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この5月2017・盛岡出身、盛岡在住のジャズボーカリスト・金本麻里さんの第3作目のCD「金本麻里ウィズ・ザ・バップ・バンド」を僕のレーベル「ジョニーズ・ディスク」から東京のソリッド・レコード「ウルトラ・ヴァイヴ」を通じて全国リリース。
本紙・盛岡タイムスは「キャラバン。ハウ・ハイザ・ムーン。といったアップテンポの演奏が多い曲も大半をミディアムからスローテンポで演奏。金本さんの歌唱の伸びやかさが引き立つ」と評。情報誌・遊悠に「ジャズ評論家も絶賛する陰影に富んだニュアンスを表現する歌唱力、その声を最大限に生かすバップバンドのジャズ、その素晴らしいコンビが織りなす曲を聴いてみては」。岩手日報は「豊富な表現力と歌唱力で魅了する金本は1979年生まれ、2011年“ホープ・ガール”でCDデビュー。現在も障害者施設で働きながらボーカル活動を続ける」。 全国紙の県内版、読売は「この素晴らしき世界、ルート66、など代表的なジャズ10曲を北上のホールで収録。秋吉敏子さんが作曲した“希望”も収めた。力強く伸びやかな歌声とトランペット、ピアノ、ベースなどのリズミカルなバンド演奏が楽しめる」。そして毎日、「“店主(僕)からの歌唱指導に、どうしてだめなのかを悩みけんかして泣いた時もあった。人見知りだし、人前に出るのも苦手”。そんな金本さんの成長を見守り続け、歌う姿を見ては涙を流して喜んでくれる人たちにステージに上がる力をもらっているという」。と彼女の内面を拾った。 専門誌・ジャズワールドは「金本麻里は第1回横浜ちぐさ賞受賞。その記念アルバム、金本麻里シングス・ジャズ・スタンダード・ウィズ・今田勝トリオに次ぐ3作目。本作プロデューサー・盛岡開運橋のジョニー店主・照井顕は確たるジャズで哲学を有し、いささかの揺るぎもない。はるか昔、陸前高田市で日本のジャズを標榜して、ライブ、アルバムリリースなどをスタートさせ、今日までの足跡はそのまま日本のジャズのストーリーである」。と僕をほめごろし。ジャズジャパン誌は「金本の歌は奇をてつらうところがない直球勝負だがのびやかな声、表情から伝わる大らかさにひきつけられる。演奏も楽しめるカラフルな好ましい作品に仕上がっている」でした。(つづく)
あの3.11の津波以前、陸前高田市高田町大石の西屋敷・村上家の庭に道慶松と呼ばれる、気仙隋一のみごとな松の木があった。そこは元和元年(1615)年に村上道慶翁(1559~1644)が寺子屋「西光庵」を開いた場所。翁の本名は織部。祖先は因幡の国の武士。生まれは清水浜(宮城志津川)天正年間に今泉村(陸前高田)に移り住み農民となり、その後高田村にて先の寺子屋を開いた人。
今からちょうど380年前の寛永14年(1637)年6月の記録的な豪雨によって氾濫し流路が大きく変わってしまった気仙川。それがもとで川の両岸の村・今泉と高田による鮭の漁権をめぐるトラブルから村同士の対立に発展した紛争をおさめようと、自刎(じふん)を決意し「誠あれやこの身をすてて行く水の瀬は渕となる末裔の世までも」「濁りなき名にあふ水のあわれ知れや世の仇浪(あだなみ)に浮き沈む身を」と辞世の句をよみ、遺書を巻き物にしたためて気仙川の真ん中で自らの首をはね、仲よく一日交替で漁をする様論したと云うもの。それを「大日本産業事蹟」という書籍で知った平田弘史氏(知る人ぞ知る日本最高の劇画家)が1993年ミスターマガジン(講談社刊)の「異色列伝・無名の人々」というシリーズマンガ其の六に「道慶根」として発表。巻末には翁の遺徳を称え、大漁の鮭を足元に配し、自ら刀を首にあてた立派な立像を誌上に建立したのでした。 その彼平田弘史氏は昭和12年(1937)東京板橋生まれ。1958年「愛憎必殺剣」(日の丸文庫)でデビュー。時代劇画を得意とし「武士道無残伝」「薩摩義士伝」「日本凄絶史」「黒田三十六計」などのシリーズ物や、海外向け「SAMRAI SON OF DEATH」を発表、その作風は「痛憤と怨念の渦、頑固なまでに剛直な<士魂>のすさまじさに圧倒される。誇りに満ち、なにものにも屈さない強靭な意志の力にあふれている」(菊池浅次郎・1970年3月現代コミック)と評された。 道慶根現地取材で陸前高田を訪れた時、音楽大好き楽器大好きな平田さんがジョニーへ現われビックリした記憶もいまだ鮮明。彼は今年2017年東大近くの弥生美術館で」「平田弘史原画展」やらサイン会、80才パーティなど開いたと、顕左衛門のリクエストに応えて近況知らせる手紙が弘史左衛門氏から届いたのでした。
本紙・盛岡タイムス(2017年6月6日付)一面「天窓」に宮城県北のローカル誌「大崎タイムスが韓国の舒川新聞社と姉妹交流。政府間に難しい問題があっても、地方同士の理解を深めることは隣国として大切だ。さりげない話題の背景に日本や世界が見えたとき、面白みを感ずるはず、国を超えた地域紙の結びつきもそこに意義があり、大崎タイムスと読めば“期待”と響くのがうらやましい」とシャレ込んでいた。
これを読んで思い出したのはやはり盛岡タイムスと交流のある大船渡「東海新報」に僕が「照井顕のプライベート・インタビュー」をほぼ1ページを使って書いていた頃(1990年10月30日付第96回)に登場願った安容男(あんよんなん)さんのこと。初めて行った韓国のソウル市で当時140万部発行の東亜日報編集部を訪ね李部長から日本語を話せる安さんを紹介して貰い、仕事がハネた夜に韓国の伝統的な音楽と踊りと料理と酒が楽しめる店に案内され、御馳走になりながら聞いた話。 「新聞は民衆と政府の意見の中間に立っている。民側にあれば政府から圧力かかり、政府側にあれば学生達が攻撃するが、自分は若者の意見に同情することが多い」「大統領が宣言を守らなくても国民は意見が言えません。独裁よりは弱いですが、労働組合を政府が財閥法で弾圧しています」。「金大中が前に日本で逮捕された(連れ去られた)それは全部韓国政府がやったのだが、今でもだまっています。でも国民たちは全部わかっていますよ!政府がやったことを。だから国民は納得しません」「侵略された反日感情は小学校の時から日本は駄目な国という雰囲気を作ってあります。日本の若者はそんなこと知らない人々が沢山おりますが、韓国ではそんなことを知らない人は一人もいません」。「南は北の共産主義に反対する教育がなされ、今も若者は全部2年6ヶ月間軍隊生活をします」「前には民主主義とか共産主義とかの意識はなく、朝鮮戦争の終戦時、全然わからないうちに38度線が出来て、その時ソ連(現ロシア)の共産主義に反対する人が南に来た。でも自分は故郷を守るという父母が残っても子どもは南へ行く場合もあった。私の父は11人兄弟ですが一人で南へ来た。自由に北へ行ければ父の兄弟に会えるのに、それが出来ない。残念なことですよ」は、今も忘れられない。
先月(2017年5月)横浜から河村和宏さんという福岡出身のジャズファンが、開運橋のジョニーに現れ、CD(1980・秋吉敏子in陸前高田)を買いに来ました!と言った。話によると昨年買っていった同CDは、横浜のジャズ喫茶「ダウンビート」に寄贈したから本日又自分用を買いに!だった。店の客から二代目の同店マスターとなった田中公平さんが、3月で引退し、4月から又、店のお客さんだった吉久さんと言う方に代わったと言うのだった。
この5月、金本麻里のボーカルアルバムをリリースした僕は彼女の関東ツアー初日(6月2日)に新宿Jに僕のジャズ講座生達と聴きに行き、翌日、盛岡に帰る前に横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」と「ダウンビート」を訪問した。ちぐさは昼前から、ダウンビートは夕方の4時開店なのだが、ニュー・マスターが2時頃に特別に開けてくれたので、店内を探検しながら、不破大輔(b)の「渋さ知らず」の活きのいいレコードを聴いた。新マスター・吉久修平さんは32才の若さだ!カッコイイ!彼は座間市の生まれ。立教大学社会学部卒。IT関連の会社に就職し、中学、高校時代の友がバイトしていたダウンビートに通うようになって10年。脱サラしてその老舗名門ジャズ喫茶の店主となった。新レコード係はバイトの横浜国立大生の種崎夏帆さん。リストブックを見てパッと取り出す! 初代店主・安保隼人さんは戦前、東京両国で音楽喫茶を開いていた人。戦争始まり、廃棄すべき敵性レコードだと没収され、彼も徴兵された。戦後はベーシストとして米軍キャンプで演奏。昼は再開した「ちぐさ」に通い勉強。1956年3月横浜中区若葉町にモダンジャズクラブ「Down Beat」を開店。1961年1月同区花咲町に現在の同名ジャズ喫茶を支店として開店した。店は米国の同名ジャズ誌に紹介され、毎月同誌が届けられた。釣好きだった店主が音のためにつくった「つり天井」にその雑誌を貼り、80代まで店に立ち僕にも年賀状をくれた。その奥様文枝さんから経営交替の知らせを受けたのは1996年6月のことだった。 昔ジャズ喫茶のお宝は、どこもかしこも外人盤レコードのオンパレード。だが、ダウンビート・安保さんの自慢はチャーリーミンガスのタウンホールコンサート(秋吉敏子・ピアノ)や彼女の米国盤「トリオ&カルテット」だったことだ!感慨ひとしおである。
「詩はすべてである。個はすべてである」そう言ったのは詩人の西一知さん(1929~2010)。詩人・大坪れみ子さん(63)が滝沢村(現・滝沢市)に2000年4月オープンした、詩と音楽と珈琲の店「ぼくらの理由」。店の名は西さんの同名の詩のタイトルから。僕の店が五木寛之さんの小説「海を見ていたジョニー」に由来するのと同じ様な関係かも。僕は陸前高田からのちょっとしたお上りさんだが、彼女は高知から故郷に戻っての開業。
どちらからともなく、ぼくらは知り合いお互いの店を往き来し、西さんも時折れみ子さんと連れたって店に来てくれた。少し酔いが回ったある夜彼はピアノを弾いた。曲は「リベルタンゴ」その凄いリズム感の良さに僕はあっけにとられ、女房を見れば同様にビックリ顔!。その詩人・西一知さんの東北初となった「詩の朗読ライブ」を開運橋のジョニーで開いたのは2005年8月。同年10月花巻市東和町で開催された街かど美術館「アートつちざわ(土澤)」(10月8日~11月6日)にて八丁土蔵を舞台に詩の朗読。旧藤村酒店には「ぼくは小さなピーナツを一つつまむ、それから窓越しに、通りをへだてた板塀のチョークの跡を眺める、、、」で始まる「ぼくらの理由」(西一知・詩/照井顕・書)が展示され、作品カタログ本に収録された。 西さんは1975年、46才の時に、季刊同人誌「舟」(レアリテの会)を創刊(現在も大坪れみ子さんが継続)。1999年には660ページを超える西一知全詩集(沖積社刊)。2003年「詩の発見」(高知新聞社刊)などを出版した彼は、2007年78才で舟の同人・大坪れみ子さんと再婚。幸せな毎日を過していたが、肝臓ガンのため2010年5月81才で亡くなられた。れみ子さんは翌2011年、西一知を偲ぶ「岩手山麓、詩朗読フェスティバル」を開催、更に2012年には、西さんの部屋だった同店奥の間を「西一知記念資料館」として整備し、一般公開。同時に「西一知研究会」を発足させたのです。 結婚記念にと、二人の詩を僕が書にして同店に展示したのは2007年11月。少量のアルコールは人を優しくする。少しアルコールをのんで冷静にやさしくなって詩を書くのがいいという西さんの「詩はすべてである個は全てである」から僕は「故は個の全てである」と気付かされた。 |
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