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ジイさんが山から木の子を持って店に帰ると、「埼玉からいらしたんですって」と、珍しく一人で店を開けていたバアさんが言う。その若者(?)は@hochieeさんこと細野高史(こうじ)さん。ヒップホップやラップ、もち!ジャズも好きで、沿岸線を北上して青森まで行き、南下して盛岡へとのこと。目的はジャズ喫茶やDJBAR,レコード店をめぐり、はたまた人に会う。日数も宿泊先も決めずに、行く先々で気に入った時間を存分に使い楽しむ、まさに男の願望を地で行く理想的な旅。いいなあ!
採り立てキノコ汁をふるまったら、これから花巻へ行って、遠野から来る人と初めて会うのだと言う。その人のこと聞いてピンときた!え!彼と、花巻で!ならつれてってくれない!僕がずっと会ってみたいと思ってた若者だから!で、彼の車に乗っけて貰うと、流れて来たのはラップ!「アメリカ、テキサス州ヒューストンに1966年3月21日に生まれ、現在ニューヨークのブルックリンに住むDJ・プレミア(ニックネーム・プリモ)という人のラジオ番組(NY・WBLS放送)を録音したもの」なのだとすらすら出て来る程、彼のファンで、16年程前、彼・プリモが八王子に来た時、一緒に撮った写真まで見せてくれて、彼が自分を見ながら両手を拡げてくれた写真が気に入り、それを基とするバイナルアートを彼に作ってもらおうと依頼するために、今、その作家・KAZUMA(藤原和磨)さんと打合せする店に向かってるのだと、花巻駅前の「Lit・Work・Place」に行った。 急についていくことになった僕の為に約束の時間が1時間も遅くなってしまったが、店の二階にあるベランダのテーブルで一人コーヒー飲んで持っていてくれた。その店は以前彼が作品展を開いたところで、階段途中にある、バイナル(ビニール・レコード)作品は、マイケルがクラフトビールを両手に持った「ON.THE.BEER」。着ている黒のスーツはカットしたレコード。白シャツの胸にはそのレコードのセンターレーベルを使ったカッコイイ作品であった。この店の支店が盛岡開運橋の木伏緑地にあるコンテナ飲食店「BREWBEAST」、そこにもKAZUMAさんの作品が一点あると聞いたホッチーさんは翌日さっそく行ってそれを写真に撮ってきて僕に見せてくれた彼のほっちき?歩き、感動もバイナル(倍なる)行動力に思わず拍手。ホッチー来テ、カズマに行って三者共(今日)ハツの忘れられない日となった。
夏の日の電話だった。「本を出したんです。23年前の改訂版ですけど」。大船渡市で「NPO法人さんりく・こすもす」を運営する新沼節子さん(65)からで、初版本のタイトル「星は星なりに」が浮かぶ。まもなくして届いた本には「星は星なりにーあれからー」(自費出版)。始まりは「こすもすの花を咲かせる会」で、当時大船渡市の気仙養護学校(現在は支援学校という)に通う、知的障害を持つ子供たちの親のサークル・代表だった彼女(当時は海外さん。震災後に再婚して新沼さんになった)。
障害を持って生まれた彼女の娘(星子)さんの幸せを願い、自分が職員になって運営するしかないと思い立って、30年程前から始めた活動。障害のある人々が気兼ねなく過ごせる事業所。リサイクルショップの運営、菓子、漬物などの製造販売、パック詰め作業などの受託の他、清掃サービス等、5ケ所のグループホーム「こすもすの家」の開設など、多岐にわたるが、どんな人であっても「自分らしく輝いて生きたい」というその思いを出来るだけサポートする24時間体制。延べ60余名の利用者に対し35名の職員で取り組み残業無しを実践。そのための企業努力、やり方は、あまりほめられたものではないが、と自ら書いている。 数年前、とある所の重度障害者施設で起こった元職員による19人もの殺人事件で「障害者は不幸を運んでくる」と言った犯人の言葉が、彼女にとっては悔しく、いたたまれなかった。そのことから、自分は地元紙に「障害を持つ人は、幸せしか運んでこない」と書き、FM放送では、その思い続けて書いた言葉を口にすることが出来た!そうです。 2012年「私のたった一言で、勇気を持つこともあれば、絶望することもある」。そんな言葉の重要さ大切さを思い、かつて、さんりく・こすもすの職員で障害者でもあった友人の詩人「横澤和司さんの作品にあふれる珠玉の“言葉”(綿密で優しくて、鋭い)を感じ取っていただければ」と、僕の書で刊行してくれた。その、かつし・詩、けん・書・写真、の「かつし」という小冊子(イーピックス発行)は、とても、ありがたく、今もって星は星なりに僕のお宝本になっていますが、彼女にとって星(星子さん)は彼女のお宝。なんせ、かつての銀河連邦さんりく共和国で生まれ育った星びとですからね。おめでとう!
長崎から船に乗って神戸に着いた、、、確かそんな歌が昔あったなぁと、自分の頭(こうべ)に浮かんだのは、長崎・大村市の旧友からの手紙を読んでいる時だった。同封されていたのは、自主、自立、共働、共助と表書きのある「シルバーおおむら」2021夏号(№61)。4回シリーズの第1回大村再発見。「オランダ牢跡、船大将・濱田弥平衛の器量」
大村駅前バスターミナルの横にある金網に囲まれた駐車場の一角にオランダ牢跡の石碑。江戸時代初期に、オランダ東インド会社の権威に全くひるまなかった大村人が居たこと。300年後になってもなお、その侍魂に大正人が共鳴したこと。弥平衛の子孫は代々大村藩に仕え、戌辰戦争時に秋田・角館で戦死した少年濱田謹吾も銃弾に倒れる直前まで太鼓を打ち鳴らした。その少年の毅然さと、出征する時に、少年(息子)の襟に縫い付けた母の愛・覚悟の短歌。それを見た角館の人たちが感動の涙を流し、その感動は、昭和になって(戦後)大村と角館は姉妹都市となり、毎年交流が続けられており、太鼓手濱田謹吾少年は今なお両市の子供たちにとってヒーローでありつづけているそうです。 その謹吾少年の頃を読みながら、浮かんだのはあの2011・3・11の東日本大震災時、防災対策庁舎から防災無線で町民に避難を呼びかけ続け、津波の犠牲になった宮城県南三陸町の職員・遠藤未希さん(当時24)の「天使の声」が高校の教材になったことだった。 さて本題、オランダ牢跡の件、寛永5年(1628)朱印船貿易商(幕府公許の南蛮=海外貿易商人)で長崎代官でもあった末次平蔵が所有し、濱田弥平衛が船大将を務める船が、新設なったオランダ・東インド会社台湾府によって積荷を押収されオランダとの貿易が中断するという事件。積荷の返還と自由貿易の保証を求めて再び渡航し会社の台湾長官とその息子等5人を人質に立てこもり、要求のすべてをオランダ側に認めさせ、返還された積荷と共に人質を伴って長崎に帰還。その人質たちを収容した牢跡の話。会社側は非を認め長官ノイツは役職をはく奪され、身柄は徳川幕府に引き渡すことなどによって解消され、それから300年ののち、その弥平衛に従五位の勲章が贈られ、大村公園に贈位記念碑が建ったいい話でした。 これを書いた溝田博史さんはいう「照井さんは穐吉敏子さんの大ファンですが、僕はその照井のファンですから盛岡バスセンターの穐吉敏子ジャズミュージアムを応援します」と。
本当に久しぶりの電話だった。嬉しいなあ。掛けて来たのは高田和明さん。陸前高田出身、埼玉県草加市在住の歌手(72)でした。お互い元気で何より!そして近況報告「部屋の整理をしたら、昔のレコードが出て来たので贈ります」でした。二日後に届いたのはLPレコード10枚。“愛をあなたに”の副題が付いた「去りゆく季節」(1986)と、EP10枚「三陸旅情」(1983)。歌っているのはもちろん彼、高田和明(本名・菅野健一)。のちのちのためにと、最後の二箱(未使用品)をのこしておいたものだったらしい。ありがとう。
幾年も前に聞いていた話では、何ヶ所かでカラオケ教室を開いているとの事だったし、その合同発表会のパンフを届けてくれたこともあったが、このコロナ禍で教室は閉じたまま、ステージもなく、今は老人ホームで調理補助をやるアルバイトをして食いつないでいるとのこと。哀しいだろうなと思ったが仕事あるだけ良し!かな。 あの2011・3・11の東日本大震災が起こる4日前の3月7日付本紙、盛岡タイムス、この欄№10に書いた高田和明の「三陸旅情」。その歌も旅情も、三陸沿岸の美しかった街々の風景と共にあった何もかにもが消えてしまったのですから、一人、北海道から沖縄までキャンペーンと称す唄旅しながら10年かけて10万枚を手売りした男のロマンさえも一瞬にして消え去った日でもあり、彼にとっては致命的な心の痛手でとなったに違いない。 「手売りで10万枚!」この気が遠くなりそうな偉業に、ジャンルは異なれど音楽に生きる僕も感動の心押さえきれずに、1986年、全10曲書き下ろしの新曲集LP「去り行く季節」(ビクター)をプロデユースして発売にこぎつけ、東京杉並公会堂と郵便貯金ホールでその発表会。そのどちらの会場も超満員にした彼の底力に僕は再びの感動を覚えたものでした。コンサートタイトルは「愛をあなたに・高田和明オンステージ」。ストリングスやオーケストラをバックに思う存分に歌った彼にとっては、一世一代の晴れ舞台!レコード売り場も長蛇の列。陸前高田から、貸切バスで駆け付けた人たちはおらがまちの千昌夫さんに次ぐ二人目スターの凄さに驚いた様子でした。 昨今のコロナ禍、これまでの生活様式を一変せざるを余儀なくされてしまった今「去り行く季節」を聴けば「帰らない日々だけど想い出が甦る」の歌詞が心に響き渡ってくる。
盆の月、8月、お墓参り。亡くなられた人々に手を合わせれば、自然にその人たちが生きていた時代の思い出話に花が咲く。女房・小春の母・サキさんは、いつも黄色い花を玄関に生ける人でしたから、墓石に一文字の「咲」。彼女とその弟・孝四郎さんが一緒にねむる。字を書いたのは僕。刻んでくれたのは彫刻家・岸信介さん。開運橋のジョニー玄関にある石の彫刻「巻貝の夢」は彼からの贈り物。いつもひっそりと出入る人々の足元を見守っている。
「生きていてこそ、こんな昔の話も出来るもの」そう言うのは、かつて恵比寿ガーデンシネマの支配人だった高橋渡さん。彼から頂いた「落語名高座全集」のレコードを盆休みに聴いていて、ふと思い浮かんだのは、高校で英語を教えた僕と同い年の牛崎隆さん。彼の「父が子や孫たちに伝えたいと書き残した雑多な備忘メモを印刷したので、、、」と、頂いていた数十ページの「余滴」(著者・牛崎雅三2019)を再読した。 「花巻のこと、さまざまなことへの思い、先人のことば、教え、忘備録」からなる100項目。自分の思い「年齢に関係なくやることがある。それが生き甲斐といういうものである」「不平不満を持つことは人生に目的と希望を持つことである」「医者選びも寿命のうち」「灯台は航海の安全の支配者。主婦は家庭の灯台である。その明滅は家庭の喜怒哀楽と生活の安全を支配する」「無記とはノーコメントということ」。歌の効用について「軍歌=集団活動である、国家への忠誠と勇猛を鼓舞する。国家・社歌・校歌=団体的活動、個人をまとめ束ねる作用がある。演歌=個の活動、同調を強要しない、斉唱は似合わない」ここでジャズは演歌に近いのかも?と僕。 「知らぬが仏の典型的な例」では昭和18年、戦時下のため旧姓中学校の卒業式を待たず、国鉄(現・JR)へ就職。9ヶ月足らずで100人程いた駅から数人の駅(現無人)駅に転勤命じられた理由、それが50年余り過ぎて退職したある日。当時の庶務主任から電話あり「昔、駅の5円紛失で立会人だった牛崎さんに盗みの疑いがかけられ、首脳会議の結果オフレコを条件の辞令だったと。」のち、金庫修理の時に奥からその5円札が出てきて、あれは冤罪だった。潔白だった!申し訳ない!とあやまった上司は50年間もそのことを彼に言えず、頭から離れなかったのだと、ああ!ほっとけ(仏)ない話! |
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