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「甦えるトニー」という赤木圭一郎のレコードに出会ったのは十代の後半。彼が亡くなって4年後に出たLPでだった。以来時折、どういう訳か深夜になると聴きたくなり何十年も随分と聴いた。
先日、東京から、吉野剛君という若者がジョニーにやって来て、店が閉まる頃になったら「カラオケに行きませんか」と僕を誘った。深夜に行ける店を知らない僕は、二十年程も前に行ったことのある、僕の店と同じ名の「ジョニー」へ行ってみることにした。 盛岡中央通り裏にあるその店の名の由来は、釣竿の「十二尺」から「ジョニー」としたと店主の釣りキチ・佐藤順三さん(60)。彼はかつて、ジャズ歌手・ジョニー・ハートマンを信望したシンガー・ソング・ライター・故・大塚博堂の歌を得意とした歌手だったらしい。 「僕もジョニーです」と名乗ったら「確か以前いらした時“霧笛が俺を呼んでいる”を歌いましたよね」と言われたのには本当に驚いた!赤木圭一郎が歌ったその曲は、僕がカラオケで唄える数少ない歌の一つ。 とっさに僕も、1988年の夏の夜を思い出していた。新宿ゴールデン街の「ダカーポ」という店。女主人のジャズ歌手・田代たみえさんのこと。その店で、初めて飲んだバーボンウイスキー「フォアローゼス」の味のことなど。 彼女は何を隠そう、赤木圭一郎の実姉。かつて米軍キャンプなどで歌った人。彼女の口から出た当時の歌手の名は、上野尊子、細川綾子、園田まゆみ、などのキチッと唄える現役の人だった。最近上野は他界したが、三人共僕は好きな歌い手で、皆、陸前高田へ呼んだ。園田まゆみに関してはレコードも僕がプロデュースした。 赤木圭一郎(本名・赤塚親弘)は、1939年(昭和14)東京生まれ。父・俊之はジャズ好きの歯科医。母・喜久は銀座生まれで、子供の頃からオペラを聴いたという「モボ、モガ」の両親。その息子だった赤木は、何故か浜辺で遠い水平線を見つめているのが好きだったらしい。大学時代の59年、7本の映画に脇役で出演。60年から61年の3月に亡くなるまでに主演した映画15本。そのすべての主題歌も唄ったスター。未完の「激流に生きる男」の主題歌「流転」を吹込んだ直後の事故死。「でも父は“それも寿命だ”と言った」たみえさんの言葉。それが今も僕に残っている。 戻る |
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