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宮城県気仙沼市にある三陸新報社の社員である佐々木照江さん(59)が、先週のこの欄に書いた穐吉敏子さんの米寿記念コンサートを聴きに盛岡へ来て、翌日午後に開運橋のジョニーへ寄ってくれた。彼女は僕の陸前高田時代には時折店に来てカウンターに座り、穐吉さんが来ると知れば必ず聴きに来ていたし、気仙沼では海蔵寺の住職だった故・大場文隆さんが主催する穐吉コンサートではいつも楽屋係を仰せつかっていた。
「私が穐吉さんを知ったのは女性雑誌・MORE(1983年4月号)。その記事を読んでこんなにも素晴らしいピアニストが居るんだぁって、感動したんです。そしたら、その人のコンサートが陸前高田であるって、新聞社に手書きの原稿を持って来た人がいて、私それをタイプ(写植)打ちしたんです。それが照井さんとの出会いでした。持ってくるたび打ちましたよ」と笑う。 小学5年で母、中学1年で父、3年で祖母を亡くし、父の妹の嫁ぎ先にお世話になって、鼎ヶ浦女子高校(現・気仙沼高校)を卒業。三陸新報社に入社したのが1977年。その後「モア」を読み、憧れの女性となった穐吉さんと出会い、コンサートを手伝いながら、人間としても大好きになり、「穐吉さんの自伝“ジャズと生きる”(岩波新書1996)にサインを願ったら、“私が一番好きな言葉です!”と言って“一期一会”と書いてくれたのです」それは照江さん自身が一番大切にしていた言葉だったから、物凄く嬉しかったのだとも。 2004年気仙沼市のホテル観洋で行われた穐吉さんのソロコンサートの後の打ち上げがホテル内のパブ。「中国人のダンサーと歌手が終演後、客の相手をするため席について水割りなどを作った時、穐吉さんは隣りに座っていた私と、その歌手を両手で抱き寄せ頭をくっつけて、“誇りを持ちなさい。やりたいことは曲げちゃいけない!アーチストがこんなことをするもんじゃない!”と言いながら涙声になって二人をギュー!と抱きしめてくれた穐吉さん!あれは私の宝になりました」。「日本のジャズ界をリードしてきた唯一の女性“決して折れることをしない音楽への真摯な姿勢、強靭なしなりを感じさせる”」と書いていたあの「モア」の記事そのまま照江さんも穐吉さんの生き方に憧れ続けている。 戻る |
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