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3月11日マグニチュード9.0という大地震に見舞われた直後、巨大な津波の襲来により東北沿岸の街のほとんどが甚大な被害。その沿岸部では一番平地の多い陸前高田市の惨状は想像を絶する壊滅状態。
平泉中学卒業時の1963年3月から2001年2月までの38年間住んで、お世話になった第二のふるさと陸前高田市、僕の父の弟が経営する照井クリーニング工場に住み込みで働きながら、、高田高校の定時制に通わせてもらった4年。足掛け10年間に及んだ、洗い場と集配業務のお陰で、市内の隅々までの地理や、多くの家庭と人を知った。 1967年に開いた希望音楽会を継続して、75年8月。五木寛之の小説「海を見ていたジョニー」に由来する「ジョニー」という名の音楽喫茶を開店。2年後には列島唯一の日本ジャズ専門店としたジョニーのテーマは、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの曲「黄色い長い道」。 経営苦にあえぎながらも、中央のプロミュージシャンを陸前高田に呼び続けていた時、その孤軍奮闘ぶりを見かねた市内の医師たちが中心となって会員をつのり、「ジョニー後援会」という資金援助団体まで結成して応援してくれた文化の薫り高かった陸前高田。 日本で初めての「日本ジャズ祭」を開いた1985年8月。その会場となった酔仙酒造が津波によって押し倒される光景をTVで見た時、陸前高田の街の全てが消えた事を想像出来た。もちろん、元妻が続けていた「ジョニー」とて形跡もないだろう・・・・・と。 その元妻や大船渡の2男夫婦、クリーニング関係の親戚の無事などを知ってホッとしたのは数日も過ぎてからで、全て東京経由の情報によってもたらされたが、友知人の無事を祈る毎日。その一方で何十年振りの人たちからまでの電話やメールによる安否確認や見舞いのたくさんのはげましの言葉。本当にありがとうございます。ニューヨーク在住の陸前高田ふるさと大使・穐吉敏子さん(81歳)からは、8月は復興に役立つコンサートにしたいとFAXが来た。「希望音楽会」の開催だ。 戻る |
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