盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.398 「岩桐永幸の瓦礫の街と炎」2018.9.3.盛岡タイムス
 「私の葬式で流す歌は“炎”よと娘に頼んであるの」そう言ったのは三浦優子さん(59)。その歌を作り、唄っている歌手・岩桐永幸さん(36)の生歌とCDを聴いて、僕は久し振りにゾクッときた!。ピアノを弾きながら歌ったのはその「炎」と「瓦礫の街」言わずと知れた東日本大震災がテーマ。普通は聴くもつらい涙ものの歌だろう!が、先入観としてあり「傷跡を残した津波の痕、奪われた故郷、家族の命」の歌詞はまさにそれ、だが歌声は詞や曲をはるかに超越し美しい光の世界へと僕を誘い導くのだった。「とてつもなく素晴らしい歌唱力!」それが第一印象。CDは聴く度に音量を上げる。上がる程にその歌声は心を突き抜けてゆく凄さだ!。彼は言う「9月9日午後2時と4時イオンモール盛岡南店センターコートでインストアライブをします」僕はとっさに「じゃあ、夜に開運橋のジョニーでライブやって!」そうしてあっという間に決まった日が近づいてきた。料金は飲み物と軽食付¥3.000.時間は19:00~。岩桐は岩手の県花から、永幸は本名(桐の花・永遠に幸せであれ)
 「深い悲哀、言葉にならぬ見えない明日、辛い現実に生きる希望がまだあるのなら、、、どれほどの傷を負ったとしても、どれだけ時間を費やそうとも、必ず立ち上がり光を浴びる日が来るだろう」。永幸さんはあのジョンレノンと同じ10月9日の生まれ(1982)、母・前川よし子さんは歌が好きで、釜石オリジナル歌謡同好会(長柴政義会長)のカラオケ大会に出てた人で、彼、永幸さんも2006年釜石市民会館で行われた「ぐるっと三陸歌の競演」司会・佐野より子、ゲスト・大泉逸郎の時「風花」を唄い、僕も聴いた。
 釜石に生まれ気仙沼で育ち大槌高校を卒業し、車好きが高じてガソリンスタンドや自動車会社で働きながら、歌のレッスンは何人もの様々な先生に教えられた中から、独自の発声法を生み出し、4オクターブ音域の地声とその裏声を使い分け、あるいは織り交ぜて唄うミラクルヴォイスは、プロダクションのオーディションで10社から声がかかった程、魅力的。しかも作詞、作曲、編曲、ピアノ演奏も出来るマルチシンガー。ラジオ日本、さっぽろ村ラジオ、有線K49などに出演中で近作、オムニバスCD「いい歌、いい出逢い3」ではタイトル曲「一度きりの恋」を女性の声よりも高い裏声で唄い上げている。発売はいずれもインターナショナルミュージック(クラウン・徳間)からである。永幸への期待栄光。

幸遊記NO.397 「オルガ・ワルラのオリンピア・ホール」2018.8.27.盛岡タイムス
 2014年4月に、陸前高田の米谷隆夫さんが送ってくれた「窓」というCDを聴きながら、これを書き出している。全20曲、日本の歌曲とギリシャ歌曲が半々。歌手・オルガ・ワルラ。ピアノ伴奏・光井安子。録音は1996年11月のウィーン。CDを制作したのはオリンピアの会。オルガさんは、アテネのコンセルヴァトワール。ウィーン国立音大声楽科卒。オラトリオ科卒。ザルツブルグ・モーツァルテゥム国際コンクールで第1位。ウィーン国立歌劇場、ウィーン国民歌劇場の専属歌手だった人。彼女は現在80才だが、元気に今も後進の指導中と聞く。
 オリンピアの会が陸前高田で発足したのは1988年。会の結成きっかけとなったのは86年5月25日、陸前高田市民会館でのオルガさんのソプラノ・リサイタル。伴奏はもちろん光井さん。前年(85年)4月21日の同市・同会館での本邦初演に次ぐ2度目のステージの時だった。「私の心の奥深くに刻まれた貴方方の美しい国・日本を再び訪れることをあこがれていました。素晴らしい芸術、伝統、そして温かい友情と人間性にふれられたことが忘れられぬ思いです」「この町に響の良い木造の多目的ホールを造りませんか!」と聴衆に投げかけ、「必要なら帽子を持って家々を唄って歩きます」とオルガさんはその基金に出演料を寄付。感激した医師・鵜浦喜八氏(当時のジョニー後援会長)が、その終演後には土地の提供を申し出て、帰る祭に募金してゆく人達もいた。
そして3度目の87年、ギリシャ生まれのオルガさんとギリシャ発祥のオリンピックにちなみ「オリンピア・ホール」と名付けましょうと、オルガ、光井お2人の協力のもと、イエルク・デームス。ホセ・フランシスコ・アロンソ氏のピアノコンサートやセミナーなど開催。その延長線上で前回の幸遊記に書いたベルベデーレ・国内予選の盛岡開催へと繋がったものだが、結果的にはウィーンの本選ファイナルに日本人は残れなかったし、オリンピア・ホールも実現には至らなかったが、90年に、気仙大工や製材業、音楽家、等が信州国際音楽村の木造ホール「こだま」の視察を行ったりして、当時陸前高田市が掲げた、カルチャービレッジ構想の中核施設となるはずが、出来たのは1枚の窓(CD)だけだった。しかし幸か不幸か、あの2011・3・11の津波後にシンガポールからの寄付により、小さな「シンガポール・ホール」が陸前高田に出来たことこそ、音楽の力なのだと僕は信じている。

幸遊記NO.396 「光井安子の希望と平和のハーモニー」2018.8.20.盛岡タイムス
 6月14日(2018)何年振りかに光井安子さんへ電話したら「今、ルーマニアから帰ったばかりで、忙しいのよね」だったが、僕は「生まれて初めて広島に来ています」と言ったら「それなら夕方までに何とかしますよ。その間宮島に行ってらっしゃい。昼は船乗り場で穴子飯を食べて!」は、本当に美味しかった。島の海上にあるはずの厳島神社は、周辺潮干狩り状態で海底からの湧き水(鏡の池・厳島八景の一)という、普段は見れない世界遺産の原風景に出会ってしまった不思議。
 思えば光井さんとは1985年4月、陸前高田での「オルガ・ワルラ・ソプラノ・リサイタル」。彼女はチェンバロ・ソロと歌伴のピアノ演奏で陸前高田入りした“日墺ビックアーチスト・友情のステージ”が出会い。天使のような声!と称されたウイーンオペラ界のリーディング歌手・オルガさんの初来日で本邦初演。しかもそれをジャズ喫茶が開店10周年記念に主催するというビックリポン!ものでした。
 光井安子さん(68)は5才からピアノ、成蹊高、武蔵野音大ピアノ科卒。1978年ウイーン国立音大ピアノ科卒。80年同大チェンバロ科を最優秀で卒業。.歌伴をイエルクデームス氏に師事。彼女自身も故郷広島のエリザベト音大や岩手大教授も務めたが、根っからの演奏家であり、オーケストラのソリストとしても、ヨーロッパ各国での評価は絶大。アテネ国際コンクールの審査員はじめ大学や各国での夏期講師を務め、米国のオバマ大統領が広島入りした日、彼女は広島から中国へ飛び、あのハルピンへ千羽鶴を届けたのだ。その思いやりの深さに僕は只々脱帽するのみ。
 それこそ1992年から2007年あの国際ベルベデーレ・オペラ・オペレッタ・コンクールの日本予選(本選はウイーン)の盛岡開催・コーディネートを続けたのも光井さん。その審査委員長だったオルガさんが育てた陸前高田出身でメゾソプラノの菅野祥子さんは今、ウイーン少年合唱団の指導者となり、歌を作ったり、演奏したりと活躍中!。又光井さんは2010年からハーモニー・フォー・ピース・アンド・ホープという音楽サミットを立ち上げ、ニューヨーク、ウイーン、パリ、中国、ロシア、東京、広島などで開催。2020年の東京オリンピック時には五大陸マラソン平和音楽祭(国がやるべき)を計画!今尚精力的な活動のさなかにいるが「すべての始まりはジョニーなのよ」と僕を泣き笑いさせた。

幸遊記NO.395 「丸木位里・俊の原爆の図・水俣の図」2018.8.14.盛岡タイムス
 幸遊記・前回・前々回と水俣と広島の音楽について書いたが、当時、その二つの事をテーマに絵を描いていた夫婦が居た。故・丸木位里、俊(画家夫妻)で「原爆の図」「水俣の図」がそれ。位里氏(1901~1995)は広島の生まれ、俊氏(1912~2000)は北海道の寺に生まれた人。原爆投下直後の1945年8月、二人は広島に戻り、惨状を描き続け1950年から共同制作の「原爆の図」を発表、国内外で巡回展を開催し、1952年国際平和文化賞を受賞した。
 「水俣の絵」は「水俣の図・物語」という映画(1981年青林舎)にもなった。その映画の為の音楽「Toward the sea」を作曲したのは、鹿児島県人を父に持つ東京生まれの武満徹氏(1930~1996)。彼は先の水俣をテーマにした曲を作曲した秋吉敏子さんと、その曲を録音する数ヶ月前に「音楽現代」(1976年2月号)で対談。その中で秋吉さんは「誰かが考えることは他の人も考える。そういうこと」。と、武満氏は「人が出来ないことをするのじゃなく、人が考えていることだから、僕はしなきゃだめだということ」と、語っていた。
その水俣の映画のために「原初(はじめ)よりことば知らざりき」という100行もの詩を書いた石牟礼道子氏(1927~2018)は、生後まもなく港湾道路建設にたずさわる一家とともに水俣に移り水俣で育った人。1968年水俣病市民会議の発足と同時に彼女は「苦海浄土」を発表!全国的な衝撃を与えた。水俣の詩の中の「そこへゆく道のしるべは、おまえのいる渚(手のひらは渚)から不知火海の魚にずねてみよ、汀の砂に交じる鳥たちの骨にたづねよ、炎の中を舞いつつうずくまる生焼けの猫の耳に聴いてみるがよい」。と、ユージンスミスの写真集「水俣」の中にある杖をつきながらビニールに入った数匹の魚を家に持ち帰った婦人のうしろ姿を庭先でとらえた写真はまさに連鎖。
 それこそ戦時中、強いられる戦争画への協力を拒否した丸木位里氏は独自の画風に勉め、夫婦で反戦、反文明の画業に徹した。その位里氏の母・スマさん(姓名以外読み書き出来ない)に嫁の俊さんが絵筆を持たせたら院展に入選。「五年目で院友に推された81才の老婆」として1953年12月23日号アサヒグラフの浮世バンザイに載った。そのとなりにはなんとジャズピアニスト・秋吉敏子さん(23)見出されて米国へ紹介の記事!。「一連の花まさに咲(ひら)かんとすると聴く・・・」2011・3・11の石牟礼道子さんの詩が浮かぶ。

幸遊記NO.394 「中川元慧住職の広島組曲」2018.8.6.盛岡タイムス
 今日(8月6日)は73年前の1945年広島に原爆が投下された日である。僕は今、手元にある2枚のCD(日本盤とアメリカ盤)「ヒロシマ=そして終焉から」を聴きながらこれを書き出している。演奏は穐吉敏子ジャズオーケストラ!作曲を穐吉さんに依頼した被爆2世の広島市中区寺町にある善正寺の中川元慧(げんえ・68才被爆2世)住職にお会いしたく6月14日朝、僕は寺を訪ねた。
 原爆投下から50年過ぎた1995年8月6日、彼の寺であの「レフトアローン」で有名な黒人ジャズピアニスト・マルウォルドロンが、同じく黒人ヴォーカリストのジーン・リーとともに「白い道。黒い雨」をライブ録音した。白い道は生後40日で被爆した子が中学生の時に綴った詩。その詩に広島で出会ったマルが「忘れてはならないことのひとつ」として自分の子に残した音楽。それに刺激を受けた中川住職は、21世紀を見据え、あの社会的な曲、「ミナマタ」を作った穐吉さんなら作れる!と、中川さんは市内にあったジャズ喫茶「シルバー」のママに相談し、穐吉さんと親しかった岡崎の故・内田修さんに話したら「君!何とだいそれたことを!」と言ったそうですが、彼のつてで秋吉さんをソロで寺に迎えた時にお願いし、資料をニューヨークへ送ったのだという。
 穐吉さんは原爆投下3日後に撮影されたその写真集を見て「悲惨すぎて私にはとても書けない!。そもそも50年以上も過ぎてから、たくさんの人が亡くなりました。恨めしい恨めしいという曲に意義があるのかな?」と思い、断るつもりだったらしい。だが最初見落としていた1枚の写真「地下壕にいて原爆から逃れた若い女性が地上に出て微笑しているのを見た時、これなら書ける」と心を決めた。それは「どんなに悲惨な状況の中でも希望を持たなければ人間は生きてゆけない」と、終章をHOPEとするヒロシマ組曲を書き上げたのでした。
 その初演は2001年8月6日、広島厚生年金会館「予想以上の聴衆でぎっしりと埋まり、用意した当日用のパンフが足りなくなったのでした」と中川さん。だがその初演から1ヶ月後の9・11、NYでのテロ事件!以来穐吉さんは、コンサートの最後には必ず終章のホープを演奏し続けていますが、その組曲をアメリカで初演したのは2003年10月17日、NY・カーネギーホール。穐吉オーケストラ最後の演奏を聴こうと世界中からファンが参集しNHKはTV放送。その後「ホープ」は一人歩きをして世界中で歌われ演奏され続けている。

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