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僕が2001年春に盛岡へ店を出してからこれまで様々な人たちから教えてもらった昔々、盛岡へコンサートにやって来た人やグループ名、主催団体などそれらを耳にするたびにメモして来たつもりだが、そのメモのありかにたどりつかず、目もあてられないなどと、シャレでごまかしてきた僕も、そればかりも言っていられぬと、まず自分と同世代のジャズ喫茶の活動歴。それと先輩たちの店のやり方、その活動の痕跡(こんせき)、岩手ジャズ愛好会、岩手ジャズ喫茶連盟、東山堂楽器(現・東山堂)、盛岡労音(のち盛岡新音)と、そして盛岡最古のジャズライブ店と思われる「白バラ」に至るまで、それらをよく知る人々との出会いによって、ようやくその全貌(ぜんぼう)が見えはじめてきた。
今年2019年の5月連休前、盛岡のジャズコンサート史から欠くことのできない穀蔵力氏に出会ったことを前回書きましたが1961年以前存在していた芸協(盛岡芸術鑑賞協会・会長・山本弥之助・当時の市長。会員数2500名)を発展的に解消し、労音、労演として再出発したとき、労音(勤労者音楽協議会)の事務局だったのが穀蔵さん。委員長はうたごえサークルをやっていた県総務部の高橋源氏、役員を除く30人程の委員の中には佐々木初朗氏(下ノ橋中の先生、のちの教育長で、市民文化ホールにパイプオルガンの導入の労をとった方)の名。さてその盛岡労音は煩悩(ぼんのう)の数と同じ全国で108番目の発足。その初例会は61年12月の「二期会合唱団」2200名の会員により県公会堂で3回のステージ。更に62年1月第2回例会は2770人の会員で「鈴懸の路」で知られるジャズクラリネットの鈴木章治とリズムエースで盛り上がったその労音のコンサートは一年後の穐吉敏子までに4度のジャズ関連コンサートを開いていた。 僕がこんなことを調べるきっかけとなった穀蔵さんと偶然に出会うことになる直前、実は70年代に“BunBun”という、ライト・ミュージック・ニュース・モリオカ(のちにイワテ・発行元・東山堂楽器/現・東山堂)という手書きの隔月刊ミニコミ紙(72~76、数万部発行)の編集をしていた槻館常敏さんとコンタクトが取れ、連休明けに「ブンブン」を見せて貰う約束をしたばかりだったのだから、渡りに舟、縁の不思議さをつくづく思わされている最中なのです。皆様ありがとうございます。 戻る |
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