盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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レポート

2021-12-31

幸遊記NO.53 「小谷充のブランデーグラス」2012.1.9.盛岡タイムス


 昔、作家だった現・東京都知事。その弟・俳優で歌手でもあった、故・石原裕次郎が唄ってヒットした山口洋子作詞の「ブランデー・グラス」という歌がある。作曲したのは、編曲家として知られた、故・小谷充さん(1934~1990)。
 彼の編曲でヒットした曲をあげれば、きりが無いけれど、トワエモアの「或る日突然」「空よ」。藤圭子の「新宿の女」。ちあきなおみの「四つのお願い」。八代亜紀の「なみだ恋」。石原裕次郎の「恋の町札幌」等々膨大にあり、歌謡界きっての編曲者といわれた。
 神戸生まれ。住んでいたのは麻布十番のマンション。僕は上京の折に度々彼の所へお邪魔した。突然の来訪にも関わらず部屋に招き入れ、お茶を入れてくれた。しかも必ず二番茶を。一番茶は自分に入れ、「僕は本当においしくて好きなのが二番茶だから、お客さんが来た時は必ず、二番茶を差し上げるのです」と言いながら笑う顔が最高だった。
 編曲家として沢山の曲を手がけてた彼が、「ブランデーグラス」を作曲し古賀大賞に輝き、布施明の「あなたがわたしを愛する様に」で音楽出版社協会の銀賞を貰ったら「あいつは曲も書くんだって」。彼に編曲を頼んでいた作曲家たちからの「編曲の依頼が減りました」と言っていたことがあった。「自分の曲だけ凝って、他は手を抜く」という噂だったらしい。だが彼は「プロですから、そんなことは全然ないんだけど。どうアレンジしたって売れそうにない曲もある」と。
中学高校時代にはヴァイオリンをやり芸大を目指したと言うが、なぜかタンゴバンドでプロになり、20代半ばにはリーダーとして米軍キャンプやホテルに出演。渡辺プロダクションの看板ジャズバンド、シックスジョーズのメンバーを務めたピアニストで「ビル・パウエル」と自称し、のちアニューミュージックを立ち上げCMから音楽出版まで携わった。
 昭和の終わり頃「僕の歌を譜面にしてくれませんか」と言ったら、すぐに「唄ってみて」と言い、聴き終えて譜を書き、コードも付け、その場で弾いてくれた。寸分違わぬメロディーと、カッコイイ和音(コード)に感激した記憶は、あざやか!。
12:15:00 - johnny -

2021-12-30

幸遊記NO.52 「やなせたかしの天使のうたごえ」2012.1.4.盛岡タイムス


 アンパンマンや三越デパートの包装紙デザインなどで知られる「やなせたかし」さん(93)の記念館が、彼の出身地である高知県香美市に出来たのは1996年の夏。その直前の春3月、陸前高田の大町商店街が開設していた「まちかどギャラリー・おおまち」で彼の原画展が開催され、たくさんの親子連れで賑わった。
 その企画を持ち込んだのは、当時陸前高田市立小友小学校の校長だった鈴木明氏。彼は「やなせ」さん原作のアニメ映画「やさしいライオン」に魅せられ、転勤の都度、学校や地域の公民館で自ら16ミリ映写機を回し、その物語を子と親と教師達に見せ続けていた人でしたし、僕のCD「潮騒の森」に「海の灯の思い出」を作詞し提供してくれた。
 「やさしいライオン」は親を亡くした赤ん坊のライオンが、子を亡くした親犬に育てられる物語で、愛情いっぱいに育てられたライオンは、その愛を支えに苦難を乗り越えて生きて行くと言う子育ての原点が描かれていた。
 その「やなせ」さんは、陸前高田市出身の編集者・平松利津子さんから3・11の津波で消えた「高田松原」や、一本残った松の木の話を聞き心動かされ、自ら作詞・作曲し「陸前高田の松の木」というCDを制作。「ぼくらは生きる、負けずに生きる、生きて行くんだ、オーオーオー」と自らもコーラス参加し陸前高田市へプレゼント。
 更に1868年の創業以来、対面販売の御用聞きの伝統を守り続けて、この醤油でなければと言う人と家庭に直接届けて来た「ヤマニ醤油」の話に感動し、「天使のしょうゆ」と命名し、自らそのラベルを描き四代目・新沼茂幸さん(54)にプレゼント。
 そのラベルの天使たるや何とも可愛いのだ。ヤマニのマークをティアラの様に頭に乗っけて「しょうゆさし」を持って飛ぶ笑顔の天使。大震災で被災してから花巻市東和町の同業会社「佐々長醸造」の蔵と設備を借り、無事だった社員全員が一丸となって復興仕込みを行い試作を造り、その後「天使のしょうゆ」「ほんつゆ」「上級醤油」の主力商品を復活させ、ず~っとお得意さんだった!僕にも届けてくれました。「やっぱりおいしいね!」。
12:13:00 - johnny -

2021-12-29

幸遊記NO.51 「千昌夫の“君が好き”」2011.12.26.盛岡タイムス


 日本を代表する歌手の一人で、新作「いっぽんの松」をリリースしたばかりの千昌夫さん(本名・阿部健太郎・64)が22年振りに今年(2011)NHK紅白歌合戦に出るという。「星影のワルツ」での初出場1968年から数えて16回目。
 千さんと僕は同年同月生まれ。彼が竹駒中から水沢一高へと陸前高田を出、僕は平泉中から高田高校へと、陸前高田入り。2年後彼は高校の修学旅行中に“脱走”して、作曲家・遠藤実氏の門を叩き、1965年(昭和40年)の秋、「ミノルフォン」の歌手・千昌夫となって「君が好き」でデビュー。
 彼の母がそのレコードを風呂敷に包み、陸前高田の街を一軒一軒売り歩いてた姿が浮かぶ。あの時彼は、故郷・陸前高田市の「竹駒神社」で賽銭箱にレコードを入れてヒットの祈願をしたと、最近のテレビ。
 そのかいあってか、3作目となった66年の「君ひとり」のB面だった「星影のワルツ」が67年有線放送で火がつき、翌68年A面盤で発売されるや、ミリオンセラーを記録。その後、続々ヒット曲を出しスター歌手の地位を築いたのでした。
 かつての陸前高田市長だった菅野俊吾氏は、千さんの「味噌汁の詩」を得意とした。「出張先で名刺を出すと、千昌夫とジョニーの街ですね!と言われる」と言って、わざわざ、僕の店に報告に来た事があった。市の職員が差し出す名刺の裏には、陸前高田の有名人として、千昌夫(歌手)村上弘明(俳優)照井顕(ジャズ喫茶ジョニー)と印刷されてた事もありました。
 印象深く思い出すのは84年。新宿コマ劇場で行われた「千昌夫特別公演」。一部で「夢をつかむ男」と彼自身の物語的芝居。二部は「おらぁ、えんたぁてなーぁだ」の歌謡ショウで大船渡出身の新沼謙治さんをライバルと言って応援する姿は郷土愛に満ちていた。ショウの休憩時間に客席に「千グッズ」を売りに来た方は、何と知り合いのジャズメン(バックバンドの人)。話を聞いたら昼夜2回、8割の入りだと言う。一ヶ月の公演で十万人!その数字に武者ぶるいし「津軽平野」を買った記憶。今年の紅白は6回目の「北国の春」を唄うらしい。
12:12:00 - johnny -

2021-12-28

幸遊記NO.50 「山内賢の“風の又三郎”」2011.12.19.盛岡タイムス


 俳優・山内賢が今年(2011年9月24日)67才で亡くなった。本名は藤瀬賢晁(のりあき)彼の兄が俳優の久保明だったからか?子供の頃は久保賢といった。
 彼がまだ小学生だった1957年,僕等が通っていた平泉小学校の達谷(たっこく)分校へ、10人程の子供達と共にやって来た。宮澤賢治の名作童話(賢治が亡くなった翌年の1934年、藤原嘉藤治が世に送り出した賢治の全集で発表された)“風の又三郎”を東映で映画化するにあたり、又三郎として東京から来たのでした。
 彼の父役は「少年探偵団」での“怪人二十面相”「月光仮面」での“国際暗殺団首領”だったりした、こわい俳優の加藤嘉(1913~1988)他、左卜全や、岩手一戸出身で二枚目スターとして活躍した「宇佐美淳」(本名・駒木五郎1910~1980)等が出演したもの。
 「ドッドド・ドドウド・ドドウド・ドドウ」の音とともに「谷川の岸に小さな学校がありました。教室はたったの一つでした」で始まる二百十日(立春から数えて210日の9月1日)あたりの“風の三郎”語り。
 実際、映画の舞台となった僕等の分校は、茅葺(かやぶき)屋根で暖房は木製の火鉢。昼になるとその上に金網をかけ弁当を温めた。1・2年、3・4年が1クラスの複式学級。全員で50数名の生徒。その中から、20人程選ばれてその他の子供達として出演。
 僕も一度は席に座らせられたが、別の子と入れ替えられて外されました。小さな校庭には線路が敷かれその上をカメラのトロッコが走ってたし、大きな扇風機のトラックから送り出される風に向かって、手押しポンプ車で放水。木々の枝に針金を結んでそれを土手の影に隠れた住民達が、ゆっさ、ゆっさと引っ張って台風のシーンをつくってた。又三郎は、バケツで水をかけられてから、その暴風雨の中を走り本当に風邪をひいたっけなぁ。
 学校での試写会の日に、出演した生徒達に配られたのは“風の又三郎”と印字された、まるでガラスのマントを着た“又三郎”ような銀色に光るネジ式「シャープペンシル」だったっけ!銀色で思い出したが、日活女優・和泉雅子と山内賢がデュエットした曲「二人の銀座」をよく聴いたものだった!
12:11:00 - johnny -

2021-12-27

幸遊記NO.49 「佐藤敏夫の小説より奇なり」2011.12.13.盛岡タイムス


 12月12日はジョニー月・ジョニー日だ!「ヘイ!ジョニー・ジョニー」で有名な歌はチャックベリーの「ジョニー・B・グット」で、「ジョニー!ジョニー!」と呼んでいるのは女房の小春。
 そう今日の「12月12日は僕等の結婚記念日」そして僕があこがれ続け、聴き続けてきた世界のTOSHIKOこと「穐吉敏子さん(82)の誕生日」でもある。何でも忘れ易い僕なのだが、「二人の記念日は忘れても、この月日だけは忘れないでしょうから!」と言う小春の言葉から敏子さんの誕生日を結婚記念日とした。
「TOSHIKO・としこ・トシコ・としっことる程・敏子が好きになる!」とは、僕の愛言葉だが、敏子とは「さとりの速い女性」の意味であるらしい。なる程。僕の知る敏子さん達も皆素敵だ。ならば男はと、とっさに頭に浮かんだのは僕の兄の名「敏夫」。確かに「さとりの速い男性」だったかも。
あれは僕が高校四年の11月、当時、横浜に住んでた敏夫兄さんの結婚式に呼ばれ平泉の実家に帰った。あの頃、披露宴は家で行うのが慣例だった。親戚、その他一同が集まり宴が始まろうというのに花嫁の姿が見えない。話を聞けば親同士が決めた結婚、遂に花嫁現れず、散会となった。シラーッ!。
 友人も横浜から呼び、自分の結婚式だから会社を休んで来た兄も、「このまま手ぶらじゃ帰れない!どうしてくれる!」。そこに登場したのが長兄・幸男の嫁・好子。「自分の実家の近くにいい娘がいるから、会って見たら!」と早速、翌日見合い!でピッタンコ!。
 何とその見合いの翌日には結婚式という超早業ウルトラC、親戚もビックリするやら本当かいな、と再び参集。しかもキレイでステキ!と皆大満足。
 事実は小説よりも奇なりとは本当だった。僕等兄弟は4男1女の五人。それぞれ皆仲のいい夫婦だが、敏夫夫婦は特別に仲がいいと僕は見る。その原因はこれ。敏夫夫婦は後に、母の実家を継ぎ途中から佐藤の姓になった。その事により「さとうと・しお」になったから。
12:10:00 - johnny -

2021-12-26

幸遊記NO.48 「五木寛之の歌の旅人」2011.12.5.盛岡タイムス


 それは9月25日(2011)の朝方だった。店を終えてから、女房の運転する車で“たたら清水”を50ℓ汲みに行き、店に運んでから紫波の自宅に帰る途中、AMラジオから流れてきたのは、作家・五木寛之さんの“歌の旅人”の第五回・岩手編だった。
 盛岡の話から、川の話になり、そして「北上夜曲」が芹洋子の歌で流れてきた。作詞作曲の二人菊池規・安藤睦男。そして石川啄木・宮澤賢治などの話に及んでEPOの“星めぐりの歌”が流れてきたあたりで車は家に到着した。僕はかなり酔っていたこともあって、車から降りずに「このままラジオを聴いている」と女房に言い、なんとそのまま寝てしまった。
 車のドアが開く音で目覚めると「五木さんがジョニーのこと、話してくれてたの聴いた?」と女房の声!「もしかしたら、しゃべってくれるかも!」と何処か期待をしてたのに、何と眠って聴き逃したとは!“トホホ・・”の僕。後日、店に来て「五木さんのラジオ、興奮しながら聴きましたよ」と言った八戸のファン客・福村勝悦ご夫妻の報告も嬉しかった。
 あれから2ヶ月「本のくずおか」で手にした「ラジオ深夜便」の12月号。皆が言う細やかな話や「ジョニー」などという固有名詞は載ってませんでしたが「岩手と言うと、土俗的な雰囲気が強いように思われますけど、たとえばジャズ喫茶がたくさんあったり、ジャズピアノの大御所・穐吉敏子さんをアメリカから呼んで、大きなコンサートをやったり、エネルギーにあふれたところなんです」とあった。
 「それを“縄文ジャズ”と呼んでいました」と五木氏。そうだった、僕が氏の作品“海を見ていたジョニー”を坂元輝トリオの演奏でレコード化した1981年、氏はそのライナーノーツに「幻想としての縄文ジャズ」と題し、「日本という土地は世界中の文化のゴミタメである」に始まり「この新しいレコードを繰り返し聴いている。そこに列島1万年の縄文人のリズムが流れているのを感じながら」と書いてくれたのだった。今年6月に再々発売されたCDのライナーを読み返してみた。
12:09:00 - johnny -

2021-12-25

幸遊記NO.47 「川田義雄の浪曲セントルイスブルース」2011.11.28.盛岡タイムス


 2009年4月から、毎月第2、第4金曜日の午後3時半から、開運橋のジョニーで行っている、NHKカルチャーのジャズ講座「ジャズの魅力への招待」がこの11月で62回を数えた。和ジャズ専門のジョニーだが、講座の日には洋盤も登場させるので、僕自身のためのカルチャーでもある。
 この講座に最初から通っている俳人の菊池十音さん(76)は、最近、義父が聴いていたという重いSP盤レコードを、十数枚づつ、風呂敷に包んで持って来る。そのほとんどは浪曲(浪花節)である。明治のはじめ頃、説経節などから始まったとされる浪花節。大正末頃から浪曲と呼ばれ、三味線の伴奏がついた。
 浪曲といえば、若い頃“タンゴ”一辺倒だった僕の兄で画家の澄(十音さんと同い年)は、いつの間にか大変な浪曲好きに変わった30年程前、そのことを作家の五木寛之さんのラジオ番組にご一緒させて貰った時、喋ったら、「それは良くわかります。タンゴも浪曲も、その泥臭さにおいて一緒なのです」と、いう様な話をしてくれたことが、ふと頭に浮かんだ。
 菊池さんが持参したSPの中の一枚に川田義雄の「浪曲セントルイス・ブルース」があった。“かはッた浪曲”とある。ガラードのプレイヤーに、ソノボックスのSP用カートリッジを取り付け、講座の時間にSPレコード鑑賞会をやったら、一番受けたのは「浪曲セントルイス・ブルース」“国々言葉異なれど、唄う心は皆一つ。悪事千里を走ると言えど、歌は万里を走るなり。あちゃら、こちゃらでうたうブルース数々あれど、セントルイス・ブルースは、ブルースの親玉なり”とあらゆるジャンルを取り込んだ浪曲の極至的うなり。
 明治に宮城で生まれ盛岡に住み、昭和58年に94才で亡くなった菊池卯七(うしち)さん(十音さんの義父)は、かつて女学校の先生をした方。ガンコだが、おしゃれで珍し物好きな人だったと言う。3年後に義母、その3年後の平成2年には夫・秀夫さん(享年60)まで亡くしてしまった十音さん。「体調のすぐれない時でも、ジャズ講座に来れば元気になるの」と笑う。
12:07:00 - johnny -

2021-12-24

幸遊記NO.46 「溝田博史の肥前大村耕し隊」2011.11.21.盛岡タイムス


 山の展望台から海を眺めれば、なんとなく陸前高田の美しかったあの風景が想い出される長崎県大村市。高田松原ならぬ、大村湾松原地区に住む友人・溝田博史(61)さんから、生そばが送られて来たのは昨年の12月だった。
 彼の話によれば、「昨2010年の春、年老いてきた母のために実家に戻り、近くの耕作放棄地だった11枚の小さな段々畑を借り受け開墾し直し、そば畑に再生した。その畑で収穫したそばを手打ちしたもの。」と言うことだった。
 肥前おおむら耕し隊(松原班)なるものを立ち上げ、松原地区に分散する5ヶ所のそば畑をめぐる「ソバの花鑑賞トレイル」を開催。参加者による、写真、手芸、詩歌コンクールなどを新ソバ打ちの時に発表するなどの、そば文化祭を皆で行い盛り上がっているのだ。
 9月の半ばに種をまき、一ヶ月後に花の観賞、その一ヶ月後の収穫、更に一ヶ月後の12月にはソバ打ち体験や、年越しソバ打ち教室など開催し地区から喜ばれている様子。
 彼はかつて、毎日新聞社が刊行してた「月刊・農業富民」の編集長だった。彼が住田町へ来た時見せられた本をパラパラめくって、「農業雑誌とはいえ音楽のページが全然ないんじゃ総合誌とは言えないんじゃない」と言ったら「では音楽のページを作りますから担当して下さい」と言われ「音楽の種まき」というレコード紹介を毎月4枚。それに「日本ジャズの原風景」という「ジョニーの写真帖」を一枚見開き2ページに掲載させてくれた(平成元年~4年)。彼が五年勤めた編集長の後3年間だった。
 彼と初めて会ったのは、昭和の終り頃。当時、全国に知られた「住田型農業」を実践していた時の佐熊博・住田町長や佐々木繁吉助役、のちの町長で茸博士の菅野剛氏などと一緒に、オレゴンへの農業視察団で行った時で、同行取材をしていたのが彼、溝田博史さんだった。僕はその時、住田で羊の牧場を開いていた種山ヶ原共働の故・稲葉紀雄氏に連れられてのお相伴旅行。オレゴン州知事室に掲げられていた、ジーンズ姿で二人の子供が立ち話をしている写真に添えられていた文字「長いこと農業やってんだってね」は今も鮮明だ。
12:06:00 - johnny -

2021-12-23

幸遊記NO.45 「本所充夫の牛とジャズの日々」2011.11.15.盛岡タイムス


 「人生楽しみが第一。仕事は二の次」そう言って毎週、北海道・北見市から片道17時間かけて盛岡へとやって来る「牛さん」こと、本所充夫さん(64)は、根っからのジャズファンだ。
 札幌の北海高校時代ラグビーにハマリ、海上自衛隊に入って横須賀、八戸と五年間続けた。そのラグビーをあきらめ、父の仕事を手伝うことになって、肉の流通を見聞し、感じたことは「業界全体で5年先10年先を見据え、トータル的にやらなければならない」だった。
 「生まれてから肉になるまでを自分の目で見る。目の行き届かない仕事はしない。人頼みをしない」。これが彼の決心。いくら儲かる話が来ても、理念が違えば、自分から切った。
 そのため、北海道で育てる生後一週間の仔牛を買い、翌日までに届ける。その時間と距離を含めた市場調査を、東北から広島まで行い、結果的には頭数がいて、北海道に近い岩手に仕入先を見い出し、15年前から市場で、最終的には仔牛の目を見て決める買い方。その仔牛を自分がトラックを運転し北海道に運び、農協へ納める。生後6、7ヶ月の牛は北海道で買い、青森のファームへ納めて1~2年飼育し肉にする。その数、月に何百頭ものホルスタインとエフワン(ホルスと和牛のかけあわせ)や和牛。頭数が足りない時は,関東の市場へも出向いて買い付ける。最近は次男の息子・寛修(ひろのぶ)さんが、それこそ「いい目」をして、父を見習い同行修行。
 「仕事とジャズはセット!ジャズと牛のマーチを自分の目で見、自分の耳で聴く。ジョニーのことは陸前高田にあった時から知ってて、行って見たいと思ってた。10年前、盛岡へ店を出したことを、ホテルで聞いてから来るようになったのさ」とほぼ毎週、日曜の夜に顔を出し、「一緒に飲まんか?」と言って誘う。 聞けば、高校時代から札幌のジャズ喫茶でバイトを始めたと言う程の根っからのジャズ好き!だから雑誌や、ジャズ専門誌などで、「日本のジャズしか演らないジョニー」のことを知ったのだったと、真剣な、それでいて慈愛に満ちた目を僕に向けた日のことは、忘れられない。
12:04:00 - johnny -

2021-12-22

幸遊記NO.44 「佐藤公二の競輪選手30年」2011.11.7.盛岡タイムス


 「一流の選手にはなれなかったから、自分なりのレース展開をし、納得してきたのです」。
チョット淋しそうに、そう言ってビールを飲み「やめたんですよ!」とニコッと笑った佐藤公二さん(50)は、2010年8月まで、約30年間、競輪選手として全国各地のレースに参加し、走り続けてきた達人、鉄人、でした。
 自転車のファンだった叔父にに勧められ、大東町(現・一関市)から盛岡に来て競輪選手になった、光一兄さんにあこがれて、自分もやってみようと、大東高校を卒業してすぐ、兄の先生だった加藤善行氏に師事。ゼロから学び3年後の21才、前橋で行われた3日間のレースに初トライ。初日のレースではいきなり転んでしまったが、2日目には一着でのデビュー戦。
 以来これまで2000メートルのコースを2191レース、丸28年間選手として走り続けた。その間には、鎖骨、肋骨、肩甲骨、腓骨などなど10回も骨折。その恐さも忘れ,止めずに走れたのは「ジャズを聴くのが好きだったから」と笑う。
 「レースの時考えるのは皆同じ。他の選手の心裏を読む。世の中の情勢を読むのと一緒。レース用の頭を使うことで生きてきた。大半の太く短くでは泣く、細く長く。プライドは無いが、若者にも負けない意地と頭の使い方」。
 「一流の選手だって、いつかは落ちてくるもの、その時に勝てる。勝つまで走る。一流は三流の苦労を味わいたくないから止めるんだけど、僕みたいな三流は、みじめな中で頑張ってきた。選手になれない人すらいる中で、三流でもなれたのだから」と謙遜する彼。
 (社)日本競輪選手会、他県では50~200名位だそうだが岩手地区は20数名。今その花形は佐藤友和選手(28)(88期)。ちなみに佐藤公二さんは(50期)だったから、数字からもその努力の想像はつくが、現役時代3位までの勝率一割は凄い。
 昨今はテレビなどで、ブレーキの無いプロ用自転車が一般道を走って事故を起こすことが報じられる程の自転車がブーム。「プロでさえ止まるまで何メートルも必要なのに一般の人が一般道で乗るのは問題!」と彼は自転車を下りて第二の人生を歩き出した。
12:03:00 - johnny -

2021-12-21

幸遊記NO.43 「横澤和司のリアルタイム」2011.10.31.盛岡タイムス


 水上優が「冷たい刃先」という仮題を変更し「ルアルタイム」という詩集を出版したのは1990年4月1日のことだった。水上優とは詩人・横澤和司(かつし・57)のペンネームである。
 この詩集のタイトルが示す通り、その詩の内容は、いいことも、悪口ととられそうなことまでも、リアルこの上なく書かれていたために、彼を知る、書かれた人たち(そう思った人たち)が、あいつは精神に異常をきたしているなどとし、物議をかもしだしていた。
 当時、コンビニに勤務しながらの一人暮らし。カップラーメンやおでんなどの偏食と過労のため、体に変調をきたした時、店長に連れて行かれたのは、何と精神病院だった。連れてった店長と院長が話している時、ケアマネージャーの看護婦が彼を見、話を聞いて「この人まともですよ」と言ったというが、そのまま強制的に4ヶ月間の「精神病患者生活」を送らされた。
 その病院から出た時、彼は僕の店にやって来たけれど、まるで老人のような足取りとなり、頭も顔もぼんやりとした、まるで廃人のようになっていた。そののち元気を取り戻してから、病院でのことを「告発」という詩にして僕に持って来たことがある。
 「狭い空間に押し込められ、鍵をかけられ、眠剤を無理やり飲まされ、自由を剥奪され、社会から遮断され、希望はありません。楽しみは食事だけ。欲求不満に耐えてます。ストレスに晒(さい)なまされています。ここは墓場です。人間喪失になります。訴えても取り上げてもらえません。虐待です。虐殺です。」詩には所々にこんなことが書かれていた。
彼は今、精神障害者2級になり、その年金で生活する「専業詩人」。彼から湧き出る「即興詩」の語りは,聞く者たちを彼の世界に誘い、涙を溢れさす。僕が、彼の書いた膨大な量の詩編の中から拾い書きして、2005年5月に、盛岡市立図書館に展示した書の「共観詩歌展・野の花のように・風のように」は多くの人たちが見に来てくれたが、特にも女性はほとんどの人が涙し、嗚咽し、立ち尽くし、読み通して帰って行った。
彼が小学5年生の時、自殺した母の「心」を目標に、それを超えるために、今もただ、ひたすら、詩を書き続けている。
12:01:00 - johnny -

2021-12-20

幸遊記NO.42 「野村晴一の巽聖歌童謡曲集」2011.10.24.盛岡タイムス


 誰もが皆知っているなつかしの歌「たきび」の作詞者「巽聖歌」(たつみ・せいか)本名・野村七蔵(1905~1975・紫波町日詰出身・紫波名誉町民)の童謡曲集CD付が「たきび70周年」として盛岡出版コミュニティーから発売になった。発刊したのは、同姓を持つ野村胡堂・あらえびす記念館の館長(胡堂の弟の孫)の野村晴一さん。
 昭和16年(1941)「たきび」が、太平洋戦争勃発前夜の12月9・10日にJOAK(NHK)で放送されてから今年でちょうど70年。この期に合わせて何とか形にして後世に残したいと考えた館長さんは、自費出版を決意し、2009年からその準備に取り掛かり、今年10月21日の巽聖歌童謡カンサート(よみがえる日本の原風景)にて発表したというもの。
 曲集に収められているのは「めだかのくに」に始まり「たきび」で終る、全43曲。今回のCD収録のために書き下ろされた」、感動的な曲「水口」(みなくち)を始めとする「田圃なか」「せみを鳴かせて」「流れゆくもの」(浅香満作曲)の新曲も初演となった。
 コンサートには浅香さんや「たきび」の発表の年に生まれ、北原白秋が命名したという、聖歌の長女「やよひ」さんと聖歌の亡くなられた長男の奥様までが東京から来場されていて、感激されていました。地元からは聖歌の愛弟子・歌人であり、画家の山崎初枝さんも顔を見せており、久し振りの再会に僕も嬉しくなった。
 曲集本には、CD収録全ての楽譜と詩。その解説と聖歌の年譜までが収められており、聖歌のことがよくわかる編集。巻頭には、野村晴一、中川やよひ、あとがきには、川原井泰江の各氏がそれぞれの想いを寄せている。
 僕は川原井泰江さんが歌い、高木愛子さんが弾くピアノを録音し、CD化。コンサート当日から、同時開催ということで、実行委員長で聖歌の研究者として知られる内城弘隆氏のご配慮により、僕が筆を取り、聖歌の歌詞を書き綴った「書」も11月8日まで野村胡堂・あらえびす記念館にて展示されています。
12:00:00 - johnny -

2021-12-19

幸遊記NO.41 「守口忠成の生き方の教え」2011.10.17.盛岡タイムス


 仙台を流れる広瀬川のほとり。日本初の水力発電所(現・三居沢発電所。明治21年・宮城紡績が工場内に50灯を灯した)がある。その真上に位置する山の中、大きな天然石に彫られた仏像が秘っそりと佇んでいる。
 僕の30数年来の親友・守口忠成(ただしげ)さんが1993年頃に数ヶ月かけて彫った仏像である。そこは明暗流の尺八奏者でもある彼が、自転車で通い続けている練習場所であった。彼がひとたび音を出せば、真っ先に鳥たちがやって来て尺八に呼応しさえずり、蝶やトンボ、虫たちまでもが、わんさか寄って来て、彼の体にとまってはその音を聴く。僕がその光景を目にしたのは1997年のこと。
 先日、その仏像写真が彼から送られて来た。その頭と肩、座した足元にビッシリと生えた苔。ふと「さざれ石の岩をとなりて苔のむすまで」と国歌が頭に浮かんだ。今ではすでに定年退職した彼だが、当時は高校の先生。転勤の度、その学校に僕を呼んで唄わせ、自ら尺八で伴奏をつけて聴かせ、生徒たちからは、その感想文まで届いた。
 彼が僕の店、ジョニーに来だしたのは30年数年前、気仙沼水産高校の先生をしていた時からである。店に来て2~3日もすると必ずハガキや手紙が届き、店に来た時の感想やら気持やらが書かれていた。なかなか来れない時には、近況を知らせる手紙が届く。その数およそ4~5百通。陸前高田に届いた分は今年の津波で流失させてしまったけれど、僕が盛岡に来てからの10年分を数えてみたらすでに120通を超えていた。
 仙台から盛岡の店へも何十回来てくれただろう。僕が時折コンサートで唄うとなると、いつの間にかステージの隅っこに立っている。東京で唄った時にだってそうだった。いつでも、どこにでも、ほとんど必ず来て吹いている。まさに風のような人なのだ。
 お互い年令を重ね「一人ずつ大切な人と、この世の別れをするのがつらい。最近、明暗尺八の師匠が逝ってしまった。そのうちにではなく、会えるうちに何度も何度も!と痛切に思うのは、俺だけか?」と最近の手紙。ありがとう。
12:58:00 - johnny -

2021-12-18

幸遊記NO.40 「藤本真二のオーバートップ」2011.10.10.盛岡タイムス


 山口県周南市の藤本真二さんから、久しぶりの電話。五年勤めていた、とある大手製薬会社から、ようやく正社員として採用されることになり、来年から大坂本社に勤務することになったという。「おめでとう!」。そう言ったあとで、何才だろうと数えてみたら彼もすでに46才。
 かつて三陸町(現大船渡市)にあった北里大学の水産学部の学生だった頃、僕が陸前高田で開いていた、ジャズ喫茶・ジョニーにやって来て、コンサートを開いたことがある。その時の光景は、今でも覚えているが、集まってくれたお客さんに、持参した大きな袋から、インスタントラーメンなどを次々に出して、配りながら「僕の歌を聴きに来てくれてありがとう!」と言って、皆を笑わせた。
 卒業時には、大学から採用感謝みたいなハガキが届いて、読んでみたら、藤本君がジョニーに就職することになっていた。ドッキリ!。彼の意志は本当だったが、ジョニーで人は雇えなかった。昼、製材所でバイトし、夜、ジョニーを手伝うこと3年。一本のオリジナル・カセット・アルバム「オーバートップ」を製作し、フォークシンガー・三上寛の縄文の唄旅(東北・北海道ツアー・ジョニープロデュース)の前座で歌いデビューした。そのツアーは、三上寛の「縄文ロック」というビデオ作品となり発売。三上さんはその時、買ったばかりの純手工ギター「ジョージ・ローデン」を彼に贈った。1989年のことだ。
 そのギターを持って彼は上京。「カンデラリア」という六本木にあったタンゴ歌手・高野太郎さんの店で働き、店がはねた深夜から夜明け近くまでは、ギターを持って、六本木交差点角に立ち、路上ライブを開始した。向いの交番からはやめなさい。ヤクザからはいやがらせ。それでも只ひたすら死に物狂いで、毎日毎日唄い続け通した3年だった。
 僕も何度か、そっと見届けに行った。つらいからやめたいと深夜に泣きながら電話をくれたこともあった。でも彼はやり通し、その青春はビデオ作品にもなった。「憧れだった加藤和彦や内田裕也らさえも聴きに来てくれたことが、勲章なのだ!」と。その後山口の実家に戻り店を開いていたのだが、道路拡張にあって閉店し、勤めに出ていた。
12:56:00 - johnny -

2021-12-17

幸遊記NO.39 「溝口一博のJAZZさろまにあん」2011.10.3.盛岡タイムス


 長崎でタクシーに乗り、「ジャズの店に!」と言って、連れて行かれたところは、道と道に挟まれた五又路の三角地に建つ変わった形のビル、その3FにJAZZのネオン。そこは2008年11月にも、訪れたことのある「さろまにあん」という店だった。マスターの溝口一博(66)さんは、根っからの「ソニー・ロリンズ(テナーサックス奏者)」のファンであり、ロリンズのスタイルを受け継ぐ自己のカルテットを持つサックスのプレイヤーでもある。
 店名はかつて、バイクに乗って全国を駆け巡った時に印象に残った北海道の、サロマ湖の畔にあった民宿の名に由来するというが、それこそ、湖のように静かな海が広がる長崎のジャズ・サロン・マニア?が集う店なのだ。
 中学時代ラジオで聴いたジャズに魅せられ、高校卒業と同時にジャズ喫茶に通い、その後、修行のため上京した東京で、ソニー・ロリンズの公演を観、聴きし、その茶目っ気にひかれた程、真面目なサックス吹きだった彼。ロリンズ来日のたびに親交を深め、今では「グット・フレンド」と言われるまでになった。
 彼が思案橋の楽器店で、自分が初めて手にしたサックスに吹き込んだ息が、音となって出た時の感激!それは、サックス奏者となった、溝口一博の誕生の瞬間だった。その彼に楽器の手ほどきをしてくれたのは「長崎は今日も雨だった」の大ヒットで知られた、内山田洋とクールファイブのメンバーだった岩城茂美氏。
 店で客が「何かやって」と、リクエストすれば、数十年使って来たテナーサックスを抱き上げて、「止まりませんよ!」と吹き出す。それまで店に流れていた映像だって彼のライブ盤。そう、自分の音が大好きなミュージシャンであり、ジャズ喫茶のマスターなのである。
 彼のCDタイトルの一つ“セカンド・ミーティング”が示すように、ライブ演奏するのは、他の演奏者や、ファン、店のお客さんたちとの再会という意味もあり、そのためのライブなのだと。だから自分のコンサートの時には必死になって客を集め、満員にする努力をするのだとも。バーボン片手にゆでピーをいただく。
12:55:00 - johnny -

2021-12-16

幸遊記NO.38 「後藤誠一の夢の街音楽療法」2011.9.26.盛岡タイムス



 大学時代からジャズに魅せられて以来40年間、これまでに2万8千枚以上のレコードやCDなどの音楽ソフトを聴いてきた、ジャズ評論家で医師の後藤誠一氏(63)。医療法人・後藤クリニックの院長。は、今だジャズに興奮し続けている。

 聴こえない音、無意識で聴いてる音は体の中に入って行って細胞に影響を与える。良い音で聴く、いい音楽。演奏家のいのちの音を聴く時、神が降りて来る瞬間があり、鳥肌が立つ時さえあるのだという。

 「この音楽を聴かずに、一生を終えることは、人生最高の幸せを失うことと同じだ」とは、アート・ブレイキー(ジャズドラマー)の言葉だが、「ジャズがあるから人生を豊に暮らせる、予測のつかない興奮が待ち構えてる音楽は人生の醍醐味ですね」と言う後藤氏。

 その後藤クリニックの音楽療法室の名は「夢の街」。その名が示すように部屋はまさに夢の中。世界中のミュージシャンをお抱えしているといってもいいレコードやCDの群山。息を飲み込むほどのハイエンド・オーディオシステム群。そして何よりも、出てくる音の美しさとおいしさには、思わず手を合わせてしまう。

 素材のソフトは同じであっても、その音の通過する機器やその使い方などによっても音は千変万化するものだが、後藤氏の音は全てが巨大なのに、なぜか気持がいいのだ。生演奏時、下手な奏者ほど音がうるさく聴こえ、達人になればなるほど、音が大きくなっても心地がいいのと一緒!彼のオーディオを聴いて感じさせられた。全ては心・技・体・の持つ三つの耳のバランスの問題なのだ。

 脳科学者・茂木健一郎氏の考えを借りれば「ミラーニューロンという神経細胞の高度な情報処理で、音を聴くと演奏者が現れる」ということになるのだろうと言う彼。「音は単に鼓膜で聴くだけではなく、五感を駆使して、時には第六感も取り入れた全身で聴くものであると実感出来る音。音は一瞬で消えてゆく儚いものだ。だからこそ儚いのもほど大切にしたいという慈しみが湧き上がる。磨き上げられた音への慈愛こそ、私のジャズ・オーディオ」と言う彼。「その趣味を徹底的に追求すればするほど、仕事を一生懸命に成し遂げる必要がある表裏一体のものなのだ」とも。
14:17:00 - johnny -

2021-12-15

幸遊記NO.37 「林直樹のジャズストリート52」2011.9.19.盛岡タイムス


 1968年以来、44年、世の中の流行に背を向け、カウンターに休まずに立ち続けてきた男・林直樹「ジャズ・ストリート52」のマスターは今年、69才になった。
 岩手宮古出身の世界的ジャズピアニストだった本田竹広。本名・昂(たかし)さん(2006・1・12・60才で死去)が、生前25回もコンサートをしに東京から通った店である。店の所在は北九州市小倉。本田より三つ年上だった林さんだが、本田からは、ついぞ「林さん」と呼ばれなかったという、本当に親しい間柄だったらしい。
 学生時代を東京で過し、東京新宿にあったDIGというジャズ喫茶に連日通い、マスターの中平穂積(ジャズ写真家としても有名。現・新宿DUGマスター)が、友達のように付き合ってくれた、ジャズの水先案内人だったから、と、今でも、店のカウンターに「DIG」の
マッチを大切に飾っている人なのだ。
 林さんが生まれた頃、ニューヨークジャズの拠点はマンハッタンの52番街だったことから、その通りは、ジャズストリートと呼ばれた。「ジャズ・ストリート・52(フィフティセカンド)」の店名の由来はそこから来ているのだろう。
 同年生まれのミュージシャンには、山下洋輔(ピアノ)や日野皓正(トランペット)同業では菅原正二(一関ベイシー)等がいる。演奏者達は、東京で疲れると九州に来たがったのだという。むかしの記憶で最高だったのは1972年、山下洋輔、中村誠一、渡辺文男。三上寛、古澤良治郎のステージだったという。
 今年(11年)1月12日(65才)に亡くなった、仙台出身・ジャズドラマー・古澤良治郎の葬儀に行けないので、山下に電話して「香典立て替えて持ってってくれないかな」と頼んだという彼。その話を知ったミュージシャンや仲間うちから、「山下さんにそんなこと頼めるの林さんぐらいしかいませんよ!」と言われたそうだ。
 それは、70年~80年代にかけての日本ジャズの隆盛期に、血まなこになって生演奏を地方に持って来、そして広めた地方のジャズ喫茶店主の想いと、当時、競うようにして一生懸命に演奏したジャズ魂たちとの友情の証である。
14:16:00 - johnny -

2021-12-14

幸遊記NO.36 「石川章のピアノライン」2011.9.12.盛岡タイムス


 来週日曜・9月18日。恒例となった第五回「あづまね山麓・オータム・ジャズ祭」が、紫波・ビューガーデンの芝生広場で開催されます。
 出演は、東京や関西などから6バンド。地元岩手から3バンドの計9グループ。今年は大震災のこともあって、その復興支援チャリティーということになった。
 そんなある日、滝沢村のピアノ修復工房・石川ピアノラインの代表・石川章さんが開運橋のジョニーにやって来て「ジョニー・照井さんと一緒に仕事をしたい!何でも言って!やるからさ!手伝えることないですか!」と言ってくれました。僕はすぐさま「頼みたいのは山々だけれど、お金がなくて頼めないで居る、グランドピアノをジャズ祭の芝生のステージで使いたい」と伝えたら、彼は即「OK!」してくれたのだ。しかも白いピアノだという。
 客席となるグリーンの芝生の広場から見る芝生づくりのステージの向こうに広がる紫波町の田園風景、黄金に輝く稲穂と真っ白いそばの花、名産・ラフランス(洋梨)の香りがただよってくるそのジャズ祭の会場に何と、ROSENSTOCKのグランドピアノを運んで来て、調律までしてくれるというのだ。しかも完璧ボランティア。ありがとうね。本当にありがとう。
 石川章さんはかつて、ピアノの運び屋さんだった。それが、あの阪神淡路大震災の時に現場を見てからというもの、二人の調律師からピアノの修理を教わり、何回も技術講習を受け、セシリアメソットを習得、以来数百台にのぼるピアノクリーニングや調整修理を手がけて来てた。
 2006年にはなんと内閣府迎賓館所蔵の1908(明治41年)に宮内庁が購入したフランス・エラール社製グランドピアノ(1905年製)の修復を担当したのだった。「エラールはフランス人にとっては神のような存在の名器。そのピアノを日本人がきれいに直して再成させることは、フランスとの交流を深めるきっかけになるのでは?」と一歩踏み込んだ修復の必要性を頑固さと熱意を持って説明した結果の任命だったらしい。
 余談だが2007年、紫波・野村胡堂・あらえびす記念館のピアノを完璧に調整調音して録音した、ケイコ・ボルジェソンのCD「あらえびす」は和ジャズの名盤となった。
14:15:00 - johnny -

2021-12-13

幸遊記NO.35 「美しい十代の禁じられた遊び」2011.9.5.


 あれは1963年(昭和38年)の高校一年の時だった。平泉中学校から高田高校の定時制に進んで、最初に友達になった同級生の紺野拓実君(住田町出身)に見せられた一枚の歌詞カード、それは僕が音楽に興味を持つきっかけとなった。
 「照井君は詩が好きな様だから、これ読んで見て」と机の上に置いていったシングル盤レコードのジャケット。そこに書かれていた詩には、僕等と同じ夜間高校に通う生徒達のことが書かれていてカンゲキ!した。作詞は宮川哲夫。作曲は吉田正。「風は今夜も冷たいけれど、星はやさしくささやきかける、昼は楽しく働く仲間、みんな名もなく貧しいけれど、学ぶ喜び知っている」。
 歌っていたのは、“美しい十代”で前年11月にデビューしたばっかりの「三田明」。彼も僕等と同じ1947年(昭和22年)生まれで、本名を辻川潮(つじかわ・うしお)。愛称はウッちゃん。と言った。僕たち定時制のことを歌っているんだから、応援しなくちゃと、三田明後援会に、そのいきさつを手紙に書いて送ったら、その会報に僕の出した手紙が載った。すると、毎日毎日、何十通もの手紙が全国から届いてビックリ!まるで僕もスターになった様な気分を味わったのを覚えている。
 三田明のレコードを買いに行った時、彼のは売り切れだったので、当時リバイバルヒットして盛んにラジオから流れていた1953年のフランス映画の主題曲「禁じられた遊び=愛のロマンス」を買ったのが最初の一枚。スペインのギタリスト・R・デ・ヴィゼー(1686~1720)の作曲。その組曲からセゴビアが編曲し、それを更にナルシソ・イエペスが編曲・演奏したものが映画で使われ大ヒットした。
 だが僕が最初に手にしたレコードは、その原メロを元に自ら作編曲したヴィセンテゴメスのギター。それはスパニッシュ的アドリブに血が騒ぎ出す心地よさを感じるものでした。又、岩手出身のギタリスト・七戸国夫さんの演奏では、彼独自の前奏で始まる、まったく違ったクラシカルなアレンジをほどこした世界に通用する素晴らしい「愛のロマンス」です。これは今「月の光」のタイトルでCD化され僕の愛聴盤となっている。
14:14:00 - johnny -

2021-12-12

幸遊記NO.34 「嶌村彰禧のおたるワイン」2011.8.29.盛岡タイムス


 「おたるワイン」のネーミングで知られる「北海道ワイン」のことを知ったのは、1982年3月20日号の「週刊宝石」に紹介された「北海道で本物のワイン造りに賭ける男の物語」を読んだのがきっかけだった。
 社長の嶌村彰禧(あきよし)さんは、その時54才。今では何処でも手に入る「おたるワイン」だが、創業当時は少量生産、52キロリットルの免許しかなかったから「幻のワイン」と称されていた。それを取材した僕の友人カメラマン・朝倉俊博さんから電話があり、会社から様々なワインが箱で送られて来たのだった。
 以来、僕は気に入った「ナイヤガラ」という品種のワインを中心に、店で提供し続けてきた。飲んだ人が皆、口をそろえて言うのは「ウワー!おいしい!飲むというより、ブドウそのものを食べてるみたい!」それは、今も変わらない。当所数年間は、小樽?入りのワインを直送してもらっていたが、そのうち、陸前高田の酒屋さんでも仕入れることが出来るようになって、今は何処でも買える一流のトップメーカーにまでなった。
 僕はワインのことについては何も知らないが、当時は、干し葡萄や、屑葡萄、混ぜものなどニセや即席が問題になった時代。ドイツ、オーストリー、ハンガリー、フランスなどの葡萄栽培者達が、苗木は譲れないが、剪定して捨てた枝を拾って行くのは許す。と言ってくれた心を日本に持ち帰り、北海道に日本一大きな葡萄畑をつくったのだと言った。嶌村社長の言葉が今も浮かぶ。良質の葡萄のみを絞って造った「小樽ワイン」。
 「天から与えられた存在が解かれば、次の時代へ残すものが見えて来るんです。そこで学んだものを展開してゆくのが人間でしょ。潔(いさぎよ)く貧乏して、なお堂々としている。楽しいもんなんです」と、語ってくれた1987年の社長の言葉を、僕自身、そのまま生きてきた様な気がする。
 ジョニーが節目、節目でのイベントやパーティーなどを開く時、「皆で飲んで下さい」と、今でも会社から絞りたてのワインがケースで届く。「ナイヤガラ」の滝の如き心に感謝のカンパイ!
14:12:00 - johnny -

2021-12-11

幸遊記NO.33 「長年寺の桃の木稲荷大明神祭」2011.8.22.盛岡タイムス


 秋田県鹿角市花輪にある「鳳林山・長年寺」で行われる夏祭り(2011年7月16日)に,ジャズバンドを呼びたいとの話があり、開運橋のジョニーに出演しているベースの細川茂雄カルテットに、サックスの米澤秀司、ヴォーカルの金本麻里を加えた、6人編成のお供をして行って来た。
 寺で行うまつりとは一体どんなお祭りなんだろうという興味もあったが、寺に到着してみれば、なんと「桃の木稲荷」ののぼり旗が立ち並んでいて、ビックリ!何でも、寺の裏側に位置する境内の山頂にその「桃の木稲荷」があり、神が寺を守り、仏が神社を守っている、まさに日本昔話のごとき神仏一体の寺社でした。神前で般若心経を唱える不思議。僕も参列させて頂いた。
 長年寺は秋田一、二の大きな寺で、本堂屋根のてっぺんには何と、南部藩の対鶴と巴の御紋。墓地奥には南部家来の古い墓が並ぶ。「南部利昭氏も来山されましたよ」と松井直行住職。南部利昭氏といえば、南部家第45代当主で靖国神社の宮司だった方。2009年1月7日に73才で亡くなられた。そういえば南部氏はジャズが好きで、宮司を務めてた時(年月失念)、開運橋のジョニーへ“おしのび”でライブを聴きに来てくれた事があったなあ、と、思い出した。
 長年寺では、盛岡の金本さんと言えば!と、麻里さんに、寺にある鐘の話になった。その鐘というのは、戦時中に供出した寺の鐘が、平成10年3月にヴォーカルの金本麻里さんの父、辰彦さんの手を経て半世紀振りに長年寺に戻ったという鐘の事だった。なんたる偶然。
 それは辰彦さんの父、正伯さん(昭和60年亡)が昔入手し、自宅床の間に大切に飾って置いた鐘だったらしいが、辰彦さんが鐘に刻まれていた文字を判読したところ「奥州花輪邑・鳳林山長年寺」文化12年(1815)4月13日盛岡の鋳工・山口伝兵衛(藤原雅重)氏の制作。とあり当時、秋田の高校教諭で古鐘研究家の熊谷恭孝氏が、明治24年の秋田県寺社所有物の文献をもとに調査し、長年寺に二つあった鐘の一つだという事が判明した。
長年寺の奥の間にあったその鐘の音は、味わいのあるいい音だった。19回目のまつりは晴天!今年が最高!楽しかった!と皆が言ってくれた。
14:11:00 - johnny -

2021-12-10

幸遊記NO.32 「千葉海音のジプシーシャンソン」2011.8.16.盛岡タイムス


 日本でのシャンソン歌手と言えば、そのほとんどは日本語に訳された詩を歌うのが通常。だが、原語で歌いながら自分でピアノの伴奏もする、いわゆるシャンソンの弾き語りが出来る、パリ在住の千葉海音さん(34)があさっての8月17日に、開運橋のジョニーでコンサートを行う。
 彼女がジョニーに初めて現れたのは2009年9月18日だった。聞けば出身は、僕と同じ平泉。しかも僕の娘と同い年。盛岡の不来方高校から、洗足学園大音楽部を経て、2000年にパリへ渡った。1920年~30年代の古いシャンソンを中心に勉強し、今では歌手として、シャンソニエやサロン、ギャラリー、ホームパーティー等で歌い、少しはピアノも教え、細々ながら音楽で生計を立てているのだという。
 2年前、ジョニーで歌った時、「夏と冬に日本へ帰って来るのですが、地元岩手は初めてで、まして盛岡は不来方の制服を着ていた街なので、青春時代を過した岩手で歌えたことが嬉しかった」と涙を流した光景が今でも目に浮かぶ。
 あとで知った事だが、彼女は、僕の平泉中学時代、音楽の教鞭をとった「千葉ケイ子」先生のお孫さんだった。当時としてはめずらしく、真っ赤な口紅をつけて教壇に立ち、自宅から持参したレコードを教室にあった電蓄でかけて聴かせてくれた記憶がよみがえる。お会いしたいと思っていたが、昨年亡くなられたという。
 海音さんはパリのいろんなシャンソニエでいろんな人の歌を聴いたが、なかなかグッと来なかった。だがある時、モンマルトルの「ラパンアシル」(エリックサティやピカソが通った店としても知られる)で聴いた「ミッシェル・ベルガム」に感動。教えをこうたが断られ、それでも根気強く何度も通ったら、彼女の自宅を訪ねて来て、「歌ってみなさい」と言われ、以来教えを受け、今日に至ったのだと言う。
 「ある時電車の中で、ジプシーのおばあさん(国籍の無い人だった)の歌に感動し、そのメロデイを頭に入れ、自分がそのおばあさんのことを書いた」という、昔のイスラエル曲につけた日本語の歌に鳥肌が立った。
14:08:00 - johnny -

2021-12-09

幸遊記NO.31 「穐吉敏子の希望(HOPE)」2011.8.8.盛岡タイムス

 ニューヨーク在住のジャズピアニスト・穐(秋)吉敏子さんと、彼女の夫でサックス・フルート奏者のルー・タバキンさんによる、津波被害者救済のためのボランティア・コンサートが、9日紫波町の「野村胡堂・あらえびす記念館」と、10日奥州市の「Zホール」で開催されます。
 本来なら、穐吉さんのジャズ生活65周年。渡米55周年を記念する、華やかな催しになる予定でしたが、3・11の震災直後、次々と様々なコンサートキャンセルが相次ぐ中、彼女は被害にあった人達のことを想い、出演料を救済にあてるコンサートにしたいと、急遽、東日本大震災復興支援チャリティーとして、再スタート。あっ!と言う間に明日を迎える。
 穐吉さんが日本の津波のことを知ったのはNHKTVのアメリカ版ニュースだったらしい。日本の歴史始まって以来の最大の被害と報じられた。ということだった。しかも穐吉さんが“ふるさと大使”を務める「陸前高田市を襲う津波の様子は、映画の作り事ではないかと思われる、すさまじい光景でした。私の親しい友人達が、陸前高田や気仙沼、仙台にも居らしたので、その生死を確かめたところ、少なくとも命だけは無事で居られたのでほっとしました。」というFAXが届いたのでした。
 穐吉さんご夫妻は、その直後からニューヨークその他で行われている救済コンサートに何度も参加しており、アメリカのミュージシャン達も、ヴィレッジ・ヴァンガード・オーケストラを始め、多くのミュージシャンが積極的に運動している様子を見て感激したという。そうしたニュースも又、日本にも報じられている。
 その穐吉さんからの更なるメッセージ「終戦直後の状態の様に、家も壊され、何もかも失くされた方達の御気持は、私達には想像出来ない程の絶望感が御有りと思います。音楽は人の気持を安らげ、又楽しくします。私達の演奏が少しでもその為になれば、と祈って止みません」と届いた。
 前売券、あらえびす記念館は5.000円。Zホールは4.000円。当日500円プラス。ホントですか!どうしてこんなに安いの!秋吉さんに失礼じゃない!世界一の人ですよ?!
様々なうれしい言葉が届く。沢山の人々に聴いてほしい・・・・・。 

14:06:00 - johnny -

2021-12-08

幸遊記NO.30 「山内洋のメモリーズ・オブ・ヨウ」2011.8.1.盛岡タイムス


  ピアニスト・エディ・ブレイクが、1930年に作曲した「メモリーズ・オブ・ユウ」という曲がある。ベニーグットマン物語で有名になった曲だが、まるで、そのタイトルをもじったかのような「メモリーズ・オブ・ヨウ」という副題のついた「こころ」というプライベートなCDが僕の手元にある。
 演奏しているのは、「メモリーズ・オブ・ユウ」が作曲された年に生まれ、2003年74才で亡くなるまで、現役でピアノを弾き続けた山内洋さん。1950年代からNHK盛岡放送管弦楽団。NHKのど自慢の伴奏。IBC岩手放送ニューサウンズ等でリーダーシップを取って活躍し、後年には、ホテル東日本の専属ピアニストとして演奏した人。岩手、職業演奏家の草分け的存在。
 1987年からは、毎年ファミリーコンサートも開催していた程、山内家は音楽一家。奥さん路子さんが歌。長男・協(かのう)さんはドラム(95年横浜ジャズコンペでグランプリ)。彼の奥さん、麻美さんは(キーボード・ベース)。その娘由衣さんは、小学6年の時、NHKのど自慢でゲスト賞。長女・麻里さんと、その娘千絵さんはピアノ。次女・薫さんは(vo)。次男・純一さんの奥様洋子さんと子供の愛子、菜々子さんは共にピアノをやり、菜々子さんは、昨10年11月、5才でヨーロッパ国際ピアノコンクール・インジャパン全国大会の未就学児部門で最高賞の金賞に輝いたのです。
かつて洋さんの母が盛岡の旭橋の近くで営んでいたという旅館「千代荘」。その山内家の一室を借りて暮らしながら、山内洋さんのバンドでフルートを吹いていたという、オーストラリア在住の中村由紀子さんという方から、最近メールが届く。盛岡以降東京に10年。シドニーに10年、ゴールドコーストに20年移り住んで尚、山内洋さんに言われた「お前は度胸はないが、いい音を出す」の言葉を宝物とし、今も、フルートを吹いているという。
 「あれがファミリーでの最後の演奏会になった」とドラマーの協さんが言ったのは、2001年12月15日の山内路子オフィスのクリスマスパーティーのことだった。開運橋のジョニーで洋さんがピアノを弾き、協さんがドラムを叩き、路子さんが歌をうたった光景が浮かぶ。「ドラムをやるんだったら、テクニックより心を大切に」が父の教えだったと尊敬する息子の協さん。
14:03:00 - johnny -

2021-12-07

幸遊記NO.29 「菊池如水の鎮魂藍画」2011.7.25.盛岡タイムス


 「照井さんの歌を聴きながら絵を描きたい。その描いた絵は俺の形見に受け取って、ジョニーに飾ってけで」そして飾る場所の寸法を僕に測らせた、藍画家の菊池如水さん(89)。
 菊池さんと出会ったのは1993年。大船渡のNTTで菊池さんが個展を開き、当時NTTの支店長だった片方實氏に懇親会へ誘われたのがきっかけ。以来お互い意気投合。同年秋に行われた、盛岡彩園子画廊での個展も見にいった。その時、絵と一緒に展示してあった詩書を読む様に即興で歌い、その後チョット付き合ってくれませんかと、行き先も告げず車に乗せて行った先は、エフエム岩手スタジオ。10月19日のことだった。
 どんな話をしたのかは、すっかり忘れて記憶に無いのだが、大いに笑い合った気がする。その時の番組で流した曲目は、オール・ザット・ジャズのアシストを務めてた、沼田智香子アナウンサーが記録してくれていた。「北上夜曲」「さだめ」「もみじ」「赤とんぼ」「浜辺の歌」。曲間に話をし、1、2曲目は志摩伸己というピアニストの演奏、特にも「さだめ」という彼のオリジナル曲は大好きで、時折聴いていた記憶が戻って来た。
 菊池さんが安比や松尾で開いた個展には、陸前高田にいた僕を呼んで毎年オープニングコンサートを開いてくれたものでした。そんなこともあってか、今度のおはなし。津波で消失した高田松原を望む気仙川河口から、あの松林の心象風景を描いたのです。その間中、僕はギターをかき鳴らしながら、般若心経や自作の歌を唄い続けた。
 絵のテーマは鎮魂。唄う気持も鎮魂。5月から7月、陸前高田、大船渡、釜石、宮古、岩泉、田野畑。菊池さんにとってゆかりの深い被災地に、毎週の様に二人三脚で出掛け描いた、そのシリーズの藍画は、今年10月、彩園子画廊にて発表するという。いい絵です。
 僕も、その合間に個展のためのシャッターを押した。その小さな2Lサイズの写真を、7月いっぱい、紫波町高水寺の名曲喫茶「これくしょん」にて「浄土写心展」として展示しています。もしよろしかったら、のぞいて見て下さい。
 鎮魂の旅。浄土写心展。どちらもアイデアは「ありがとう」の女房の小春でした。
13:59:00 - johnny -

2021-12-06

幸遊記NO.28 「細川茂雄のオーディオ・ベースマン」2011.7.18.盛岡タイムス


 盛岡近郊の大釜駅前に、昨2010年9月にオープンした、オーディオ・ショップ「オーディオ・ベースマン」の店主、細川茂雄さん(57)は、盛岡大通りにあった県内最大手の「佐々木電気」のオーディオ部に、30年余り勤めてきた人。
 その佐々木電気が店を閉めてからというもの、行き場を失ったオーディオ(ステレオ)ファンから、独立再開を求められ、部長だった彼は、オーディオのトップメーカー・アキュフェーズなどからバックアップを受けてオープン。大手量販店では扱っていない高級オーディオを中心に委託の中古品や関連パーツまで揃えている。連日、試聴を繰り返しながら、品定めをする人たちが絶えない。それは今、静かなブームなのかも。
 彼は雫石町出身。盛岡工業高校、日本電子工学院卒。高校時代に流行ってたフォークを聞き、「ウッドベースを加えればサウンドはもっと良くなる」と感じた彼は、大学のカウント・ベイシー・スタイルのビックバンドでウッドベースを担当し、ジャズに開眼。以来盛岡に戻ってからも様々なジャズバンドで演奏し、その確かな耳とオーソドックスなプレイで共演者たちから尊敬され、一目置かれてきた人物。
 ステレオを求める人でも、オーディオ好きと音楽好きの人・・・・に分けられるが、細川さんは「オーディオの音と生が尺度の二通りの人がいる。そこを埋めてゆきたい」とし「自分独自の音を出して多くの人がいいなあ!と思ってくれるのを望んでいる」のだとも。
 プレイヤーとリスナー、販売員と、コーディネイター、リスニングルームへのセッティングと、音楽に関する重要な要素の全てを県内の誰よりも多く実践してきた彼の自負に、お客さんから全幅の信頼を寄せられている。
 聴く事と、演奏する事、この二つの違いを良く知ってるからこそ、その二つの接点をベースの生音で探すという工夫も。「オーディオだけの音。生の演奏音。どちらも違う音だけど、どちらも良い。小さなスピーカーでも色んな想いを馳せながら、その背後に広がる世界をゆったりと聴ける」それがオーディオの良さなのだとも。だから、いつも手間をいとわず様々な比較テストでお客様に聴かせ、答えている毎日。
13:58:00 - johnny -

2021-12-05

幸遊記NO.27 「毛利素子のジョニーへの手紙」2011.7.12.盛岡タイムス


 手元に一通の手紙がある。2008年9月9日午後に陸前高田で投函されたもの。その十日程前の8月31日、僕の母校である県立・高田高校の高高祭に招かれ、バンドを連れて行った時の礼状である。差出人は、同校生徒会指導をしていた毛利素子先生。準備から当日のお世話までしてくれた。最初にお会いした時は、生徒と見間違った程、若くてハツラツとした美しい先生でした。
 手紙には、演奏のお礼のことばと、あの日高田高校で演奏した、若いジャズバンド(全員20代、大学生も含む)だったことから、高校生に近いこともあって、生徒たちが、あこがれのまなざしで鑑賞してくれたことなどが書かれ、「初めての一般公開も予想以上に地域の方々が来校し、喜んで帰って行かれました。生徒会執行部の反省会では“開運橋のジョニー”でみんなで生演奏を聴いてみたいという生徒の声もありました」と。
 同封の生徒会会長・佐藤凌太君からは、友達の影響でジャズは聴いていたのですが,生演奏は初めて、雰囲気がとても出ていて穏やかな気持ちになりました。演奏や歌は素晴らしいものだと思いました。吹奏楽部やバンドをやってる生徒の顔つきが演奏が始まったとたん変わり、目を輝かして聞いていた」とも。その演奏を報じた9月3日付岩手日報のコピーも同封されていた。昔からの店のお客さんで当時の校長だった戸羽茂さんからもハガキで「心洗われる思いがした」と来ていた。
 そしてつい先日、当時の高田高校生だったという20才の男女4人が、高田から盛岡の開運橋のジョニーへやって来た。「ジョニーのおっちゃん!あの時の毛利先生津波で居なくなったよ。水泳部の生徒を救けにプールへ戻ってね。」彼女は北海道小樽出身。弘前大学を卒業して岩手で先生になり、あの08年に高田高校に赴任した。昨年同僚の小野寺浩詩先生と結婚したという29才。僕からは、返事もお礼の手紙も出さずじまいでした。ごめんなさい。彼女はあの宇宙飛行士・毛利衛さんの姪子さんでした。
13:57:00 - johnny -

2021-12-04

幸遊記NO.26  「泉田之也の作陶オブジェ」2011.7.4.盛岡タイムス


 泉田之也(ゆきや)さん(45才)の作陶展が明日(7/5)まで、かわとくキューブ館で開かれている。彼は三陸海岸の岩肌をイメージさせる、「やきもの」に見えないユニークな紙工的デザインのオブジェ作りをもっとも得意とする、陶芸家である。
 生まれは、陸前高田市。生家は今回の津波からは免れ、野田村にある窯や、自宅のギャラリーも無事だったという。
 彼は、大卒後一年間サラリーマン生活したのち、自分の手で何か創ることをしたい!と岩手に戻り「小久慈焼」に入社し、3年修業した。その間には県美術工芸展にて協会賞、東北工芸展入選など、すぐさま頭角を現し、1995年独立。「のだ窯」を構えた同年「日清めん鉢大賞展で優秀賞。2000年、02年と「朝日陶芸展」でグランプリを受賞。以来数々の陶芸展で入選入賞を果たしてきた、見るからにカッコイイ男なのだ。
 「夢は、ふるさと陸前高田での個展なのです」と語ってくれたのは96年9月。ならば!と3ヶ月後、陸前高田の「まちかどギャラリー・おおまち」で開催した冬期の陶器展。斬新なデザイン。使い勝手の良さ。質感の気持ち良さ。その作品の素晴らしさから想像出来ない値段の安さと相まって、展示品は即完売。予備に持って来てた作品も底をつき、急遽往復8時間かけて野田から再び作品を持って来るという事件的な作陶展だった。
 最近はアメリカ・サンタフェの「タッチングストーン・ギャラリー」で三年連続オブジェ作品の個展を開き、毎回完売してしまうという。しかも作家不在のままである。「来年は行ってみようかな」と笑う、門には福も来た様子。
 来年(2012年)、創業100周年を迎える大船渡市盛町の「うなぎの三浦屋」ご主人・三浦日出夫さん(68才)は、彼に惚れ、店のお座敷を開放し個展を10年毎年開催した。「凄く売れた」と泉田さん。三浦さんは、ジャズと映画を愛し、長年に亘りサッカー少年を育てた人。以前、僕が陸前高田の住民となった1963年からのスイングジャーナル誌を高田の店に寄贈してくれた。僕が盛岡に来た2001年には、古い映画のパンフを大量にくれた。この震災後には「幻の銘酒だよ」と言って酔仙を開運橋のジョニーに持って来てくれた。拝。
13:56:00 - johnny -

2021-12-03

幸遊記NO.25 「朝倉俊博の超音波熟成装置」2011.6.27.盛岡タイムス


 時折、同じメーカーの同じ銘柄の酒であっても、その味や香りの違いを判別出来る、利酒の達人が現れる。つい数日前にも僕の好きな友人に連れられて初めて来店した北上市出身の男性もその一人だった。
 「いつも同じウイスキー飲んでるけど、このウイスキー、何かうまいなあ~、何でだろう」そう言ってストレートを何度かおかわりをした。僕もその違いを感じてくれた人にだけ、その種明かしをして来た。
 実は店で出す酒類のほとんどは、ボトルごと超音波熟成させたものをお客様に出しているのだ。この装置を研究開発したのは、著名な写真家で文筆家でもあった・朝倉俊博氏である。彼は2004年4月22日・62才で故人となったが、1980年代初頭に、それまでの定説を覆す「振る程酒はうまくなる」ことを発見し、その後の20年余りを、愛飲家に福音をもたらす、その研究に身を投げ、遂に家庭用、営業用、醸造用、超音波熟成機器を特許開発し「超音波熟成酒」なるものを世に送り出した人。
 酒は年数を過す程まろやかになる。それは水とアルコール分子が、細かく均一化し、よく混じった状態になっている。そこに着目して、ビンをよく振ってから飲むと別物のように美味しくなることに気付き、その状態が元に戻らない安定した状態になるまで、微弱な振動を加えて熟成させる方法を発明したのだ。
 「香りよく(古くない)味は古酒」に変身するのである。そして何よりも、体内に入ってからの分解が早くなるため体への負担が軽減し、結果、多少の深酒でも二日酔にならない。
あの昔人の知恵「航海熟成」の現代版なのだ。
 酒とピース、音楽と真空管アンプを好み、ゾクッとする程美しい声がするステレオ再生音の極限まで常に挑んでた人だった。「生きてることは、様々なことを感じ、感動することですよ。感動の元はアナログ。感動こそが生きてる喜びでしょう」が、彼の真情だった。
 2011年6月24日付東海新報に「無事だった幻の銘酒」の記事。大船渡市の民宿・海楽荘の主人吉田豊繁さんは酔仙の米焼酎「古古」を一年間海中に釣るして波に揺らし、10年に値するまろやかさを生みだしていたと言う。
13:55:00 - johnny -

2021-12-02

幸遊記NO.24 「外山喜雄・恵子のワンダフルワールド」2011.6.20.盛岡タイムス


 2011年4月24日。TVニュースに映し出された、子供達の演奏風景。それは宮城県気仙沼市の避難所になっている市の総合体育館前で行われた「スイング・ドルフィンズ」の感動的なジャズ物語。
 何でも津波で楽器を流されてしまい、練習が出来ないでいる子供達の元へ、ニューオリンズからの義援金をもとに届けられた、真新しいピカピカの楽器。そのお披露目コンサートが行われたとのことだった。
 そのニューオリンズと気仙沼を結ぶ夢のアーチを架けたのは、日本のサッチモ(ルイ・アームストロング)と呼ばれているトランペッターの外山喜雄氏(67才)だった。
 彼は妻の恵子さん(ピアノ・バンジョウ)と共に、デキシー・セインツというバンドを率いて活動しながら、日本ルイ・アームストロング協会の代表も務める方で、ニューオリンズとの交流は、すでに40年のキャリア。
 かつて、ルイ・アームストロングが銃を発砲したために少年院に送られ、そこで出会ったトランペットが、その後のルイの生涯を決定づけた。そのことから、外山夫妻は「銃に代えて楽器を」のスローガンを掲げ、音楽をやりたくても貧しさのために楽器を所有することが出来ない子供達のために、楽器を送るプロジェクトを立ち上げ、これまでの17年間に800近い楽器をニューオリンズに届け続けてきた人なのだ。
 2005年、ニューオリンズに壊滅的な被害をもたらした、大型ハリケーン「カトリーナ」の襲来時にも、外山氏は日本でその救済ライブと募金活動を行い、全国のジャズファンから寄せられた募金1.000万円と、楽器も贈り届けた。そこへ3・11の東日本大震災。「日本へ恩返しを!」と、ニューオリンズから、外山氏を通じての支援だった。お陰様ついでに外山夫妻との共演も出来た「スイング・ドルフィンズ」。
このオーケストラは93年5月、気仙沼・本吉地区の小中学生を募り、地元のアマチュア・ミュージシャン達が「ジュニア・ジャズ・オーケストラ」の会を発足させて指導したのがはじまり。知人だった故・佐藤正俊さん(当時44才)が代表を務め発足。同年秋の市民文化祭にデビューさせた早業は、当時の僕を驚ろかせたものでした。
13:53:00 - johnny -

2021-12-01

幸遊記NO.23 「カンノ・トオルの雨の慕情」2011.6.12.盛岡タイムス


 「高田の火葬場で避難生活している人達は大分減ったが、今も十数人居る。でもここには、誰もコンサートなどの慰問に来てくれる人がいないから、マスター!誰か連れて来て演ってくれませんか」。陸前高田斎苑の隣にある光照寺の住職・高澤公省和尚からの電話だった。
 それから三日後の5月25日の午後3時からと日時を決め、盛岡から僕と、ホープガールでCDデビューしたばかりの金本麻里。伴奏者は矢巾町から澤口良司(ドラム)奥州市から後藤匡徳(ピアノ)一関から菅原修一(ベース)。それぞれ現地で拾い、合流しながら陸前高田へ。
 斎苑に着くと、高校生だった頃の石井先輩や昔に知った顔が並んでて、その中の一人,
及川兵而氏から「照井さん、これカセットにダビングしてくれないかなぁ」と言って差し出されたレコードは「ギターで綴る演歌大ヒット曲集・雨の慕情」だった。水をかぶった跡があったけれど中味は無事。預かって来てダビングして送った。そのレコードは僕にくれるという。ありがとう!。及川さんはカンノさんのファンだったというのが話の内容で解かった。
 ギター奏者・カンノ・トオル(本名・暢)は、岩手県住田町の出身で大正十一年(1922年)生まれ、盛岡中から慶応大へ進み、マンドリンクラブでギターを弾いた。入社したテイチク・レコードでは制作部長まで務めた人で、自らギタリストとしても大活躍。映画音楽やポピュラー、タンゴ、ラテン、歌謡曲など幅広いジャンルを演奏した。レコードはLPだけでも200枚近いはず。「カラオケ」の名付け親でもあった。
 そういえば昨10年6月5日、紫波町「あらえびす記念館」で行われた「ピアノと南部鈴の調べ」(小川典子・ピアノ。菅野由弘・作曲)のコンサートの時、由弘氏にカンノ・トオルさんの息子さんですよね?と声をかけた事を思い出した。由弘氏はNHK大河ドラマ、高橋克彦氏の「炎立つ」。宮澤賢治の「グスコーブドリの伝記」のアニメ映画などの音楽も担当し、芸大在学中にはヴィヴァルディ作曲賞などを受賞した才人だが、彼もすでに57才。
それはそうと陸前高田“斎苑”での“再縁”コンサートはNHKのTV、ラジオ、のニュースで全国に流れたらしく、見た!聞いた!と、口々に聞く。
13:52:00 - johnny -
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