盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
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盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
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幸遊記NO.555 「溝田博史の大村再発見」2021.9.6.盛岡タイムス
 長崎から船に乗って神戸に着いた、、、確かそんな歌が昔あったなぁと、自分の頭(こうべ)に浮かんだのは、長崎・大村市の旧友からの手紙を読んでいる時だった。同封されていたのは、自主、自立、共働、共助と表書きのある「シルバーおおむら」2021夏号(№61)。4回シリーズの第1回大村再発見。「オランダ牢跡、船大将・濱田弥平衛の器量」
大村駅前バスターミナルの横にある金網に囲まれた駐車場の一角にオランダ牢跡の石碑。江戸時代初期に、オランダ東インド会社の権威に全くひるまなかった大村人が居たこと。300年後になってもなお、その侍魂に大正人が共鳴したこと。弥平衛の子孫は代々大村藩に仕え、戌辰戦争時に秋田・角館で戦死した少年濱田謹吾も銃弾に倒れる直前まで太鼓を打ち鳴らした。その少年の毅然さと、出征する時に、少年(息子)の襟に縫い付けた母の愛・覚悟の短歌。それを見た角館の人たちが感動の涙を流し、その感動は、昭和になって(戦後)大村と角館は姉妹都市となり、毎年交流が続けられており、太鼓手濱田謹吾少年は今なお両市の子供たちにとってヒーローでありつづけているそうです。
 その謹吾少年の頃を読みながら、浮かんだのはあの2011・3・11の東日本大震災時、防災対策庁舎から防災無線で町民に避難を呼びかけ続け、津波の犠牲になった宮城県南三陸町の職員・遠藤未希さん(当時24)の「天使の声」が高校の教材になったことだった。
 さて本題、オランダ牢跡の件、寛永5年(1628)朱印船貿易商(幕府公許の南蛮=海外貿易商人)で長崎代官でもあった末次平蔵が所有し、濱田弥平衛が船大将を務める船が、新設なったオランダ・東インド会社台湾府によって積荷を押収されオランダとの貿易が中断するという事件。積荷の返還と自由貿易の保証を求めて再び渡航し会社の台湾長官とその息子等5人を人質に立てこもり、要求のすべてをオランダ側に認めさせ、返還された積荷と共に人質を伴って長崎に帰還。その人質たちを収容した牢跡の話。会社側は非を認め長官ノイツは役職をはく奪され、身柄は徳川幕府に引き渡すことなどによって解消され、それから300年ののち、その弥平衛に従五位の勲章が贈られ、大村公園に贈位記念碑が建ったいい話でした。
これを書いた溝田博史さんはいう「照井さんは穐吉敏子さんの大ファンですが、僕はその照井のファンですから盛岡バスセンターの穐吉敏子ジャズミュージアムを応援します」と。



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