盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.193 「副島輝人のフリージャズ史」2014.9.22.盛岡タイムス
 フリージャズ評論の第一人者で、日本のフリージャズを世界に紹介した副島輝人(そえじま・てると)さんが、自分でフェイスブックに告知した「とても小さな家」(お墓)に2014年7月12日引越しされた。83才だった。(1931年東京生れ)
 「日本のフリージャズ史」「世界フリージャズ史」(青士社発行)の2冊の本は正に偉業と言えるもの。人なつっこい笑顔を絶やさず、「音楽は前衛でなくちゃ」と、どこまでもアバンギャルドな音楽を愛する現場主義者だった。1960年代末頃から時代の旗頭として登場してきた日本のフリージャズ。その誕生期から、評論家、プロデューサーとして現場に立会い、見聞し、日本フリージャズを世界へ届けるなどフリー一筋に生き貫いた人だ。僕の店の壁に「ジョニー!海を越えよ!」と書いてくれたのは1981年10月のこと。
 「ジャズ界にあってもフリージャズの報道は欠けている部分。ましてや日本のジャーナリズムは全然紹介しないから、俺がやろう!って、ジャズ評論家になった。今日のポピュラーなものを変えて、明日の創造的なものとする。それが前衛じゃないかと思う」と、僕に語ってくれたのは1988年の春だった。
 74年十四夜、76年五日間東京で、日本のフリージャズメンを総出させた「インスピレーション&パワー」というフリージャズ大祭を主催。その一部は二枚組みのアルバム(LPレコード)となってトリオ・レコードから発売され、アメリカやフランスから注目されたのでした。77年からは自ら、ドイツのメールス・インターナショナル・ニュージャズ・フェスティバルに出向き、スライドを撮影し、録音してきたテープを持って全国を回り、翌78年からは、8ミリ映画にして、世界のフリージャズ・最先端を紹介し続けたのです。 
 そのメールスは西ドイツの、ど田舎もど田舎の、何もない貧しい所だったらしい、その街のジャズクラブの主人、プーカルト・ヘレン氏に「市が金を出すから、ここでなければ出来ないドギモを抜く様な新しいものをやってくれ!そのかわり、市は一切の口を出さない」から始まって、メールスは、世界で最も知られる名市となっていったのでした。副島さんはそこへ日本のフリージャズバンドを幾多も出演させ注目された。血液型だってAかたでした。



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