盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.386 「菅野俊吾の海浜健康文化都市」2018.6.12.盛岡タイムス
 昭和54年(1979)から2期、岩手県議会議員。昭和62年(1987)から4期、陸前高田市長だった菅野俊吾氏が今年2018年3月26日、82才で亡くなった。かつての自宅は陸前高田市大町商店街にあったが、2011年3月11日の東日本大震災で流失、節子奥様の実家が有る住田町にて借家住い中だった。そのお別れ会が6月2日陸前高田市のコミュニティホールであり、盛岡の東北絆まつりに背を向けて行って来た。彼が東北大学法学部を卒業して七十七銀行に入ったのは1969年。そして家業の高田活版所を経営するため、銀行をやめて印刷会社にて半年間見習いし、陸前高田に戻ったのが、あの東京オリンピックの年(1964).
 僕が平泉の中学を卒業して夜間の高田高校へ通うため、叔父(父の弟)が経営する照井クリーニング(3・11で被災し廃業)に、住込みで働き出したのが1963年。聞いた話は、照井クリーニング創業時は「高田活版所の一角を借りていた」とのことだったから、1977年、その何となく親しみの覚える高田活版所の数軒隣り並びの大町へ荒町から僕は店を移転し列島唯一の「日本ジャズ専門店」とし、地方から東京を狙い撃つべく自主レーベル「ジョニーズ・ディスク」を立ち上げた。
 その甲斐あってか当時の専門誌には「電車(ジーゼル)は2時間に1本、その町には海があり、町の人々の生活がしっかりと息づく中、ジャズは自然に流れていた。日本のジャズが海の向うへ届けとばかりに」「陸前高田は小さな町にもかかわらずジャズ熱盛んで日本有数、東北一」。「マスターの駄洒落の連発はとみに有名。奏者は、演奏よりこちらに疲れ、帰ってくるのが常識」などと書かれたりした。そんなある日、菅野市長が店にやってきて「会議であちこち行きますが、名刺を出すたび、あっ!ジョニーのまちですね!と言われるんでまいりますよ!」と言うのだった。盛岡に移ってからも来店して「ジョニーさんのルーツ、陸前高田市!(海浜健康文化都市)と色紙にしたためてくれたりもした。
 1980年から度々陸前高田市を訪れた世界一のジャズピアニスト秋吉敏子さんに1989年の日本ジャズ祭ステージ上で陸前高田市は感謝状を贈ったのですが、「実は議会で否決されたのを市長が土下座して頼み何とか可にして貰ったそうよ」と節子夫人から聞いたことがあった。秋吉さんもその市長に頼まれ「陸前高田ふるさと大使」という市の宣伝役を1997年に引き受けたのでした。



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