盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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レポート

2023-03-31

幸遊記NO.508 「佐熊博の日本一・住田型農業」2020.10.13.盛岡タイムス

 完成したばかりの住田農林会館で、‘81年4月に録音した小栗均ピアノトリオ「みどりいろの渓流」レコード解説書に「アンダンテ・カンタービレ」という一文を書いてくれた当時の住田町長(‘81~’85)佐熊博さん。彼が一期のみで町長を辞した翌’86年6月、住田で「岩手鉱業」や「種山ヶ原共働」を経営していた稲葉紀雄さんに案内され、佐熊氏や当時の佐々木助役(副町長)、のちの町長で、きのこ博士の菅野剛氏等と一緒に僕もおまけで連れて行ってもらい、各地で大歓迎会まで開かれたアメリカ・オレゴン州への農業視察。
 むこうは見渡す限りの大規模農業。かたや切り立つ山々に囲まれた猫の額ほどの土地で、酪農、ブロイラー、イチゴ栽培等を率先!日本一の生産量と価格を勝ち得た複合集約「住田型農業」で全国から注目の的となった気仙郡住田町。それを確立させたのは他ならぬ佐熊博氏であった。彼はどこか僕の父に面影や性格が少し似ていたし、年齢が近かったこともあり、大好きだった。町長を一期でやめた理由を旅の途中で話してくれて「人口一万人の小さな町といえども、長たる者というのは、あらゆる面で凄いものだよ!だから、出来るだけ多くの人に経験してもらいたいよ!」。「どんなにすすめられても、行かなかったが、今度こそ、秋吉敏子さんのコンサートには行くからね」と約束してくれたのですが「日本に戻ってきたら、やはり行けなくなった」のハガキが届いたので「役所ならいざ知らず、民間!特にも僕等ジャズの世界では口約束は必ず守るのが当たり前です」と返信したら「あんたにはズッパリやられたよ」と、笑顔で来聴!
 佐熊博 (1910~‘87)岩手師範学校卆。1929~’49年小学校教師。‘45年(昭和20)県内の各学校へ教員組合の組織アピールを書き送り、翌年1月盛岡で県教員組合結成準備会を開いたのが今日の岩教組の始まり「私は教員をやり、社会運動をやり、拘置所に入り、土方をし、農業運動に入り、そのいずれについても“生きるに値する”との充実感の中で生きてきました」(私の歩いた道・佐熊博)。と「日本農業の矛盾の本質をきわめる」ことから再出発して、15年間にわたった農協組合長他、県農協連絡協議会・会長などを歴任して町長になった人。大東亜戦争時、子供たちを義勇軍や少年飛行兵として送り出したこと、自責の念にかられ、学校で子供たちに自ら膝をついて誤ったという。温厚篤実、清廉潔白なひとでした。
11:11:00 - johnny -

2023-03-30

幸遊記NO.507 「別冊・1億人の昭和史・日本のジャズ」2020.10.5.盛岡タイムス

 大好評上映中の「JAZZ KISSA.BASIE」に幾度となく映し出されていたジャズ評論家の野口久光さん(1909~1994)。僕は2,3度お会いしたきりでしたが、映画を観て懐かしくなり、彼が僕の信奉するジャズピアニスト・穐吉敏子さん(90)について書いた「人間ドキュメント/秋吉敏子」(別冊1億人の昭和史・日本のジャズ。1982年4月・毎日新聞社刊)を久しぶりに読み返しながら、穐吉さんについて書かれた文章数々あれど、そのストーリーと、年月日表記の正確さ、彼女に対する限りない敬意と、日本人として、いや歴史上誰れも成し得なかったことを成し遂げた、ただ一人の女性に対する感謝の意があらわされていた文章に、僕も今更ながら頭を下げ敬意と感謝の気持ちを表したい。
 手元にあるこの本、何年か前、目黒区民センター図書館が放出したもので、友人・H.Sさんからのプレゼント!。懐かしくページを開けば、現在、日本ジャズ界のレジェンドとして活躍している人々の若き日の顔々。「わがジャズ道」では現存日本最古のジャズ喫茶・横浜ちぐさ・故・吉田衛氏の「ジャズ喫茶五十年」。そしてジャズマンたちの医師でもあった岡崎の故・内田修氏の「ジャズをめぐる出会い」。さらには先の映画になった一関ベイシーの菅原昭二(正二)さんの「カウントベイシーの季節」。オマケ?で僕の「拝啓、日本のジャズを愛する皆々様へ」。と4人のエッセー(写真入り2頁ずつ)。先のお二方については今ではそれぞれの市に記念館、ミュージアムとして設置されています!
 それこそ野口氏には、僕等が1986年10月13日、陸前高田市民会館で開催した「ジャズライフ40周年・渡米30周年記念・秋吉敏子ジャズオーケストラ」公演を主催した時のパンフレットにも文章を寄せて頂いていたはず!と、それを開いたら、ありました「東洋の小国、日本の若い女性が、アメリカ、世界のジャズ界に君臨する最高のオーケストラリーダー・作・編曲家になるとはだれもが不可能な夢のようなことと思われていました。しかし秋吉さんは、それを現実のものとした。日本が世界に誇ることのできる信念と努力の人!」「それを企画・プロデュースしたジョニーにも拍手を送りたい!」のおまけまでついていました。
11:10:00 - johnny -

2023-03-29

幸遊記NO.506 「高田公友館の新沼定雄と岩淵恵一」2020.9.28.盛岡タイムス

 一関ベイシーの映画が封切になってから、毎日毎日、入れ替わり立ち変わり、「観て来たよ!」「観たらここへ来たくなった!」と、開運橋のジョニーというジャズ喫茶にも、ようやく人が少し来るようになった。そんな光景を見ながら、昔は、映画、コンサート、何かの催し物あとの帰りにはその余韻をたのしみにジャズ喫茶へ寄ってから帰るというのが一つの慣例だったなあと懐かしさまで蘇って来る。
 この“映画”に関連して思い出したのは、42年も前の(1978年)陸前高田でのこと。荒町マーケット街での音楽喫茶を、駅前通突当りの大町商店街入り口に移転(1977.12)したジャズ喫茶ジョニー店内で撮影された「盆がえり」という映画の事。制作したのは故・岩淵恵一さん(当時26才)。学生時代から映画に興味を持ち、土地家屋調査士の傍ら、陸前高田にあった沿岸唯一の封切館として名高った「高田公友館」で、夜に映写技師としてのアルバイトまでやっていた彼。
 公友館は当時50代だった新沼定雄さんという方が経営していて、TVの出現以来斜陽化をたどっていた映画業。そんな中にあって「あそこへ行けばいい映画が東京と同時封切で見られる!」と好評で、沿岸はもちろん内陸や宮城県からも観にくる人がひっきりなし。街ゆく人の噂は「高田には過ぎたるものが二つあり!」(公友館とジョニー)とささやかれ、ジョニーはともかく公友館は本当に素晴らしい映画館でした。そこで五木寛之原作映画「さらばモスクワ愚連隊」‘68を観て五木の大ファンになった僕がいる。公友館は陸前高田の初代市長にもなった伊東順太郎氏が名付け親。芝居小屋(劇場)、集会場、公民館、市民会館的役割の場(株式会社)であったそうだが、新沼さんが戦後に仲間8人と組んでここで映画の興行をはじめたのが始まり。
 僕が陸前高田の人となる1963年に映画館が火事になり、元の姿は知らないが焼け跡を見た記憶が残る。その後再興して有名に。オーナーの新沼定雄さんはまるで映画に登場する俳優の如くカッコイイ人で、奥様はとてもエキゾチックな方。そこでバイトしていた岩淵恵一さんの自作映画は、彼自身の体験をオーバーラップさせた失恋物で、TVに取り上げられた程、噂になった名作ですが、8ミリ・たったの20分間の青春物語でした。
11:08:00 - johnny -

2023-03-28

幸遊記NO.505 「聴くための映画“BASIE”」2020.9.21.盛岡タイムス

 コロナ禍で上映が延期になっていた「JAZZ・KISSA・BASIE」(ドキュメンタリー映画・Swiftyの譚詩)が9月18日(2020)全国一斉封切!その日、一回目の上映を「盛岡・ピカデリー」で観た。前日夕方、主人公の菅原正二さんにTELして「一関で観ようかな」と話したら「俺は舞台挨拶もやらないし、じつは一週間ぐらい雲隠れしようと決めているのさ」だった。
 「その男は、レコードを演奏する」「岩手県一関市、世界中から客が集うジャズ喫茶・ベイシー。マスター・菅原正二が50年にわたってこだわり抜いた唯一無二の音と“ジャズな生き様”を炙り出すドキュメンタリー」と映画のフライヤーにある。今、世の中は聴くでもなし、聴かせるでもなく只々、聞こえる程度のタレ流し放送設備で巷までジャズがあふれかえっており、それに正比例するように、ジャズ喫茶への客足もとだえがちになって久しい!だが、例外が一つあった。ジャズ喫茶・ベイシーである。日本一の音!いや、おそらく世界一であると思う。音の気圧で音楽を鳴らし、堪能させ、満足に至らしめる。そして、時にはそのステレオの音とドラムで共演するマスターのサービスも、彼にとっては再生音チェックのための演奏である。(それはそうと週刊文春”9・24”グラビアにも載った!)
 一口で50年といえど、半世紀である。全国どこのオーディオマニアであろうが、ジャズ喫茶であろうが、束になってかかってみたところで、あの音、あの環境を作り出すのは不可能というもの。生き生きとしてスコーン、コカーン、ズドドドン、スタン!いきなりの絶頂。誰かが書いていた「こんなに聴こえる映画はほかにない」「優しい化け物みたいな音」「文化も歴史も音もこの映画に保存された」「歳をとったら又見たい」「人への愛、そして音への愛、それは生きていく上での大きなエンジンになる」と。特にも音に関しては、彼に影響受けなかった後続のジャズ喫茶は皆無といっていい程の存在であるが、あらゆる面で彼とは別路線を進んで来た僕も、店を45年続けてこれたのは、ベイシーという歳も店も5才先輩の巨大なスターの背を見て来たからなのですが、映画には僕もチラリ映し込まれていて、協力・「盛岡のcafejazz・開運橋のジョニー」とクレジットされていてビックリ!ああ、なんでだろう!
11:07:00 - johnny -

2023-03-27

幸遊記NO.504 「鈴木紀夫の不思議な御縁」2020.9.15.盛岡タイムス

 世界最高にして世界最高齢の現役ジャズ・ピアニストである穐吉敏子さんは、今年91才になる。彼女の代表曲と言えばシグネイチャー・チューンである「ロング・イエロー・ロード」。そして僕が彼女のレコードに出会った74年の「孤軍」。さらには彼女のセルフ・ポートレイト的な「ビレッジ」この曲の元になっているのは誰でも知っている日本民謡の「木更津甚句」で、僕などは、何十何百回聴いても、あの曲なの?だが、アフロ・キューバン的乗り、4分の5拍子。驚愕のダイナミズムあふれる演奏まさに穐吉敏子の真骨頂!である。
 その木更津甚句で浮かんでくるのはあの「孤軍」の元になった「小野田寛郎・元少尉」を1974年、フィリピン・ルバング島で発見した冒険家の鈴木紀夫さん。その親友だった満州生まれ、大船渡市出身の故・千葉輝明さん(アルジェリアの日本企業で働いていた人で一関ベイシー菅原正二さんの幼馴染)の友が書いていた「鈴木紀夫君の思い出」(1988年・東海新報)を読むと、小野田さんを見つけてからの彼は、昔からの夢であった「雪男さがし」にネパールへ出かけ、その5回目は新婚旅行もかねていたというのだから凄い熱の入れ方だった様子。しかも1回目の時に実は突然目の前に子連れの雪男が現れビックリ!カメラ取り出す間もなく逃げられたそうだが、全身が黒く、連れていた子供の2人は白かったそうだが、まるでゴリラみたいだったと。そして最後となった6回目の87年、彼は戻らず仕舞いで友人の山岳家たちが探しに行ったがみつからなかった。だが、なんと奥様自身が探しに行き遺体を発見したとある。
「戸籍上では死亡になっている私が生き延びて、あんなに元気だった鈴木君が死ぬなんて、、、、、遺体発見現場まで行く、、、、、」と朝日新聞に語っていた小野田さん。
 千葉輝明さんによれば、小野田さんを発見した鈴木さんが作家の林房雄氏の長女・京子さんとの結婚式の時も、又、友人たちとの誕生会などの時でも、とにかく酔えば必ず出てくる歌は彼の18番「木更津甚句」だったという不思議な御縁。それに鈴木さんが亡くなられて4年後の1991年、アルプスの氷河から数千年前の「アイスマン」と呼ばれる雪男がミイラの状態で発見されたのです。これも縁?
11:06:00 - johnny -

2023-03-26

幸遊記NO.503 「白木朋子のロシアと米原万里」2020.9.7.盛岡タイムス

 昨2019年6月18日付、毎日新聞・岩手版に「盛岡のジャズ喫茶店主・秋吉さん想い”資料館“」の見出しで僕の記事が載った。書いてくれたのは藤井朋子記者。彼女は今年4月東京の本社勤務になり、学生時代からの恋も実って白木姓になった。おめでとう!盛岡支局勤務時、深夜までの仕事が終わると時折、開運橋のジョニーへやって来て珈琲を注文した。その光景想い浮かべれば、掃き溜めに鶴の如き姿。いつぞやは、学生時代からの恋人と、またあるときは故郷(兵庫県)の父母さえも店まで連れて来て紹介してくれた。
 昨年は「穐吉さんを追いかけ続ける僕のことについて、穐吉さんご本人からも僕についての話聞き、全国版に書きたいのです!」と。草津、ニューヨーク、東京と、僕等と一緒に穐吉敏子への旅までして、ようやく今年・盛岡でのコンサート9月16日の翌日なら時間が取れるとの約束頂いたが、又、このコロナでどちらも身動き取れず仕舞い。それはそうと、その朋子さんから突然宅配便でお菓子届いてビックリ。前後の手紙に「8月末で新聞社を退社。9月からモスクワで働きます。2年間だけなので、又帰国した時はお邪魔させて下さい。秋吉さんの取材だけが心残りだったのですが、、、、、記事に出来ず申し訳ありません。」
それで折り返し電話をしたら、ロシアの日本大使館での仕事だという。凄い!彼女は元々神戸の外語大でロシア語を専攻、ロシア語の通訳者・米原万里さんのエッセイを読み、その考え方にひかれ!4回もロシアに渡り体験勉強した人「どうしてロシア?」との僕の問いに「ジョニーさんはどうしてジャズが、穐吉さんが?と同じだと思います!」とキッパリ!「2年後に日本に戻ってきたら、もう一度大学でロシアの研究をしたい」のだとも!
その時突然僕の頭の中で鳴り出したのは岡林信康の「友よ!」だった。「友よ!夜明けまえの闇のむこうには、友よ!輝く明日がある、友よ!昇りくる朝日の中で友よ!喜びをわかち合おう」「朋よ!元気で行ってらっしゃい朋よ!コロナという闇の中で朋よ!内なる炎を燃やせ朋よ!輝く未来のために。やはり青年はいつの時代でも荒野を目指す」か!!。
11:05:00 - johnny -

2023-03-25

幸遊記NO.502 「鈴木周二の周辺・気仙・地域」2020.9.1.盛岡タイムス

 今夏(2020)10年振りに鈴木周二氏(元・東海新報編集長)と約束して大船渡のうなぎやさんで一緒に飲んだ。氏に初めてお会いしたのは忘れもしない1978年の夏。辺境気仙地区で、グラフ誌創刊!エーッ!凄い!一体誰が?。新聞を見てビックリした僕は購読希望のハガキを贈ったら、わざわざ届けに来たのが鈴木さん。郷土の歴史・自然・民族・文化・文芸と主とする内容で嬉しかったのを覚えているが、何よりのビックリギョウテン!は、次号への執筆依頼!。あれは一生忘れられない!
 何故かといえば、それまで僕は物の本や新聞に載せてもらえるような文章を書いたためしがなかったから!で、氏から手取り足取り文章の書き方を一から教わり、大きな大きな紙にびっしりと言いたいことを書き、それを削ったり足したりの推敲や校正をしてやっと書き上げた初めての文章は「わがジャズ日本列島改造論」(日本ジャズの隆盛は気仙から)‘78年10月。それが今日に至る僕の執筆活動?の原点。
 氏はそれまで10年間勤めた東海新報をやめ、1人出版の道を志した!まではよかったのだが何せ当時の2市2町合わせても10万に及ばぬ陸の孤島!では、やはり続かずに、すぐさま立ち行かなくなった。だが東海の社長は彼を編集長として再雇用!彼も彼の独自路線で郡の歴史をさかのぼり、過去を洗い、ノリ養殖の始祖の功績や気仙大工遺産、地域文化を掘り起こし、それに根差した未来気仙の育成に取り組み、地区民の心技を行政にわからせ、まとめる役割を担って行動した。「東海なければ夜も明かず!」の圧倒的な読者支持を受け、ある意味4市町の舵取り役とも言えた程の人。「歴史の積み重ねてきたものを全て破壊したのは文部省を始め、国家機関の人づくり怠慢と手抜き以外のなにものでもない。復興の町づくりは地域の歴史と文化が鍵なのだ」と、静かな怒り。
 それで想い出したのは「気仙は精神的に岩手を離るべし」(‘88年頭提言)。明治元年気仙は政府の直轄地となり、同2年江刺県を皮切りに一関、水沢、磐井、宮城の各県へと所属をたらい回しされ、同9年岩手県に所属。しかしその後21年気仙郡は再び宮城県に移管してほしい旨の嘆願書を内務大臣に提出するも却下された経緯を持つことから気仙は春来る「鬼」という「心の砦」を持つ独特の国に至ったのだ。
11:00:00 - johnny -

2023-03-24

幸遊記NO.501 「照井の墓と館と堰まいり」2020.8.23.盛岡タイムス

 ほとんどの日本人は盆になると自分の生まれた家(実家)あるいはそのルーツとなる本家などの墓参りをするため帰省するという本能(DNA)を持っているが、僕はジャズ喫茶を構えてからというもの、ほとんど盆には実家に帰ったことがない。というのも盆にふる里帰りする人たちで一年中で一番忙しいときだから!は陸前高田時代のはなし!盛岡では逆だったが20年もすると少しは来るようになったのだが、今年はコロナ禍で延々閑!おかげで長年果たせなかった「盆に実家へ帰っての墓参り」が叶った。
 家は平泉町北沢29番地。垂直に切り立つ岩に掘られた顔面大仏に向かって右下に半分屋根の達谷窟毘沙門堂と西光寺光堂。左下には駿河と照井家。僕と年齢が同じだった実家を建て直す際、町が発掘調査を実施、昔々寺人たちの住んだ僧庵?寮?跡が出て来たという。地形的に見ても確かに境内の一角であることは一目瞭然!しかも家の屋号は「禰宜」で、通称「ねぎわの西」と呼ばれていた。隣の駿河家は(東)だったなと思い出す。
 道路から家に入る小道(門口)を横切って流れる用水路が照井堰(北照井堰)。一関・厳美渓の上流(磐井川)から取水。隧道(穴堰)を通って達谷窟前を流れる太田川に合流。その数百m下流に揚場を作って分水される水は下流の田畑はもちろん毛越寺の泉ヶ池にまでも流れゆくがその取水口が僕の実家の前なので、平泉を潤す照井堰の水を最初に使えるのが照井で、次が駿河、そして毘沙門堂前の池へと流れゆく。そんな訳で揚場(人工滝?)から流れ落ちる水の音、天気次第で水量が変わり音も変わる、いやおうなしに毎日聴いて育ち、今も音で生きている僕の原点。何十年振りかで取水口の揚場に佇んで生音を聴いた。うーむ!ひらたくいえばみずみずしい音だ!と僕。
 照井堰は藤原秀衡公の家臣で普請(工事)奉行であった照井太郎高春の起工。その子・高安が父の遺志を継ぎ難工事を推進し竣工したと伝えられるが、今日に至るまでの先覚者達の業績は明確を欠き未だに不明点多々。僕は女房と一緒に実家からの帰りに一関の照井神社や昔の平泉照井館に立ち寄り久遠の昔に想いを馳せた盆の1日となった!「夏草や兵どもが夢の跡」(芭蕉)。
10:58:00 - johnny -

2023-03-23

幸遊記NO.500 「坂本九の明日があるさ」2020.8.16.盛岡タイムス

 前回幸遊記№499のタイトル「上を向いて歩こう」と歌っていたのはきゅうちゃんと呼ばれ親しまれていた坂本九(本名・九“ひさし”1945年生)。彼は1985年8月12日の羽田発大阪行きの日航機(群馬県上野村御巣鷹山に墜落)の乗客の一人でした。「上を向いて歩こう」(永六輔・作詞、中村八大・作曲、歌・坂本九)は六・八・九トリオと呼ばれ「上を~」(‘61)[
ひとりぽっちの二人」(’62)「見上げてごらん夜の星を」(’63)その後も続々とヒットを飛ばし、九ちゃんはNHK紅白に10年連続出場と相成った。
 しかも上を向いて歩こうは、いつの間にかひとりでに歩き出し、‘63年6月には「SUKIYAKI」に改題されて米国でキャピタルレコードから発売になりビルボード・ヒットチャート100で3週連続、キャッシュボックスでは4週連続で第一位を獲得(日本人初)ミリオンセラーとなって、英語バージョンまで売り出される程の人気を集めゴールド・ディスクを受賞した!。その作曲者でジャズピアニストの中村八大氏は「永遠に生きる歌をつくりたい」と願い「誰もがうたってくれるに違いない」と思って作った曲。
 九ちゃん自身、‘62年9月にフランスへ行った時にはジュークボックスにも入っていて、自分も聴いたそうですが、この歌は中村八大氏が’61年7月21日に開いた自分のリサイタル(第3回)で初演(九さん歌)が好評だったことからレコーディングされたもの、しかも曲(譜面)が出来たのはリサイタルの当日、それをマナセプロダクションの曲直瀬信子さんが八大さんのピアノでうたい、それを本番直前にその彼女が口伝で九さんに!で、ステージへと駆け上がった歌。その歌には「思い出す春の日(‘60年安保運動に参加した日本中の若者たちへの連帯の想いが込められていた)。」(佐藤剛著「上を向いて歩こう」岩波書店2011)それが歌詞とは関係なしのSUKIYAKIとなったのはアメリカ人が知っている数少ない日本語のひとつだったから。重要だったのは覚え易いメロディとメランコリックな歌声だったと米関係者。最初のラジオ反響はまるでパールハーバーの再来!だったそうだ。それはそうと僕らジャズの世界では、生前只1つ(2枚組)の作品「なしくずしの死」(幸遊記№244)を遺してこの世を去った天才アルトサックス奏者・阿部薫(1949~78)は忘れられない存在の人。その彼は、坂本九さんの姉の子(甥)であった!闇があってこそ光は輝き明日があるさ。見上げてごらん夜の星を!
10:56:00 - johnny -

2023-03-22

幸遊記NO.499 「ジェット機禍!“上を向いて歩こう”」2020.8.10.盛岡タイムス

 8月は原爆の月、終戦の月、盆の月。記憶は49年前の1971年7月30日、乗員乗客162人を乗せた、千歳発、羽田行きの全日空ジェット旅客機・ボーイング727のイワテケン雫石町への墜落。更にはちょうど30年前の‘85年8月12日羽田発、大阪行きの日航ジャンボジェット機・ボーイング747、乗員乗客」524人(生還者4人)という史上最大の墜落。以前にKさんから頂いた「クライマーズハイ」(横山秀夫著・文春文庫2006)と、中学時代の同級生N子さんからの「機関銃を探しに来た男」(大宮純著・せせらき書房)と二つの墜落に関する小説を読んだ。前者は元地方新聞記者、後者は元政党青年同盟員。そして僕のジャズ講座に10年通っている先輩のK女史から頂いてた’85年の週刊朝日8月30日号「詳報!日航ジャンボ機墜落」。
 雫石に落ちたのは航空自衛隊松島飛行場から離陸したジェット戦闘機(訓練機と教官機)の編隊飛行中、訓練機の右翼が旅客機の尾翼付近に衝突。両機は操縦不能に陥り、自衛隊機は雫石駅西方400m地点。全日空機は空中分解して同駅3.3kmを中心に東西南北1.5km付近に墜落し全員死亡。訓練機生はパラシュートで無事脱出。
 日航機が落ちたのは群馬県の上野村御巣鷹山。墜落数年前、同機はしりもち事故で修理した圧力隔壁の破損及び垂直尾翼の脱落による操縦機能の喪失が原因かとされたが、軍?自?のオレンジ色した小型無人飛行物体の衝突が本当の原因のようでもある(乗客が窓から撮影していた)が、機長の米軍横田基地への緊急着陸要請も拒否されての大事故?大事件であった。「地球上の全ての物は自らは絶対に動きませんから”動かぬ証拠“になり、時としてその証拠は人という者の力によって動かされ隠滅させられることがある。」
 大宮純(本名・伊藤孝・1948~2015幸遊記№73)の小説は雫石に墜落した戦闘機の機銃が誰かによって持ち去られたことから、聞き込み捜査する警察官が、それに乗じて赤狩りのための聞き込みまで進めるという墜落とはあまり関係のない物語だが、それなりの面白さ!いずれにせよ権力をつかさどる者とそれに従う権力者側の見えないおそろしいまでの圧力に立ち向かった男たちの物語である。
10:54:00 - johnny -

2023-03-21

幸遊記NO.498 「秋吉敏子の全米デビューシングル盤」2020.8.3.盛岡タイムス

 今年(2020)1月6日の幸遊記№468でトシコ(秋吉敏子)の全米デビュー評論文(1954年)NYでの発見について書いたが、そのノーグラン・レコードLPMGN・22(10インチ・25センチ盤)が出る以前、実は45RPMのEP盤(4曲入り)2枚が先に発売されており、EPN・47と48のレコード番号である。47については2018年4月に僕が出版した「穐吉敏子への旅」という彼女のレコード全作品集に収録していますが、実はこのEPだけは自分が所有しているものではなく、山形駅前にある老舗のジャズ喫茶「オクテット」の相澤榮さんからコピーしてもらったものでした。
 いずれにせよ、同年(’54)にEPからLPになった同じ音源なのですが僕はこれまで、その敏子さん演奏の日本人初・全米デビューのオリジナル盤では一度も聴いたことがなく、ずーっと聴いてみたい衝動に駆られ続けてた。というのも、僕が持っているのは‘76年再々発売
のヴァーヴ不滅のジャズシリーズ・第8期特集「アメイジング・トシコ・アキヨシ」発売元・ポリドール株の盤である。最初の日本発売は64年、それでもアメリカ発売から10年もたっての日本盤の発売で、テープの状態が悪いせいか音がひずんでいて、これがCDに焼き直されても直らずで、原盤を聴いてみたいと思っていた。それが何と2020/7/31、EPN48のシングル中古盤がアメリカから届いたのです!ネットで見つけてゲットしてくれたのは、僕が盛岡に来た2001年から、親しい友人となった工藤正輝(盛山)さん!。最速針を落とせば、凄いリアルな音!で、ビックリギョウテン!ワーオッ!。
 僕はすぐさま山形に電話した。彼もあれ一枚で、米盤LPはないという。でもシングル盤の音の良さにくらべ再発日本盤の音のひどさについては同意見であった。先輩相澤氏が持っているのはN47.僕の手に入ったのはN48,同盤8曲中の4曲ずつである。LP収録A面分がN・47、B面分N・48は、初来日したJATP(ジャズ・アット・ザ・フィル・ハーモニック)のプロデューサー・ノーマングランツ氏によって、ラジオ東京でレコーディング。その記述(志摩夕起夫氏の文)‘54年ミュージックライフ誌1月号を見ると録音の曲順はB面(N48)4曲が’53年11月13日深夜、A面(N47)は14日午後の録音でした。
10:53:00 - johnny -

2023-03-20

幸遊記NO.497 「井上マスのお前さんへの手紙」2020.7.27.盛岡タイムス

 前回の幸遊記にちらと登場した井上マスさん(作家・井上ひさし1934~2010の母)は1907年小田原の生まれ。東京の病院勤めで知り合った薬剤師の夫・修吉さんは結核性カリエスにより9年間にわたる闘病生活の末、36才の若さで、実家の山形県小松町(現・川西町)で他界。しかし彼はその3年前の1936年「サンダー毎日」の懸賞小説に応募し「H丸の伝記」で、一等入選「夫の文才、私の目に狂いはありませんせした」とマスさん。‘39年夫に先立たれた時長男・慈(10才)、2男・ひさし・(5才)、そして夫の死と入れ替わるようにその年の暮れ生まれた3男・修佑(しゅうすけ)。その時から、かたときも忘れることがなかったという亡き夫への30数年間分の長い長い赤裸々な手紙。それが’83年3月、東京の書苑から「人生は、ガタゴト列車に乗って、、、、井上マス」という本になり、大絶賛されたのでした。
 読めば、のちの大作家となった2男(ひさし)の父母のDNAによって?作家に至るまでの道程がわかるというもの。戦争を挟んでの前後、物資の乏しい時代にあって、3人の子供を育てるため、どうしなければいけなかったかのかなどを、たったひとつの虚構もなしに語られた思い出話の物凄さに圧倒されたもの!
 僕はマスさんと11PM・TVに出た後日、お会いしに釜石へ!鉄筋コンクリート造りの立派なお宅に伺うと、通された広い応接間の様な書斎で机に向かい執筆中でしたが、お茶でお相手をしてくれて翌日にはお礼の葉書まで届き嬉しかった。
 前回幸遊記に登場の森田眞奈子さんにマスさんは「耕して天に至るという言葉がございますが、普代までのつづら折りの山道は歩きて天に至る思いであった。途中の北山崎の景観は近代文明を疎外の外においた太古のままの姿に圧倒されました。外来者にとっては驚異の風景大自然であっても常時そこに暮らすとなると大変だなど、月並みの表現では住民の辛苦は理解されない実生活があるという発見はなんと美しく悲しいものであろう。怖い山道と断崖の海にかこまれた中で生きている、普代村の人々をいとしく、そして幸福を願わずにはおれません」の手紙。そのマスさんの本と戦後すぐ釜石の警察官になった菊池武男さんから聞いた昔話の数々、合わせれば表と裏ピッタシカンカンでした。事実は小説よりも奇!
10:51:00 - johnny -

2023-03-19

幸遊記NO.496 「森田眞奈子・個のライオット」2020.7.20.盛岡タイムス

 「普代の森田です。明日友達とジョニーに行きますから」と電話があった。何十年振りだろう!と僕はとっさに「明日普代に来ませんか?」と田野畑村で言われた35年前の森田眞奈子さん独特の「まなこ・目力(めじから)」を想い浮かべてた。三陸鉄道田野畑駅から生中継されたTV・11PMへ、作家の故・井上マスさん(当時77才)と一緒に僕(37才)もゲスト出演した翌日、断崖絶壁の道や、凄いつづら折りの坂道を通って普代へ。着いた先は旅館。そこで蕎麦をごちそうになった記憶。そこのおかみさん森田眞奈子さん(同48・現83)だった。
 あれから音楽を通じた交流が始まり、彼女のリサイタルやコーラスに招かれたり、同村体育館で縄文の唄旅と称した三上寛のコンサートを開催。彼女の娘・真柄さんにも出演して貰った「ジャズ音泉まつり」(福島バリハイセンター)のことなど次々と頭に浮かぶが、最近ごぶさたしておりました。その昔、彼女は村の広報紙に「音楽、歌、その心」という文を書いて、僕はそれを自分の唯一の小説に引用した記憶も!「音楽はいいものですね。人心に流れ込み無形の像を描く。想像を創造に変える。自己を純粋に高揚させる要素を持っている。繰り返し提唱されている活性化も、人々が限りなく個に返ること。そこから出発するのでなければ始まりはない。例えば音楽の感動、芸術文化の価値観を共有出来る個の目覚めがなければ、その地域向上のバネにならないだろう、、、、」の要旨。
 彼女はそう提唱して個の連なりを実践!。田野畑、野田、普代、藩政時代の一揆になぞらえたライオットの風という三村からなる「でぼかい合唱団」。読書と朗読の集い「本だすかい」。賢治と語る普代会などなどを率先。特にも意を同じくする女性たちと活動を共にし、宮沢賢治が大正14年1月北三陸を旅し鉄道の終点八木(種市)から歩き堀内(普代)から発動機船で宮古方面に向かった説に基く賢治の詩「発動機船・一」の詩碑の建立(2015)。それに先立つこと10年の「敗れし少年の歌へる」賢治碑の建立等々、「賢治を語ることは出来なくても賢治と語ることは出来るはず」をモットーに集って賢治の詩に曲をつけては歌い。林洋子の語り芸「賢治の世界」をも開催し続けてきた人の「まなこ」は、まなまな健在で今に続く昔話はまるで紫陽花のようでした。
10:50:00 - johnny -

2023-03-18

幸遊記NO.495 「隆盛と凪の明香な日々」2020.7.12.盛岡タイムス

 僕(顯・けん)と女房の小春(春美)が知り合って交際し、再婚したのが60の時。婚前交感で生まれた何人もの子。とはいえ他人(ひと)様の子(大人)たちである。その3女・さやかちゃんのことが時折、頭に浮かんできて「どうしてるかなあ。無事に便りなしか!」すると不思議にも翌朝に電話あり「今日、お店開きますか?」で久しぶりに、それこそ孫をつれてやってきた。孫の名はなぎちゃん。その名で思い浮かんでくるのは南部牛追唄「今度来る時さあ 奥の深山のなぎの葉を持って来てたもれやあ~」そう!親子3人で。なんとめごいまごだこと~「3才です」
「さやかちゃん何才になったの?」「今年40です」えーッ、びっくりぎょうてん。出会って15年かあ。ご主人の隆盛さんとても素敵で、子ぼんのう。ええ方やのう。会うたびにそう思い、血液型を聞いたらやっぱしAだという。さやかちゃんはOだからって、オフィス・オートメーション式に子を作ったわけではない。僕はずばり聞いた!「これまでにいちばんたのしかったことは?」「痛かったけど、なぎが生まれた時!。2番目はジョニーに来たこと!あの時までジャズはしらなかったの!」僕は嬉しくて涙ぐんだ。だって彼女はその後、父・マカトさんを連れてきて、僕の親友にさせてくれた(一緒に旅までして僕等夫婦と同部屋で寝たこともある仲である)。
彼女が店に来て、コンサートの手伝いなどもしてくれた頃、次から次へと詩を書きだして、何篇も読ませてくれたことがあった。それはとてもいい詩だった。その中から僕は抜粋しライブスケジュールの表に書でしたためたことがあった「宿命の闇を明かすもの、ジャズ!(2007年6月)」「清らかなものには惹かれない、毒を明かしてこその美しさに心惹かれる(2008年10月)」。そして更に忘れられない彼女の詩の光景が浮かぶ。穐吉敏子ピアノトリオ・フロム・ニューヨークの2008年東日本ツアーを僕がプロデュースした時、東京三鷹の芸術文化センター(風のホール)に始まる北海道、東北、関東8ヶ所公演の最終日。東京亀有の「JAZZ38」その店の入り口に、なんと僕が書いたさやかちゃんの詩の1節「その人の笑顔を思い浮かべると、どうしたってほほえんでしまう」が掲げられていて、僕は思わずそれを背に穐吉さんに立ってもらい、笑顔と書を1枚の写真に収めたのでありました。
10:46:00 - johnny -

2023-03-17

幸遊記NO.494 「ジャズ・1956年ニューポートの奇跡」2020.7.6.盛岡タイムス

 陸前高田で僕が店を開いた1975年からずーっと常連だった米谷隆夫さんから、先月(2020年6月)2度8冊のジャズに関する単行本(1950年代~60年代にかけて発行)を贈られた。その中の一冊「ジャズ」ラングストンヒューズ(1902~1967)木島始・訳本の終章にニューポート(第3回ジャズフェスティバル)報告1956。「初日、空からどしゃ降りの雨のもと国歌の演奏で口火を切ったカウントベイシーから、MJQ、エディコンドン、サラボーン、ユタヒップ、そしてトシコアキヨシ、チャールス・ミンガスグループが出演した」とある。
 二百数十年前のニューポートは捕鯨の町でありブラックゴールド(アフリカ人奴隷)の貿易港。「町はアフリカ人たちの血と自由と幸福の犠牲のうえに築きあげられ繁栄し、富と財産かちえた」そこでのジャズフェスティバル。「本当に元気な、心底ジャズに首ったけの者だけ(2千人)が座っていたという。(第二夜は一万人、第三夜は一万数千人)その最初の晩「吹き付ける雨や水浸しの地面や音楽の為にかかるかもしれない肺炎のことを忘れさせたジャズには予防の性質、治療の価値があるにちがいない。なぜならニューポートで致命的な風邪を引いた人があるのを聞かなかったから」とある。
 たしかに!今のコロナウィルスだってジャズクラブやジャズ喫茶での感染は無いようだ。それは何故?って「ジャズはミツめるものでなくキクものだからです!」。‘56年9月号SJ誌に「アメリカ・ジャズ祭に、秋吉敏子キモノ姿で現れドラムとベースの伴奏で演奏、喝采を博した。特に「トシコズ・ブルース」が好評であったと。その初夜のトリはチャールス・ミンガス(b)率いるジャズ工場!ミンガスといえばその秋吉こと穐吉敏子さん(90)が、これまでにサイドメンとして所属したのは唯一このチャールス・ミンガスのバンドにだけ。「イン・バードランド」(‘62年6月5日)。「タウンホールコンサート」(’62年10月12日)の2作品にそのサイドメンとしての演奏が残っているが、穐吉さんは「彼が意図しているメロディを彼が歌い、それを私たちがその場で覚えるというミンガスの練習方法、私はそれが今でも一番理想的な方法だと思っています」という。そのミンガスの自伝本を翻訳したのはかつて僕が大変お世話になった先輩の故・稲葉紀雄さんでした。
10:45:00 - johnny -

2023-03-16

幸遊記NO.493 「六芒星に守られるイワテケン!」2020.6.29.盛岡タイムス

 「新型コロナウィルスの感染者確認いまだゼロ(岩手の謎?)の不思議判りました。“六芒星”のお陰ですね。」の手紙と共に、宮城の新聞・河北の切抜(6月22日付2020)が仙台の親友・タアちゃんから届いた。その見出しに「六芒星、コロナから岩手を守る?」とあり「世界遺産中尊寺周辺にある六芒星の結界が、いにしえより地域を守り、過去の歴史でも大きな疫病とは無縁の地域。六芒星は面白い説!」その結界の中心に位置するのは東北最古の神社と言われる配志和(はいしわ)神社は、かつて磐座(いわくら)山と呼ばれた現在の蘭梅(らんばい)山に建っている。
 それを囲む六つの神社は北側の頂点、平泉の白山神社から左回りに達谷窟毘沙門堂、一関の三嶋、鹿島、滝、舞草の各神社は全てが「イワクラ」をまつり、自然神「アラハバキ」を信仰する場所。北東の鬼門を封じるように全体が左向き15度傾斜で東西南北に約13kmで広がっているこの六芒星の始まりは“11世紀後半頃”と推論するのは、地域信仰を20年来研究してきた一関の金田渉治さん(59、学習塾経営)で、この六芒星の発見者。それは110年、ヤマトタケルノミコトが磐座山に神々をまつり火石輪(ほしわ)と号する現在の配志和神社の創建にはじまったらしい。
 それこそこの幸遊記先週の「一関ベイシー」は「岩手の関所だからね、いまだ店は閉鎖中だよ!」との電話を店主の菅原正二さんからいただいたが、僕が書いた本紙「盛岡タイムスの切抜きが朝日からFAXで届き読んだよ」と笑う。それはそうとそのベイシーの菅原さんは早稲田への浪人中、うちの女房は中学生の時、それこそ六芒星の中心地、盤座山(蘭梅山)にある一関療養所にて結核のため枕を並べて?入院していた事実。しかも女房の小春は山目中学校分校欄梅学園を卒業してから、又、盛岡の上田中学校に2年生から入り直し卒業(当時の教育長・工藤巌氏に面談し許可をもらい)した事実。
 僕もその当時(中学時代)達谷窟の実家から自転車で一関に向かっては、療養所への登り口にあった商店に立ち寄って店先のベンチで休んだ記憶がよみがえる。この三角関係?も今こうして考えてみれば岩手ジャズの六芒星?の中心店(点)もやはり一関かと納得した次第。仙台のタアちゃん「オレは老苦忘生のゴカゴが欲しいです」とシャレていた。
10:44:00 - johnny -

2023-03-15

幸遊記NO.492 「ジャズ喫茶ベイシー読本」2020.6.22.盛岡タイムス

 ステレオサウンド誌の別冊版で「ジャズ喫茶ベイシー読本」という、ベイシー開店50周年記念本が5月末(2020)に出版された。岩手県内の方ならジャズという音楽にまったく興味の無い方でも一関のベイシーを知らない人はいないだろう。朝日とともに目覚める人なら、「swiftyの物には限度・風呂には温度」という菅原正二さん(78)の新聞コラムも読んでいるだろう。「市民の音楽文化の向上、市の知名度の向上に多大な貢献をした」として‘97年に一関文化賞。そして’17年一関市勢功労者表彰。はたまた「いわてくらしの文化特別知事表彰(‘19)。そして今年は「ジャズ喫茶ベイシーのバラード」というドキュメンタリー映画までできた。(コロナウィルスの影響で5月から9月へ延期)それ以前はヨルタモリのヨシワラさんで、あまりの凄さに驚くばかりだが彼はマスターを超えたまスターなのだ!
 ある意味で彼・菅原正二さんは世界一のレコード演奏家である。「あたかも、そこに演奏者が立ち現れるかのようにいい音を再現したい」を常に考えている彼。その原動力は、誰もがうらやむ程のバランスの良さで鳴るベイシーのステレオサウンドを「一度だって良い音だと思ったことがない!」と自ら言い切るたゆまぬ努力と注意力。「自家用の小形フルレンジの音を大形で出せたらいいだろうなと思って、いわゆるドンキホーテをやってるんだよ。全ジャンルを一台でこなすことを目指してね!音はその人のスタイルだから」そんな話を僕にしてくれたのは‘87年のこと。
 「漆黒の円盤、LPレコード、不思議な物体、追えば追うほど遠のいて、何処まで追ってもまた逃げる、七色の虹のように」は菅原さんのオーバー・ザ・レインボーだが、全国の特にもオーディオ夢中人や、ジャズ喫茶にとってベイシーは正二(まさに)その虹なのだ。
 だから僕の店は2時(にじ)から開店!とシャレたる訳ではないのだが、僕とて自分の店の音に満足したことはなく(したいが出来ない)、いまもって悪戦苦闘の日々。だが、彼とはありとあらゆる面で正反対。育ち?を別としても鳴らすも生き方もほとんどの面で真逆の歩みをしてきたのだとあらためて思わされる。それもこれもベイシーという五年先輩の日本一のジャズ喫茶が一関にあり、たまたま隣町出身の僕にとっては彼の背中があまりにも近くて大きく前が見えないので、自然に後ろ向いて進んで来たのかも・・・
10:41:00 - johnny -

2023-03-14

幸遊記NO.491 「S氏が贈ってくれた2冊の本」2020.6.16.盛岡タイムス

 大船渡市の先輩S氏から先月と今月、2冊の本が届いた。先の本は2012年2月農山漁村文化協会が発行した「宮本常一(1907~1981)とあるいた昭和の日本16(東北3)。で幻の月刊誌「あるくみるきく」の地域別、テーマ別に編んだ昭和日本の風土記集。そのP141~P170に載っていたのは“気仙大工探訪行”文、写真、図、鈴木清とある。僕はその名を見て当時の彼の顔と姿、話し方まで想い出しながらページをめくれば、なんと僕の店の外観が二分の一ページで登場していた。その写真説明文には「気仙大工の調査で歩き疲れた僕の憩いの場になった陸前高田のジャズ喫茶ジョニー」とある。
東京から大工の取材や調べに来て約一ヶ月間毎夜ジョニーに通い詰め、店に集まる大工や、他の職業人たちと談笑し、調査という気負いを拭い去ることに成功?したそれは「調べて帰る。いわば、“通りすがりの旅”だったのが、高田は初めて一つの居場所になった」とあり、ジャズを核に集う人との交わりまでが書かれていて、僕は昔の友人たちとの再開を一度に果たせた様な気持ちになった、嬉し懐かし・・・。
そしてもう1冊はアサヒカメラ2011年9月号。総力特集・写真家と震災。巻頭・グラビア篠山紀信、野町和嘉、平間至、畠山直哉「4人の視点」と題されているなか、陸前高田出身の畠山直哉さんの写真は震災前と後の同じ場所、同市気仙町の今泉保育所の裏山から、彼の生家があった姉歯橋付近から河口までの街の全体風景が写っているのを見て、僕は写真というものも音楽と同じで誰の演奏か誰が撮ったのかが、すぐに判る個性的な作品がホンモノなのだということを再認識させられた。特にも直哉さんに関しては大船渡高校時代から店に来ていた人でもあり、作品はずっと見て来たことを差し引いても、彼の作品は彼自身以外の何物でもない。超のつく大物写真家として世界に知られる存在。
実はこの本「アサヒカメラ」が届く直前、S氏から電話で「学生時代ジョニーに通っていて、中山英二(b)のジョニーズディスク表紙絵を描いたのはかれだった様な?」の確認の問いがあった。そのとうり!で大学も半ばまではまだ絵画を目指していて、写真は途中からだが、大学院卒業する頃はすでに今に続く目心眼を持った等高写真集を出版していた。「ところでこのアサヒカメラも遂に休刊ですよ!」とS氏の言葉にビックリ!
10:40:00 - johnny -

2023-03-13

幸遊記NO.490 「鈴木宏延の妻・昌子の和紙桜」2020.6.8.盛岡タイムス

 4月20日自分の誕生日を迎えて以来、時々頭の中にパッと花が咲く。濃淡大小6片の花びらと9輪の花。窓際のテーブルにそっと置散らし、カメラのシャッターを切る。得も言われぬ陰影の美しさ、何という安らぎのとき。この和紙の花々を贈ってくれたのは鈴木昌子さん(盛岡市南青山在住)「新型コロナウイルスの為に少しは外出を控えております」との手紙と一緒に折りたたまれた花々が封筒の中から出て来た驚き、それを一輪ずつ開いていった時の感激が忘れられないのです。本当に有難うございましたございました。
 彼女のご主人だった故・鈴木宏延さん(2015年2月79歳)は、あの2011・3・11の東日本大震災まで陸前高田にあった「酔仙酒造」の社長・会長を長年務めた人。酔仙は当時東北最大級の酒造会社で、日本酒・酔仙をはじめ、焼酎・甲、乙、甲乙混合などの他、ブレスヂというブランデーなども造っていた。特にも8年貯蔵の米造り「古古」は正に絶品、あれ以上においしい焼酎には今だ出会えない程。それもそのはず清酒界初の珠玉の結晶として、成田空港国際線の免税店に並べられた国産焼酎の第一号!40度に調製する水以外添加物を用いない、モルト100%の純粋さで芳香と旨味が一体化した清酒会社ならではの極上の米焼酎でした。
被災直後には奥州市前沢の酒造会社「岩手銘醸」の及川順彦社長から一関市千厩の同社「玉の春工場」の施設や設備を提供され清酒「酔仙」を継続製造。その間に大船渡市に酔仙の新工場を再建した同社は岩手銘醸に対し恩返しとして焼酎造りの技術を提供。焼酎製造免許を取得した岩手銘醸は「清酒玉の春」の昭和初期ラベルを再現した「本格焼酎・玉の春」という新たな看板商品を発売したのは2015年の夏。
その夏の言葉で想い出すのは1985年の夏。当時の酔仙酒造の協力を得て同社の中庭で開催した「日本ジャズ祭・in・陸前高田」マーサ三宅やネイティブサンなど21グループ延々10時間半の真夏の祭典。‘89年1月陸前高田市民会館・エレキの神様こと寺内タケシのブルージーンズ結成25周年記念公演の共催。また’85年の開局から2010年まで、僕もDJを担当したFM岩手のジャズ番組「オールザットジャズ」の番組提供などお世話になりました。それはそうと震災前の酔仙酒造構内は陸前高田随一の「桜」の名所でした。
10:39:00 - johnny -

2023-03-12

幸遊記NO.489 「小栗均のラストレコーディング」2020.6.1.盛岡タイムス

 1980年前後に来演していた新潟のベーシスト・羽生英一さんから手紙と5枚のCDが届いた。「お知りかもしれませんが、小栗均さんが忘くなられて1年になり、メモリアルCDが完成しましたので、お送りさせていただきます、お収め下さい」で、僕はエッ!知らなかった…と彼に電話。CDは「小栗均ソロピアノ・ライブ・アット・JAZZ・FLASH」である。とても心地良い演奏。コロナ自粛で店ヒマをいいことに僕は毎日何度も聴き続けている。そこへやって来た常連の青木嘉賀利さん「この演奏もしかして山本剛さん?」と僕にたずねた。その時、彼の耳の確かさに僕は驚いた「そう!これは山本さんの師匠だった人の演奏だから」。「へえーっ!」と彼。
 小栗均さんは1934(昭和9年)新潟県見附市生まれ、長岡商業高校卒業以来、新潟でだってジャズは勉強出来る!という信念を持ち、一貫して聴者の耳に心地よく響く音色を求め続けた人。CDにコメントを寄せた辻数弘氏によれば、ジャズピアニストとして至難の技である“ことばを音で表現する”ことを探求し続けた演奏家であった。僕が彼の事を知ったのは‘80年、彼の演奏をカセットに録音して新潟から持参したのは教師だった高見翆さん。その演奏を聴き、レコーディングを決意。’81年落成したばかりの住田農林会館で録音し「みどりいろの渓流」としてジョニーズ・ディスクより発売した。
 当時はフュージョン全盛時代。5作目「海を見ていたジョニー」、6作目の本作品ともにジョニーズ・ディスクは、後ろ向きなスタンダードに逃げた!などと酷評された記憶!ところがジャズ批評誌の131号(2006)の和ジャズ特集(1970~1990)百選にどちらの作品も選ばれたのは、四半世紀もの間に流行は自然淘汰され、ホンモノだけが残され磨かれ続けてきたということ。今作の追悼盤は体調を崩しライブ活動を休止する2年前の2003年、新潟のジャズフラッシュでの最後のライブレコーディング。その一生涯を新潟でひっそりと目立たず、だが地方ジャズ色豊かにして尚、日本人としての本質を表現し得た演奏力はふた昔とは比べようがない程、更に、美しく澄み切り自然にスイングする渓流音楽そのもの。1枚千円!これまさにジャズ!
10:36:00 - johnny -

2023-03-11

幸遊記NO.488 「君塚彩のフルートと日中生活」2020.5.25.盛岡タイムス

 15才・高校一年生ピアノ・菊池冬真君と、26歳のフルート奏者・君塚彩さん(現29)が僕の店で初デュオライブを行なったのは2016年12月のこと。その彩さんが店に現れビックリ!というのも昨年2019中国で日本語を教えている教師の妻となって彼女も中国に渡り向こうで暮らしていたはずが、正月に盛岡に帰省し、2月の友人の結婚式に出席。その後に夫の元へ戻ろうと思っていた矢先、中国からのコロナウイルス騒ぎで戻れなくなり、主人も日本に戻れず仕舞いでそのままずっと別居でスマホでのやりとりだけの新婚生活?。
 彼女が開運橋のジョニーでフルートを吹き出したのは岩手大学生時代。教育学部生涯教育日本語地域文化国文学研究室という、長い長い名称の所に在籍、学びながら自分が中学から続けて来た音楽もやり、大学での文学とのバランスについて考えた時、あこがれていたフランス在住の辻仁成氏の音楽と小説をテーマに卒論を書いたのだという。そのこともあって大学院に進んで音楽の勉強もしてみたかったそうだが落っこちたのだと。そのため東京でプロ活動後に岩手に戻って来たギタリスト・小林道夫さんに音楽の理論を教わったことで、ようやく納得と発展が出来るようになった。
 フルートを始めようと思ったのは生まれ故郷宮古市の千徳小学校時代、4年になったら友とフルートで鼓笛隊(ブラスバンド)に入ろうと約束したが、父は中学校、母は小学校の先生で転勤の為、4年生から両親と共に盛岡へ、彩さんも北厨川小学校へ。そのため友に2年の遅れをとって北稜中学校に入ってからフルート始め、同校吹奏楽部で東北大会まで出場。以来、高校、大学吹奏楽部、同ジャズ研究会。さらには盛岡吹奏楽団でと吹き続けながらライブハウスジャムセッションやバンドでも演奏。結婚して中国へ渡ってからは、言葉通じなくとも音楽なら通じる!と外人も集まる2ヶ所のライブハウスへ通ってフルートを吹き「シャオ・レーベン!」イエーイッ!と驚かれたという。「教育的にはアンチ日本でも、アニメでも日本語を勉強するし、日本の音楽も大好きだが、中国全体の話ではない。違和感は感じるがおおむね人はいいし、信頼すればすごくよくしてくれるが、適当なところは傾向としてはあるみたいで、ビジネスライクはむずかしい」と言う彩さんは「音」で中国に居る日本人の「おっと」とつながりながらパソコンワーク中である。
10:34:00 - johnny -

2023-03-10

幸遊記NO.487 「柴田君男のマジソン郡の恋」2020.5.18.盛岡タイムス

 2年程前、使ってみたいと思っていた古いプリアンプを、とある店で見付けたが修理必要との事。それでもいいからと買ったけれどやはり使いものにはならず仕方なく修理に出した。ところが、原因不明、修理不能と戻された。捨て値のジャンクで売るのはあまりにも酷!。どうせコロナ騒ぎで店は客無しと、自分で分解。その原因究明をして、故障個所を突き止め手当をしたら、部品交換せずに完治して元気に鳴り出した。「音が違う!子供と大人の程違う!ベイシーの音質に近いかも!」と女房が顔をほこらばせ僕に言う(もちろんメーカーも違う)。
 その音質という言葉でふと頭に浮かんだのは柴田君男さん(70)のことだった。秋元順子が歌う「マジソン郡の恋」の歌声の極上再生に命を懸けている彼。僕にもそのCDを聴かせてくれたので、僕はその歌の元になった小説や映画「マジソン郡の橋」のことを教えたら、買って見たと涙うるうる。何せ彼は年上の女房に先立たれた人。生前の服装は全て奥様の見立てとコーディネイト。おかげでいい男に育てられたのさ!とおのろけを言う程、美的な女性だったらしい。子供のころから何でも分解(こわす)のが好きだった彼は、水沢農業高校を卒業するも「就職したのは日立の水沢製作所。そこで彼女と出合ったのさ!その時ビビッと電流が脳内を走り、外電の仕事にくらがえしたら、なんと彼女の父も勤務する会社、東北電工だったのよ!でも仕事の内容は穴掘りの土木作業ばっか!汗水たらしてぐったり、げんなり、冬は寒くて仕事終われば仲間と飲む!おかげで、強くなったのは酒だけよ!」と笑う。
 高校時代からスピーカーボックス作りをはじめ、ステレオに凝りだして、延々の月賦払い生活。ある転勤中、家の整理を娘に頼んだら何んと大事なステレオまで全部捨てられてガックリ!で定年後にまた奮起して再スタート。来る日も来る日もいまだにあれこれと工作しては酒飲みながらうたを聴く!オーディオ三昧!の日々。だが愛妻との最後の約束、「二人の住み家だったマンションに他人は絶対招かない」を今も守り通しながら、まるでマジソン郡の橋の如きシーンのような愛妻の望みに応え、沖縄の海へ散骨した彼はその想いを胸に抱きながらの一人酒、「淋しい時は開運橋で」とやってくる!(そして僕も酒の相手に彼を呼び出し恋の唄を聴く!)
10:33:00 - johnny -

2023-03-09

幸遊記NO.486 「太田代伸夫の山菜と山の鯉のぼり」2020.5.11.盛岡タイムス

 5月の連休明けまでの休業自粛生活中、半世紀程前からの友・太田代伸夫さん(盛岡在住)に誘われ、彼が運転する車に同乗し、3度ほど山菜取りに山へ行って来た。おもえば田舎育ちの僕だから、それこそ山菜は三才頃から食べてたはず?記憶は小学低学年時代、竹筒をつくり塩を入れ持ち歩き、スカンポやイタドリの茎など皮をむいて食べていたことを思い出す。こしゃくや、はりぎり、カタクリ、たらぼ、等々の山菜のハカマや枯草を取り除く作業しながら、あれこれ調理法を考えるのも楽しく、食する時はまさに至福である。
 太田代さん(74)は宮守村(現・遠野市)生まれ、盛岡工業高校卒。父は県庁職員だった人で若き日、農業試験を受けたら2番の成績。その時の1番は、のち岩手県知事となった中村直氏だったとの話を聞いたことがあった。僕が彼、太田代伸夫さんに出会ったのは20代の半ば頃、陸前高田にあった「柳(りゅう)」という店でバーテンをしていた時であった。当時彼は28才?。陸前高田の長谷川建設にいて、たしか住宅団地関連の仕事をしていた。彼の言葉で覚えているのは「将来、家を建てる時、俺がやるから!」だった。だが僕は家はおろか1坪の土地さえも手にしたことはなく、まるで物語に出てくるキリギリスのように音楽に遊びほうけている毎日で生きて来た。
 かたや太田代さんは37才の時、勤めていた建設会社の部長を辞し、大所高所(個々の事、小さな事にとらわれない大きな視野)に立つ「大高建設」を起業!。初仕事の「いわな養殖場工事」に取り掛かる時、お金の無い彼に、生コン・機械・資材など必要な物すべてを、それに関わる会社が無条件で応援してくれたという。又、優秀な親方と作業班まで付いて来て段取りよく、まるで流れ作業のように働けた御蔭で利益率も良く、最初からボーナスを支払ったのだとも。以来業界の談合には一切かかわらない事を貫き通して、会社を社員にバトンタッチ。その間自分のお金はユニセフに寄付し続け、恵まれない世界の子供たちへ届け、又、困っている知人を助けその子供たちへ学費の援助までしてきた稀有な人!。それを陰で支えた芳子奥方は菩薩様。山菜取り終え帰り道、ふと山眺むれば岩手山の蒼い山肌に、くっきりと巨大鯉のぼりの残雪姿。嗚呼!今日は元禄五月晴れ!
10:31:00 - johnny -

2023-03-08

幸遊記NO.485 「釈迦と菩薩と如来」2020.5.4.盛岡タイムス

 盛岡市に「開運橋のジョニー」が開店した日の4月8日(2001)はお釈尊降誕会(花祭りの日)であった。その釈尊(ごおたましったるだ)が釈迦国の王子としておうまれになったのは今から3千年近い前のこと。(だから仏像はサンゼンと輝いている!は僕のダジャレ)。城を飛び出し難行、苦行。断食をして、ミレンセンカで沐浴中彼のやせ衰えた姿を見た村の娘・スジャータが乳がゆのほどこしをしたことから、体力を回復して、菩提樹の下で悟りをお開き(仏陀)になったとのこと。それはお釈迦様と菩薩様がこの世に出現した瞬間!釈迦牟尼佛(無二仏)と弥勒(魅力)菩薩の誕生(如来)であり、以降3千年もの間、それを祝してきた人々の大切な日となった由来の日(内なる宇宙のはじまり)。「釈迦は男性だが菩薩・如来は想像の御仏様たちであり、性別はない」と友人の和尚。
 今、世界は新型コロナウイルス対策に頭を悩ませ、外出自粛要請や規制、緊急事態宣言の発令などなどで「ステイホーム」という自宅待機生活の毎日である。宗教者達もその全ての垣根を超え、心ひとつに、コロナ終息へ向け手を合わせ、ひたすら拝む、祈る、座る、伏すの、いわゆる在家・インナートリップの世界に入った様子を伝える。困った時の神様、仏様、ご先祖様、親友、ポン友、様々ですがお国の本丸・おやかた日の丸の皆様だってふところ以外は大変でしょう。ご苦労様です。
 店内でも外出中でもマスク、マスクの毎日で、マスクを忘れりゃ自分のマスク(顔)に視線が突き刺さり、あるいは遠ざかられる日々の中「じじ、ばば、まごさんへ」と、手作りマスクが女優さん(優れた女友達)から手紙と共に届いた。「針仕事が好きな自分と、ミシンの好きな友とで作ったマスク」。手紙によれば2人のコンビよろしく、残り布やハンカチ、手ぬぐいの中に赤ちゃんに昔よく使われた麻の葉模様があったので、それをおしめマスクと銘命したらしい。すると翌日新聞に達増岩手県知事がそのおしめマスクをして登場していたと。「赤ちゃんのおしめに麻の葉柄をつかうのは魔除けの意味があるということ。私も思わず大きくうなずいた」と彼女。僕も「読んで字のごとく鬼をも追い払える丈夫な麻糸で結ばれる家族の絆が出来るのさ」と、孫と一緒にステイホーム中である。
10:27:00 - johnny -

2023-03-07

幸遊記NO.484 「ボストンの覇者・山田敬蔵逝く」2020.4.27.盛岡タイムス

 秋田市の石垣隆孝さんからショートメール「今日(4月23日)魁(秋田さきがけ)新聞で山田(敬蔵)選手の訃報が伝えられました、、、健康お見舞いと連絡まで」と。新聞では「2日川崎市で老衰のため、92歳で。葬儀は8日に近親者のみで行われたそうです。山田敬蔵(幸遊記№347)さんは、1953年のボストンマラソンで2時間18分51秒(世界新記録)で優勝した人。昭和2年(1927)秋田県大館町生まれ。身長5尺2寸(157.56㎝)体重11貫5百匁(43.125㎏)という小柄な体で世界で初めて2時間20分の壁を破った。その優勝一ヶ月後には彼の地元で山田記念ロードレース大会が開始され今日まで続いており、2014年4月同大会を浅利純子選手と共に完走した時、敬蔵さんの年齢は86歳。
 山田敬蔵物語(石垣隆孝・文/北鹿新聞・2018年10月~12月)によれば、父・吉治、母・スミの2男として生まれ、小学校時代は運動神経が鈍く運動会嫌いだったという。15才の時満豪開拓青少年義勇軍に志願し満州へ。毎日軍歌を歌いながら駆け足をしたのが走る日課の始まりで復員するまで数年間続け、1㎞走で200人中1位になり後のマラソン人生のきっかけとなった。終戦後満州から秋田へ引揚げ昭和22年(1947・僕の生まれた年)に町の運動会で4㎞競走で4位。翌年の10㎞で1着となり、以降往復数十キロを走って通勤したという。昭和24年第4回国体(東京)に秋田県代表として出場42.195㎞のフルマラソンに初出場7位(県予選優勝者・河田康雄さんが故障。彼は若い山田さんを代表にしてほしいと言って辞退した)の幸運スタート。1952年ヘルシンキオリンピックの日本代表で26位。以降「一にも二にもスピードだ」と冬の雪上、吹雪の中でも毎日走り続け、54年のボストンへ、その檜舞台で彼が打ち立てた記録は人類未達成の新記録。ヘルシンキでのサドベックの人間機関車の上を行くジェット機関車の名が冠せられ、更には彼「山田選手をたたえる歌」(山田千之・作詞/石井歓・作曲/石井五郎・編曲)まで作られ、ボストンには2007年まで17回の出場、山田記念ロードレースには60回連続出場。80歳を迎えるまでに35万㎞余りを走り切った。健脚、健腸の人であった。コロナでオリンピック延期の今年、彼の命も途絶えた。僕の店には第一回から1964年までのオリンピックポスターを展示中である。
10:26:00 - johnny -

2023-03-06

幸遊記NO.483 「林芳輝の蒼穹の彼方に」2020.4.20.盛岡タイムス

 「コロナの影響大変な状況ではないかと拝察申し上げます、、、」4月13日(啄木忌)に、と手書きの文が添えられた各位宛の文書とCDが望月善次氏(岩手大学名誉教授)から届いた。それによれば、本紙盛岡タイムスの前編集長・故・関口厚光氏の追悼集「賢治詩歌の宙を読む」(岩手復興書店)2017年5月発刊に携わった「星月夜の会」の皆様にお届けしたいと、同会のお一人であった林芳輝氏(岩手大学名誉教授)が関口さんを偲んで作曲した「蒼穹の彼方に(関口厚光氏のご霊前に)」のオーケストラ演奏をCDに収録したもの。
 闇の中に現れる地上の風景と一緒に、無数に輝く星々の光を、まるで宙に咲く群花の如く撮り続けた稀有な写真家でもあった関口氏の作品。それに寄り添うように幻想的な美をより美しく醸し出し、まるで銀河を宇宙船に乗って旅をしながら、この得も言われぬ音楽を聴き入っている。そんな感じさえ想い起こされる大作である。
 作曲者・林芳輝さん(84)は現在大船渡市在住。かつて話題になり今も彼等の作品がドラマ化されるなどしている岩手の作家、故・中津文彦氏や髙橋克彦氏が受賞した「江戸川乱歩賞」に、実は、一足早く最終選考に王手をかけたのがこの林芳輝さんの小説「ショパンの告発」だったはず!と頭に浮かぶ。出身は八戸、家は農家、子供の頃は二代目天中軒雲月の浪曲ばかりを一所懸命聴いて育ち、のちチャイコフスキーの「くるみ割り人形」に感動。
 芸大に入りたいと高卒からピアノを始め、7年挑戦で合格。同大作曲科卆。大阪音大、東京音大、東京女子体大、岩手大学の教授を務め「ソナチネ」「二声のソルフェージュ練習」「青少年のための現代音楽入門」等々の出版。日本作曲家協議会東北代表幹事。一方では童話作家として詩誌「火山弾」に所属、童謡曲の発表。「白い道」で岩手芸術祭児童文学部門優秀賞受賞、他、本紙盛岡タイムスに音楽の出来事などを連載していた時期もあった。「小さな頃から大学の先生になりたいと憧れていたが、小学生の時父が亡くなり栃木の祖父母に育てられ、本好きで江戸川乱歩をよく読んだ。そのことから、小説家になろうとしたこともある」そんな話を林さんから聞いたのはもう30年も前のこと。年月の流れゆく速さに驚くばかりである。
10:24:00 - johnny -

2023-03-05

幸遊記NO.482 「禁じられたママの街作戦」2020.4.14.盛岡タイムス

 今日4月13日(2020)は、あの3・11大震災の2011年以来待ちに待っていた津軽三味線・高橋竹山の開運橋のジョニーへ来演の日でした。でもコロナウィルス騒で延期!残念至極。そんな中で今、やけにしみるのは「うたも楽器も、からだあってのこと、からだの中には、風景も想い出も勇気も失望もしっかりとしまわれています」(田中泯・舞踊家)の「竹山の
汀へ」のCD解説文。現竹山は二代目で女性。昔の芸名は竹与さんだった。初代・高橋竹山が盛岡で演奏したのは1974年6月、77年4月、80年6月、83年1月、90年6月(主催・盛岡労音)。僕が聴いたのはいつだったかなあ、、、、大船渡農協会館、気仙沼市民会館での2回、どちらも労音主催だった様な記憶だがレコードでは随分と聞いたし、今も聴く、本も読んだ。
 そんな中「津軽」で連鎖したのは1932年から現在まで88年も続いている盛岡市本町通にある喫茶店「ママ」の三代目ママ糸坂昭子さんの“つがるの笑顔”(津軽出身83才)であった。その盛岡現存最古の喫茶店「ママ」で、これまた岩手現存最古の文学誌「北宴」の編集者である歌人・小泉とし夫(本名・岡澤敏男)さんの卒樹讃(93歳)展(書・照井顕)が、明後日の15日(水)まで開催中である。8日に行われた小泉とし夫さんの朗読会はコロナに注意しながらの開催!何しろギター伴奏(演奏者は医師で太陽のコロナも含む宇宙研究観察者)八木淳一郎さんとあってか皆さんどこか安心顔でした。それでも「人つどい また別れいく北宴の 野分のさなか 息ひそめいる」など別意味のコロナに聞こえなくもなかったり。
 開け放された店の窓から時折ゴロゴロゴロー遠雷の如く往く車音と共に「ママ」の
二代目ママ節子さんが昭和30年代に書いた詩「遠雷」の「自分のことばかり考えながら 
しかも 自分の為に生きる術を見出せぬ愚かものが ここにも一人」の一編さえ、僕のことの様に頭を横切ってゆく。それにしても拡大の一途をたどるコロナの猛威!街は一体どうなってゆくのだろうと思う間もなく僕は自分で「街」に反応!戦争中「ママ」は敵性語だから(ママならぬ?)と禁じられ「街」という名にした昔のママの生き残り作戦!それでも終戦までの一年間休業を強いられたと。今僕の店は待ちに待つ街に待つ作戦?
10:24:00 - johnny -

2023-03-04

幸遊記NO.481 「宮沢賢治は日本初のジャズ文学者」2020.4.6.盛岡タイムス

 スポーツ、芸術、文学、音楽、その他のあらゆる分野において、日本中!世界中!から今最も注目されているのが「IWATE・KEN」。真に遅い開花の春がやっと来ました的な一大岩手ムーブメントの到来である。僕達ジャズの関係での最注目は5月公開予定(コロナで延期?)の「ジャズ喫茶ベイシーのバラード」(星野哲也監督作品・104分)。同店に去来した大物ミュージシャンたちのライブ映像や巨大スピーカーが発するアナログ再生音の生収録音、半世紀もの間、店や彼のファンを魅了し続けて来たマスターこと“スウィフティー”・菅原さん自身はじめ、ゆかりの著名人たちへのインタビューで綴られた、日本固有の文化であるジャズ喫茶を紹介するドキュメンタリー。しかも、日本一の音と評され続けて来た「聴く鏡」ベイシーの「ステレオ」が主役となる世界初オーディオ(レコード演奏家)の映画!これはすごいことです!
 昨日(4月3日)その主人公・ベイシーの菅原さんから僕のところに電話あり「そっちはどうだい?こっちはコロナで封鎖中!」とのことだった。彼がいつも言っている「一関の常連は3人だけ、あとは全部外から」は盛岡の僕の店だって右に同じのジャズ喫茶という不思議な存在。いわゆる地元民にとっては今では殆ど必要のない有名無実?の店ということなのでしょう。
 それはそうと、ジャズジャパン誌5月号(2020)表紙はなんと宮沢賢治である。しかも「宮沢賢治は“日本初のジャズ文学者”だった」と。ニッポンジャズ100年の外伝特集。賢治(1896~1933)の生涯は、まさにジャズの草創期に一致し「21年1月上京(家出)し文京区に住んだ時期日本でジャズが流行し始め、6月“日本初のジャズライブ”が活動写真(映画)館「金春館」(新橋)と「帝国館」(浅草)で始まり映画好きの賢治がこの時ジャズを聴いて興味を持った可能性あり(もしくは23年1月の上京時)」とある。彼の作品「岩手軽便鉄道七月のジャズ」や「火薬と紙幣」の中の「ラッグ(ラグタイム)」「ジャズ・夏のはなし」「JAZ」「セロ弾きのゴーシュ」での子狸とのセション及びフォックストロットでの“インドの虎狩り”演奏等々真にジャズ文学。著者の中山智広氏は仙台出身だが母方の実家が小岩井農場の中にあって、親戚に賢治や宮沢家と交流のあった盛岡の詩人・宮静枝さん(1910~2006)がいた。とあり、これまた岩手つながり(宮さんは生前ジョニーにも何度も来店)である。
10:20:00 - johnny -

2023-03-03

幸遊記NO.480 「交通新聞の日本ジャズ地図」2020.3.30.盛岡タイムス

 「日々全力でレコードをかけてます」菅原正二(一関ベイシー)。と帯に書いてあるポートレート・イン・ジャズ喫茶(写真・谷川真紀子)本。2018年から2年の歳月をかけ現地取材した「日本ジャズ地図」という本が2020年3月24日全国の書店に並んだ。(交通新聞社¥1.600+税)。扉を開けば「ガラパゴス的かどうかは別として、日本にしかない、音楽聴取を目的とした喫茶空間であるジャズ喫茶。好きな音盤をかけてお茶を差し出すという決まり事だけが共通の、千差万別多種多様な店を訪ねる全国行脚。あなたも始めてみませんか」とある。取材者・常田カオルさん(女性)は2009年に刊行された「東京ジャズ地図」のメインライター。同本は好評博し2016年に改訂版を刊行。その更なる部数結果で、全国版「日本ジャズ地図」刊行に至ったというもの。
 昔は「ジャズ日本列島」(ジャズ批評社刊)本を手にした若者たちが全国のジャズ喫茶を訪ね歩き、「来れるものなら来てみろ!」と息巻いてた僕の店にもよくぞ?来たものでしたが、昨今は外国人が日本のジャズ喫茶に夢中!自国でジャズ喫茶を開くのが夢という人もいた。ところが現在世界中でコロナウィルス騒動。僕の店も連日連夜本日開店休業。自頭に浮かぶは、それでなくてもガラパゴスの旧業!と、自己納得、納豆食ってネバル対策?シャレ言ってる場合じゃないが、シャレでも言って笑わないと耐えられない毎日ゼロ。
 さて本題の日本ジャズ地図、東京のある店はその後のジャズ喫茶の見本手本だったり。親から子へ、店主から常連へ。またあるいはボランティアで継続させる店。一代きり!と一人で延々と立ち続ける店。定年後に開店した店。4万枚ものレコードがある店、オーディオが自慢の店。そうかと思えば、開店時のまま70年近く店を続けている現役最長老98才のママさん等々ジャズに魅せられた人々の生き様がそのまま店を形成している。見て読んで楽しく、勉強になり、ジャズが嫌いでも飲むのが好きな人なら飲み込み速く上手?になると思う。ちなみに47都道府県、シックスナイン(69)のジャズ喫茶中、岩手は東京、大阪に次ぐ数の4店、一関・ベイシー、胆沢・ハーフノート、釜石・タウンホール、盛岡・開運橋のジョニーが紹介されています。
10:18:00 - johnny -

2023-03-02

幸遊記NO.479 「行田よしおのぬるーい音泉」2020.3.23.盛岡タイムス

 昨2019年9月「一枚だけ持って逃げるなら」というジャズLP会が出版した本が届いた。発行元・市川「クール」(宅急便ではない)は司会業兼評論家として名高い行田よしおさん(75)の店YOSHIO GYODA’S SPOT「Cool」である。月1ジャズレコードコンサートを店で開催し、その100回記念に作った小冊子だ。ジャズ歌手・阿川泰子さんの「ジュリーロンドンに憧れた私」に始まり行田さんの息子・達生さんまで18人による18番(おはこ)LPでの個人的なよもやま話。各人の紹介文は店主行田よしおさん。(定価・¥600・A5判44P)。
 僕にとって行田さんと言えば1998年11月19日・陸前高田で行った「秋吉敏子・ファミリー・コンサート」(秋吉トリオ・マンデイ満ちるグループ+ルータバキンの世界初演)で名司会をして頂いたこと。それ以前の96年10月23日、品川パシフィックホテルで開かれた秋吉敏子ジャズライフ50年を祝う会での司会では、当時「ニュース23」でおなじみだった故・築紫哲也氏や、行田さん言うところの作文の師であり司会の師でもあった大正生まれのジャズ評論家・故・油井正一氏等々があいさつ。宴の終わりに、「秋吉さんが勲章を貰える様、皆で頑張りましょう」としめくくった行田さんのあの一言に、僕は今なお突き動かされ続けている。
 それこそIBCが45分のTVドキュメンタリー「さすらいのジョニー」(僕を特集した番組1989年12月25日放送)は、東京での作家・五木寛之氏へのインタビューシーン他日本ジャズボーカル賞授賞式での俳優・宝田明氏や行田さんとのやりとりも映る豪華さだった。その中で行田さんが僕に向かい「照井さんは、かねがね、、、」と言いかけたところで「かねがねーってすか?」と言って笑わせ「日の当たらない日本のジャズメンにスポットを当ててくれてるのが嬉しいんだよ」と言った彼に「僕はそれが行田(業だ)と思ってんですよ!」ととっさのダジャレで返したシーンだけは覚えている。それはそうと「つれて逃げてよ、ついておいでよ」の歌詞で知られる「矢切の渡し」(石本美由起・作詞、船村徹・作曲、細川たかし・歌、83年発売)の6年前(77年)スイングジャーナルに、彼は「柴又から渡し舟で江戸川を渡ると僕の住む矢切!」とズージャ色した「矢切の私」話を書いてました!。いつかクールに行って見たい!「いつクールの!って?」。
10:17:00 - johnny -

2023-03-01

幸遊記NO.478 「風・白く、不来方の思い出」2020.3.18.盛岡タイムス

 市外県外客が大半を占めるジャズ喫茶・開運橋のジョニー。案にたがわずコロナウィルスさわぎとその対策により、それでなくても暇な店に、今はほとんど誰れも来てくれない状態続き。この先いったいどうなるのやらの不安以前に「弊店は閉店」です。などとシャレ言ってる場合じゃないが、昔僕はコロナという名の自動車にずいぶん乗ったなあと思い出すコロナ連鎖。新車買えずにスクラップ寸前のポンコツばかり何十台とっかえひっかえ乗り継いできた。その中でも三速フロントギア、四速フロアシフト、五速ハードトップ、オートマチック、そしてスポーツと、今では車名が消えたコロナの中古(ちゅうぶる)台数が一番多かったと記憶する。
 その一番でまた思ったのは僕が喫茶店を開き、これまで、ジャズ喫茶、しかも日本のジャズを専門に、今では外国のジャズも店で流すが、個人的にはありとあらゆる音楽に耳を通してきた僕が一番回数多く耳にした曲は何?と問えば、ふしぎにも発売された2009年から数年間毎夜床について寝ながら聴いて又今年、目覚めに聴いている2曲入りCD「風・白く」(小森田木子・作詞、磯貝セツ子・作曲)「不来方の想い出」(磯貝セツ子・作詞、作曲)2曲とも編曲は佐藤将展さん、歌は高橋佐登子さん。「風が生まれて ひとみ輝き 二人の心に 芽生えたのを 愛とは知らず 駆けだした、、、、(風・白く)」「アーア 不来方に響くうた声 弥生の空 暦めくる 春がまたくる、、、、(不来方の想い出)」前曲は心の春、後曲は季節の春。まさに今が旬・弥生・3月の歌なのである。コロナで閉じこもり気味時の今春にとってこの歌は心を癒してくれる存在。しかも盛岡生まれの曲である。見知らぬ磯貝さんに感謝です。
編曲の佐藤将展さん(元・姫神せんせいしょんのメンバー)に僕は1987年、ジョニーズディスクから発売した早坂公公のカセット「秋のエチュード」(1987年発売)の録音時、ドラムを担当して貰い、歌の高橋佐登子さんは、作品の虫の声?というタイトル?カセットを  以前僕の担当していたFM岩手のオールザットジャズ番組で放送した記憶があり、彼女が「路地裏C°」というCDを出版した2003年店で歌ってもらった、これって僕の不来方の思い出?
10:15:00 - johnny -
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