盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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レポート

2023-01-31

幸遊記NO.449 「文学のまち・金沢さんぽ思歩」2019.8.26.盛岡タイムス

 金沢の街へ僕を招待してくれたA氏はジャズファンであり、文学ファンである。2013年勉誠出版発行「東北近代文学事典」(日本文学会東北支部が5年の歳月をかけ編集、234人が執筆した、東北関連の作家800余名の人名事典)が発売になった時、A氏は開運橋のジョニーでその本を手に取り「人名事典というものを1冊手元に置きたいと思っていたが、ジョニー(照井顕)が載っているこれにする!」と言って僕を見つめた時の真顔が浮かぶ!。
 あれから6年、あと1年!と、彼が文学のまちといわれる金沢で仕事をしながら、休日には自転車に乗って金沢をくまなく散策し、文学と現在の音楽ジャズを体験学習して楽しんでいる様子なのだ。金沢の三大文豪といわれる泉鏡花(1873~1939)徳田秋聲(1872~1943)室生犀星(1889~1962)そして金沢と縁故の作家・芥川龍之介、五木寛之、井上靖、加藤楸邨(しゅうそん)、曽野綾子、高橋治、竹久夢二、中野重治、中原中也、古井由吉、三島由紀夫、森山啓、与謝野晶子、吉田健一、等々豪腕の作家たちの舞台となった金沢を彼に案内されながら市内を歩き回れば「歌手というものはバカですよ!バカじゃないと唄えない」と言った浅川マキのことば。「おしみなく奪う種類のものでなく、おしみなく与える種類のものジャズ」と五木寛之小説の一節を彼・A氏背中に見る想い。真夏日の犀川べりを大橋から桜橋まで歩き寺町へのダブル坂というW字の様な石段を登り下り楽しめば、曽野綾子も戦争末期から戦後の一時期にかけてここに疎開した時、この坂を登り下りしたのだろうな、などと桜橋へ下り、橋を渡りながら下流の大橋見れば「川の岸辺にかげろうゆれる、流れる雲よ空の青さよ犀星の詩をうつす犀川」と金沢望郷歌・五木寛之作詞が頭に浮かぶ。そういえば五木氏は九州出身で姓は松延。夫人は金沢出身で岡。じゃあ五木は子守唄?と連鎖するが、実は奥様の母縁者姓五木を継ぎ金沢で新婚生活を始めたことからの名前の様。
 それはともかく、彼のエッセー「風に吹かれて北陸路」(1998年3~4月)には「金沢には犀川と浅野川という二つの川が流れています。二つの川が流れている街は本当にすばらしいし、めったにないのです。中津川と北上川が流れる盛岡がそうです。中津川系と北上川系カルチャーがあり宮沢賢治と石川啄木の世界だと、僕は勝手に決めています」だった。さあ僕も金沢から盛岡に帰らなきゃ!ありがとうAさん、女房への手土産までも!
11:03:00 - johnny -

2023-01-30

幸遊記NO.448 「金沢リバーサイドの篠崎文・川東優紀」2019.8.19.盛岡タイムス

 金沢の夜は長い!そう思ったのはA氏が深夜連れてってくれた犀川大橋から2軒目のビル最上階にあるリバーサイドという店のベランダから川を眺めた時だった。盛岡・開運橋から2軒目の最上階、開運橋のジョニーのベランダと同じ様なロケーションに思わずビックリ!A氏もどうやら僕の驚く顔を見たかった様子だ。リバーサイドといえばアメリカの名門ジャズレーベルだが、日本じゃ井上陽水の「リバーサイドホテル」が超有名。けれど美しい川で想い出すのはリバーサイドに建っていたホテルの窓から眺めたシカゴの夜景と「長い夜」。A氏との「約束の地へ」来て50年前のジャズっぽいブラスロックグループ「Chicago」の曲まで思い出した!という訳。
 そのリバーサイドというジャズバーでは小柄な女性ベーシストがギターをバックに浅川マキの“ちっちゃな時から”をうたい僕を感激させた。名前を聞けば中学2年の時からなぜか“ジョニー”と呼ばれてきたという川東優紀さん(34)。母校金沢高丘中学の大先輩があの森喜朗氏。彼女の母・麗子さんは浅川マキさんと一緒に働いていたことがあり、マキさんは当時、美空ひばりのうたが得意で、家にはマキさんの色紙「夜が明けたら」もあるという。「自分は体が小さいので大きいものにあこがれ、金沢大学時代からジャズ研究会で大きなベースを弾き、現在に至る。浅川マキが自分の中では最高、最強で“ふしあわせという名の猫”が一番好きなの」だとも。
 A氏がブンさんと呼ぶ篠原文(あや)さんの店「リバーサイド」は東京からのツアーミュージシャンの受け入れ、地元ミュージシャンのライブやセッションの采配、サンデー昼ジャムやジャズイベントの企画、ミュージシャン派遣、自らもジャズ歌手として店やホテルや野外のステージにも立つ才女。セッションではデイバイデイ。クロス・トウ・ユーなどを軽く歌い切る歌唱力とステージングの上手さ。A氏のいう「地方に埋もれさせたくない歌手ですよ!」を納得した次第。僕はその時、1980年代初頭に、新潟在住ピアニストの演奏を聴いて欲しい!と陸前高田まで一本のカセットを持参した女教師のこと。それを縁に住田町の農林会館で録音し、LPレコードにして全国発売、今や和ジャズ名盤の一枚に数えられるに至った小栗均さん(山本剛の師)のアルバム「みどり色の渓流」のことがフィードバックした。
11:01:00 - johnny -

2023-01-29

幸遊記NO.447 「金沢ジャズストリートの巻」2019.8.12.盛岡タイムス

 金沢駅に出迎えてくれたA氏、先ずはカレーを食べに行こう!で連れて行かれたところは尾崎町のとある古い囲い塀の前。その門をくぐると石燈籠のある庭園、その奥に打ちっぱなしのモダンなコンクリートZig。入り口にはjazz spot 穆然(ぼくねん)1992の看板文字。カウンターに座って牛すじカレーを注文。カウンター越しにデカイスピーカー。ジャズファン垂涎(すいぜん)の超個性的、“カレーナルサウンド”に、おなかグー!
 夕刻、ホテルからタクシーで片町へ、運転手に川の名問えば分からないという。地図を見れば鞍月用水。立ち並ぶ飲食店と道をつなぐそれぞれの小さな橋々、いったい金沢にはどれほどの橋があるのだろう。その中のひとつの向こうに、際立つ赤い看板。ピクリと反応した僕の頭に浮かんだのは「赤い橋、渡った人は帰らない」の金沢出身歌手・浅川マキのうただった。夕食後、香林坊の路地にポツンと灯るセロニアス・モンクの影絵看板「JAZZ・YORK」(作家の五木寛之氏が通った店と聞いていた)へ入るとまさに時代を感じさせる古いジャズの店、1968年開店(1982年現在地へ移転)年配の女性が一人カウンターに立つカッコよさ。ジャズの話を聞けば、最初の店にも今の店にも浅川マキさんは来ていたと云い、70年代中頃に撮影したという一枚の写真を見せてくれた。そこには若き日のママ(禎子さん)と亡くなられたご主人・奥井進マスター。一緒に写っていたのは山下洋輔(p)、坂田明(as)、森山威男(ds)そして浅川マキ。思わずコピーさせて!とコンビニへ走る。戻ってから聞いた話によれば、マキさんは1942年生まれとなっているが、それは妹さんの年齢で本人はその5コ上で、政治家の森喜朗氏は同級生!と誰も知らないおまけまで付いていた。浅川マキ本名・森本悦子・石川県美川町(現・白山市生まれ)。県立金沢二水高校卒1962年上京。67年「東京挽歌」(ビクター)でデビュー。2010年1月公演先のホテルで逝く。ここでハタ!と「浅川マキの芸名は、金沢・浅の川文学系譜(巻)が由来かも!」と僕。
 それはそうと金沢には今年で10年になる「金沢JAZZ・STREET」なるイベントがある。まちなか賑わい創出、新しい文化の創造、未来を担う人材の育成、金沢の魅力発信の4つからなるコンセプトで実行委と金沢市などが共催。10万人を集める凄さ!盛岡はイシガキ盛況!ジャズフェス?てがっ!
10:01:00 - johnny -

2023-01-28

幸遊記NO.446 「金沢の暗がり坂あかり坂」2019.8.5.盛岡タイムス

 金沢は盛岡を流れる北上川と中津川の様に犀川(さいがわ)と浅野川が市内を流れ、川と川の間に城跡があることもなんとなく似、違いは市街地のあちらこちらを縦横に用水路が造られてある事くらい?その水量の多さはまるで川。流れゆく水の様に澄んだリズミカルな音に耳を傾けると、「水の音やトンビの声を聞いていると、人間欲得を離れるもんですね」と、とある小説の中でアンマ(マッサージ師)がつぶやいた言葉が頭をよぎる。暗渠(あんきょ)を抜けて日の当たるところに出てくるときの用水の輝きもまた、まるで泉鏡花(いずみきょうか)生家跡(記念館)ちかくの「暗がり坂」から主計町(かずえまち)へ下り、個性的な風情ある古い家々の軒下の隙間を通り抜ける迷路みたいなカギ形が続く狭くて細い、まるで暗渠のような道。その先にある五木寛之が名付けたという「あかり坂」にたどり着いた時、人の心も水の性質と同じだと気付く。その二つの坂道は、正反対の名前だがジャズの様に、五木氏の小説「海を見ていたジョニー」に出てくる「ブルースって音楽は正反対の二つの感情が同時に高まってくる、そんな具合のものさ。絶望的でありながら、同時に希望を感じさせるもの、淋しいくせに明るいもの、悲しいくせに陽気なもの悲しいくせにふてぶてしいもの、俗っぽくてそして高貴なもの、それがブルースなんだ、そこのところをしっかり摑まえなきゃ、本当のブルースはやれない」を意識せずには通れない一対の坂であり、文学と音楽の持つ別々なひとつの意味を考えさせられる。
 その音楽で行って見たかった金沢蓄音器館。同市で長年レコード店を営んだ、故・八日市屋浩志氏が収集したという540台もの蓄音器と2万枚のSPレコード。遡ること百数十年のレコード史を当時のレコードと何台もの再生機で時代別の音を聴かしてくれる素晴らしさ。感動したのは現在の横振動ではなく縦振動再生のレコードとそのピックアップ。何しろ一枚が三枚分もある厚さで、その重さにも驚いたが実に良い音。シャレではないが質量の違いが良(量)質の音となる証明だった。そこでまたふと思い浮かんだのは「世の中で人間の到達しうる唯一の安定はコマもしくは自転車の持つあの安定。安全な状態というのは絶え間のない前進である。(地球も自転前進)いつのまにかその回転しているものは蓄音機の円盤になっていた」という山本有三の小説「無事の人」(1949年)の一説だった。
10:57:00 - johnny -

2023-01-27

幸遊記NO.445 「金沢の五木寛之文庫」2019.7.29.盛岡タイムス

 仕事で金沢と盛岡を往き来しているジャズファンのA氏より「ジョニーに金沢に来て貰いたい」そう言って間もなく一泊二日の予定でプランを立て、ホテルを予約し往復の切符まで用意してくれたので、7月24.25日と行って来た。ありがとう。金沢は1999年に穐吉敏子ジャズオーケストラの演奏を石川厚生年金会館に聴きに行った以来20年振り。駅に車で迎えに来てくれた彼は、僕が行きたいところを連れ歩いてくれるという、願ってもない申し出。金沢の観光マップやら、記念館の案内パンフ、僕を五木寛之ファンと知っての「五木寛之の金沢さんぽ・エッセー集」など、切符と一緒に届けておいてくれたから、気分は梅雨時のようにウキウキ?していた僕。
 先ずは金沢文芸館、盛岡の賢治・啄木青春館のような、昔は銀行だった建物。金沢市の保存建造物で国登録有形文化財になっているルネッサンス様式建築のカッコよさ。1階交流サロンには五木寛之さんの奥様・玲子さん(金沢出身)の絵が飾られた美術館的一角があり、その独特な画風がかもし出す雰囲気もまた、金沢のもう1つの世界観。3階文芸フロアでは、研究講座が開かれている最中であった。奥には金沢に生まれ、近代文学に偉大な足跡を残した泉鏡花の文学賞を受賞した人々と、その作品の展示室があり、えーっ、この人もあの人も、と今もときめく作家たちのオンパレード。1973年の制定。2階は金沢五木寛之文庫、作品群とその表紙の写真、レコードや小物なども展示され、彼の生き方の魅力にまで迫る空間なのだが撮影不可。そこで案内役の素敵でかわいい年配のご婦人と話をしていると、「実はここが、第2文庫で第1五木文庫は本多町の喫茶店“おあしす”の2階にあります」と教えてくれた。そこは今金沢一の人気スポット「金沢21世紀美術館」の真向かいにあり、何と「金沢20世紀カフェ」と表示している面白さ!その下に五木氏の字による「五木寛之文庫」の小さなプレート。1階はレトロな昭和の喫茶店、2階はかつての金沢タウン誌「月刊・おあしす」の編集室だったところで、本棚には五木氏の膨大な全バージョン作品群があり、しかも無料で貸し出してもいるという。その中から例の1冊「海を見ていたジョニー」を取り出すと本の中にはさまれた五木寛之小説全集月報(9)第8回配本1980.4.24講談社のしおり。そこには「海猫の見えるジョニー」というタイトルで作家・阿奈井文彦氏が書いた作品紀行文。33才時の僕のことが書いてあり、そのコピーに五木文庫のスタンプを頂いて来た。
10:55:00 - johnny -

2023-01-26

幸遊記NO.444 「遠い空、夏の思い出」2019.7.22.盛岡タイムス

 うたの文句じゃないけれど、夏が来ると思い出すのは、はるかな尾瀬ではなく“遠い空”。
戦後30年してフィリピンのルバング島で救出された元陸軍少尉・小野田寛郎(当時51才)。発見(出会って一夜を一緒に過ごし写真撮影)したのは、当時日本の恥といわれたヒッピー的旅人?だった鈴木紀夫さん(24・千葉県市原市)アルバイトで稼いだお金で小野田さんを探しに行こう!とフィリピン軍当局と交渉して、現地に乗り込みキャンプしながら小野田さんが出てくるのをたった1人で待った男のロマンが適中してのことだった。「名刺の肩書が無ければ指一本動かせない現代サラリーマンは大いに見習う必要があるだろう」とは当時の朝日新聞(1974年3月13日付)。だが本当に見習う必要があったのは日本国だったはず。
 1950年に赤津勇一元一等兵が病気で島民に保護された時、まだ山中には3人の元日本兵がいることがわかった。54年その内の一人、72年にはもう一人比軍、警に射殺され、その度に日本政府が捜索隊送り、それにかけたお金は一億円。その最初の説得隊がルバング島に渡ったのは1954年5月、それを報じたアサヒグラフ(54年6月23日号)を開けば、日本全国に5000人300団体はあろう楽隊の花形はジャズピアニスト!と日本を代表する7人のピアニスト中、紅一点、穐吉敏子さん(24才・楽団・コージークインテット・リーダー)の写真と記事。その更に20年後の74年、小野田少尉が直立不動で敬礼する姿をTVで見た彼女はアメリカのジャズ界にあって一人奮闘していた自分と重ね合わせ「孤軍」を作曲し、自分のビッグバンドで演奏、録音。そのレコードを僕に聴かせてくれたのが“軍記”さんという先輩だったが、それこそ愛国心の強い穐吉さんが旧満州(中国)の弥生高等女学校4年の時、陸軍看護婦募集に、お国の為になろうと志願!興城市の陸軍病院で実習。訓練終了後に送られる希望地の第一志望に「最前線」と書いた直後の終戦。片や小野田少尉は陸軍中野学校二俣分校出。「たとえ国賊の汚名を着ても生き延び任務を遂行せよ、戦争が終わっても次の戦争が必ずはじまる。それにそなえて残り、守備隊が全滅しても情報収集を続けよ」との命(めい)を受けたのは終戦のわずか8ケ月前のこと。それを守った彼と孤軍のバンドを率いた彼女の自分との闘いはそれぞれ30年に及び、1997年10月22日小野田元少尉は東京ブルーノートで穐吉敏子ジャズオーケストラの演奏する孤軍を来聴した。
10:53:00 - johnny -

2023-01-25

幸遊記NO.609 「」2022.9.27.盛岡タイムス

欠番
21:51:19 - johnny -

幸遊記NO.443 「さがのさがとさがのうたじゃず」2019.7.15.盛岡タイムス

 「ジョニー!僕の好きな歌手を呼びたいんだけど、ここで演らせて貰えないかな?」そう言ったのは、日本酒愛好家の田中三郎さん!“この人!です”と、4枚のCDを持参。この人とは独自の解釈で様々な音楽を自分流のジャズにしてしまう独特の雰囲気を持つ「さがゆき」さんでした。日時は7月12日2019。会社員である田中さんが、自分のポケットマネーで印刷したA5サイズのフライヤーは、写真家でもあり写真展も何度か開いている田中さんらしく北上川に架かる旭橋から開運橋撮った写真にギターを持つ“さが”さんの顔写真をフィーチャーした、それこそ独特の雰囲気を持つもので、そのフライヤーで彼が釣り上げ連れて来た人は18名。まさに彼が18番に好きな歌手を彼自身が18番に好きな18人の友人達に聴かせたライブは、田中のさがワールドと言っていいのだろうと僕は思い、昔ジャズ喫茶店主というものはまさにこれだったと。夢中になってコンサート主催した若かりし頃の自分や同業だった人達のことを思い出さずにはおれない雨の夜だった。
 「雨とは天が空になるまで流す涙のこと」そう頭の中に浮かんだのは、彼女が帰る時。エレベーターホールにて僕の女房にひしっ!と抱きついて離さない“さが”さんが顔を上げたら、目は夕焼け、まるで真っ赤な海に沈む巨大な太陽のように見えた。小さい時からテレビも見ずに家にあったジャズのレコードを親に隠れて聞き、自分なりの譜面を書いてはひとり弾き遊び幼稚園児時代からジャズをうたい、小学生ですでにライブをやり、一万ものギャラ貰い、中学の時はタクシーで学校に通ったほどの収入を得、バンドにもアンプを買った。母の兄弟はジャズミュージシャン。北村英治のバンドに頼まれ母が着せてくれた深いグリーンの服でディナーショーのステージに立ったのは15、6歳の時。まもなく中村八大さんがスカウトに来て、車ベレットGTを買い、生徒手帳には歌える曲、バットノットフォーミー、酒とバラの日々、コルコバード、ラウンドミッドナイトなど大人の曲をズラーッと書いていて、学校から始末書を書かされたほど、いわゆるわるい娘の女王様、「我が世の春よ!」と彼女。合格した青学に行く間無くステージに追われ、様々なミュージシャンやファンとの出会いによって昔も今も売りではなく買われる唄のステージが月の半分以上あるのはまさに彼女の魅力そのものである。乾杯!。
10:51:00 - johnny -

2023-01-24

幸遊記NO.442 「シュート・アロー様・楠瀬克昌様」2019.7.8.盛岡タイムス

 謹呈の印が押された「ジャズ批評」誌(株・松坂)210号が手元に届いた。松坂さんありがとう!僕もあの東日本大震災以来、古い批評誌を捜し求め続けて、ほぼ全巻揃えたところです。それはともあれ、シュート・アローさんという楽器メーカー勤務の某日本人筆者の新連載「ライナーノーツの誘惑」プロローグに次ぐ第2回「陸前高田の縄文ジャズ」を読みました。「海を見ていたジョニー/坂元輝トリオ・ライナーノーツ・執筆者・五木寛之。1982年発売」とありますが、発売は81年。「五木氏がライナーノーツを執筆することになったのは実際にジョニーへ訪問したことによる」ではありません。五木さんがジョニーに来たのは91年12月。「大作家でしかも極めて多忙な五木氏がなぜ岩手県陸前高田市のジャズ喫茶ジョニーのためにライナーを執筆したのであろうか?」これは僕が五木氏宅に直接頼みに行ったことからですが、書いて頂くのに7ヶ月ほど待ちました。「多額の原稿料をジョニーが五木氏に支払ったとは考え難い」はその通りで五木氏の無償の愛によるものでした。そして「ジャケット写真・朝倉俊弘」の名は俊博。
「なおジョニーズディスクを創設した照井顕氏は現在盛岡で開運橋のジョニーを経営しているようだ」とありますが、知っていてどうして確認の電話一本ないのだろうかと思います。シュートさんが2014年に出版した「昭和・東京・ジャズ喫茶」(株・ディスクユニオン)本の巻末に特別編として、仮設のジャズ喫茶を陸前高田市に訪ね、現店主(僕の元妻)の話をそのまま受け止めたからなのだろうかと?。しかも彼は、昨2018年11月名古屋の楠瀬克昌氏のJAZZ・CITYが発行したジャズ喫茶案内「GATEWAY・TO・JAZZ・KISSA」(陸前高田のジャズタイム・ジョニー)が表紙の本も読んだ様子。だがその本での僕に関する記述読めば、「妻に内緒で盛岡に出て行き妻には負債を抱えた店が残された」とある。そんなことはありません。僕は楠瀬氏に、「確認取らずのこれは、名誉棄損じゃないですか?」と電話した。離婚話ではお金の無い僕のために僕の兄弟達全員がお金を要求されたことから、僕が家裁に申し立てをし、店の負債と盛岡に来てから妻名義に僕が登記した土地付中古住宅の借金も全部自分が背負うことにし、13年に及んだ家庭内別居解消。又、恥ずかしい話ですがウン百万にのぼった離婚までのジャスラック使用料の未払い金についても今尚分割払い中。これが事実です。あ~あ!
10:21:00 - johnny -

2023-01-23

幸遊記NO.441 「三上良徳のFMテープ録音CD化」2019.7.1.盛岡タイムス

 4日間乗り放題のJR・大人の休日切符で来ました!と仙台から年に1、2度やって来る三上良徳さん(68)は今年もニコニコしながら手土産持参(三色最中と手焼きのCD)で来店。この数年、彼が現れる予告の電話を受け取ると思わず期待に胸が膨らんでいることに気付く。それは、僕がジャズにのめり込むきっかけとなった、岩手出身のジャズピアニスト・故・本田竹広(1945~2006)さんが、自分のトリオや、リーダーを務めたネイティブサン、あるいはそれ以前の渡辺貞夫さんのバンドにいた頃のFM生放送を同録したテープから、CDに焼き直したものをプレゼントしてくれるからなのだが、何よりも嬉しいのはその音源のデータがものすごくしっかりしていること、いわゆる「いつ、どこで、誰が誰と、誰の何という曲を演奏した」をカンペキに調べ印字してくるからなのです。
特にも良い音楽はそのデータによって明日への懸け橋となり、より虹色に輝くものなのですが、昔のレコードはクラシック始め、ポップスも歌謡曲も録音年月日はおろか指揮者や歌手、団体の名称以外に演奏者名など無記載が多くて何の役にも立たないものがほとんどである。その点、ジャズは昔から全てのデータが記録されてきたことには、本当に頭が下がります。お蔭様で僕も1978年からレコードやカセット、CD作りをして今に至ってますが、その制作に関わった人々の名をそのインナーに印刷してきたのは、そうしたジャズの先人たちを見習ったことによるものなのでした。
 それはそうと、三上さんが音楽を好きになったのは家にあったレコードを親から聴かされた幼稚園の頃。だが成長するにつれ、クラシックのこれは誰の何番とかいう学校の講釈がいやでジャズのほうへ向ったが、正直、最初は雑音にしか聴こえなかったらしい。だがデパートで聴くジャズが耳に心地良くなり、東北学院大経済学部へ通う頃には仙台にあったジャズ喫茶ダウンビートへ行き、1970年頃からはエアチェックし、オープンリールテープに有名どころの人達を録音して聴いた。金融機関を定年退職してからはアナグロテープからデジタルへの変換作業するため高周波の勉強をし、最近は定禅寺ジャズフェスで気に入ったバンドを生録それを写真と共にCD化、それを、演奏者にプレゼントして友好を深めているという。
10:19:00 - johnny -

2023-01-22

幸遊記NO.440 「全国・東北・岩手版」2019.6.24.盛岡タイムス

 今年2019年12月に90歳を迎えるニューヨーク在住のジャズピアニスト・穐吉敏子さんの記念資料館宣言を本紙・盛岡タイムス(幸遊記№433)に書いた。すると毎日新聞の記者・藤井朋子さんが取材に来て「盛岡のジャズ喫茶店主・秋吉さん思い“資料館”」という記事を6月18日付同紙岩手版に書いてくれた。何というありがたさであろうか!しかも記事写真2枚。内1枚は、新聞・雑誌・専門誌の記事とコンサートのフライヤー。その他諸々のインデックスなどのファイル10冊の表紙に、今年4月穐吉さん来盛時、サインして頂いた資料写真。ここまでは普通?だが2枚目の写真「秋吉さんが表紙を飾る雑誌」として昔の「アサヒグラフ」(ライバル紙・朝日新聞発行)を堂々と載せていたことに僕は驚いた。撮った記者が記者なら、それを載せる編集長も編集長!と、僕は自分の記事のことよりも、そのことに感動を禁じ得ずにいたら、女房に尻を叩かれ販売店に行き残部・全部あらいざらい買って来た。あはは!
 昔は特別な事でないかぎり、新聞記事そのものに書いた記者の名前などは載せなかったが、いくら大新聞の記事とはいえ、取材し書くのは個人個人である。何故新聞社は書いた人の名を載せなかったのか?、それはともあれ、今ではあたりまえになった著名入り記事。その先陣をきったのは、何を隠そう毎日新聞だった。「毎日は最も開かれた新聞ですよ。本社に直談判しに行った方を1ページ目の“人欄”でとりあげたこともあるほどだから。照井さんだってやってることはその人に劣らない!東京へ行くことがあったら、ぜひ本社を訪ね、人欄担当の編集委員に会いなさい。きっと道が開けるから」そう言ったのは同紙釜石通信局にいた鬼山親芳氏だった。ブタもおだてりゃ木に登るたとえ話のように僕もレコード制作で上京の折、名刺も持たずに直談判に行って、出て来てくれた編集委員にすこぶるおこられ帰ってから自己PR宣材を送ったがなしのつぶて。1年後の上京時に意を決し電話したら「又あんたかい!まあ来てみなさい」で行ったら写真を撮られ、言いたい事をしゃべりなさい!とで、1983年9月3日付毎日新聞の「ひと」欄に「日本のジャズを育てる照井顕」で載った。これは僕が36才にしてやっと自分で勝ち取った?唯一の金メダル?それをけしかけた鬼山氏は2001年同紙連載の21世紀東北の100人に僕を入れてくれたのでした。
10:18:00 - johnny -

2023-01-21

幸遊記NO.439 「野口和則の釧路とジャズと」2019.6.17.盛岡タイムス

 2015年4月、学研から発売になった「ジャズの教科書・ニッポンJAZZ紀行」に「40年にわたり邦人ジャズに傾倒、レコードでは秋吉敏子を熱心に収集、秋吉敏子記念館を目指す」として僕の店・開運橋のジョニーが紹介された記事を読んだという北海道・釧路市の野田和則さんと方から、郵便物が届いたのは同年4月の初旬だった。「私も日本のジャズが好きで、聴いてます。穐吉敏子さんが特に好きでよく聴きます」と1980年6月6日、NHK505スタジオから生中継された、秋吉敏子トリオのFMエアチェック盤CD(カセットからダビングされたもの)などが届きビックリ。しかもその放送一週間後の13日、彼女が初めて陸前高田を訪れ、コンサートを開催した時のボブボーマン(ベース)ジョーイバロン(ドラム)とのトリオ編成初来日時の貴重な音源であった。
 それ以来、未だ見ぬ彼のことを頭に浮かべると、翌々日に郵便が届くのだから不思議。先日はそれこそ僕が盛岡に出てきた2001年のNHKFM・秋吉敏子(p)鈴木良雄(b)村上寛(ds)のライブ盤が届いた。僕と釧路の関係で云えば、定時性高校4年の時の修学旅行で北海道へ行った時のこと。釧路の海と街を見下ろす高台の公園にあった啄木の歌碑「しらしらと氷かがやき千鳥なく、釧路の海の冬の月かな」は、今もすらすらと僕の頭から口を伝って出てくる不思議。野口さんから以前に届いてた啄木歌碑マップを開くと今では釧路市に何と25基。先の碑は1934(昭和9年)全国で6番目に完成した釧路最初の啄木碑だそうである。啄木は1908(明治41年)1月「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」釧路新聞の記者として釧路入りから数えて今年は1並びの111年。当時啄木が釧路に残した借金は今、その何倍何十倍もの還元率となって釧路を潤し続けている様子。
 又釧路港から見る夕日の美しさは、インドネシアのバリ島、フィリピンのマニラ湾と並ぶ世界三大夕日の一つとされ、厳冬期日没の瞬間に夕日が緑色に耀くグリーンフラッシュと呼ばれる現象に出会えば幸せになれるという話や1856年北海道で最初の採炭が行われた岩見浜。今に残る日本唯一の太平洋炭鉱(釧路コールマイン)。日本の政府には失言が飛び交うけれど釧路の湿原に聴こえるのはジャズのような丹頂(短調)鶴の一声である!か。
10:57:00 - johnny -

2023-01-20

幸遊記NO.438 「デュークエリントン切手の元写真」2019.6.11.盛岡タイムス

 幸遊記№436故・阿部克自氏の撮った穐吉敏子生写真のこと書いたあとで彼の、写真集「ジャズの肖像」(2018年シンコーミュージック)の監修にあたった行方均氏の巻頭文の中「オレの撮ったエリントンがさあ、アメリカの記念切手に使われているんだよ」と阿部さんが行方さんに言った下りと、その覧右上にある切手写真を見て、あれ!と思った僕。その切手とはピアノを弾くデュークエリントンを左側、つまりステージの後ろ側から撮影した珍しい写真である。切手!切手、と僕の頭の中がレコードの様に回転する。そうだ!あれだ!。資料棚から取り出した故・村上軍記さんからの手紙類。その中から出てきた「4枚のエリントン切手(未使用)」。彼が65才だった2009年に、僕に送ってくれたまさに本物のそれだった。この切手が発行されたのは、デューク没後12年目の1986年4月29日(デュークの誕生日)。その写真撮った時のエピソードは阿部さんの本「とっておきジャズ体験・パーカーの子守唄」(1994年シンコーミュージック)の12話「予感」に書かれていて、1966年赤坂のクラブ「月世界」での公演時にデュークへ前々日に渋谷公会堂で撮った写真を渡しながら「今日は出来れば逆光で撮りたい」と伝えたら「じゃあオレの脇に居ればいい」と、メンバーと一緒にステージに上がらせてくれたのだという。
 しばらくしてニューヨークの出版社からデュークの自叙伝「ミュージック・イズ・マイミストレス」(音楽は我が恋人)が届いて、開けてみたらあの月世界での一枚が一ページ大で使われていた程、デュークが気に入った写真だったらしい。だがその写真を切手にしたアメリカ郵政省からは無しのつぶて!と、米大使館に不満申し立てをしたら、Kアベの作品と認められ切手への使用料が支払われたという。それと似た話だが2016年3月、ニューヨークのジャズクラブ、ブルーノートで僕が買った穐吉敏子の絵はがき(LP孤軍のジャケット写真を元に描かれた)のことを関連的に思い出し、確かめてみたがK・アベの名はクレジットされていなかった。LP孤軍は僕が穐吉敏子への旅をはじめるきっかけとなった作品。それを僕に紹介してくれた村上軍記さんの人生観を変えた一枚は「デュークとコルトレーン」(インパルス盤)。デューク亡きあと生誕100周年を記念にデュークをトリビュートする曲をつくる時、アメリカ側が作曲者として指名、依頼したのは日本人穐吉敏子であった。なんというめぐりあわせであろうか。
10:56:00 - johnny -

2023-01-19

幸遊記NO.437 「予期せぬアクシデント」2019.6.3.盛岡タイムス

 時折調べ物をしに図書館に行く。と書き出して浮かぶのは、そうだこれも音楽の調べ(演奏や調子)と同じことかと。その調べ中(いわゆる演奏中)に起きたアクシデント・予期せぬ事故の話で思い出したのは、昔、クラシックのコンサート中、停電に見舞われ、演奏中に会場真っ暗、だが演奏者は何事も無かった様にその曲を暗闇の中よどみなく弾ききったという話。その演奏者とは、安川加寿子(1922~1996)。日本芸術員会員で、芸術家会議会長、日本演奏家連盟理事長、日本ピアノ教育連盟会長、などなど数えきれない程の役職を歴任した東京芸大名誉教授。身近な話としては1964年11月、岩手県公会堂で労音主催例会コンサートで来演していたピアニスト。
 その安川加寿子さんを親戚に持ち、彼女からピアノの手ほどきを受けたジャズピアニストのケイコ・ボルジェソン(72・スエーデン在住)。僕は彼女のヴォーカルとピアノが大好きでたまらない1人であるが、実は彼女、昨2018年12月、僕の店でライブの予定だったが当日の朝、前日の公演先だった福島で宿泊先の階段を踏み外し転げ落ち、右手首を骨折。すぐさま病院で手術を受け、ライブがキャンセルになったのでした。そのリベンジにと、この5月31日・2019、店に来てライブをしてくれたが右手にはまだ生々しい手術痕。帰る途中福島で金属を抜き取る手術をするのだということでしたが、右手が使えなくなったことで自分にプラスになったのは左手の使い方の進化とヴォーカルが深化してうまくなったと言っていたけど、聴いてみたらそのとおりで僕も惚れ直しという親愛から深愛へと変わる程、凄さが増したことは、まさにケガの巧妙かも。昨年大好きな二人(トシコとケイコ)さんそろってのキャンセルだったが、その二人の復活演奏には、これまで以上に感動させられました。
 それこそ図書館でふと昔の事を想い出し調べてみたら出てきたのが。僕の名が世に出た最初のアクシデント記事!1966年11月の新聞。「24日午前1時ごろ陸前高田市内の県道笹の田峠のカーブの多い下り道で居眠り運転、軽四輪ライトバンが約百メートルがけ下の沢に転落、三人が一ヶ月の大ケガで県立高田病院に収容された。運転していたのはクリーニング店員・照井顕(19)」。乗っていたのは叔父、叔母で、よくぞ誰も死ななかったもの、以来僕は二度目の人生を生きて来た。
10:55:00 - johnny -

2023-01-18

幸遊記NO.436 「ヒロシマの希望と阿部克自の生写真」2019.5.27.盛岡タイムス

 昨2018年8月6日付・本紙盛岡タイムス(幸遊記・№394)に登場していただいた広島・善正寺の中川元慧住職から3月11日に封書が届いた。入っていたのは手紙とコンサートパンフコピー。パンフは2001年8月6日、ヒロシマ厚生年金会館で行われた「穐吉敏子ジャズオーケストラ広島公演」(ヒロシマ~そして終焉からの初演コンサート)。企画したのは住職を頭とする実行委員会「私が広島で生まれ育ち被爆者を親に持つ僧侶としてのささやかな平和に対する思いから、21世紀には核兵器が絶対に使用されることのないことを願って、秋吉さんに“ヒロシマ”という曲の作曲を依頼し、秋吉さんの希望でその発表を21世紀最初の8月6日、今日この広島の地で行うものです」と中川住職の挨拶文。主催したのは広島テレビだが、そのコンサートの模様を放送したのはNHK・BSI・8月11日。1200部刷ったパンフ以上の入場者数で足らなくなりメンバー全員のサイン入り1部だけが住職の元に残った。送られてきたそのコピーを見て僕はアッ!と思い出しパンフ資料を調べたら、ありました!本物が!それこそ秋吉オーケストラのコンサートを制作した招聘元の株・オールアート・プロモーションで、ロードマネージャーをしていたアキヨシこと鈴木明義さんから、コンサートのこぼれ話(原爆投下時の音をドラムで表現演奏したジョージ川口さんのこと)を聞いた後で、僕が持っているよりジョニーが持って入る方がいいからとプレゼントしてくれたものだった。あらためて鈴木・中川両氏に感謝です。
 すると翌4月、今度は神田神保町にある「アデロンダックカフェ」の滝沢理さんから昔の穐吉さんの白黒生写真5点。2枚は1963年帰国時のステージ写真(ふっくらとしたおなかには生まれる前のマンデイ満ちるが入っている)と、84年ケンフランクリング撮影のピアノを弾くトシコ。そして80年代の穐吉夫妻、それを見せたら「あ、これ阿部ちゃん(阿部克自・1929~2008穐吉のレコード孤軍のジャケット撮影者で日本人初となったジャズ写真家の最高栄誉「ミルトヒントンアワード」2005の受賞者)のしゃしん!」とサインを入れてくれた穐吉さん。そういえば昨2018年1月行方均さんが監修した阿部克自写真集「ジャズの肖像ポートレイチャーズ」(表紙にはデューク、マイルス、コルトレーン等と共に秋吉写真)をプレゼントしてくれたのが盛岡の及川房子さんでした。感謝!感謝!
10:53:00 - johnny -

2023-01-17

幸遊記NO.435 「盛岡労音のジャズ例会事始め」2019.5.20.盛岡タイムス

 僕が2001年春に盛岡へ店を出してからこれまで様々な人たちから教えてもらった昔々、盛岡へコンサートにやって来た人やグループ名、主催団体などそれらを耳にするたびにメモして来たつもりだが、そのメモのありかにたどりつかず、目もあてられないなどと、シャレでごまかしてきた僕も、そればかりも言っていられぬと、まず自分と同世代のジャズ喫茶の活動歴。それと先輩たちの店のやり方、その活動の痕跡(こんせき)、岩手ジャズ愛好会、岩手ジャズ喫茶連盟、東山堂楽器(現・東山堂)、盛岡労音(のち盛岡新音)と、そして盛岡最古のジャズライブ店と思われる「白バラ」に至るまで、それらをよく知る人々との出会いによって、ようやくその全貌(ぜんぼう)が見えはじめてきた。
 今年2019年の5月連休前、盛岡のジャズコンサート史から欠くことのできない穀蔵力氏に出会ったことを前回書きましたが1961年以前存在していた芸協(盛岡芸術鑑賞協会・会長・山本弥之助・当時の市長。会員数2500名)を発展的に解消し、労音、労演として再出発したとき、労音(勤労者音楽協議会)の事務局だったのが穀蔵さん。委員長はうたごえサークルをやっていた県総務部の高橋源氏、役員を除く30人程の委員の中には佐々木初朗氏(下ノ橋中の先生、のちの教育長で、市民文化ホールにパイプオルガンの導入の労をとった方)の名。さてその盛岡労音は煩悩(ぼんのう)の数と同じ全国で108番目の発足。その初例会は61年12月の「二期会合唱団」2200名の会員により県公会堂で3回のステージ。更に62年1月第2回例会は2770人の会員で「鈴懸の路」で知られるジャズクラリネットの鈴木章治とリズムエースで盛り上がったその労音のコンサートは一年後の穐吉敏子までに4度のジャズ関連コンサートを開いていた。
 僕がこんなことを調べるきっかけとなった穀蔵さんと偶然に出会うことになる直前、実は70年代に“BunBun”という、ライト・ミュージック・ニュース・モリオカ(のちにイワテ・発行元・東山堂楽器/現・東山堂)という手書きの隔月刊ミニコミ紙(72~76、数万部発行)の編集をしていた槻館常敏さんとコンタクトが取れ、連休明けに「ブンブン」を見せて貰う約束をしたばかりだったのだから、渡りに舟、縁の不思議さをつくづく思わされている最中なのです。皆様ありがとうございます。
10:52:00 - johnny -

2023-01-16

幸遊記NO.434 「ついに始まった盛岡ジャズ史への旅」2019.5.13.盛岡タイムス

 この幸遊記の連載を始める前、100週(回)書かせて頂いた「トシコズ・ドリーム」(№96・2010・11・29盛岡タイムス)の主人公・穐吉敏子さんの「私のジャズ物語・ロング・イエロー・ロード」(NHK教育TV番組“人間講座”2004年6月~7月期を収録した本)を、穐吉さんがニューヨークから僕に送ってくれた。その第7話「ジャズを愛する人々」の中に僕の名前も出てきてビックリしたものでしたが、第4話「わが心の師デューク」の冒頭に「ピアニストとしての師がバド・パウエルだとすれば、音楽家としての師がデューク・エリントンでした」とある。穐吉さんが初めてデュークの音楽をレコードで聴いたのが1947年頃(僕が生まれた)だというが「正直なところ何だかよくわかりませんでした」。その10年後ボストンでデュークのオーケストラと共演したときも「音楽の理解が浅かった私は正直なところアンサンブルには興味がありませんでした」(中略)。その時受けた印象は「彼のユニークでダイナミックな指揮ぶりに彼の音楽家、リーダーとしての大きさを感じた」。
 又6年後の72年夏、デュークがロスのディズニーランドに出演した時、客席にいたアキヨシをステージに招きバンドと共に「A列車で行こう」を弾かせ、大勢の聴衆がピアノのまわりに集まり手拍子を取った。演奏後、老夫婦が寄ってきて「貴女の演奏は30年前のデュークみたい!」と言った。「デュークに似ているとは思わない私は、貴方たちはデュークを聴いて何年になるのですか?」。答えは「私は28年、ワイフは36年間のファンです」。その時穐吉さんは「アメリカのジャズの歴史、厚みにめまいがする思いでした。このような人々に支えられてジャズ史の上に立ち、その歴史の重要な1部であるデュークを羨ましいとも思いました」。このくだりは忘れ易い僕でも覚えており、あれから15年、あっという間に僕も穐吉ファン歴45年になった。
 2019年5月の連休前、僕は盛岡のコンサート(特にもジャズ)には欠くことの出来ない重要な人物・穀蔵力氏に、民家画廊「ダダの家」で偶然に声を掛けられ、1963年、秋吉敏子カルテットを盛岡に呼ぶため、アメリカからのバンド招聘元・神原音楽事務所まで交渉に行ったと聞き、その資料を調べながら穐吉さんを基点として、僕の中で更なる盛岡ジャズ史にまで発展している。
10:51:00 - johnny -

2023-01-15

幸遊記NO.433 「穐吉敏子・記念資料館宣言」2019.5.6.盛岡タイムス

 5月5日は子供(男子)の日、いわゆる端午(五?)の節句(3月3日は上巳・じょうし・女子?の節句)。僕等の店がある開運橋通りには、子供の日にちなむ鯉幟(こいのぼり・緋鯉と真鯉に吹流し)が街路灯の下で新緑の風に泳いでいる。岩手山が見える開運橋の下を流れる北上川には時折その鯉たちの姿をみることが出来るというのも盛岡の風情(ふぜい)。素敵な真鯉に恋いし、ポーッとなって緋鯉になった姿?も。今は切られてしまい無くなって淋しくなったが、2000年代末頃まで橋のたもとに大きなねむの木があり、夏になればあかい花が咲く風景、「夏が来て 夏が来て 開運橋 大河の岸のねむの木の 茂みに今年も 泳ぐ金魚(きんとと)」(小泉とし夫)と、短詩にてかつての風景が残されていることはありがたい。
 前置きが長くなった。僕が夜間の高田高校定時制を卒業した、1967年の5月5日は、それまで買いためたシングル盤レコード(45回転EP)をもとに、僕の音楽活動のはじまりとなったレコードコンサートを開催した日である。「ジョニー!(女房は僕のことをこう呼ぶ)は穐吉敏子さんの音楽に出会って今年で丁度45年!穐吉さんのコンサートを主催し始めて40周年!離婚と津波で失くしたジャズ関連本を再収集して大学生になったつもりの勉強と、穐吉さんの本を書く許可を穐吉さんから頂いて、もう6年よ。大学院すら卒業した年数。集め調べた穐吉さんの膨大な資料とそのファイルの数々の表紙にまで本人のサインを頂いたんだから私は、5月5日に“開運橋のジョニー内”穐吉敏子・記念資料館“としてインターネットに発表しますからね!」と尻を叩かれた!
 想い出せば、あれは2004年10月30日、新宿DUGで行われた「孤軍・秋吉敏子・その人生と作品」(全音楽譜出版社)本の出版パーテイ(本人を囲む会)の席にて僕は、「皆さん、穐吉敏子さんの記念館を日本のどこかにつくりませんか?」と問いかけた経緯があり、その為の目玉となる穐吉さんが運転していたボルボのワゴン車を日本に運んで保管してくれている人の話などをした。あれからすでに15年の歳月。例えば記念館なら紫波の旧郡役所の建物などピッタシなんだけど、とりあえず「開運橋のジョニー」内に資料室として開設の宣言です!
10:49:00 - johnny -

2023-01-14

幸遊記NO.432 「母の“5296”から生まれた日」2019.4.29.盛岡タイムス

 4月は僕の誕生月、生まれた所は平泉の第4区。しかも4男として。この4を3つ掛けると12(ジョニー)となる数字の面白さ!4月1日はエイプリル・フール(いわゆる4月馬鹿)ウソをついて人をかついでも世界的に許される日、いわゆる冗談のよいひ(4/1日)で、その性か僕はジョークが大好き。誰彼に素早く駄ジャレをいうものだから、笑いの無い日というものがない。これ健康のコツ!と肩甲骨を動かしながら、笑うような日々。
 それにしても今年2019の春は多忙だった。4月10日・盛岡市民文化ホールでの穐吉敏子「89歳終わりなき演奏の旅」コンサート。案内封書1千人への宛名書き。更には、1日から始まる小泉とし夫さんの口語短歌「92才の朝と赤い裳のひと」の色紙展のための50点余りの左手での書、市内の友知人への案内文の宛名書きと3月31日の朝から1日の朝9時まで24時間ぶっ続けで完徹して書いた170通を郵便局で差し出してから、その日11時から始まる展示の飾り付けをしに「喫茶ママ」へ駆けつける。案内は3日の午後に行われた小泉さんの朗読ライブ(八木淳一郎さんのギター演奏)に間に合えばとの郵便だったが、どうやら間に合った様で会場満員御礼!現・ママ糸坂さんは「字の展示は初めてですよ!」とニコニコ笑。15日の最終日、小泉さんと片付け終えて飲んでいると、「来年4月、もう一度やって下さい」との嬉しいお話。アラマア・マありがとう!
 4月7日、赤坂Bフラット、穐吉さんのライブに12人で行く。穐吉さん大連の弥生高等女学校時代の同級生・口羽尚子さんも元気で現われステージを降りたところで2人が抱き合っていた姿も感動的。この2人がジョニーに来た1987年8月(穐吉渡米後の日本初ソロ)がフラッシュバックする。10日はファン達の昨年からの心配を吹き飛ばす凄い演奏で皆さんアゼン!。さて僕の誕生日は「旅の手帖」で知られる、交通新聞社の取材を受ける「日本JAZZ地図」という本に載るらしい。夕方には、2日間、岩手県民会館大ホールをソールドアウトにした「5296」こと「コブクロ」のコンサートに、関係者ご招待で特等席に座る。ジャズとは対極的にあるビジュアルな世界を見聞させて頂き、終演後は楽屋に案内され皆にお会い出来、まるで夢のような母の「子袋」から僕が生まれた日となった。
10:48:00 - johnny -

2023-01-13

幸遊記NO.431 「田中京子と石垣隆孝の花束とキリタンポ」2019.4.22.盛岡タイムス

 4月10日(2019)「89才終わりなき演奏の旅」と題する、穐吉敏子さんのコンサートを盛岡市民文化ホールで開催した(北海道、東北、関東、関西、四国、九州、NYからも来場者)。そのコンサート終演時、花束を抱えてステージに上がったのは秋田県大館市からの田中京子さん(81)。彼女は1953年のボストンマラソン,世界新記録で優勝した山田敬蔵氏の妹。山田敬蔵氏が2度目に出場した1957年は穐吉さんがボストンのバークリー音楽院の学生だったことから、人づてに頼まれて、山田敬蔵他日本選手団に、自分のアパートのシャワーを使わせ、スキヤキを作ったりしてお世話(幸遊記№347)「ジャズと生きる・穐吉敏子著・岩波書店」している。
 敬蔵氏優勝時の監督が、NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三氏。2度目の57年は6位入賞。穐吉さんのお世話が嬉しかったのだろう。61年に初帰国コンサートで穐吉さんが秋田入りした時、バンドメンバーと共に料亭に招き「キリタンポでお礼の歓待」(秋田魁新報・昭和36年3月15日付)をした。そんな山田敬蔵(92才・神奈川在住)氏を「山田敬蔵物語」として調べ書きし秋田の北鹿新聞に連載した石垣隆孝氏から「当時穐吉さんを接待した料亭を見つけました。今も続いている“濱乃家”というところでした」と手紙が届き、更にその料亭の「手作り・きりたんぽ」を穐吉さんに食べさせて!と鍋セットが届いた昨年は、穐吉さんが体調崩して盛岡入り出来ず仕舞で食べさせられず残念でしたが、今年こそ!と再度届けてくれたので、4月10日の昼に開運橋のジョニーにて、山田さんの妹さんに調理して頂き、彼女と石垣さん、僕等と穐吉さんでご馳走になりながら、最近見つけた優勝時の映像を皆で見て拍手。
 山田敬蔵さんの妹・田中京子さん(81)は偶然にも穐吉さんと同じ12月12日が誕生日。山田敬蔵さんは第57回のボストンマラソンでの優勝しかも生まれたのは新地町(現・大館市)57番地。おまけに優勝した日は4月20日で僕の誕生日。2003年には優勝50周年招待選手として呼ばれ42、195キロを走り70才以上の部で5位!と、まるで数字のマジック。更に当時山田さんが勤めていた会社・同和鉱業の会長で57年日本相撲協会運営審議会会長だった菅礼之助(1883~1971俳人・菅裸馬)は「菊酒や伝ふ六十九連勝」と双葉山への句。双葉山・穐吉定次は穐吉敏子さんの親戚である。その菅裸馬の本籍地秋田雄勝町で2003年に穐吉敏子コンサート。凄い繋がり!
10:45:00 - johnny -

2023-01-12

幸遊記NO.430 「古関裕而の復興五輪TVドラマ」2019.4.16.盛岡タイムス

 福島の県庁所在地である福島市の入江町にある福島音楽堂周辺はむかしむかしは湖で、その中心にある信夫山は福の島と呼ばれていたという話を松本秀勝さんというアマチュアのサックス奏者から聞いたことがある。その福の島のふもとに音楽堂と並んで建っているのが古関裕而(こせきゆうじ)記念館。その古関裕而氏は、今から丁度120年前の1909に
年(明治42年)8月11日、福島市大町の「喜多三」(きたさん)という大きな呉服屋の長男として生まれた。父・三郎次は大の音楽好きで、大正初期まだ珍しかった蓄音機を店の使用人の娯楽用に購入し余暇にはいつもレコード(sp)をかけていたという。そんな音楽環境の中で育った裕而氏(本名・勇治)は10才の時に母・ひさに買って貰った卓上ピアノで作曲を始めクラスメイトの書いてくる詩にも曲を付ける程の才能を発揮。楽譜も自由に読めるようになり、曲も五線紙に書くことが出来、記号の意味も理解していた様子。ペンネームの裕而は1927年彼が当時傾倒していた山田耕筰氏の事務所宛に送った楽譜に「がんばりなさい」と手紙を添えて、彼の楽譜を再び送り返し、更に、その後数回の手紙のやりとりをして、その度の言葉に励まされての人生転換。コロムビアの専属作曲家で顧問だった山田耕筰氏の推薦で同社専属となった。
古関裕而の名で真っ先に僕の頭の中に浮かぶのは「黒百合の花」(1954年、菊田一夫作詞、古関裕而作曲、織井茂子唄)。何故これかと言えば、僕の数少ないカラオケ曲の定番だからです。だが彼は5000曲も作曲しており、その有名ヒット作も数え切れない程のこしている日本の大作曲家の1人である。僕の知らない曲「福島行進曲。福島夜曲」(1931年が初吹込み)。「船頭可愛いや」「露営の歌」「長崎の鐘」「イヨマンテの夜」「雨のオランダ坂」「フランチェスカの鐘」「高原列車は行く」「あこがれの郵便馬車」「ひめゆりの塔」「夕月」「君の名は」「幸福という名の駅」「終着駅」など次々と曲名やメロデイが浮かんでくる程たくさんの名曲があり、そしてあの1964年東京のオリンピックマーチである。来年2020年はそれこそすったもんだの復興五輪だが、そんな話をよそに来春のNHK朝の連続TV小説(朝ドラ)はこの福島出身の作曲家・古関裕而がモデル。平成元年に故人となった彼だが、30年経ての令和元年復活話である。
10:44:00 - johnny -

2023-01-11

幸遊記NO.429 「1953・11月13日金曜日の幸運」2019.4.8.盛岡タイムス

 アサヒグラフ1953年12月23日号の巻頭記事に「本年度・浮世バンザイ告知板」という人物記事。その序文、一年の良い話は朝鮮でやっと砲火がやんだ(休戦協定調印)ぐらいのもの。8度の台風、豪雨が日本をおそい、更に東北は1932年来の冷害。政治は「戦力なき平和」を祈求する人々と「武装する平和」を堅持する人々がからみあい、国民は不安で仕方がなかった様子。そんな中で明るい陽射しを思わせるような話の種を、新聞雑誌の隅々から拾い上げ、その人々に会って、暗い世相の中、現実の楽しい顔を紹介している。
 そこに登場している一人に我らが、穐吉敏子さん(当時23才)。「幸運拾った十三日の金曜日・ジャズピアニスト見出されて米国へ紹介」の写真入記事。このグラフをサンライズマンという人にプレゼントされて以来、その元になっている最初の新聞記事を読みたいと何年も想い続けていたら、この4月4日(2019)に、その記事が載っている「1953年11月14日付朝日新聞」コピーが僕の手元に届いてビックリ!探してくれたのは同紙のM記者!感謝感激雨霰(あられ)の僕。
 その記事、何が大事かと言えば、昨・2018年10月、米国中央アトランテック芸術財団から「ジャズの生きた遺産賞」を受賞した世界のレジェンド・穐吉敏子さんが渡米(1956)のきっかけとなった“大事件”?を報道した最初の記事だからである。当時、日本のジャズ関係者の間では、すでに有名であり、本人曰く「小さな井戸の大きなカエル」だった彼女だが世間一般にはまだ知られておらず、新聞は「日本の一無名ジャズピアニストが来日中の楽団・JATP(ジャズ・アット・フィル・ハーモニック)のピアニストでアメリカの人気投票№1のオスカーピーターソン氏が彼女を激賞!アメリカへ紹介しようということになり、JATPメンバーの伴奏で、彼女のピアノがノーマングランツ氏の手により、ラジオ東京のスタジオでレコーディングされ米国に紹介される」という様な内容である。その初レコーディングから66年目の今穐吉さんは89才「終わりなき演奏の旅」(エンドレス・ジャーニー・コンサート)を続行中で4月10日19時盛岡市民文化ホール(マリオス小ホール)での演奏会に来盛します。お聴き逃しのないようご来場下さい!
10:42:00 - johnny -

2023-01-10

幸遊記NO.428 「11PMの三陸鉄道リアス線の夜」2019.4.1.盛岡タイムス

 全国初の第三セクター鉄道として35年前(1984年4月)開業なった三陸鉄道・南北リアス線。その中間にあった山田線。ともにあの3・11の東日本大震災で被災したが、3年後の14年に南北リアス線の全線で運行再開。更に今年3月、山田線がJRから三鉄に移管され、ようやく三陸鉄道リアス線(いわゆる岩手沿岸住民にとっての悲願であった三陸縦貫鉄道)の全線開通(達成)と相成ったことは、この上もなく嬉しいことであるに違いない。
 三鉄開業2年前の1982年は東北新幹線の開業であった。当時僕は前衛ジャズピアニストの故・板倉克行さんのレコードデビュー作「海猫の島」という彼のソロピアノを録音して、ジョニーズ・ディスクからリリース。「種山ヶ原の羊」「うわさのやまびこ」「三陸縦貫鉄道の夜」など、彼の即興曲に僕がタイトルをつけて発売した時のことが、まるで昨日のように頭に浮かぶ。
 翌83年には作家の故・井上ひさし氏の母、故・井上マスさん(当時76才釜石在住)が「人生はガタコト列車に乗って」(株・書苑)という本を出版。新聞、TVで大反響を巻き起こしていた。そのマスさんと僕がゲストとして当時の人気深夜TV番組・11PMに生出演!。撮影会場は開業成った三鉄、田野畑駅。特設ステージには日本を代表するジャズピアニストで、宮古市出身の故・本田竹広さん。コーデイネーターは作家の故・藤本義一氏、アシスタントには今、セレブな女として注目を集める松居和代さんが出演して彼等と一緒に話をしているシーンの実況中継でした。
 そこへ三鉄に乗って現われるのが当時は未だあまり売れていない田舎のプレスリーこと、吉幾三さん。彼からその場で「ジョニーさん僕もコンサートに呼んで下さいよ!」だったことから「じゃ来春に陸前高田で」と約束。翌85年、吉さんに、いつにしましょうか?とデンワを入れたら、出したばかりの「俺ら東京さ行ぐだ」(吉幾三・作詞作曲)が売れ始めて一人じゃ決められないのでと、事務所に繋がったら、何と1ステージ250万だとベラボーな話で、以来僕の中で彼は「いくぞ!」から「いかんぞ!」となってしまったという訳なのだが、彼はその後、大スターとなって今日に至る!なのだ。あの日、田野畑駅であれを見た当時の小学生だった斉藤まみ子さんと僕は今、親しい間柄である。
10:41:00 - johnny -

2023-01-09

幸遊記NO.427 「沢村澄子の書をのせる舟」2019.3.25.盛岡タイムス

 案内を頂いていた書家の沢村澄子展「三月の舟」(盛久ギャラリー)。そして「もりおか啄木・賢治青春館」での沢村澄子展「銀河鉄道の夜」を散歩がてら土曜の午前に拝見した。様々な姿の舟の書を観ながら「終わりの舟、始まりの舟、三日月の舟」とはがきに書かれていたことばを想いながら、僕は僕で、夏の笹舟、冬の湯舟、ノアの方舟と勝手な解釈で舟字を見る。般若心経が書かれた牛乳パック(表紙をはがした)の灯篭のような箱舟に至っては、この2019年3月、100年の生涯をとじた紫波町の坂本新平氏(友人、安保さんの父上)の棺入(ふないり)の旅を想い浮かべたら、舟の字が書かれている紙そのものが、字を乗せている神紙の舟なのだということに気付かされる。ありがとう。澄子さん!その、澄子さんで連鎖したのは「銀河鉄道の夜」展示会場の、天井から壁まで新聞紙に書かれた、賢治の銀河鉄道物語書を見てた時の澄子さんの名つながり。だんだん句会の早坂澄子さんの句「冬銀河七十億の一人なり」がふと新聞の文字数に重なった気がして、春の字の前で書家・澄子さんの写真を撮って店に戻れば、それこそ天からの70億の春の雪が舞い降りた偶然、必然、自然。
 それはそうと僕が書展をする時の手段のひとつは新聞紙に作品を貼り、周りに墨で線を引き、額替りにする。その新聞紙で忘れられない強烈な印象を僕に与えたのは「神田日勝画集」(北海道新聞社刊、1978年)であった。神田氏は1937年東京板橋生まれ、8才で東京大空襲にあい、一家で“拓北農兵隊”に加わり北海道へ。中学時代から馬を描き1970年絶筆の未完の馬に至るまでの作品中、最後の完成画となった「室内風景」(1970)。その三方の壁と床の全てに新聞紙を貼りめぐらした部屋で、一人の男が青いセーターを着て腰をおろしている絵なのだった。しかも背景となっている全部の新聞の見出しは勿論、記事の文章、広告欄まで本物の新聞の如く克明に描かれており、僕はその絵にドギモを抜かれたのだ。以来、ぼくにとって新聞は「日勝」ということになっている。それはそうと沢村展の芳名帳には僕の少し前に小泉とし夫氏の名。来月1日~15日は盛岡最古の画廊喫茶ママで、その歌人・小泉とし夫(91)のうたを僕が書にして展示。小泉氏の朗読ライブは4月3日午後3時から。ギター伴奏・八木淳一郎氏です!
10:40:00 - johnny -

2023-01-08

幸遊記NO.426 「聖歌の子・中川やよひの良夜の書」2019.3.18.盛岡タイムス

 岩手で最も古い歴史を持ち今なお刊行され続けている文学誌「北宴」は1951年(昭和26年8月)の創刊。現編集者・小泉とし夫氏(91)は初期の頃からの会員である。その北宴の前身だった「若樹」。その更なる前身の「新樹」。新樹は北原白秋の門下だった巽聖歌(たつみせいか・童謡・たきび作詞者・紫波町出身)が1946年(昭和21年)に創刊した詩と歌の文芸誌。その巽聖歌が1949年に東京へ出て新樹を再刊。それが今日まで70年間も続いてきたが昨2018年遂に終刊となった。
 その聖歌の「たきび」それをヒントに?本当のたき火跡を凝視して広大な陸地に置き換え?絵とし、濃黒、漆黒、暗闇の様でも黒ではない土、土地、大地、陸地を描き続けた稀有な画家・野村千春を母とする長女のやよひさんが生まれたのは、たきびができラジオで放送された1941年の秋。命名した人の名は北原白秋。「やよひ」は「春の神様」の意味とのこと。そのやよひさんに僕が書いて紫波あらえびす記念館に展示した巽聖歌の童謡詩の書を全部まとめて送った。するとお返しに「父・聖歌が書いたたきびの書をコピーし、父の朱印を押したものです」という手紙と一緒に贈ってくれたのでした。
 その後、本紙・盛岡タイムスが聖歌に関する記事や特集を組んだ時、その新聞を送るとすごく喜んで手紙をくれた。そして又昨年11月18日、彼女の句集「良夜の書」(本阿弥書店)が届いてビックリ。ところが、その本の発行日である11月30日を待たず「11月21日、母が77才で天寿を全うし、永眠いたしました」という葉書が、やよひさんの娘・幸子さんから届き、ボーゼンとしながら本を開けば「如月や父生まれし日に母逝けり」「われ乗せて師走の街を救急車」「オペをせし腹部看ながら髪洗ふ」「独りだけのプラットホーム星月夜」「太陽の遠のいていく枯野道」「青空をさしてつんつん冬木の芽」などなどが心に迫り来る。
 平成8年「野火」。14年に「新樹」。24年に「架け橋」にとそれぞれ入会し、平成27年「新樹賞」29年「架け橋賞」を受賞した中川やよひさん。父で詩人の巽聖歌の遺言は「生きた証を遺しなさい」だったという。その遺言通り彼女は絶唱ともいえるこの「良夜の書」という新たなる聖書をこの世に残していったのです。「竹の皮脱ぐを仰ぎて眩しかり」。
10:38:00 - johnny -

2023-01-07

幸遊記NO.425 「89歳・終りなき演奏の旅」2019.3.11.盛岡タイムス

 昨年(2018)の4月開催予定だった、「穐吉敏子88才88鍵ジャズピアノソロ」には、ツアーの途中、彼女が体調を崩し救急搬送され入院。後半の公演がキャンセルになった。そのことで穐吉さんから、FAXが届いたのは昨年の6月。「来年(2019)4月、今年心臓発作で伺えなかったところへ伺います」ということで、今年(2019)4月5日(金)浜松、7日(日)赤坂、10日(水)盛岡、12日(金)福島、14日(日)山形の5ヶ所ツアーが決定。
 盛岡公演は昨年と同じ市民文化ホール(マリオス小ホール)。只今、チケットを発売中で昨年同様、好調な売れ行きである。今年のタイトルは「穐吉敏子・89歳・終りなき演奏の旅!」料金は全席指定¥8.900.当日¥9.900。とした。この料金で「なんで中途半端な金額なの?」と問う人や、「一万円が一まんいいのでは?」「この料金って10年後もかけてますね」とシャレを見抜いた女性などもいて、チケット売りも又楽し!である。
 昨秋、穐吉敏子さんは、アメリカ中央アトランテック芸術財団から、ワシントンDCにある、国立ケネディセンターに於「ジャズの生きた遺産賞」というとてつもない賞を受賞した。それより先の2006年受賞の「ジャズの生きた伝説賞」を日本の賞に照らし合わせてみれば、それは「文化褒章」や「文化勲章」に価するものだろうと思われる。だが当の穐吉さんは、僕の前で涙を浮かべ、「これ以上、嬉しいことはありません」と言ったのは2006年の国立芸術基金・NEA・ジャズマスターズ賞」の知らせを受けた時でした。そのことは名より実を重んじる、彼女のジャズ演奏家としての誇りの表れであると、感じたものでした。
 それはそうと30年続いた平成という年号が間もなく終ろうとしていますが、毎年8月に行われているクラシックの「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」が今年40回目あたることから、ジャズの穐吉敏子さんがゲストに呼ばれるそうです(20回目にも呼ばれた)主催者はその穐吉敏子さんの演奏を退位後の皇后・美智子様が聴き、美智子様の演奏を穐吉さんが聴くというコンサートを企画しているとのこと。お二人は共にお互いの生き方を尊敬しあっている同士?であり、最初で最後の歴史的瞬間を僕も見聞しに行くことにしています。
10:37:00 - johnny -

2023-01-06

幸遊記NO.424 「宮城秀次アトリエ美術館」2019.3.5.盛岡タイムス

 僕が陸前高田からやってきて、盛岡に店を構えた2001年、岩山にあった橋本美術館の閉館ニュースに驚いたものだった。橋本八百二氏(1903~1979)は県立美術館建設運動の先立ちしながら、なおかつ自力で岩手の風土に根差した南部曲家を基本とした美術館の建設(75年開館)をして、岩手の美術文化に貢献。念願の県立美術館の完成を待っていたかのように、閉館した。そののち漆芸美術館となったが、現在は放置されたままで、淋しいかぎりだ。
 2011年の東日本大震災で街が消えた陸前高田は、昔から絵画の盛んなところであった。教師をやりながら市の芸文協の会長を長年務め、市内の絵画人たちでつくる彩光会の中心人物であった宮城秀次(88)さんに、1982年僕が、NHKTVで全国放送された時「おめでとう!お祝い!」と言って真赤な空と真っ黒な大地に見える抽象的な絵をプレゼントされ店に飾っていた。津波で流失。それより先の2003年5月、僕が企画し陸前高田市民会館で行われた「穐吉敏子ジャズオーケストラ」の実行委員長も務めてくれて、市も巻き込んで成功に導き、満席にしてくれたのでした。
 高台の地にあった彼の家は津波から逃れ無事だったが、車検に出していた車は被害にあい、それを期に免許も返納。運転をやめ自宅前にある自分のアトリエを解放し、ギャラリーとしたことや、自分の絵画作品集の出版。昨2018年震災直後からの陸前高田小友地区・写真集「大津波の爪痕」等の記事を読み、いつか僕も見たいと思っていて、それがようやく実現した。 
細い道を隔てた自宅前にそのアトリエギャラリーはあり、入り口を見守る様にお地蔵様が杖を持ち立っている姿が目に入る。実はそれも宮城さんがセメントを用いて1994年に制作したものだそうで、実にいい顔をしていた。アトリエで今制作中の絵は江戸時代に小友のナカヨシ丸が小笠原で遭難した時の想像画?で灰色一色?で描いていた。大小様々な絵にまじる何体もの木彫の仏像や能面まで、全部自分の作品なのだという。新制作協会に属する人だけに流石!と思いながら鑑賞させて貰っていたら、この絵とこの絵、盛岡の店に持っていってと、2009年6月にエジプトで一週間滞在し描いてきた「ピラミッド暮色」と「エジプトの娘」という油絵を頂いてきて店に飾らせて頂きました。
10:33:00 - johnny -

2023-01-05

幸遊記NO.423 「父・照井省平の一代記」2019.2.25.盛岡タイムス

 今日、2月25日は、1988年83才だった僕の父・照井省平の命日。トイレに行き居間に戻って来ながら立ち止まったまま動かないので、長男の嫁さんが声を掛けたら、息絶えていたという。その話を聞きながら、かつては役者で歌舞伎の流れを汲む演劇一座・東洋劇団の座長なども務めた父、最後の大見得(おおみえ)、大黙(だいだんまり)を決め込んで、この世をおさらばして行ったのだと、妙に感心したものだった。
 僕が小学生だった頃の記憶の中、松本亀鶴様?と書かれた手紙がよく家に届いていた。地元、平泉達谷の窟(いわや)と一関での野外特設舞台で父たちの芝居を見た記憶がおぼろげにあり、時代を背負ってきた、爺さん、婆さんたちに見せたい!と、明治百年の1968年20才前後の若者達10人程で高田若者会を結成。当時陸前高田にあった「セントラル劇場」という映画館を借り、父が所属していた「松平朝之助劇団」の公演を主催、満席にした。
 僕の長兄、故・幸男が書遺していった覚え書き?「照井省平一代記」によると、父は、14才の時母親、ミヨシと死別。高等学校入学一ヶ月で退学し、祖母、ミノと共に農業に従事するが2年後祖母亡。下に弟と妹がいた。父、28才の秋、妻キノエとの間に長男誕生。以後末っ子の僕を含め4男3女が生まれており双子の2女忠子は生後間もなく亡。32才で、田畑、原野、馬を買い足した。
翌昭和13年父の弟が支那事変に応召されたため、弟のクリーニング屋を帰還するまで3年間手伝う。16年には報国隊班長として自分が北海道へ。戦中は村の農業実行組合長、増産班長、資源調査員をやり、38才で家の造作を終えた翌年の昭和21年家の西側にあった貸家から出火。全7棟を全焼。同年省平の父・幸治亡。その葬儀の日に3女文子が3才で亡。翌22年8月完成となった直後の母屋が台風による水害で裏山崩壊し家がつぶされる。翌年1月末、家を再建。お世話になった人達78人を招待して新宅祝。その23年又しても台風による大水害にみまわれ更なる山崩れで家が2メートル押出され、風呂場倒壊。連続3年の火災水害により買った土地や馬を手放す。その後平泉村の農業調査委員となり、農閑期には役者稼業で各地を回った様子。そんな訳で僕の小中学時代家は本当に貧乏だったが、父はいつも泰然として、おだやかに笑い、顔を洗うとマダムジュジュをぬっている人だった。その父が僕に「いい冥土への土産が出来た」と言ったのは1986年の秋吉敏子ジャズオーケストラの夜だった。
11:31:00 - johnny -

2023-01-04

幸遊記NO.422 「眼下に見るリトルジャマー演奏会」2019.2.18.盛岡タイムス

 昨秋(2018)盛岡で開催の眼科学会へ講演しに来た、愛知医科大学病院の眼科医師で教授、指導医の日本眼形成再建外科学会理事長・柿崎裕彦氏が、開運橋のジョニーに来たので僕はとっさに、NY在住のジャズピアニスト・穐吉敏子さんから届いたFAX「私は眼の手術をして(2017年12月12日穐吉さん88才の誕生日に)ヤギュー何とかさん(柳生十兵衛)の様に片目ですが日本に帰る頃(4月の88才88鍵・ソロツアー)には完全になっていると思います。一番つらいのは目薬の為、ワインをグラスの半分しか飲んではいけない事です」や、4月にお会いした時「良くならないので帰ったら又手術です」などの症状について、彼に根ほり葉ほり聞いたら、全てにきちんと答えてくれたのでした。
 それはそうと、その時一緒だった市内の眼科事務長・高橋秀孝さんが、帰り際「今度来る時面白いもの持ってきます!」で、まもなく持参したのは、ジャズを演奏する人形たち「リトル・ジャマー」だった。それは2003年におもちゃのバンダイがオーディオのケンウッドと共同開発した大人のおもちゃ?。サウンドとプレイヤーの動きが、ものの見事にシンクロするさまは、本物のジャズメン達の演奏会を見聞しているが如くであり、ピアノ、ベース、ドラム、ギター、サックス、そしてゲストプレイヤーのトランペッターまでのセクステットによる生ライブ?。持参した彼は自宅に特性ステージを作りスポットライトを当て、一人悦に入りながらその演奏を聴きアルコールを楽しんでいるのだという。
 それを僕はクリスマス直前まで借りて楽しみ、これ何?と気付いたお客さんに聴かせていたら、常連の伊藤洋一さんが「あれ!これは?確か俺持ってるよ!十数年前にビールが当たるキャンペーンに応募したら、ビールに外れて、このリトルジャマーが送られてきた(本当は逆)当時自分の部屋にスペースがなかったから、そのまま封も切らずに物置小屋へ入れて忘れてたよ」と「ハイ!これジョニーへXマスプレゼント」と言って持参したので早速封切り公開。正月には「ネットで未開封のゲストトランペッターを見つけてゲットしたからお年玉ですよ!」と当時の新古品を持参した、それで僕はダジャレでお返ししようと、リトルジャマー大当り!と、のし紙付ビールを送ったら彼はアワデテ?デンワでゴックンしてきたので僕もすぐさまBeBopでカンパイ!
11:28:00 - johnny -

2023-01-03

幸遊記NO.421 「イギリスから日本のディープモダンジャズ」2019.2.11.盛岡タイムス

 幸遊記(419)で、ドイツからビニールのアナログレコード(LP)でジョニーズ・ディスクの初期作品が再発になったことを書いたが、上京の折、文京区白山のジャズ喫茶・映画館(幸遊記404)へ行った時「このCD評判になってますよ!ジョニーズ・ディスクから、2曲も入ってますね」と、マスターの吉田昌弘さんから手渡されたCDの3面見開きジャケットには、40点余りの小さな写真。よく見れば都内のジャズ喫茶の看板や店内を撮影したものをちりばめた、まるでジャズ喫茶案内のカタログ版!撮影者はデビットヒル。
 タイトルは「ジャパニーズ・ディープ・モダン・ジャズ・1969~1984」と、カタカナと英語の表記。中味は日本のジャズシーンが一番熱かった1970年代の録音を中心として、松風鉱一(sax.ALMレコード)アイザワトオル(p.タチバナ)中山英二(b.ジョニーズ・ディスク)植松孝夫(ts.トリオレコード)中村新太郎(b.ストリート・ノイズ)片山光明(ds.ジョニーズ・ディスク)森山威男(ds.バップ)辛島文雄(p.ホワイ・ノット)杉本喜代志(g.キバ)の9タイトルアルバムから、それぞれ1曲ずつ、9曲(これこそ究極!)がイギリスのBARELY・BREAKING
・EVEN(BBE)レコードからの発売。
 「頭から聴いてみますか?」とマスター。その流れくる松風の「アース・マザー」を聴きながら、あっ!そういえばドイツからリリースの話があった頃、イギリスからもオムニバスCDに入れたいという話が入ってますと、東京の株・ウルトラヴァイヴ(ソリッド・レコード)の担当者から、電話があったことを思い出し、そうか!あれがこれになったのか!と後日会社に電話を入れたら問い合わせてくれて、先日やっとサンプル盤届いた。それが開けてビックリ玉手箱!CDの9曲にプラス3曲の3枚組LPまで!ガラケーだけでネットをやらない僕はまさに「シラヌがホトケ様」状態であることをまざまざと知らされるハメに。
 はたまた、ジャズ批評誌最新号207の特集はジャズと昭和。表紙に美空ひばり、グラビアにペギー葉山、フランク永井、江利チエミ、榎本健一、その巻頭ページにJAZZ名盤全202タイトル・スペシャルプライスシリーズの広告。ピアノ編61、ボーカル編21、に続く邦楽ジャズ編21タイトル。その中になんと40年前に僕がリリースした作品が5枚も並んでいるではないか!そうかジョニーズ・ディスクも僕も?今が旬なんだね!?
11:27:00 - johnny -

2023-01-02

幸遊記NO.420 「和賀寿彦の憧れジャズピアノ」2019.2.4.盛岡タイムス

 昨2018年夏「ジョニーのホームページに載っている写真を見ながら、曲を作りました」と「川を見ていたジョニー」というタイトルの楽譜を持参してピアノ演奏。次の来店時には「盛岡タイムスに載っていた記事。“もりおか・ふるさとの詩”を読んで問合せ、送ってもらった詩に曲をつけました!」と再び、江刺市出身・盛岡在住の及川秀夫さんの詞に曲と演奏をつけCDにして持参したのは、秋田県横手市、岩手県盛岡市、在住?往来?のピアニスト?作曲家?コンピューター・プログラマー?3Dグラフィックス・アーチスト?の和賀寿彦さん(64)。
 実は彼と初めて会ったとき?初めて会話した時?「僕は昔、ニューヨークで穐吉敏子さんのピアノ講習を受け、いかにしてジャズの伝統を継承しつつ斬新なインプロビゼーションのアイディアを得るか?というようなことなどを教わったことがあるんです」というのだった。僕は思わずエーッと声が出て、頭の中ではすぐさま「ワガトシヒコが我が敏子」と置き換えられ、いつ?どこで?と問い、聞いた。
 「1992年の夏でした。ニューヨークのマンハッタン・スクール・オブ・ミュージック(ジュリアードと並ぶNYの名門音楽専門学校)での3週間の夏期講習。当時のスイングジャーナルに、その記事が載ってます」と言うので、すぐさま調べたらありました!9月号に。しかもその夏NYでのJVCジャズフェスティバルに同音楽院、学生バンドのピアニストとして出演もしていた。
 彼は教員で音楽好きだった父母。ピアノを習っていた姉に囲まれ、音楽に満ち溢れる家庭環境で、ピアノやオルガンを弾き遊んだ。中学でレコードに夢中になり、高校時代横浜の叔父の家で聴いたアートブレーキーのレコードでジャズと出会い「キャバレーのバンドマンになる」と決意したところ、母と叔母に反対をされ、東京の音楽専門学校や武蔵野音大に通わされクラシックを学びながら、想いはジャズへでバイトをしては何回も渡米し、ジャズを見聞。25才の時、静岡県熱海市でジャズピアノ・生活を始めた。ところが「父・余命数ヶ月」の連絡を受け看病の為秋田へ戻ったことから音楽以外の実用的、非実用的研究を実践、あらゆる方面でその能力を発揮して、なおかつピアノに至ルでの今日なのでした。
11:25:00 - johnny -

2023-01-01

幸遊記NO.419 「ドイツから世界へのジョニーズディスク」2019.1.28.盛岡タイムス

 1977年初夏、札幌から僕の所に1本のカセットテープが届いた。送り主は当時札幌を中心に北海道で活動していたベース奏者・中山英二。僕はといえば30才宣言として命の次に大切にしていたレコードの大半を売り払い「列島唯一・日本ジャズ専門店」と、店の看板を書き換えた時。その中山英二のテープを繰り返して聴きながら大地を走り抜ける風のように爽やかな音楽にのめり込んでいく自分がいた。そして、待ちに待った9月12日、陸前高田市民会館大会議室で彼のライブコンサートを主催。
 こんなに素晴らしいミュージシャンでも、地方に住んでいるということだけで日が当たらず、レコードは東京から地方に流れてくるものを、ただ買って聴くだけ、なら僕が岩手から東京へ全国へと日本のジャズファンに、直接届ける自主レーベル「ジョニーズディスク」を創設しよう!その処女作は彼と決め、翌年の78年2月「中山英二カルテット・アヤのサンバ」を大船渡の録音クラブに手伝って貰い店内で収録。同年6月に通信販売形式で発表した。プレスは日本ビクター。その販社ビクター音楽産業にちなみ、僕もテルヰ音楽産業と名付けてのスタート。
 以来、ジョニーズ・ディスク・レコードは再プレスをせず1000枚売り切れ御免での発売をしてきた。それがこの10年余り、CDでの復刻が相次ぎ、特にも1980年の「海を見ていたジョニー」(坂元輝トリオ)は日本ジャズの筆頭作として定着、2017年にはHMVからアナログ盤で限定再プレス。その予約数がプレス量を超え、お蔭で僕には見本盤さえ届かなかった。そんなこんなの昨年秋、ジョニーズディスク初期作01、03、04、06、08をドイツでプレスし、フランス、イギリスなどEUとアメリカ、日本に向け発表したいというオファーを受け許可したところ、昨2018年12月から3週間ごと、すでに3枚の作品がLPレコードで発売になり世界へ飛び立った。昔の帯の替りに貼られたステッカーには、ジョニーのマークと「伝説的な日本の自主ジャズレーベル。プロデュース・バイ・ケン・テルイ。シンス1978年」。と英語で標記されており、ジャケットは当時のままだが片隅にバーコードとMULEMUSIQ.COM.MADE IN EU.DISTRIBUTED BY COMPAKTとある。これは僕の店にも届き「取扱中!」です。
11:24:00 - johnny -
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