盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します


Prev [P.15/125] Next
幸遊記NO.552 「後藤克裕の地下水開発」2021.8.15.盛岡タイムス
 「はい!プレゼント」そう言って差し出された袋から出て来たものは、な、なんと、8月6日に特別出演した県民会館中ホールでのステージ写真(額入り)。写っていたのは「情け川」(吉岡治・作詞/市川昭介・作曲)を歌っている僕と、唄に合わせて踊っているお二人(華扇慱志枝・華扇和莉志枝)さんの姿。持参したのは後藤克裕さん。
 そういえば彼の歌「帰り道のちさき花をイヌフグリと教えてくれし娘今母となる」が7月27日付本紙・盛岡タイムスに載っていた。なんでも不来方大学院短歌クラブに通い、八重嶋勲さん(83・野村胡堂研究家・日本歌人クラブ会員)から、短歌の手ほどきを受けているらしい。書では克山の名も持つ人。数年前、彼が書いた文章を読んだったなあ、と。たしか?歴史本?「冬を待つ城」を読んだ感想文?。
 その中で彼が言わんとしていたことは「郷土・古人の反骨精神の裏に潜む、慈愛に満ちた脈々たる岩手県人の心意気。そして未来に向かっては、母なる北上山地の土手っ腹に数十キロメートルにも及ぶトンネルを掘るICL(国際リニアコライダー)の実験計画の終了後に迄想い馳せ、未来永劫、核廃棄物処分地とはしないことの確約証明を県民に明示することがこの計画の大前提!」という意見書だったような気もする。
 後藤克裕さん1953(昭和28年)岩谷堂生まれ(現・奥州市江刺区)水沢高校、山形大学人文学部経済学科卆後、日本地下水開発(株)に入社、44年間勤め「昨2020年に完全リタイヤしたら、昔々、初めて買って感激したあのステレオ直るかどうかわからないけど、もう一度聴いてみたい」と、言うので彼の自宅、盛岡湯沢に伺ってみた。これが何と、50年以上も前のTRIO・セパレート型。一見、無理かも?だったが、音楽に魅かれた彼の青春の日々を想えば、何とかしたいと懸命に手を施したら、温かい懐かしい音で鳴り出し、二人感激!雨、霰(あられ)。
 今年の夏は灼熱で、冬は大雪。どこの歩道もツンツルテン。川渡る橋の上はなおのこと。だが盛岡市内の主要な橋と盛岡駅から県庁まではどんなに寒かろと舗道の雪はすぐに消え、凍らず乾くありがたさ。それはみな、地下水開発のゴッド(後藤)セールスマンのお陰様なのでした。どんと晴ればれ!

幸遊記NO.551 「カーネギーホールからの手紙」2021.8.9.盛岡タイムス
 音楽に感心と関係を持つ全ての人々とって、特別で最高の響き方を持つ音楽の殿堂、ニューヨーク「カーネギーホール」。完成は丁度130年前の1891年。建設したのは15才で電報配達の仕事に就き、のち鉄鋼業で大成功を収めた実業家、スコットランド生まれのアンドリュー・カーネギー(1835~1919)氏。そのカーネギーホール・オープニング週間を飾ったのは、チャイコフスキー(1840~1893)。だが彼は2年後に今時のコロナのような、当時のコレラで亡くなった彼の遺作は、あの「悲愴」交響曲だった。
 それはさておき、カーネギー氏は51才で30才の女性と結婚。一人の子供をもうけ、65才でカーネギー鉄鋼をモルガンに売却、残りの人生を慈善活動に捧げ、公共図書館建設や設置、科学研究、世界平和に力を込めた。その格言「富を得る方法は全ての卵をひとつの籠に詰め見守ること。笑い声の無いところに成功はない。やるべきこと以上のことを行えば、未来は自然に開けるもの。一番高いところを目指せ」であった。この格言で思い出したのはもう一人のカーネギーこと、デール・カーネギー(1885~1955)の本「人を動かす」(日本語訳1958初版創元社)。このカーネギー氏は名前のスペルを伝説のカーネギー氏にあやかろうと「Carnagey」から「Carnegie」に変えていたのです。
 その本代?ではなく本題に入ろう。去る7月(2021)先のカーネギーホールから僕宛の手紙が届いて驚いた!「親愛なる照井さん、コロナのパンデミックから抜け出すにつれ、希望の兆しがみられます。2020年3月以来静かだった、世界最高アーチストを戻す計画を立てています。困難な時期にカーネギーホールに居る必要があるという信念を表明したあなたのようなサポーターなしでは不可能です、、、、。未来についてのお考えを下さい。ホールサ
ポートする方法、例えば資産や保険、退職金等をカーネギーの様な慈善団体に直接寄付してください。税制上のメリットが最大になります」などとあった。
 「特定非営利活動法人・穐吉敏子ジャズ・ミュージアム」が、設立認可となったこのタイミングで届いた手紙。そういえばカーネギーホールは1960年に非営利団体となり、日本からの寄付も増えている様ですが「音楽大国といわれる日本は欧米から呼ぶだけではなく日本の演奏家を育て引き上げることが大切」と、1991年に来日した当時の、カーネギー専務理事・ジュディス・アロン女史の言葉も思い浮かびました。

幸遊記NO.550 「穐吉敏子さんからの手紙」2021.8.2.盛岡タイムス
 6月22日(2021)の深夜(午前2時~3時頃)NHKがニューヨークの穐吉敏子さん宅と、盛岡・開運橋のジョニーをリモートでつないでくれて、話した映像が7月1日「おばんですいわて」で放送になった。その翌朝、店に電話があって「住まいはどちら?開運橋なら車だと30分で来れるので、自宅に来てくれませんか?」と、女性からだった。家の場所を聞き、たずねてみると「テレビを見ました。全くわからない世界のお話でしたけど、感動しましたので私の気持ちです」と「寸志」と書かれた封筒を渡され、僕こそ、心温まる、感動を味合わせて頂きました。穐吉さん、NHKさん、NNさん、TYさん、ありがとう。
 そのTVのリモート会話で、僕が穐吉さんに「どんな記念館(穐吉敏子・ジャズ・ミュージアム)にしてほしいですか?とたずねたら「それ関係ない、つくってくれる人がいるということだけでも、私にとっては運がいい幸せです」と言っていましたが、それから1ヶ月して、穐吉さんから手紙が届きました。「テルイさん御元気ですか?多忙中なので用件のみで失礼。記念館の件です(有難う。盛岡市にもお礼申し上げて下さい)。どんな記念館にしたいですか?との問い合わせに、考えていました。私としては、訪ねて居らした方達が“あー、穐吉敏子って普通の人で、努力であそこ迄行ったんだなぁー、自分も努力すれば、あそこ迄行けるんだ、頑張ろう”と感じる様な所にして下されば良いと思っています」との内容。
  そこへ、僕が10年余りお世話になっているNHK文化センターの丹千枝子盛岡支社長が現れたので、穐吉さんからの手紙です!と、読み上げ始めたら僕、感極まり涙声に。読み終えて、彼女の顔に目をやれば、彼女の目からも涙が溢れ落ちていて、女房と3人おいおい泣いた。そういえば穐吉さんある子供に「好きなピアノを良くお勉強すればいつかは世界一になれます。ガンバレ!」と、サインしていました。
 「家には最初の自己プロデュースコンサート(1967・NYタウンホール)のポスター(画家・井原康夫氏作)、同じく自己プロデュースのカーネギーホールコンサートポスター、グラミー賞ノミネーションの(額縁入り)等々、色々持って行って貰いたいものがありますので宜しく」と。更には自宅地下のバンド練習スタジオにあるピアノ(歴代の名ピアニスト達が弾いた)を提供して下さるとのことなので、来春頂戴しにNYへ行くことに。そして9月のミュージアムオープンには秋吉さん(92)が来演を約束してくれましたよ!

幸遊記NO.549 「情け川・歌謡・舞踊の祭典」2021.7.28.盛岡タイムス
 来る8月6日(金)昼12時から岩手県民会館中ホールにて開催される、歌舞候〇組(WAGUMI)と華扇流徳志枝社中による「歌謡・舞踊の祭典」に、なぜか、僕も1曲、歌唱で出演することになり、そのリハーサルが7月18日、盛岡市内の松園地区公民館で行なわれ、唄って来ました。
 そう、事の始まりは本紙盛岡タイムスに連載させていただいているこの幸遊記。昨2020年11月30日付「千昌夫・新沼謙治・ふたりのコンサート」(11月14日岩手県民会館大ホール)。そして同年4月開催予定だったがコロナ禍で12月27日に延期となった、新邦楽舞踊華扇流披露記念公演「徳志枝会チャリティ舞踊会」。この2つについての幸遊記掲載紙(盛岡タイムス)を徳志枝さんに勝手に送付していましたら、今春、同会の直門名取・華扇徳幸さんより店(開運橋のジョニー)へ電話あり、後日、会主と共に4人で来店。その時に「8月6日の祭典で1曲歌ってみませんか」と誘われましたが、演歌をステージで歌う自信は無く即答出来ませんでした。皆さんが帰られてから、女房が「ジャズ喫茶のマスターが演歌をうたう!面白いんじゃない?挑戦してみたら?引き受けなさい!男らしく」という圧言に、「ハイ!」の返事で引き受けることに。
 しかし、なんで僕に?と思いきや、これまたタイムスのお陰様。3月29日付「えひめ憲一の岩手釜石歌謡祭」におまけで僕が特別出演(作曲・歌)した「文章読んでいましたから」だった。僕は自作曲(どれも同じと、ひとがいう)しか歌えないので、全く知らない曲を覚えて人前(ステージ)で歌う!は初めてのこと、しかも一語一句メロディから間合いまで、元歌と同じ運びでなければならない歌い方(なにせ踊る方々は元歌での練習を重ねているはずですですから)。いやあ、たった数分の1曲なのに、僕はどんだけ練習すれば覚えられるのか、本当に心の底から歌えるのか、自分との闘い。何百回歌っても歌詞を覚えられない自分のバカさ加減(頭の悪さ)を、よくよく理解出来たことは、ひょっとして僕の成長なのかも?と変に納得をしていたある日、コツコツ・コツコツタイプの友人・T子さんが来て「千回歌えば覚えられる」と言った。その大変さを息子にこぼしたら「父さん、書いて覚えたら?」と励まされ、両方頑張っている。トンビのように「旋回(千回)」出来たなら、「これは僕にとって、オリンピック出場と同じ事と言えるものなのかも?」と言ったら、女房「オリンピック?甘い!」の一言。

幸遊記NO.548 「ジョニー・リメンバー・ミー」2021.7.19.盛岡タイムス
 原稿用紙に書かれた手紙が届いた。ジョニー(さん)への伝言。去る6月21日付盛岡タイムスのコラム「幸遊記」を材木町の銭湯・梅の湯で読んだ。ケチしたのではない、たまたまである。との書き出し。文章中のその娘、ジャズを唄ってみたら「孤独感がしっくりくる」と口にしたそうだ。そのコトバが「しっくりとくる」。その娘の歌唱をジョニー照井が個人的にセットアップしてくれたオーディオ装置から流れると、うちの妻も好みの声だとおっしゃっている、無上の音。アーデン・マークⅡ(タンノイ)。「テルイは耳のひと。わたしは目のにんげんだけど、ふたりは仲良し、、、」と。
ドリフターズのああいい湯だな、、、が口をついてでれば、「ジョニィへの伝言」は2時間も待っていたと、ペドロ&カプリシャス(1973年のヒット曲)。それ以前はアイ・ジョージの「硝子のジョニー」(1961)そういえば彼が昔「歌に国境はない」と背中にプリントして、とある国境に行った時「国境に歌がない」とは失敬な奴!と銃を向けられた事件まで浮かぶ。すると「ジョニーはどこに」とシルビィバルダン。「内気なジョニー」ジョニーソマーズ。「オージョニー」のジョニーベイカー。「ジョニーの青春」イーグルスのドンヘンリー。「いけないジョニー」10CC。「愛しのジョニー」クラウディアバリー。「ジョニー・ギター」のペギーリー。そして「帰ってきたジョニー」東京混声合唱団と共にまた日本に戻れば小比類巻かおる「両手いっぱいのジョニー」「ジョニーの子守唄」アリス。
 すると僕はここでまた、克美しげるのデビュー曲「霧の中のジョニー」霧がたちこめ冷たい雨が降ると、どこか遠くの彼方から、あの娘の声が聞こえてくるのだ“ジョニー・リメンバー・ミー”。そう、この元タイトル曲こそ、ジョンレイトンのビッグヒット作品(1961)。この歌には尾ひれまで付いていて、それこそ岩手江刺市梁川出身の大瀧詠一(1948~2013)の最大のヒット曲「さらばシベリア鉄道」。(太田裕美バージョンが僕の数少ないカラオケで歌える好きな一曲)作詞・松本隆。作曲・大瀧詠一。これがメロディ、曲の運び方から間奏の仕方まで、うりふたつ。うりふたつとはよく言ったものでそれこそエレキブームが始まった60年代初頭レイトンと同じ国、イギリスのバンド・トルネードス(大ヒット作テルスター)の‘63年曲「ライデンザウィンド」もまさに「ジョニー・リメンバー・ミー」の類似曲であり、あれもこれも皆「霧の中」の「ジョニー」だったのです。梅雨も明けドントハレ!

Prev [P.15/125] Next
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.