盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します
携帯写真より

■□■ 最新の写真 ■□■

このページに記事はありません。

戻る

[全ての写真を見る]

サイト内検索

レポート

2023-04-30

幸遊記NO.538 「北上川の北上夜曲と北上」2021.5.10.盛岡タイムス

 コロナ禍中の昨年今年と旧友に連れられ、北上川の源流、岩手町の御堂観音境内に湧く「ゆはずの泉」や、八幡平市の田代山のすそに湧く「北上川最北の湧水地」を見学しに行って来た。北上川といえば日本五大河川第五位(249km)。同名の北上市は岩手五大都市?の第五位(9万2千人)。その、ごい!で浮かぶは、歌詞(語意)が間違えられ、作者不詳のまま全国に広まり、昭和30年代初めには東京のうたごえ喫茶「灯」の定番曲となっていたという、あの名曲「北上夜曲」(菊地規・作詞/安藤睦夫・作曲)。
 この詩が作られた当時は、「北上川のささやき」だったそうですが、戦後にふたりで改め「北上夜曲」に。作詞作曲がなされた昭和16年(1941)2月は菊地さん(江刺市出身)18才、岩手師範1年生の時で、水沢農高時代の淡い初恋を回想して書いた詩歌。安藤さん種市(洋野町)出身は17才で八戸中学4年生だった時。真珠湾攻撃で「進め、一億、火の玉だ」と滅私奉公が国民精神として強制されてゆく直前に出来て、師範学校の生徒たちから口伝えに広がった歌。2人が出会ったのは水沢でだったことから奥州市水沢新城小谷木橋近くに「北上夜曲発祥の地詩碑建立。
 作者不詳のままソノシートなどで発売されていた北上夜曲を初めて詞曲共に原作通りにレコード化(1961)したのが大迫(花巻市)出身の評論家で、当時ビクターの文芸部勤務の上山敬三氏。歌は、和田弘とマヒナスターズ+多摩幸子。作詞作曲から実に20年後のことであった。以来、演奏家や歌手たちが好んで取り上げ、別バージョン化世界一とささやかれたほど知られた曲。菅原都々子、ダークダックス、千昌夫等々も耳に残るし、自分でもつい口ずさんでしまうし、聴きたくなる歌なのだ。その北上夜曲の最大の功労はなんといってもかつての黒沢尻が北上夜曲にあやかって?北上と名を変え、地元の政治家までが北上夜曲の北上市です!と語ったこと。観光地として有名な桜の名所・北上展勝地には大きな歌碑。それこそ県内初の市民会館(現2代目さくらホール)や詩歌文学館があり、北上夜曲全国大会まで開催していた文化都市・北上の市民歌とさえ思っている人もいる程、和賀、黒沢尻(北上市)の代名詞となった歌曲。これぞ流石!の一石二鳥!歌!
10:34:00 - johnny -

2023-04-29

幸遊記NO.537 「河野直弘のドラマーマン生活」2021.5.3.盛岡タイムス

 イチニイ・12・44などという数字に反応しやすい僕。突如店に現れるジャズドラマー・河野直弘(46)さん。彼は確か12月生まれ!しかも4日(フォー)と置き換えるまでもなく元「フォース」のボス・ドラマー猪俣猛(85)さんのアシスタント(ボーヤ)を6年間も務めた人。その師、猪俣さんは1994年米NYのアポロンシアターやカーネギーホールなどに日本のジャズオールスターズ(ビッグバンド)を率いて出演したりした日本ジャズのキングオブキング。
 それこそ河野直弘さんが生まれた70年代半ば頃日本の名門ジャズバンド、ウエストライナーズのリーダーだった猪俣さんが奥さんのテリー水島とドラムとヴォーカルでデュオをやった曲「ドラマーマン」は今も僕の愛聴盤の一枚だが、その彼、猪俣さんが開運橋のジョニーにやって来てドラムを叩いてくれたことがあった(‘08年)、次には、それこそ盛岡出身で彼の愛弟子だった盛岡出身の河野直弘さんが店に現れ、そのドラムを叩き、その後にそのドラムを使い、彼が埼玉から月に一度、盛岡に戻ってドラム教室を開いたのだったから縁の不思議を感じたものでした。しかもその名前たるや「奥様ドラム教室」。女性はドラムに挑戦したくても両手両足をバラバラに動かすことから男性と一緒では恥ずかしいと思う人が多いため?、その扉を開く役目に徹しようと始めたのでした。何年やったかなあ、彼が忙しくなって盛岡までやってくるのが大変でやめてしまったけれど、好評でしたね。いつかまた再開してください。
 彼は内科医の息子。「私立岩手高校を卒業して音楽短大(尚美)にPAエンジニアを目指して入学したんですから、自分が親だったらブン殴っていたと思う」と笑いながら言う彼は高校時代に岩泉大司さんにドラムを習った経験から、短大卒業する頃にはドラムの先生になりたいと、猪俣さんのアシスタントに就いて彼のジャズを演奏する心技体を会得独立。2006年録音の自己のグループ「ORPHEUS・with Strings」類家心平(tp)ハクエイキム(p)三上吉美(b)河野直弘(ds)+のすばらしいCDを届けてくれた感激忘れず時折聴いてます。一つの音楽をバンドのみんなが協力し合いながら創っていく、そのコントローラー役がドラマーなのだ。かつてピアノの先生していた母を見舞い、欠かさず開運橋のジョニーへ寄って帰る彼の心根が好きである。
10:33:00 - johnny -

2023-04-28

幸遊記NO.536 「いわチャンTVの“開運橋”」2021.4.26.盛岡タイムス

 岩手をちゃんと見つめる新番組「Iwa.ch(いわチャン)」(NHK盛岡放送局制作)が、この4月から始まった。第一回のテーマは「開運橋」。様々な想いを抱きながら橋を渡る人や車を悠然と見守り続けている岩手山。それを写真に収める人々の心の光景をのぞき見しながら、渡らせる側の想いにまでたどりつけた深い内容。
 子供の頃、父と一緒に橋を渡りながら父がふともらしたことば「駅前・開運橋の近くで仕事がしたいなあ」を聞き逃さず父の想いを実現し大きなビルを建てその名を全国に広めた「盛岡冷麺」のぴょんぴょん舎・邊龍雄さんをはじめ、最近、駅側の橋際木伏緑地に出来たコンテナ飲食店街の出現。昔そこにあった商店街を立ちのかされた人たちには何の説明も成されなかったと。しかし、そうなってしまったからには反対ではなく、共存のために何かをと、昔北上川で遊んだハナタラシ小僧たちが始めようとしている未来のための舟っこ遊び計画。すでに舟着場や試作舟を作り、開運橋上流から明治橋下流までの観光サッパ舟の運航を決め、6月にそのイベントを開催するという。
 開運橋120周年を記念して10年前、新たに創られた出会いの神様・開運神社。バスに乗って橋を渡ると心身ともに解放されるのよという婦人。心をチャージするために週末には必ず橋に来るという転勤族男性。実際、この番組の制作ディレクターの女性・中島望さんさえも「仕事に行き詰まると、なぜか開運橋に来てしまうのです」と、橋を見渡せる僕の店・開運橋のジョニーにまで現れ、僕が開運橋の春夏秋冬(小泉とし夫・詩/てるいけん・補作詩曲)を、毛筆で書いたり、唄ったりしているところを、撮影して帰ったのでした。
 開運橋・またの名を「二度泣き橋」誰が名付けたと唄う氷川きよしさんの歌と共に命名者・古江和男雄氏(73・元日本銀行盛岡事務所長)を下関まで訪ねる念の入れよう。更には盛岡駅開業の前夜までに実際に橋を架け命名し有料橋(片道一銭)として微収した明治23年当時の県令(知事)石井省一郎氏にまでたどった、まさに開運橋の歴史的番組。放送中から、終了後のメールや電話、ハガキ、手紙とたくさんの反応。金曜日夜7時半、昔でいう一家団らんのゴールデンタイムの放送。視聴率県内トップの17.6%だったそうですが唄の「かおりもりおか」が回文になっていたことでなぜ耳に残るフレーズなのか合点がいきましたと、川目町の野田れい子さん。嬉し!ありがとう。
10:31:00 - johnny -

2023-04-27

幸遊記NO.535 「ギターと短歌と書のコラボ」2021.4.19.盛岡タイムス

 北宴文学会の歌人・小泉とし夫(本名・岡澤敏男)さんが90才代になってからつくられた口語短歌を、僕がチョイスして書いた「色紙展」を盛岡最古の「画廊喫茶・ママ」で開催させて頂いた。同店でのコラボは3回目(4月1日~15日)。10日の土曜午後には小泉さんによる短歌朗読、ギター伴奏・八木淳一郎さんによるライブも店内で開催、満席でした。
 小泉さんの自作短歌朗読ライブの始まりは2005年8月。「サダム・フセインの冬の旅」「エリーゼのために」「だれも知らない訃報」の三部からなる44首の朗読でした。「モスク前のラーフィー かたる歌 ふりかえる者 だれもなかった」「きみといて 言葉なくしておきなぐさ もうわたくずとなった ぼく で」「羽とじて 死後硬直の 白い蝶 歩道より そっと草の葉におく」この時、78才だった小泉さんも、今年94才。杖もつかわずに買い物にもデイサービスにも出掛けていますし、お酒もうまい!と飲んで、いたって元気です。
 僕が陸前高田から盛岡に出店した2001年、小泉さんは本紙盛岡タイムスに、彼の同級生だった故・村上昭夫の肖像(動物哀歌の詩人)を連載していて、彼も滝沢から盛岡へ住居を移し、歌誌編集も担当。外へ出かけた帰りには店に寄ってくれて、陸前高田出身の昭夫さんのことや宮澤賢治話などしてくれて嬉しかったものでした。
 ギターの八木さんに至ってはそれこそ陸前高田時代から交流あり、僕の来盛を一番に喜んでくれた人。彼も当初からいまに続く「夜空に夢みる星めぐり」を本紙に2週に一度連載しており、今月来店時の第一声は「遂に回数をジョニーに抜かれた!」だった。だが年数、時数でいえば僕の倍書いてきた凄い字続力者!そして、ギターの演奏。果てしない優しさに満ち溢れる美しい音色は、日本最高峰のギタリストと言っても過言ではなかった故・七戸國夫さん(八木さんの一年後輩)をギターの師と仰ぐこころねから響き渡ってくるものだと、彼の演奏を聴く度に想うのだ。
 僕は「この世で音楽ほど尊いものは無し」そう思い続けて58年。ありとあらゆる分野の人々がそれぞれにそれぞれの分野をそう思い、尊重しあえば、真に心の「オリンピック」という平和な世界が現れるのではないかと思い続けてもいる。
10:30:00 - johnny -

2023-04-26

幸遊記NO.534 「釈迦力音声周拾方聴至」2021.4.11.盛岡タイムス

 この4月8日(2021)、盛岡・開運橋のジョニーがはたちになった。はたちといえば僕が音楽活動を始めた年齢と同じ。始まりはレコードコンサート。ジョニーという名のジャズ喫茶を開店して46年。音楽酒場「北国」から数えれば48年。レコード店の「ケンちゃんとター坊の店」まで溯れば、創業から半世紀と1年。考えてみれば、いや考えるまでもなく、くる日も、くる日も今もなお、ただひたすら、毎日毎日、次から次へと、繰り返し繰り返し、音楽を聴き、聴かせ続けてきた、いわばレコード、コンサート人生と言っていいのかも。
 4月8日は、お釈迦様の誕生日。開店した時に、思ったのは「釈迦力音声周拾方聴至」しゃかりきになって、おんせいにとりくめば、しぜんとすべてにきこえいたるのではないかという「真空歓声音菩薩道」いわば働きもののアリではないキリギリス。武士は食わねど高楊枝、今日の現金明日の元気!、三才より山菜食べれば自然児!、若者だったら輝体燦然!、老人男性泰然爺、昔理髪な女性も今バーバー、なんちゃって。ことばであそんでばかりいる。何を書こうとしてたのかも忘れて、、、、。
 そうそう!祝20周年!と、喜夛流の謡をやる藤野興吉さんから蘭の鉢植。その藤色の花を見ていて思ったのは、観て、聴いた、ステージ長唄藤娘。2020年12月、その新邦楽舞踊・華扇流の家元・華扇徳志枝さん、名取・華扇徳幸さん達が「幸遊記(1月5日付№520)のお礼にまいりました」とのご来店にビックリ。手土産に何と歌手「千昌夫の米・銀河のしずく」(全国特A/北上市稲瀬産)。4月8日、一年間コロナ禍で休んだ、故・澤口良司さんのメモリーバンドの再開練習後、僕が採取し作ったワラビカレーを千さんの米で、メンバーの人たちと食べたら、すごく美味しい米だ!カレーもワラビのトロミあっていいの評。
 更に「秋吉敏子さんの非売品レコードをゲットした」と届けてくれた尺八の工藤盛山さんに連れられ、4月8日カワトク付近から桜山神社付近に移転オープンした伊藤ともんさんの店「燈門」へ連れてってもらいお祝いのカンパイ!。彼の素晴らしいうたとフルートの音は開け放った店の裏戸口から不忍池を渡り、夜のしじまへと。ああ、いい日だったなあ、、、、、。
10:30:00 - johnny -

2023-04-25

幸遊記NO.533 「島田璃里の鳥になったピアノ」2021.4.5.盛岡タイムス

 大雪に見舞われ、何年か振りの、冬らしい冬だった今年2021。開運橋際の4階にある僕の店のベランダに、朝となく昼となくやってきた少し大きめの鳥達。来る目的はベランダの柿。お客さんに頂いた一枝10個程の渋柿を外においていたら、やわらかくなった頃飛んで来て柿をついばみはじめ、冬の間毎日食べに来たのを見て、柿を持参して来るお客様まで現れた。鳥はヒーヨ!ヒーヨ!と大きな声で鳴くヒヨドリ。
 その鳴き声で思い出したのは四半世紀も前のCD。それこそヒヨドリはもちろん、カッコウ、ヤマガラ、ウグイス、オオルリ、オオヨシキリ、などたくさんの鳥たちの鳴き声を音符に表し、ピアノで演奏していた島田璃里さんのこと。久しぶりに電話をしたら、どこかにまだあったはず!と探して贈ってくれた本が「歌う鳥、さえずるピアノ」(草思社刊)。ヒヨドリ来るたび、付録のCDでヒヨドリピアノを流せば、首をかしげるおもしろさ。
 島田さんは僕より一コ下の京都生まれのピアニスト。エリックサティ(1866~1925)弾きの第一人者。彼女の祖父は明治生まれの脳解剖学者。小さな時からそばにいて顕微鏡をのぞいていたと。母はピアニスト、医者の父も彼女よりピアノが上手だったことから、自分も一日中ピアノを弾いていた。桐朋付属ではバイオリンの佐藤陽子さんと同じで、スクールバスには小澤征爾さんと一緒に乗ったという話を昔に聞いた。
 サティに憧れたのは15の時。ドビッシーが編曲したジムノペディをオーケストラで聴き、魅せられ、フランスの音楽学校に留学「サティがどういうところを歩き、何を考えていたのかを、この目で確かめたかったから」と5年いてサティを弾いた。日本では1975年からギャラリーなどで弾きはじめ、予言的、実験的精神、イメージ、サティだったらどうだろうと、いつも思っていると話してくれたことがあった。
 演奏に来て新幹線の駅に迎えに行った1988年、明日帰る新幹線は「何時があったかなあ」と車を走らせていたら、思い出すからちょっと待ってと。何時何分、何時何分、何時何分と言ったので、ビックリ!駅を出る時、一瞬見た時刻表をカメラ的に記録した超能力に驚いたものでした。さすが「記憶の海」のピアニスト!と。
10:25:00 - johnny -

2023-04-24

幸遊記NO.532 「えひめ憲一の岩手釜石歌謡祭」2021.3.29.盛岡タイムス

 宮城出身で釜石の市職員だった長柴政義さん(80)が「三陸・釜石・自然と歴史と文化の伝承をテーマに30年以上にわたって続けてきたカラオケと、そのチャンピオン大会でおなじみの釜石オリジナル歌謡同好会」。幾多の歌手を産み育て、愛好者を増やし続けて来た彼が、故・坂野昇(p)氏と組んで作詞した30数曲。震災後には「戦災都市釜石から震災復興への挑戦」と題する提言書ならぬ「本」を出版して問題視される政策を繰り返さない、よき政策の活用を訴えた。歌では「親子の絆」や「天命」等々で心の復興を唱え実践。
 そしてこの3月19日(2021)、釜石市民ホール「TETTO」に、作曲家・故・船村徹氏の愛弟子だった歌手・えひめ憲一さん(41)を迎えての「東日本大震災10年復興記念・岩手釜石歌謡祭・生配信ライブ」(いわて文化芸術活動支援事業)が地元釜石のバンドや歌手を中心に、井上るみ子、小林千花さんら民謡、演歌歌手。おまけで特別出演の僕は、ながしばさん作詞「俺(おいら)は東京の田舎人」に作曲と歌を頼まれずーずー弁で唄い、「じじ、まちがわないでよかったね」と6才の孫に。
 えひめ憲一さんは2009年、同会主催の「船村徹講演会」に氏の付人として釜石に同行した愛弟子。2012年「故郷がいちばん」(日本コロンビア。作詞/さくらちさと、作曲/船村徹)12年余りの下積み生活を経てのこのデビュー曲は彼にとって“特別な意味を持つ作品”。それこそ愛媛県松山出身であることから名付けられた芸名(本名・小倉憲一)幼い頃からの夢を実現したいと入学した愛媛大学を辞めての上京だった。デビュー後まもなく松山観光大使や、とちぎ未来大使に任命され、14年「瀬戸の恋唄」15年「きずな船」17年「ああ西郷どん」18年「人生旅列車」「小さな約束」19年「親子の絆」「天命」そしてフルアルバム「一期一会」CRT栃木放送「歌のきずな」レギュラーと順風。この間には結婚し、ちょっと幸せ太り気味でほほえましさも感じますが、「ああ西郷どん」(作曲・山崎ハコ)のカップリング曲「母に」(作曲/野辺山翔、作詞/舟海勝)は、聴く側の僕にとっては彼の最高作として耳と心に焼きついて離れない。それは長柴さん作詞の「親子の絆」同様、親に対する子の想いから生まれた歌。余談ですが、えひめさんが復興してくれた「釜石小唄」もとてもいい歌。釜石市は彼のこれまでの復興支援に対し感謝状を贈呈した。
10:23:00 - johnny -

2023-04-23

幸遊記NO.531 「心の復興を叶えさせる音楽」2021.3.22.盛岡タイムス

 あの3・11から10年、震災に関するありとあらゆることが、津波の如く報じられているこの3月。僕も改めて音楽の立場からこの10年を振り返り、かつて40年間お世話になった沿岸に想い馳せ、震災後に出版された被災の街や人の心に関する様々な証言や説法、語り。歌や演奏といった何十枚ものCD・DVDをあらためて聴き、見直した。
 それこそ、あの直後の3・16全国発売なった金本麻里さんのデビューアルバム「ホープ・ガール」は発表と同時にインターネット・アクセスランキングで第一位となったのは「希望」のタイトルどおり、人間、希望を失っては生きられないという穐吉敏子さんの広島組曲に谷川俊太郎氏がつけた歌詞のおかげでした。
 陸前高田の市街地は一戸残らず消えてしまい、ただ一本の松だけ立っていた。その松の木にいちるの望みをたくして、いくつもの歌が生まれた。僕が時折聴きたくなるのは、やなせたかしさん詩歌の「陸前高田の松の木」(ぼくらは生きる 負けずに生きる 生きて行くんだオーオーオー)不思議な力と希望が湧いて来る。
 菊池秀樹さんの「頑張れ日本!!三陸魂。昇る朝日のように」(人の運命“さだめ”はやる気で変わる人生ふりだし命を燃やせ昇る朝日は男の心)「あれから三年」(故郷は優しい街と知りました)。
そしてあの「天命」、父が作曲して、子・まっしゅ君が唄い、小松清一、えひめ憲一さんも唄ってCD化“千年一度誰が知る、、、。不撓不屈(ふとうふくつ)の精神こめて、復興めざし立ち上がる”はまさに「人事を尽くして生きて来た、ながしばまさよしさん」の歌詞。
後の代まで民謡(うた)でつなごうオハラ津波てんでんこ。とうたう「三陸おはら節」の菊池信夫さんの民謡曲替え歌もなかなか。
 更には震災の街と言えど津波が到達しなかった地域は新沼謙治さんの歌のように「ふるさとは今もかわらず」美しく存在し、被災した人もしなかったひとたちにとっても心がやすまりホッとさせられる歌。
 震災歌では津波で亡くなられた方々の御霊も浄化され、その家族の心にも花咲くような、岩桐永幸(現・KORUKA)「瓦礫の街」はまさに御光のようなうたである。聴き終えてから僕は宮静枝さんの詩「海に雪降る」をギターを持って唄い出していた。あの3・11も雪の日であったと、思い出しながら、、、、、。
10:22:00 - johnny -

2023-04-22

幸遊記NO.530 「大川原儀明のイブニングスクエア」2021.3.14.盛岡タイムス

 昨2020年秋頃始めたフェイスブックで友達になった大川原儀明さん(65)から、先月電話ががあって「実は今、札幌のミニFM局で番組持っているので、3月9日夕方5時過ぎ電話でのインタビューに応じてくれないかな?」とのことだった。大川原さんといえば、1985年秋に開局したエフエム岩手のディレクターで、開局と同時に始まった番組「オール・ザット・ジャズ」でお世話になった人でもある。最初の担当者は番組を企画した岡部敏男さんという部長。次が東京支局に転勤になった作家・斎藤純さん。その次に担当者になったのが大川原儀明さんだった。
 いつもニコニコ人当たりのいい方だったので、僕は番組で好き勝手放題に、これもジャズ?的なものまで選曲して放送した。彼は立場上?非常に困ったものだの人が僕だったと、最近のフェースブックで知った。若気の至り?でご迷惑をお掛け致しました。ゴメンナサイ!そのせいではないだろうが、彼は1991年、開局になる青森朝日放送に鞍替えし、記者をやりニュースキャスターをやり、報道部長、局次長と管理職まで昇りつめ定年となった。
 花巻出身で日本大学芸術学部放送科卆。青森に移住したのは当時息子さんが青森に住んでいたことからで、現在の札幌住まいも息子さんの近くにという、子ぼんのうな親なのである。青森時代に彼は、青森公立大学大学院にて経営経済学研究科の博士課程まで卒業している勉強家でもあり、今挑戦しているのがサックス。そんな面白い経歴見込まれ札幌に移住してすぐ札幌のミニFM局に声をかけられ、今年1月から「さっぽろ村ラジオ局」で火、水曜日の17時からイブニングスクエア813という、1時間番組を担当してしゃべっているのだと。ついてはあの10年前の3・11に関連する話をしてほしいというので、あの日、あの時、どこで、どうして、どうだった、その後のことなどの話をした。
 村ラジオ、ミニFM局といっても、札幌は北の大都会、聴ける範囲内の人口は岩手県よりもはるかに多いのだという。そのFM岩手で25年間といっても番組終わったのが震災の半年前2010年秋。それから5年して一夜だけのオール・ザット・ジャズ。その後東京のニッケイラジオ以来久し振りのFMラジオ語りでした。大川原さんありがとうございました!
10:46:00 - johnny -

2023-04-21

幸遊記NO.529 「山下文男の津波てんでんこ」2021.3.8.盛岡タイムス

 あと3日で、あの日から10年の3・11がやってくる。2021年2月13日夜の余震には、あの日の前兆であった3・9のM7.3を想い出し、もう一度来るのではとの恐怖心をあおられた。今にして思えばあの3・9の地震(震度4、津波60㎝)に、どこか安心して、2日後(11日)の逃げ遅れに至ったのではないか?とも思った。あの時もし、僕がまだ陸前高田に住んでいたとしたら「生きている」の保証はなかったかも?幸いにも1960年のチリ地震津波のあとに陸前高田の住民となり、2001年に盛岡へで、津波の経験は無いのだが、40年間の物々と紙々のほとんどを流失。そのお陰で?あれからは、必要な資料類再収集に明け暮れて来た10年間だったともいえる。
 津波、津波、津波!巨大な津波は6000年間に6回も来ていた可能性を示す地層が、陸前高田の隣町、宮城の気仙沼で北海道大学の平川一臣自然地理学教授らが発見したのは2011年。その一つ、1896(明治29)年の三陸大津波(3・11を上回る2万9千人の死者、行方不明者)を米・NYの、ハーパーズ・ウィークリー紙が報じた9枚の写真。それを大船渡市出身の西村純さん(NY・生活プレス社)が発見したのは2012年。又1960年のチリ地震津波の写真を見つけたのは我が友、陸前高田の大和田幸男さんだった。海の底が見渡す限り、平原のように広がる引き波の光景(2007年岩手日報に発表)。その陸前高田で‘92年に米崎町沼田地区住民が市初の「古老による津波被災体験語り」で警鐘をならしていた「ともかく逃げろ!」は今も忘れられない。
 その「津波てんでんこ」を提唱し広めた大船渡市三陸町綾里の津波研究者・山下文男さんのことは昔東海新報の編集長だった綾里在住の鈴木周二氏からよく聞かされたものでした。その彼山下さんはあの3・11の時、陸前高田の県立病院に入院中(当時87才)で、4階海側の病室でベッドの上から海を見て、彼をして「ここなら安全」が2メートルも部屋の水位が上がり、必死でカーテンにしがみつき首だけやっと出して助かった(同年12月亡)。明治の津波で祖母亡くし、昭和2回の経験から、ハード整備を過信せず、過去に学ぶ防災教育の大切さを主張。権威に立ち向かい弱者への対策を含めた現場を重んじた姿勢は、彼が父親から津波の怖さを教えられて育ったから。それこそが昔のことわざ「逃げるが勝ち(生きる)」に同じだった。
10:45:00 - johnny -

2023-04-20

幸遊記NO.528 「瀬戸内寂聴のジャズと伴侶」2021.3.1.盛岡タイムス

 大船渡のS氏からの電話で聞いた五木寛之「回想のすすめ」(中公新書ラクレ・2020)。盛岡のR子さんからの瀬戸内寂聴「生きてこそ」(新潮新書・2017)の2冊をざっと読んだ。前者は1932年、後者は1922年の生まれである。僕は高校時代に五木さんの「さらばモスクワ愚連隊」というジャズ小説と映画で彼のファンになり、AM・FM・TV・新聞・雑誌・レコード等々幾度もご一緒させて頂いた幸せ者。回想とは「豊潤な記憶の海へ」の船出。その「記憶は無尽蔵の資産」であるという彼の昔話。
 その昔話で想い出したのは寂聴さんがかつて住職をつとめた浄法寺町(現・二戸市)の天台寺。6年半をかけ昨・令和2年、建立当初の姿に復元なった本堂及び仁王門と新築の桂泉蔵などなどを、旧友Oさんに連れて行ってもらい、同年に見学した。僕にとって、天台寺の印象は、旧・浄法寺町時代の清川明彬町長に案内されて見学した“本堂の朽ちかけた仏像”その慈悲深い尊顔に接した時、僕はその弥勒菩薩(みろくぼさつ)を、“魅力菩薩”とし、写真を撮り、1997年に録音しておいた僕の歌?「般若心経/照井顯&テクノ楽団」のCD化(2009)のジャケットに使用させて頂いた。それがなんと、昨(2020年)紫波町の佐藤淳子さんから「あの般若心経に体操用の振り付けをし、あっちこっちの教室で活用して、コロナ禍で運動不足の皆さんに喜んで頂いております」とのメールが届きビックリの心経です。それこそ爆音の中の“静寂”こそ、その“心境”。作家・瀬戸内晴美さんが出家した時、今東光師は「”寂聴“という法名はどうだい?」と電話。それを聞いた瞬間、彼女の耳に「聴こえてくる気がした”音“」はバスクラリネットとフルートのエリック・ドルフィーのジャズ「ラストレコーディング」だった。
 それは彼女が40を越えた頃、とある男に貰ったレコード。それ聴くためにステレオを買い、聴き終わったら涙を流していて、全身が震えていたという。以来毎月20枚ものジャズを買い聴いた彼女、何かの時には、必ずその「音を教えてくれた最初の一枚」をかけたという「天台宗の聲明(しょうみょう)は静かで美しい、ジャズの源も宗教音楽にたどりつくのではないか」と36才の生涯を終えた1964年のドルフィー最後の音を永遠の伴侶?として「彼の出す音や声にうっとりと寂かに聴き入っている」寂聴さん1978年の昔話です。
10:44:00 - johnny -

2023-04-19

幸遊記NO.527 「村田英作のトランペット」2021.2.22.盛岡タイムス

 花巻市大迫の村田英作さんから手紙が届いた。「私事ですが来年(2022)は、上京し初めてJAZZの洗礼を受けてから50年になります。東京暮らしの10年間、特にも肉体労勤後には本当にジャズ喫茶はオアシスの様でした。思い出のジャズ喫茶・街角曲がれば珈琲とスイング、東京のジャズ、今いずこ」と、短歌的ジャズ詩6編が記され、そのひとつ「ヒノテル憧れ東口、胸の高鳴り“ピットイン”ナベサダ演ずる“ドナリー”は新宿“木馬”でプロローグ」と当時のジャズ喫茶の名前が続々と登場。5年前の郵便では、当時、彼が通った東京のジャズ喫茶20店舗ほどのマッチ箱の写しが届き、その様々な個性あふれるデザイン画とロゴ、それには「巨泉も通った渋谷のスイング。音が良いジニアス。セロニアスモンク(p)が亡くなった日リクエストしたA&F。岩手に帰る時必ず寄った上野のITO」などと記されて、当時は上野が東北本線の発着駅だったなと懐かしむ。
 そして、今年の手紙には一枚の写真コピーが添えられていて「ジャズが奏でる街、ニューヨークから照井さんより贈られた絵葉書は、私の心のトランペット。大事にしております」とあり、楽譜の上に置かれた楽器の絵ハガキ。ここでまた僕の店「開運橋のジョニー」が7周年だった13年前、この写真ハガキをラベルに印刷した特製「エーデルワイン」の赤、白を贈られていたはず!と押し入れ探せばありました“はやちねの詩”。
 僕がトランペット絵ハガキを送ったのは、彼が「大迫ジャズコンパニオン」というバンドリーダー兼トランペッターだったから。‘85年の日本ジャズ祭に出演して貰っていたし、のちあの3・11の震災遺構として一本松と共に高田松原に残されている、かつてのユースホステルで、僕のコンサートがあった時、彼がバックで吹いてくれた’92年。その同年秋、彼の結婚式に出席して僕もギターで1曲歌ったことなどまで思い出す。
 彼の店、「七折茶房」の「村喜本店」は築百数十年。先代から続くのれん、格子戸、長火鉢、箱階段。そろそろ出番のお雛様。それが終われば、夜明けとともに葡萄の剪定。消防団、合唱団、トランペットそして作曲。夏ともなればお城の様な蛍籠(ほたるかご)遊び。そうだ!今年春からは「道の駅はやちね」の駅長も、そこではジャズも流したい。夫の忙し忙し「更衣」して「とう女」と「もるげんロード」ゆく姿見るのも楽しかろうね、順子さん!
10:43:00 - johnny -

2023-04-18

幸遊記NO.526 「田中博子の遺稿集“山に添う”」2021.2.14.盛岡タイムス

 「田中博子の遺稿集を作りましたので送ります」と、横浜の春海孟男さんから本が届いたのは昨(2020)年の6月。その本、僕の店で読んだ秋田からの女性が「これ、私も欲しい」というので孟男さんに連絡すると「博子さんの短歌集まだ沢山うちにあるので5部送ります。顕さんの方で利用して下されば、彼女も喜ぶでしょう、、、、」との手紙。それと共に「連れ合いがこの世を去ってから1年が経った。長かったのか短かったのか、、、」で始まる彼のパーソナルミニコミ紙「ひまじんクラブ・六ツ川版」(2019年6月12日の創刊号から‘20年11月14日号の第57号までの、僕に読ませたい抜粋編11部)同封されてきたのは12月。ありがとう!
2010年、未婚の娘を交通事故で亡くし、翌年に震災にあい東松島から蔵王町へ。そこから詩人だった彼女が親しんだ短歌で「孫来たるリュックに春をつめこんで足音た・た・たと家中踊りて」に始まる“家族の庭”。「癌という紅(あか)きかがやく命ありその強(したた)かさにしばし見とれる」の“病葉”。「山肌のむき出しの土ひたすらに海辺の土手への旅を待つげに」の“山に添う”。「ふた重き土鍋のなかの牡蠣の身に戻れぬ日々の潮の香をかぐ」“災厄”。「霧立ちて世界はすべておぼろなりただ記憶だけが生き生きと湧く」“。。。。。”。「きわみなく吸いこむ砂の内側にただ戻りゆく潮のせすらぎ」”海“。「子や孫につなぎ終えたる命ゆえあしたの旅は南にゆきたし」“辞世”の全150編。彼女が亡くなるまでの3年間に詠んだ歌である。
 孟男さんが「彼女の短歌からはやはり詩が感じられる」と書いているのを読み、短歌は、詩の贅肉を削ぎ落とした最終的な詩だったのか?ともおもわされ。その歌、彼女のいわんとする心象がとてもわかりやすく感じられたし、読後にはその深さがじわりとにじみ湧く。巻末の小説「初雪」は彼女がまだ津田博子だった20才の時の作品(1969年1月5日付河北新報に掲載された“河北文芸入選作)当時の選評は「作文の延長のような習作だが何か捨てがたいものがある、、、、。文学への可能性が感じられる」。その彼女は翌年第1詩集「果たされぬ対話のために」を刊行して詩に移行。最終的には歌人となってかえって行った。読み終えてみれば小説の主人公のような孟男さんと、作者の博子さんが小説の第2部の様に出会い暮らした20年だったのだと想う。孟男さん!六ツ川版をもっと僕に詠ませて!
10:41:00 - johnny -

2023-04-17

幸遊記NO.525 「歌で見るあの大船渡/あの陸前高田」2021.2.8.盛岡タイムス

 昨年(2020)の11月、大船渡出身のシンガーソングライター・濱守栄子さんから2枚のCDが届いた。1枚は彼女のベストアルバム「マイ・ハート」そしてニューシングル「あの大船渡/あの陸前高田」それに沿岸を走る「国道45号線」の3曲入り。ベスト盤にもその3曲は収録されているのだが、あえて3曲だけのCDを制作したのには彼女なりの訳があるのだ。
 そう今年はあの3・11の東日本大震災から丸10年の歳月、絶対に忘れることなく被災地に寄り添った彼女にとっては長い長い10年だったであろうと察します。濱守さんは生まれ育った大船渡と通った高校や勤務先があった陸前高田の復興を応援しようと決意。音楽を通して「命の大切さ、夢を持つことの素晴らしさ、挑戦し続ける楽しさ」を発信しながら「いつ死んでも後悔しない生き方をする」は母の死と3・11の経験から。そして「何かを始めるのに遅すぎるということはない」と30才過ぎてから始めた弾語りの音楽一本での生活を実践、エレピを車に積んでの「ピアノと女一人旅」までしてCDを売り、コンサート収益と募金活動などで、一千万円を義援金として寄付する目標掲げ、大船渡と陸前高田の両市に届け続け達成した。
 津波に消えたそれぞれの中心市街地「毎日のように通っていたのに元の風景を想い出せないところがたくさんあって、悲しい」と、いつぞや陸前高田の古い住宅地図を持参して一緒に見たことがあり、のちに、町の風景を歌にしたいのですがジョニーの店の名を歌詞に入れていいでしょうか?と電話があった。それがかつてのふるさとを忘れないための「あの大船渡/あの陸前高田」の歌となって甦ったのです。
 僕はその濱守さんが作詞作曲して歌っている曲を聴きながら、ビックリしたのは、映像や住宅地図よりも鮮明に街の一軒一軒の店やその構えまでがあたまの中に蘇って来ることでした。しかも彼女が通学した駅から学校までの近道ルートの風景や、勤務先へのコースとその周辺の店などなど、まさに手に取るように見えてくるそのリアルさと懐かしさに「音楽の持つちから」を今更ながら、まざまざと見せつけられ、気付かされました。まさに再発見!濱守栄子さん、あらためましてありがとう。
10:39:00 - johnny -

2023-04-16

幸遊記NO.524 「高橋孝子の果てしなき旅」2021.2.1.盛岡タイムス

 僕が講師?のNHKカルチャー・ジャズ講座に12年間、毎回欠かさず通い続けている盛岡市馬場町の高橋孝子さん(86)は、40才から84才まで日課として続けて来たのが「朗読ボランテイア」でした。彼女が20才の時、親友の婚約者が後天性の視覚障害者になったことから「本を読んであげる手伝い」があることを知り、いつかいつかと、頭の中にあったことから、下の子が小学校に入ったのを機に、朗読奉仕募集に応募。テストに合格して、8ヶ月間、放送局のアナウンサーたちから特訓を受けてゴーサイン。そこから本を読みだしたと。
 最初の頃はリール・テープ、次にカセットテープ、そしてデジタル・チップへと視覚障害者のための本の音訳。静かな時間さえあれば始めるが、張りのある声を出せるのが午前中。午後は外の音が大きく、夜だと静かすぎて逆に声を潜めなければならないのでダメなのだとも。アナログの時代はよかったけれど、デジタルで性能が良くなると雑音も拾うし、発音が変だとかチェックが入って校正のやりなおし。聴く人は良いかもしれないけどやる方は大変。でも校正係のあら捜しは嫌だから読む方を選んできたのだと笑う。
 ただ自分が読みたいものではなく、点字図書館(岩手県立視聴覚障害者情報センター)から来るものを何でも引き受けて次々とこなす。時には利用者の個人的なものも預けられることもあるが、好き、嫌いは言われない。好きな本があっても、中身を覚えると、次の邪魔になるからなるべく機械的に読むのだと。その冊数三百数十にものぼり、全ての朗読は国立国会図書館に収まっており、孝子さんには緑綬褒章が国から贈られました。
 本は未知への旅でもあるが、孝子さんもまた旅人生。父は東磐井(現一関市)の出身教師で獣医、母は盛岡。生まれてすぐ旭川へ。豊橋、満州、盛岡、九州を転々。盛岡二高3年の時、のちのIBC名物プロデューサー・故・北口惇夫さんと放送部で知り合い孝子さん宅へ下宿。彼はシャンソンが好きだったことから孝子さんも音楽にはまりやがてジャズの穐吉敏子のコンサート(1963年)を県公会堂で聴いた。誘ってくれたのは穐吉さんと大連の女学校時代の同級生。穐吉さんと同じ先生からピアノも習ったという片岡美保子さん。彼女は当時盛岡の自宅でピアノを教えていたし、合唱団北声会の団員同志で仲が良かったことから穐吉への旅にと発展!今に至る。「朗読は主人が教師で単身赴任だから出来たのよ!」と笑った。
11:38:00 - johnny -

2023-04-15

幸遊記NO.523 「大塚富夫・後藤のりこ・ヒア・カムズ・ザ・サン」2021.1.25.盛岡タイムス

 昔でいう成人の日の1月15日、母と息子(高校生)の会話劇的催し物「朗読鑑賞会」(IBC・岩手放送アナウンサー・大塚富夫さんと後藤のりこさん・朗読)重松清著「その日のまえに」より「ヒア・カムズ・ザ・サン」を聴きに出かけて来た。場所は雫石町中央公民館・野菊ホール。このコロナ禍で、ほぼ1年振りの使用だということから、3日も前からホールの暖房を入れたとの事でしたが結構寒くて、僕は手袋までして聴いた。
 連れて行ってくれたのはKさん。15年程前からIBCアナウンス学院に通い、朗読教室を卒業して、現在はそのクラブ通い。話によればアナウンス学院自体、コロナ禍により今期で終了という。それはそうと、物語の中の母役は60代の後藤さん。高校生の息子役と朗読が70代の大塚さん。それが何と、期待を裏切る?違和感のなさ。まったくもっての驚きもの。さすがでした!
 内容は、ストリート・ミュージシャンのうたを聴いて家に帰り、息子にその感激した話をするところからの物語。そのストリートライブを10日も連続して聴き、遂には息子迄連れて行き、毎回リクエストしていたビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」をその彼、カオルが遂に歌ってくれたのを二人で聴いたストーリー。その母はガンの告知を受けていた。
 二人の朗読を聴きながら、浮かんできたのは「ヒア・カムズ・ザ・サン」ビートルズの歌声。一番有名な横断歩道のLPジャケット「アビーロード」の中B面1曲目の挿入曲。ヒア・カムズでの連想は、1992年岩手教育会館での穐吉敏子ジャズオーケストラの「ヒア・カムズ・ジョニー」の初演。更にストリート・ミュージシャンで想い出したのは、2004年、盛岡駅地下通路で歌っていた若者。声をかけ店で2~3度歌ってもらった木村誠君のこと。彼は今どうしているかとネットを見れば「信じる者は救われる。聞いた言葉でここまできた」と今も歌旅。「どんな今でも、いつかあの日と思い出にかわっていく。今をだいじに生きてゆこう。未来は自分で築くものその手で明日を切り拓け」と、どこかの高校で唄っている映像を見た。熱い心、湧き上がる魂。あふれ出す想い、旅は奇跡の連続だと、今も変わらぬ40才である。日は又昇る!
11:36:00 - johnny -

2023-04-14

幸遊記NO.522 「西山滉一の三上寛への道」2021.1.18.盛岡タイムス

 この2,3年、古いレコードが入ったビニール袋を提げ、毎月僕の店に現れる若者がいる。来店前には必ず電話で開いているかどうか確かめるのは、無駄足をふみたくないのだろう。なんせ彼の住んでいる街は秋田県鹿角市。盛岡まではかなりの距離である。いつぞやは一緒に住んでいる父を連れてきたこともあるし、父にプレゼントするレコードを買ってきたと言って僕にもそれを聴かせてくれたことがあった。
 彼の名は西山滉一、現・25歳。若者に似合わず、僕等世代の歌手やグループ、ロック、ブルース、ジャズ等、巾広いジャンルに耳を傾ける。そして今、特にもはまっているのは三上寛である。先日は彼のニューアルバム「空恐ろしいBy三上寛・アピア1979」CDを持参して僕に聴かせてくれた。いわゆる発掘音源盤である。79年と言えば、三上さんが、陸前高田市民会館大ホールでドラムの故・古澤良治郎さんと一緒にやったコンサートのライブアルバム「職業」(ジョニーズ・ディスク)と同じ年!と、さっそく聴いてみれば、大興奮のるつぼと化した職業とは違った意味で、感動モノの傑作ソロ・ライブ盤。僕はそのCD聴きながら、三上寛さんに電話入れると、彼も「20代の若者が俺の歌を聴いてるのか」とそれこそ寛動?していました。
 電話を切って席に戻ると女房が西山君に話をしていた「三上寛さんの歌の底に流れるものに共感出来るのは、いっぱい哀しい思いをし、悩み考えて来た人にしかわからないごほうびだと思う。私も最初は理解できなかった、けどライブ聴いて感じれた」と涙ぐむ。
 西山君は幼い頃両親が離婚。母と暮らしながら小学校へ入ると集団でいじめられ不登校に。児童養護施設から別の小学校に通い、その3年生(8~9才時)グリコのおまけについていた、ちっちゃな1曲入りCD「長い髪の少女」「あまいろの髪の乙女」「ブルーシャトー」「想い出の渚」など、それこそ僕等の青春時代に流行ったGSの音楽にはまってしまったのだという。今ではジャズにも興味があり、おそるおそる入ってみたジョニー。「自分が聴いている音楽と共通した話が出来る人にやっと出会えた」と僕に言い「昔の音楽の方がいまのよりおもしろい」とも。珍しい若者である。三上の他は「ザ・フー」「ジョンメイオール」が好きだとも。彼の職場はホテル。その清掃係である。えらいなあ!
11:34:00 - johnny -

2023-04-13

幸遊記NO.521 「鈴木典夫の極上アワビカレー」2021.1.11.盛岡タイムス

 「そりゃあもう、たんまげるぐりゃあ、うんみゃあカレーだぞ」と、手作りにとことんこだわり続けて来た大船渡市のカレー専門店「Kojika」の鈴木典夫さんから早朝の電話あって、モーニングしよう!と車で現れ、一緒にコメダへ。モーニングセット飲食しながら、話の合い間菜園通りのモスバーガーに入って以来かと盛岡に来た頃思い浮かべればすでに20年。彼も久しぶりとあってあの震災以降の10年を語り出し、気が付けば午後の2時。それでも話はまだ途中だった。
 2011・3・11震災時、彼の大船渡店は流出。同市盛町にあった住居兼本店も水没と大変だったのだが、全国からの支援物資を市内各所の避難所に届け回り、声を聞き、ボランティア活動に来市する人たちの面倒見、行動、活動の采配をし、被災し家や店を失った知人経営者たちが望む復興、再建の為、自ら県や国との折衝役を買って出て?地域のため、ひとのため、自分のため?に寝食忘れる程考え、血眼になって動き、相談し、個人的立場から、大船渡市に10億近い支援金を県や国から自分がパイプ役となってもたらした人が、40数年来の友、「こじか」さんだった。
 かれの父が負けて作った借金の山を、息子の彼が勝って全てを返すと、パタリとゲームをやめ母のやっていた食堂を建て直し、小鹿からKOJIKAへ店ロゴを新しくレストラン化。一時は僕を見習い?ジャズ喫茶らしくもしたが、こんなんじゃとても駄目と、築数年の店を壊して三階建てに建て直し、心機一転カレーハウスに変店。カレー屋の定番、ポーク、ビーフ、ハヤシにドッキングさせる100種程に及んだアイデアメニューで、日に数百食を売り上げる程大繁況。うわさを聞き付けた南北の友知人たちのリクエストに応え送ってみれば皆リピーターになった。
 そんなことから宅配を始めたのが1997年。大船渡産の大玉ネギを飴色になるまでいためて甘みとコクを引き出したオニオンチャソネを元にホタテやカキ、そして全国一の天然もの蝦夷鮑(えぞあわび)を丸ごと使ったアワビカレー(1食分ルー3000円)など、独創性に富んだカレーは今や飛ぶように売れ、ブランド肉の提供を受ける製造元としての依頼まで来る忙しさで年に4万食を一人で作る華麗なる凄さ。再建した息子さんの大船渡店も順調です。
11:33:00 - johnny -

2023-04-12

幸遊記NO.520 「新邦楽舞踊華扇流徳志枝」2021.1.5.盛岡タイムス

 盆と正月いっぺんに来たようなすごい舞台を観た。暮れも押し迫った12月27日午前11時から、岩手県民会館で行われた「新邦楽舞踊華扇流披露・記念公演・徳志枝会チャリティ舞踊会」後援・盛岡市他。昨今のコロナ禍がなければ4月に行われる予定だった催しもの。それでも同年中に開催出来たことは奇跡。ひとえに会主・華扇徳志枝さんの執念ともいえるもののようでした。
 昔の人々から脈々と受け継がれてきた民謡踊りで昭和51年「盛岡民踊友の会」を創立。10年後の初公演を県民会館大ホールで行って以来、日比親善舞踊公演をマニラで行うなど活動の場を拡げ、平成14年(2002)に日本の舞踊家登竜門春の華扇会で家元との初共演認可で、国立劇場大ホール舞台をつとめ相承師範の称号を受けて、専念指導。この度の新たな「新邦楽舞踊華扇流家元」初披露の旗揚げ公演は、豪華絢爛たる舞台映えする衣装とその美しい姿に見とれた程の素晴らしいステージでした。
 オープニングは盛岡音頭・菊池マセさんの唄で、踊る師範や名取り、新講師たち。この歌の元は、北畠喜代志作詞、佐々紅華作編曲、藤本二三吉の唄で三味線、ピアノ、フルート、バイオリン、アコーディオン等で吹き込んだSPレコードが最初の音源。マセさんに続く地元の歌手・高八卦ちえこ、井上るみ子、佐野よりこ、三浦わたる、その他の皆さんによる民謡や歌謡曲。そして特別出演の千昌夫さん等々10人以上のゲストが華を添えた舞台は、長時間でもあきないワクワク感にあふれる日本一たちの共演。トリ曲踊りは「藤娘」若紫に十返りの花をあらはす松の藤浪、、、で始まる勝井源八作詞、四世杵屋六三郎作曲の“潮来”入り長唄。芳村五郎治、吉村千十郎。芳村孝次郎、福田克也等の唄で知られた。時間も“空も霞の夕照に名残りおしみてかえる雁金(かりがね)”にぴったしの夕刻。
 おしまいは出演者総出での客席と舞台の両方で、今年開催出来なかった東京オリンピックの‘64年版「東京五輪音頭」を歌手全員が唄いまわして、皆が踊った。そして大量の“もちまき”「千穐(秋)万才楽」で幕。それにしても80才にして家元立ち上げの徳志枝さんの若々しいことと、門下の各会主と、それこそ「余波余波名残大津絵」の藤花のようなその所作の美しさに心うばわれた日となった。阿部芳子様ありがとうございました!
11:31:00 - johnny -

2023-04-11

幸遊記NO.519 「馬場葉子の辿り着きたい想い」2020.12.28.盛岡タイムス

 コロナ渦中、自宅で音楽を聴く時間が増えたという声を今年はよく聞いた。それに応えるかのように、祈にも似た美しい音楽を聴き返すようになり、それに応じる演奏や歌も新たにリリースされた年でもあった。そこへ、この12月(2020)、自身3枚目となるCD「I will Wait For You」(あなたが待っているものに一日も早く辿り着けますように)と願いが込められたタイトル曲でリリースした盛岡在住のジャズ・ピアニスト・馬場葉子さん。
 「こんな時代だからこそ伝えたい音があります。せつなさを抱くすべての恋人たちへ。辿り着きたい想いを込めました。言の葉に出来ない思いを音の葉にのせて語る様々な愛のカタチ」と、新しい生活様式に合わせた音楽の楽しみ方を提案する彼女のジャズプラン。馬場葉子(p)、丹羽肇(b)、原田俊太郎(ds)によるタイトル曲のシェルプールの雨傘、黒いオルフェ、星に願いを、などなど超有名スタンダード曲を彼女なりの想いで演奏され、一曲だが彼女の旧曲「TEARS」(涙たち)を再録しており、以前の演奏とは違う、心を抱きしめる様な深さが感じられるのは、共演者たちからの良い影響もあったのだろう。
 ベースの丹羽肇さん(53・長崎出身、福岡在住)は1992年NHKのコンテストで、ベストプレイヤー賞を受賞した人で、2010年「ザ・ソング・オブ・ストリングス」が初リーダー作。ドラムの原田俊太郎さん(65・本名・俊一)はジミー原田(1911~1995・日本ジャズ創成期のドラマー)の孫で父は原田イサム(89・最長老ジャズドラマー)という、日本3大(代)ドラマー!の一人。リーダーの馬場葉子さんは久慈市生まれ八戸育ちで「八戸前沖鯖大使」でもある。岩手大学教育学部卒で音楽と声楽の両方を学んだがジャズは独学。「叩き上げの人生!根性!挑戦!思い切って恥をかきにゆく!」が彼女のモットー!。だが今年はコロナで不要不急の不要とされたライブに心痛めて演奏家を辞めようかとも思ったらしい。しかし、ファンに不安を吹き飛ばされて心機一転。デリバリー演奏ともいえるCD制作へと転換。盛岡スペイン倶楽部でのライブ形式、一発録り。ちなみに録音に使用されたウッドベースは僕が貸したものですが、元の持ち主は世紀のベーシスト、故・チャーリーミンガスの自伝本「負け犬の下で」を翻訳した故・稲葉紀雄さん“かたみ”の楽器でした。
11:30:00 - johnny -

2023-04-10

幸遊記NO.518 「葛飾北斎の富嶽三十六景46枚」2020.12.21.盛岡タイムス

 初秋(2020)盛岡・材木町の与市に行ってみたら紫波町「ねこの染物屋」の根子精郎さんが出店していたので声掛けしたら、「これ使って!」と頂いたのが、それこそ殺菌力がある!虫よりつかない!とされてきた本藍染めで作ったマスク。てのひらに菌の絵STOP・KURUNA・KORONAの字。彼の愛と藍で想い至ったのは藍一色で絵を描き続けた菊池如水さん(1922~2016)そして彼のルーツとなった?あの葛飾北斎(1760~1849)の藍が基本の富嶽三十六景。あの四捨五入的?描写の類似点だった。
全国民が驚きでもって注目していた、岩手のコロナ感染者ゼロも、あのGOTOキャンペーンのおかげであっという間の大感染。経済を回すために政府が考えた苦肉の策?しかしあれは政府(セーフ)?ではないアウト!ってことは子供でもわかっていた。それこそ昔の子供なら誰もがみんな知っていた月光仮面のおじさんがつけていたあのサングラス色?の北斎版画。
数年前終活だと、菊地章子さんに頂いていたのを今こそ活用の時!と、富嶽三十六景複製版画(和紙、顔料、手摺)による作品をこの12月、開運橋のジョニーにコロナ禍の終息を願って展示した。この複製版画の発行年(昭和39年・1964・12月)は東京オリンピックが開催された年。今年令和2年はコロナで2度目の五輪が中止となった。北斎がこの富嶽(ふがく・富士山)を描き始めたのは文政六年(1823)63才の時。その後10枚をプラス。‘34年(天保五年)からその百景に再挑戦し90才で亡くなり不完結。だが描いた作品は3万枚を超えるすごさ。
葛飾郡本所(現・墨田区生まれ)19才で勝川春章(しゅんしょう・1726~1792)に師事、春朗と号し絵師に。以来30を超す画号と90を超す引っ越し「葛飾北斎」の号は45才の文化2年(1805)から。ちなみに富嶽三十六景集には「前北斎為一改・画狂老人卍筆」とある。これをジョニーに提供してくれた章子さんは元教師。それこそ若い時に貰った僻地手当でワンセット(2枚)ずつ毎月買ったものだったそうで、立派なアルミコーティングカバー入りの1~23集・46枚。「自然と人間の生活における壮絶ともいえる戦いのドラマ」。それはまるで現代のコロナというデモーニッシュ的な事さえも鳥瞰する行動、力学、空間、構成、の独創性。まさに世界十大芸術家!2013年、富士山は絵の如く三保の松原と一緒に世界文化遺産登録と相成った。
11:28:00 - johnny -

2023-04-09

幸遊記NO.517 「松本哲也の僕が歌う理由」2020.12.15.盛岡タイムス

 てつやくんが来たよ!と女房が騒ぐ、テツヤくんて?と顔見れば、なんと哲也君(44)。ぼくの頭の中の翼が開き17、18年前に戻る。真っ先に浮かんだのは、故・堀江通代さんの優しさに満ち溢れた、あの笑顔だった。「教え子がメジャーデビューしたのよ!」と、とても嬉しそうに語ったのは02年。その翌年の6月、彼女は突然その教え子哲也君を連れて開運橋のジョニーへやって来たので、即、今夜ライブ決定!本当は亡くなったお母さんの納骨のために岩手に帰って、先生に電話したのだと。彼にとっては母の様に慕っていた学園時代の音楽の先生が通代さんだった。
 12月7日(2020)出会った頃の数枚のCDの中から、彼が選んだ「セルフポートレイト」を一緒に聴いた。そういえばあの最初の突然ライブは、このアルバムの中にある「コンクリート・リバー」から始まった。それは中卒で上京して、最初に作ったスタートソング。当時流行のストリートを経て2000年春のTBSストリートミュージシャンコンテストで優勝。’02年5月ワーナーミュージックから「翼」でCDデビュー。テレビ、ラジオ、FM、ライブ、慰問、恩返し。ネパールコンサート。はたまた自分の生い立ちからの告白本「空白」(幻冬舎刊‘04)は発売と同時に数万部が売れた凄さ。
 その本を基につくられた彼の映画「しあわせカモン(‘09)」(監督、脚本・中村大輔)が上映され岩手県内では大反響だったが、全国公開見送りに。しかし、良作再発掘の「お蔵出し映画祭2011」でグランプリを受賞、‘03年全国公開!その9月にはDVDとブルーレイでも発売され話題になった。その主題歌「ユキヤナギ」は奥州市のアパートで母が大切に育てていた鉢植えの花の名前。哲也君が当時住んでいた東京へ、その鉢を持ち帰ったら、母の四十九日頃、小さな真っ白い花が咲いて「季節はずれの雪のようにこの街の春を彩った、、、、孤独が僕を飲み込んでしまうその度に、あなたが育てたこの花が闇を照らすんだ、、、、これから始まる未来の中に、あなたの想いも刻む、、、、ありがとう白いユキヤナギ」。彼にギターを教えた先生と連れだって僕の店に来たこともある堀江さんは亡くなる直前に、哲也君にピアノの基礎を教えた。彼の今後の目標は米テネシー州ナッシュビルと日本武道館コンサートである。頑張れ!
11:26:00 - johnny -

2023-04-08

幸遊記NO.516 「一條荘子の“はかない愛だとしても”」2020.12.7.盛岡タイムス

 女房と久しぶりに盛岡本町通りの喫茶ママで珈琲を飲んでいると、美しい歌声が流れて来た。自然な発声の、いい歌い方なので、誰?ときいたら「一條さん」というので、買いたいです!と彼女に連絡すると、間もなく開運橋のジョニーへ届けに来てくれました。ありがとう。改めて聴きなおしてみれば、ものすごく自然に、気負いなく歌っていて、心休まるのです。
 「バラ色の人生」「はかない愛だとしても」「ふるさとの山」「枯葉」「ジョリ・モーム」「雪が降る」「幽霊」の7曲。僕等世代のLPレコードで言えば片面分の曲数であり、そのせいか、又繰り返して聴きたくなるほど気持ちがいいのです。そのこと彼女に伝えたら「師(かいやま由紀さん)から“うたは心でうたうのよ”の言葉を胸に、心地良く聴いて貰いたい!と心掛けて歌った」という。録音は北上さくらホールスタジオで高校時代の同級生佐藤辰也さんが担当。キーボードとギターは「にっか亭」のピアニスト・デイリー・山崎さん。フルートは伊藤ともんさん。それぞれが、とてもいい伴奏をしていることも特筆に価する。そういえば彼女・一條さんが僕の店で歌ったのはもう5年以上もまえのことだが、すでに不思議な魅力と個性を持っていた!
 「アランドロンと同じ11月8日生まれなの」というこの一條荘子さんは明治の終わり大正元年から続く旅館・大正館のお嬢さん。盛岡桜城小学校、下ノ橋中学校、白百合学園高校、尚絅女学院短大(仙台)では家政科食物栄養を専攻。卒後、市役所や電力会社でバイトののち、米・カリフォルニア州立大へ語学留学。その夏期休暇を利用してはイタリアの夏季セミナーを受けペルージャの外国人大学へも、と勉強家。歌は米留学中にゴスペルの魂にふれ、涙があふれでる程、はまりにはまっての帰国。
 2000年からは歌を習い始め10年後には、浜松、東京、JCC、日本、など様々なシャンソンコンクールに挑戦!エレガンス、セラヴィ、歌唱、優秀、2位、1位、数々の賞を手に。日本語はもちろんフランス語でも歌える歌手を目指す日々。歌い方では「いやらしくないこと」「情景が浮かぶように」そして「正しい歌詞」でを心掛け、地元八幡町の90才男性からは盛岡弁まで習っているという、しょうこさんでした。
11:25:00 - johnny -

2023-04-07

幸遊記NO.515 「千昌夫・新沼謙治・ふたりのコンサート」2020.11.30.盛岡タイムス

 僕が取れずにいた新聞を半月分ずつ店まで届けてくれること7年のRさんから、11月4日(2020)岩手県民会館大ホールで行われた「千昌夫・新沼謙治・ふたりのコンサート」のチケットを頂き、見聞しに行って来た。会場はコロナウィルス感染予防策のため定員の50%入場。半券には住所氏名の記入と、ものものしいが、座ってしまえば前後左右に人がいない分ゆったりしていてなかなかいい気持。
 千さん、謙治さんは昔も今も岩手を、いや日本を代表する大歌手。人柄もよく二人とも気仙出身とあって、異ジャンルとはいえ「音楽というしあわせな世界」に生き生かされてきた僕も、彼等に少なくとも、興味を持ち、それぞれ20枚ずつほどのシングル盤や数枚のLPレコードを聴いてきただけの只のファン?にすぎないのですが、千さんとは同い年同い月生まれの僕が平泉中学から高田高校定時制に入った時、彼は高田から水沢一高へとすれ違い的に入れ替わった。彼は修学旅行中に遠藤実氏の門をたたき歌手に。1984年僕が新宿コマ劇場に彼を突然訪ねた時、特等席に座らせてくれた想い出がよみがえる。
 今年・デビュー55周年。謙治さんは45周年。二人合わせて100周年というめでたいステージで、地元歌手・菊池マセさんをはじめとする歌や踊りの前座あり、なかなか楽しいステージでしたが、残念だったのは千さん謙治さんまで全てがカラオケでの歌唱だったこと。ですが、千さんには一人のバイオリニストが付いたのが救い。それにしても二人歌のうまさにはあらためて感心しました。さすがです。
 この二人、震災のあった翌年の2012年5月5日「がんばろう陸前高田!大船渡!夢のジョイントコンサート」と称し気仙両市で、移動式ステージカーで熱唱「私達、センちゃんケンちゃんがここにくれば東京にはロクな歌手は残っていない!」と、それこそ千人の前で語り歌い会場を盛り上げ笑わせた場面をTVで見たのですが、ケンさんも震災の年に妻・博江さんを病気で亡くしており、北へ走ろう、お前と二人・・・。と妻の姿を思い浮かべる様に「ヘッドライト」をうたい涙を誘った。県民会館での「ふるさとは今もかわらず」「さかり川」に、じーんときました。千さんは12月27日また県民会館に邦楽舞踊会のゲストで来るという。僕も又行きます。
11:23:00 - johnny -

2023-04-06

幸遊記NO.514 「チャールス・ミンガスの教え」2020.11.23.盛岡タイムス

 隔月刊「ジャズ批評」の編集発行人・松坂ゆう子さんから電話あり、穐吉敏子さんと連絡を取りたいとの事。同誌次号(12月24日2020発売219号)でジャズベーシストの「チャールス・ミンガス」の特集を組むという。そこで1979年の32号で彼女の母、故・松坂比呂子さんが穐吉さんにミンガスについてインタビューした記事読んで、穐吉さんのお話がとても貴重なものだということに気づき、当時のまま再録させて頂きたいとの事。その願い文が僕のところにFAXで届いたので、それをNYの穐吉さんへ転送FAXしたら、すぐに快諾の返事と共に「ミンガス(1922~79)も喜んでくれると思う」とジャズ批評社に連絡あったと、松坂さんから電話。ホッとしながら、僕もミンガスのレコード聴き返しては、想いめぐらせてみた。彼の最高傑作である「直立猿人」(‘56年1月録音)。又’78年度のジャズディスク大賞金賞に輝いた「クンビア&ジャズ・フュージョン」は’77年3月NY録音。実はその年末彼は3度目となる来日公演の予定だったが足と体の不調でキャンセル。翌‘78年1月遺作となった「ミー・マイセルフ・アン・アイ」録音時は車椅子で演奏出来ず口頭での指示による録音。ちなみにベースはジョージ・ムラーツが担当。その6月、カーター大統領夫妻が主催したホワイトハウス・ジャズフェスティバルに車椅子で現れたミンガスをジョージ・ウェインがステージから激励し、大統領がミンガスに近づいて言葉を掛けたら、ミンガスは感極まって男泣きしたという。
 穐吉敏子さんが‘56年に渡米して以来今日まで、サイドメンとして在籍したことがあるのは唯一、ミンガスのグループだけで「ミンガス・タウンホール・コンサート」(’62年)にジャッキー・バイヤードとともに2台のピアノで参加し、レコードにもなっているが、彼女は「自分の考え方がミンガスから非常に影響を受けたと思います」と語っており、彼の政治への関心、黒人への偏見に対する反撥などは、彼女の作品にも反映され、のちに彼女が言う「ガラスの天井」という人種差別の壁を破った穐吉を、ミンガスは草葉の陰でどんなに喜んだことだろう。‘67年初開催した彼女のコンサートに彼が聴きに来て「君は天才だ。だけど客の前であまり一度にすべてをさらけださないほうがいい」とアドヴァイス。そのミンガス亡き後彼女はファーウェル(トウ・ミンガス)を作曲、それをオーケストラで捧げたのでした。
11:21:00 - johnny -

2023-04-05

幸遊記NO.513 「蔵から出てきた秋の吉日!」2020.11.16.盛岡タイムス

 11月に入って喪中ハガキ届く。第一着は秋田県大館市の田中京子さんから「兄・山田敬蔵が4月に92才で永眠いたしました、、、、」。山田敬蔵さんと言えば、僕6才の誕生日(4/20)に、アメリカ・ボストンマラソンで世界新記録を樹立(ジェット機関車の名が冠された大館市出身)した人。
 同じく11月、分厚い封書が届く。送り主は秋田市の石垣隆孝さん(78)、なんと本3冊。「夢をあきらめない」(1953年ボストンマラソン優勝・山田敬蔵物語、著者・石垣隆孝・イズミヤ出版“横手市”)。凄いタイミング!と、驚いた僕。
 11月8日付(2020)岩手日報、第一面トップでの「来年度開業予定の新盛岡バスセンター<秋吉敏子さんミュージアム開設へ>ジャズ演奏家・ピアノやゆかりの品展示」と、横書き三列の見出し。朝からおめでとう!の電話やメール、フェイスブックでシェアした人などいて嬉しい!。
 それはそうと、山田敬蔵さんがボストンで優勝した1953年といえば、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんを、アメリカのレコード会社が録音した年であり、その「トシコのブルース」など8曲が、シングルのEPレコード2枚と10インチ(25㎝)LP盤として翌‘54年全米発売!日米で話題になった
 石橋隆孝さんの著書「山田敬蔵物語」(P54)には「響きあう二つの魂」と題された「山田敬蔵ミーツ穐吉敏子、60周年への思い」(2018)。又しても僕がちょうど10才の誕生日、山田選手は2度目のボストンマラソン大会へ参加、結果は6位だったが、山田選手にハイネ・ボストン市長と穐吉敏子さんが花の冠を二人で渡すシーンの写真を説明する“山田・穐吉・出あいのいきさつ”などが記され、「日々快走・山田敬蔵2009年4月7日。穐吉敏子2019年4月18日」と、二人から色紙に書いてもらった字までも!特にも目を、そして心を惹かれたのは「山田 の しろ」「ないた白うさぎ」という山田敬蔵さんのマラソンをテーマにした二つの石垣隆孝・創作童話。(本の大好きな孫にも大きな声で読んでもらいたいなあと思いながら読んだ)。
 そこへ又11月14日(土)午前10時25分からの岩手めいいこいテレビ「8っぴー・サタデー」のジャズ喫茶特集に開運橋のジョニーも映し出され、秋吉敏子ミュージアムのはなしになった。ああ!いい!11月!これぞ秋の吉日!2020!
11:20:00 - johnny -

2023-04-04

幸遊記NO.512 「はじめてのフェイスブック」2020.11.10.盛岡タイムス

 女房の小春が機種変更し使わず何年も放っているタブレットを拾い上げ、色々いじくりまわしていたら、いつの間にか「ジョニー照井顕」という自分のフェイスブックとやらが出来上がった。それならばとシワだらけのTシャツ姿を女房に撮ってもらい、自分の顔としてアップ(2020年8月18日)。以来1日平均1投稿、写真付きを心掛けて実行中。なんせパソコンはおろか、ワープロにも触らず、今だに鉛筆と消しゴムで原稿書きをしている僕。携帯は20年前から、必要に駆られやっと持った人だから今もって柄に似合う?ガラケイタイ!ショートメールがやっとの僕ですから、もう何時間もの悪戦苦闘!間違いだらけの毎日です。
 何の役に立つのやら店閑をいいことにニラメッコしているから、女房のカミナリ、落ちてくる毎日。只いいことは何十年もご無沙汰での連絡の取りようのなかった人とつながってその人の空白期や今を知ることが出来たりとてもいい面がある反面、見知らぬ人や外国人達からの良否の判断つきかねる友達リクエストもたくさん届くのと、自分の投稿に対するコメントへの返信はけっこう大変なので、僕の得意技である?ダジャレ返信のみにしたら、案外いけますが「その意味わからない!」と帰ってくる始末。あ~ぁあ。
 そんな日々の最中昔からの友から電話あり「以前俺が使っていたドコモアンドロイド「mo-01j」というスマホ?をつかわないか?というので貰いに行って来た。中のデーターは初期化したという。新品?女房に見せたら2016年製だからまだ新しいよ!という!ありがとう。少し練習してみて使えるようになったらガラの番号をそのまま進化させてみます。
 それにしても周りを見渡すまでもなく、世はまさにデジタル社会。自宅でも外でも交通機関の車中でも、だれもかれもがスマホに夢中!Uチューブなるもの開いてスタート印押せば大好きな人たちの演奏がただで視聴出来、その歴史的映像までも、あっという間に出て来る。その音は、僕の超旧式ステレオでも再生できるが、注意深く音聴けば、アナログには敵わない!それはそうと映画「ジャズ喫茶ベイシー」が老トルはモチロン、若者の間で「新しい」と評判でロングセラー続け、今、東京等のジャズ喫茶は若者が注目しているという。やっぱ何の業界でも必要なのはスターですね。
11:17:00 - johnny -

2023-04-03

幸遊記NO.511 「春画を贈ってくれた・元教師」2020.11.3.盛岡タイムス

 2011年10月17日付本紙本欄№41「守口忠成(ただしげ)生き方の教え」を読み返してみた。というのも先日、電話の後に彼から小包が2個届いたからだ。開けてビックリ「Tailor.Otomo(Sendai)」仕立てのWのスーツ。手紙には「医師の伯父に頂いたものです。体形に合えばお使い下され」と。さらに「袋閉じ付録・春画」とあり「心もだえ、身もだえした、青春時代の絵画など」と春と画に丸印。高校の教諭だった彼26才時の水彩の、まるで油絵のような青春自画像。それに木彫愛染明王壁掛け。更に僕がジョニーを開業した1975年・彼30才時の仁王像水墨画など20点。他、今年(2020)10月に写真を見て描いたという僕がモデル?「“ジョニー・ボサツ”こと南無和来(笑)菩薩(平和が来ますように)」の水彩画。「稚拙な恥部をさらけ出し、毛し分け無いです」(未成年者厳禁)の添えメモがあったので、その封切前の包みを女房に見せたら「なに!それ!店で開けないでよ!」とあわて立ち去った!アハハッ。
 その“ジョニー・ボサツ”のお話。あれは1982年、高さ約20㎝、台座幅約6.5㎝の木彫りに彩色された僕35才時の髭面立拝の仏像?を彼が製作して僕の店に寄進してくれたのです。像の後ろは絶壁になっており、まさにそのような立ち位置だった(今もですが)ので、その像をピアノの横に安置して、お賽銭箱を置いたら、お客様たちがチャリン、カサッ!とお金を入れ拝んで帰るのでした。それこそ、お坊様達までも。
 しかし、あの2011・3・11の大津波で、陸前高田に置いてきた僕の過去40年分の90%以上(少しは盛岡に持って来ていた)は、仏像?もろとも海に消え去ったのですが、仏像?は又、このように絵となって舞い戻って来てくれました!守口さんありがとう、感謝至極です。なので贈っていただきました守口さん若き日の作品を中心に、これまで頂いてきた数百通もの中から絵手紙などピックアップした守口忠成展を文化の日(われらが穐吉敏子さんの51回目の結婚記念日)にあわせ、一ヶ月間、開運橋のジョニーに展示することにいたしました。と紙上報告です。その穐吉さん(90)は2022年4月、ニューヨークより盛岡に直行してコンサートを開いてくれることになりました!タアちゃんその時には秋ちゃんの春画描いてネ!
11:16:00 - johnny -

2023-04-02

幸遊記NO.510 「太田代川の上流階級!?」2020.10.26.盛岡タイムス

 幸遊記(486)の太田代伸夫さんに連れられ、今年の春から今月まで何十回山へ行ったことだろう。行く度に頭に浮かんでくるのは澤口良司さん(幸遊記142)。春の山菜、夏の岩魚、秋のきのこ、数えてみれば15年間も採って来て僕等に食べさせてくれた。彼、(2017・70才没。裕天良音禅信士)今月10月7日は彼の命日。「澤口さんのお墓に行って手を合わせてきました」と、あの日の夜、開運橋のジョニーへ報告に来てくれたのは上関晃さん(RSMB・良司・澤口・メモリー・バンドのギタリスト)。
 彼は、僕の店が地下から地上4階へ移店の‘13年、澤口さんと一緒に店の引っ越しを手伝ってくれて、それ以来、澤口さんの後継者的存在。澤ちゃんを見習い、盛岡大通商店街での歩行者天国「ビッグ・ストリート・ジャズ・ライブ・フェス」への機材運搬等々を率先してやり続け、時折、各地の産物を持参しては一緒に酒を飲み交わしシャレまでかわす仲に!。それこそ彼が良!とするギタリストはグラント・グリーン(1935~‘79・米)。そうか!山菜(グリーン)採取地(グランド)か!と納得の僕。
 澤口さんの戒名「裕天良音禅信士」の地所ならん、辞書引いて、「心豊か、広い自然な力量。真理を悟り、万物の響、善導して、耳に届ける境地に至れり。“音に聞こえし名人”」と、僕訳。確かに一つ聞き知れば即座に十倍ふくらませた結論言う人でもあったから、共演者にはもってこいのドラマーだったはず。
 その十倍の話を澤ちゃん流にいえば、「沢は川に合流する上流階級!」。北上川水系(北上川支流)には太田代川あり、太田代地名(現・奥州市)もある。九州の豪族、菊池氏の流れを汲む太田代の氏。僕の親友、太田代伸夫さんは宮守村(現・遠野市)の出身だが彼の生家墓地の大きな石碑には、何かそのようないわれも書いてあった様な気が?。それはそうと、その太田代川上流のほとりには、北東北会員のための、広大な「創価学会みちのく池田記念墓地公園」。そして、盛岡市営運動公園に隣接する同学会岩手文化会館。そのどちらもの土地探しと仲立を(無償)やったのも彼・太田代伸夫さん。その彼は今、広大な岩手の山々の懐に僕をそれこそ、無償で連れて歩いてくれる、春夏秋山のドライブです。ああ、山に幸あり!心の幸あり!
11:14:00 - johnny -

2023-04-01

幸遊記NO.509 「徳丸泰蔵の別府国際ジャズフェス」2020.10.19.盛岡タイムス

 もの凄く厳しかった今年の残暑日「盛岡冷麺が食べたいので送ってほしい」と電話で別府の徳丸さんから頼まれていたのをすっかり忘れ、常温?に戻った最近想い出し、ようやく送った「ゴメンナサイ、本当に、冷たい麺になりました!」。彼はジャズの大先輩で、昔は「ファンク」「ザドー」「タイム・ストリーム」というジャズ喫茶のオーナーで九州三羽烏の1人。鹿児島の「パノニカ」(中山信一郎・2018年没)福岡の「コンボ」(有田平八郎・1999年没)そして彼、大分の徳丸泰蔵さんである。この三人、日本のジャズシーン、とりわけ九州では絶対に欠かせない大きな存在の人物であった。
 特にも彼は僕と同じく、ことのほか穐吉敏子さんが大好き。2018年11月、NYのカーネギーホールで開催された彼女のコンサートにも僕と一緒した。穐吉さんから僕は「ヒア・カムズ・ジョニー」という曲を。彼は「タイム・ストリーム」という曲をそれぞれ贈られていますが、穐吉さんは旧満州の生まれで、彼女の父は大分出身、そんなことから終戦後日本に引き揚げて、ピアニストとしてスタートしたのが別府。片や岩手のピアニストと言えば、僕がジャズにのめり込むきっかけとなった本田竹彦(のちの竹広・2006没)。徳丸さんは本田さんがまだ東京以外でのライブをやっていなかった時に、いち早く九州に呼び最初の店「ファンク」(1967年から3年と3ケ月で閉店)に、なんと27回も来て貰ったというのだから驚き。そのファンクの閉店時には三日間も演奏して、おまけに「セカンド・カントリー」という曲を贈った(浄土・‘71年トリオレコード)。彼の家にある娘さんのピアノには穐吉サイン「好きなピアノをよく勉強すればいつかは世界一になれます」。
 それはともかく、1967年穐吉さんの前夫・チャーリーマリアーノと渡辺貞夫さんのアルト・バトルの開催、‘73年から城島高原での「キジマ・ジャズ・イン」で全国にその名を轟かせ、10回目には音楽デイレクターに穐吉敏子さん、プロデューサーにジョージウェイン、児山紀芳、両氏を起用し超一流日米ジャズマンを集結させて、県、市を挙げての「’82別府国際ジャズフェステイバル」を開催!3日間で延べ2万人の集客。その時、彼の役はアシスタントプロデューサー(黒子役)。カッコイイナア!いつぞやはその一部始終を記録したDVDをプレゼントして戴き、空前絶後の演奏に絶句した!嗚呼JAZZ!トクマル。
11:14:00 - johnny -
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.