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FM岩手の朝番組「北Gのサンデーモーニング」でおなじみの北Gこと、北島貞紀さん(65)が、久し振りに開運橋のジョニーへ現われたので、自然と昔話に花が咲く。彼がジョニーで初めてピアノを弾いたのは2004年1月。TV取材が店に入る日に、故・片岡政樹さん(as)等と一緒に演奏してもらったのがきっかけ。それ以降毎月彼のカルテットと絵美夏(vo)。2005年8月から「トリオ+1」として出演。同年秋、北島さんが作曲したオリジナル5曲入りCD「アフタヌーン・ティー」をトリオの演奏で発売!僕はそのライナーノートに「北のジャズランド」と記した、その1千枚はあっという間に売り尽くしたらしい。次作「サンデーモーニング」と3作目の「蔵」は北島貞紀&スマイルキャッツ名でリリース。
それが功を奏し、2006年6月から、本紙盛岡タイムスに彼は「あの頃僕はバンドマンだった」を連載。翌2007年8月からは先にのべたFM番組のスタートと、タイムス紙への2度目の連載「北Gのライブトーク」を執筆。2008年には先の「あの頃僕はバンドマンだった」を版画家・大場冨生さんの装画で盛岡タイムス社から出版。パーティもホテルで盛大に開かれたものでした。2015年9月には、彼の同級生だった脚本・演出家の坂田裕一さんによって、「あの頃―――」は音楽劇となり、もりおか町家物語館・浜藤ホールで上演された。 もちろんその間には花巻市石鳥谷酒蔵交流館や盛岡市仙北町のセレモニーホールいわて、同市鉈屋町の町家ホールなどでのコンサート、更には上田公民館、中央公民館等での音楽鑑賞講座の講師などを務め「人はなぜジャズに魅せられるのか」とその魅力と楽しさを解説しながら、生演奏を聴かせる。 北島貞紀1952年旧沢内村(現・西和賀町)生まれ、関西大学英文科卒。学生時代よりバンド活動し、ベースを担当。ピアノは21才から。大卒後大阪にて10年プロ活動。35才でピアノを乞われ盛岡へ。クラブで1年間ピアノを弾き、その後20年間演奏活動を休止していたところへジョニーでテレビの為の演奏をしたことから再活動!「これまでの人生で最も充実した10年でした。またジョニーで演奏させてくれませんか」でした。「はい!いつからでもどうぞ!」
来る2020年の東京オリンピック!その前年2019年放送予定のNHK大河ドラマ「いだてん」の主役の一人に決定した金栗四三(しぞう・1891~1983)氏は、1912年の第五回ストックホルム五輪(日本初参加)のマラソン選手。27キロ付近でコースをはずれ消えたオリンピック選手として今でもスエーデンで語り草の人。それから55年後の1967年、ストックホルムのオリンピック委員会から「果たせなかったオリンピックのゴールインを祝賀行事で!」と招待された会場には、正式なゴールテープが用意され75才になった金栗選手が両手を挙げてゴールインした。その時会場に流れたアナウンスは「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもちまして第五回ストックホルム・オリンピック大会の全種目を終了いたします」会場われんばかりの大拍手!それは世界で最も遅いマラソン記録となった。
その「世界で最も遅い」で想い出すのは、ご自身が語る作曲家としての穐吉敏子さん。彼女の自伝「ジャズと生きる」(岩波新書1996年)に「ボストンマラソン」という章がある。彼女がボストンのバークリー音楽院の学生だった1957年、ボストンマラソンに参加する日本の選手達に、自分の城(住居)を開放して、キッチンやバスを使用させた話。その中の1人山田敬蔵選手(秋田大館出身)は、何と1953年に2時間18分51秒のボストンマラソン史上最高記録で優勝した人(その時の監督が金栗四三氏・熊本出身。別府や箱根マラソンの創始者)。その1957年山田選手の成績は6位だったが、当時のハイネ・ボストン市長と穐吉敏子さんがゴールで山田選手に花束を贈る(写真あり)。 更に4年後、穐吉さんが渡米後、初帰国ツアーでの秋田公演(1961年3月14日)終演後、山田選手や57年の時の渡辺監督等が穐吉敏子カルテットのご一行を市内の料亭に招待して57年に穐吉さんにご馳走になったスキヤキのお礼にと秋田名物のキリタンポで歓待し、想い出話に花を咲かせた。との秋田魁新聞の記事を持参してくれたのは、山田敬蔵氏のことを調べ書きしている秋田市の石垣隆孝(りゅうこう)さんという方。「東京の古いジャズ喫茶なら穐吉さんの昔のことがわかるだろうと訪ねたら、紹介されたのが盛岡のジョニーだった」と来店し年月を確かめ、地元秋田で記事を探し出して来たので僕も大変嬉しかった。
日本のジャズ界を牽引するリーダー格の一人であるチンさんこと鈴木良雄さん(71)が今年も自己グループ「BASS・TALK」を率いて、開運橋のジョニーにやって来た。満員のフアンを前に、熱のこもった素晴らしい演奏を披露してヤンヤのかっさい!アンコールでは盛岡在住の歌手・金本麻里に肩を貸し、自分もアドリブスキャットで金本へ、その手本を示してくれたことに胸が熱くなった。更には、ジャズピアニストを目指す高校生とも凄いセッションを展開し将来への期待も!
ベーストークというけれど、やっぱりジャズは近く!がいい!とは僕のシャレだが、チンさんははるか昔の1973年にそれこそ遠くのニューヨークに渡り、サックスの巨匠・スタンゲッツグループや、ドラムの巨人・アートブレイキー&ジャズメッセンジャーズのレギュラーメンバーとして長年全世界を旅してきた人。僕がレコードで彼の音を最初に聞いたのは1970年、トリオレコードが発表したジャズシリーズの第一弾「本田竹彦の魅力」でのベースだった。 彼は長野県生まれ、音楽家の両親と鈴木メゾットの創始者で伯父・鈴木鎮一氏のもとで幼少からバイオリンとピアノに親しみ、早大文学部時代にジャズにのめり込み早大モダンジャズ研究会でピアノを担当。卒後、渡辺貞夫(as)氏の勧めもあり、ベースに転向し渡辺貞夫グループや故・菊池雅章・本田竹彦(広)等のグループで活躍し、デビュー時から注目を浴び続けてきた№1ベーシスト!。かの穐吉敏子さんも、日本人奏者と共演する時は必ず彼を指名するほどの人。作曲家としても中々の才。 かつてはピアノ奏者だったこともあってか2009年、ベース生活40年を記念し、ケイ赤城、小曽根真、イサオ・ササキ、野力奏一、山本剛、穐吉敏子と、6人のピアニスト達とのデュオCDを制作、南里文雄賞を受賞!その直後の2010年2月その6人のピアニストと紀尾井ホールでコンサートを開き、僕も聴きに行った。 今回のメンバー井上信平(fl)野力奏一(p)岡部洋一(per)さん達と一緒にチンさんのニューヨーク時代の話を聞いてたら市と国で収入の少ないアーティストを養護するための45階建てアパート「マンハッタンプラザ」には中庭があってテニスコートやプール、ゲーム場まで付いている素晴らしい所だったよ!でした。さすがアメリカ!
先日本屋さんで「石原裕次郎シアター“嵐を呼ぶ男”」が目に入り、とっさに6、7年前紫波町古館公民館で観た事を思い出し、即買い!この映画で裕次郎人気が決定的となり大スターへとなった作品。しかも中味はジャズ映画。ドラマー(国分正一)役に扮する裕次郎が、歌手・笈田敏夫が扮した売れっ子ドラマー(チャーリー桜田)とドラム合戦をやり、裕次郎が突然「おいらはドラマー、やくざなドラマー、おいらがおこれば嵐を呼ぶぜ」と歌い出すあの大ヒット曲シーンが頭をよぎる。
嵐を呼ぶ男は当時、渡辺プロダクションを創業したジャズベーシスト・渡辺晋氏の夫人・美佐さんの活躍にほれた井上梅次監督が、彼女をヒントにして書き描いたジャズバンド界の内幕話。その1957年12月末封切の正月映画には当時人気№1のベース奏者だった渡辺晋率いるシックスジョーズ(コンボ人気投票第3位)がそのままシックスジョーカーズとして出演するシーンに始まる映画自体今となっては貴重と云えるもの。 裕次郎は当時人気・実力共に№1だったジャズドラマー・白木秀雄(本姓・柏倉)にレッスンを受け映画に望んだ。もちろん音は白木の吹き替えであったが、動作サマになっていた。そしてライバル・チャーリー桜田こと笈田敏夫の音を吹き替えたのは当時やはり人気投票ドラム部門6位にいた猪俣猛(シックスジョーズのドラマー)。笈田自身は男性歌手2位の座にあった。そして字幕にも名が出ず、たった5秒間ほど顔が出てシーンをさらったのは、当時やはり人気ドラマーだったフランキー堺だったから、まさにドラマーなドラマとも云える作品でもある。 映画の舞台となった東京銀座のジャズ喫茶店は1953年10月にオープンした「テネシー」にそっくり。そのテネシーは中国人妻・林千冊子さんの経営。店のオープン直後、あのオスカーピーターソンが穐吉さんのピアノを聴き、レコーディングを持ちかけ、アメリカデビューした話で有名になった店だが、穐吉に昼の演奏をまかせたのが夜に出演していた渡辺晋(シックスジョーズ)だった。僕の数少ないカラオケレパートリーの中に裕次郎の表題曲や「夜霧の慕情」あるけれど、浮かんでくるのは横浜の総持寺に泊り、その裏山にある大きくて立派な石原裕次郎のお墓に行った時のことである。
2017年8月3日、第3次、安倍改造内閣の発足。岩手2区選出の鈴木俊一氏(64・自民)が、五輪相に!。2020年に開催される56年ぶりの東京オリンピック・パラリンピックは、復興五輪と云うらしい。彼は2002年に小泉内閣時、現都知事の小池百合子氏の後任として環境相を務め、岩手と青森にまたがる、県境産業廃棄物問題に力を注いだことは、環境復興といえるものであったし、東日本大震災の被災地出身の彼が復興五輪相というのはふさわしい!岩手県人としては党派を超えて喜ぶべきこと。加計学園問題やPKO(国連平和維持活動)部隊の日報隠ぺい問題等々、で内閣支持率が低下する一方での土俵際作戦的な改造だけに、内閣自体が果たしていつまで持つのかとの不安もあるが、達曽県知事も復興に期待している様子。
俊一氏の父が岩手から40年ぶりに4人目の首相となった時のこと僕は思い出している。鈴木善幸氏が第70代目の首相指名が伝えられた日(1980年7月17日)地元山田町2万6千人の町民が大フィーバー。海に陸に花火と漁船と車のパレード、商店街のたれ幕、横断幕、ありったけの大漁旗、善幸さんの母校山田小学校鼓笛隊を先頭に全町民小旗振りパレード、子どもみこしやら神楽山車まで登場させ、山田2千年の歴史で最高の日と興奮した木下禎治町長。その夜県都盛岡では3千人のちょうちん行列。 田中内閣時代、日本列島改造の目玉だった全国の新幹線計画にゴーサインを出した鉄道建設審議会長だった善幸氏は以来「直角」と呼ばれ、三木、大平(急死)内閣後の登場。その首相に変わって、あいさつに駆けつけた、今五輪相の俊一氏は当時27才。「父から、皆さまの温かいご支援に感謝いたしていることをお伝えするよう、ことづかってまいりました」と深々と何度も頭を下げた姿が今も印象に残る・ 当時岩手の大有名人は歌手の千昌夫さん「北国の春」が流行ってた頃で、今度は「北国の夏」かと騒がれ出したのは 手塚千砂子・作詞作曲、四条たか子唄「ゼンコーさん」だった。「岩手三陸荒浜育ち海の男の心意気。あの人だから、それだから国の柱に選ばれた。選ばれたあ~ゼンコーさん、ゼンコーさん」だったなあと久々にレコード聴く。 |
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