|
「岩手県大船渡市出身の歌手・濱守栄子さんのコンサートを聴いてきたのよ!感激したわ!人に騙されお金巻き上げられたりしながらも、頑張ってるみたい!ジョニーさんのこと聞いたら“知ってるわよ”って言ってた」と東京の宮嶋幸子さん(僕と同年同月生まれ)からの電話だった。「そう!彼女は自分の生まれ育った大船渡、通った高校と勤務先があった陸前高田を応援したいと、震災後にコンサート収益やCD売上げ金の一部を両市に義援金として届けてるのよ!えらい娘だよ!」と僕。
その濱守栄子さんは、高田高校を卒業したら東京へ出て音楽をやりたいと思っていたらしい、、、、。母が肺ガンで入院したため上京をあきらめ、地元就職したら、その5月に母は47才の若さで亡くなってしまい、そのまま岩手信用組合に6年、その後信組が破たんし気仙沼信金へ移行。そこで5年勤務ののち、どうしても歌手になりたいと上京。三井住友信託で働きながら2009年「Let’s EAT!」でCDデビュー。とはいえ、始まりは路上ライブだ。そんな彼女らしく、震災後にリリースしたCDは被災した「国道45号線」。その路への自分の想いや思い出、未来の夢。デビュー曲は「キセキ」“瞳が見えること、耳が聞こえること、言葉を話すこと、足で歩けること、ご飯を食べること、文字が書けること、よく眠ること、歌をうたうこと、当たり前だと想っていたけど、全てキセキなんだよ”は、今聴くと震災にあいながらも助かった人々を唄っているようにも聴こえる。 作詞、作曲、歌、ピアノ。コンサート、CDプロデュースと一人何役もこなしながら、毎年100万円以上の義援金を届け続けている新聞を読み、切り抜いてた僕はCDを見つけては買った。何しろ僕の陸前高田時代、岩手信用組合高田支店の窓口に行けば、2人居た女子の1人が彼女だったから、そののちに歌手デビューと聞いて、エェッー!あの彼女が!と想像絶した時の思い出が浮かぶ。「夢は1人でも多くの人に話すと叶いやすくなる」を信じる彼女はそれを実践しながら沢山の夢を叶え続けている。すでに集め届けた義援金は800万近いので今年中に目標の1000万円にしたいの!と開運橋のジョニーで語った彼女。夢を持つことの楽しさを自ら発信しながら命の尊さと地元の浜を守り栄させる子ように笑顔でまい進し続けている。
「高雅なプロポーション、魔法のような質感、人の心を惹(ひ)きつける有用価値芸術の実証」とは、ル・サロン(フランス芸術家協会)の名誉会長・ポール・アンビーユ氏の、「初時雨(花入れ陶器)斎藤乾一(けんいち)作」(パリでの日仏交流150年記念芸術祭入賞・2008)への言葉。乾一さんはその時の喜びを表そうと、30枚の厚い板で檻(おり)を作り、登り窯のある山辺に設置!その中へ気に入った作品を何個も入れ、その傍らには「とう陶、捕えられる」と墨書きした「立札」を設置したほど、シャレっ気ある人物。
その彼から、来月照井さんの店に行きますと電話あり、現われたのが7月14日(2018)待ち合わせていたのは盛岡の版画家・大場冨生さん。2人と僕も久し振り!ヤアヤアと酒酌み交わし、大場さんはギターを弾いて彼独特の歌を唄い出し、ヤンヤで宴もたけなわ。2人は仙台での出会いだったという。乾一さん(76)が宮城県気仙沼市松岩の高前田というところで地名を冠した「高前田乾隆窯(登り窯)を築いたのは丁度40年前の1978年だが、土を選んで作陶するのではなく地元の土を生かす陶作りしようと始めた仕事。そのことに心血を注いできた彼の作品は、その存在感を感じさせないぐらいに単純で控えめなのは、使う人に渡ってから育ててもらうことによって完成するのだという斎藤さんの陶哲学ゆえなのだ。だから昔の同級生たちが彼の後援会をつくって今も応援し続けているのもそのあらわれ!のひとつ! 開運橋のジョニーのドア横隅に置いてある傘立ても彼の作品だが、存在感はあまりない。しかし働きモノである。よく見れば草月観、色は海のような青白と土肌色、店の中にあるランプシェードも彼の陶、やはり青白い瑠璃色である。気仙沼水産高校(現・気仙沼高校)を卒業して、東京中央卸売市場冷凍工場で働きながら明治大学二部(夜学)を卒業。陶への興味は、工場時代の給食業者のおじさんからこれに絵を描いてみなさい!と七輪で焼いた素焼皿を手渡されたことからだった。その後、宮城に戻り、金成町の「陶芸家・村上世一氏に3年住み込みで師事したのが33才と遅かったが、20才の時に読んだ「月と6ペンス」の感激(何才になってもやろうと思えば出来るんだ)によるものだった。「火も生きもの窯たきは火を導いてゆくもの」という乾一さん。その髪に、僕は木灰のような堅そうで柔らかな美しさを感じた。陶場には今も、昔僕が撮った写真を飾っているという。ありがとう!
大槌のジャズ喫茶・クイン(Q-in)に僕が初めて行ったのは1975年。その8月2日に陸前高田の市営松原球場で僕等が開く「衝撃の大ロックフェスティバル」のポスター掲示やチケット取扱いをお願いに県内外を回っていた時、宮古市役所前にあった「ミントンハウス」というジャズ喫茶のマスター・小赤澤猛さんに紹介され、帰り道に立ち寄ったのでした。ドアを開けると左右2部屋。左カウンター、右リスニングルーム、スピーカーに向ってコの字形に作り付けの木製ベンチと箱型テーブル、壁一面に白黒ジャズマン写真のカッコ良さ!。僕はちょうどその時、ジョニーという音楽喫茶を陸前高田に開くべく店舗の工事中だった。「ジョニー?もしかして五木寛之の海を見ていたジョニーか?」と、マスターはズバリと当てた!流石(さすが)だなあ!と僕はその時以来、佐々木賢一さんを勝手にジャズの師匠!と思う事にして、何度も何度も店に通った!。
賢一さんは1941年10月15日大槌町生まれ。小学6年の時(1953年12月)、ラジオから流れてきたトランペットの音に驚いたという。それは初来日したサッチモことルイアーム・ストロング(tp.vo)と南里文雄(tp)の夢の共演だった。そして高校生の時に、母が作るソバの出前先のバーで、昼の掃除時間に聴かせてもらった、「ハーレムノクターン」にシビれた彼は、日大経済学部へ入学。同時に田舎コンプレックスを払拭しようと、本を読み、マージャン、パチンコ、名曲喫茶、ジャズ喫茶に通い、大学卒業後入った会社を1ヶ月でやめ、大槌に戻ってBar「クイーン」を開いたのが1964年10月、彼22才の時だった。 1975年3月同町大町に移転。僕がその新店「Q-in」に行ったのはその3ヶ月後の6月だった。大槌ジャズファンクラブを結成し様々なライブ活動をし、79年、野田良和さんがやっていた「パモジャ」を引き継ぐかたちで盛岡に進出。6年間店をやったが体をこわし85年大槌に戻ったところ、奥さんが独立して店を出し、賢一さんは長女に手伝って貰いながらクインを続け、2011・3・11の大津波にさらわれ消えるまでは、現存岩手最古のジャズ喫茶であった。 「夏草や ジャズ喫茶跡 潮騒 (菊地十音)」。震災後花巻市東和町で長女多恵子さんと暮らしていた賢一さんは今年2018年8月5日76才で亡くなり、僕は女房と大槌での通夜に参じた。
「6月3日、私の連れ合い、博子が息を引き取りました。4年前に発症した胆のうガンを次々と転移させた果てでした。震災の前年に娘・敦子を交通事故で亡くしてから、とても遠方へ出かける気力を無くし、それでもこの7年間、本人が希望した蔵王山中での暮らしを堪能したと想います。遺品整理していたら彼女の詩集の中の写真や、ジョニーでの、くつわだ(たかし)氏や宮(静枝)女史の写真を見て思い出した次第です」
美しくも淋しげな、秋の蔵王と想われる写真ハガキが封書で届いた。送ってくれたのは夫の春海孟男さん。博子さんとは震災後に一度電話で話したきりのままだった。二人が僕の店に現われ、詩を書いている話をしてくれたのは90年代の終り頃。僕はその頃、盛んにあちこちで写真展をやっていて、彼女が詩集を2冊同時出版するにあたり、僕の写真を全部見たいと、未整理、未発表写真までも見て、彼女が詩に合わせて選び20数点を使ってくれたことは、僕にとって無上の喜びであった。 2002年7月、東銀座出版社、2冊同時刊行のその詩集「かもめかもめ(三陸幻想)」「言いわけ(舟出のあとに)」著作者・春海博子さんは僕と同じ1947年、宮城県矢本町(現・東松島市)生まれ、学生時代に詩や小説を書き、同人誌に加わり、第一詩集「果たされぬ対話のために」を出版。働きながら東北学院大2部を卒業して、文学をやりたくて上京。そこで出会った人との間に2人の子どもをもうけ37才で離婚。故郷矢本町に戻り呉服店「ときわ屋」を経営しながら子育てを終え、離婚経験者同士の孟男さんと再婚。2人で生まれ育った三陸の海を旅したことで生み落とされた「かもめかもめ」と巣立ちの時を迎えた時点での親子の絆をうたった「言いわけ」。海岸は地と海がせめぎあう境界、あるいは出会いとけあう場。 「風は北から流れてくる 風はまた北を求めて流れてゆく、、、、風が北を求めて流れるように 私も北を求めてゆくだろう 私の青い天のために」去る9月9日(2018)盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズ・ライブ・フェスにて津軽三味線の菅原聡さんと一緒に8年振りに出演。初めて激しく降りしきる雨の中、僕は彼女の詩に曲をつけ「北の裸像」を風雨の様な声で激唱し、僕なりの彼女への弔いのうたとした。このように詩は死を超えて生き続けてゆくものなのだ!
長崎のジャズ店「サロマニアン」のマスター・溝口一博さんから「友人がそちらの方へ行くので、多分寄ると想いますのでよろしく!」と電話があったのは2年程前だった。現われた方は頭を丸めたお坊さんで、長崎から北海道まで、軽自動車に寝泊りしながら、各地を巡り歩く托鉢行脚生活を続けているという修行僧だった。北海道までの往きと復りに、僕の店「開運橋のジョニー」へ立ち寄って様々な世の中の話をしてくれた。
そして今年又、8月末突然店に寄ってくれてビックリするやらうれしいやら。そのうち店で流れたサッチモ(ルイ・アームストロング)や、デキシーランドジャズに異常な反応を示し、これは誰の音、この曲は何それ、全部言い当てるのにビックリして、過去を問えば、若い頃クラリネットとアルトサックスを吹き飯を食べていた人だった。名は高尾昇(のぼる)和尚名は昇道(しょうどう)。「明日またきます」そう言って帰った翌日、彼は風呂敷包みを持って来た。経典が入っているのだという。出てきたのは何と折りたたんだ「クラリネット」次から次へと流れ出るデキシー曲やスイングに即興で合わせていゆく凄さにビックリ!これぞまさしく托鉢奏(僧)!と僕。 高尾昇さん(67)は長崎にて大正生まれの自動車修理の父と満州生まれで音楽好きの母との間に生まれ長崎西高校から、福岡大学経済学部に進学、そこでデキシーランドジャズにはまり、当時佐世保の米軍クラブに出演していた加藤智(さとる)師匠(as.cl)と知り合い、そのバンドボーイをしながら、前座演奏したのが始まり。加藤氏は「山頭火」や「波濤を越えて」などの作曲者で、山口や北九州にあったキャバレー「月世界」のバンマスだった人。いまもご健在(現役90才)で台湾との交流を続けているジャズ奏者。 昇さんは20代の時キャバレーバンド松田徹とファニーグループのアルト奏者。「客入り前のデキシージャズでのクラリネットは、まさに真剣勝負の世界そのものでした」と懐かしむ!。黒袈裟黒衣、白襦袢、手コラ、伽反、白地下足袋の姿で杖をつき一日何百件もの軒先で、四句願文、消災妙陀羅尼、延命十句観音経など唱え歩き、それこそ5円から年に2~3度の万札まで、まるでセミのようなひぐらし生活。「それを20年近くも続けてこれたのはお釈迦様のお蔭。そしてお金のありがたみを知り、かざらない人との出会いですね」と言った。「日はまた高く昇りその道を照らす!」 |
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved. |