盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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レポート

2023-02-28

幸遊記NO.477 「希望の光ともす横浜」2020.3.9.盛岡タイムス

 横浜の野毛にある現存日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」から新作のCDが届いた。日本ジャズ界のレジェンドピアニスト・今田勝さんが、昨2019年26回目を迎えるはずだった「横浜ジャズプロムナード」(台風の為中止となった)のプロデューサー・柴田浩一さん(74)の著作「ビッグバンド大辞典」の出版記念会の席上で「横浜ジャズプロムナード・オールスターズとしてCDアルバムを制作しよう」と呼びかけたことから柴田氏と親交の深いミュージシャンが世代を超え(20代~80代)22名が一堂に会し、様々な組み合わせ(ソロ・デュオ・トリオ・カルテット・クインテット・セクステット・セプテット・テンテット)による、トラディッショナルから日本のオリジナルまで16曲、日本のトップミュージシャンと注目の新人たちによる「日本のジャズ史に残る奇跡的なライブアルバム(たった一日限りの白昼のジャムセッションが実現した)ビギニング・トウ・ザ・ライト(希望の光が見えて来た)」
が完成(2020年3月11日・ディスクユニオンより発売)
 発案者一般財団法人・ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館・CHIGUSAレコードの代表・藤澤智晴さん(74)の趣旨に賛同した筒井之隆さん(カップヌードルミュージアム館長)のお話が、今田勝さんの耳に入り、彼が柴田さんと親しいジャズメンへの呼びかけ。そこで、ディレクターを買って出たのが柴田氏の同級生で横浜ジャズ協会副理事長の小針俊郎さん。彼は後輩で東京FMの岩崎育郎さんに声をかけ、旧知の柴田氏のことだからと、番組にすることを前提に録音を快諾しスタジオを提供され、ジャズプロムナードの開催月である昨年10月6日に実現したというまるでイモヅル式の様な発展の仕方であるが、制作にかかわった方々も演奏者を超える層厚で「日本のジャズは横浜から始まった」をまざまざと見せつけられる。「一生懸命に勉強したいって気がある人にはもっと教えてやろうってなるよ」「プロデュースしてくれる人がいるから音楽が成り立つ」「聴いてくれる人がいなきゃ話になんない。」「聴く人がいたらその人の耳をこっちに向けさせなきゃいけない」などのライナーでの会話にも演奏も聴く人あってのことを原点におく。ちなみに盛岡のジャズ歌手金本麻里さんも1曲参加抜擢されました。
10:47:00 - johnny -

2023-02-27

幸遊記NO.476 「ニッポン・ジャズ100年」2020.3.2.盛岡タイムス

 月刊スイングジャーナル誌(1947~2010)の後継誌である「JAZZ・JAPAN」誌(2010
~)のVo1.115(2020・4月号)はニッポン・ジャズ100年特集号である。1920年の月刊楽譜誌7月号に「東京ジャヅバンド」のポートレイトが出ていてこれが日本の雑誌に登場した初めての「ジャズ」の可能性とある。バイオリン、バンジョー、ピアノ、ピアノ兼パーカッションの編成。バンジョーは米人。同年6月17日来日、19日公演「米国加州大学クレー倶楽部主催、音楽及び舞踏大会、ジャズ・ダンス」の新聞広告(朝日)が日本で初めて新聞に出た「ジャズ」という言葉の可能性があり、そしてこのバンド演奏を当時のニッポノホンが録音して計2枚、4曲を「ジャヅオーケストラ」「イントリウメンタルトリオ」で発売した日本初の「ジャズレコード」。翌21年6月17日読売の浅草帝国館で「松竹独特ジャヅバンド・今週より弾奏」の広告。恐らくこれが日本のジャズ「ライブ」の始まり、と。録音では同年陸軍戸山学校軍楽隊による「ホネームーン」「ホームスイートホーム」のジャヅが日本人の演奏による初録音。「ジアツ」「ヅャヅ」「ヂアヅ」「ヂャヅ」「ジャズ」等々時代と共に様々な書き表し方で伝えられてきた日本でのジャズレコード史100年に興味津々。
その中で40年余り前(1978年)から細々とレコードの自主製作を続けてきた「ジョニーズ・ディスク」の新作「金本麻里・ジェリコの戦い」が日本のジャズ100年を特集したジャズジャパン誌にCDレビューと金本さんへのトピックス・インタビューが半ページ、1ページでの掲載になり、日本のジャズを標榜してきた僕にとっては何よりも嬉しいグッドタイミング。
評論家・高木信哉氏は冒頭で「名シンガー・金本麻里の新作」と「マヘリアジャクソンを彷彿とさせる歌声が素晴らしい」「ホープ(谷川俊太郎作詞・秋吉敏子作曲)は東日本大震災からの復興の願いが込められている。金本の心のこもった真摯な歌声に思わず泣けてくる」の評。ジャズ批評誌では「何という驚くべき成長ぶりだろう。声量たっぷり、安定感抜群、力の抜き加減も絶妙。テクニックを超越した人生の喜びと哀しみを凝縮した天性の歌心がある。ピアノの武藤晶子、フルートの小川恵理紗、金本を軸にした3人の至高のまとまりを見せる」(後藤誠一)とある。
10:44:00 - johnny -

2023-02-26

幸遊記NO.475 「ジャズワールド紙の休刊」2020.2.24.盛岡タイムス

 1月9日(2020)東京のジャズワールド社からFAXが届き、読んでビックリ!「ジャズ新聞・ジャズワールドを休刊することといたしました。つきましては惜別のお言葉を頂きたく存じます」だった。ジャズワールド紙は1979年3月の創刊以来1号欠番もなく41年間発刊、2020年2月号の通巻492号が最終となった。この新聞の最大の功績は「水島早苗賞」のちの「日本ジャズボーカル賞」を制定。2019年度まで35年間、大賞、特別奨励賞、新人賞で表彰し日本のジャズ歌手たちを応援励まし続けてきたことだろう。
 内田晃一編集長(93歳)企画から取材、撮影、記事、事務、新聞の発送まで現役でこなし、なおかつ、戦後のジャズ復興期から現在に至るまでバイブラフォン奏者として現役で自己カルテットを率いている怪物!なのだ。僕が彼と出会ったのは創刊まもない79年、日比谷野外音楽堂で行われたサマージャズ祭会場。以来今日までそれこそ1号も欠かさず日本のジャズ、特にもボーカルに関する情報を届けてくれ、また日本ジャズ祭その他取材で岩手にも足を運んでくれたことなど想い出されます。ジャズボーカル賞授賞式も最初の頃はホテルや、ツムラ本社の豪華なホールなど華やかな時代もありましたが、近年は、ジャズクラブなど身近な会場でより親しみやすくなっていた。休刊は年齢ということもあろうが、ご苦労だったのでしょう。
2016年度の優秀歌唱賞に輝いたおぬきのりこさんの「生演奏自体は依然としてエネルギーを失うことはありませんが、生演奏の現場は人が足を運ばなくなって久しい」は正にそれ。「巷のメディアがジャズを見放した平成期にもジャズを志す後身たちに寄り添って希望を与え続けた」と佐藤マサノリ氏。2013年大賞の豊田チカさんは「内田さんには後輩ミュージシャンとして敬意を表したい。母マーサ三宅、父大橋巨泉、姉大橋美加、そしてわたくし、親子4人とも何度貴紙に取り上げて頂いたかわかりません心から感謝」日本のサッチモこと外山嘉雄さんは「世界最年長のバイブ奏者として演奏をお続け下さること祈っております」評論家の瀬川昌久さんは「ジャズに関する月刊誌はほかにもありますが本紙のように身近なジャズメンやジャズ歌手の情報を克明に報じる上にジャズボーカル賞その他を通じてジャズ界の発展に寄与しているメディアはひとつもありません」他多数の文に淋感!
10:42:00 - johnny -

2023-02-25

幸遊記NO.474 「東海新報の鈴木英彦氏」2020.2.17.盛岡タイムス

 10Bの鉛筆を握りこの原稿を書きだしている。右脇には数十輪の生花。この花は一週間程前の2月9日大船渡で行われた葬儀の帰りに渡され頂戴してきたものである。亡くなられたのは東海新報社の鈴木英彦社長(77)。そのことを知ったのは本紙・盛岡タイムスが知らせた「東海新報社の鈴木英彦社長が死去」の訃報であった。僕は丁度この幸遊記のナンバー472で東海新報に関連することを書いていた時と重なり、ビックリした。
 東海新報社と鈴木家の合同葬の式次第と彼の経歴の書かれたパンフレットを見ながら僕は様々なことを想い出していた。まずはあの2011年3月12日付の東海新報号外「大津波、街を呑む」に始まって4ページ立てを3月いっぱい無料配布しながら安否情報や伝言など読者に自由解放し、通常通りに発行し続けた地域紙としての模範的行動。そしてようやく有償個別配達を再開した4月1日新聞には「笑顔はずませ復興まつ」と瓦礫の街を背景に笑顔いっぱいの5人の子供たちの姿と高田松原に残った一本松に希望を託してのシャレたトップ記事の見出し。社長の鈴木氏が毎日担当していた「世迷言」では「JR東日本の社長は津波で被害の出た太平洋沿岸の7路線すべてを復旧させる方針を明確にした。しかしそれはリップサービスというもので、赤字路線は切り捨てよという資本の論理が前面に出て、あれこれ理由をつけバス輸送になるのではないか。昭和10年盛まで開通の大船渡線気仙沼以北の同線は使命を終えてバスにその座を譲る時ではないか」と震災から1ヶ月もしないうちにそう書き語った鈴木社長の先見の言葉は流石。
 1981年社長になり、7年後には社屋を海岸から湾口の見える高台へと移転させたことも彼の先見の明であった。趣味では69年大船渡にジャズのビッグバンド・サンドパイパースを結成。自らリーダーとしてバンドを率い、最近ではいわてジャズや東京ジャズなどで、世界のトップスターボブジェームス等と共演を果たし、全国に知られるまでに育て上げた手腕と誰からも好かれる人望の厚さが物語る素敵な笑顔と飾らぬ人柄は紙面にも反映され、「震災前より部数は伸びている」と聞く。彼が愛した曲、マイウェイのトランペットによる葬送奏が耳に残る。
10:39:00 - johnny -

2023-02-24

幸遊記NO.473 「外人が注目する日本ジャズスピリッツ」2020.2.11.盛岡タイムス

 今年(2020)1月15日、僕のレーベル、ジョニーズ・ディスクの新作「ジェリコの戦い」CDが、東京のレコード会社「ウルトラヴァイヴ」を通じ全国発売となり店頭に並んでいる。歌っているのは盛岡出身・在住のジャズ歌手・金本麻里(40)。2011年3月の「ホープガール」でのデビュー。これまでに第1回横浜ちぐさ賞。第33回日本ジャズヴォーカル賞新人賞を受賞。2007年から10年間開催された「いわてあづまね山麓オータムジャズ祭・イン・紫波ビューガーデン」10回連続、「盛岡大通・ビッグストリートジャズライブフェス」に33回連続、「横浜ジャズプロムナード」へも選出され2014年以降連続出演。その他の様々なイベントにも東北関東中心に呼ばれるなど、日本ジャズボーカル界の成長株である。女性3人(ピアノ・フルート・ボーカル)による今作は「流れるようなスムースなリズム展開が個性的。声と唱法がよく生きている」(評論家・瀬川昌久氏)の評。月刊ジャズジャパン誌は1ページをさいて金本麻里のインタビュー記事を掲載するとの事で取材あり。そして又、盛岡市内・M’sXPOのCDショップから2月15日午後2時からのインストアライブ依頼が、東京経由で来たので打ち合わせに行って来た。
 M’sXPOショップに入って驚いたのは店内奥の壁一面がジャズコーナーであったこと、しかも話を聞けば「以前にCD化されたジョニーズディスクは好評でした。特にも海を見ていたジョニーは随分売れましたよ」とのこと。さらに、今年1月中旬から3月下旬までの期間で全国キャンペーン中の「和ジャズ傑作選」(ニッポンジャズ・スピリット)50タイトルが特別展示されていたので目をやれば、な、なんと、宮古出身の故・本田竹広の7作品。そして僕が70~80年代に制作したジョニーズディスクから6作+2枚組ベスト盤の7作がその中に含まれていて、制作者の僕自身ビックリ。更にその50枚から選んだ9曲を1枚に収めた「シーナリィ・オブ・ジャパニーズ・ジャズ」というオムニバスアルバム(期間限定価格¥1200)にも3曲が選ばれており「自身の耳のみを判断基準に良盤を求める海外リスナーが注目する“和ジャズ”その中から海外で評価の高いトラックを集めた和ジャズコレクション」とあり、昔々の僕の耳をフィルターにした作品が40年を経て海外からの(岩手県?)評価に驚くばかりです!
10:37:00 - johnny -

2023-02-23

幸遊記NO.472 「インタビュー記事で想い出したこと」2020.2.3.盛岡タイムス

 幸遊記(470)の最後尾「愛しているから続く」というタイトルで「ジャズピアニスト・作曲家・秋吉敏子」が全国地方新聞(岩手日報など)に共同通信による配信記事が載ったことを書いた。あちらこちらの人から違う新聞の切り抜きが僕が書く以前に届けられていて大変嬉しかった。というのも実はあの記事を書いた共同通信の女性記者がインタビューをした2019年11月9日(前夜は東京文化会館での秋吉敏子90thアニバサリー・ソロコンサート)。神楽坂のホテルラウンジで、そのインタビューのやりとり一部始終を立って聞きながら僕はプライベート手帳にメモしていました。
 共同通信の取材は2ケ月後の発表でしたが、違う新聞の同じその記事文を読みながら、僕は自分の店のことが初めて新聞に載った遠い昔日のことを想い出していた。開店3年後の1978年、自分の大好きなミュージシャンを呼び、ライブやコンサートを開き、はたまた北海道のグループのレコードを制作して、中央へ売り込み?をかけたことからの取材が始まりだった。以来身に余る光栄的扱いの様々な取材をされても記事として出ると、何かしら、自分が本当に伝えたかったこととは違うとらえられかた、伝えられ方もあって、いつのまにか、うそではないが本当の自分でもないような気がするようになって、「僕も書く側にも立ってみよう」と思うようになった。
 そのことから「僕が好きになった音楽家や文化人の考え方、生き方、などなど、その人の話し方で新聞に書くことをやらせてくれませんか」と僕が相談を持ち掛けたのは大船渡にある東海新報社でした。同紙も確か6ページから8ページへと移行の頃で「何枚でも自由に書いてみなさい」と当時の編集長だった鈴木周二氏が言ってくれ、半ページからほぼ1ページを使わせてくれた「照井顕のプライベートインタビュー」は1987年4月1日付から1993年10月23日付までの5年半、120余名140回余りに及んだ。それを、東京の出版社が本にしたいとのことで、スクラップした全編をその社の人に渡してと、友人に頼んだら「約束し待ち合わせていた店で隣りに座った人が帰ったらその袋も消えていた」と、その友人からの電話にガックリ。結局本にはならず仕舞いで、何年か前に岩手県立図書館で全部探してコピーをさせてもらいました。もちろん秋吉さんへのインタビュー記事は最多で6回分もありました!。
10:36:00 - johnny -

2023-02-22

幸遊記NO.471 「竹中真&本田珠也の初共演」2020.1.27.盛岡タイムス

 1970年「本田竹彦の魅力」「ザ・トリオ」「浄土」と、一生ものの傑作三部作を発表して颯爽とジャズ界にデビューした我等がジャズピアニスト・本田竹彦(のちの竹広・本名・昴[たかし]岩手県宮古市出身)が急性心不全で亡くなったのは2006年1月12日。1990年代からの脳血栓、脳梗塞、幾度もの脳内出血、左半身麻痺、骨折、心臓肥大、肺水溜と闘いながらも、まるで不死鳥の如く甦っては僕等の前に現れ、ジャズへの執念と純真さでもって、最初から最後までファンを魅了し続けたホンモノジャズ人。
 その本田さんの次男珠也さんの演奏を初めて聴いたのは1985年8月、僕等が主催した「日本ジャズ祭・イン陸前高田」(21グループ)のステージ上。父が率いる「ネイティブ・サン」のドラム奏者としての彼、若干16才。その彼も今では50才。押しも押されぬ名ドラマーとなった彼と、それこそ本田竹曠にジャズピアノを教わり、渡米してバークリー音大に留学、最優秀賞を得て卒業し、米国での演奏活動後に日本人初バークリー音大教授となった竹中真(まこと)さん、(現・同志社女子大講師・ジャズピアニスト)の二人を組み合わせ、ピアノとドラムという珍しい二重奏ライブを開運橋のジョニーで実現したい!そう発案してすでに一年半!なんせ忙しい二人のスケジュール調整のタイミング合わず、ようやく出来たのが1月24日(2020)。数年前から竹中さんのソロライブをジョニーでやってきて、その彼独特の演奏と音の中には今も本田の特色が息づいていることを感じ、また竹中さん帰国時には師・本田すでに亡く、そのことからの発想。
 二人はお互いに知らない同志の初顔合わせ、チョイとリハーサルしてのぶっつけ本番!凄い演奏!とはこういう時に使う言葉なのだ!と僕自身感動で身震いがした。竹中さんの演奏する音、ノリ、進行リズムに、目にも止まらぬ早業で臨機応変、変幻自在の音を繰り出す珠也さん。僕は二人の演奏を目と耳と心で追いかけながら、自分の若かりし頃、一生懸命になってジャズを聴き、あの人や、この人の生音を聴きたい!聴かせたい!と、呼び続けた悪戦苦闘の日々と、その全てを一瞬にして忘れさせ、心を開放してくれた凄い演奏に出会った時の感動の数々を思い出させてくれた僕自身へのためのライブは一緒に体験した皆さんの宝となった様子です!感謝。
10:34:00 - johnny -

2023-02-21

幸遊記NO.470 「愛しているから続くジャズ演奏」2020.1.20.盛岡タイムス

 先月(2019)12月12日、ジャズピアニストの穐吉敏子さんが90才の誕生日を迎え、ご主人のル-タバキンさんとの結婚生活も50年の大きな節目。それを祝福し記念とする「エターナル・デュオ(永遠の二重奏)」というブルーレイとCD(映像と音源)2枚組ディスクがソニー・ミュージックエンタティメントから発売になった。収録は2018年9月15日、上野の東京文化会館で行われた同タイトルコンサート。穐吉さんのシグネイチャーチューンであるロング・イエロー・ロードに始まり、60有余年に渡る長いアメリカでのジャズ生活の中で生んだ彼女の代表曲だけを夫婦で演奏。終曲はあの9・11(2001)のアメリカ同時多発テロ以降のコンサートでは必ず最後に平和を希望する曲として演奏する「ヒロシマ~終焉から」の第4章「HOPE」の全8曲。この日のコンサートには僕の声掛けに応じた30人余りで聴きに行き、ホールの音もよく印象に残った最高のコンサート作品。
 その全てを取り仕切ったプロデューサー・天野静子さんは穐吉敏子さんのジャズ生活60周年を記念して2006年にサントリーホールで行ったユニセフへのチャリティーコンサート「今21世紀の子どもたちにつたえたいこと」の仕掛人でもあり、NHK・BSで2016年4月に放送になった「TOSHIKO・スイングする日本の魂」2017年4月の「穐吉敏子NY伝説・Ⅰ・Ⅱ」などのリサーチャー。そして今年2020年1月11日放送のNHK・ETV、スイッチ・インタビュー「達人達」(穐吉敏子と女優・松坂慶子)のプロデュサーという凄腕の女性!その彼女から「照井さん!これ差し上げます!販売にご協力を!」と手渡された「エターナルデュオ」のCD・DVDのセットサンプル盤(定価¥6.300+税)。2019年11月3日NYの「レストラン日本」での穐吉敏子・ルータバキン結婚50周年の金婚式会場でした。
 又この幸遊記№(465)の縁でさわや書店の大池隆店長のお誘いで新潮新書「秋吉敏子と渡辺貞夫」について12月19日IBCラジオで僕もおしゃべり。12月21日のNHKFM「ジャズトゥナイト」ジャズ紅白では穐吉さんの曲も放送され、12月1日の日経新聞は「名作コンシェルジュ」にビッグバンドでのデビュー作「孤軍」(1974年)が「ジャズに日本文化、能や雅楽の音響く」と紹介。1月には全国の地方新聞に「愛しているから続く」として共同通信の取材による配信が載った。トシコは今も旬。
10:32:00 - johnny -

2023-02-20

幸遊記NO.469 「2020年12(ジョニー)時間の寝正月」2020.1.13.盛岡タイムス

 大晦日に盛岡に帰って開運橋のジョニーで年越しをしたい!と言う人がいた。それで年末年始店を開け、正月6、7、8と休みにしようと決めていたら、8日に店でセッションをやらせて頂きたい!とピアニストの鈴木牧子さんからのメールあり、6、7休み8日は夜の時間帯から店を開けることにした。すると店を閉めていられる時間は5日深夜の終業時間から8日夜7時までの67時間。その時間内に店内の音響機器、レコード、CD、本や資料の配置換えを行う決心をした。
 最初の日、つまり5日の深夜は就寝時間を返上、徹夜で棚から物の取り出す作業と棚やスピーカー台(ステンレス製天板付長さ180×巾60高さ100×2台)の移動をやり、疲れ切って寝たのが5日の朝に起きてから24時間が経った6日の午前9時、そこから丸12時間一度も目覚めることなく寝て、夜9時過ぎからまた徹夜で作業。7日の夕方オーデイオ狂の友が酒を持参で新年のごあいさつにやってきたので作業中断して雑然とした足の踏み場もない様な店内で飲み交わし22時半に寝る。また12時間1度も目覚めずに熟睡。8日昼から夜の開店までにすべてを片付け掃除をして店をオープンしたのが19時をまわっていて、時間に来店した2人を少し待たせてしまいました。ごめんなさい。の新年事始め?でした。
 ものを移動させると、その時に覚えたつもりでも、必要なものが取り出せないので出来るだけすぐ取り出せる様にと、工夫を凝らすが、1万枚を超すレコードとCDの移動と整理は大変な労力を要し、はたまたオーデイオに至っては、配線はもちろん全ての機器のふたを開け、ほこりを取り去り磨きをかけ、だましながら使っていた不具合をメンテナンス。6個のスピーカー・ボックス、モノアンプ2台、ステレオアンプ3台を、1個のプリアンプで同時駆動させてレコード音楽を再生させるコーラス方式のセッテイング。使用している機器はほぼ全てが半世紀前の古機材。時代的な音楽再生業であるジャズ喫茶開運橋のジョニーは今年2020年は開店45周年、現在の店舗に移ってからの7年間は日本のジャズ専門から世界ジャズ特にも発祥の地アメリカのジャズ史への旅であり、そこで知ったのは先人達のたゆまざる努力であった。
10:31:00 - johnny -

2023-02-19

幸遊記NO.468 「トシコの全米デビュー評論文発見」2020.1.6.盛岡タイムス

 1953年11月ノーマングランツ率いるJATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)の初来日が生んだジャズのシンデレラ・トシコアキヨシ。当時アメリカの№1ピアニストだったオスカーピーターソンが銀座6丁目にオープンしたばかりの喫茶店「テネシー」で昼に、又深夜にはクラブ「ニュー銀座」にてジャズ演奏を聴き「秋吉敏子という、自分のスタイルを持った素晴らしいミュージシャンがいる。彼女のピアノを録音したほうがいい!」とボスのグランツに推薦。グランツも「オスカーが言うのなら」と即決。メンバーはオスカーのレイブラウン(b)ハーブエリス(g)J.Cハード(ds)。
 白羽の矢が当たった敏子から相談された志摩夕起夫氏(ラジオ東京のイングリッシュアワー担当者)が11月13日(金)深夜同局の第2スタジオをキープ。マイクセッティングはグランツ氏、録音は石原康行氏が担当。この3人以外の記者、カメラマン、プレーヤー、ファンなど、大勢の見物者達を全員シャットアウトしてのレコーディング。リハーサルをして、演奏のテンポを変えソロの順序を変えるなどしながら録音し、プイバックしては皆で聴き、ベストプレイを残す方法での録音。
 それが遂にアメリカで日本人初の本格的な25センチ盤のジャズレコード「TOSHIKO」として世に出たことを知らせるレビュー(三ツ星評価)文を載せたダウンビート誌(タブロイド版新聞2つ折り表紙付本?)‘54年11月号(月2回発行)17日発行(歌手・ローズマリー・クルーニーが表紙)を、僕は昨2019年11月、レコードのご本人・穐吉敏子さんの金婚式に出席した翌日、ニューヨークの中古レコード店の図書コーナーのてっぺん(脚立で登り取り出す)にあった古本をおろしては幾冊ものページをめくり続け見落とすほどの小さなタイトル文字「Toshiko」に目が留まった瞬間、自分の心臓が止まる程の嬉しいショック感を味わった。だって穐吉さんが‘56年1月ボストンバークリー音楽院に入学する1年以上も前の渡米以前、日本人初名乗りとなった全米デビュー盤評論文である。「トシコはオスカーによって東京で発見された。トシコはバドパウエルの影響を受けた良いビートとリズムによる彼のスタイルで演奏。まだオリジナルとは言えないかも知れないが興味深いアイディアを持ってプレイをしている」とある。ちなみにジャケットは五ツ星であった。
10:29:00 - johnny -

2023-02-18

幸遊記NO.467 「ジョージウインプレゼンツ・TOSHIKO」2019.12.30.盛岡タイムス

 ストリーヴィル・レコードSTLP-912.george wein presents「TOSHIKO・秋吉敏子」は秋吉さんがボストンのバークリー音楽院に留学した1956年の春から初夏にかけNYで録音されアメリカで発売された渡米第一作の幻の名盤。それを何と今年4月10日の「穐吉敏子・終わりなき演奏の旅」盛岡公演の直前、帯広の穐吉ファン井上洋一さんが、札幌で見つけ送ってくれたのです。値札を見れば¥9800。僕が持っているのは1974年にやっと再発なった日本盤。この日本盤の解説書は当時としては珍しかったA4サイズで、のち‘78年にスタートした僕のレーベル・ジョニーズデイスク解説書はこれに準じた。
 その「ストリーヴィルレコード」のプロデューサーであり、当時ボストンにあったジャズクラブ「ストリーヴィル」のオーナー。そして世界一有名なニューポートジャズフェスティバルのプロデューサーでピアニストでもあったジョージウイン氏は、秋吉渡米の‘56年1月ボストンに到着した彼女を、バークリーの校長と共に空港に迎えに行った方で、その年の’56年と翌‘57年秋吉をニューポートジャズ祭のステージに立たせた人(’58年の同祭は「真夏の夜のジャズ」という映画にもなった)。その彼が11月3日(2019)NYシテイマラソンの日の夜、マンハッタン52stイーストにあるレストラン「日本」で行われた「穐吉敏子・ルータバキン・結婚50周年パーテイ(金婚式)」に現れたのである。参加者皆、息を飲み込む程感動しきりの様子。現95才杖をついてはいたけれど元気な姿を拝見出来,一緒に写真を撮らせていただいた幸せ。タクシーで帰られる時,僕は昨年出版した「穐吉敏子への旅」(全作品集本)と「1980・穐吉敏子トリオ・イン・陸前高田」のCDを差し出したら受け取ってくれたことにも感動し、遠ざかるテールランプを見送った。
 そしてもう1人、在ニューヨーク日本総領事・大使・山野内勘二氏は昨年2018年11月の穐吉敏子カーネギーホールコンサートにもいらしてましたが、金婚式にも出席されていて、僕の女房が「ジョニー!」と僕を呼んだ声に反応して、「もしかして、あの海を見ていたジョニーの?」と話しかけられ、ジョニーズデイスクファンだと明かされビックリしながら写真撮影。彼はなんと8千枚ものCDを持っているというジャズ・音楽ファンだったことにも大感激!と、すごいNYの夜でした。
10:27:00 - johnny -

2023-02-17

幸遊記NO.466 「佐藤恵美子の“令和錯視”入賞」2019.12.23.盛岡タイムス

 十代の頃から開運橋のジョニーに来ている佐藤恵美子さん(旧姓・日向・35才介護士)が、いつもとは全く違う別人のようないでたちで店に現れニコニコしている顔を見て、失礼ながら、えっ!こんなにも美しい女性でしたかと、マジにじっと顔を見入ってしまった。いつも僕は彼女のどこを見て来たのかとさえ。僕らの世界で「さくし」といえば歌詞をつくることだが、彼女が今夢中なのは錯視図作り。その研究を自分の胴体にまで応用し、実践として彼女自身を僕に錯視させるために現れたのだったのかも!と今気付いた。
先日「表彰式から帰って来たところです」とご主人と来て、“カフェオレ”を飲みながら見せてくれたのが「第11回・錯視、錯聴コンテスト入賞」の賞状。その入賞作品名は「REIWALL Illusion」(恵美子さんの造語で、令和錯視という意味)。日本基礎心理学会第38回大会@神戸大学、12月1日(2019)に於て「上記作品は錯視、錯聴コンテスト審査委員会の厳正な審査の結果、特に優秀であると判断されましたのでここに表彰致します」というもの。審査委員長は北岡明佳氏。氏は立命館大学の総合心理学科の教授でレデイガガのCDアルバム「アートポップ」に採用された、錯視アート・図形の第一人者。
それこそ県立紫波総合高校卒後の10代から専業主婦だった恵美子さんは夫の理解を得、興味のある心理学を勉強したい!と「放送大学岩手学習センター(通信制)に入学、昨2018年卒業。その過程でネットのSNSで北岡氏の作品と出合い、彼のファンになり2007年の雑誌「New Ton」の別冊でほれ「錯視」の不思議な世界にはまり込み、自分もワードでの錯視図形づくりを始動。白黒、灰、カラーグラデーションを付けたいくつもの正方形を並べたその行仕切線の色、灰と黒でも台形に見え正方形の方向性まで変わる。それに、彼女の「令和錯視」は正方形を行組する時少し横にずらして配置することでより台形の傾きが強くなり、グラデーションの方向によっても、逆台形に見える作品の数々を提出し入賞となった。又、彼女は盛岡市立乙部中学校時代に描いた「お米と私」は水彩画なのに「まるで油絵の様に見える」と評され小渕恵三氏から「総理大臣賞」を贈られており、この時すでに彼女の頭の中では人の心理、心象に現れる「錯視心」が育まれていたのに違いないと僕は感じた。
10:25:00 - johnny -

2023-02-16

幸遊記NO.465 「新潮新書の秋吉敏子と渡辺貞夫」2019.12.16.盛岡タイムス

 8月20日(2019)に新潮社から発売になった新潮新書826「秋吉敏子と渡辺貞夫」西田浩(1963年東京生まれ、読売新聞編集委員)著を買い読んだのは8月29日草津での秋(穐)吉敏子さんのコンサートを聴きに行く往復の新幹線とバスの中でだった。帯には「1963年ふたりの出会いが日本のジャズを変えた」(当事者への膨大な取材を基に戦後日本ジャズ史を描く)とあった。
 1940年代中頃ビバップと呼ばれたリアルジャズをむさぼるが如く猛烈に吸収し、自己研鑽を怠ることなく今日なお世界のジャズを牽引(けんいん)し続けている穐吉敏子と、20才の時にその穐吉さん率いるコージーカルテット(録音は残されていないが伝説の本格ジャズバンド)に抜擢され、穐吉渡米(56年)後はそのバンドを率いた渡辺貞夫。(このコージーカルテットの演奏は30年後にレコード化された“ジャズシーン‘57”阿部克自プロデュース(トリオレコード)の2枚組、7バンドの一つで聴くことが出来ピアニストは八木正生)。
 穐吉さんはバークリー音楽院を卒業し、‘59年に結婚した前夫・チャーリーマリアーノと共にトシコ=マリアーノ・カルテットを結成して61年に帰国した時、渡辺貞夫さんに学ぶ気があるならと、バークリーに入学金と学費の免除を交渉し、アメリカでの保証人を見つけて彼を渡米させた彼女。貞夫さんはそのバークリーで学んだことを日本に持ち帰り、日本のミュージシャンに教え広め育てながら日本のジャズシーンを牽引し続けて今に至る二人のストーリー。
 「二つの巨峰に連なる日本ジャズ山脈の威容だ」とは週刊新潮9月19日号(及川房子さん提供)。「戦後の日本を動かした“天の配剤”とも呼ぶべきダイナミズムを生き生きと描く」「敏子と貞夫は80代の今も新しい挑戦を続けており、人生論としても痛快な本だ」と読売新聞10月13日付(萩谷栄彦さん提供)。「現在も第一線で活躍を続けるふたりの巨星の伝記が交互に語られ、それぞれに食うや食わずのアメリカ生活と世界を舞台にした活躍が隣り合わせる人生は日本ジャズ界への刺激であり推進力であり続けてきた。雑木林進・文」ジャズ批評11月号(松坂ゆう子さん提供)。その渡辺貞夫さんは一関のジャズ喫茶ベイシーに、穐吉敏子さんは盛岡・開運橋のジョニーに、それぞれ毎年いらしてコンサートを続け、僕ら岩手の菅原・照井マスター同士も互いの店を往き来しています。
10:24:00 - johnny -

2023-02-15

幸遊記NO.464 「青江三奈の盛岡ブルース」2019.12.10.盛岡タイムス

 12月6日(2019)の未明から朝にかけ盛岡の街がうっすら雪化粧をした。店の窓から開運橋を眺めて、ふと浮かんだのは「粉雪まじりの氷雨に濡れて 散るは涙かネオン花。夜の盛岡君住む街を・・・の「盛岡ブルース」(三浦路夫・本名・道雄、八幡平市出身の歌。1971年須沢玄詩、作詞・坂田儀一・作曲)であった。えっ!盛岡ブルースってこんな歌詞だっけと想う方もいるかも。そう、最近といっても6年前の2013年12月にリバイバルした瀬川ゆき(本名秀子・北上出身)の「盛岡ブルース」とは違う。こちらは、つのかけ芳克・作詞作曲による盛岡ブルースで瀬川ゆきさんの歌唱もなかなかによく、そのCDを聴きながら、更に想い出していたのは同じ曲で青江三奈のヒット曲「盛岡のブルース」(1979年)「青い灯がゆれる 盛岡の夜に 君と出逢った中の橋 今夜の二人素敵だわ ロマンチックです・・・」の歌声であった。
 数多く発売された盛岡を冠する歌では何といってもこの青江三奈の「盛岡ブルース」が筆頭。男性の歌ではバーブ佐竹の「霧雨の街盛岡」(雨宮英子・作詞、小杉仁三・作曲1974年)「霧が降る降る盛岡の街一人さまよう中の橋、、、」であろう。それはともかく青江三奈と言えば「恍惚のブルース」「伊勢佐木町ブルース」「本牧ブルース」などの大ヒット曲で知られた歌手で戦前の淡谷のり子と並び称され戦後から平成にかけてのブルースの女王であった。
僕らジャズの人間にとっては伊勢佐木町といえば1950年代にあったクラブ「モカンボ」でのジャムセッション。日本ジャズ史上最重要な音源として1975年レコード化され、当時秋吉敏子と並ぶ天才ピアニスト・守安祥太郎唯一の音源としても貴重なものとなっている。
 今の伊勢佐木町通りの中央には青江三奈の大モニュメント。その彼女とて「恍惚のブルース」でデビュー(1961年NHK紅白歌合戦初出場)以前は横浜のクラブ「ナイトアンドデイ」の専属歌手としてジャズを唄っていた人。その声はニューヨークのため息と称されるジャズ歌手・ヘレン・メリルの声と声質そっくり。まさに日本のため息!だった彼女は1993年ニューヨークで「ザ・シャドー・オブ・ラブ」というジャズCDを制作。その中でマルウオルドロン(p)ジョージムラツ(b)等の演奏で歌った「伊勢佐木町ブルース」の英語バージョンは絶唱絶品。その曲のあとでLPレコードタイトル曲になった「盛岡ブルース」を流すとこれも最高!と拍手する人も。
10:22:00 - johnny -

2023-02-14

幸遊記NO.463 「女性3人によるジェリコの戦い」2019.12.2.盛岡タイムス

 僕は今、金本麻里さん(盛岡出身在住ジャズ歌手・第33回日本ジャズボーカル新人賞受賞)の第4作目となるアルバム「ジェリコの戦い」(ジョニーズディスク)12曲入りJD-38-CDを制作中で、来年の2020年1月、ウルトラヴァイヴを通じ全国発売及びネット販売予定。その制作とコンサートの案内文を読んだ三島黎子さん「陸奥烈女伝」や「沙羅双樹の花の色」などで知られる(紫波在住の作家)から手紙が届いた。それによれば「タイトルの曲名を目にし、一瞬にして想い出が蘇りました。今から15年も前ですが、日本とヨルダンの国交樹立50周年を記念しての催しに、当時のヨルダン駐在大使・小畑紘一夫妻が当流(小堀遠州流)門下であったことから、記念の親善茶会の催しを当流に任され、約20名ほどが代表で渡航した時のこと」とある。
 CD表題曲の「ジェリコの戦い」はジャズテナーサックスの開祖・コールマンホーキンス(1904~1969)の名演、ゴスペルシンガー・マヘリアジャクソン(1911~1972)、フォーク歌手のオデッタ(1930~2008)、ジャズコーラスのゴールデンゲイトカルテット等々の名唱がある有名曲で、旧約聖書ジョシュア記に基く歌。ユダヤ民族をエジプトの圧政と虐待から解放したモーゼの遺志を継いだジョシュアが多くの同胞を連れ故国イスラエルへ渡り40年にわたる苦難の旅の最後の難関がジェリコの砦だった。モーゼの教え通り7日7周、羊の角笛吹き鳴らし神の栄光を大声で叫ぶ(演奏と歌?で)と城壁は崩れ落ち、戦わずに勝利したという物語。
 死海への「深い河」として歌い継がれているヨルダン川。そのヨルダンの日本大使公邸にヨルダン国のお歴々を迎えての茶会。更に日本の援助で建設されたという死海を見下ろす展望台での茶会。それが終わろうとする頃、一帯素晴らしい夕焼けに包まれ皆々その美しい夕陽沈みゆくさまに見とれていたその時、対岸にちらちらと灯がつき始め「あれはどこ?」とガイド役の政府高官に三島さんが尋ねたら「ジェリコ」と。「あのジェリコの戦いで有名なジェリコはあそこか」と胸にこみあげ作った歌「死の海に夕陽は落ちて対岸のジェリコの街に灯は瞬けり」は帰国して書いた彼女の報告文中の一首。
 来る12月22日(日)夜7時から盛岡市民文化会館でレコーディングメンバーの金本麻里(vo)武藤晶子(p)小川恵理紗(fl)の女性トリオによるCD先行発売記念「ジェリコの戦いコンサート」である。
10:20:00 - johnny -

2023-02-13

幸遊記NO.462 「睦ましく結の蔵で如水展」2019.11.25.盛岡タイムス

 「如水・遺作展」が滝沢市巣子の茶房「結の蔵」(火・木・定休)で11月16日(土)~12月9日(月)まで開かれている。屋根のないアトリエ作家として青一色(藍色)でもって四季を表現しきった孤高の画家・如水こと菊池武男さんは、3年前の2016年6月6日16時、95才であの世を描く旅に出た。菩提寺である盛岡・仙北町の長松寺はじめ、玉山の常光寺、奥州の霊桃寺、松島の瑞巌寺には彼の光に満ちた大作が飾られており鑑賞可。遺作展では生前如水さんが描き遺した膨大な作品群の中から50点程選んでの展示。晩年結の蔵で展示会を開いた如水さんは、店主の川原睦子さんと意気投合、巣子の保育園で如水さんと子どもたちの絵かき交流まで実践して未来へ希望を託したりもした。
 企画した川原さん自身もまた、かつて大迫にあった築80年余りの蔵を解体、自社のゆい工房敷地内にそっくりそのまま移築。土壁の再現乾燥までの丸5年を経て「結の蔵」という喫茶店を始めたのが2008年4月10日。川原睦子さん68才の時だった。彼女が決断した解体移築は社員たちに昔の建築技術を学ばせ、後世にそれを引き継がせる希望をこめた“ゆいの心”「あいはあいよりいでてあいよりふかし」そのもののようだ。店は昔懐かしの、手作りおしるこ膳とソフトドリンクのみの純喫茶。それこそ蔵シックな店内の大きなテーブルなどの調度品も一枚板のすごさで、ゆったりと巣子せる空間!そのキレイさも、12年経過の店と同様80才になった彼女も、信じられない程の素敵さだ。
 「自分にとって人生の旅は光ることに気づくことでした」とは、如水色紙に添えられたことばだが、2014年東京での「やまびこ展」を企画した僕にくれた手紙には「貴方との出会いを光る宝石のように自分の手に握っていたことがよかったようです」と書いてあり、震災直後に2人で毎週毎週被災地へ行き、僕が般若心経をうたい、如水さんが絵を描く行為を繰り返した想い出話をしていた時、如水さんは僕と出会った時から、僕の載った新聞記事を切り抜いては保存しておいたものだよ。持っていただろうけど無くしただろうからあげるよ!と20数年分の何枚もの切り抜きを渡してくれたことに感激した日のことまで想い出されます。期間中開運橋のジョニーでも如水展です。
10:17:00 - johnny -

2023-02-12

幸遊記NO.461 「平泉中学同級会の原発被災地めぐり」2019.11.18.盛岡タイムス

 同級会の旅行で楽しいのは何といっても夜の宴会。誰かが歌い、誰かが踊るは毎度のことだが、長いこと平泉の町会議員を務めた会長の高橋幸喜さんがカラオケをはじめたら、踊り好きで、必ず着物の熊谷はつゑさんが、今年は何故かやつれた様子の洋服姿で踊り出したのにビックリ。すると「彼女は一週間前にご主人を亡くしたのよ」と誰かの声がした。何と、それでも参加し、踊ってくれているのに再度ビックリ。彼女にとってもありがたい同級会なのかもなあと思いながら、口に盃はこぶ自分。日本三古泉のひとつ、いわき湯本温泉郷・元禄彩雅宿・古滝屋(1695年創業)9階・露天風呂「天女の湯あみ」に一人で入れる酔い心地。各々部屋には何冊もの本が置いてあり、一階の図書コーナーはまるで図書館。よく眺めれば目立つのは震災関連本。明日はいよいよ、原発被災地へ!
 東京電力福島第一核(原子力)発電所のある大熊町、双葉町は中間貯蔵施設にされ、帰還困難区域を除くすべての地域で面的に除去された土壌や廃棄物の保管場所となり、その数2000万袋という恐ろしさ。両隣の町富岡町、浪江町にさえ一切人影見えず、町は廃墟と化し、田畑は雑草や木々まで生い茂り、まるで危険信号だらけのように、黄色い花を咲かせるセイタカアクダチソウに埋めつくされた不気味な光景が延々と続く。そこは巨大なイノシシの住み着くエリアとなり、かつて食用であったが汚染され繁殖するため、相馬市ではなんとイノシシ専用焼却炉を農水省予算で建てたという。
 浪江町の震災遺構となった舟の形をした請戸小学校生徒たちは1キロ以上も離れた大平山まで逃げ登り全員助かった!というからまるでノアの方舟的導きと言えるかも。又小説にも!そして3500から2700台まで減ったとされるソーラー式放射線計量器など徹々たるものでさえ、その撤去や維持費だけでもあと10億円はかかるというのだから、原発は会社と議員?以外の国民にとってどんなに不利益な負の遺産であることか!それはそうと、福島浜通りは今、使用できなくなった農地を利用した半農半エネと呼ばれる「再生可能エネルギーの先駆けの地・福島」としてソーラーシステムによる太陽光発電所がいたるところに作られその広大さはまさに発電(田)地帯に生まれ変わり、その発電力は3000kw/b余りに達しているという。
10:15:00 - johnny -

2023-02-11

幸遊記NO.460 「平泉中学時代の同級旅行」2019.11.12.盛岡タイムス

 平泉中学校・昭和37年度(1963年3月)卒業・令和元年同級会の案内が届いた。参不の葉書受取人は葛西良治さん(幸遊記№80)元プロジャズドラマーである。期日は10月29~30日。ああ、どうしよう?が本音だった。何しろ11月3日、ニューヨークで行われる、穐吉敏子さん(90)とるー・タバキンさんの結婚50周年・金婚式パーテイに僕等夫婦も御呼ばれし、出席の返事をだしたばかりだったから。だが古希祝以来3年振りの同級会なのと、福島の白水阿弥陀堂(国宝)見学。原発、津波被災地を富岡町のNPOガイドによる案内で回るというので参加することにした。早朝出発地の平泉へと在来線に乗る。駅に降りると、別車両から」もう1人同級生が降りた。学年トップの成績だった伊藤(真籠・まごめ)直子さん(盛岡在住)で「あら一緒に来たんじゃないの?」と三浦(高倉)邦子さん(平泉在住)の声。バスのガイド役はドイツワインのバイヤーである千葉敏明さんで出発進行!オーライ。
 途中、仙台、東京からの学友と合流し白水阿弥陀堂へ。そこは今を去る860年前の1160年(永暦元年)、平泉の鎮守府将軍・藤原清衡の娘であった岩城の国守岩城太夫則道公の夫人徳姫がじ?白水に霊地を得、一ケ寺・無量寿院願成寺を建立。夫・則道公没後には白水阿弥陀堂を創立(中尊寺光色堂に似る)。仏堂前にはこれまたもう通じ大泉ケ池のような浄土庭園を造営。白水の地名も徳姫の故郷奥州平泉の泉を分字して名付けたと伝えられる、まさにもう一つの平泉。何とも言えぬ平安なたたずまいは、真に極楽浄土そのものの感。
 国宝・願成寺阿弥陀堂。国重文。本尊阿弥陀如来、観世音菩薩立像、勢至菩薩立像、持国天王立像、多門天王立像、それを囲む内陣の四天柱も経年により飴色黒色化しているが、それがかえって像容美を際立たせ仏の慈悲深さが滲み出ている様に思われた。それにしても庭園囲む木々の紅葉と池に架かる橋の芸術美!その奥に佇む阿弥陀堂への参道往来すれば、この世、あの世の自在感。200余名の同級生の内、21才でこの世を去った高橋春喜さんから今年72才でなくなった鳥畑良治さん、及川泰さんら33名の涙が天から慈雨となって降りて来たのでした。
10:07:00 - johnny -

2023-02-10

幸遊記NO.459 「国会議事堂の見聞録」2019.11.4.盛岡タイムス

 衆議院事務局参事の涌井正幸さんは、あの東日本大震災以降岩手に幾度もボランティアに来て、帰りには必ず開運橋のジョニーに寄ってくれるので、僕も穐吉敏子さんの東京でのコンサートなど上京の折々に電話をすればニコニコと和服姿で現れ一緒に聴き、一緒に飲む間柄。9月板橋でのルータバキントリオの翌日「照井さん国会議事堂に来ませんか?僕が案内しますから」というので行きました。
 日本の国民なら誰もが皆知っている国会議事堂。たしか中学の修学旅行で上京し議事堂前で皆で写真撮ったが中を見学したかの記憶は無いから、まあ初めての見学。しかも議事堂内で働いている人の案内だから最高!一般人が入れないところまで案内、説明してくれ、国立国会図書館の分室へも。知っての通り議事堂は全部石造り。沖縄の海でとった「琉球石灰岩」の柱や壁には巻貝や魚らしき化石なども見受けられ「ここは正に海千山千の人々が居るところ」と実感した次第。
 中央広間から紅じゅうたんの階段上正面に御休所(ごきゅうしょ)と呼ばれるいわゆる皇室があり思わず息をのむ!大正9年(1920)から昭和11年(1936)まで何と17年、延べ254万人が9810トンの大理石で作ったという。ステンドグラスはイギリス製。全ての鍵と郵便投函筒と呼ばれる1階から3階の細長い穴に手紙や書類を入れると筒の中を通って地下に集約されるエアシステムはアメリカ製。この2つ以外は全て日本製なのだそうである。塔の先までは65メートル。2階から6階は吹き抜け塔部の窓らしきところがステンドグラス。最上部のトンガリには誰も何が入っているのか知らないという木製の柱箱(神棚?)写真(涌井さん撮影)を見せられビックリドッキリ!
岩手出身の総理大臣は原敬(大正7年)、米内光政(昭和15年)、東條英機(昭和16年)、鈴木善幸(昭和55年)と65人中4人。堂の前庭には日本全国から集められた「都道府県の木」が植えられており、ちなみに「東京は、いちょう」「沖縄は、そてつ」「岩手は、なんぶあかまつ」。照井と涌井(2井?)で「牛重」を食べながらふと思い出したのは2001年、僕が盛岡へ来た年ちょうど参議院選があり、とある政党から照井さん立候補して!と頼まれ、永田町まで来て選挙用ポスター写真まで撮られた日のこと。立っていたら?あはは!
11:25:00 - johnny -

2023-02-09

幸遊記NO.458 「イーハトーブ音楽祭の呉ひとし」2019.10.28.盛岡タイムス

 10月20日2019「第4回とっておきの音楽祭・イーハトーブ・モリオカ」(実行委員長・太田代政男・岩手県合唱連盟名誉会長)が市内5ケ所の青空ステージで行われた。そのメイン会場の「もりおか歴史文化館前広場で10時のオープニングに盛岡中央通にある仁王幼稚園の子どもたち(4才の孫通園中)が歌やダンスをやるというので女房と散歩がてら見に行った。「この世界が神様の愛で満たされますように」と、子どもたちの祈りのことば、そして歌とダンス、親たちの大撮影会を見学。帰り際「園長先生がね、ジョニーのカンバッチをつけていてビックリ。店に来たことあるんですって!」と感激していた女房の小春。
 大通野村証券前で11時から始まるステージを準備中の人に音楽祭のパンフを頂く。ドトールで珈琲を飲み帰る途中30分だけMOSS広場のバンドを聴こうと立ち寄ったら、そこにはなんと、大阪のシンガーソングライター・呉(GO)ひとしさんがステージに立っていてビックリ!呉さんも手を振る僕を見つけてニッコリ。かたわらにはMikiさんという語りの女性(都営地下鉄のアナウンス・柳川実紀さん)呉さん唄えば彼女も手話でうたうベリーグットなアイデア。最初に歌ったのは「ヒロシマ」という曲「晴れ渡る静かな青い空に きのこ雲も黒い雨もない 人の願いは心の幸せ 争いのない そんな未来 広島は遠きあの日の痛みを背負って 伝えてゆけ 惑う世界に 繰り返させない 道しるべとなれ」とてもいい詩曲だった。「呉さんの歌は、そとの方が似合うね」と感動して涙ぐみはち切れんばかりの拍手をする小春。僕は僕で穐吉敏子さんの「ヒロシマ~そして終焉から」の終章「HOPE」マンデーミチル、そして金本麻里の歌がオーバーラップしていた。
 16才から歌いはじめ、28才で妻との死別。言葉の分からない外国の歌に感動で涙し、自分の歌もそうありたいと思うようになった彼は「心の中で会いたくて」をテーマとし、今を生きる歌手。彼は1998年陸前高田時代の僕の店で歌い、当時担当していたFM岩手の僕の番組にも出演。2年前盛岡の松園にあるデイサービス「かたらいの家ゆう」で歌った時には、おばあちゃんが踊り出して僕を誘い職員をも感激させた光景。その歌の持つ生命力に感動したことまで思い出す良き日となった。
11:20:00 - johnny -

2023-02-08

幸遊記NO.457 「穐(秋)吉敏子の満州証言映像」2019.10.21.盛岡タイムス

 8月末2019、東京目黒区の株・ザイヤの在原義男氏から「秋吉敏子・わが故郷 満州」という証言映像・特別上映の案内ちらしが届いた。それによれば「米国紐育(ニューヨーク)在住、89才のジャズピアニストが語る満州、戦争、引き揚げ、そしてJAZZとの出会い、、、。ナレーション・坂本美南」映像上映9月1日~29日。1日1回午後2時から40分間で、場所は西新宿2丁目の新宿住友ビル33階にある「平和祈念展示資料館」とあった。9月16日16時から、板橋の安養院にて、穐吉さんのご主人、ルータバキンさんの国際トリオ・コンサートの手伝いがあるので翌17日行こうと思ったら祈念館は代休日。しかたなくもう1泊して見て帰ることにした。その資料館はさきの大戦における兵士、戦後の強制抑留者、海外からの引揚者の労苦につい親から子、子から孫へ、次世代へと語り継いでゆくことを目的に、関係者の労苦を物語る様々な実物資料、グラフィック、映像、ジオラマなどを戦争体験のない世代にもわかりやすく展示。関係図書も多数ありました。
 ジャズの生きた遺産受賞者・穐吉敏子さんは満州、遼陽の生まれ、小学6年から大連で過ごし弥生高等女学校4年生の時、戦争苛烈となり、愛国心に燃える穐吉さんは陸軍看護婦に志願、興城市の陸軍病院で実習。いざ最前線へという時点で終戦となった運!。その時彼女は15才だった。ソ連兵が乗り込んで来るからと軍医が毒薬を注射する自決の噂。とある少尉の猛反対でとりあえず親元へ帰されることとなった運!。髪を切り軍服を着てゲートルを巻き少年兵にみせかけ集団列車に乗せられ遼陽へ。自宅に着いた時、ソ連兵が略奪をしている最中だったため敏子には目もくれなかったらしい運?。その日からは外にも出られない日々。ソ連兵が来ると父が「空襲」と叫んで合図、4人姉妹は床下へ隠れて息を潜め見つからなかった運!。父は全ての財産を失い、姉は肺浸潤を病んでいたため日本へ引揚げてから別府の戸建てサナトリウムに家族ぐるみで住み、末っ子の敏子は街で見かけたピアニスト求むの貼紙を見つけピアニストへの道を歩み出したことで、今日に至るきっかけをつかむことが出来た不運の中の強運な物語りでした。帰り際本棚から「ケンちゃんとトシせんせい」という絵本(高木敏子著・小学館1994)を見つけ読んだら「日本の兵隊さん早く戦争やめてくれ」と叫んでいました。
11:17:00 - johnny -

2023-02-07

幸遊記NO.456 「高橋幹夫の藍色の蟇(ひき)」2019.10.14.盛岡タイムス

 前回の幸遊記1984年の秋吉敏子NYBBパンフに、実はもう一枚紙が挟まれていた。それは2015年6月5日に書かれたネットのブログコピーで「JAZZの彼方に・心の軌跡……横浜のみなとみらいを海から望む 去年一月亡くなった姉の暮らした街 僕が学生時代の‘60年代から’70年前半暮らした街、あのころ入りびたっていたジャズ喫茶「ちぐさ」の親父さんも今はもういない……」それこそ今年2019年10月12日,13日、第27回を迎える「横浜ジャズプロムナード」が大型台風直撃予報の為急遽中止に!。盛岡大通ビックストリートジャズライブフェス常連の歌手・金本麻里さんも、横浜のジャズプロに六年連続となる今年は「NHK・横浜放送局のサウンドクルーズ」への出演予定だった。
 それはそうとブログの主、高橋幹夫さん(70)はかつて「藍色の蟇(ひき)」という写真詩をネット上に書いていた。“ひき”とは“ヒキガエル=ガマガエル”のことである。一度見てしまったら、生涯忘れられぬヒキの強い顔と姿。ブログとて一度黙読したらヒキ寄せられてしまいそうだが、それを書いている彼自身すら実は、大手拓次(1887~1934)の詩集(神保光太郎編・白凰社刊・1965)の中の「藍色の蟇」の舌にからめとられた?一人なのだ。「森の宝庫の寝間に藍色の蟇は黄色い息をはいて 陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく…」
又「灰色の蝦蟇(ガマ)」では「まよなかに 黄色い風がふくと この灰色のガマは みもちのようにふくらんでくるのだ…」と、少年の空想が浮かぶ詩だ。群馬磯部温泉の生まれ。17才で詩人として立つ希望持ち、40代で亡くなった時には北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星、大木惇夫等のお見送りを受けたという詩人。
 その詩に引き込まれた高橋さんも「眩しきもの・憧憬」で「心うつもの 梢よりもれる陽射し 夕凪の渚…名をなした人々 ましてや歴史に埋もれた先人達 なによりも 貴女の笑顔」と、その、今も笑顔のステキな奥様との新婚旅行は沖縄。僕とはNYとワシントンDC「穐吉敏子への旅」(2000年)その時一緒に聴いたコンサートはCDになり、僕達一行を歓迎してステージで話してくれた穐吉さんのことばも入っていたし、僕にもCDへのライナーノートの依頼が来て、それを買った高橋さんからCDにサインしてといわれて「日本→アメリカ、心の中の高い橋を渡った時に」と書いた僕。
11:15:00 - johnny -

2023-02-06

幸遊記NO.455 「35年前1984年10月の穐吉NYBB」2019.10.7.盛岡タイムス

 2019年7月14日(日)正午からの「第32回・盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズライブ・フェス」に、40年来の友・高橋幹夫さんが走り寄って来て僕に手渡してくれたプラケースを開いて飛び上がらんばかりに驚いた!入っていたのは35年前の1984年10月27日、陸前高田市民会館大ホールで行った「ジャズ喫茶・ジョニー」の10周年記念コンサート「秋吉敏子・ニューヨーク・ジャズ・ビックバンド」16ページのコンサートパンフ。
 更には東海新報社で印刷して貰った「ジョニー情報」(新聞見開き4ページ分)、その一面左上に作家・五木寛之氏からのメッセージ「10周年おめでとう。持続することのむずかしさを、最近つくづく感じています。これからも、われらの幻の共和国として頑張ってください。横浜にて・五木寛之」とある。コンサート開催を知らせる新聞記事、「毎日新聞」、「河北新報」、「岩手日報」。そして2ページに渡る見開き全面広告の東海新報(10/9付)と1ページ全面広告の岩手日報(9/20付)をまとめて新聞紙にスポンサー広告100余りをつけて再印刷した22.000部の新聞?それを新聞に折り込んだもので、当時の駐日アメリカ大使・マンスフィールド氏は「秋吉敏子さんは自国(アメリカ)の最高の宝です」と紹介メッセージ。
 パンフレットには、秋吉敏子さんニューヨークからのメッセージ「ジャズは大変に個人的な一種特別な音楽で聴く方も大変な努力が要る為、誰にでも向いて居る音楽とは言えません。又クラシックと違い、ジャズに対する認識が余りなくて、非常に誤解されて居る音楽とも言えます」。当時のジョニー後援会長だった医師の鵜浦喜八氏は「陸前高田市にとってはかつてない大事件であり、このことによって陸前高田市民が世界の檜舞台に進出したことを意味するものであり、この上ない栄誉、、、。この友情の輪が世界平和につながることを祈念します」他10名余りの賛辞。1975年の開店時から84年までの間に開催した200回余りのコンサート、ライブ出演者名、又ほぼ同数の報道インデックス。そしてジョニーがコレクションしていた秋吉敏子のLPレコードが当時、すでに48枚あったことを再認識。手売りの他、車を運転してチケットを頼み歩いたプレイガイドは県内全域と宮城県南まで100ケ所近く。もちろんコンサートは補助席までの超満員。僕も実行委メンバーも若くてバリバリだったなあ。幹夫さんありがとう!
11:14:00 - johnny -

2023-02-05

幸遊記NO.454 「コウKOWハチ公ジャズ物語」2019.9.30.盛岡タイムス

 5年前の2014年5月27日、インターネット(Amazon.co.jp)に「KCF-KOW」氏が書いたCDレビュー「歴史に残る名盤となるでしょう。秋吉敏子トリオ1980in陸前高田」を見つけてコピーを持参してくれた人がいた。それを読んだ僕はその文章の一部を今でも空んじることが出来る「驚いた!という表現では足りない。スゴク驚いた!とんでもなく驚いた!!!感動のあまり言葉が見つからない。ジャズを聴き始めて40年、なぜこれまでジャズを聴き続けてきたのかという答えがこのアルバムに凝縮されています。こんな感動は一生のうちに何回も味わえるものではないと思います。秋吉のピアノトリオでのライブアルバムはこれのみで、とても貴重。そして何より演奏が最高というのはあり得ない」でした。
 「KOW」とは秋田県大館市の加賀珈琲店の店主・加賀公氏。昨今の喫茶店はネコもシャクシ?も自家焙煎ですが、彼こそ本格派の先駆け。生豆の輸入、焙煎、販売、の「珈琲店」(メーカー)とその二階でのレコードジャズの珈琲専門店(ジャズ喫茶)「KOW」を始めたのは1972年のこと。ジャズに対しても客に対しても名のように公正でまんべんなく、かたよりのない人柄。地元紙「北鹿新聞」に「紙上喫茶・KOW」をも開店しエッセイ「遊々楽々」を連載。自分の珈琲初体験(中学時代)「クァー!まずい!こんなもの二度と飲まない!」のはずが「コーヒールンバ」のうたに誘われいつの間にかこの道へ。そこで学んだことは「30年やってわかることは、20年ではわからないということ。歳を取ることが思ったよりも楽しいことだと気が付けばたいしたもの」と古木珈琲の熟成風味に至るような話。
 いつぞや、ひょっこり開運橋のジョニーへ現れた彼。僕も僕もと思いつつ何年も経ってしまったが、今年2019年8月ようやく照井ケンも、秋田犬(正式にはアキタイヌと呼ぶ)の故郷・大館での演奏会に行くピアニスト・和賀寿彦ご夫妻が運転するアウデイに便乗させてもらい「KOW」に初見参。すると「これはオーデイオ音楽界の革命児じゃないだろうか?、レコードやCDの手軽さとは次元が違う話」とハイレゾ対応HDDプレイヤーで秋吉敏子の1980年を呼び出し、TVモニターにジャケットと曲名をデイスプレイして再生する新感覚ジャズ喫茶へと進歩していて真にこれは現代の忠犬ハチ公!と驚いて珈琲2杯飲んだ僕。
11:13:00 - johnny -

2023-02-04

幸遊記NO.453 「草津の竹久夢二ギャラリー」2019.9.23.盛岡タイムス

 女優兼歌手だった高峰三枝子(1918~1990)のデビューヒット曲となった松竹映画「宵待草」(昭和13年)の主題歌を、僕は時折レコードを引っ張り出して聴く。「待てど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ今宵は月も出ぬそうな」は画家で詩人で装本美術家(今日のグラフィックデザイナー)の先駆けだった竹久夢二(1884~1934・本名・茂次郎)の作詞なのですが2番の歌詞「暮れて河原に 星ひとつ 宵待草の 花の露、、、、」は西条八十(1892~1970)作詞のめずらしい歌。作曲は多忠亮(おおのただすけ)(1895~1930・宮内省雅楽部・バイオリン奏者)
 大きな瞳と女性の持つしなやかさを表す和服姿の美人画はどれ見ても一見して夢二とわかる彼独特の表現だが、詩にしても「待てど暮らせど君いでず日は暮れ果ててほのしろき    門のほとりの丁子の花よ」などと似る。彼の最初の妻・岸他万喜(金沢出身)は目の大きな夢二式美人画のモデルとされるが、宵待草のモデルは離婚した他万喜と旅した千葉の海鹿島で出会いデートを重ねた人長谷川タカ。夢二の名作「黒船屋」は夢二に絵を習い、同棲し、金沢の湯涌温泉に2人で3週間も滞在した程夢二最愛の恋人だった笠井彦乃が父親に連れ戻され、1人東京本郷のホテルで悶々していた時に、近くの表具店彩文堂の主人から表具展に出品する絵を頼まれた夢二が黒猫を抱いた彦乃?を描いた傑作ミステリー画。その後モデル・お葉と暮らす。この3人の女性たちは、どこか共通する夢二好みの美人であったことは、当時の写真からも見てとれる。岡山県生まれの竹久夢二、今年は没後85年。彼の魅力を伝える施設も岡山市、文京区、豊島区、酒田市、金沢市、渋川市、草津町、由布市など十指を数える程、交歓的な大正ロマン天才画家人気は上昇の一途である。
草津・竹久夢二ギャラリー(草津ナウリゾートホテル内)の代表・萩谷栄彦(まさひこ)氏は東京生まれ、彼の祖父・萩谷秋琴(しゅうきん・1875~1952)は茨城下手網生まれ、県師範学校を卒業し、小学校の先生をしながら日本美術院の研究生となり岡倉天心や横山大観らに学び、その後山水画の橋本雅邦の後継・川合玉堂に師事し日本画の技法を学んだ人物で1904(明治37年)より岩手の一関中学で絵画と書を教えた人物、彼の作品は高萩市歴史民俗資料館に収蔵され、時折秋琴展が行われている。
11:11:00 - johnny -

2023-02-03

幸遊記NO.452 「草津国際音楽祭の穐吉敏子」2019.9.16.盛岡タイムス

 「草津国際音楽祭の20周年に引き続いて、40周年にもジャズ界のレジェンダリー・穐吉敏子さんをお迎えしての特別コンサート。草津のステージがニューヨーク・ジャズハウスになる一夜をお楽しみください」と音楽祭パンフレット。穐吉さんはこの日のための帰国であるが、共演するテナーサックスのルー・タバキン(穐吉さんのご主人)は、毎年9月に自己の国際トリオを率い日本に来るので、一足先にご夫婦でいらっしゃった様子。
 会場ロビーには僕も知る穐吉ファンも各地から訪れていましたが、全体的な雰囲気はやはり草津特有のものと感じた僕。プロデューサー兼司会役の井阪紘氏がステージ中央に出てきて言う「僕は仕事ではクラシックですが、プライベートではジャズを聴いてます」手には彼・カメラータトウキョウのジャズレーベル・インサイツが1979年に発売した穐吉敏子=ルータバキン・ビックバンドの「すみ絵」(再発CD)とルータバキンのLPレコード「デュアルネイチャー」。そして昨年僕が出版した穐吉敏子の全作品集「穐吉敏子への旅」を持ち、説明してくれたことに感激と感謝の気持ちでいっぱいになった。彼は1971年2月カーネギー・リサイタルホールでのカルテットのLPや74年のビックバンドデビュー作「孤軍」に始まるロサンゼルス時代のレコーディングのほとんどを手掛け、穐吉敏子さんを世界№1の座へと押し上げた黒子役のいわゆる名プロデュサーなのだ。
 ステージは穐吉のテーマ「ロングイエロー・ロード」と「おいらんたん」のデュオ。森田村の四季よりリポーズをピアノソロ、そしてステージ後方の壁際に移って、次の曲、ルーさんのサックスソロを立って聴く穐吉さん。曲は「ボデイ・アンド・ソウル」そうだ!これは、バドパウエル(p)の1950年録音曲。穐吉さんが九州から上京して2~3年たった頃に、ラジオから流れて来た演奏を聴き、放送局に問い合わせ、バドパウエルにのめり込んでいくきっかけとなった曲。それをじっと聴き入る彼女の姿に「もしかして当時ラジオで聴いたバドのピアノをオーバーラップさせているのではないだろうか」と思った僕。休息をはさんで最後のアンコール曲・月の砂漠、ハンギンルースまで13曲、あい間には「テルイさんどこにいますか?」と呼びかけられ手を振れば「今夜泊まりますか?」「ハイッ!」「じゃああとで」と手まねき!僕はもちろんのこと、同行の皆さんも「ビックリ!した」とのことでした。
11:09:00 - johnny -

2023-02-02

幸遊記NO.451 「上皇后美智子様の特別演奏会」2019.9.10.盛岡タイムス

 草津夏期国際音楽アカデミー&フェステイバル第40回目のテーマはバッハからシューベルトへ。8月17日(土)から31日(土)まで2週間の開催。日本の若手音楽家に世界の優れた演奏家から直接指導を受ける機会を設け、更には、その講師のステージを見聞し交流することによって、音楽をする意味をも問い直すことを目指したことから、ソロやオーケストラで活躍する演奏家が数多く育っているという話を聞く。40年といえば、当時20才だった人は60の還暦である。音楽祭はヨーロッパのクラシック音楽の伝統を学ぶ構成がなされ、日本で演奏されなかった珍しい作品の多くの初演を行ってきたことで、今では世界で最も重要な室内楽フェステイバルとの評価を受けている様子なのだ。
 さてその28日(水)午後4時から始まったシューベルトの室内楽(八重奏曲・作品166)ウイーンのやわらかな弦楽にファゴットなど管楽器の音色が絡む美しい調べの音に身を包まれる心地良さ。夜には同会場での特別演奏会に現れた上皇上皇后両陛下は同会場最前列中央にご着席。9列目には音楽評論家の瀬川昌久・摩里子ご夫妻。7列目には穐吉敏子さんとご主人のルータバキン氏等の顔。最初のステージは、チェロをおやりになる上皇様のためにと、ウイーン国立歌劇場管弦楽団の首席チェリスト・タマーシュ・ヴァルガ氏によるバッハの無伴奏チェロ曲の献奏。感激した上皇様は終演と同時に立ち上がって拍手。
その後上皇后様がお立ちになり上皇様に一礼しステージに登られ、ピアノに左手を添え一礼し、同楽団首席フルート奏者のカール・H・シュッツ氏とグノーのプレリュード、アベマリアを二重奏、次に室内楽オーケストラとともにピアノを弾く上皇様。ピアノソロに始まりオーケストラが鳴り出すと左手のみで重奏し、またソロへと続くそれはまさに、大きな美しいサンサースの白鳥の姿を見ている様な雰囲気であった。そして御席に戻られた上皇后様に呼びかけるプロデューサーの井阪氏、「只今の演奏はピアノとオーケストラのチューニング(音合わせ)をせずに始めてしまったのでチューニングをしてもう一度演奏します」ということで上皇后様ふたたびステージへ。「指揮者もつけます」とトーマス・I・ミューレ(オーボエ奏者)が指揮し、まるでリハと本番を見聞しているようなハプニング?の再演奏に招待客は喜びと上皇后様のご体調を心配する気配もただよう雰囲気に包まれたのでした。
11:07:00 - johnny -

2023-02-01

幸遊記NO.450 「第40回の草津国際音楽祭行き」2019.9.2.盛岡タイムス

 「草津よいとこ一度はおいでハードッコイショ」で知られる温泉のまち群馬県草津町で1980年に始まり、今年2019(令和元年)で40周年を迎えた「第40回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」にジャズの穐吉敏子さんを招くという話を、同祭事務局長で、プロデューサーのカメラータ・トウキョウ・社長・井阪紘氏から昨年聞かされていた穐吉ファンの僕は彼女の出演する8月29日(2019)に聴きに行く!としていたら、なんと盛岡を中心に全国・北海道から九州まで60名もの人たちが、参加し聴きたいとのことで、チケットを先行予約して最良席をキープ!
 まもなくと思っていた24日一通の封書がアカデミー事務局から届いた。封切ると中からは照井顕様・照井夫人様と書かれた、穐吉コンサートの前日・28日午後7時20分からの出演者名が記載されていない特別演奏会の招待券2枚。その注意書きを読むと「受付18:40~19:00までにご着席下さい。終演後は上皇上皇后両陛下のご退席をお見送りいただいたのち、A扉からご退出ください」とあった。ワーオ!これはなんとしても行かなくちゃ!女房は「私は29日皆さんとご一緒しますから、1人前乗りで行って!」という。ありがとう!
 盛岡、大宮、軽井沢、草津と新幹線と急行バスを乗り継ぎ約4時間で現地到着。そこからホテルの送迎バスに乗る。まもなく運転手が「ご到着です」というので皆と降りたら、そこはホテルではなく湯畑という源泉地、時計を見れば、ホテルのチェックインまで1時間半はあったので散策しながらホテルへ行くこととし湯畑に立てば、草津町民憲章「歩み入る者にやすらぎを、去り行く人にしあわせを」(東山魁夷・書)の石碑。広い湯畑を囲む柵の石柱には「草津に歩みし百人」として、有名な(故)人の来草年が刻まれていた。音楽関係では中山晋平1928、野口雨情1928、西条八十1930、服部良一1970、高峰三枝子1987等々。著名人では小林一茶1808、良寛和尚1827、志賀直哉1904、横山大観1915、若山牧水1920、竹久夢二1929、岡本太郎1975等。そして岩手関係では高野長英1830や高村光太郎1927の名があり、なんとなく「ゆったり」とした気分で読み進めば未だ空白の柱あり。この先いずれは穐吉敏子さんの名も必ずや刻まれるであろうと想いながら、山中にあるホテルまでの長い長い坂道を歩き登った。
11:05:00 - johnny -
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