマンス(1928年生まれ)と共演したCD。すでに魅力的な個性に溢れていた。
 「ファンタスティック・スインギン、全ての面でグレートな歌手」と飯田さんを評したそのジュニアマンスの伴奏を聴きながら、僕は1983年10月に気仙沼市民会館で聴いた、彼のトリオによるコンサートの光景や音が、ふと頭に浮かんだ。
 昨今満開状態のボーカル界だが飯田さんは子供の頃からピアノやバレエを習い、聖歌隊、合唱団、ミュージカルを経て、かつては幻のジャズボーカリストと呼ばれ、40才でレコードデビューしブルージーと絶賛された、日本最高のジャズ歌手・沢田靖司氏(1939・昭和14年生まれ)に師事し、習練と研鑚を積んでのデビューだった。「敬虔な心で音楽と向き合い、自分の可能性を信じて、努力を惜しまず前進して行きたい。愛と感謝を込めて」そうデビューアルバムにサインをしていた彼女。
 昨2013年東京で本人と出合い、その気さくな人柄に心惹かれ、僕の店「開運橋のジョニー」にも出演して貰った。その時のステージマナー、初顔のピアニスト・藤原建夫さんとのコミュニケーションのとり方、そして何よりの歌、すっかり気に入ってしまった僕は9月の第1日曜に開催している「第8回岩手あづまね山麓・オータムジャズ祭」で武藤晶子ピアノトリオで唄って頂いた。そのステージ衣装は盛岡・開運橋のジョニー前ブティックで買ったのだが、その時自分のCDもそこの店に買って貰った程のプロ根性の持ち主。しかし本人はいたって自然で上品で、しかも美しいのだ。
 往復3時間、週1欠かさず10年間レッスンを受けてのデビュー。ドイツやスペインのステージに立ち、今年は師・沢田靖司さんをゲストに迎えて、市川秀男トリオと録音。そして、第7回澤村美司子音楽賞「特別奨励賞」。第30回日本ジャズボーカル賞「新人賞」をW受賞したのです。おめでとう!おめでとう!
11:23:00 - johnny -

2022-05-30

幸遊記NO.203 「近藤克人のWAZZ総研」2014.12.1.盛岡タイムス

 昨年、今年と、開運橋のジョニーに現れた千葉県柏市在住の近藤克人さん(51才・一橋大学社会学部卒・富士通入社、米国タフツ大学に学びマスターオブアーツを取得して卒業、現・産業翻訳者)から全国47都道府県のジャズ喫茶、その存在の仕方、各地のジャズ祭やコンサート、ストリート、人間性や、音楽資源まで、体感体験した途中経過報告書の様な資料や文章「WAZZ総研」が僕の元に届けられた。
 「日本ジャズの地域差」を探りたいと思ったのは神戸のジャズ屋の集合具合。入った店の雰囲気が東京と違うと感じたことからの始まり。「西と東の分かれ方、ならば東北は?九州は?沖縄は?プレイヤーの南北の違い、米国と日本のアドリブ(即興演奏)の違い、その原因は何か?仮に話す様に吹くことがサックスのアドリブの理想であるならば、地域によって話の速度、抑揚の違い、すなわち言語的な地域差異へとジャズ演奏が収斂(しゅうれん)していくのではないか」との彼の仮説の実証見聞録なのであった。
 広島の「筆の里」博物館で、「日本人が文学を書く上で筆が重要な役割を果たしていることを学び、絵や化粧の道具として世界に輸出されていることから“アメリカのジャズは中国の漢字に相当する”」に至った。「遣唐使が学び日本に伝わった漢字。貴族の漢字による公式文書、漢文を読みやすくするため僧侶が作ったカタカナ。宮廷女流貴族が作ったひらがな。その過程で日本人はある発明をする。それが“訓読み”だった。そこで私には一挙にある考えが降りてきた。縄文・和歌山(カタカナ)、書、文学、ジャズ、インプロ(即興)全てが一つのことを教えてくれていた」。
 彼は「それまでの苦労や人生の躓(つまずき)などは、その時瞬間に全て報われた」と感じたらしい。そして「自分の中で考えていた音楽も頭の中で完成した」とある。彼は僕の店に来る前、岩手県立図書館で“縄文ジャズ物語”を読んで来た(昔僕が書いた本)。「あの小説の中には自分の考え求めていたものがあった」と言い、ピアノで自分がアレンジした「君が代ブルース」を弾いてくれた。手紙には「“君が代”と“さくら”の2曲でジャズが実は邪頭として日本人が生み出せた(出していた)可能性があったことを音楽的に気付かせることは可能」と、あった。さすがWAZZ創(総)研者!
11:22:00 - johnny -

2022-05-29

幸遊記NO.202 「安田信治の七戸國夫さん」2014.11.24.盛岡タイムス

 秋になると、毎年僕の店に現れる安田信治さん(55)は、今年もやって来て、ビールを飲みながら色んな話をし、ギターも弾いてくれた。振り返ってみれば彼とはもう20年になる。1994年に交通事故でこの世を去った盛岡一高出身の名ギタリスト・七戸國夫さん(1947~1994)の愛弟子。彼が七戸さんに出会ったのは20才の頃で、上京して横浜に住んでいた時だ。商店街の2階にギター教室の看板を見つけたのが、きっかけ。高校時代、自分で詩を書き、友達とグループを作って、フォークソングを歌い、コンテストに応募までしていた程、ギターの大好きな青年だった。
本格的にギターを習ってみたいと入門し、毎週日曜日一度も欠かさず5年間通い続けた彼。「七戸さんの教え方は、普通の形通りではなく、音楽的なことを、いきなり深いところから教える人で、形のきれいさ、無駄の無い運指、そこから更に削る音の美しさ、そこにいかないと(到達しないと)解からないことは、酒飲みましょうか?って話もしてくれた。厳しいのに優しく弾く師匠でした」と彼。
 仕事の関係から5年間のブランクののち、30才で再度七戸さん頼んで、習いはじめ2年した頃の事故死だった。その後、七戸さんの奥様・百合子さんから、七戸さんのギター研究所を任せられ、以来15年余り、教える側に立ってきた彼。「生徒さん達に、時折、七戸さんから教わったようにしゃべりながら教えている自分に、ビックリすることがある」と言ってテレ笑いした。「音を大事にして弾く、それは相当大事なこと。子供から学生、ご婦人、先輩と、生徒も様々だが“下手でも、演奏家になれ”と言われた師のことばを胸に、優しく教えている」のだという安田さん。
 平日は昼からパートで車のタイヤ屋に。土日は競馬のJRAに勤め丸25年。昔やってた庭師の仕事も時折頼まれる、そんな忙しさのなか「見えない帯力をしていた七戸さん」の、その気骨を受け継ぎアンドレス・セゴビア(1893~1987)、ナルシソ・イエペス(1927~1997)と並ぶ世界三大ギタリストのジョン・ウィリアムス(1932~)が使っていた名器・グレッグスモールマン(七戸さん愛用遺品)を弾き継いでいる。
11:18:00 - johnny -

2022-05-28

幸遊記NO.201 「喜多野尚のルークレコーズ」2014.11.17.盛岡タイムス

 僕が盛岡にジャズ・スポット・陸前高田ジョニーの名で店を始めた頃から、盛岡城跡(岩手)公園前のサンビルで年に1、2度、全国各地の業者が集まって開かれている、中古レコード市。そこに出店の度に僕の店に顔を出してくれるのは、三重県四日市市で「ROOK・RECORS」を経営する喜多野尚さん(57)。
 今年2014年9月彼が現れた時、丁度、歌手で作家の新井満さんから、本やCD、絵葉書などが「いずれ又、そのうちに」のコメントと一緒に届いた時だったので、新井さんが店に来てくれたと話したら、翌日には新井さんが1976年に録音したアルバム「アルファベット・アベニー」を持参して僕にプレゼントしてくれたのです。あぁ、ありがとう。
 話を聞けば、喜多野さんは、愛知学院大学時代、四日市の「サボイ」というジャズ喫茶でバイトをしながら、中古のオリジナル盤を探し買いした程のレコード好き。大学を卒業しても3年間そこで働き、独立して念願のレコード屋を始めたのは昭和63年(1988)。その頃、ジャズ日本列島(61年度版)本で読んだ「ジョニー」の欄「レコードは売る程あります」(制作して、売っていた)事や70~80年代にかけて、ジャズはアメリカが本場で、日本人のは下に見られてた。そんな中で日本人だけでやり続けていたその敷居の高さを、僕は認識していました。その店へ実際に来て話するなんて思ってなかったですから、商売は有難い。」「そういえば、いつかジョニーが穐吉さんのレコードは俺が持ってなきゃだめなんだよと言ってたことあったけど、そういう人の所にあるべきものが、レコードなんだと思う。そういう次の人に渡す仲介屋が僕等。業界も今は配信の時代で昔程は売れないが、レコードを買う人にとっては、いい時代だと思います」と喜多野さん。今どき、アイフォンどころかケイタイすら持たぬ、その強い信念に僕も心惹かれる。
 新井満さんが贈ってくれた本、「希望の木」(陸前高田の一本松の写真詩集)を見ながら、かたわらの元ユースホステルで僕が唄った昔のことなどを思い浮かべ、喜多野さんからのレコードを聴く「立ち止まってみても知る人は亡い、振り返ってみても影も見えない、、、、」(何処へ・新井満・作詞・作曲)。レプリカとなった希望の木を今人々は見上げている。
11:14:00 - johnny -

2022-05-27

幸遊記NO.200 「石川恵美子の福井参郎賛!」2014.11.11.盛岡タイムス

 東京で穐吉敏子さんのCDを買って下さったファンに、彼女がサインをする間、僕が横に立ち、その手伝いをしていた時だった。穐吉さんと同年代の御婦人が、様々な資料を広げながら、息せき切って穐吉さんに話かけ始めた。その中、一枚の古い新聞記事に僕の目が止まった。「わが家この味・中国がゆ」の見出しの横に九販石油社長・福井参郎(さぶろう)」の名。
 僕はあわてて、主催の係長(管野)さんを大声で呼び、すぐ事務所でコピーを取ってくれる様お願いした。記事を持参した方の電話番号を聞き走り書きし、後日福井さんのお話を聞かせて頂き、彼女に昔の職業を聞いたら、昭和37年から57年(1962~82)まで、20年間、別府の中心街・本町で「エトワール」という喫茶店を開いていたと言うのだった。
 御婦人の名は石川恵美子さん、昭和7年(1932)名古屋生まれ。戦時中の疎開で大分県別府へ。そこで知り合った近所の方が福井参郎さん(1923~2010)で、彼女が昭和58年に板橋に上京してからも、電話をくれた親友だった。
 穐(秋)吉敏子さんが16才で別府の鶴見ダンスホールでピアノを弾き始めて間もなくの1946年、「君はジャズピアニストになる才能がありますよ。勉強してみてはどうですか?」と穐吉さんに声を掛け、自宅に招き78回転のSPで、テディ・ウィルソンの「スイート・ロレイン」を聴かせた方が福井参郎さん。「そのレコード演奏が私とジャズの出会い」と穐吉さんが今もステージで話すほど、彼女がジャズに開眼した原点。のちにそのSP盤を福井さんが穐吉さんにプレゼント。それは今もNYの自宅にあると穐吉さん。
 そこから60年後の2006年3月、別府の公会堂で穐吉敏子(カルテット)が彼に捧げた初演の「スイート・ロレイン」を感無量で聴いた福井さん。その打ち上げの席で僕も感激しながら福井さんと記念撮影。なにしろ彼は穐吉さんが別府から福岡に仕事場を移した時、ジャズの教則本・ヴィンセントロペス著を贈ったら、一週間もしないうちに全て書き写したことを知らされ「これは頼もしい!将来が楽しみ!」とビックリしたし嬉しくも思ったと言う。穐吉さん自身も「それに時間を忘れる程熱中し、その時初めて“スイング感”を体中で感じとれる様になった気がしたもの」という。そうだ!石コロの川は水の流れもスイングする。
10:29:00 - johnny -

2022-05-26

幸遊記NO.199 「坂本健の板橋センス!」2014.11.4.盛岡タイムス

 東京都板橋区・成増アクトホール。10月14日(2014)この日がジャズピアニスト・穐吉敏子さん(85)と娘さん、歌手・フルート奏者のマンデイ満ちるさん(51)が、親子二人だけでの初めての日本公演初日。何と穐吉さんの代表曲「黄色い長い道(ロング・イエロー・ロード)」に半世紀余りを経て、マンデイさんが詞を書き歌ったので、僕はとても驚いた。
 話を遡(さかのぼ)ると、むかし、まだ学生だった、坂本健(現55才)さんという一人の学生が、陸前高田にあった「ジャズ日本列島唯一・日本ジャズ専門店のジョニー」を訪れていた。そのせいかは別として、彼は東日本大震災後、岩手、気仙地区(大船渡・陸前高田)を応援しようと決めたらしい。2012年9月、彼等御一行が、開運橋のジョニーに穐吉さんの夫、ルー・タバキンさんの国際トリオのライブを聴きに来て、「東京では考えられない、素晴らしい演奏光景でした」そう言って僕に差し出した名刺は「東京都板橋区長・坂本健」。
 更に今年5月31日、僕の店で育ったジャズ歌手・金本麻里を都内の「アデロンダック・カフェ」に立たせて貰った時、区長夫妻御一行も現れて、笑み浮かべ席に着くと胸内ポケットから取り出したのは、僕が送っていた案内状だった。飲みながら秋に来る穐吉・マンデイ満ちるの話をしたら、嬉しそうに、翌日にはホールを探してくれたのでした。
 主催は板橋文化国際交流財団。丁度TV東京が「ソロモン流」という番組で穐吉敏子さんを特集したことも重なり、チケットはあっという間に完売した。当日開演前や休息時間には、穐吉さんのワイン好きにあやかり、岩手のワインと葡萄ジュースを、来場者全員に飲んで貰うことになり、岩手県の出先機関・東京の銀河プラザ所長・坂本正樹(36)さん(元・野村胡堂あらえびす記念館の事務局長・坂本安法(66)さんの次男)に電話し、大迫のワインと紫波の葡萄ジュースを500人分用意してもらったのでした。そのおいしさには皆さんが感激していました。
 打ち上げは、池袋サンシャイン60の59階特別室。穐吉さん、マンデイさん、区長御夫妻と区の魅力発信課長、文化財団理事長、係長等14人での会食。そこで区長が穐吉さん、マンデイさん、そして僕にまで区制施行80周年記念の区の鳥花木のロゴ入り扇子を贈呈するセンスの良さに感服!カンパイ!。後日、額入りのステージ写真が3人分届いた。
10:27:00 - johnny -

2022-05-25

幸遊記NO.198 「加藤アオイの葵繭(あおいまゆ)」2014.10.27.盛岡タイムス

 伝統ある日本最大級のジャズ祭「ヨコハマ・ジャズ・プロムナード・2014」そのプロデューサー・柴田浩一さんからの招待を受け夫婦で行って来た。そのメイン会場だった、横浜「みなとみらいホール」ロビーで、偶然に出会ったのは、出演者でジャズ歌手兼ピアニストの加藤アオイ・真由さん親子だった。
 加藤アオイさん(62)が初めて、僕(ジョニー)に電話や手紙をくれたのはもう20年も前。誰かの紹介だった。以来時折の手紙や、彼女の活動を知らせる通信が絶えることなく今日に至っています。そのまめさに、応えなくてはと思い、初めて彼女のライブを開催したのは、10年近くも経過した、2003年のことでした。
 その時、僕は彼女の唄もさることながら、気に入ったのは、歌のあい間のアドリブ演奏とその音の素晴らしさにだった。それが、頭の中に残った。6年後の2009年1月24日、「開運橋のジョニー」でライブを演り、翌25日、北上市のさくらホールで、あの美しいピアノ、ファツ・オーリを使用して、彼女の弾き語り。そして彼女の娘・真由さんとのデュエットを録音した。
 アオイさんの本名である「葵」と、娘さんの真由の名を「繭」にしたタイトル、「葵繭」(AOI・MAYU)として、僕のレーベル・ジョニーズ・ディスクより、東京のレコード会社、ウルトラ・ヴァイヴを通じてCDを全国発売。彼女たちのコンサートやライブ会場での手売りも又、頭が下がる程、まめで今だに一生懸命なのである。
 僕等が9月の第一日曜日に開催している「オータムジャズ祭・イン・紫波ビューガーデン」にも何度か出演して頂いたが、久し振りに来年のジャズ祭にお願いします!と言うので、OKして、みなとみらいホールで彼女の「ワークソング」をじっくりと聴いた。
 加藤アオイさんは1952年大阪生まれ。京都市立芸大ピアノ科卒。上京してフルバンドのピアニストとして、ジャズ界入り。79年渡米し、シカゴを中心にライブ活動。91年「モーヴ」を発表。96、99ヨーロッパツアー。ウイーンやドイツで好評を博した。娘とのデュオは、平成8年8月から。その同質の声によるハーモニーが、なんとも魅力的!。
10:25:00 - johnny -

2022-05-24

幸遊記NO.197 「開運橋からの手紙」2014.10.20.盛岡タイムス

 拝啓、今年2014年も、例年の様に芸術の秋になりました。盛岡タイムスをお読み下さっている皆様、又、新聞はとっていないけれども、月曜日だけは楽しみにしていますと、コンビニに走ってタイムスを買い、幸遊記を読んで下さっている僕のファン。そしてネットで読まれている全国の皆様の中にも、「幸遊記が載らない日の分を送ってくれないかなあ」というジョニーファン、その様々な声にはげまされ、僕の頭もだいぶ薄くなりましたが、皆様はお変わりなくお過ごしでしょうか。
 僕達の店「開運橋のジョニー」も昨年(2013年)の1月、開運橋通のリージェントビル地下から、開運橋際のテレビジョンのある宮田ビル右隣のMKビル4Fに移転し、40年前1975年創業時の初心に帰り、本業のジャズ喫茶の姿に戻した「カフェ・ジャズ・開運橋のジョニー」と成りました。午後2時から夜半12時まで開店。店内禁煙と致しましたところ「えっ!ジャズ喫茶が禁煙!」とびっくりされたり、喜ばれたり、反応様々でしたが、店外(ベランダ)に喫煙所を設けており、これが又眺望が素晴らしいので、タバコも格別の味わいがあると好評です。
 12月になりますと開運橋がライトアップされ、クリスマスには川向いのホテル・ルイズや、駅西のマリオスビルに、窓の灯を利用したハートマークを灯してくださるサービスは感激的です。その二つのハートと駅前の北上川に架かる開運橋が美しく観える、数少ないスポットなのでもあります。
 現在の店は以前の「黒」から「白」へと変身「明るい照明と音の良いステレオ(オーディオ)気さくな照井さんのお宅にご招待されて、お茶やお酒を飲んでるみたい」と言う方々もおります。ジャズの店(開運橋のジョニー)は基本的に忙しくないので想像以上に、ゆったりと、時間を気にせず、音楽と会話が楽しめる、「文化サロン」と僕は思っております。
 最近は、家で大きな音で楽しめないのでと、SP・LPレコードやCDをご持参になって聴いていかれる地元の方達もいらっしゃいます。料金はソフトドリンク、アルコール共に800円。ジャズ麺、スパゲッティ、カレー、お好み焼きなど900円。テーブルチャージはありませんので、ご来店心待ち致しております。     敬具。
10:24:00 - johnny -

2022-05-23

幸遊記NO.196 「今洋一・優子の“森田村の四季”」2014.10.13.盛岡タイムス

 青森県森田村(現・つがる市)が「つがる地球村構想」という名の新しい村づくりビジョンを策定したのは、昭和63年(1988)神繁春村長時代のこと。世界うら声民謡大会に始まったそれは、平成年号になると石神ストーンパーク計画の第一弾として、ギリシャの野外円形劇場を参考に、村の全人口(5.500人)を収容出来る「森田村円形劇場」建設を押し進め完成させたのでした。
 米とりんごと民謡の村が、世界に誇れる大舞台を造り、そしてそこから発信させた音楽を世界中の桧舞台へ乗せ、一躍森田ビレッジ(村)を有名にした。その音楽はジャズ。曲は「フォーシーズン」(森田村の四季)。作曲者は我らが世界に誇る、穐(秋)吉敏子。四季折々に足を運び年月かけての作曲は「クラシックで有名なヴィバルディの“四季”を凌駕するつもりで創りました」と穐吉さん自らステージで言う様に、彼女のオーケストラによって、冬に始まり秋で終る「リポーズ」「ポリネーション」「ノリト」「ハーベスト」からなる組曲。
 その完成発表会が落成なった円形劇場で行われたのが1994年8月14日。以来彼女は世界中で、その曲を演奏。ソロのステージでさえも「リポーズ」は必ず演奏し、森田(つがる)の名をジャズで広め続けているのです。
 そして発表20年の時を経た今年2014年10月25日(盛岡・23日)、穐吉敏子さん(85)は、娘のマンディ満ちるさん(51)と初めて、母娘二人だけでアメリカから帰国してつがる市役所前の「松の館ホール」の舞台に立つ。企画は僕だが、主催するのは、36年前に僕が創設した、ジョニーズ・ディスクに、当時の青森県柏村から、心強い応援をしてくれた一人、今(旧姓・対馬)優子さん(57)と、ご主人の洋一さん(60)ご夫妻。
 今年から森田村中学校勤務の優子さんは「顔合わせの時、高橋幸治校長が、穐吉さんのジャズ「フォーシーズン」の曲になった素敵な森田村なんですよ。と子供達に伝えていた」とやる気満々。なにせ二人は大の穐吉ファン。何度も盛岡まで聴きに足を運んでいるし、二人が出会った場所もまた、当時、五所川原市にあった故・工藤功さんのジャズ喫茶「プリンセス」だった。「だから私は彼・洋一さんの“プリンセス”になったのよ!」と笑う優子さん。二人で競い合って券を売り、ほぼ満席だという。ごくろうさん!。
10:21:00 - johnny -

2022-05-22

幸遊記NO.195 「根子精郎の本藍型染め」2014.10.6.盛岡タイムス

 「青は藍より出(い)でて藍より青し」という中国のことわざがあるけれど、本物の「藍は青より深く紺より淡し」昔から日本人が最も愛し好んできた味わいに満ちた色である。その原料である「蒅(すくも)」と呼ばれる江戸時代から続く古法で作られる藍染の原料を作る藍師も日本にはもう5人しか居ないのだそうである。同じ藍色であってもインディゴ(化学的な大和藍)では、のっぺりとしたきれいさで、洗えば色落ちし、他に移るが、本藍は、色落ちがなく体にも優しく殺菌作用まである。
 その藍に見染められたのか見染めたのかは知らないけれど、本当に愛して藍の型染め屋を始め「ねこの染物屋」という看板を掲げた根子精郎さん(60)は、そこにたどり着くまでに山程の職務経験を積んだ人。何もかもが便利なデジタル時代に、超アナログな藍に魅せられてしまった彼だが、紫波に生まれ、盛岡工業高校にデザイン科が出来た時に入学、卒業して、入った会社が東京の玩具研究所。朝から晩まで何をして遊んでもいい会社。ゼロから特許、生産ラインに持って行くまでの、ありとあらゆるアイディアを生み出す仕事の青春時代が今につながっている様子。
 僕が根子さんに出会ったのは、盛岡手作り村にある藍染屋の「たきうら」さんの「ゴツボギャラリー」で「藍書展」を開かせて貰った2007年5月。藍書といっても僕は墨の替りに“藍色のインク”を使って書いているのだが、その「たきうら」さんで彼は修業していたのだった。その時、根子さんは僕に何点かの書をリクエストした。それが始まりで、彼の店のロゴ(看板)を書かせてもらい、作品となる染字も、随分と採用して頂き、手拭いや、暖簾(のれん)となり、僕の店に飾らせて頂いておりますが、とてもうれしくて、うれしくて仕方が無い。時が経つほど藍着(あいちゃく)が増しています。
 2014年9月、盛岡の新商業施設「Nanak(ななっく)」の平金ギャラリーで開かれた彼の藍染作品展示即売会で、贈り物として飛ぶ様に売れたのが、手拭いや、のれんならぬ“フンドシ”だったという。買った方は、藍(愛)で見染めた人の雑菌を殺菌する効果をねらってのことだろうか?と、1人悦に入り笑った僕でした。
10:20:00 - johnny -

2022-05-21

幸遊記NO.194 「金子飛鳥の炎立つバイオリン」2014.9.29.盛岡タイムス

 盛岡市在住作家・高橋克彦氏原作のNHK大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」が、舞台劇となり、2014年8月9日の東京Bunkamuraのシアターコクーンを皮切りに、愛知、広島、兵庫で上演され、9月21日、一千年前の「炎立つ」舞台であった「岩手」県民会館大ホールで千穐楽を迎えた。
 その千穐楽前日の公演を終えた深夜、舞台音楽担当の金子飛鳥さんたちが、開運橋のジョニーに現れた。一人はギタリストの宮野弘紀さん、彼は1970年代の末頃、僕がプロデュースしたジョニーズ・ディスクに初レコーディングし上京。以来ギター一筋に生きてきて漣(さざなみ)奏法を生み出し、ギターに恩返しをした男。来盛の度、僕を招待してくれる恩義の人でもある。バイオリニストの金子飛鳥さんは、50を超える国々で演奏活動を行い、20タイトルを超えるアルバムを発表して来たひと。東京芸大時代からプロ活動で多くの有名歌手や演奏家たちをサポートし、盛り立てるプロ中のプロストリンガー。
 翌日、僕等夫婦は、県民会館の一階招待席12列24・25に。10列の席には何と原作者の高橋克彦氏(67)が座っていた。一千年前、藤原清衡によって築かれた百年の平安浄土“平泉”「その万物平等の理想郷は、軍事力でも支配力でもない、運命を引き受けた人間の凄まじい意志の力によって実現した」そこに至るまでの戦いと、心の葛藤を舞い・演じ・歌い・語り・で描いた作品。
 キヨヒラに片岡愛之助。イエヒラに三宅健。アラハバキの神に平幹二郎。そしてキリ(キヨヒラの妻)役に岩手(盛岡と奥州市)出身の親たちから東京で生れた宮菜穂子。昔、蝦夷(えみし)の者は百人分の力を持っていたとされるが、出演した舞姫たちは、何千、何万人分もの表現者となる演出照明。その素晴らしさに驚きながら、それぞれの動作所作と一体化し、それらをより鮮明に浮かび上がらせる黒子役の音楽に感動しまくった。
 前夜、飛鳥さんはホテルに戻ってから最近のアルバム5枚から選りすぐった9曲をCDRにまとめ、ホテルのメモ用紙に曲名などを書いて届けてくれたのです。とっさに僕は、よろこび・のう・ひびき・とぶ「喜脳響飛(きのう・きょう・あす)」。と、以前に書いた「書」を思い出していた。あと31年(戦後100年)不戦の国日本は“平泉”を越せるのだろうか?。
10:18:00 - johnny -

2022-05-20

幸遊記NO.193 「副島輝人のフリージャズ史」2014.9.22.盛岡タイムス

 フリージャズ評論の第一人者で、日本のフリージャズを世界に紹介した副島輝人(そえじま・てると)さんが、自分でフェイスブックに告知した「とても小さな家」(お墓)に2014年7月12日引越しされた。83才だった。(1931年東京生れ)
 「日本のフリージャズ史」「世界フリージャズ史」(青士社発行)の2冊の本は正に偉業と言えるもの。人なつっこい笑顔を絶やさず、「音楽は前衛でなくちゃ」と、どこまでもアバンギャルドな音楽を愛する現場主義者だった。1960年代末頃から時代の旗頭として登場してきた日本のフリージャズ。その誕生期から、評論家、プロデューサーとして現場に立会い、見聞し、日本フリージャズを世界へ届けるなどフリー一筋に生き貫いた人だ。僕の店の壁に「ジョニー!海を越えよ!」と書いてくれたのは1981年10月のこと。
 「ジャズ界にあってもフリージャズの報道は欠けている部分。ましてや日本のジャーナリズムは全然紹介しないから、俺がやろう!って、ジャズ評論家になった。今日のポピュラーなものを変えて、明日の創造的なものとする。それが前衛じゃないかと思う」と、僕に語ってくれたのは1988年の春だった。
 74年十四夜、76年五日間東京で、日本のフリージャズメンを総出させた「インスピレーション&パワー」というフリージャズ大祭を主催。その一部は二枚組みのアルバム(LPレコード)となってトリオ・レコードから発売され、アメリカやフランスから注目されたのでした。77年からは自ら、ドイツのメールス・インターナショナル・ニュージャズ・フェスティバルに出向き、スライドを撮影し、録音してきたテープを持って全国を回り、翌78年からは、8ミリ映画にして、世界のフリージャズ・最先端を紹介し続けたのです。 
 そのメールスは西ドイツの、ど田舎もど田舎の、何もない貧しい所だったらしい、その街のジャズクラブの主人、プーカルト・ヘレン氏に「市が金を出すから、ここでなければ出来ないドギモを抜く様な新しいものをやってくれ!そのかわり、市は一切の口を出さない」から始まって、メールスは、世界で最も知られる名市となっていったのでした。副島さんはそこへ日本のフリージャズバンドを幾多も出演させ注目された。血液型だってAかたでした。
10:16:00 - johnny -

2022-05-19

幸遊記NO.192 「新井満の千の風になって」2014.9.15.盛岡タイムス

 「五木寛之さんが盛岡に来ますよ」とM女史が入手してくれた入場整理券を貰って「スミセイ・ライフフォーラム・生きる」新井満さん(68)と五木寛之さん(82)の講演を聞きに、9月9日(2014)マリオス・盛岡市民文化ホールに行って来た。
 新井さんは、言わずと知れた、あの秋川雅史が歌って大ヒットした曲「千の風になって」の訳詩・作曲者で、2007年同曲でレコード大賞作曲賞。それ以前の1988年「尋ね人の時間」で芥川賞を受賞した作家でもある。「“千の風になって”がヒットした年“墓まいり行かぬ理由に千の風”などの川柳が詠まれ、仏教会は喜びませんでしたが、僕の趣味は墓まいりです。そこは会いたい先人に会える場所だから“墓まいりは楽しい”という本を出しました」と皆を笑わせ、啄木の墓まいりに函館に行って、啄木の霊と話をした話(朗読)で皆を惹きつけるあたりはさすが!。
 五木さんは「僕は昔のことは忘れ、新しいことが入って来る。と新聞で読んだうた“おい、おまえ、はいてるパンツ、おれのだよ”と笑わせてからデング熱の話。「血を吸うのはメスの蚊、吐く息の中の二酸化炭素を50メートルも先から嗅ぎ付け飛んで来る。最近その蚊の飛ぶ高周波の音を聴いていないのは老化が進んでるせいかな?」と一人笑い、殺すではない「蚊やり」と言う昔の知恵と、吐く息は細く長く、あぁ~とため息をつくことのすすめを話した。二人の対談の時、五木さんは今日の僕の演題は「ふるさとについて」だった様でしたと笑い、啄木の「ふるさとの山に向かひて」を作曲し歌った新井さんと、「生きてる間のふるさとでなく、先に行かれた方たちのいる永遠のふるさと、そこに飛んでゆくのだ」と、心のふるさと論。僕も間もなく70才に足が届く。“川の水澄んでる時は冠の紐でも洗え。川の水が濁ってる時は足でも洗え”は、心まで洗われる話だった。
 その深夜、「五木さんは原稿〆切で部屋に戻りましたが、ジョニーのことを話してたので、僕達が来ました」と新井さんと和泉豊さん(プロデューサー)が店に現れ、ビックリ!。そういえば講演の最後に70人の合唱もあったが、NHKTVでは歌謡コンサート。秋川さんが「千の風になって」を唄い、新沼謙治さんは「ふるさとは今も変わらず」を唄っていた。あれは不思議な「蝉しぐれ」の時間帯だったのだとVTRを見ながら思った。
10:15:00 - johnny -

2022-05-18

幸遊記NO.191 「カーメン・マクレエの1973年11月・盛岡」2014.9.8.盛岡タイムス

 エラ。サラ。カーメンは1970年代以降の三大ジャズ歌手の名。皆すでにこの世の人ではないけれど、彼女等が遺していった多数のレコードは、そのどれもが皆素晴らしい。そのカーメンが表紙を飾った「アサヒグラフ」1973年12月7日号を僕にプレゼントしてくれたのは、高橋日出男さんだった。たしか2001年のこと。その直後ジョニーに来店したジャズ・ピアニスト故・レイ・ブライアントにグラフを見せたら、「彼女は昔僕のボスだった」と懐かしみ本と記念撮影をした。その中に盛岡駅前で小学生たちに囲まれて微笑む彼女の姿も載っている、10ページの特集。記事の中に「一行は札幌から飛行機と列車を乗り継いで盛岡へ移動して来たが、コンサート開演時間が過ぎても別便で送った楽譜や衣装が雪の為遅れて着かない(前日会場は函館)。演奏はカウントベイシー・オーケストラ、譜面無しでは音を出せず、ベイシーのピアノで数曲、オーケストラとは一曲だけという寂しさだった」とある。ところが、その時の招聘元だった「もんプロダクション」の社長、故・西蔭嘉樹氏が2003年にジャズ批評社から出版した「ジャズ・ジャイアンツの素顔」を読んでいたら、その73年のベイシー・カーメンの11月ツアーの事も書いてあって、このジョイントのツアーはどこも大成功。だが事件は盛岡公演の時に起きた。衣装、楽器、譜面の全てを何と次の公演先に届けてしまったのだ。
 結局楽器は主催者の東山堂が用意。カーメンも普段着のままステージへ立ち、本邦初公開のジャムセッションスタイルのコンサートとなり、ジャズファンは絶賛!。「最後の曲が終って花束を渡す役目の(故)佐藤祐造さん(当時、新聞にコンサート評を書いていた方)が花束を渡すと、彼女は両手で抱き寄せホッペにチュー!をし、会場大拍手。本人呆然、ベイシーはOh!No!の身振りだった」と、岩手ジャズ愛好会報41号(2007・6)に下田耕平さん(ジャズ・ベーシスト)が書いている。
 そのツアーの途中、今は無き新宿厚生年金会館でのコンサートが終った21日の深夜に新宿のジャズ喫茶「ダグ」で彼女は弾き語りのアルバム「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」を録音。それは今、僕の愛聴盤になっている。
10:13:00 - johnny -

2022-05-17

幸遊記NO.190 「水元亜紀のじょんからしぐれ」2014.9.1.盛岡タイムス

 ある日書店にて「歌の手帖・歌手名鑑」をパラパラとめくっていたら「ミ」のページに「水元亜紀」の名と写真。アレッ!と思いよく見ると本名・戸水よし子・岩手県出身、96年「恋まくら」でデビューとあった。まちがいなく彼女は「能登の恋歌」を唄っていた宮古市出身の水元やよいさん。御年?。
 僕が「ケセンよみうり」という月刊の新聞編集をやっていた時(1995~97)に取材した記憶。まだ現役で唄っているんだなと嬉しくなって、所属プロダクションに電話をすると、係から、マネージャー、本人へとつながって、「旅先の岡山からです」という電話。最近のCDを聴きたいのでと注文したら「蒲公英(たんぽぽ)」「じょんがらしぐれ」など3枚のシングルCDとポスターが届いた。
 「蒲公英(たんぽぽ)」いではく・作詞、杉本眞人・作曲は、2011年9月の発表「風に吹かれて綿毛の種が海を越え花になり大地をいつしか故郷に変える」と、東日本大震災の復興応援歌のようで心に沁みる。今年2014年4月発売の「じょんからしぐれ」は、デビュー以前にのどを鍛えた民謡を彷彿とさせる力唱!。
 聞けば、発売された4月に有線放送演歌部門で全国1位になり、今年の全国アマチュア歌謡連盟の課題曲に選ばれたという。「山のむこうへ風よ伝えてこの想い 津軽お岩木つのる恋しさに雨がふるふるじょんがらしぐれ」数丘夕彦・作詞、榊薫人・作曲、藤扇流振り付けつきの、つがる恋物語。僕もすでに数十回は聴いた。
 春から九州、名古屋、岡山、滋賀、大阪を回って東北はそれこそ青森津軽まで、その後は北海道を回る予定だという。先日宮古へ唄いに行く途中でと、開運橋のジョニーに寄ってくれて、「“じょんがらしぐれ”は、オリコンのヒットチャートで16位まで登ったんですよ!」と目を輝かせた水元さん。
 カップリング曲「ねばらんか」の如く、デビュー以来18年。それこそ、郷土民謡協会の平成2年春季大会で内閣総理大臣賞受賞から数えれば24年。NHKラジオ「ひるの散歩道」「サンデージョッキー」「キラメキ歌謡ライブ」などに出演しながら、くまなく全国各地を歩いてきての今、「もうひとふんばり!若い人には負けないよ」と、意志の固さを笑顔で包む。
10:12:00 - johnny -

2022-05-16

幸遊記NO.189 「菅野照夫のシンタックホーム」2014.8.25.盛岡タイムス

 陸前高田市で「長く付き合える健康な住い“本物の家・木づくりの家”」をテーマに企画から施工そしてプラスαまで、いわゆる木造の日本家屋の建築設計建設業を営んでいた「シンタックホーム」の菅野照夫さんから、久し振りに電話を貰った。
 2011年の津波後、脳梗塞を患い、仕事を休んでいる彼だが、2000年に神奈川県二宮町のみかん山の斜面を利用して建てた総2階のみかん倉庫は、すべての作業を陸前高田で施し、現地に運んで組み立てた、殆んど学校の様な大きな木造建築物。その工事ネガフィルムを写真にしたいので、どこかに頼んで欲しいと言うことだった。
 かつて彼が写真を頼んでいた得意先の店は、あの2011年の津波で店も店主ご夫妻も亡くなってしまい、今は、頼めるところが無いのだった。ネガと一緒に送られて来たものは、彼が尊敬する大工・棟梁の故・田中文男(1932~2010)普請帳研究会+田中文男さんを偲ぶ会発行本だった。何でも、その田中氏から“手伝え”と言われた手伝い仕事だったが本請けなっていた。その建築物を登記するにあたり、建築工事写真が必要との事。
 出来た写真を見てビックリしたのだが、本当に素晴らしい見事なもので、まさに天下に名だたる「気仙大工」の魂の仕事振りが写し出されていて僕は感動した。そういえば、昭和の終り頃、盛岡のみたけに彼が造った“湯田邸”は県の木造住宅コンクール最優秀賞。10年後に陸前高田の小友に造った“岸邸”も最優秀賞を受賞した。
 そして2001年江刺市の古民家“千葉家”1892(明治25)年建築のリフォームも手掛け、高断熱、高気密化を実現させ、東北建築家協会の第1回JIA東北住宅大賞2006を受賞。国の登録文化財となった。
 そんな彼、菅野照夫さんが僕等のジャズ活動に対し、無償の支援をしてくれたのは1985年の“日本ジャズ祭イン陸前高田”。3階建ての木造家屋を寝かせたステージを造って皆を驚かせ、86年の穐吉敏子ジャズオーケストラの時には900枚の気仙杉サイン板を敷きつめて皆に正夢をプレゼントしたのでした・拝!。
10:10:00 - johnny -

2022-05-15

幸遊記NO.188 「牛崎隆のドラマーな教え方」2014.8.18.盛岡タイムス

 クラシックの殿堂として1891年にオープンした、NYのカーネギーホール。その舞台に、初めてジャズが登場したのは、オープンからほぼ半世紀が経た1938年。しかも白人、黒人が一緒の舞台に立ったのも初めてという快挙。それを成し遂げたのは、クラリネット奏者としてジャズ史に残る金字塔を立てた、ベニー・グットマン(1909~86)。そのカーネギーホールコンサートの完全版CDを持参して 聴かせてくれたのは牛崎隆さん(67)だった。
 彼は開運橋のジョニーに現れる度に、バックの中から、実に様々なCDを、まるでマジックの様に取り出しながら、次はこれを、とニッコリするのだが、そのほとんどのDは僕の知らないワールドミュージックの世界。時折、僕がひっかかるCDは、借りて聴き直すこともある。たとえば、2011年12月に70才で亡くなった、セザリア・エヴォラが唄った「ソダデ」などのファドは、実に素晴らしかったりする。
何せ彼、牛崎さんは僕と同い歳とあって互いに音楽の話に花が咲く。先日などは、高校の卒業式の日ジャズ喫茶に連れて行ってもらったという彼の教え子が1人で僕の店に現れたりもした。とにかく彼は音楽好き。弘前大学時代は当時弘前にあった「美寿々」や「オーヨー」といったジャズ喫茶通い。クラシックはドイツ語の先生の家に押しかけ、奥さんの手料理をご馳走になりながら聴かせて貰ったという。
 久慈、一関一、花巻北、遠野、伊保内、盛岡二と高校で英語を教えてきた彼。定年後も講師として一関一、現盛岡北高で教鞭をとっているが、モットーは“絶対イエス、ノーで答えるな”。“書けない言葉を使うな!”“即興(変奏、アドリブ)が大事なんだ”と教え方も少しジャズっぽい。教師としての出だしは中学校そして小学校。更に、採用試験を受け直して高校で教える様になった彼の道も面白い。
 カバンの中から、時折ワイヤーブラシを出して、ドラムに向かい、音楽に合わせてリズムを取りながら「教えられたことは忘れる、自分で覚えたことは忘れない」と言いながらニッコリと笑う彼は、ドラマーチックな音と共に生きてきた感じがする。
10:09:00 - johnny -

2022-05-14

幸遊記NO.187 「大橋美加のナット・キング・コール」2014.8.12.盛岡タイムス

 「大橋美加です。サンフランシスコ録音新譜お送りしたく思います。開運橋通5-9-4階で宜しいですか」というメールが僕の携帯電話に届いたので、すぐさま「ありがとう、嬉しい懐かしい、今も愛変わらず、気にしています」と返信したら、3日後の7月29日(2014)CDが届いた。
 彼女の12枚目となるリーダー作「ウィズ・ラブ・トゥ・ナット」はそのタイトル通り、ナット・キング・コール(1917~65)がその昔ピアノで弾き語りをやっていた頃の愛唱曲を集めたトリビュート・アルバム。大歌手のエラ・フィッツジェラルド、サラ・ボーンの晩年の共演者マイク・ウォフォード(ピアニスト・76才)を中心としたカルテットの演奏も素敵だ。「聴く人の心を癒し、うごかす作品に仕上がったと信じています」との手紙も。フライヤーのキャッチコピー「毎日聴きたい歌声」に僕も心うごかされ、毎日聴いてます。
 大橋巨泉、マーサ三宅を両親に持つ彼女が故・松本英彦(テナーサックス)をゲストに迎えて、レコードデビューを果たしたのは1986年2月の「ロマンシング」。翌87年2月第3回日本ジャズヴォーカル賞・新人賞を受賞!の好スタート。2作目はニューヨーク録音の「スターリング」。僕も何度か彼女を呼んだ。
 「母・光子(マーサの本名)の「み」と父・克己(巨泉の本名)の「か」で「美加」というあんちょくな名前なんです」と彼女が笑いながら僕に語ってくれたのは昭和の終り頃だった。当時すでにNHKやFM横浜に番組を持っていて、映画にも詳しかった。歌手としては「知られざるスタンダードナンバー、それを掘り下げて、バース(韻文・詩)から唄いたいので、採譜もしています」とのことだった。今もそのレトロ指向は変わっていない様子で、何となく嬉しい。
 この上なく端正で完成されたナット・キング・コールの唄の印象。だが「トリオ演奏というスタイルを創った時代の唄には、新鮮な遊び心があった。ナットの本質はそちらにあると思います」と語る。「大御所の母とは反対に貫禄はつけたくない。いつまでも可愛い女でいたい」という大橋美加さんは33画(天下を取れる統領画数)のAB型である。
10:07:00 - johnny -

2022-05-13

幸遊記NO.186 「高橋学の生誕10年前」2014.8.4.盛岡タイムス

 「ジョニーさん!僕、結婚しました」そう言って久し振りに店に来てくれた高橋学さん(24)は嬉しそう。ニコニコとエビスでカンパイ!。奥さんは琴子さん(24・旧姓大西)横浜の出身。学ぶさんは仙台出身。仙台二高から北大経済学科に進み、3年生の時、米・マサチューセッツ大・アマースト校に留学。国際経済やマクロ経済を学んでいた時、同大に留学して心理学を学んでた彼女に出会った。その後、彼は彼女に恋し、心理を読まれて?ご結婚。
 入籍は7月4日だったが、お互い仕事の都合で別居!8月2日から彼女が転勤で盛岡に来ると喜んでいたら、彼は3日から9日まで静岡出張で、おあずけ状態。ご主人・学ぶさんは読売新聞盛岡支局の記者であるため、盛岡見前中のサッカー部が全国大会へ出場する取材。琴子さんは英会話塾の講師ゆえ、帰ったら、待ちに待った良い(えい)会話を急(せ)き込んでするのだろうなと、光景が浮かぶ。
 それはそうと、彼が僕の店・開運橋のジョニーに現れたのは今年(2014)の1月。僕が丁度、1980年に陸前高田で行われたジャズピアニスト・秋(穐)吉敏子さんのコンサート音源を、CD化しようとしていた時だったので、それを彼に話すと、彼はその発売までの3ヶ月間、そのことについての取材を根掘り葉掘り、根気良く続け、同紙の県版トップ扱いのはずが、夕刊への話になり、直前になって朝刊第2社会面へと記事が急成長!。4月13日付に「1980陸前高田ジャズの夜・ライブCDを復活・秋吉敏子さんトリオ演奏」と、大きな見出し記事。
 書いた本人は13年4月入社。研修後の7月盛岡へ配属され赴任。「これまで取材した記事の中で、一番の難産だったけど、発表ものじゃない、自分で見つけた記事が全国版に載ったのでとても嬉しかった。記者の名前は出ませんでしたが、親達が一番喜んでくれたし、祖母が岩手の西和賀なので、誇らしい」と微笑む。
 余談だが、新聞に出た日の早朝から一週間、固定電話が鳴りっぱなし。皆新聞を切り抜いているらしく、今でもまだベルが鳴る。インターネット時代とはいえ、さすが大新聞。その底力をまざまざと見せられ、体験させられた事件!でした。
10:56:00 - johnny -

2022-05-12

幸遊記NO.185 「相澤榮のオクテットジャズ」2014.7.28.盛岡タイムス

 「聴く鏡」という一関のジャズ喫茶ベイシーの店主・菅原正二さんの本が2冊出ている。鏡で思い出すのは、聴かせる鏡の様な山形のジャズ喫茶オクテットのマスター・相澤榮さん(75)。この二人の先輩から僕が教わって来た事は「友を以って鏡とす」のことわざ。僕流のシャレで言えば「聴く屈み(かがみ)・聴かせる屈み」。音楽と真剣に対峙する普段(不断)の努力と行動の大切さだった。
 相澤さんは僕と同じく、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの熱烈ファンなので、彼女のコンサートも主催するし、どこまでも聴きにも歩くので、よく顔を合わせてはニコニコする間柄。僕が穐吉さんのコンサートを初主催したのは1980年6月(今年2014年その実況録音が初CD化)。彼、相澤さんが、彼女のコンサートを初主催したのは1977年12月。その時の彼女の心遣いと演奏に、メロメロになったのが始まりだった。と最近彼から聞いた。
 その77年コンサート、実は当時、待望されていたアルトサックス奏者・ソニー・クリス率いるカルテット初来日の代演だった。11月28日・新宿厚生年金会館を皮切りに、12月8日・山形市民会館までの10日間8公演。来日の為にコートを新調し楽しみにしていたらしい、ソニー・クリス(当時50才)は公演直前の11月19日、謎のピストル自殺。困り果てた招聘元の「もんプロ」に、私達でよければと代演を申し出たのが穐吉敏子カルテット。コンサートは、全公演大成功。山形も例外ではなく、逆に大きな話題となった。以来相澤さんは、穐吉敏子・ルー・タバキンのファンになって今日に至るのだが、山形の蔵王や坊平国際ジャズ祭のプロデュースも手掛けて来た凄い人。
 1939年生れの彼が、店を開いたのは1971年の文化の日。上京してアルバイトをしながら、夜間短大に通い、地元山形に戻ってからは、車の会社勤めをし、レコードを買い求めての開業。退職金の一部で76年の米・モンタレージャズ祭ツアーに参加。クラブ・ダンテのアフターアワーで聴いたズート・シムス(ts・故人)が吹いた「ラバー・カム・バック・トウ・ミー」が忘れられず、彼を山形に呼んだのが翌77年。その実況音源をズート夫人の許可を貰い2011年にCD化した執念と、そして僕と同じ思いの穐吉ファンに榮あり!乾杯!乾杯!
10:54:00 - johnny -

2022-05-11

幸遊記NO.184 「菊池忠東の斗六・すし六」2014.7.21.盛岡タイムス

 時折、用事があって上京する時、僕が楽しみの一つにしているものに駅弁がある。買うのは決まって「八戸小唄寿司」鯖と鮭をスライスして酢でしめただけの押し寿司なのだが、これが実に味わい深いものなのだ。何十回食べても、食べても飽きないおいしさ。そして食べ始めれば頭の中に浮かんでくるのが、もちろん八戸小唄「唄に夜明けた鴎の港、船は出て行く南へ北へ」(法師浜桜白作詞・後藤桃水作曲)。昭和6年市制施行ほやほやだった八戸市が発展を祈願し、作った新民謡。
 ごちそうさま!と箸おく頃に、これまた決まって浮かぶのは、気のいい仲間と寿司食べに八戸に新幹線行った日の事。6人以上では来るなよ!という店主・菊池忠東さんの言葉を無視して、7人プラス現地人1人の8人で押しかけた、店の名は「すし六」。カウンター6席だけの小さな店だったから、店主の座る椅子をカウンターの中から引っ張り出してギューッと座った。余った1人は、カウンターの中に入っての立食。店主1人で8人分を握る忙しさ!握って出ればあっという間に胃の中に消える美味しさに、「お前ら、少し味わって喰えよ!」と店主。
 小1時間やっと握り終わって、盛岡時代の話をしようかという矢先、「さあ!新幹線の時間だから帰ろうか!」一斉に立ち上がると、「お前ら一体何しに来たんだよ」と店主のあきれ顔。それを横目に「さあ帰ろう」でチョン。駅までバスに乗り、駅から列車の本当の寿司喰い旅行。帰りの話は当然、主のネタモノで盛り上がった楽しい旅だった。
 菊池さんは、昭和17年(1942)生まれ。盛岡仙北中学を卒業と同時に上京。新宿歌舞伎町の寿司店に就職し修業10年。景気が良かった時だから兄を頼って Jターンし、八戸グランドホテル前に「斗六」という寿司店を開いたのは昭和43年26才の時だった。地元はもちろんのことだが、ホテルに泊る有名人達が随分と来てくれて店は32年も続いた。
 僕が盛岡に来た頃、前後する様に彼も盛岡に来てホテルの寿司屋で働き、よく僕の
店に来てくれた。とにかく誰もがハッとする程、カッコイイ!オシャレをする人。その後又八戸に戻って店をやった。目を患ってからは、毎日散歩と川柳の年金暮らしさと笑う。
10:53:00 - johnny -

2022-05-10

幸遊記NO.183 「加地保夫の大邸宅」2014.7.14.盛岡タイムス

 今僕はこの原稿を栃木県那須町の山奥にある木造の大邸宅カフェ「フランクリンズ」のテーブルに座って書き出している。店主は30年来の友・加地保夫さん(65)の次女彩登子さん(30)と、その夫・吉則さん(48)夫妻。
 今夜から始まる、20年振りの縄文の唄旅・三上寛ツアーの初日の会場である。三上は今リハーサルを開始した、例のブルースである。今年2014年4月26日、このフランクリンズ(小地主の意・米シアトルには同名の大学もある)。山中とはいえ2600坪の広大な敷地には大きな池やブルーベリー畑、子供が楽しめるブランコまである。とにかく緑々々の大自然の中で楽しむ音楽と、保夫さんの奥さん・悦子さん(65)調理師の手作り料理でもてなす気持のいい店なのだ。
 加地さんと出会ったのは、1981年、大船渡のマイヤ本店で開かれた、加地保夫・空間の表現展。会場でお会いした時、意気投合し、その場で、僕に作品を一点くれるという。僕も、本当に貰えるのなら、どれでもと言えばいいものを、これ!と指差して貰った作品は、その作品展の主軸をなす“線一風化”。この作品は今、開運橋ジョニーの入口にある。
あとで知ったことだが、実はその作品、第20回ホアンミロ国際ドローイング展に出品予定の作品だった。それを何も言わず、僕に渡してくれた彼。以来僕等は、ジャンルは違えど、良き友、よきライバルとして、陸前高田の文化をそれぞれ別角度から牽引したものだった。彼の奥さんも面白い絵を描く人。
 保夫さんは愛媛県伊予三島市(現・四国中央市)に1949年に生まれ、78年渡西し、バルセロナの国立応用美術学校に学び、ダニエル・アルジェモン教室にて石版画(リトグラフ)をも修得し、81年帰国。その初の国内展が大船渡だったのだ。10年後の96年に県の優秀美術選奨受賞。
風化、風の記憶、樹、地、波、窓、黒、などのシリーズ版画は、彼の独特の手法とあいまって、独自の境地を切り開いてきたのでした。奥さんの故郷・陸前高田を離れ心機一転、海から山の暮らしへとシフトを変えた彼の今、墨のドローイング(樹木)を版に起こす作業に気を入れている。
10:52:00 - johnny -

2022-05-09

幸遊記NO.182 「菅原君子の虹の開運橋」2014.7.8.盛岡タイムス

 一関は雨だった。6月29日朝、玄関先で「雨降って地固まる!今度こそ大丈夫だべ!」皆に聞こえる大きな声で笑いながら言っていた兄嫁。それは、澄(79)兄の3男・智之の結婚式の日。宴で僕も自作の「潮騒の森」を一曲。キャンドルサービスの時「2回もすみません」と智之君。「僕も2回目だから」と笑い返す。次兄の・敏夫(76)の長男・敬一もやっと結婚したと報告あり、二重のめでたい日となった。
 式後、実家のある平泉の老人介護施設でお世話になっている長兄・幸男(82)を、姉・君子(73)と一緒に見舞った。幸男兄はブラジルや、アメリカのカーネギーホール出演等、世界8ケ国で公演もした「平泉達谷窟毘沙門神楽」を率いて太鼓を叩き、何十年も子供達に神楽の舞を教え続けた町勢功労表彰者。
 茨城に住む姉は、盛岡から新幹線で帰るというので盛岡泊。自分史年表を見せて貰った。「1941(昭和16)年5月16日、姉・君子は双子で生まれ、もう一人のサダ子は命名後に死亡。2年後妹・フミ子誕生。その3年後の1946年、幸治爺69才で亡。後、妹・3才で亡。47年弟・顕(僕)誕生。65年母・キノエ倒れる。12月長男(姉の)・満則誕生。67年長女・明美誕生。母・キノエ亡・享年59才。88年父・省平(83)亡。などなど2013年10月、姉の夫・忍さん(76)が亡くなるまでその他諸々細かに記録されていた。
 女の姉妹でただ一人生かされてきた姉は、「二人の妹分まで生きなきゃね!」と元気だ。その君子姉は昔「こもれび」という月刊の家族新聞を発行していたことがあった。「生きているんだか、死んでるんだか」という親たちの声を受けて、両親、兄弟、親戚に送った手書きのコピー。そのことを書いて読売に投稿し全国版にも載ったことも。
 当時姉は「世宇」という雅号を貰ったばかりの書家でもあったから、僕が制作したレコードジャケット文字を何枚か書いてもくれた。その代表作があの五木寛之の小説にちなんだ名盤・坂元輝の「海を見ていたジョニー」。
 姉が盛岡に泊まった翌日、石割桜と盛岡城跡を散策。小岩井農場とあの一本桜を見学。帰りに繋の湖山荘で御所湖を眺めながら温泉につかり、外に出たら目の前に美しい二重の虹。「あっ!開運橋!」と姉が叫んだ。
10:50:00 - johnny -

2022-05-08

幸遊記NO.181 「藤村敏のジャズと卓球の普及活動」2014.6.30.盛岡タイムス

 時折ひょこひょこっと店に顔を出してくれる、藤村敏さん(83)は、昔、中学校の先生だった。とにかくジャズが大好きで「岩手ジャズ愛好会」が出来た1989年の初代会長が故・及川大治さん、その時副会長だった藤村さんはのちに、2代目の会長も務めた。
 こう書くと偉そうな人にとる方もいるかも知れないが、偉さには目もくれず、自分の生きる道に徹し、自分がやりたいことを極めることが大事!と平教員一筋に、理科と社会科を教え。運動部では自分が好きだった卓球指導や、放送や映画といった視聴覚教育に力を入れた人。
 昭和6(1931)年5月2日盛岡に生まれ岩手高校から岩手大学教育学部を卒業し、岩泉、雫石、盛岡と、それぞれ10年以上づつの勤務だった。子供の頃、家にあった蓄音機に興味を持ち、高校時代に音楽に目覚めた。教員になってからは手当が出る宿直を率先して引き受け、ラジオから流れてくるFEN(米進駐軍向けの放送)の英語解説による、Vディスクでのジャズ放送を夢中になって、それこそ一晩中聴いていたらしい。中でも、トミードーシー楽団やカウントベイシー楽団、ベニーグットマン等の演奏には心がうきうきし、ジャズの凄さに感激し酔いしれた。
 同じ頃、次第にオーディオにもはまり、レコードを月賦で買う生活が始まった時「聴くなら大系的に聴いて行こうと考え、レコードの中に息づく、演奏者一人一人の特徴ある音を聴き分け、理解し、そのミュージシャンの個性を追求し楽しみながら熱心に聴き学んだ。それは、そのままジャズの歴史ともいえる同時性で聴くことが出来た幸せな時代だったとも云える。
 「愛好会ではよくコンサートも主催した。会場探しからポスター貼り、チケット売り、赤字の補填(ほてん)。大変だったけど面白かった。ジャズが好きな人達の集まりだから、協力もあった」。「今は生活と同じでジャズの要素はすべての音楽に取り入れられている様にまで普及した」と喜ぶ彼。
 定年後は大人対象の北東北卓球大会を組織し10年間主催した。今は新たに4回目となる「三陸復興、ラージボール(新卓球・軽くて大きくて親しみやすい)大会」の顧問を務める。
10:49:00 - johnny -

2022-05-07

幸遊記NO.180 「望月美咲のジャズコーラス」2014.6.23.盛岡タイムス

 私達、素人ジャズコーラスをやってるんですが、プロの歌手とギタリストと一緒に、ここでライブをやらせていただけないでしょうか。そう言って昨年末の2013年初めて来店した大綱白里市に住む盛岡出身の望月美咲さん(旧姓・高井56才)。
 それがこの6月20日に実現した。ギタリストは堀江洋賀さん(30)。7月発売という出来たばかりの新作CDを携えての来盛。「星降る渚」「月夜」など自作曲で九十九里浜に想いをはせる作品。高校時代ジャズに目覚め、大学でジャズ研に参加、卒業後プロ入り。ガットギターの音色が鮮烈だ。
 片や石橋未由子(vo)は市原中央高校で芸術コース声楽を専攻し、洗足音楽学園のミュージカルコースを首席卒業。歌とダンスと演技を学び、ミュージカル等多数の舞台に出演。母が主宰する「スタジオb」に出入りするミュージシャン達との共演で唄を磨く25才!。その透き通る様な美しい声で歌った、大スタンダードジャズ、そのギャップの凄さと、唄の持つ別の美味しさを感じさせてくれた。
 その未由子さんを中心に4人のママさん達が、ジャズコーラス、これがまた、それぞれ違う声質を生かした本格的な歌い方で、アマチュアにしておくのがもったいないと思う程の実力と魅力に溢れてた。「これ!タイムファイブの女性版じゃない!素晴らしいね」と、女房が耳元でささやく。石橋秀子。小笠原資子。小野こずえ。望月美咲。ゲストの未由子さん。10年前ヴォイストレーニングから始めたという本格派グループがこの「シビリィ」。
今回の盛岡ライブ「開運橋のジョニー」と「みちのく味処・四季」を企画した望月さんは、昭和33年(1958)生まれ。震災以来、心の中でくすぶっていたモヤモヤ感。盛岡一高を卒業するまで見続けていた岩手山や、30数年振りに見たふるさとの街や山々に感動し「何か私らしく出来るかも」それが今回の企画となった。彼女が5、6才の頃、母の結核が感染し肺を患い小学の3年間を施設の学校で過し、運動を止められたことから、中学校で始めた合唱だった。父が秋田、母は青森の出身だったこともあり、高卒以来盛岡を離れ千葉に住んでからもすでに20年。そこの仲間たちと一緒に盛岡にジャズコーラスで来れたことに、目もうるうるでした。
10:47:00 - johnny -

2022-05-06

幸遊記NO.179 「細川惠一のMCヘッドアンプ」2014.6.16.盛岡タイムス

 僕の店が陸前高田にあった時代、大船渡市から店に来てくれていた菊池百合子さん(62才・今年臨時教員を退職)が彼女の弟、惠一さんが創作したという、レコード再生針用MCカードリッジのヘッドアンプ・カタログを彼女が住む花巻から持参してくれた。
問えば、弟の惠一さん(60才)が「東京から大船渡の実家に戻って、こんなことをやっているんです」と言う。カタログは、細川音芸ドット・コムのホームぺージから引き出したものだった。型番はHA・241・レコードを素敵な音で!とある。カートリッジの小さな信号を昇圧するためのトランスはその高域帯の磁気歪が課題。それを解消するために独自に開発したというヘッドアンプなのでした。
僕は実際の音を聴いてみたいと言ったら、後日2人は大船渡からバスに乗ってそのヘッドアンプを届けに来てくれたのでした。さっそくセッティングして、御手並み拝聴!これぞまさしくHIFI!よく聴こえて来るのです。かつて、CDの信号音に20キロヘルツ以上の聴こえない音をプラスして再生するハーモネーター(フィディリックス社製)を取り付けた時に味わった様な、感動を覚えたのです。
彼・細川惠一さんは1953年11月16日・大船渡市に生まれ、宮城の気仙沼高校へ通い、アマチュア無線をやり、真空管にはまってオーディオに目覚め、工学院大学で電子工学を学び、電子工学系の会社を10社ほど渡り歩きながら、趣味でオーディオアンプ作りを始め行きついたのが、ヘッドアンプ。
実家の大船渡に戻ってからの10年。そのすたれゆくレコードの復活を夢見て、ヘッドアンプの研究に明け暮れた。そしてこの度、納得のいく良質のヘッドアンプが出来たというもの。回路の特徴は2個のFET(半導体の中を通る電流を電圧で制御する)と2個のトランジスタ(電流を電流で制御する)を直結して、カップリングコンデンサを少なくしたことで約3Vのダイナミックレンジを確保。増幅帯域は5ヘルツから400キロヘルツで50倍の増幅率となっている。興味のある方、開運橋のジョニーへおいで下さい。貸出用製品もお預かりしています。どうぞお試し下さい!。
10:45:00 - johnny -

2022-05-05

幸遊記NO.178 「及川房子の秘書的な心遣い」2014.6.10.盛岡タイムス

 「ジョニーさん!これ今日発売の週刊誌・穐吉敏子さんが載ってますよ」と、息せき切って持って来てくれた及川房子さん(67)。袋の中には何と5冊もの週刊文春。「阿川佐和子のこの人に会いたい」のインタビュー・第1021回。パッと僕の頭が8年前・2006年の同インタビュー・第654回へと飛ぶ。
 阿川さんの母と同年代の穐吉さんには特別な想いもあるのだろう。今回はピアノ6連弾のゲストで来日したのを期に聞いた話だった。
 そういえば及川房子さんが僕の店に現れたのは2006年。紫波町の「野村胡堂・あらえびす記念館」で行われた、穐吉さんのソロコンサートを聴いて感激したのがきっかけだった。以来彼女は、穐吉さんのコンサートには万難を排し毎年、何ヶ所にでも出かけて聴いてきたし、僕が企画している、アメリカ穐吉敏子への旅にも参加した程、穐吉敏子さんの熱烈なファンの一人。彼女実は穐吉さんが、「トシコ・マリアーノ」だった1960年代からのファンなのだったから、東京で働いていた時には、仕事を最優先しなければならない立場だったために一度も穐吉さんのコンサートを聴きに行けなかった悔しさ。それがなんと会社を辞めて実家の盛岡に戻って間もなく、穐吉さんのコンサートを新聞で見付けて、初めて聴くことが出来たのだったと、涙を流しながら話す彼女。初回は3時間以上も前から並んでいい席をとり、入場時には立って拍手をしたら穐吉さんと目線が合ったのだ。
 及川房子さんは、僕と同い年の1947年(昭和22)6月3日、盛岡生まれ。中・高と白百合学園を卒業。上京してから、日本3大結婚式場の一つに就職、10年間に2.000組以上を担当したことで、ありとあらゆるドラマの見聞に疲れ果て、別の職探し中に紹介されたのが、当時の最大大手スーパーが100%出資のグループ企業(外食産業・資本金57億)の会長秘書係。出世を夢見る男達の攻防、5人もの社長交替劇の全貌を見届け続けてきた、正に秘書中の秘書だった彼女。会長は本社トップのブレーンだったことから、トップのかげり、会長の引退を期に、人事部長の引止めを振り切って盛岡へ戻ってきた人なのでした。
 今年2014年10月娘・マンディ満ちるさんと初めてのデュオで穐吉さんがツアーで来るのを楽しみに、彼女の予定表には大きな「はなまる」がついている!。
10:43:00 - johnny -

2022-05-04

幸遊記NO.177 「佐々木正男のザ・ガードマン」2014.6.2.盛岡タイムス

 高校時代の同級生・佐々木正男君が岩手医大で目の手術をし退院したと、ひょっこり開運橋のジョニーへ報告に来てくれた。同級生とは不思議なもので、すぐあの頃の昔話に戻れるのだ。
 あれは高田高校定時制を卒業して2年が過ぎた昭和44年(1969)の春の事。当時のテレビドラマ「ザ・ガードマン」のモデルとなった会社「日本警備保障」に就職していた彼が、警察官の様ないでたち姿で同僚と二人、突然TVのニュース番組に登場したのにはビックリしたものだった。紹介者は「ピストルの乱射にもひるまず追いかけ、犯人逮捕のきっかけをつくった勇敢な警備員」と言う様な放送だった様に記憶する。その犯人とは、当時、日本中を震撼させていた、連続殺人の凶悪犯。横須賀の米軍基地から盗んだ拳銃を使い、4つの都市で起こした事件。
 正男君に聞けば、当時の警備会社は現在の「セコム」の前身。機械警備のモデルケースが始まったばかり。その渋谷・一ツ橋のビジネススクールからの通報により、担当者が駆けつけ、賊ともみ合いになっていたところへ、近くにいた正男君が応援にかけつけ門前に着いた時、警備員が警官が着いたと思って手をゆるめた隙に塀を飛び越え逃げ出した。とっさに彼が追いかけたら、銃を撃って来たので、電柱に隠れながら跡を追ったのだったらしい。その犯人が捕まったのは、翌朝の靖国神社境内。警官の職務質問によるものだった。
 正男君たちは国際警備連盟から表彰され、警視総監賞を貰い、会社はこの事件後、一気に機械化が進み彼等は一階級特進だったと言う。しかし彼は間もなく社を退き結婚し、子供が生れたのを期に郷里・陸前高田へ帰って来たのだった。
 彼の奥さんは、僕等と同年の生まれだが、準看護学校を経て定時制2年生として編入してきた一学年後輩の生徒だった。そういえば彼女は僕が高校4年生で車の転落事故で一ヶ月入院した時の、県立高田病院の看護婦さん。入院中にこれ読んで!と貸してくれた本は「女の一生」だったなと、タイトルだけが思い出される。
 正男君は今、ダンプカーに乗って陸前高田の復興に一役かいながら、心を癒す歌を唄い、カラオケ大会にまで参加している。
10:41:00 - johnny -

2022-05-03

幸遊記NO.176 「ささき絢子の日本の山村(シャンソン)」2014.5.26.盛岡タイムス

 時は過ぎてゆく-----------ジョルジュ・ムスタキの曲をタイトルに2004年にCDデビュー。今年の新作CDでは、日本の抒情歌を唄った歌手・ささき絢子さん。名は知ってたが実物見たのは2001年。僕が盛岡にジャズ喫茶を開いた時で、よく店に現れた。何せ隣りが自宅のマンション。聞けば彼女は、盛岡グランドホテル・アネックス脇のビルにあった「楽しいや」という歌えるスナックの経営者。「美人に飽きたら来て」と言うので店が終ってから、僕も何度か飲みに行った。現在の店は大通2丁目のサイセリアビル1F。
 彼女は良く食べ、よくしゃべり、よく笑う。だが酒は一滴も飲まないせいか、一敵もいない?程、とにかく面倒見がいい性格なのだ。そんな彼女だけに、ファンがワンサカいて、コンサートやショウはいつ、どこでやっても満席になる。そのことに思いめぐらせば、彼女は、旧満州の生まれだから満席!しかも、昭和(笑話)19年はジューク(音楽)で9月9日は九九算の如くファン増!。血液型はOだから、大型歌手体型(トランジスタ・グラマー).。と連鎖的なことが頭に浮かぶ。すみません。余計な事を書き過ぎました?。でもこれが、彼女の2作目「限りない愛のかたち」そのものなのかも知れないなと、又、連鎖。
 静岡生まれだった俳句の好きな彼女の母が「道はみんなのもの、横に並んで歩くのもではありません」。そう言われたことを覚えてる絢子さんは、いつからか、ひとより一歩二歩「パダン・パダン」と歌いながら、歌手になる勉強をした成果が出たのは1992年から。日本アマチュアシャンソンコンクールで5年連続東北代表。第4回・太陽カンツォーネ・コンコルソで特別賞。岸洋子メモリアル「第1回・夜明けの歌コンクール」で最優秀賞。などなど。
 僕の店でもピアノの鈴木牧子さんとのデュオ。ジャズピアニスト・岸ミツアキさんや盛岡在住のトランペッター兼編曲家の箱石啓人さん。ベースの中村新太郎さんのレギュラートリオをバックにライブをやったりもした。
 彼女は昔、大嫌いだったそうだが、9年前に女房が娘からプレゼントされた子犬・チワワの「ゴウくん」と出会ってから、犬が大好きになり、いろんな差し入れをしてくれたっけ。そういえば、僕の名もケン。絢子さんは今でも時折、僕においしい物を差し入れてくれる。アリガトウ!
10:37:00 - johnny -

2022-05-02

幸遊記NO.175 「エルヴィン・ジョーンズの教え」2014.5.19.盛岡タイムス

 ジャズ史上に燦然と輝く巨人・ジョンコルトレーン(1926~67。Ts・ss)カルテットの黄金期のドラマーだった巨匠・エルヴィン・ジョーンズ(1927~2004)が、一関のジャズ喫茶・ベイシーで、マスターの菅原さんと僕を含むほんの数人の前で(10年に一度くらい聞いてもらいたい話をする)と訳したエルヴィン夫人。あれは昭和が終ろうとした1988年の夏のことだった。
 「“ジャムセッション”という言葉の生れは、人を絶対に差別しない。区別しない。1つの物でも別けて食べる。そういった意味から出来た言葉。」(黒人は、明治、大正、昭和の初めまでの日本人の生き方、考え方にすごく似ているところがあった。と言う夫人)。
 「観客(聴衆)に対して絶対に冷たくしない。一人でも聴いてくれる人さえいれば、俺達は、何時間でも、何十時間でも、叩ける、吹ける、演れる、っていう決意があるんです。それは、お金の為でも何でもなく、聴いてくださる方が神様だからです。」この言葉はジャズマスターの穐吉敏子さんもいう「私達はブルーカラー(労働者)です。一人でも私達の音楽を聴きたいという人がいらっしゃれば、私達は何処にでも行って演奏します。」と言っていたことと同じ意味合いだと思ってジーンと、熱くなった。
 「ジョンコルトレーンと出会って、初めて、自分の勉強してきたことが、本当に評価される様になった。ということは、どういう階級に生れたとしても、音楽に対しても生活に対しても勉強は欠かせないんだってことを知った」そうなのだ。
 そして「日本はもっと国旗を掲げるべきです。国旗と国歌があるから日本な訳で、これが無かったら日本じゃない。何処へ行ったって日本を証明するものは国歌と国旗しかないんです」とも。この言葉には、日本ジャズ専門店の旗印を掲げてた僕でも、“ドキッ”とした。
 “エルヴィンジョーンズ”アメリカ・ミシガン州・ボンティアックに教会の子として生れた。長兄はグレイト・ジャズトリオのピアニストでリーダーのハンクジョーンズ(1918~2010)。次男サドジョーンズ(1923~1986)は、昔カウントベイシー楽団に居て作編曲もしたトランペッター。ベイシー亡き後、その楽団を率いた人物。3兄弟は一関ベイシーにも深く関わった。僕もかつて、ハンク、そしてエルヴィンを陸前高田に呼んだものでした。
10:31:00 - johnny -

2022-05-01

幸遊記NO.174 「板倉克行の密林ダンス」2014.5.12.盛岡タイムス

 ジャズワールド紙5月号を開いたら、「ピアニスト・板倉克行氏が(2014年1月10日に)死去」との記事。それを読むまで、彼が亡くなったことを知らずにいた。2月16日、台東区松ヶ谷のライブハウス「なってるハウス」で板倉氏を偲ぶ会も開かれた様子。
 板倉さんは唯一無二のジャズピアニストであり、特にもフリー系の音を好む人達にとっては、伝説のサックス奏者・故・阿部薫(本名・坂本薫・1949~78)と並ぶ、いや先輩格のフリーフォームピアノ奏者であった。
 両者共に天才型。音は、ほとばしる感覚そのものの様に研ぎ澄まされていた。阿部は薬物による急性胃穿孔の為。板倉は1年余前に転倒して大怪我をし、療養中だったが回復しなかった様子。勝手な推測によれば酒の飲み過ぎによる転倒なのだろうと、思ってしまう程よく飲んだ。だからこれは、僕への警鐘であるのかも。
彼が最初“ジョニー”で演奏したのは、1981年5月。翌年、6月には僕がプロデュースするジョニーズディスクの7作目の作品として、ピアノソロをジョニーでライブ録音。“洗練された美しいメロディラインと、不快な音の群が織り成す、モザイク・ジャズ・ピアノの不思議な魅力”と帯書きしたLP「海猫の島」でレコードデビュー。彼38才の時だった。アップライトピアノ、しかも2本の折れたピアノハンマー音まで巧に生かして演奏した「日本ジャズ街のピアノハンマー。又は、貝の火の化石」の即興演奏は流石なものだった。
 更に2年後の84年。僕の12枚目となる作品「密林ダンス(ハニーサンバ)」という彼のトリオによる、オリジナル曲集アルバムを制作・発表。以降彼は水を得た魚のごとく、世界を股に活躍した。盛岡には、2012年5月のビックストリートジャズライブ出演が最後。
 板倉克行、1943年8月1日旧満州国大連に生まれ、幼少から教会でピアノを習い、20才でプロ入り。当時は、グレングールド、オスカーピーターソン、ビルエヴァンス、セシルテイラー等に魅かれた様だが、ある時から自分で出したスリリングな音に、自ら影響受ける様になり、次から次へと瞬時にメロディが頭に浮かんでくる、凄腕のまさに天才的な即興ピアニストであった。
10:27:00 - johnny -
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