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レポート2022-01-31幸遊記NO.84 「葛西良治のロマンスティックなドラム」2012.8.13.盛岡タイムス60歳の還暦同級会の時まで、中学校の同級生たちの中に、音楽に関係しているのが居ないと、少し淋しく思っていたら、一人おりました。葛西良治さん(65)。 きけば、平泉中学校を卒業し、埼玉県川口市の中矢塗装機という会社に就職。夜は、東京声専(現・昭和音大)に通い、器楽科でジャズドラムを、故・ティーブ釜萢、八木宏、両氏に教わりながら、プロを目差したのだったと。 昼夜二又のセミプロ生活をしていた1967年12月、師から頂いたチケットで来日したドラマー“バディリッチ(1917~87)”のビックバンドを聴きに行き、圧倒され唖然とした。「実は腰が抜ける程、驚いたのだった」と。それがきっかけで、プロドラマーになる決意。キャバレー、サパークラブなどに出演。歌手伴奏なども務め、札幌オリンピックの時には、現地のホテルに出張演奏もした。その十年余りのバンドマン生活をやめて平泉に戻ったのは、母がケガをした為だった。 以来、ドラムを叩くことから石を叩く石材業に転身。雪子夫人と結婚をしてからも、ドラムは押入れに仕舞い込み、封印し続けること30年。東京時代に昼飯抜きでも、聴きに通ったジャズ喫茶。今は隣町一関の「モリソン」に通う日々。その店で「マスターとの話から2007年、東京の連中と一緒に、ドラムを叩くはめになった。60才だったし!」と笑う。 そして間もなく、平泉・吉野屋菓子店の、フロアに置いてあったピアノを使い、吉野さおりさんのフルートと、ピアノ、チェロ、ホルン、ドラムという、まるでクラシックのような編成でジャズのスタンダードを演奏するバンドを結成し活動を始めた。それから5年、開運橋のジョニーでも時折、味のあるドラムを叩いてくれる。 彼が音楽を好きになったのは5才の時。父が持っていたSP盤レコードの「一杯のコーヒーから」がきっかけだった。藤浦洸作詞、服部良一作曲のその唄は、昭和12年、霧島昇とミスコロンビアが唄った、当時としては珍しいくらい軽やかなリズム、踊りたくなる様なメロディーのハイカラソング「一杯のコーヒーから夢の花咲くこともある・・・一杯のコーヒーから小鳥さえずる春も来る」現在(いま)に通じるモダンな歌!お陰様で77年前の“一杯のコーヒー”から、話がはずんだ。良治さんの父よ!あなたは・・・ロマンの男だったのですね。
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johnny -
2022-01-30幸遊記NO.83 「照井良平の“ばあさんのせなが”」2012.8.6.盛岡タイムス陸前高田出身で、花巻在住の詩人・照井良平さん(66)が、毎年、紫波町あづまね山麓にて実行委が開催している「オータムジャズ祭」に来てくれて、「ジャズinビューガーデン」という詩を書いてくれたのは2008年。 その詩を中心に、彼の作品を僕が書にし、「照井二人展」として紫波の「ひのやサロン・鈴の音」に飾ったのは2009年の1月。彼はその詩をその年のオータムジャズ祭で朗読。その時の挨拶が「ジョニー・照井の兄弟です」だった。そう、今は亡き僕の父は、「省平」だから「良平」は、まるで身内の者の様だ。 彼の旧姓は西條。だから昔から最上の友と言いたいところだが、昔の彼は知らない。しかし、40年以上も詩を書き続け、現在は県詩人クラブの常任理事や、花巻詩人クラブの会長。全国誌の月刊詩誌である「詩人会議」の運営委員まで務める実力の持ち主。 昨2011年京都での第26回国民文化祭の現代詩フェスティバルにて、彼の作品が、何と最優秀文部科学大臣賞を受賞してしまった。震災直後、生まれ育った陸前高田市米崎町に行き、がれきの中に腰掛けた、年いった女性の背中を見た時に、誰かを亡くしたのだろうと直感したことから始まる、対話形式の詩で、気仙地方の方言「気仙語」で語られてゆく「ばあさんのせなが」 「わりごど してねぁのにさぁ むすめどまごまで さらっていがれで しまっだぁ まぁだ 見っかていねぁのっす・・・ほんだがら むすめどまごだぢがら見える こごんどごの たがいどごさきて てをあわせ はやぐけぁってこう おりゃいぎでるあいだにけぁってこうって まいにち よんでんのす・・・」 この詩は今年2012年2月11日、遠野市の「みやもりホール」で行われた「魂(たま)呼ばり」にて彼が朗読し、涙を誘われた陸前高田の方に声をかけられたという。震災詩すでに数十編。詩人としての鎮魂の旅を続ける彼の後姿に、震災前の一編の詩「精霊の鳥」が浮かぶ。「冷たくみぞれの降りしきる日に あなたは逝った 彼方から白い鳥がやって来ると しみじみかたった年の みぞれ降りしきる日に・・・・照井良平」
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johnny -
2022-01-29幸遊記NO.82 「江川三郎のサウンドナチュラーレ」2012.7.30.盛岡タイムス音響評論家、オーディオ研究家として、つとにその名を知られる(有)江川工房の代表・江川三郎さんが、この2012年、7月10日、満80才を迎えたことから、同日、東京中野駅前の四川中華料理店を借り切っての“祝賀会”が開催された。参集したのは、江川さんを慕うオーディオファンや関係者等全国から50名。 オーディオアクセサリー誌を中心に、独自の実験の工程や結果をありのままに発表しながら、良い音楽を、良い音で聴く。その、あたりまえのテーマに、人生の大半を、オーディオ聴診器のごとく、音の再生に全身全霊を傾け続けて来た人。 それは、音楽家からステレオ機器の専門家、そしてリスナーに至るまで、音楽に携わる全ての人々に注ぐ深い愛情が、彼の根底にあったからに他ならない。事実、僕も江川氏と知り合って30有余年も経ちましたが、ジャズ喫茶の命ともいえる、ステレオ(オーディオ)の鳴らし方に関する、ありとあらゆる事柄に於いてお世話になってきました。そのお陰で、今日まで江川流に「自分自身の感覚を信じて、全ての物事を判断する自分」を培ってきたのです。 彼は「物理的なデータよりも、我々には五感という優秀な測定機能がある」と語り、それを頼りに、オーディオの不必要な回路や部品の外しと補強、電源やケーブル、セッティングや反射,吸音,防震、機器の材質、等等あらゆることについて、徹底した実験につぐ実験を繰り返し、「オーディオ・実験室」の異名を取り、僕の店でも、その実験室を何度か開いてくれた。 僕は、時折用事で上京した時など、突然ご自宅の実験室へ顔を出しても、ニコニコと迎え入れてくれ、自分のベッドを空けて泊めてくれたことさえあった。料理バサミならぬオーディオ工具のニッパを使って切る、ニッパシの料理や、目の前で石臼をモーターで廻す、自作製粉機。それを自分で考案した十割そばの作り方セットを使って打った「もりそば」の忘れ難い味は、彼が、愛してきたナチュラルな音と一緒。 誕生日パーティで、彼は「ぼくのために、集まってくれてありがとう。夢みたいです。私が居なくなっても、交流して下さい」と言って皆を笑わせた。
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johnny -
2022-01-28幸遊記NO.81 「新妻好正の縄文魂・風の祭り」2012.7.23.盛岡タイムス東北南東の涯「磐城」に東北北西の涯「津軽」の魂を呼び寄せることから始めた、縄文魂(ジョウモンソウル)「風の祭り」は、30年間、60回開催され、2012年7月1日、その幕を下ろした。 「風の祭り」は、表現者(出演者)・観客・縄文魂の会(スタッフ)による三者の交感実験磁場。その時、その場でなければ形に成らない、新しい芸術文化の生まれ落ちる様を観ることが出来た無二の前衛総合芸術劇場。 会主は、かつて高校の国語教師だった新妻好正(65)。同じ福島とはいえ冨岡町に生まれた彼は、田舎出身の反動から、東京弁にあこがれ、日大文理学科へ入学し、シティボーイを目差したというが、70年安保闘争中の、バリケードの中で、青森県黒石出身の後輩が、「田舎で出た本です」と、高木恭造の「まるめろ」という詩集を朗読してくれた。不思議な津軽弁のそれらの意味は解からなかったが、新妻さんには、まるで音楽のように聴こえたのだった。 以来、北を訪ねて直感したのは「文化は北から下りて来たのだ」ということ。青森県にて、様々な表現者たちに出会い、気が付けば、自宅の書斎は、北の資料館分室的様相。遂には長文の手紙を、津軽出身のシンガー・ソングライター・三上寛に書いた。その気付先は、陸前高田のジャズ喫茶ジョニー。 その1980年4月20日、三上寛・渋谷毅デュオの日に読んだ三上さんは、「明日いわきへ連れてってくれないか」で始まった、津軽の宵。その第一回83年の副題は、「濡れて路上いつまでもしぶき」。そうだった!あのしぶきはあれから30年も道を濡らし続けて来たのだと今にしておもう。 「月よりもっと遠い場所、それは劇場だ」とかつて寺山修司が率いた「天井桟敷」の劇団員が叫んだと三上さん。そうだ、彼もまた、確かその天井桟敷にも関わった人!と、僕思い出す。 東北いわき鬼市場「風の祭り」最終回は、いわき芸術文化交流館アリオスの小劇場。出演したのは、地元の高校生や舘じゃんがら念佛保存会。そして三上寛、キムドウス、福島泰樹、佐藤道弘・道芳、海寶幸子、國仲勝男、太田恵資、永畑雅人、石塚俊明、福士正一、鈴木秀次、粥塚伯正、と様々なジャンルの巨人たち。その中に、盛岡から新人・金本麻里。この娘の凄さには誰も彼もが、驚きを禁じえなかった。僕さえも感動で涙がにじんだ。
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johnny -
2022-01-27幸遊記NO.80 「箱崎幸子の最後の抱擁」2012.7.16.盛岡タイムステレビ創成期の人気番組で、小説・漫画・映画・レコード化など、現代メディアの先駆けとなった「月光仮面」。その原作者で脚本家、作詞家としても超大物だった、故・川内康範(こうはん)氏(2007年、歌手・森進一との「おふくろさん」騒動が記憶に新しい)は、その翌年、87才で亡くなったが、入院先のベットから「いわきで飲みたい、晋一郎君の墓参りをしたい」と一通のハガキを出した。宛先は、福島県いわき市に開店したばかりの「ラウンジ抱擁」。同市は、川内氏が疎開して4年間住んだまち。その時の昭和23年、氏は第一回福島県文学賞を受賞し、彼のスタートとなった原点の地でもある。 「ラウンジ抱擁」は、生前氏と親子の様に親交を深めた、岩手出身の歌手、故・箱崎晋一郎さんの未亡人、箱崎幸子さん(52)がふるさとに開いた店。そのいわき市にある箱崎家の墓の横には、「箱崎演歌の詩雲流れるが如し」と川内康範氏が自ら揮毫し贈呈した詩碑も建っている。 箱崎信一郎、1945年2月17日生まれ。1969年発売のデビュー曲「熱海の夜」が大ヒット。10年後の「抱擁」で再びのヒットに恵まれ、最後の曲となった「東京運河」が3度目の兆しを見せる中、末期肝臓癌に倒れ亡くなったのは、88年(昭和63年)の夏だった。享年43才。 それまで専業主婦で、3人の子供が居た妻幸子さんは、夫最後の曲となった「東京運河」を自ら歌い継いでヒットさせたいと、ボイストレーニングに通い続け、7年後の95年にその「東京運河」で歌手デビューした執念の人。新宿のクラブで歌い、赤坂には「エンブレイス」(抱擁)を開店。更に、10年後には、故郷に戻り店を開き、更に3年後の2008年、晋一郎さんの誕生日に合わせ、その「ラウンジ抱擁」を、いわき駅近くに移店した。店内には「無償の愛惜、無上道!!」平成19年(2008)11月5日川内康範。と、したためられた色紙。 店に立つ歌手・箱崎幸子さんは、今も美しい。青春時代には、福島民報社が主催した、ミスいわきコンテストで、何と、10万票近い読者票を獲得し優勝した美人。その彼女がマイクを握り、唄い出した。「好きよ好きよ好きよ・・・・」と身に沁みる歌詞と声、その素敵な大人のうたは「最後の抱擁」。じわじわ人気の曲らしい。おもわず1枚買いました。
12:45:00 -
johnny -
2022-01-26幸遊記NO.79 「佐々木浩平のビート・ガレージ」2012.7.10.盛岡タイムス「愛すべき若者である」と、僕は彼と出会った時にそう想った!。明るく、茶目っ気があり、自由で一生懸命。そして礼儀正しかった。 「マスター!面白いピアノを弾く子を見つけたよ!」そう言って、陸前高田のジョニーへ、その佐々木浩平君という少年ピアニストを連れて来たのは、遠野で看板業を営みながら、ドラマーとしても活動してた、故・菊池コージさんだった。1998~9年頃の事。 僕が盛岡に店を移してからは、突然現れてピアノを弾き、バンドで何度か出演し、唄伴の為に呼んだりもした。彼の手に掛かると、曲はロックもポップスも、ジャズでさえも、彼流に衣替えして、別物の様な姿で現れるのだった。 2009年6月、札幌パークホテルで行われた、穐吉敏子・ルー・タバキン・ヴィンテージ・デュオが終った夜に、交差点で、偶然に彼と出合い二人で酒を飲んだ。そして今年2012年6月11日、穐吉敏子ソロツアー中の札幌で、彼に電話をしたら案内されたのは、「ビート・ガレージ」というライブハウス。そこはかつて全国チェーンで知られた「KENTOS」という店のあと。そこを、閉店時まで出演していたバンドで店を引き継ぎ、その後に、自分で経営するはめになったのだと、彼は笑った。出演していたのは、その「リトル・ベアーズ」。 懐かしの60年代ポップスやロックンロールのビートに乗って、おじさん、おばさん達がノリに乗って踊り出す昔的な店だが、演奏も唄う女性も全員若者。浩平君は汗だくになりながら、ビールやポップコーンを運び、時折交替しては、キーボードを弾く。ヤンヤの喝采!。今も一夜4店舗、9ステージを掛け持ち、次店への移動中に頭を切り替え、ポップス、ロック、ソウル、ジャズと、次のリズムで歩いて行き、演奏するのだという凄さ! 彼は1980(昭和55)年、八戸生まれ。6才からピアノを習い、12才で「エリーゼのために」をジャズ風に弾き、教室を破門された。13才で作曲家・さがあきひこ氏に拾われ、14才で「サンキュー・ベリーマッチ」という吹奏楽曲(43パート譜)を作曲し、全国中学アイスホッケーの入場行進に採用された。19才の時には、ミュージカル「かえるのらくえん」を作曲するなど、若い時から才能を発揮し、今日に至っている。
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johnny -
2022-01-25幸遊記NO.78 「高橋絵美夏のヴァイオリンと歌」2012.7.2.盛岡タイムス「絵美夏と言います。歌わせて下さい。カラオケも持って来ました」と言って、彼女が僕の店開運橋のジョニーに現れたのは、2003年の事。まだ、あどけなさを少し残していた21才の時でした。 歌いだして間もなく、僕と女房は思わず顔を見合わせた。生演奏ではない、電子楽器の音源だったから、盛り上がりに欠ける平坦なサウンドにも関わらず、彼女の盛り上がる歌には、ビックリするほど素晴らしいものがあった。 以来、来店の度に歌わせ、後に、北島貞紀トリオで歌い、定期的にジョニーにも出演。間もなくヴァイオリンも持ち出して来たが、ジャズの感覚を見につけるまでには、大変な時間を要した。それでも、持ち前の負けん気で頑張り「岩手を世界に発信するメッセンジャーになる!」と「ヴァイオリン・シンガー」を自称。 県内外のイベントは勿論、東京でも歌い、教え。これまで、ロサンゼルス、ラスベガス、マイアミ、コロンビア、タイ、上海、韓国、等のステージにも立って来た絵美夏。1982(昭和57年)8月9日生まれ。3才からヴァイオリン、声楽は小学5年生の時に、現・藤原歌劇団に所属する、盛岡出身・東京音大卒のソプラノ歌手・野田ヒロ子氏に師事したことに始まり、ポップスは、盛岡二高2年の時、元シャープホークスのアンディ・小山氏に師事。 歌手になりたいと思ったのは、マライアキャリーのステージを見て、こういう歌を唄いたいと思ったから。以来、マライアや今年2012年2月に他界したあのボディガードを歌ったホイットニーヒューストン(48)の曲を得意として来た。2010年秋には、「START」というCDで全国デビューも果たした。 東日本大震災で被災した、高田松原の松で中澤宗幸氏が製作した2本のヴァイオリン(1本は世界を、1本は日本を廻っている)を「命をつなぐ木魂の会」通じて、この7月20日「千の音色でつなぐ絆・震災ヴァイオリンで奏でる故郷の響」と題し、陸前高田市立第一中学校で、斉藤弦、城代さやか氏らとそのヴァイオリンでは県人初となる演奏をして来るのだと言う。頑張ってね。
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johnny -
2022-01-24幸遊記NO.77 「藤嶋功作の王と玉の様」2012.6.25.盛岡タイムスあれは2004年の3月、藤嶋功作というカッコイイ名前の男が、僕の店にやって来て「雑誌で見て記憶してたんだけど、確かこの店に“タイムドメイン”のスピーカーあるって、それを聴かせて下さい」と言った。 ところがその時、スピーカーは貸し出し中。仕方なく僕が口で説明したところ、「最高に気に入った!そのメーカーの“YOSHII 9”を取り寄せてもらいたい」そして「一生涯の兄弟友達になってほしい」と言うのだった。僕も即、喜んでOKした。 話を聞けば、それまで横浜の広告代理店に勤めて、クリエイティブ・ディレクターの仕事してたが、弱った母の面倒を見る為に、会社を辞め2月に盛岡の実家に戻って来たのだと言う。ところが,戻って3日後に母が亡くなって、途方に暮れてしまったと。 彼は1956年(昭和31)盛岡に生まれ、山岸小、下小路中、市立高から千代田デザイン専門学校に学び、30年近く東京、神奈川暮らし。1987年、木村克美、田崎真也という名だたるソムリエのセミナーに一年間通い、ワインに開眼。間もなくヨーロッパに渡り、ミラノ、ローザンヌ、リオン、シャニー、ボナス、パリ、ブリュッセル、バルセロナ等の有名レストランを巡り、ワインと食の濃密な関係を体感し帰国、以来ワインに没頭し続けた。 そんなこともあって彼は、盛岡で店をやろうと、その4月「ワインの王様」というバーを開業。そこで僕は、珍しい形状のタイムドメイン・スピーカーを、カウンター上にセッティング。ジャズが何処から流れて来るのかと、客は不思議がった。ワイン通としても知られるジャズピアニスト・穐吉敏子さんの盛岡公演時、提供するワインを必ず彼に選ばせ、彼女の反応や喜ぶ顔を見るのも、僕の楽しみの一つ。 その藤嶋さんが今度は、何とラーメン屋を開業した。自分が食べたいラーメンを作る為の店だと言う。なので、いつもスープの研究に余念が無い。薄味のラーメン上に乗っかる、親指程もある極太メンマのダイナミックな旨さ!穂先メンマの繊細で上品な味わい深さ!共に感動的である。ミスマッチと思われそうなラーメン屋でのワインも乙なもの。 盛岡桜山神社前の鶴ヶ池渕「藤嶋家・玉(ぎょく)」王の次に玉とくれば、将棋の一つもさしてみたくなる気分。美味しさ至玉!
12:31:00 -
johnny -
2022-01-23幸遊記NO.76 「荒川憲二郎のドラゴンジャズ」2012.6.18.盛岡タイムス1980年代の夏、まるで渡り鳥のように、秋田県田沢湖町から、岩手県陸前高田市 にあった僕の店を目差して、200km余りの道程を、当時、ドカバイと呼ばれた黒の50cc原動機付自転車に乗って、毎年毎年、必ず飛んで来たジャズファン荒川憲二郎さん(55)。 彼がジャズを好きになるきっかけとなったのは、僕と同じで、岩手県宮古市出身の世界的ジャズピアニストになった、故・本田竹彦(広)のレコードを聴いてからだった。 その荒川さんは、僕の店「ジョニー」に通い出して10年目の年、意を決し、自分の住む田沢湖町に、ジャズファンクラブを立ち上げたのでした。その名はドラゴンジャズサークル(田沢湖邪頭倶楽部)というもので、確か20数名での発足。当時は、全国にそうしたファンクラブが数多くあったが、今ではその殆んどが姿を消してしまったが、ドッコイ!田沢湖ジャズクラブは健在で、結成20周年を越えた。これまで年2回ペースで52回もの生ジャズ演奏会を開催して来た。恥ずかしながら1度だけ僕のバンド「アテルヰじゃんず楽団」を町民会館のリハーサル室に呼んでくれたことがあった。素人のバンドはこの時だけで、あとの51回は全てNYと東京からの一流どころ。 結成時からジャズサークルの顧問にさせられている僕は、名前だけでは申し訳ないと、平成8年(1996年)から、我ら日本が誇る!世界のジャズピアニスト・穐吉敏子さんを紹介し、これまで9回田沢湖で開催した。その9回目となった今回の穐吉敏子ソロ(2012年6月15日)は、その田沢湖ジャズクラブ始まって以来の大入り!会員全員が大喜びし、満面の笑みをたたえてた。 今この世は、インターネット情報の時代だから、あちこちから問合せが来る。でも、それはあくまでもプラスアルファー、荒川会長をはじめとする、全会員の手売りによるチケット販売のたまものなのである。今年はドラゴン(竜)年、彼等にとっても最高の年となった。 その穐吉ジャズを聴きながら、湖畔の絵(120号)描いたのは、あの屋根の無いアトリエ作家・菊池如水さん(90)。それを終演後披露し万来の拍手。 そういえば16年前、荒川さんを主人公にした僕の初小説「瑠璃色の夜明け」というのがあったなぁ。
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johnny -
2022-01-22幸遊記NO.75 「井上洋一のヴィンテージ・ワイン」2012.6.12.盛岡タイムス
ジャズ喫茶通いを始めた高校一年の頃から、穐吉敏子さんの演奏を耳にし、2003年に行われた、最後の「穐吉敏子・ジャズオーケストラ」東京公演にも、北海道から足を運んだと言う、帯広のアキヨシ・ファン・井上洋一氏。
彼が、僕の店「開運橋のジョニー」に現れたのは昨2011年の秋。12年の6月で最後となる穐吉敏子さんの一人旅・日本ツアーの後半、札幌の「くう」というジャズスポットでの演奏を終えたところから、僕が後一週間のスケジュールを頂いて、公演先を決める準備をしている時だった。 ワインショップを経営しているという井上氏に、ワイン通としても、その世界に知られる、穐吉敏子ピアノコンサートの企画を打診してみたら、彼は「これを逃したら後悔する」と瞬時に思ったらしく即決!。そして「私としては、ただ、頭数を集めればいいコンサートには、したくない。本当に穐吉さんの演奏を聴きに行きたい、という意識を持つ人に、集まって貰える様な“手づくりコンサート”にします」と言って帰ったのでした。 それから、今年に入ってすでに二度、先日には、「地元では、殆んどの人がこの新聞を読んでいるのです」と言って、十勝毎日に大きく紹介された記事の切り抜きまで持参してくれた。聞けば、日本酒にも力を入れようと、酒蔵を訪ね、実際に自分の目と鼻と舌で確かめ、良しとする酒探しの行脚。 だから、世界に冠たる「穐吉のジャズ」でさえ、ファンとしてレコードやCDを聴いて来て、コンサートも聴きに歩き、彼が心から納得した上で、自信を持ってお客様にすすめる。そんな井上洋一氏の行動から、僕は、酒や音楽、商品の一つを取ってみても「提供する側の芸術的見地に立つ姿勢」の必要性を観せて貰った。歳は?大学は?と尋ねたら、1959年(昭和34)帯広生まれ。函館ラサール学園から日大芸術学部・映画科・脚本コースへと進んだ人でした。納得!納得! 井の中のカワズではなく、井の上でカワス酒、それは水の如き“生ジャズ”。だから66年間も熟成させた「穐吉ジャズ」は世界広しと言えど滅多に味わえぬ、紛れも無い“極上のヴィンテージ・ワイン”の印象そのものなのである。
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johnny -
2022-01-21幸遊記NO.74 「小川延海の未来少女」2012.6.4.盛岡タイムス「陶道に入って32年になる」という手紙をともに、一編の詩「陶板との出会い」そしてその当時の“ろくろ”を回す手の写真が添えられた手紙が、大槌町御社地天神前の“ギャラリー花舘”から届いたのは、2006年4月29日のことだった。 その“花舘”の主人・小川延海(のぶみ)さんは、かつて全国的ブームを巻き起こした、あの独立国「吉里吉里」の仕掛け人で、工芸大臣だった。「イッタカキタカ号」などという一つの胴の両方に頭がついた狛犬や、河童や魚の置物などユニークな作品を創った。僕が盛岡に来てから訪ねて行ったとき、僕にくれた「石のような焼物オブジェ」は、今も僕の店のカウンター上にある。 彼は1970~80年代に「花屋敷」という朝9時から夜9時までのジャズ喫茶を大槌町で開いていた。山水のアンプ、マイクロのプレイヤー。ブラウンのスピーカーで鳴らすジャズは、シャレタ店内に、まるで絵の様な美しさで流れていた。 出会ってから、2011年3月11日の大津波の時に67才で居なくなるまで、名の如く延々と、手紙や詩編や個展の案内状が届いていた。陶を創作し、絵を描き、詩を作り、喫茶店ギャラリーを経営し、写真も撮った。彼の仕事で僕が一番好きだったのは、写真や、写真と絵のコラージュ。とりわけ若き日のジャズピアニスト・故・本田竹広や、今は無き同町の小さな老舗ジャズ喫茶「ケルン」のオヤジさんを撮った写真などが素晴らしく、昔一度、僕の店でも写真展をやってもらったことがある。 その小川延海さんが、2010年の秋頃から頻繁に交流を重ねた、名古屋市在住の、詩集編集者・水内喜久雄さん(60)に送った最後の詩「未来少女」が、今年(2012)2月28日の岩手日報に載っていた。「あの日に去った少女は青き海のかなた、深き海に見えるあの記憶は貝に・・・」。「ポエムフェスティバルin名古屋」に展示されたその詩を、盛岡で歯科医を営む延海さんの兄・邦明さん(71)のもとへ、水内さんがわざわざ届けに来て、帰りには僕の店(開運橋のジョニー)に立ち寄り、そのコピーを見せてくれた。そのことに感動し、僕も、今手元に残る、この10余年間に延海さんから届いた手紙類を数えたら、50通を越えていました。
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johnny -
2022-01-20幸遊記NO.73 「大宮純の小説・崖の上の楓」2012.5.28.盛岡タイムス
2007年7月15日発行のA5版361頁からなる「空を駆ける」。同じく2009年7月15日発行の400頁の「機関銃を捜しに来た男」。そして今年2012年の、たぶん7月15日には3冊目となる「春を告げる王の鳥」という単行本を出版する大宮純さん(64)は、日本民主主義文学会に所属する盛岡在住の作家である。
彼と出会ったのは、2008年の「あづまね山麓オータムジャズ祭」の会場でした。紹介してくれたのは、僕の中学時代の同級生で、彼の奥さんである直子さん「作家活動をしている夫です」だった。なかなかの男前! その翌年の2009年、僕が講師となって4月から始まったNHKカルチャーセンターの講座「ジャズの魅力への招待」を聴講しに夫婦で来たので、僕はビックリギョウテン。何しろ直子さんは、中学時代は学年のテストで毎回1・2番の成績、僕にとっても、同級生の誰にとっても、超あこがれの的だったひとでしたから。 その講座の時、純氏は来た理由を「照井さんの話やジャズを聴き、それについてのエッセイを書きたい為に申し込んだ」と言うものでした。それは2冊目の本「機関銃を捜しに来た男」という小説の巻末エッセイに「ジョニーへの伝言」として載っていました。タイトルの小説は、1971年7月30日に雫石上空で起きた、全日空機と自衛隊機の衝突事故に関する内容で、読み応えがあり、かつ印象に残る作品だった。 そして今年3冊目となる本に、推薦文というか感想文というのかを、僕が書くことになり、ようやく読み終え書き終えたところなのです。何しろ今作も10篇の小説と65編のエッセイ、それに寄稿文や寄稿小説まで並ぶ大冊なのである。タイトル小説は、2011年3月11日の東日本大震災時の体験を綴った「春を告げる王の鳥」と、その続編。中でも僕を捕らえてしまったのは、彼、大宮さんの母が麻を植え、それを繊維にし機織機(はたおりき)にかけ布にし、遺していった反物にまつわる「崖の上の楓」。大宮純(本名・伊藤孝)と、その兄たちが生まれ育った江刺、50年前の母の懸命さと、作者自身の心が一つになって生まれた作品であった。
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johnny -
2022-01-19幸遊記NO.72 「荒井勝巳の純手工ギター」2012.5.21.盛岡タイムス僕は、若い時からギャグ(ダジャレ)好き。今流行の「オヤジギャグ」ではない、チャチャを入れるところから始まった、筋金入り?の「逆親爺」。ある時、是非、僕に会わせたいシャレの達人が居る、と言ったのはギタリストの故・七戸國夫さんだった。 その人と、初めて会ったのは、七戸さんの通夜の時だった。しゃべり出してみれば、さすがの凄シャレ。仏前で、いつ果てるともなく、泣き笑いしながら、友人達との駄ジャレの応酬、そして僕に「師匠!」と手を付いたのは荒井勝巳・名工と呼ばれる純手工ギターの製作者だった。七戸さんが、「最高の音」と言ってくれるまで、徹底して制作研究に打ち込み、創り上げた10年目の作品を気に入って持ち帰り、演奏したのが最後となったらしい。 彼、荒井勝巳さんは1941年、埼玉県潮来の生まれ。溶接工だった10代の頃、友人が弾くギターに魅せられ、ギターを横尾幸弘氏に師事した。20才の時、同じ教室に通う生徒の持って来た手作りギターに感動し、先生の紹介でギター製作者・黒澤常三郎氏、そして田崎守男氏にギター製作を学び、27才で独立。埼玉県に工房を構えた。最初に、師の手工ギター工房で触れた自然な音が、彼のその後の人生を決定付けた。ドイツの名ギタリスト故・ベーレント氏が来日した際に彼のギターに出会い絶賛。自ら発注、生涯愛用し、旅先から、近況報告の手紙が来たと言う。それは「世界一流の製作家」への道標となった。 彼が言うには、名器と呼ばれる楽器とは「円やかで,芯があって、細くなく、ボリュームに遠達性があり、オリーブ油の様な音がする」ものらしい。彼が製作上、特にこだわっているのはバランス、そして高音よりも「へたばらない低音」を重視する創り方。 僕は、今だギタリストには成れず、ただ、タダ、打ち鳴らすだけの乱暴な奏法。それでも、ガンガン鳴り、気持いいのだ。ギタリストが弾くと、うっとりする音で鳴る。そのギターは、出会った直後に、彼が、僕の為に作りプレゼントしてくれた宝物。 そのギターを貰いに行った1994年の三日三晩,起きて寝るまで将棋さし!彼は物凄く強い!全敗で、「師匠!」と、僕が手を付いた。「お酒です。ご飯です。お風呂どうぞ。」彼の故・禮子夫人の献身的なおもてなし。そして、その後、時折の代筆手紙は、妻の鏡でした。
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2022-01-18幸遊記NO.71 「畠山耕太郎のなって頂戴大物に」2012.5.14.盛岡タイムス岩手県知事・達増拓也氏が言い出しっぺとなって世に送り出された「コミックいわて」が好評で、その2冊目の「コミックいわて2」が初版1万5千部を刷って発売になった。 昨2011年に発行された「同・1」のトビラを開いた時、岩手が舞台の漫画作品マップというのがあって、そこに「陸前高田邪頭(ジャズ)音頭」畠山耕太郎「実在のジャズ喫茶・ジョニーのマスター(僕のこと)の話を漫画化した作品」という紹介が載っていた。 その「陸前高田邪頭音頭」は、昔、月刊の「アフタヌーン」という漫画雑誌に読み切りで載り、のち「KIZA」という彼のヒット作がリイド社から単行本で出版された時、最終の第7巻の巻末に「おまけ」で載った作品。そのおかげで、その後、台湾版や韓国版にまでなって1980年代から90年代にかけて話題となったものでした。 ある時畠山さんが、その原画(稿30ページ)を持参し、僕にプレゼントしてくれた。僕はそれを新聞社に頼んで、新聞用紙に大量に印刷してもらい、今尚、読みたい人にプレゼントし続けている。それは、1975年高田松原球場で行った、当時の革命的な野外コンサートのドキュメンタリー作品。 その漫画家・畠山耕太郎の本名は耕史。1959(昭和34年)陸前高田生まれ。中学時代より長距離ランナーを目指し、専修大学時代まで走り続けた。高校時代には、一関・盛岡間や北上・横手間の駅伝で区間賞を取り、「第1回・陸中山田マラソン」高校の部・10kmで優勝するなどし、大学では、20km1時間。30km1時間40分。で走った。 大卒後のフリーター時代に拾い読みしたマンガ本を見て、これ位なら俺も書けるんじゃないかと、一年発起し漫画家を目指し、描いた作品が認められ、マンガ家・守村大(もりむら・しん)氏のアシスタントをして2年間修業。 そして26才の時、独立して描いたマラソンマンガ「なって頂戴大物に」は、なんとコミックモーニング新人大賞の「ちばてつや賞」に輝いたのでした。賞金100万円。すぐ様講談社のアフタヌーン誌で、その続編の連載が開始され、全3巻の単行本にもなった彼の初ヒット作。あれから四半世紀、彼は今、仙台にてパチンコやパチスロマンガを描いている。
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2022-01-17幸遊記NO.70 「鷺悦太郎の油彩画“アリア”」2012.5.8.盛岡タイムス長い歴史を持つ美術の公募団体「白日会」に3年連続出品し「一般入選」「一般佳作賞」そして今年、2012年の第88回展に於いて、油彩F100号の「アリア」で遂に「白日賞」そのものを手にした陸前高田の画家・鷺悦太郎さん(53)。 彼は昨年の3・11東日本大震災の大津波で、住まいもアトリエも200を超える作品も失ってしまったが、受賞作は、津波後に高田松原に立つ女性を描いたもの。今は仮設住宅に住みながら、それこそ仮設のアトリエも設けて、創作活動。更には9ヶ所の絵画教室も復活させ後進の指導にも当たっている様子。 小学生の時、絵画コンクール入選。以来、高田高校時代の日洋展入賞。岩手大学特設美術科時代には一般公募展にて史上最年少入賞。新制作展ではいきなりの賞候補に登場するなどで、「絵画の神童」と呼ばれた男だった。が、ある時パタリと出展をやめてしまった。昔は描きたい「物」にこだわり、その後には、モチーフとバックの「関係」にこだわって描き続けていた。 僕も彼の絵が大好きで、若い時に描いた魔法瓶と炭火入れの絵(F80号)を10年以上も店に飾らしてもらった。実にいい絵だった。地元のバンマスで、シンガーソングライターの平岡睦男さんのLPレコード・ジャケットに瓶が歌っている様な不思議な絵を使わせて貰い、ジョニーの本の表紙絵、挿絵も描いてもらった。 1998~99年頃、何ヶ月もの間、僕の店が終った深夜から未明にかけて、酒を飲みながら二人でセッセと絵手紙(はがき)をかいた。彼、鷺さんが絵を担当、僕が、その文を担当するという遊び、あれは実に、楽しい日々だった。気が付いたらそれは200枚を超えていた。その展示会は、ギャラリーや博物館、郵便局や温泉、しまいには盛岡市立図書館まで、1999年から2000年にかけて何度もの巡回展へと発展し大好評だった。絵も書もお互い「上手に書かないこと」が“約束”だったからか、見る人たちの笑いが絶えない程、馬鹿受けした。 彼の絵は、表面的な表し方ではなく、その物の存在感や質感を優先させる描き方。そしてそれを、空間の中にどう置くかということにこだわっていた。最近は生命あるもの、いわゆる生き続けているものの、内面性とその魂までも伝える描き方。見る側にも、その物語が始まる。
12:15:00 -
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2022-01-16幸遊記NO.69 「今野憲一のハルウララ」2012.4.30.盛岡タイムス
めぐり来る毎春、聴き返すたびに、魂がゆさぶられ、闘志をかきたてられる歌がある。連戦連敗、未勝利のヒロイン、かすかな希望のノンストップ・スターだった高知の人気競走馬「ハルウララ」のことを唄ったロックの、シンガー・ソング・ライター・今野憲一さんが自作自唱し、NHKにんげんドキュメント「日々これ連敗・競走馬ハルウララ」で使われた「RISING・SUN」(ハルウララの応援歌)である。「ひたすら走ることだけが君を支配し、勝利という二文字は果てのないシンボル・・・・・責めたてられる毎日に、君は絶望を知らない」
彼、今野憲一は1958年11月生まれ。高校時代からバンド活動。大学時代には東京のライブハウスで弾き語り、彼の故郷、岩手県大船渡市で1987年に録音した「お前に招かれて死にたい」のファーストアルバムを88年1月に発表。その年「K2プロジェクト」というバンドを結成し、93年にCD「K2プロジェクト」を発表するなど活動を続け、1993年、東京日野市に「SOUL・K」というライブハウスをオープン。自らは「壁の穴強盗団」というバンドを結成。10年後の2004年に先の「ライジング・サン」を発表し注目を浴びたばかりの翌05年8月、46才の若さで脳溢血で急逝した。 思い起こせばレコードデビューした時、僕の店で唄い、僕のFM番組に出てくれたことがある。「想いがあるから曲が生まれる」というようなことを言っていた記憶が戻る。確かに、初LPレコードの中で唄われていた、「多喜二」という彼の曲の時もそうだった。 その小林多喜二は、秋田に生まれ、小樽に育ち、文学史に残る名作「蟹工船」や「不在地主」などを発表し、職場を追われた。上京後には、不敬罪にあたる記述があると投獄され、出獄後も左翼作品発表し続けたため、特高警察に逮捕され拷問にあい、1933年(昭和8年)30年の短い生涯を閉じた悲劇の革命作家。小樽には彼の文学碑がある。 2006年夏、彼、今野憲一も又、生前の音源を集めた二枚組みCD「ソング・イン・マイ・ハート」が彼の姉・片平美津子さんの手によってつくられ、魂のSOUL・Kとなって、再び北へ戻って来たのでした。
12:10:00 -
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2022-01-15幸遊記NO.68 「荒谷光彦の“ファイブ・ペニーズ”」2012.4.24.盛岡タイムス前回、日本ジャズ専門店を35年間続けて来たということを書いた。その記念日とも言うべき僕の65才の誕生日の朝、正確には昼、携帯が鳴った。声の主は久し振りの沼田智香子女史。彼女は1990年頃から約20年、FM岩手のジャズ番組アシスタントを務めてくれたフリー・アナウンサー。 でもその電話は勿論、誕生祝いなどではなく、雑誌への取材申込みだった。盛岡商工会議所が出している「さんさ」という冊子らしい、僕は一度もお目にかかったことは無いが、それへのインタビューだと。ありがとう。「昔のよしみでの取材ではない、指名で頼まれた仕事なの!」と気を使ってくれている様子が伺えた。 余計な個人情報かも知れないが、沼田女史は、僕の古い友人で現・(株)読売岩手広告社の社長・甘竹明久さんの奥様。その甘竹さんは何を隠そう、2001年4月、陸前高田から盛岡へ僕を連れて来た男。不思議なもので、その話の出所は「ボーイ・プランニング・カンパニー」の社長・荒谷光彦さん。彼も又、この4月20日を僕の誕生日とも知らず、何年振りかで店にやって来て、僕は、バーボン「ジョニードラム」をご馳走になり、それこそドラマー・澤口良司さんからの誕生祝いのワインでも乾杯!した。 彼、荒谷さんは美容室を何店舗も経営している人。20年前現・ジョニーの近くにある彼の自社ビル地下の美容室「ビル・エバンス」の音楽部門を独立させて8年間続けた「ファイブ・ペニーズ」の跡を継ぐ形でジョニーが盛岡へ移転して来たのでした。その20年前の店のオープン記念コンサートは、教育会館での「穐吉敏子・ジャズオーケストラ」。 この4月ニューヨークでその「穐吉敏子・ジャズオーケストラ」を久し振りに聴いて来たばかりの僕。その穐吉さんが昔、雑誌のインタビューに答えて「ジャズって何?と聞かれると“サッチモ”のことを想い出すの」と言っていたことを想い出し、また「映画・ファイブ・ペニーズ」(5つの銅貨)に出ていた“サッチモ”のことも想い出し、かつて「サッチモ」こと「ルイ・アームストロング」が住んでいた家をブルックリンに訪ね、4月20日より「日本(和)ジャズ専門」から「世界のジャズ」へと「開運橋のジョニー」を原点帰りさせると決心して帰ってきました!もちろん!スタートは「ルイ・アームストロング」から。
12:08:00 -
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2022-01-14幸遊記NO.67 「ニューヨーク・リンカーンセンターの奇跡」2012.4.17.盛岡タイムス1977年以来,今日まで35年間、僕は日本のジャズ一筋に生きて来た。その日本のジャズも今では,世界中に翔き、世界最大のジャズマーケット・ニューヨークでは、2012年4月のジャズスケジュールにバンドのリーダーとしてクラブやホール等に出演している日本人や日系人の名が相当数見られる。 日本からアメリカに贈られた3000本の桜も子孫繁栄し、100周年を迎えたことから、僕達一行もまた、サクラとなって「ジョニーと行く穐吉敏子への旅」としてアメリカに来た。 ワシントンDCの名門ジャズクラブ「ブルース・アレイ」に3日間、満員の聴衆を集めて行われた最終日の2ステージを鑑賞!。「全米芸術基金NEA・JAZZ・MASTER」の称号を与えられた唯一人の日本人・穐吉敏子(82)の気迫溢れる熱演に度肝を抜いた!凄い!の一言。 想い起こせば」56年前の1956年。単身アメリカに渡った穐吉敏子さんが、今日まで苦難を克服しながら切り拓いて来た「日本ジャズの世界」は、現在「世界のジャズの中心(核)」となっている事実!。 「ブルース・アレイ」のスケジュールを見れば、穐吉の他、スタンリークラークのバンドで、グラミー賞を受けたピアノの「HIROMI」や、全米スムースジャズのトップランナー「KEIKO・MATSUI」などが太字で名を連ねる。 ニューヨークの「ジャズ・アット・リンカーン・センター」の「ローズ・シアター」で2日間「穐吉敏子・ジャズ・オーケストラ」の特別公演。その前日、リハーサルの2日目(12日)に僕達一行のリハ見学を許可し、招待してくれた穐吉さんに大感激。指揮する穐吉さんが、彼女のオリジナル曲を演奏するオーケストラに向かって的確に指示する一言一言が、そのサウンドをガラリと変貌させ、繊細さを増してゆくオーケストラの音。 穐吉の、いやニューヨークのジャズ史に残るコンサートの裏側を僕達だけが特別に体験させて貰ったことにも大感謝!当日のコンサート(今夜13日)。それこそ紅いバラを想起させる様な楕円形のホールの中央で聴いた僕達は、360度から湧き上がる歓声と拍手の嵐に包まれて感極まった。(ニューヨークにて)
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2022-01-13幸遊記NO.66 「デュッセルドルフの交響楽団」2012.4.10.盛岡タイムス世界三大B、バッハ、ベートーベン、ブラームス、を生んだ音楽の国ドイツ。その中でも、長い歴史を持つ、デュッセルドルフのオーケストラ文化。町は1914年以降、有名宮廷楽団を抱え、バロック音楽の中心地へと発展させた。1720年以降は宮廷音楽家達が「マンハイム管弦楽団」の基礎をつくり、1818年には「市立音楽連合」なる合唱団が組織され、1864年市は正式に音楽家達を雇用しそのスタイルは現代まで続いていると言う。 そのドイツの至宝、伝説のオーケストラ、デュッセルドルフ交響楽団がドイツの魂とされるベートーベンの曲を携え、日本にやって来たのは2006年の秋だった(10月31日、東京サントリーホール)。 その翌日11月1日、同楽団の首席・ソロ・コントラバス奏者・ブウォジミエシュ・グラ(WlodzimierzGula)氏が何と「開運橋のジョニー」にやって来たのでした。ヒゲ面とヒゲ面の彼と僕は酒酌み交わし、意気投合。その日出演の藤原建夫ピアノトリオとのセッション!感激のあまり女房の小春さえ会計を忘れて帰した程だった。 ところが更にその翌日の11月2日、兵庫と岩手の混合カルテットのライブ中に、何と楽団の半数だという40人程をグラ氏が連れて来て、ビア!ビア!で、アッと言う間にビールが売り切れ。お客で来てた紫波の「ささき歯科」の先生が外へ出て、「コンビニ」数軒歩いて買い求めて来たと両手いっぱい缶ビール。それじゃ、もう一度!これがホントの缶パイ!ですと再び盛り上げた。 その後楽器を持って来てた楽団員が入れ替わりステージに立っての大ジャムセッション!いやあ凄いのなんの、うれしいの!で夢の様。同行取材のドイツ・ジャーナリストだという二人を紹介された時、僕は「ノー!ノー!貴方たちはジャーマンリスト!だ」と言ったら「ダジャレ」が通じて皆「アハハッ!」の大爆笑。 先ごろTVで情熱のタクトと呼ばれている日本人指揮者・佐渡裕氏が、なんとあのデュッセルドルフ交響楽団に招かれ、同市のトーンハレホールで「東日本大震災チャリテイコンサート」。ベートーベンの第九を汗と涙でグショグショになりながら懸命に指揮し、黙祷する姿に僕は大感動した。
12:04:00 -
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2022-01-12幸遊記NO.65 「松田宰の一期一会ワイン」2012.4.2.盛岡タイムス
先日、盛岡でワインバー「アッカトーネ」を経営しているソムリエの松田宰さん(44)が「開運橋のジョニー」にやって来た。
話によると「3月いっぱいで入居しているビルが取り壊しになるので、すぐ近くの所に4月9日、新しく店をオープンすることにしました」と笑顔。まったくご無沙汰の僕に対し、彼は時折店に、彼特有の笑顔を見せにやって来る。 彼が僕の店・陸前高田時代のジョニーにやって来たのは20才位の時だった。その日、僕は自分の実家に行く用事があって、そのまま彼を車に乗せて平泉に行った記憶。 以来すっかり僕も彼も互いにファン。盛岡や陸前高田のホテルレストランで働き、ワインに興味を持ち、かつてはワインの街大迫に学ぶために住み、ヨーロッパの国々に渡りワイン醸造所で働きながら、ワインを体得する形で学んで来た本物のソムリエ。2011年、オーストリアのワインコンテストで銀賞になった事もその一つの証。今年(2012)6月のワインフェスタにも招待されていると言う。 かつて国内外の旅先からはよく手紙が届いた。その手紙にはいつも工夫が凝らされ、読む前から心が弾んだ。「眠れない夜は少しだけ大人になります。眠れないのはきっと、素敵な予感のせいです」とか「ジョニーさんに書く手紙は、自分宛ての手紙でもあります。僕は過去の記憶の断片をたどりながら、日々歩んでいます。過去の記憶の集結こそが僕にとっての未来であるからです」などの手紙文が頭に浮かぶ。 1995~97年僕は小さな新聞の編集をしてた。その時コラム欄に何度か原稿を書いて貰った事がある。その時の文「日本の食卓に、ご飯と味噌汁とお新香があるように、西洋ではパンとワインとチーズがあります」とそれぞれには、それぞれを引き立てる役割があり、それが生まれた背景やそれを作っている人々の心までをも食卓の風景として頂く。あるいは提供する。それこそが“うらのないおもてなし”なのだと僕流に学んだ。 中の橋「アッカトーネ」は自分。上の橋「敲太郎」は父。遠野「カーゴカルト」は眼輝。と全てに彼の心が息づく。
12:03:00 -
johnny -
2022-01-11幸遊記NO.64 「七戸國夫の愛の宝石箱」2012.3.26.盛岡タイムス
日本を代表するギタリストの一人で、日本ギタリスト協会の副理事長も務めた七戸國夫さんが交通事故で亡くなってから今年(2012年3月15日)で19回忌を迎えた。「19(ジューク)は音楽の意味!」と、僕は69回目のジャズ講座にて、七戸さんが遺していったクラシックギターアルバムの特集をした。
彼の姉、故・及川友子さんが描いた“美しい花”そこに込められた“音楽の希(ねがい)”をジャケットにした最後の作品、1993年のCD「愛の宝石箱」は長い時を過て尚、先のアルバム「月の光」と共に聴手耳心に届く。 彼は、僕と同い年の1947年盛岡生まれ。父母が高校教師だったことから、小学時代を大野や田野畑村で過し、盛岡上田中学、盛岡一高へと進んだ。その高一の春、TVでギターを弾く「ナルシソ・イエペス」に感激。その後「アンドレス・セゴビア」のレコードを買って聴き、ショックを受け、プロ・ギタリストになる決心をしたと言う。 以来、地元で菅原忍氏に、卒業後は上京して溝渕浩五郎氏に師事。1日10時間以上もギターを練習したと言う。1969年、盛岡での初リサイタル。東京でのデビューは更に4年の研鑚を積んだ後の73年。翌74年には「ポピュラーギター入門」なるLPレコード(楽譜も同時発売)を発表し、ギターを志す若者達の模範となって出発した。 91年11月10日、彼は初めてジャズ喫茶での演奏会を開いた。所は僕の店・陸前高田「ジョニー」。演奏後「何をどんな風にやろうか、と、かなりのプレッシャーだった」ともらした。その録音を聴きながら「もう、こんな演奏は出来ないかも知れない。大事に保管しておいてくれませんか」と言い残し帰って行った。 「ギターは小さなオーケストラと言ったのはベートーベンだが、その大きさとは違う、極めて精神的なオーケストラでしょうね。そう、ガーッ!とじゃなく、ひたひたと伝わって来る様な音だと、そう、思っている」と言った彼の言葉が、今も僕の耳に残っている。 毎年各地で行われた追悼演奏会に何度か呼んで頂き、彼が亡くなる5日前に書いた詩「さざなみのくに」に曲をつけ、唄わせて頂いた記憶までもが戻って来る。
12:57:00 -
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2022-01-10幸遊記NO.63 「畠山直哉の石灰写真製造所」2012.3.19.盛岡タイムス「石灰写真家」との異名で呼ばれ、今や日本から、世界を代表する写真家となった畠山直哉さん(54)が、平成23年度の文化庁第62回芸術選奨(美術)で文部科学大臣賞を受賞した。「東京都写真美術館で開催した畠山直哉展で1980年代以来テーマとして撮影してきた、“自然と人間の営みとの関わりあい”を再構築した作品群の集大成。とりわけ、そこで示された新作“陸前高田”と“気仙川”は、そこに生まれ育った氏にとって重い意味を持つ作品であり、注目にあたいする」が贈賞理由。 筑波大学芸術学群に美術を学び、2年の時に大辻清司教授に写真の魅力について解かされ、それまでの絵画から、写真へと転向。大学院・芸術研究修士課程を修了した。学生時代の82年「等高線」という写真集をカメラワークス東京から出版したのが始まりだった。 彼は学生時代にもよく、僕の店「ジャズ喫茶ジョニー」にやって来た。78年には僕が制作したジャズレコードにジャケット絵を描いてくれ、版画も使わせて貰った。 96年3月、彼の38才誕生月に出版された写真集「LIME・WARKS」(石灰工場)は朝日カメラ誌の第22回「木村伊兵衛写真賞」を受賞。更に2000年6月出版の「アンダーグラウンド」では毎日新聞社主催の「毎日芸術賞」を受賞。その受賞式には「見届けて!」と、彼の母と一緒に僕まで招待してくれた。今回「おめでとう!」の電話をしたら、その母が3・11の津波で亡くなられたことを知らされ、僕は言葉を失った。彼は(東京在住)今、ふるさとの仮設住宅に暮らす人達の集会所を建てるために奔走していると言う。 「景色や場所をどこかへ置き換える遊びを、小さい時からやっていた」と言う直哉さんは「人間にとって物とは何か」を問いながら「どこでもない、地上でもない、この世じゃない、」写真を撮る人。都市とそれを造った原料との奇妙な関係。ビル群の製造工場と鉱山。ダイナマイトによって石灰石が鳥のように飛ぶ瞬間の「ブラスト」。その鳥となって彼が、巨大墓地の様にも見える都会ビル街を空撮。東京地下の暗闇を流れる川を撮り、真に絵を超えた写真と感じさせられた「アンダーグラウンド」。彼の心の中でそれらの全ては「福伏鉱山」(陸前高田市気仙町)の原風景に戻ってゆく、、、、、、。
12:55:00 -
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2022-01-09幸遊記NO.62 「稲葉紀雄のチャールス・ミンガス」2012.3.13.盛岡タイムス
幸遊記 №62 「稲葉紀雄のチャールス・ミンガス」 照井顕
ジャズの巨人・チャールス・ミンガス(1922~79)の1500頁にも及ぶ私家版として友人知己に配ったという彼の自叙伝「ミンガス・負け犬の下で」を、彼と親しかったネル・キング婦人が縮少し、編集し直して刊行された本が、日本語訳で晶文社から発売されたのは73年。その本の訳者は黒田晶子・稲葉紀雄氏。二人は国際基督教大学卒。 彼は1940年6月14日、東京生まれ。1995年米国出張中にホテルで亡くなった。当時、岩手鉱業株式会社の社長。会社は住田町の鉱山から産出される岩手金剛砂と呼ばれるガーネットを原料とする網入ガラスや、テレビのブラウン管の研磨材(パウダー)を製造。かつて国内シェア90%。世界でも40%を誇った。 学生時代にはアマゾン川を筏で下ったと聞いた。(株)種山ヶ原という会社を東京で立ち上げ、オーガニック輸入食品を扱い、それこそ種山ヶ原に近い蕨(わらび)峠にて緬羊の牧場も持った。「羊は、どの家畜よりも多種の草を食べることから植林の下刈り役に適し、フンは分解が遅いため土壌に優しい。その上、肉はアルカリ性。毛は衣服や布団にもなり、衣食住をまかない、理想の未来を拓く」と言った彼。 時折、ジョニーに来店。多額の借金にあえいでいた僕を、本当に心配し「少しずつ返せばいい」と、その肩代わりもしてくれた。ミンガスの自伝本、ミンガス自身が自主制作した名盤レコード1964年の「モントレーのチャールス・ミンガス」の復刻盤などをプレゼントしてくれた。亡き後には、ステレオや「開運橋のジョニー」にあるウッドベースさえも・・・。 85年、そのミンガスのレコードがスイングジャーナルの臨時増刊・「ゴールドディスク事典」に収録される時、僕が担当することになった秋吉敏子の名盤を含む日本盤6枚。外盤4枚中の一枚として、評論を書かせて貰った。かの秋吉さん自身もミンガスオーケストラの編曲とピアノを手伝った「タウンホールコンサート」(62年)はCD化され、今に残る。 稲葉さんはミンガスとアメリカで64年67年に会い、71年元旦には羽田にて、彼を迎えた。自伝本はミンガス・三つの魂の叫び、1950年にトランペッター・ファッツナヴァロの死を看取るまでの経緯、軽薄さを拒絶する厳命の形を取りながら稲葉氏に伝えられた愛情なのだった。そして僕へと。
12:53:00 -
johnny -
2022-01-08幸遊記NO.61 「キム・デファンの音楽と微刻」2012.3.5.盛岡タイムス
「銀河連邦サンリク共和国・建国コンサート」が開催されたのは1987年10月31日。所は現・大船渡市の岩手県気仙郡三陸町。出演は「韓国前衛邪頭三人組」。プロデュースは僕。その内容、息吸いながら吐くノンブレス奏法の宇宙ロケット的サキソフォン。炎、光、電波の如きトランペット。その推進力は不思議なポリリズムのドラム。それらはまるで地球に接近する巨大彗星を想わせる凄ジャズ。なかでも特に僕を引きつけたのは、ドラムの故・キムデファン(金大煥・当時57才)が叩く一個のドラムから生まれ出る様々な音色でした。
「カラオケのクラブ」以外では日本語の歌を唄うことが禁止されていた90年9月の韓国。歌手D嬢の付き人が交通事故にあい、そのピンチヒッターとして、僕は初めてソウルに渡った。仕事から解放され、帰国する日に、キム・デファンさんがホテルまで来て、僕を彼の自宅へ招待した。途中、街角の交差点で立ち止まったら大勢の人が僕等を取り囲んだ。するとキムは、僕がアゴヒゲにつけていたトレードマークのリボンを指差し、値段を聞き「そんなに安くて注目される宣伝は他にないよ」と笑いながらジャズの店にも連れて行ってくれた。店主は日本の店で修行し勉強して来たと言う。 彼の家では、超ビックリ!米一粒に300字の漢字を彫り、ギネスに載ったその実物を五個見せてくれた。一ミリ角に何と30文字を彫れると言う。かつては、韓国グループサウンズ協会の初代会長を務め、あの歌手・チョウヨンピルやイイナミを育てた人でもあった。 部屋には美しい漢字がビッシリ書かれた屏風がいくつも並び、机の上には十本の象牙印。その印に細かく刻まれた紋様を、ルーペで覗くと、それは何と般若心経の全文。判の依頼人は朴大統領。他、国会議員だと名刺を見せてくれた。彫る道具も自分で作り針先はタングステンだという。僕にも般若心経を彫った小さな象牙のお守りをプレゼントしてくれた。 30年一日睡眠3時間。寝る前には暗闇の中でペン字を書く。朝起きて、材質の違う6本のスティックを指に挟んでの微音ドラム。書。彫刻。それぞれを一時間ずつ練習。そして運動。「誰もがお金になる微刻だけやればいいのにと言うが、僕が本当にしたいのは、音楽だから」と、言いながら見せてくれた両手。指の間の全部に大きなタコが出来ていて、まるでグローブのように見える手だった。
12:49:00 -
johnny -
2022-01-07幸遊記NO.60 「田代たみえの弟・赤木圭一郎」2012.2.27.盛岡タイムス
「甦えるトニー」という赤木圭一郎のレコードに出会ったのは十代の後半。彼が亡くなって4年後に出たLPでだった。以来時折、どういう訳か深夜になると聴きたくなり何十年も随分と聴いた。
先日、東京から、吉野剛君という若者がジョニーにやって来て、店が閉まる頃になったら「カラオケに行きませんか」と僕を誘った。深夜に行ける店を知らない僕は、二十年程も前に行ったことのある、僕の店と同じ名の「ジョニー」へ行ってみることにした。 盛岡中央通り裏にあるその店の名の由来は、釣竿の「十二尺」から「ジョニー」としたと店主の釣りキチ・佐藤順三さん(60)。彼はかつて、ジャズ歌手・ジョニー・ハートマンを信望したシンガー・ソング・ライター・故・大塚博堂の歌を得意とした歌手だったらしい。 「僕もジョニーです」と名乗ったら「確か以前いらした時“霧笛が俺を呼んでいる”を歌いましたよね」と言われたのには本当に驚いた!赤木圭一郎が歌ったその曲は、僕がカラオケで唄える数少ない歌の一つ。 とっさに僕も、1988年の夏の夜を思い出していた。新宿ゴールデン街の「ダカーポ」という店。女主人のジャズ歌手・田代たみえさんのこと。その店で、初めて飲んだバーボンウイスキー「フォアローゼス」の味のことなど。 彼女は何を隠そう、赤木圭一郎の実姉。かつて米軍キャンプなどで歌った人。彼女の口から出た当時の歌手の名は、上野尊子、細川綾子、園田まゆみ、などのキチッと唄える現役の人だった。最近上野は他界したが、三人共僕は好きな歌い手で、皆、陸前高田へ呼んだ。園田まゆみに関してはレコードも僕がプロデュースした。 赤木圭一郎(本名・赤塚親弘)は、1939年(昭和14)東京生まれ。父・俊之はジャズ好きの歯科医。母・喜久は銀座生まれで、子供の頃からオペラを聴いたという「モボ、モガ」の両親。その息子だった赤木は、何故か浜辺で遠い水平線を見つめているのが好きだったらしい。大学時代の59年、7本の映画に脇役で出演。60年から61年の3月に亡くなるまでに主演した映画15本。そのすべての主題歌も唄ったスター。未完の「激流に生きる男」の主題歌「流転」を吹込んだ直後の事故死。「でも父は“それも寿命だ”と言った」たみえさんの言葉。それが今も僕に残っている。
12:47:00 -
johnny -
2022-01-06幸遊記NO.59 「寺内タケシのブルージーンズ」2012.2.20.盛岡タイムス
寺内タケシ&ブルージーンズ結成25周年の1988年。僕はエレキに明け暮れた自分の青春時代に決着をつけるべく横浜の寺内企画を訪ねた。するとそこは外壁にブルーのラインが屋上まで続くビルだった。
エレキと言えば真夏。高田松原海水浴場のあった陸前高田も夏のイメージ。だから、あの熱中症的だった我が青春のエレキ!に決着をつけるのは冬が良し!と、89年1月21日(土の極寒日にコンサートを開催した。 ジャズ喫茶ジョニーと酔仙酒造(株)の共催。高田の飲食店組合に協賛を願って、全飲食店にポスターを貼ってもらうという仕掛け。結果的には赤字で酔仙に迷惑をかけたが、市民会館の天井から、パラパラと雪の様なホコリが舞い落ちる大音量。その光景と美しい音色と“酔仙”の酒に皆、酔いしれた。 寺内タケシさんは、1939年(昭和14年)茨城県土浦市の生まれ。実家は電気店。他に製材所や建築などもやっていた大会社。兵隊に行った兄が残したギターに出会った5才の時から「小唄の始祖的存在の家元だった母(鶴岡はつしげ)から、三味線でギターを習った」と彼。 小学3年生の時には「ギターと三味線、その音量のバランスを取るために、マイク(手廻し電話の受話器の中のコイルを巻いたマグネットを取り出して並べた)を使いエレキギターの原形を作った。のち木材を使ったソリッドボディに、トーンコントロールやボリュームをつけた今のエレキギターを開発。そのためのアンプ、スピーカーを研究し三味線バチをヒントにした特筆すべき世界初の“三角ピック”の考案に至った」と言う。 関東学院大電気科時代には「本州カーボーイズ」というウエスタンバンド。1963年3月、「ブルージーンズ」という名のジャズコンボを結成。間もなく電気楽器だけのエレキバンドへ移行。一年後にはエレキの世界的大流行。アメリカの「ヴェンチャーズ」、イギリスの「シャドウズ」、日本の「ブルージーンズ」という世界三傑となったのでした。 のち足利市教育委員会に端を発したエレキ禁止令に立ち向かい、以来、母校を皮切りに、エレキを生み育て流行らせた、その責任の名において、40年以上!ハイスクールコンサートを今も続けている。真に「エレキの神様」なのだ!
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johnny -
2022-01-05幸遊記NO.58 「浜道博・KIN-CHANの潮騒」2012.2.14.盛岡タイムス
高校時代の同級生だった故・金野正博から弟・道博が歌手デビューしたと聞かされたのは1974年の11月。曲は「須磨子の愛」つちだ・よしえ作詞。間中政一作曲による“炎のように燃えました”で始まる唄だった。
須磨子とは、大正3年に島村抱月が組織した芸術座の名優で、トルストイ原作の「復活」で同名の劇中歌をステージ上で唄った流行歌手の第一号「松井須磨子(本名・小林正子)」。 東京音楽学校卒の中山晋平26才の時の処女作となったその「復活」は1915年(大正4年)に電気以前のラッパ吹込みされるや、あっという間に2万枚を売り尽くした作品。その後“命短かし恋せよ乙女”の「ゴンドラの唄」「さすらいの唄」などを続々と大ヒットさせたが、師であり恋人であった「抱月」が肺炎で亡くなると、その跡を追うように1919年1月に34才で自ら命を絶った女性。その飾らない歌声は今聴いても、なかなかにいいのです。 そんな昔の人をテーマに、その続編ともいうべき「旅に出た女」まで出した歌手「浜道博」は、岩手出身の歌手、故・箱崎晋一郎(1945~88)の唯一人の弟子。だが歌手としては生計立てられず、美川憲一のマネージャーなども務めた。84年、板橋に「居酒屋金ちゃん」を開業。のち脳内出血で倒れ闘病3年。その後の記憶喪失や意識不明などを繰り返した後に奇跡的に回復。 それからは、地元密着型の歌手・KIN-CHANとして「常盤台ブルース」「常盤台ラプソディ」で再デビュー。昨2011年1月には、18才で家を出てから初めて、8日間もふるさと陸前高田に里帰り。新曲を構想。友と母に捧げる曲「潮騒・・友へ」と「故郷の風に抱かれて死ねたらいいね」を4月20日にリリースした。 いい詞いい曲いい声です。心のこもったいい唄い方です。詞は「浜みちひろ」曲は「夢道」歌は「KIN-CHAN」全て彼のペンネームだから、自作自演の歌なのです。何十年振りに彼と電話で話をした。「いい年のとり方をしているな」と感じさせられた。彼もすでに59才。 デビューした翌年(1975)9月26日僕らが開いた陸前高田市民会館での「浜道博ショウ」がまるで昨日のように想い浮かぶ。
12:40:00 -
johnny -
2022-01-04幸遊記NO.57 「村上軍記の逆説・般若心経」2012.2.6.盛岡タイムスあれは2006年の11月11日だった。店に出勤したら、地下の階段を降りたドアの前に、「生牡蠣(かき)」と鉢植えになったピンクの「シクラメン」そして走り書きの「村上軍記・又きます」の紙一枚。 盛岡に店を開いた2001年、音楽とオーディオ好きの友・菅野信夫さんと連れ立って、陸前高田から来てくれた日も僕は不在だった。そしてあの日も開店前。二度も会えず申し訳なく思い、僕は半紙に「ピンク色の花咲く音室あたたかい」と筆で「カキ(書)」送った。 それから一週間後には、「書」を額装して、自分の部屋のステレオの上の壁に飾った写真を添え「我が家の家宝」という手紙をくれた。それには「自分の人生の中で最大の敬意を払う友人かも知れません、貴方の感性には正直に申しまして感謝感激です」で逆にビックリ!。 その軍記先輩に会ったのは、1974年。「高田音楽鑑賞会」の名で7年間続けたレコード・コンサートに、東京帰りの彼「軍記」さんが持ち込んだのが「孤軍」という、秋吉敏子・ルー・タバキン・ビックバンドのデビュー・アルバム。それを聴かせてもらったお陰で、今日の「穐吉敏子ファン・照井顕」が生まれたのだから、僕こそ最大の敬意を払わなければならない友人なのでした。 「なのでした」というのは2011年3月11日の大津波で彼は亡くなられたと聞いたから。一度は避難したのに、カメラを取りにすぐ下の家に戻ったらしい。山が好き、当然写真も好きな人だった。時折、写真入りの手紙や葉書が届いた。彼の人生観を変えた究極の一枚は「デュークエリントン&ジョンコルトレーン」のインパルス盤。「針をおろす度に涙を流しながら聴いた遠い思い出」と書いて来た時があった。 「孤軍」については「14日19時(’06年11月)久し振りにKOGUNを聴いております。懐かしいです。当時の事が走馬灯のように想い出されます。都会の生活から逃れ途方に暮れてた時、音楽仲間に出会った。素敵な付合いをし、情熱に溢れた豊かな生きがいを持ち、充実感に満ちた最高の生き方が出来たと自負しております」とある。 軍記さんの手紙を全部読み直しながら、このことが、僕が歌う「逆説・般若心経=経心多密羅波若般訶摩」なのだとあらためて思った。
12:36:00 -
johnny -
2022-01-03幸遊記NO.56 「渡辺浦人の原体剣舞連」2012.1.30.盛岡タイムス
ある時「ジョニー」に荒川チサトさんという方が来て、「東京へ来ることがあったら、ご連絡下さい、是非あなたに会わせたい先生がいるから」と言って帰った。それから一、二年後位に上京したおりの1984年7月7日。荒川さんに連れられて行った所は、文京区目白台にある、クラシックの作曲家・渡辺浦人氏(当時74才)の自宅だった。
玄関を入るやいなや「あなた岩手だってね」と、笑顔で迎えてくれた渡辺氏。「先客の女性達も岩手だよ」と紹介された方は、沢内出身で都内小学校の音楽教師・大川光子さんと音大生で北上出身の高橋由紀枝さんだった。そこで、渡辺さんが作曲したという宮澤賢治の詩の数々を、大川さんの感動的な歌で聴いた。(のちに、花巻・宮澤賢治記念館に大川さんのそれらの歌が、カセットテープで収められている) 渡辺浦人氏(1909~94)は青森県生まれ。東京音楽学校でヴァイオリンを学び、東京教育交響楽団で当時の指揮者であった山本直忠(山本直純の父)に作曲と指揮法を学び、その後、山本氏の後任指揮者として37年から18年間就任。名古屋芸大教授も務めた。彼の作曲した代表作に交響組曲「野人」がある。41年に初演され「毎日音楽コンクール」で第一位と文部大臣賞をW受賞。多くの管弦楽曲、室内楽、オペラ、吹奏楽、協奏曲、映画音楽他に校歌なども数限りなく作曲。僕が少年の頃の記憶に残る「まぼろし探偵」「赤胴鈴之助」などもそうだったし、身近なところでは、たしか?「都はるみ」と「新沼謙治」が歌った「大船渡音頭」「大船渡小唄」をEP盤レコードで持っていて聴いた記憶。 帰り、渡辺さん、荒川さん、僕、三人で駅まで歩いたあの日、「照井顕様・渡辺浦人」とサインを入れて僕にくれた2枚組LPレコード「交響楽で語る日本の心」は、今でも大切な僕の愛聴盤。特にも「野人」と一緒に収められている「交声曲・原体剣舞連」(作詩・宮澤賢治)の曲は、1970年頃、賢治ゆかりの地を旅して作曲した三楽章からなる混声七部合唱曲。「ダッダッダッダッ、ダースコダッタ」の太鼓の音を児童合唱だけで表した第一楽章を聴きだすと「我々の音楽は民族の原始性から出発することによって世界化する。これが私の作曲上の理念です」と言う氏の言葉が必ず浮かんで来る。
12:34:00 -
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2022-01-02幸遊記NO.55 「麿赤児の大駱駝・幻野行」2012.1.23.盛岡タイムス
先日、ひょいとTVをのぞいてみたら麿赤児さんのインタビュー。その変わらなさにびっくり。僕が麿さんにお会いしたのは、1988年だったから、もう24年も前になる。
盛岡八幡宮の境内で行われた、麿赤児率いる暗黒舞踏集団・大駱駝鑑の野外公演を、陸前高田から観に来た時だ。当時は「ジョニー」にも大駱駝鑑のメンバーがバンドと共に来て舞踏ショウなどもしていたことから案内が届いた。僕はその時、79年に金羊社から出版された、限定版の写真集「麿赤児・幻野行」写真家・朝倉俊博氏のサイン入りを携えて行き、麿さんにもサインをもらいながら、インタビューのOKも。 その深夜、公演合宿所の松園観音に押しかけ団員と共に飲みながらのインタビュー。酔ってザコ寝して朝テープを見たらポーズボタンを押したままの無録音。「いい話したのになあ」と、ガッカリされながら、朝に再度のインタビュー!麿赤児(本名・大森浩司)は、昭和18年金沢生まれ、演劇を嵐山光三郎に。古い新劇を山本やすえに。劇団状況劇場を唐十郎と設立。舞踏を始祖の土方巽に。そして72年、自らが主宰する大駱駝鑑を設立し、独特の暗黒舞踏を世界へ「BUTOH」と広めた人。名優でもある。 全身に白粉(石膏や砥粉など)を塗った裸体を音楽にのせて超スローで動かす「物にはモノの色気ってモノがすでにある。それは素明かりが一番はっきり出てきます」舞踏は声は出せども言葉は使わない、そのことを「こと問はず舞い、答えずしてをどる。ただ契りあるとて、をどり、をどれや」(麿赤児)なのである。 「麿(まろ)とは「自分」を指し示すことばであり、赤児は「自分が痔なんで」それを芸名とした。すると「駱駝」は言わぬが「らくだ」からかな?とは僕のシャレだが、ある時店で舞踏家の女性が「ライブの前に体育館に連れてって」と言うので一緒に行き、その練習を見て、柔軟体操たるものの、ウットリするほどの美しさと物凄さに驚いた。気が付けばあんなに音がしていた体育館は静まり返り、遠巻きにした皆が、かたずを飲んで見ているのだった。あの超スローな動きの舞踏を支える、柔軟な体づくりの凄さにも敬服した。
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2022-01-01幸遊記NO.54 「大船わたるの“開運橋ブルース”」2012.1.16.盛岡タイムス
僕が陸前高田から盛岡へやって来て開運橋のたもとに店を開いた2001年の春、盛岡を舞台にして作られたシングル盤レコードを陸前高田から持って来てた。
「大盛岡行進曲」「盛岡音頭」の78回転盤。バーブ佐竹の「霧雨の町盛岡」青江三奈の「盛岡ブルース」といったメジャーな45回転シングル盤。更には盛岡で「ボッカ」という店を経営してた故・畠山信也氏が制作した「ボッカレコード」で幡街恭子が唄った「八幡慕情」。八幡恭子と八幡洋子が唄った「盛岡お座敷小唄」など20枚程。 その中でも、タイトルからか時折ジャケットを見ると聴たくなる歌がある。気仙郡三陸町(現大船渡市)出身の「大船わたる」の「開運橋ブルース」(1980年ナベプロこと渡辺音楽出版制作)である。 「あの日別れた開運橋に涙まじりの雨が降る」に始まり「「ああ今も涙の面影浮かぶ」で終る歌詞。詞は坂口宗一郎。曲は千田浩二(大船わたるの本名)彼は仙台市役所職員だった1965年(昭和42年)コロンビアの歌謡コンクールで入賞し上京。作曲家の故・猪俣公章氏に師事し、67年3月に千田浩二名の「ソーラン哀歌」でデビュー。5枚のシングル盤を出し69年フジテレビの「夜のヒットスタジオ」に出演した。70年には千田浩二から大船渡(わたる)へと改名「板前さんよ」で再デビューしヒット。その後、彼の自作曲が八代亜紀によって唄われた「最終ひかり」(88年)が記憶にある。 彼が僕の店、陸前高田の「ジャズ喫茶ジョニー」に寄ってくれた95年6月、彼の師、故・猪俣公章氏が眠る福島市の東光寺に墓参りし、日本エンカフォンという新会社から発売の勝負曲「おとこ人生ど真中」を報告。「花を咲かせる事を墓前に誓って来た」と言った。 昨2011年「望郷」を発売した直後、3・11の大震災。「焦がれ焦がれて愛した女(ひと)は、きっと死ぬまで忘れない」開運橋ブルースの一節がしみる。 小泉とし夫氏の短歌「開運橋旅立ちの朝川岸に手を振っている柳の緑」「開運橋遠い旅から戻って来た雪のアーチの白いリベット」開運橋の春夏秋冬に、僕も曲をつけてみた。
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