|
ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの姉・美代子さんは毅然として「5才年下の妹は歳ですねーと自分で言っているけれど、私は歳だなんて思ったことはありませんよ!」という。生まれたのは満州(現・中国)4人姉妹の2女。白に赤紫の縞模様の入ったふわりとした上着に真っ白いパンツ。美しいキラキラ刺繍の入ったシャツにコテコテッとした真珠のネックレス。濃い紫に髪を染め、同系のサングラスをかけ、深い赤色のマニキュアと口紅。右の小指と左の人差し指には銀色の指輪。それがなんとも自然な美しさをかもし出していて最高!よくファッション雑誌から抜け出た様だと、ステキな女性をたとえるものだが、年令を考えても、考えなくとも、雑誌の方が逃げ出す程の美しい装いはまさに「ファッショナブル」の真実。魅せられてしまいました。
「私たち姉妹は敏子とは呼びません!“クリちゃん”と呼んでましたし、私は今でもクリ!と呼んでます。彼女が生まれた時、男の子が欲しいんだったら“クリ子”とつければ次は男の子、と言われたのでみんなでくりちゃんと呼んでたが役所に届けた名が敏子で、次の子は生まれなかったしで、くりと呼んだの。 穐吉さんはアメリカでも日本でもマネージャーという人を持たず、全てを自分でやって来た人だが、1961年の初帰国からつい最近の5年前まで、日本に帰って公演先をあちこち飛行機で移動するその航空券手配は全部お姉さんが一人でやっていたというのだから驚きだ!しかも未だにあの博物館もの的なダイヤル式の黒電話での用達なのだという。 「母はレコードが好きで、長唄や小唄、はたまたピストン堀口(東洋フェザー級チャンピオン)の唄まで聴いてましたし、政治の話も好き、よそには殆んど無い時ピアノがあった家でしたし、錦絵のようだといわれた綺麗な母でしたが、70才過ぎても英語の勉強してましたね。敏子は試験の前の日でも夕御飯までピアノを弾き、食べてまた弾く、それでも大連の女学校での成績は1番か2番でした。私は勉強嫌いで学校休みたい!すると母は休んでもいいですから、一日中仏壇の前に座っていなさい!というスパルタでした」 そう言う美代子さんは今年2018年1月2日、93才になった。朝ベットの上で体操して、お散歩15分、週1度プールで首までつかってのウォーキングを続け、転ばぬ先のチエ(杖)をつく!
1974年秋。秋吉敏子=ルータバキン・ビックバンドのデビュー作「孤軍」をLPレコードで聴いて以来、これまでの44年間、彼女の全作品(別バージョンも含む)を探し求め聴き続け、コンサートを主催し、その他日本各地での、コンサートやライブ、はたまた、アメリカでの重要なコンサートがあると聞けば、僕の知る全国の穐吉ファンに声を掛け一緒に何度も聴きに馳せ参じてきた僕の半生は、まさに「穐吉敏子への旅」そのものである。
そのことから、僕は今年2018年4月1日「穐吉敏子への旅」(添乗員・照井顕)というタイトルの穐吉敏子全作品写真集本を出版した。中味は彼女のデビュー作(1953)年から最新作(2017年)までの全作品で、シングル盤、ソノシート盤、LPレコード、カセットテープ、CD(コンパクトデイスク)など、ジャケットや収録曲などの、いわゆるバージョン違いのものや全集まで180タイトルを収録。 他に穐吉さん自身の著作本や語り本など6冊。雑誌(表紙)新聞(トップ)など18点。他彼女が一番最初に聴いたジャズのレコードと、一番最初に買ったレコード(どちらもSP・78回転盤)までおまけに収録した。「世の中には有名奏者などのデイスコグラフィーはあるけれど、作品の裏表までを収録したものは在りそうで無かった初めての本、凄いね!」(全部を持っている人でないと作れない)と、都内のとあるジャズ関係者のことば。 僕はこの穐吉敏子作品全集にVo.1とナンバーリングをしたので、彼女に関する本を今後何冊かシリーズで出してゆきたいと、次作を練っているところですが、この2018年6月、穐吉敏子さんと関係、関連のある人々と街を訪ねる初めての一人旅をしてきた。その第一日目、花巻から大阪に飛び、穐吉さんが「姉トリオ」と呼んでいる三人の女性達「穐吉さんの姉(4人姉妹の2女、美代子さん)」そして「穐吉さんのステージ衣装を作ってきた春名道子さん」「その二人の友で美術家の上村雅代さん」。二日目は初めて広島へ行き、あの「ミナマタ」に次ぐ社会的な作品「ヒロシマーそして終焉から」の原爆ドームや国立広島原爆記念館、オバマ前大統領が来た平和公園など見学。三日目は秋吉さんにその作曲を依頼した善生寺の中川元慧住職らにお会いして話を聞いて来た。
昭和54年(1979)から2期、岩手県議会議員。昭和62年(1987)から4期、陸前高田市長だった菅野俊吾氏が今年2018年3月26日、82才で亡くなった。かつての自宅は陸前高田市大町商店街にあったが、2011年3月11日の東日本大震災で流失、節子奥様の実家が有る住田町にて借家住い中だった。そのお別れ会が6月2日陸前高田市のコミュニティホールであり、盛岡の東北絆まつりに背を向けて行って来た。彼が東北大学法学部を卒業して七十七銀行に入ったのは1969年。そして家業の高田活版所を経営するため、銀行をやめて印刷会社にて半年間見習いし、陸前高田に戻ったのが、あの東京オリンピックの年(1964).
僕が平泉の中学を卒業して夜間の高田高校へ通うため、叔父(父の弟)が経営する照井クリーニング(3・11で被災し廃業)に、住込みで働き出したのが1963年。聞いた話は、照井クリーニング創業時は「高田活版所の一角を借りていた」とのことだったから、1977年、その何となく親しみの覚える高田活版所の数軒隣り並びの大町へ荒町から僕は店を移転し列島唯一の「日本ジャズ専門店」とし、地方から東京を狙い撃つべく自主レーベル「ジョニーズ・ディスク」を立ち上げた。 その甲斐あってか当時の専門誌には「電車(ジーゼル)は2時間に1本、その町には海があり、町の人々の生活がしっかりと息づく中、ジャズは自然に流れていた。日本のジャズが海の向うへ届けとばかりに」「陸前高田は小さな町にもかかわらずジャズ熱盛んで日本有数、東北一」。「マスターの駄洒落の連発はとみに有名。奏者は、演奏よりこちらに疲れ、帰ってくるのが常識」などと書かれたりした。そんなある日、菅野市長が店にやってきて「会議であちこち行きますが、名刺を出すたび、あっ!ジョニーのまちですね!と言われるんでまいりますよ!」と言うのだった。盛岡に移ってからも来店して「ジョニーさんのルーツ、陸前高田市!(海浜健康文化都市)と色紙にしたためてくれたりもした。 1980年から度々陸前高田市を訪れた世界一のジャズピアニスト秋吉敏子さんに1989年の日本ジャズ祭ステージ上で陸前高田市は感謝状を贈ったのですが、「実は議会で否決されたのを市長が土下座して頼み何とか可にして貰ったそうよ」と節子夫人から聞いたことがあった。秋吉さんもその市長に頼まれ「陸前高田ふるさと大使」という市の宣伝役を1997年に引き受けたのでした。
盛岡市西青山のオリエンタルプランニングサービスの深谷幸夫氏からの葉書が届いたり彼が現われたりすると、僕はふと1980年代、盛岡夕顔瀬にあった、ジャズレコード店のことが頭に浮かぶ。何故かと言えば店の名が、「オリエンタルレコード」。経営していたのは故・菊池幸代さんという方でしたから、オリエンタルな幸つながりからである。
前置きが長くなった!。その深谷氏が言うことに「葛岡はジョニー教にすっかりはまってしまってるもんね!」だった。葛岡さんは名を恒久(つねひさ)といい、二人は高校の同級生同士である。深谷氏が帰ったあと、僕の女房は「あなたこそ葛岡教にどっぷりじゃないですか!」と言う。あっはっは! 紫波町高水寺で名曲喫茶「これくしょん」を営んでいた故・小畑倉治さんの跡を継いで今店をやっているのが葛岡恒久さん。彼は同町の「本のくずおか」の店主だったが、盛岡上ノ橋町通りにあった「みみずく書房」をたたんだ彼の弟に本屋をゆずり、自分は古書・名曲・喫茶の「これくしょん」を2015年12月12日再開させた。開店したその月日は「ジョニー・ジョニー」と僕は読むのだが、それは僕の再婚記念日あり、僕の教祖・穐吉敏子さんの誕生日である。これくしょんに流れている音楽のほとんどは僕が制作した「秋吉敏子の1980」をはじめとするジョニーズ・ディスクのオンパレード。もちろんクラシックのレコードやCDも沢山あるのだが、リクエストでもしないかぎりは掛けない、かからないを、開店以来今なお平然とやってのけ、しかも電話での第一声は必ず「おせわになっております」なのである。 彼の家は東北自動車道紫波インターから西へ数百メートル行った上平沢商店街の一角。近所にある紫波八幡宮の境内で年に2回行われている「志和蚤の市」の実行委員長でもある彼。4月末に「古書恒久堂」(こしょ・こうきゅうどう)と看板を書いて!と古い板を持参。「無休だったこれくしょんを5月から火曜定休にして、火曜日だけの週一、古本屋を始めます。売上げ目標は月2万円です」と笑った。看板を書いて持って行ったらその恒久堂は古本に囲まれた昭和レトロ感たっぷりの高級堂で、「珈琲」に「こがしまんじゅう」も最高でした!一日で一ひと月の目標クリアが続いているそう!です。
4月30日2018横浜「ドルフィー」での穐吉敏子さんのライブ88歳88鍵ピアノソロが、同じ横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」との共催ということでスタートした時、本当はすでにドルフィーのスケジュールは久米雅之(ds)クインテットに決まっていたのでしたが、穐吉敏子さんのライブが出来るのならと、申し訳ないが久米さんには今回降りて頂くことに致しました!でのスタート。
ドルフィーのマスター・小室さんと連絡を取りながら僕も郵便封書や携帯でショートメールを出し、30日のライブには横浜、東京、大阪、千葉などから8名の予約を受けていた。その穐吉さんが緊急入院し、その後の予定がキャンセルになったけれどもスタジオソングスの岩崎さんからの電話では、もしかすると月末のライブは大丈夫かも?だったので、望みは持っていたがやはりキャンセル。そこでドルフィーのマスターがピンチヒッターに選んだのが、何と、日本のジャズピアニストの第一人者・佐藤允彦氏だった。穐吉さんのこともあり、僕は女房と連れ立ってドルフィーへ行くと、佐藤允彦さんはステージに立ち、穐吉敏子さんのことをお話しになっていた。 佐藤允彦(まさひこ)さんは、6台のピアノによる6人のコンサートで穐吉敏子さんと一緒だったのを二度聴いてはいるが、ソロは初めての体験だった僕。彼は若い頃から、あらゆる音楽分野のあらゆる仕事に挑戦し、多忙な活動をして来た方。1966年アメリカのジャズ専門誌「ダウンビート」の奨学金を獲得して、穐吉敏子さんに次ぐ二人目の日本人ピアニストとして、ボストンのバークリー音楽院に留学し、作編曲を学んだ。 卒後帰国して同じく同大で学んだベースの荒川康男さん、それにドラムの富樫雅彦さんを加えてトリオで吹き込んだ彼のファーストアルバム「パラジウム」を聴いた若き日から今日に至っても尚、このアルバムこそは、僕の中での日本のジャズレコード10大傑作の一枚に入っている素晴らしい作品なのである。 その夜、穐吉さんの穴埋め演奏の一曲目は何と彼女のライブテーマ曲とも言える「ロング・イエロー・ロード」だったからさすが佐藤允彦さんだなあと、僕は泣きたいくらい嬉しくなって女房の顔を見たら、その大きなまなこは、すでにうるうるで涙こぼれそうでした。 |
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved. |