盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.393 「えっ!あの水俣病の救済終了!って?」2018.7.30.盛岡タイムス
 「平和な村」「繁栄とその結果」「終章」からなる「ミナマタ」というジャズの組曲がある。録音は1976年6月。作曲したのは秋吉敏子。演奏は彼女と夫のルータバキンが率いた「秋吉敏子=ルータバキン・ビックバンド」。プロデューサー・井阪紘。トータル21分37秒のこの曲が収められたアルバム「インサイツ」は1976年度の第10回ジャズディスク大賞の最高賞である「金賞」に輝いた。
 ミナマタ(水俣)とは、地名であり病名(公害病)である。公式認定患者第1号が発病したのが1953年12月。この時、魚を好物とする猫が「おどり病」で死亡。水俣湾周辺には胎児性水俣病が多発。水俣川河口で魚が浮上、湾の貝類は死滅、漁獲量は激減。環境汚染とその食物連鎖にとるまったく新しい公害病は、水俣病として公式に確認され、その原因はチッソの廃水ではないかと疑われはじめたのは、3年後の1956年11月。原因は廃水に含まれていたメチル水銀による中毒病であった。その患者たちが企業との死に物狂いの闘争を過て、やっと裁判に勝ったのは17年後の1973年3月20日。その時チッソはその晩のうちに水銀被害の評価額を定め9億3千万円の小切手を用意して支払ったという早業だったらしい。
 1953年は秋吉さんがオスカーピーターソンに見出されて、アメリカのレコード会社にデビューアルバムを録音した年。1956年は彼女が渡米した年。73年はビックバンドを結成した年。ミナマタ組曲のイントロで「村あり、その名をミナマタという」を唄った秋吉の娘マンデイ満ちるが生れた1963年は、チッソの工場廃液が原因であることがつきとめられた年。もう1つの必然は日本ジャズのパイオニアである秋吉さんがアメリカのパイオニアにステレオ修理の依頼に行った時、テーブルの上にあった本に水俣病の論文が載っているのを偶然に読んで「これを忘れてはならぬ」と、記録に残す決意を固め、ジャズ音楽語を通じてつづった社会的な記録であった。確認から62年の今年(2018)、チッソの現社長は熊本県水俣市で開かれた犠牲者慰霊式に参列後報道陣に「水俣病特別措置法の救済は終了した」と語った。しかし今なお1900人が患者認定を申請中で訴訟も各地で続いている。

幸遊記NO.392 「松田智雄のジャズとバイクの和睦」2018.7.23.盛岡タイムス
 天下の台所と称された都・大阪は上本町坂あたりからの大坂や低地の大洲処(おおすか)からの語源と聞くが、国道1号線、2号線が始まった大阪キタの曽根崎、お初天神近くにひときわ目立つオレンジ色の建物(梅田オレンジビル)。その2階にあるジャズとバイクの「Bar・真湯」店主の松田智雄さんは、店の看板通り、ジャズとバイクが大好きな人で、店にはそんな仲間が楽しそうに集う。
彼のことは、ほとんど何も知らない僕だが彼が初めて開運橋のジョニーに現れたのは2007年、1人バイクに乗って日本一周をしている途中寄ってくれた日のことは11年たった今も覚えている。それから1年が過ぎた頃、彼から手紙が届き、「実は僕も大阪でジャズとバイクの店というのを立ち上げました!大阪と盛岡では遠いですけど、仲良くしていただけたらなと思っています!」と店内で撮影して帰った写真を同封してきた。以降もツーリングの企画やら、店にピアノやその他の楽器を入れたこと、何周年のご案内、年賀状などなど時折の通信を必ずよこしてくれていたことから、何年か前大阪で仕事のあったジャズ歌手の金本麻里さんに寄ってきてもらったことがあった。そして今回僕も大阪に行ったついでに初めて店を訪ねた。 
 9階建てのビル1Fには2階でバー真湯やってますの看板板、2F店の入口には「初めてのお客さんへ!2階のバーって入りにくいですよね!僕かって入りにくいです。しかしお客様には“落ち着く”とか、“わりと普通や!”とか、よく言われます。フードメニューもありますし、是非1度入ってみて下さい!よろしくお願い致します!!」のパネル。
 ドアを開け店に入ると正面に数人が座れるカウンターがあり、酒類のビンが並ぶ棚「なるほど!一見普通のバー。左奥にピアノその奥にはレコードやCDなどの棚、さらにその奥のトイレの中には何枚もの写真が飾ってあり、何と、開運橋のジョニーへ来た時の記念写真もあって、あ!そうか!松田智雄(待つだ!友を)の真湯は,新友から親友へと深めるジャズの真のお湯」すなわち湯暖体適な店なのだということに気がついた。バイクで大きな鍵盤坂を上る看板絵もまたバイクとピアノ。(輪木のヤマハ?かとも!)さすが大阪人!

幸遊記NO.391 「永井初男の安芸高田市教育」2018.7.16.盛岡タイムス
 5月18日2018年雨の夜だった。初めての東北旅行で広島から来たと言う2組の夫婦が店の玄関ですれ違った。もちろんどちらのご主人もジャズファンで、2組目の永井初男さん(65)は数年前からJAZZに魅了され、手当たり次第に聴いて楽しんでいることから、初めての盛岡、インターネットでジャズの店を検索していたら、開運橋のジョニーにヒットし、駅前のホテルで場所を聞いて来たのだという。
 しかも安芸高田市から!僕は陸前高田市から盛岡へ!と感激の握手!高田と言えば、新潟の上越高田、九州の豊後高田!と高田繫がりで他所より尚の親近感。しかも高校は定時制(岡山県倉敷市立精思高校定時制・夜学)の卒と聞き、僕も高田高校の定時制!と又握手!。彼は自力で名古屋の中京大体育学部へ進学しグランドホッケーに夢中になった。大学卒業後は民間の会社に就職したが、定時性高校時代の先生の影響もあり、自分の信念でもって、経済的に恵まれない子のために!わからないことを大事にする教員になろう!と意を決し教師に!今は「安芸高田市の教育委員会に」と本人。「教育長なの」と奥様が付け足した。心の温もりがじんわりとくるめずらしいケースの本物教育長だと僕は心の中で大きな拍手をした!
 6月13日今、広島に着きました。明朝、善正寺にて住職にお会いします!のショートメールを送ったら、明朝は仕事のため朝早く帰らなければなりませんが、今から広島へ向います。宿も3人分予約しました!と2時間かけて広島まで2人でやって来て。繁華街の郷土料理店に!そこで僕に飲ませてくれた酒が、「加茂鶴特選ゴールド」という金箔入りの日本酒。「実はこれ!日本にアメリカのオバマ大統領が来た時、安倍首相が彼にすすめた酒ですよ!」と永井氏。その言葉で緊迫感が先に立ち、金箔酒の味忘れて仕舞う、やはり首席になれない、ただの酒席者だった僕と反省。
 3才年上だった先妻・輝美さんを2000年に亡くし、19才年下の現奥様、博美さんとは同じ勤務先だった関係で2007年に再婚。それこそ今年第8回となる公立定時制高校の神楽甲子園大会は安芸高田市の神楽ドームで行われるが、先日の大雨災害で開催があやぶまれたけれど、はげましの意味でも開催することに決まり、7月22日から28日岩手からは伊保内と葛巻の2高が出演!広島岩手県人会も県産品などを販売しながら応援にかけつけるという。

幸遊記NO.390 「上村雅代の能面と絵画とガラス」2018.7.10.盛岡タイムス
 ジャズピアニスト・穐吉敏子さんが言うところの「姉トリオ」(穐吉さんのお姉さんと2人のお友達)。その一番下1937年生まれの上村雅代さんは、福山の出身。東京から現在の高槻市に移って25年。「東京は気の読み過ぎ!大阪は開けっ広げ!それがよくわかったのよ!」という彼女は今も海外を歩き、山へも登る健脚。教育者だった両親の影響もあり、武蔵野美大で絵画を専攻し、のち彫刻をやり、ステンドグラスも!と、気のおもむくまま?やりたいことを同時進行でやって来た彼女は今も元気百倍のバイタリティに溢れている!。
 絵は一貫してモデルを使っての人物画だけを描き続け、隣町の枚方市(ひらかたし)まで今も教えに通う。ニューヨーク・セントラルパーク・ウエストの穐吉さんの自宅へ伺えば、真っ先に目飛び込んで来る真っ白い女性の能面!それは彫刻家としての彼女の最高傑作とも言えるもので、のめりにのめり込んで彫った作品!「でも少しゆがんでるでしょ」と彼女は言うのだが、僕は作者の表情の表し方なのだろうと思いながら、その面を幾度も拝見し、写真にも撮った。大工さんにつき、立ち木の勉強から、木目利用の仕方、寝かす時間、ノミの研ぎ方を学び、彫の師匠からは四角の木材を彫りすすめ面へと形創っていく方法を教わったのだという。
 彼女は平面的油絵を立体的に観せるために?あるいは実際にモデルを使って描く時の光の変化や向きによる人の表情の移り変わる様を能面という固定された表情をつくることで面と立体を動体に帰してゆく光(ステンドグラス)までを手掛ける人間的な総合芸術を目指して生きて来た方なのだと気付かされる。しかもステンドグラスに至っては、ガラスの厚さが3センチもあり、透過する光がこの上も無く美しいことからと、バー、クラブ、レストラン、他ブティックなどに置かれていた。
 「今はね、暇つぶしに絵を描いている人が多いけど、昔はね“女が絵描きだと!!”と言われたもんですよ。作品の数?!1部屋ぎっしり!見たくもない!見せたくもない絵ばっかりですよ!」と謙遜するが、「でもね、1枚だけビル群を背景にしたシュミーズをつけた女性の絵は気に入ってるのよ!お呼びがかかったら送ってあげようと思ってるんですよ興味ある?照井さん!30号の絵だけど」はい!それは見たいですね!

幸遊記NO.389 「春名道子の穐吉敏子ステージ衣装」2018.7.2.盛岡タイムス
 2000年4月1日、ワシントンDCの米国立ケネデイセンターでの穐吉敏子ピアノソロ。2003年10月17日、ニューヨークのカーネギー大ホールでの穐吉敏子ジャズオーケストラの解体(解散)コンサート。2006年3月31日、再度のケネデイセンターソロと3度アメリカへご一緒した兵庫県尼崎市の服飾デザイナーの春名道子さん(86)とは、東京などでの穐吉敏子さんのコンサートでも何回もお会いした仲。
 彼女は前回幸遊記に登場して頂いた穐吉さんの姉、折田美代子さんの親友で、彼女の着用服をずっと作ってきた方でもあることから、美代子さんがある時「あなたも春名さんに作ってもらったら」と穐吉さんに春名さんを引き合わせたところから、春名さんによる、穐吉敏子さんのステージ衣装作りが始まったという話を、僕は美代子さんから聞いた。
 春名道子さんの経営する尼崎市の「アトリエ・ミドー」には穐吉さんが仮縫いに店を訪れた時の写真なども残っており、それを見せられたら僕は実際に穐吉さんが立派なステージ等々に立つ時の、特別な、何種類ものステキな衣装を見てきたし、ホテルからタクシーで移動して会場の楽屋入りする時などは実際にその衣装を手に持ったりしてきたことがあることから、ほとんど見覚えのある衣装の数々の写真であった。実際それらは穐吉さんのコンサートが映されるTVなどでも必ず着ているし、衣装についてインタビューされたりしているのだから、春名さんの名前こそ出てこないけれど世界中の人々が彼女の創った衣装を見ていることになる。
 店の中には夏用の数多くの素敵な布地が沢山あって、その中から2~3引き出しマネキンにふわりと掛けてこうすればと、着衣に早替りの手腕に驚いていると、製図を使わない立体裁断なのだという。終戦後いち早くヨーロッパに渡った京都の藤川延子先生に学び、立体3次加工までを学びたいとフランスへ何度も足を運び、岩田屋百貨店で3年、阪急百貨店で10年デザイナーをやり独立。ランバン、ジバンシー、ミラ、ディオール、などなどのカラフルな生地棚を見渡しながらふと、僕にもらしたことばは「ほんとに店で寝起きしたいと思うのよ。美しい生地に囲まれている時が最高に幸せなの、、、、、」そう言って笑った顔の瞳はまるで未来をみつめる少女のように輝いていた。

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