盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します

レポート

2022-12-31

幸遊記NO.418 「近江るり子のパーソナルジャズ1971」2019.1.21.盛岡タイムス

 昨年秋に盛岡で行われた気仙同郷会で同席になった会計幹事の近江るり子さん(69)から「昔、新宿にあった厚生年金会館で私、秋吉敏子さんのコンサートを聴いたのよ。その時のパンフレットがあるから、近いうちにジョニーへ持って行きます!」と言われビックリ!それから5日後の11月7日(2018)古い包装紙に包んだパンフをご持参。表紙には「秋吉敏子とTHE・PERSONAL・ASPECT・in・JAZZ」とある。
 時は1971年2月15日から3月21日まで、全国25回公演、彼女が聴いたという厚生年金会館での演奏は初日の2月15日(月)であった。当時、るり子さんは大船渡農業高校生活科を卒業し、上京。会社勤めをしながら4年間青春を謳歌。「自由ヶ丘にあったジャズの“5スポット”や新宿のうたごえ喫茶“カチューシャ”“ACB(あしべ)”などに通っていて、秋吉敏子の公演を知り聴きに行く。「二階席だったけど、めまいする程感動した!」と言う。
 その時買い求めた「B4」サイズのパンフレットは、東京から大船渡に戻った時も、その後転勤族で同郷出身のご主人と結婚し、それこそ度重なった転勤、転居の度にもこのパンフレットだけはと、大事に、50年近く持ち歩いてたるり子さんの「最も大切なこころの青春」。それを穐吉ファンの僕に託す決心をした事に深く感謝せずにはいられない。大切にし活かします。有難う!
 その1971年2月23、26、は公演の休日を返上し、来日のメンバー、穐吉敏子(p)ルータバキン(ts)リンクリステイー(b)アルバートヒース(ds)によるカルテットで「メディティション」というアルバムをDanレーベル(ミノルフォン)に録音。更にツアー終了後の3月17日と4月4日、穐吉初となる「ソロピアノ」をRCAビクターに録音。そして更には、71来日ツアータイトルの「ザ・パーソナル・アスペクト・イン・ジャズ」というアルバムを当時流行の最先端だった4チャンネルステレオ用に日本ビクターに録音。しかもこの4チャンネル用には前年の1970年録音の原信夫とシャープス&フラッツのために書き下ろした「すみ絵」を初録音した時であり穐吉さんにとってもツアーと録音そして自らのビッグバンド結成にもつながるまさに「ダブルエクスポージャー」(二重露出)の年だったのです!
11:22:00 - johnny -

2022-12-30

幸遊記NO.417 「小学3年の書初め大会」2019.1.14.盛岡タイムス

 昨2018年の秋、僕の実家の跡取りになっている姪の幸子(長兄の長女)から電話があり、2016年秋に85才で亡くなった長兄・幸男の遺品を整理していたら「ケンちゃんの書が出て来たのよ!」だった。僕は「ああ、そう!すぐ貰いに行くから!」と行って来た。その書とは、半紙に毛筆で書いたいわゆる習字の束だった。
 平小(平泉小学校)一ねんから四年まで。練習したものや清書して学校に提出し、先生から丸一つ、二つ、三つ、a、b、c、それに赤墨で直されたものなど120枚余り、半紙を切りノリで貼りつないだ紙への縦書など、とっくの昔に忘れ記憶のないものがほとんどだったが、今も頭の中に残っているのは「つよい子」。たぶん一年生になって書いた最初の書だったのだろう。花が咲く。うみやま。きくの花。日本ばれ。冬がくる。お年だま。と続いていた。
その一年分を学校から返された春休みに、父がその書を家の中に貼り飾った記憶も甦えってくる。そこへ何かの用事で父に会いに来た人が、書を眺めながら「これ書いた子、俺にあずけさせてくれないか?」と父に言い僕はその人の家、10キロほど離れた平泉駅近くの街場の家に連れて行かれ、何日か泊りがけで書の特訓を受けたのでした。習ったという記憶はそれしかないのだが、初めて持たされた太い条幅用の筆で紙の上に正座してから?書いた光景も浮かぶことから、たぶん2年生の春にも行った?のかも。書は、「6級から3級」うぐいす。あめふり。ふうりん。むぎかり。とりいれ。こがらし。いろり火。もちつき。3年の書は、五月ばれ。水およぎ。大きい月。かきくり。山のぼり。で「特級甲」とある。
4年は、初日の光。林の小道。夏休み日記。寒明け立春。「初段」とあった。この4年生まで通った学校は達谷分校という教室二つだけの複式学級。何かがある時だけ本校に行って講堂の後に並び、何度か名前を呼び上げられ壇上にて賞状を貰った記憶もあったが、その証も一つ出てきた。「昭和31年書初大会金賞、照井顕書」とあるそれは、平成元年に幸男兄が自分で表具した掛軸であった。包み紙には「この家の大切な書」とまでしたためられており、僕は兄に感謝しながら涙ぐんだ。その条幅掛軸の書「あきかぜ / 三年照井顕」三年生から63年過ぎた今年の僕の書初めは旧暦の賀状用「亥国情緒・JAZZ2019」である。
11:21:00 - johnny -

2022-12-29

幸遊記NO.416 「元旦のビックバンド三昧12時間」2019.1.7.盛岡タイムス

 今年は暦法・十二支でいうところの第十二番目の亥、動物でいうと「いのしし」。僕の生まれ年であり、4月20日で、その6回目を迎える。元朝と云っても、毎日朝方に寝る僕にとっては深夜なのだが、今年の始まりは自分の歌のCD、1997年7月録音の「般若心経」2002年4月録音の「梵音遊戯(ぼんのんゆげ)」の2枚を聴きながら酔仙の純米酒を飲んで寝た。
 年賀状の中に、着飾った女性の先に立ち玄関からおでかけするカワイイ、イノシシのリトグラフの素敵な絵があって、僕は思わず、“亥ってらっしゃい”と声が出た。僕の秋吉敏子さん好きを知ってる友人夫妻からは二人で山口県の秋吉台で撮った背中写真年賀。確かに僕は秋吉さんの背中を追い掛けてきたのだと知らされた。
 さて元旦は店も休み。いつもの開店時間である午後2時から、メンテナンスをしたステレオ(旧式オーデイオ)の限界大音量長時間再生に挑む。炸裂する管楽器群とリズム陣が一体となって挑む物凄の音符数。それを一糸乱れぬ最速技巧で連動させる強靭なスイング感、コリーダーの汲めど尽きせぬ泉の如く、新鮮に沸き出づるサキソフォンのアドリブ。全ての楽器の特徴を知り尽くし、バンド全員の個性をも引き出し、更に伸ばすため、その上を要求しての説得と説明。作曲、編曲、演奏、指揮、バンドとその演奏の全てを統括して前人未踏の境地を切り拓いた穐吉敏子さん。
 その彼女のビックバンドデビュー作、1974年の「孤軍」に始まり、1986年の「ウイッシング・ピース」に至るまでのビッグバンド(オーケストラ)演奏による(CDを除く)アナログ盤(LPレコード)16枚のA・B面を、ノンストップで聴き通した。聴き終えて時計を見れば、2日の午前2時!あっという間の12時間。超大音量で聴ける環境の有り難さ、その音量で心地良く興奮しながら聴き続けられた上質の演奏、夕食時間を除く全ての時間は、男らしく?立ちっぱなしの一人作業しながら。
 「一年の計は元旦にあり!」そう誰かに教わったのは10代?と、ことわざ事典を開けば一年の計はの前に「一日の計は朝にあり」とあった。毎日起きると、その日やるべきことをすっかり忘れているので、昼のせいだといわず、今年からは「寝る前の朝に計を」頭の中に入れるように心掛けよう!と自分に言い聞かした19年!そう19はミュージック年!
11:19:00 - johnny -

2022-12-28

幸遊記NO.415 「ジャズRセンターとカーネギーホール」2018.12.31.盛岡タイムス

 ジョニーと行く穐吉敏子への旅inNY、3日目11月27日、サッチモハウスからマッハタンに戻って、僕は一人、タクシーに乗る。26丁目ウエストの人通りの少ないオフィスビル街、ジャズレコードセンターなどという看板は無い。地番号だけのビルの入口にタイプ文字程の社名表示板のベルを押す。間も無くビル入口のドアカギが開く。人っ気のない廊下とエレベーター、そして又廊下先の、804号室のドアを開けると、オフィスのような店?に僕の年令位と思われる白人女性が一人、その左手奥は倉庫のようなスペース。だがそこにはありとあらゆるジャズの関連物。客?は僕を入れて2人。
そして見つけたCDは穐吉さんのヒロシマ組曲米国盤、LPは1954年にカーネギーホールで催された「ザ・バードランド・オールスターズ」の2枚組ルーレット盤「エコーズ・アン・エラ」!さあ今夜は穐吉さんのカーネギー!と心が踊る。本は穐吉さんが渡米した年(1956年)の総まとめジャズ誌「メトロノーム・イヤーブック‘57」を見つけて開くとそこにバークリー音楽院の広告。なんと!「本校の生徒・穐吉敏子が作編曲した彼女のピアノトリオアルバムがストリービルレコードから発売になりました」という宣伝文句。そう!これこそ、かつて穐吉さんが「私は学校の広告塔にされたの」と言っていたことを裏付る物的証拠!としてゲット。レコード会社もその年の代表看板作品として広告を出しているスゴさ!。
 さて旅の主目的である、穐吉さんのカーネギーホールコンサート「トータリー・トシコ」へは皆オシャレしてホテルから徒歩で向う。交差点で「ジョニーさん」と声を掛けてきたのはドラマーのマークテイラーと婦人だった。客席にはロンカーター、デイブピエトロ他ジャズメンやアメリカソニーの小野山弘子氏などの顔々。コンサートの冒頭、穐吉さんはお世話になった人や日本から21人もの団体で来てくれたと僕達のことなどを話して曲が始まり、2曲目との間に、「ここはアメリカなのに冒頭から何故か日本語でしゃべりだしてしまった」というようなことを英語で話して会場をどっと笑わせる茶目っ気も健在。1部ソロ2部カルテットの感動的な演奏の終了後、楽屋には僕が出版した「穐吉敏子への旅」本を差し出してサインをもらう駐米日本大使が居た。その光景に僕は胸が熱くなった。
11:17:00 - johnny -

2022-12-27

幸遊記NO.414 「ヴァンガードとサッチモハウスの探訪」2018.12.24.盛岡タイムス

 ジョニーと行く穐吉敏子への旅inNY、2日目の夜、1940年代から現存するNY最古のジャズクラブ、ヴィレッジヴァンガードへ22時30分からスタートの第2セット目を聴きに行く。並んでいた女性と先におりた女房が話している。「ファーストセット終ってないから未だ入れないって」。この外人?(女性)の日本語にビックリ。しかも日本の霞ヶ関で働く、アメリカの国際弁護士だという。待ってる間に彼女の息子だというハンサムボーイと美しいガールフレンドが現われ挨拶を交わす。
 この夜11月26日(2018)は月曜日、毎月曜はこの店の看板バンド「ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・ジャズ。オーケストラ」の出演、店は満員。心地良い分厚いサウンドが体を揺らす、最後の曲が始まった。おや!これは穐吉さんがドイツの放送局オーケストラ・SWR・ビック・バンドに招かれ、指揮し作編した2007年録音の2枚組CDのタイトル曲「レッツ・フリーダム・スイング」ではないか!と、なお真剣に聴く!
 翌27日は自由行動の日、それぞれ街の散策や美術館めぐり、教会めぐりなど繰り出し、僕と行動したい人は朝9時ロビー集合、7番街42丁目まで歩いて7トレイン(地下鉄)に乗って、サッチモこと、ルイ・アーム・ストロング・ハウスへ向う。マンハッタンの地下を抜けると高架橋を走る天空列車となる面白さ。時折、様々な人種の男や女が乗り込んで来ては、唄い踊り演奏するチップ目当ての楽隊が入れ替わり立ち代わる楽しさは、まるでショウー電車!車窓の風景とのギャップが凄い!
 サッチモハウスでは行く度に小さな発見がある。今回はサッチモの居間にある何百本もの7号リール・テープの棚、机上にある小さなデッキ、メーカーを見たら、何と「AIWA」じゃないですか!まさにサッチモの「愛は」地球の民の心音までテープに収めていたのです。裏の日本庭園池には今も紅い鯉。彼は4度「恋」結婚をした。道を隔てた真向かいでは、新しく建設されるサッチモ記念館の基礎工事が始まっており、次回訪問時にはオープンしているかも!と期待に男ながら胸がふくらむ!?。サッチモは生録音テープ一本一本のケースに本や写真、新聞からと思われる切抜きをコラージュして貼り付けておりそれはもうひとつのサッチモ芸術!それが新しい1冊の本になっていた。もちろんゲット!
11:15:00 - johnny -

2022-12-26

幸遊記NO.413 「ハーレムのジャズミュージアム」2018.12.17.盛岡タイムス

 ジョニーと行く穐吉敏子への旅NY。2日目の26日、ウッドローン墓地からタイムズスクエアホテルに帰る途中ブロンクスに近いマンハッタン129丁目ウエストにある「ザ・ナショナル・ジャズ・ミュージアム・イン・ハーレム」に向う。到着する頃には雨はすでにドシャ降り状態であったが、ミュージアムの中は、ホッカホカの温かさ。2016年に入った時の印象とはかなり違って立派になっており、日本から昨日戻ったばかりだという館長が、ゴキゲンな対応をしてくれた。
 左中央にある白いグランドピアノを指差して、「これはデューク・エリントンの妹さんが使用していたピアノで彼女からの寄贈品です」と言うやいなや立ったまま「A列車で行こう」を弾き出したので、僕はすぐ様、「歌手がいるから一緒に唄わせて!」と言ったら「OK!」と、再度の「A列車で行こう」を、同行した金本麻里がうたってヤンヤのカッサイ!。更に気を良くした館長は一番奥の黒いピアノに座ったので、すかさず僕は、「2年前ここでテデイウイルソンのSPレコード音源をリクエストして聴かせて貰ったのだ」と言うと、すぐさまテディスタイルで弾き出したのには驚いた。又実際に昔の手廻し蓄音器で音も聴かせてくれた。即売の本やバッグ、帽子、ペンも飛ぶように売れ、ビックセールスだと館長大喜びで、皆と一緒に記念写真に収まった。それにしても前回、今回とミュージアムの客は僕達ご一行様のみで、ちょい淋しだが、いかにもマニアック!また来ますよ!。
 次は125丁目ウエストにある有名なアポロ劇場。入口前歩道にはめ込められているネームプレートには、ビリー・ホリディ、チャーリーパーカー、ルイアームストロング。そうだ!ルイで思い出したのはあの1958年のニューポートジャズフェスの記録映画「真夏の夜のジャズ」そのジャズ祭の創始者でプロデューサーの「ジョージ・ウェイン」(93才)は今も健在で「音楽ファンにジャズの方向性を提供し続けてきた偉大な人」。我が穐吉敏子さんは映画の年の58年をのぞく、56、57、59年と実際にニューポートジャズ祭に出演した人なのだからいかに凄いことか!そのジョージ・ウェイン氏の奥様、ジョイス・ウェイン(1928~2005)の墓もウッドローンにあり、ジャズメン達の演奏の姿を浮き彫りにして聴衆が見上げる様をジャズ絵巻の様に造られた墓石の美しさであった!。さすがウェイン様。
11:14:00 - johnny -

2022-12-25

幸遊記NO.412 「大物ジャズメンたちの墓参り」2018.12.11.盛岡タイムス

 ジョニーと行く穐吉敏子への旅、NY初日の夜セントラルパーク・ウエストの穐吉さん宅でのパーテイのあと、タクシーに分乗して、ウエスト44丁目のジャズクラブ「バードランド」へ直行。ここは、30年続けたオリジナル演奏の穐吉敏子ジャズオーケストラが2003年12月の解散日まで毎週月曜日に出演していたシアタークラブ。店内入口壁には自由の女神をバックに右手を上げて微笑み立つ穐吉敏子さんの大きなカラー写真が飾られており、嬉しくて僕等もそれに向って右手を上げて店内奥へ。この夜演奏していたのは僕の名のスペルと同じ「KEN・ペプロウスキ・ビックバンド」というラテン系のジャズに体が浮かれる。
 翌日昼からガイド付き大型バスをチャーターして、有名ジャズメンたちの墓参りを企画していたが、ガイドのおばさまはしきりに台風並の風雨が来る日で行っても仕方ないみたいなことだった。だが、地中のジャズメンたちはスタンデイングして僕等を迎えてくれた様で、ウッドローン墓地に到着し、案内係が白い車でやって来てバスの先導を始めると、雨は止み、白い十字架の形をした二つの大きな石碑とその中央に葉をすっかり落とした巨大樹木が現われバスが停車、実はそれ、あの「A列車で行こう」の「デューク・エリントン」の墓であった。地面のプレートには彼の本名「エドワード・ケネディ・エリントン」(1899~1974)の文字。道を挟んで右にはひときわ大きな黒い墓石、右側にトランペットを彫った「マイルス・ディビス」(1926~1991)。他に「ライオネル・ハンプトン」(vib・1908~2002)。「マックス・ローチ」(ds・1924~2007)などなどジャズの巨人たちが同じ一角に工夫こらした形の墓石で点在し、まるで星空!。
そしてもう一人の行ってみたい墓の前まで車は走り、止まった先には、そう「野口英世博士」(1876~1928)、奥様の「マリー」(1876~1947)が眠る。自然石にプレートをはめ込んだ他とは違う墓に、日本人らしさを感じ、皆さん再度の感激!。それにしても日本から突然こんなに大勢でジャズメンの墓参りに!と、本当に感激の表情を現しながら気持ちよく案内し説明してくれた、WOODLAWN墓地のデイレクター・Mr・MICHAEL・FLAMINIOの素敵な笑顔に心から感謝しつつ別れをおしみながら、「また来て!」「また来ます!」と握手を交わして、バスに乗ったら又、雨が降り出した!ガイドは「30年振りに野口さんの墓に来た」と言う。次の目的地はハーレムである。
11:12:00 - johnny -

2022-12-24

幸遊記NO.411 「ジョニーと行く穐吉敏子への旅・NY」2018.12.3.盛岡タイムス

 ニューヨーク・7番街・57丁目にある世界有名三大ホールの一つ、カーネギーホール。その中のいちばん小さな「ウェル・リサイタル・ホール」。88才のジャズピアニストで、米国における日本の文化遺産である穐吉敏子さんを祝って、IMJS・コロンビア大学が主催する「Totally・Toshiko」コンサートが、2018年11月27日(水)夜8時から行われるというので「ジョニーと行く穐吉敏子への旅・NYカーネギーホール・コンサート・ツアー」を企画し、行って来た。
参加したのは北海道から九州まで、僕の知る穐吉敏子さんファン21名。うち13名が岩手からである。成田を出発したのは25日16時40分、全日空10便。JFケネディ空港着が現地時間同日15時10分。入国審査後、チャーターしていた大型バスでホテルへ移動。三連休最後の日とあってバイパス道大混雑でバスは旧道を走りマンハッタンへ着いた時にはすでに18時を回っていて、穐吉さんに電話でホテル到着を知らせ、チェックイン後すぐに、ロビーへ再集合。タクシーに分乗し、セントラルパーク・ウエストの穐吉さんの自宅へと全員で押しかけた。(穐吉さんから17時半に皆さんで自宅にいらっしゃい!とご招待を受けていた)リビングに入ると真っ先に目に飛び込むのは入口正面壁に飾られている黄緑色の油絵!穐吉さんとご主人、ルータバキン氏の演奏画。描いたのは僕のジャズ講座に通い続けている紫波町の菅原恭子さん。そして台所の入口壁に目をやれば1986年陸前高田で僕等が主催した、穐吉敏子ジャズオーケストラが900枚の杉板にサインした時の記念写真。それが今も飾られていて嬉しさ32倍(年)!
 穐吉さんが僕に言う「テイクアウト料理でごめんなさい」誤らなけりゃいけないのはこちらの方で、それこそ2012年、今回の様に大勢で押しかけた時、穐吉さんは僕等全員に振舞う料理の数々を全て一人で調理して僕等を迎えてくれたのでしたが、その2日前、ワシントンDCでのコンサートでカゼを引き、体調悪いなか無理をして僕等を迎えたその深夜、救急車で運ばれ、初入院。次の公演先、シカゴの4日間をキャンセルしたことが脳裏に浮かび、申し訳なさでいっぱいになった。でも今回は穐吉さんの娘で歌手のマンデイ満ちるさんが来てパーテーを手伝ってくれて、安心するやら恐縮するやら、より嬉しいやら、感激やらで、皆さん大感謝!
11:10:00 - johnny -

2022-12-23

幸遊記NO.410 「日本人初“ジャズの生きた遺産賞”」2018.11.26.盛岡タイムス

 来る12月12日(2018)89才を迎える我らが穐吉敏子さんの記事が、去る11月7日付毎日新聞の夕刊に「NYの秋吉敏子さん新たな栄誉。音の力、社会変えうる。反戦・社会問題ジャズでつづり88年」の見出しで大きく報じられ嬉しくなった。記事を書いたのは大阪の同社科学環境部の記者・渡邊諒氏。同紙夕刊は岩手では入手出来ないことから「秋吉敏子さんの記事を夕刊に執筆しましたのでお送りします。お読みいただけましたら幸いです」と手紙を添えた新聞が届いた。ありがとう!
 彼は一昨年の2016年10月23日付け同紙でストーリー、秋吉敏子の70年を書いた人。今回の栄誉は、アメリカの芸術家活動を支援する団体「ミッド・アトランティック芸術財団」から10月19日、首都ワシントンDCにある国立ケネディセンターにて「ジャズの生きた遺産賞」(リビング・レガシー・ホノリー・アワード)を受賞したというもの。もちろん日本人初で、ジャズ遺産創出と、その永続化への貢献、そしてアメリカの大学の教科書に彼女の曲が多数使われ演奏され続けていることも受賞理由のひとつだが、彼女自身もいろんな学校に呼ばれクリニックに出かけてきたのも事実。
 かつて彼女はグラミー賞に史上最多の14回もノミネートされながら一度も賞を貰えなかった。そのことに彼女はアメリカにはどうしても突き抜けられない、見えない天井があるとして「ガラス・シーリング」という曲を書き発表したのが20年前の1998年のことだった。その反骨の精神でもって社会悪?に一人敢然と立ち向かい戦い挑んだ彼女。するとどうだろう、彼女が日本人第1号として1959年に卒業したバークリー音楽院はすぐさま名誉博士号を授与。翌99年「国際ジャズ名声の殿堂入り」。2006年「ジャズの生きた伝説賞」、そして、絶対貰えないだろうと彼女自身が思っていた最高賞「ジャズ・マスターズ賞」も遂に彼女の手中に舞い込んだのでした。
 つまり渡米して40年以上、実に70才にもなるまで、全米的大賞に無縁だったことは、他の優秀な人たちとあらゆる面で比べてみたとしても差別は顕かであったが、穐吉さんを認めなければ全ての賞が無価値になるとアメリカ自体が学んだのだろう。ある人がブログにこんなことを書いていた。「ところで、日本人が彼女の偉大さに気付くのは、いつになるんでしょうか」と。
11:08:00 - johnny -

2022-12-22

幸遊記NO.409 「OLEOのママのジャズ批評50年」2018.11.19.盛岡タイムス

 1967年6月1日創刊。2018年11月号で206号を数えた隔月刊の「ジャズ批評」誌。その発行元「株・松坂」の社主であり、発行者であり、編集責任者であった松坂比呂子さんが今年5月26日、午後3時24分、85才でお亡くなりになった。去る11月4日、高田馬場「カフェ・コットンクラブ」にて「松坂比呂子をしのぶ会」を開催しますという案内を頂き、女房と2人で参加して来た。
 会の発起人代表は、新宿「DUG」の中平穂積氏。発起人はジャズ喫茶店主や演奏家,評論家など30人程が名を連ねる。会場は立すいの余地も無く立っても座っても身動きとれない程全国からの人、人、人。彼女はどれだけ多くの人に愛されていたのだろうと思いながら、お話や演奏に耳傾けても、ほとんど聴きとれぬ程皆旧知の友と話し合っているのだった。それはまさに辞典のいうところジャズの騒々しさであり、ある種の心地良さでもあった。
僕も昔からファンであり続けてきたジャズピアノの明田川荘之さんとは、色々話が出来た。彼はパーキンソン病におかされ、ひどい時には、ピアノを弾いても音が出なかったと言う。若かりし頃誰よりも音の大きかった彼の演奏を思い浮かべれば涙より他はなく悲しくなったが、相変わらず口は達者で少しは笑顔も。旧知の評論家・行田よしおさんとも久し振りにお会い出来てうれしかったが、皆それなりに年令を重ね、体の不調を訴える。が瀬川昌久氏の元気な姿や「岩手から出て来たのかい?」と声をかけてくれた石井一氏など元気な方もいて、人それぞれ!
会場のカフェ・コットンクラブは有名ジャズスポット「イントロ」の茂串邦明氏の経営。イントロの創業年月日は僕のジョニーとまったく同じだが、イントロだけに今も若さみなぎる彼。帰りに2015年に出版したイントロの40周年記念誌を頂き、僕もお返しに「穐吉敏子への旅」本をプレゼントした。
翌日帰る前にお茶の水と神保町で本とレコードさがし!するとあの幻の「JAZZ」1969・6月の創刊号が遂に見つかり、最後のページのラストコーラスを開くと「毎日通った、東銀座の小さなジャズ喫茶が閉店。そこのママさんが今はあるジャズ雑誌の発行人兼編集人になっているらしい」と松坂比呂子さんのはじまりが書いてありました。凄いタイミング!
11:07:00 - johnny -

2022-12-21

幸遊記NO.408 「鈴木明の作詞・海の灯の想い出」2018.11.13.盛岡タイムス

 「駅に向って歩いていたら、ジョニーの看板が目に入ったので上がってきました」そう言いながら来店した人の顔見れば、鈴木先生だった(元・陸前高田市立小友小学校長)。「今日、岩手教育会館での教員退職者囲碁大会に参加して帰るところでした」。彼は確か小友小学校が最後の勤務校だったはず(1995~7年頃)。故・やなせたかしさんの大ファンでアニメのはしり映画だった「やさしいライオン」に出会ってからというもの転勤先の学校や公民館で20年以上16ミリ映写機を廻し上映!子ども達に見せ続けながら、やなせさんとの交流も深め、96年陸前高田で「やなせたかし展」まで開催した方。
 今どうしているんですか?と問えば「一関で週4~5回囲碁道場へ。週1で市のシニアプラザで頼まれ囲碁。あと一関ケーブルTVの“囲碁入門講座”を1ヶ月交替で担当」だと言う。そうだ彼は一関市川崎町の住いだったとおもいだしたら、小友小学校長時代、将棋クラブで子ども達を指導し、地区の70才以上の先輩達(有段者を含む)を学校に招き「孫とおじいさん方の将棋交流会」を開くと聞かされ、へぼ将棋が好きだった僕も見学に行ったら、爺組1人欠席で参加のはめに。「下手と見て見くびるな」「負けて学習、勝っても学習」などのクラブ七訓が教室に貼り出されていて感心したことなども思い出す。
 その鈴木明氏(81)が退職する年「詩を書いてみたので曲をつけてもらえないかなあ!」と渡されたのが「海の灯の想い出」。当時僕は「アテルヰじゃんず楽団」というバンド練習は一切しないぶっつけ本番の当日舞台集合即興バンドを率いて自作曲を唄っていたことから、作曲し、1997年、僕の初CD同楽団での「潮騒の森」14曲入りに収録した。彼はCDになるなら自分の名前でははずかしいと、女性名・岸本和子でのクレジット。「向こう岸の灯がわたしを誘う、出張(しごと)帰りの道すがら、車停めて見つめる海、あの時別れなくてもよかったのに、幼さゆえになぜか、あなたから去ってしまった、海の日の遠い想い出」久し振りに鈴木さんと2人で聴き、FMに出た時の話など昔語りした翌日の11月9日(2018)仙台の高橋真砂子さんと言う方から電話がはいり「友人から預かったCD「潮騒の森」を聴いて感動しています。私も欲しいのですが、、、、、」でした。発売から21年CDも成長し大人のうたになったのかもね。
11:04:00 - johnny -

2022-12-20

幸遊記NO.407 「気仙同郷会の百周年」2018.11.5.盛岡タイムス

 例えば東京で行われている岩手県人会みたいな同郷会もあれば、たった2人で昔の友と語らい飲む会まで世の中には様々な会が存在する。そんな中のひとつに県都、盛岡からは一番遠い所にある気仙地区の大船渡、陸前高田、住田町、三陸町(現・大船渡市)、いわゆる気仙郡を古里としながらも、それぞれの理由のもとに盛岡地区に住んでいる人達の会「気仙同郷会」なるものが存在し、それが何と、百周年を迎えたという平成30年の今年、その会が11月2日「エスポワールいわて」にて開催され、参加した。
 今年参加人数は60余名、毎年、市長や町長あるいは副の付く方たちもかけつけて、同郷の現在を語ってくれるので、懐かしいやら新しいやら様々なことが頭をよぎる。それに気仙地区の代表的な企業,例えば東海新報社、酔仙酒蔵、マイヤ、さいとう製菓などの社主や代表者たちが語ってくれる、会社と地場の現在あるいはその販拡のことなども貴重である。僕も同会に登録されている一人だが、実は気仙出身ではなく、平泉、いわゆる西磐井郡出身。でも高校時代から約40年間も陸前高田に住んでいたのだから、中学、高校卒後に気仙を離れた人達に比べ、より気仙人であるといえるかも?だが、生まれ里ではないので、まったく違和感が無いとは言えない。だがそんな僕が盛岡に来た年(2001)の同郷会は9月に盛岡グランドホテルで行われ、その時僕は会のゲストととして呼ばれ,少しばかりの話をしながら、弾けないギターを持って自作の歌を何曲か披露した冷や汗モノの記憶が戻る。
 当時の同会会長は岩手放送の社長だった菊池昭雄氏(陸前高田市高田町出身)で、それこそ僕の故郷、平泉で毎年5月に行われている祭り、義経東下りに菊池会長が出演した年で、そのビデオも上映されたりしたが、それより先の4月8日僕のジョニー盛岡店、開店時、菊池氏から「祝・開店、IBC岩手放送」と名札のついた大きな花鉢に植えられた蘭の花が届けられた時はビックリするやら嬉しいやら誇らしいやらの気分でした。その菊池昭雄氏が作詞した気仙同郷会讃歌(千昌夫の“北国の春”替え歌、遠藤実作曲)の「気仙よいとこ岩手の湘南、寒九の雨にああ紅い椿咲く、風光明媚で人情豊か、ああ気仙は故郷よ」を皆で合唱!合掌!一本締め!の夜の宴!でした。
11:02:00 - johnny -

2022-12-19

幸遊記NO.406 「佐藤卓史の音楽をするピアノ」2018.10.29.盛岡タイムス

 「佐藤卓史(たかし)さんという、素晴らしいピアニストがいるんだけど、ジョニーさんのところでやってみませんか」4年前にそう言ってくれた千葉県在住の望月美咲さん。彼女がいうには、いとこの目黒久美さん(父の兄の子で目黒、望月、共に旧姓高井)が、それこそ卓史さんが小さい時から中学卒業するまでピアノを教えた関係で、知っているのだということだった。そうして始まった毎年恒例ライブの素晴らしさに、聴く人、心奪われ皆唖然!
 卓史さん4才の幼稚園時代にピアノを弾く子がいて僕も弾きたい!と思ったのが始まり!「やりたいのなら買ってあげるよ!」と、おばあちゃん。目黒先生宅に通って週一のおけいこ。一年生の時、学校の先生だった父に連れられ秋田市のピアノコンクールを聞きに行き「僕も出たい!」と翌年初出場で5位入賞。県大会へ行ったら2年3年と2位。4年生で1位、仙台での東北学生ショパンコンクール金賞。6年の時、東日本東京大会で1位。で、めきめきと成長。だが全国大会で同い年の福岡代表に負けて2位。
 そこからメラメラ炎燃え上がり、やるのなら東京に出ないと!と芸大附属高校へ進学。するとそれまで競い合った連中が殆んど入学してきていたと笑う。3年の時、初挑戦した毎日日本音楽コンクールでいきなり1位を獲得。以来コンサートピアニストなる決意を固め、「あらえびす学芸財団」から奨学金を貰って芸大へ直進。卒後は更に5年間世界最高の音楽機関といわれるドイツハノーファ音楽演劇大学へ留学。その後、ウイーン国立音大で2年!と30才まで猛烈な勉強に打ち込み数々の名だたる国際コンクールで1位を独占しての帰国。
 一曲一曲はなかなか合格させてくれませんでしたが、おおらかで、楽譜の書き方、作曲の仕方、歌い方まで教えてくれた目黒先生。そして、よく弾ける子たちのために芸大から上原興隆先生を月1回呼んでくれた秋田のピアノの先生方に感謝しつつ、非常に厳しい上原先生にビクビクして基礎的なことを間違えると、何しに来た!帰れ!と言う人だったけど「楽譜は予見でマップ的に全体を頭に入れ、その全体の中の、ここを演っているんだから、大きな流れの、ここを考えなさい」と教えられた昔。今、N響、東交、日フィル、その他のソリストとして、又、ソロピアニストとして、はたまたBSジャパンの音楽交差点で大谷康子氏(vin)のアシストとしても活躍中。
10:59:00 - johnny -

2022-12-18

幸遊記NO.405 「山内路子のほっとひと息なごみの世界」2018.10.22.盛岡タイムス

 あれは確か1990年12月12日、陸前高田市民会館で僕が開いた「ハンク・ジョーンズ(p)・ウイズ・尾田悟(ts)トリオのエレガント・コンサートの時だった。尾田さんの楽屋に行ったら、親しく話されていたのが盛岡のピアニスト山内洋さんご夫妻。ハンク、尾田、山内、このお三方はその後この世を去ってしまわれたけれども、僕が2001年に開運橋のジョニーを開いてから、ご夫妻でいらしてくれて、自分達の山内洋ファミリーコンサートを店で開いてからあの世へ。
 洋さんの奥様だった路子さんは、ご主人が遺した録音をCDにまとめ、それを僕にも一枚プレゼントしてくれたのは2004年の事。出会った頃の1990年代は、盛岡市の上の橋町一丁目にある門の形をした建物の2階に彼女の事務所「オフィス・ヤマウチ」という結婚相談所があった。その階下には当時から今もある喫茶「DAN」。僕はその向かい側つまり門形2階建ての左下1階にあった「萌」という喫茶店によく通っていたから、路子さんの事務所にも顔を出したことがあった。僕が盛岡に来てからは、それこそお見合いパーティを店で開いてくれたこともあったし、登録会員のためのコンサートをお世話したりと、それこそ活発なブライダルコンサルタントとして300組以上結んだ路子さんでしたが、気が付くといつの間にか陶芸家になり画家になり、書家となって、あれよあれよのうちに国際的な賞を受賞したりと、まるで洋さんがピアノを弾いていた東日本ホテルのスカイレストランの名前「オーロラ」のような人になっていた!。
 その山内路子さん(72)は最近も紫波町あらえびす記念館での絵画展や、かもめの玉子のさいとう製菓盛岡本町通店2階の「COCOA」で「ほっこりひと息いやし展」を開催、「和」
をテーマに色紙に福地蔵を描き、自分が自然に生んだ言葉「正しい人から楽しい人へ、優れた人より優しい人に」「幸も不幸も存在しない、そう思う自分の心があるだけ」「広げてくれる出会い、深めてくれる別れ、どちらも人を成長させてくれる」「許すの語源は”ゆるます“幸せは感じるもの気づくもの」「笑顔は最高のおしゃれ」と、すでに歴史に残る著名人のような名言の数々。日本ヨーガ学会本の表紙絵を描き、歴史紀行小説「瀬織津姫浮上」(上下、加藤美南子著)では実名で物語に登場し、その本の表紙絵も手掛けている不思議さに「路とは子の自足で歩むものなりか」と僕。
10:58:00 - johnny -

2022-12-17

幸遊記NO.404 「吉田昌弘のジャズ喫茶・映画館」2018.10.15.盛岡タイムス

 陸前高田に置いてきたジャズ関連と自歴物の全てを、2011年3月の大津波で海に持って行かれた僕は、2013年1月、自分の初心に立ち返るべく、地下のライブ中心だった店をたたみ、地上4階で元のジャズ喫茶へと方向転換。同時に社会人大学?“穐吉敏子学科”の店を目指そう!それには、彼女に関する資料収集が先決!と、上京の度、昔のジャズ本と中古レコード探しに明け暮れて来た5年。帰る列車の時間までに、少しでも余裕ある時は、駆け足でジャズ喫茶へも向う。
僕が知る限り都内で一番音がいい文京区白山のジャズ喫茶“映画館”へ久し振りに伺った。汗だくなのでコーラを飲みながら耳傾ければ、この上もないほど気持ちよい再生音でピアノ、ギター・デュオ。そこへ、あの昔聞いたジリリーン、ジリリーン、アナログ黒電話の音。店主の吉田昌弘さんが大きな受話器で応対している姿を見ていたら半世紀も前に置き忘れたままの光景が甦って来る様な、まるで大都会のタイムマシン!そういえば店の入口だって穴の様な窪地?にある不思議。
 店内は、映画館というだけあって上映も出来る装置と関連本。そして歴史的資料価値のある本の数々。そこで目にした“ジャズ批評”の第1号(1967年6月創刊号)に驚いて写真を撮らせて頂くことに。何しろ血眼になって探し歩いてきても、この創刊号だけは未だ手に入らずいたものだったから。するとマスターはすかさず「見れば判るように本物より厚いでしょ?実はこれ国会図書館から、とあるツテでコピーして貰った物なんです!」と言って更には「ジャズ批評150号巻末にこの創刊号が付いていますよ」と言うのだった。確かにありました!(ありがとう)。それにしても凄い記憶力!と感心していると「江川三郎実験室にジョニーの記事載ってましたよね」。別のAA誌開いたら「照井さんが昔作ったそのレコード持ってますよ!」とパッと取り出す早業であった。脱帽!と思った瞬間!アッ!列車の中に帽子を忘れて来た!と気付きガックリした僕(アーア)。ジャズ喫茶“映画館”は1976年開店。吉田さんは映画自主上映の草分け的人物。自作管球アンプで1960年代のスピーカーをこれまた自作の木製ホーンとボックスでマルチ駆動させる音作りの達人。“この音聴かず”は、人生半分損する様なもの、と僕は店に行く度にそう感じてきた。
10:56:00 - johnny -

2022-12-16

幸遊記NO.403 「濱守栄子の義援金1000万への挑戦」2018.10.8.盛岡タイムス

 「岩手県大船渡市出身の歌手・濱守栄子さんのコンサートを聴いてきたのよ!感激したわ!人に騙されお金巻き上げられたりしながらも、頑張ってるみたい!ジョニーさんのこと聞いたら“知ってるわよ”って言ってた」と東京の宮嶋幸子さん(僕と同年同月生まれ)からの電話だった。「そう!彼女は自分の生まれ育った大船渡、通った高校と勤務先があった陸前高田を応援したいと、震災後にコンサート収益やCD売上げ金の一部を両市に義援金として届けてるのよ!えらい娘だよ!」と僕。
 その濱守栄子さんは、高田高校を卒業したら東京へ出て音楽をやりたいと思っていたらしい、、、、。母が肺ガンで入院したため上京をあきらめ、地元就職したら、その5月に母は47才の若さで亡くなってしまい、そのまま岩手信用組合に6年、その後信組が破たんし気仙沼信金へ移行。そこで5年勤務ののち、どうしても歌手になりたいと上京。三井住友信託で働きながら2009年「Let’s EAT!」でCDデビュー。とはいえ、始まりは路上ライブだ。そんな彼女らしく、震災後にリリースしたCDは被災した「国道45号線」。その路への自分の想いや思い出、未来の夢。デビュー曲は「キセキ」“瞳が見えること、耳が聞こえること、言葉を話すこと、足で歩けること、ご飯を食べること、文字が書けること、よく眠ること、歌をうたうこと、当たり前だと想っていたけど、全てキセキなんだよ”は、今聴くと震災にあいながらも助かった人々を唄っているようにも聴こえる。
 作詞、作曲、歌、ピアノ。コンサート、CDプロデュースと一人何役もこなしながら、毎年100万円以上の義援金を届け続けている新聞を読み、切り抜いてた僕はCDを見つけては買った。何しろ僕の陸前高田時代、岩手信用組合高田支店の窓口に行けば、2人居た女子の1人が彼女だったから、そののちに歌手デビューと聞いて、エェッー!あの彼女が!と想像絶した時の思い出が浮かぶ。「夢は1人でも多くの人に話すと叶いやすくなる」を信じる彼女はそれを実践しながら沢山の夢を叶え続けている。すでに集め届けた義援金は800万近いので今年中に目標の1000万円にしたいの!と開運橋のジョニーで語った彼女。夢を持つことの楽しさを自ら発信しながら命の尊さと地元の浜を守り栄させる子ように笑顔でまい進し続けている。
10:55:00 - johnny -

2022-12-15

幸遊記NO.402 「斎藤乾一の作陶・使い手の気持ち」2018.10.1.盛岡タイムス

 「高雅なプロポーション、魔法のような質感、人の心を惹(ひ)きつける有用価値芸術の実証」とは、ル・サロン(フランス芸術家協会)の名誉会長・ポール・アンビーユ氏の、「初時雨(花入れ陶器)斎藤乾一(けんいち)作」(パリでの日仏交流150年記念芸術祭入賞・2008)への言葉。乾一さんはその時の喜びを表そうと、30枚の厚い板で檻(おり)を作り、登り窯のある山辺に設置!その中へ気に入った作品を何個も入れ、その傍らには「とう陶、捕えられる」と墨書きした「立札」を設置したほど、シャレっ気ある人物。
 その彼から、来月照井さんの店に行きますと電話あり、現われたのが7月14日(2018)待ち合わせていたのは盛岡の版画家・大場冨生さん。2人と僕も久し振り!ヤアヤアと酒酌み交わし、大場さんはギターを弾いて彼独特の歌を唄い出し、ヤンヤで宴もたけなわ。2人は仙台での出会いだったという。乾一さん(76)が宮城県気仙沼市松岩の高前田というところで地名を冠した「高前田乾隆窯(登り窯)を築いたのは丁度40年前の1978年だが、土を選んで作陶するのではなく地元の土を生かす陶作りしようと始めた仕事。そのことに心血を注いできた彼の作品は、その存在感を感じさせないぐらいに単純で控えめなのは、使う人に渡ってから育ててもらうことによって完成するのだという斎藤さんの陶哲学ゆえなのだ。だから昔の同級生たちが彼の後援会をつくって今も応援し続けているのもそのあらわれ!のひとつ!
 開運橋のジョニーのドア横隅に置いてある傘立ても彼の作品だが、存在感はあまりない。しかし働きモノである。よく見れば草月観、色は海のような青白と土肌色、店の中にあるランプシェードも彼の陶、やはり青白い瑠璃色である。気仙沼水産高校(現・気仙沼高校)を卒業して、東京中央卸売市場冷凍工場で働きながら明治大学二部(夜学)を卒業。陶への興味は、工場時代の給食業者のおじさんからこれに絵を描いてみなさい!と七輪で焼いた素焼皿を手渡されたことからだった。その後、宮城に戻り、金成町の「陶芸家・村上世一氏に3年住み込みで師事したのが33才と遅かったが、20才の時に読んだ「月と6ペンス」の感激(何才になってもやろうと思えば出来るんだ)によるものだった。「火も生きもの窯たきは火を導いてゆくもの」という乾一さん。その髪に、僕は木灰のような堅そうで柔らかな美しさを感じた。陶場には今も、昔僕が撮った写真を飾っているという。ありがとう!
10:53:00 - johnny -

2022-12-14

幸遊記NO.401 「佐々木賢一のモダンジャズ・クイン」2018.9.24.盛岡タイムス

 大槌のジャズ喫茶・クイン(Q-in)に僕が初めて行ったのは1975年。その8月2日に陸前高田の市営松原球場で僕等が開く「衝撃の大ロックフェスティバル」のポスター掲示やチケット取扱いをお願いに県内外を回っていた時、宮古市役所前にあった「ミントンハウス」というジャズ喫茶のマスター・小赤澤猛さんに紹介され、帰り道に立ち寄ったのでした。ドアを開けると左右2部屋。左カウンター、右リスニングルーム、スピーカーに向ってコの字形に作り付けの木製ベンチと箱型テーブル、壁一面に白黒ジャズマン写真のカッコ良さ!。僕はちょうどその時、ジョニーという音楽喫茶を陸前高田に開くべく店舗の工事中だった。「ジョニー?もしかして五木寛之の海を見ていたジョニーか?」と、マスターはズバリと当てた!流石(さすが)だなあ!と僕はその時以来、佐々木賢一さんを勝手にジャズの師匠!と思う事にして、何度も何度も店に通った!。
 賢一さんは1941年10月15日大槌町生まれ。小学6年の時(1953年12月)、ラジオから流れてきたトランペットの音に驚いたという。それは初来日したサッチモことルイアーム・ストロング(tp.vo)と南里文雄(tp)の夢の共演だった。そして高校生の時に、母が作るソバの出前先のバーで、昼の掃除時間に聴かせてもらった、「ハーレムノクターン」にシビれた彼は、日大経済学部へ入学。同時に田舎コンプレックスを払拭しようと、本を読み、マージャン、パチンコ、名曲喫茶、ジャズ喫茶に通い、大学卒業後入った会社を1ヶ月でやめ、大槌に戻ってBar「クイーン」を開いたのが1964年10月、彼22才の時だった。
 1975年3月同町大町に移転。僕がその新店「Q-in」に行ったのはその3ヶ月後の6月だった。大槌ジャズファンクラブを結成し様々なライブ活動をし、79年、野田良和さんがやっていた「パモジャ」を引き継ぐかたちで盛岡に進出。6年間店をやったが体をこわし85年大槌に戻ったところ、奥さんが独立して店を出し、賢一さんは長女に手伝って貰いながらクインを続け、2011・3・11の大津波にさらわれ消えるまでは、現存岩手最古のジャズ喫茶であった。
「夏草や ジャズ喫茶跡 潮騒 (菊地十音)」。震災後花巻市東和町で長女多恵子さんと暮らしていた賢一さんは今年2018年8月5日76才で亡くなり、僕は女房と大槌での通夜に参じた。
10:52:00 - johnny -

2022-12-13

幸遊記NO.400 「春海博子の詩・北の裸像」2018.9.17.盛岡タイムス

 「6月3日、私の連れ合い、博子が息を引き取りました。4年前に発症した胆のうガンを次々と転移させた果てでした。震災の前年に娘・敦子を交通事故で亡くしてから、とても遠方へ出かける気力を無くし、それでもこの7年間、本人が希望した蔵王山中での暮らしを堪能したと想います。遺品整理していたら彼女の詩集の中の写真や、ジョニーでの、くつわだ(たかし)氏や宮(静枝)女史の写真を見て思い出した次第です」
 美しくも淋しげな、秋の蔵王と想われる写真ハガキが封書で届いた。送ってくれたのは夫の春海孟男さん。博子さんとは震災後に一度電話で話したきりのままだった。二人が僕の店に現われ、詩を書いている話をしてくれたのは90年代の終り頃。僕はその頃、盛んにあちこちで写真展をやっていて、彼女が詩集を2冊同時出版するにあたり、僕の写真を全部見たいと、未整理、未発表写真までも見て、彼女が詩に合わせて選び20数点を使ってくれたことは、僕にとって無上の喜びであった。
 2002年7月、東銀座出版社、2冊同時刊行のその詩集「かもめかもめ(三陸幻想)」「言いわけ(舟出のあとに)」著作者・春海博子さんは僕と同じ1947年、宮城県矢本町(現・東松島市)生まれ、学生時代に詩や小説を書き、同人誌に加わり、第一詩集「果たされぬ対話のために」を出版。働きながら東北学院大2部を卒業して、文学をやりたくて上京。そこで出会った人との間に2人の子どもをもうけ37才で離婚。故郷矢本町に戻り呉服店「ときわ屋」を経営しながら子育てを終え、離婚経験者同士の孟男さんと再婚。2人で生まれ育った三陸の海を旅したことで生み落とされた「かもめかもめ」と巣立ちの時を迎えた時点での親子の絆をうたった「言いわけ」。海岸は地と海がせめぎあう境界、あるいは出会いとけあう場。
 「風は北から流れてくる 風はまた北を求めて流れてゆく、、、、風が北を求めて流れるように 私も北を求めてゆくだろう 私の青い天のために」去る9月9日(2018)盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズ・ライブ・フェスにて津軽三味線の菅原聡さんと一緒に8年振りに出演。初めて激しく降りしきる雨の中、僕は彼女の詩に曲をつけ「北の裸像」を風雨の様な声で激唱し、僕なりの彼女への弔いのうたとした。このように詩は死を超えて生き続けてゆくものなのだ!
10:49:00 - johnny -

2022-12-12

幸遊記NO.399 「高尾昇道の修業托鉢全国行脚」2018.9.11.盛岡タイムス

 長崎のジャズ店「サロマニアン」のマスター・溝口一博さんから「友人がそちらの方へ行くので、多分寄ると想いますのでよろしく!」と電話があったのは2年程前だった。現われた方は頭を丸めたお坊さんで、長崎から北海道まで、軽自動車に寝泊りしながら、各地を巡り歩く托鉢行脚生活を続けているという修行僧だった。北海道までの往きと復りに、僕の店「開運橋のジョニー」へ立ち寄って様々な世の中の話をしてくれた。
そして今年又、8月末突然店に寄ってくれてビックリするやらうれしいやら。そのうち店で流れたサッチモ(ルイ・アームストロング)や、デキシーランドジャズに異常な反応を示し、これは誰の音、この曲は何それ、全部言い当てるのにビックリして、過去を問えば、若い頃クラリネットとアルトサックスを吹き飯を食べていた人だった。名は高尾昇(のぼる)和尚名は昇道(しょうどう)。「明日またきます」そう言って帰った翌日、彼は風呂敷包みを持って来た。経典が入っているのだという。出てきたのは何と折りたたんだ「クラリネット」次から次へと流れ出るデキシー曲やスイングに即興で合わせていゆく凄さにビックリ!これぞまさしく托鉢奏(僧)!と僕。
 高尾昇さん(67)は長崎にて大正生まれの自動車修理の父と満州生まれで音楽好きの母との間に生まれ長崎西高校から、福岡大学経済学部に進学、そこでデキシーランドジャズにはまり、当時佐世保の米軍クラブに出演していた加藤智(さとる)師匠(as.cl)と知り合い、そのバンドボーイをしながら、前座演奏したのが始まり。加藤氏は「山頭火」や「波濤を越えて」などの作曲者で、山口や北九州にあったキャバレー「月世界」のバンマスだった人。いまもご健在(現役90才)で台湾との交流を続けているジャズ奏者。
 昇さんは20代の時キャバレーバンド松田徹とファニーグループのアルト奏者。「客入り前のデキシージャズでのクラリネットは、まさに真剣勝負の世界そのものでした」と懐かしむ!。黒袈裟黒衣、白襦袢、手コラ、伽反、白地下足袋の姿で杖をつき一日何百件もの軒先で、四句願文、消災妙陀羅尼、延命十句観音経など唱え歩き、それこそ5円から年に2~3度の万札まで、まるでセミのようなひぐらし生活。「それを20年近くも続けてこれたのはお釈迦様のお蔭。そしてお金のありがたみを知り、かざらない人との出会いですね」と言った。「日はまた高く昇りその道を照らす!」
10:47:00 - johnny -

2022-12-11

幸遊記NO.398 「岩桐永幸の瓦礫の街と炎」2018.9.3.盛岡タイムス

 「私の葬式で流す歌は“炎”よと娘に頼んであるの」そう言ったのは三浦優子さん(59)。その歌を作り、唄っている歌手・岩桐永幸さん(36)の生歌とCDを聴いて、僕は久し振りにゾクッときた!。ピアノを弾きながら歌ったのはその「炎」と「瓦礫の街」言わずと知れた東日本大震災がテーマ。普通は聴くもつらい涙ものの歌だろう!が、先入観としてあり「傷跡を残した津波の痕、奪われた故郷、家族の命」の歌詞はまさにそれ、だが歌声は詞や曲をはるかに超越し美しい光の世界へと僕を誘い導くのだった。「とてつもなく素晴らしい歌唱力!」それが第一印象。CDは聴く度に音量を上げる。上がる程にその歌声は心を突き抜けてゆく凄さだ!。彼は言う「9月9日午後2時と4時イオンモール盛岡南店センターコートでインストアライブをします」僕はとっさに「じゃあ、夜に開運橋のジョニーでライブやって!」そうしてあっという間に決まった日が近づいてきた。料金は飲み物と軽食付¥3.000.時間は19:00~。岩桐は岩手の県花から、永幸は本名(桐の花・永遠に幸せであれ)
 「深い悲哀、言葉にならぬ見えない明日、辛い現実に生きる希望がまだあるのなら、、、どれほどの傷を負ったとしても、どれだけ時間を費やそうとも、必ず立ち上がり光を浴びる日が来るだろう」。永幸さんはあのジョンレノンと同じ10月9日の生まれ(1982)、母・前川よし子さんは歌が好きで、釜石オリジナル歌謡同好会(長柴政義会長)のカラオケ大会に出てた人で、彼、永幸さんも2006年釜石市民会館で行われた「ぐるっと三陸歌の競演」司会・佐野より子、ゲスト・大泉逸郎の時「風花」を唄い、僕も聴いた。
 釜石に生まれ気仙沼で育ち大槌高校を卒業し、車好きが高じてガソリンスタンドや自動車会社で働きながら、歌のレッスンは何人もの様々な先生に教えられた中から、独自の発声法を生み出し、4オクターブ音域の地声とその裏声を使い分け、あるいは織り交ぜて唄うミラクルヴォイスは、プロダクションのオーディションで10社から声がかかった程、魅力的。しかも作詞、作曲、編曲、ピアノ演奏も出来るマルチシンガー。ラジオ日本、さっぽろ村ラジオ、有線K49などに出演中で近作、オムニバスCD「いい歌、いい出逢い3」ではタイトル曲「一度きりの恋」を女性の声よりも高い裏声で唄い上げている。発売はいずれもインターナショナルミュージック(クラウン・徳間)からである。永幸への期待栄光。
10:46:00 - johnny -

2022-12-10

幸遊記NO.397 「オルガ・ワルラのオリンピア・ホール」2018.8.27.盛岡タイムス

 2014年4月に、陸前高田の米谷隆夫さんが送ってくれた「窓」というCDを聴きながら、これを書き出している。全20曲、日本の歌曲とギリシャ歌曲が半々。歌手・オルガ・ワルラ。ピアノ伴奏・光井安子。録音は1996年11月のウィーン。CDを制作したのはオリンピアの会。オルガさんは、アテネのコンセルヴァトワール。ウィーン国立音大声楽科卒。オラトリオ科卒。ザルツブルグ・モーツァルテゥム国際コンクールで第1位。ウィーン国立歌劇場、ウィーン国民歌劇場の専属歌手だった人。彼女は現在80才だが、元気に今も後進の指導中と聞く。
 オリンピアの会が陸前高田で発足したのは1988年。会の結成きっかけとなったのは86年5月25日、陸前高田市民会館でのオルガさんのソプラノ・リサイタル。伴奏はもちろん光井さん。前年(85年)4月21日の同市・同会館での本邦初演に次ぐ2度目のステージの時だった。「私の心の奥深くに刻まれた貴方方の美しい国・日本を再び訪れることをあこがれていました。素晴らしい芸術、伝統、そして温かい友情と人間性にふれられたことが忘れられぬ思いです」「この町に響の良い木造の多目的ホールを造りませんか!」と聴衆に投げかけ、「必要なら帽子を持って家々を唄って歩きます」とオルガさんはその基金に出演料を寄付。感激した医師・鵜浦喜八氏(当時のジョニー後援会長)が、その終演後には土地の提供を申し出て、帰る祭に募金してゆく人達もいた。
そして3度目の87年、ギリシャ生まれのオルガさんとギリシャ発祥のオリンピックにちなみ「オリンピア・ホール」と名付けましょうと、オルガ、光井お2人の協力のもと、イエルク・デームス。ホセ・フランシスコ・アロンソ氏のピアノコンサートやセミナーなど開催。その延長線上で前回の幸遊記に書いたベルベデーレ・国内予選の盛岡開催へと繋がったものだが、結果的にはウィーンの本選ファイナルに日本人は残れなかったし、オリンピア・ホールも実現には至らなかったが、90年に、気仙大工や製材業、音楽家、等が信州国際音楽村の木造ホール「こだま」の視察を行ったりして、当時陸前高田市が掲げた、カルチャービレッジ構想の中核施設となるはずが、出来たのは1枚の窓(CD)だけだった。しかし幸か不幸か、あの2011・3・11の津波後にシンガポールからの寄付により、小さな「シンガポール・ホール」が陸前高田に出来たことこそ、音楽の力なのだと僕は信じている。
10:44:00 - johnny -

2022-12-09

幸遊記NO.396 「光井安子の希望と平和のハーモニー」2018.8.20.盛岡タイムス

 6月14日(2018)何年振りかに光井安子さんへ電話したら「今、ルーマニアから帰ったばかりで、忙しいのよね」だったが、僕は「生まれて初めて広島に来ています」と言ったら「それなら夕方までに何とかしますよ。その間宮島に行ってらっしゃい。昼は船乗り場で穴子飯を食べて!」は、本当に美味しかった。島の海上にあるはずの厳島神社は、周辺潮干狩り状態で海底からの湧き水(鏡の池・厳島八景の一)という、普段は見れない世界遺産の原風景に出会ってしまった不思議。
 思えば光井さんとは1985年4月、陸前高田での「オルガ・ワルラ・ソプラノ・リサイタル」。彼女はチェンバロ・ソロと歌伴のピアノ演奏で陸前高田入りした“日墺ビックアーチスト・友情のステージ”が出会い。天使のような声!と称されたウイーンオペラ界のリーディング歌手・オルガさんの初来日で本邦初演。しかもそれをジャズ喫茶が開店10周年記念に主催するというビックリポン!ものでした。
 光井安子さん(68)は5才からピアノ、成蹊高、武蔵野音大ピアノ科卒。1978年ウイーン国立音大ピアノ科卒。80年同大チェンバロ科を最優秀で卒業。.歌伴をイエルクデームス氏に師事。彼女自身も故郷広島のエリザベト音大や岩手大教授も務めたが、根っからの演奏家であり、オーケストラのソリストとしても、ヨーロッパ各国での評価は絶大。アテネ国際コンクールの審査員はじめ大学や各国での夏期講師を務め、米国のオバマ大統領が広島入りした日、彼女は広島から中国へ飛び、あのハルピンへ千羽鶴を届けたのだ。その思いやりの深さに僕は只々脱帽するのみ。
 それこそ1992年から2007年あの国際ベルベデーレ・オペラ・オペレッタ・コンクールの日本予選(本選はウイーン)の盛岡開催・コーディネートを続けたのも光井さん。その審査委員長だったオルガさんが育てた陸前高田出身でメゾソプラノの菅野祥子さんは今、ウイーン少年合唱団の指導者となり、歌を作ったり、演奏したりと活躍中!。又光井さんは2010年からハーモニー・フォー・ピース・アンド・ホープという音楽サミットを立ち上げ、ニューヨーク、ウイーン、パリ、中国、ロシア、東京、広島などで開催。2020年の東京オリンピック時には五大陸マラソン平和音楽祭(国がやるべき)を計画!今尚精力的な活動のさなかにいるが「すべての始まりはジョニーなのよ」と僕を泣き笑いさせた。
10:43:00 - johnny -

2022-12-08

幸遊記NO.395 「丸木位里・俊の原爆の図・水俣の図」2018.8.14.盛岡タイムス

 幸遊記・前回・前々回と水俣と広島の音楽について書いたが、当時、その二つの事をテーマに絵を描いていた夫婦が居た。故・丸木位里、俊(画家夫妻)で「原爆の図」「水俣の図」がそれ。位里氏(1901~1995)は広島の生まれ、俊氏(1912~2000)は北海道の寺に生まれた人。原爆投下直後の1945年8月、二人は広島に戻り、惨状を描き続け1950年から共同制作の「原爆の図」を発表、国内外で巡回展を開催し、1952年国際平和文化賞を受賞した。
 「水俣の絵」は「水俣の図・物語」という映画(1981年青林舎)にもなった。その映画の為の音楽「Toward the sea」を作曲したのは、鹿児島県人を父に持つ東京生まれの武満徹氏(1930~1996)。彼は先の水俣をテーマにした曲を作曲した秋吉敏子さんと、その曲を録音する数ヶ月前に「音楽現代」(1976年2月号)で対談。その中で秋吉さんは「誰かが考えることは他の人も考える。そういうこと」。と、武満氏は「人が出来ないことをするのじゃなく、人が考えていることだから、僕はしなきゃだめだということ」と、語っていた。
その水俣の映画のために「原初(はじめ)よりことば知らざりき」という100行もの詩を書いた石牟礼道子氏(1927~2018)は、生後まもなく港湾道路建設にたずさわる一家とともに水俣に移り水俣で育った人。1968年水俣病市民会議の発足と同時に彼女は「苦海浄土」を発表!全国的な衝撃を与えた。水俣の詩の中の「そこへゆく道のしるべは、おまえのいる渚(手のひらは渚)から不知火海の魚にずねてみよ、汀の砂に交じる鳥たちの骨にたづねよ、炎の中を舞いつつうずくまる生焼けの猫の耳に聴いてみるがよい」。と、ユージンスミスの写真集「水俣」の中にある杖をつきながらビニールに入った数匹の魚を家に持ち帰った婦人のうしろ姿を庭先でとらえた写真はまさに連鎖。
 それこそ戦時中、強いられる戦争画への協力を拒否した丸木位里氏は独自の画風に勉め、夫婦で反戦、反文明の画業に徹した。その位里氏の母・スマさん(姓名以外読み書き出来ない)に嫁の俊さんが絵筆を持たせたら院展に入選。「五年目で院友に推された81才の老婆」として1953年12月23日号アサヒグラフの浮世バンザイに載った。そのとなりにはなんとジャズピアニスト・秋吉敏子さん(23)見出されて米国へ紹介の記事!。「一連の花まさに咲(ひら)かんとすると聴く・・・」2011・3・11の石牟礼道子さんの詩が浮かぶ。
10:41:00 - johnny -

2022-12-07

幸遊記NO.394 「中川元慧住職の広島組曲」2018.8.6.盛岡タイムス

 今日(8月6日)は73年前の1945年広島に原爆が投下された日である。僕は今、手元にある2枚のCD(日本盤とアメリカ盤)「ヒロシマ=そして終焉から」を聴きながらこれを書き出している。演奏は穐吉敏子ジャズオーケストラ!作曲を穐吉さんに依頼した被爆2世の広島市中区寺町にある善正寺の中川元慧(げんえ・68才被爆2世)住職にお会いしたく6月14日朝、僕は寺を訪ねた。
 原爆投下から50年過ぎた1995年8月6日、彼の寺であの「レフトアローン」で有名な黒人ジャズピアニスト・マルウォルドロンが、同じく黒人ヴォーカリストのジーン・リーとともに「白い道。黒い雨」をライブ録音した。白い道は生後40日で被爆した子が中学生の時に綴った詩。その詩に広島で出会ったマルが「忘れてはならないことのひとつ」として自分の子に残した音楽。それに刺激を受けた中川住職は、21世紀を見据え、あの社会的な曲、「ミナマタ」を作った穐吉さんなら作れる!と、中川さんは市内にあったジャズ喫茶「シルバー」のママに相談し、穐吉さんと親しかった岡崎の故・内田修さんに話したら「君!何とだいそれたことを!」と言ったそうですが、彼のつてで秋吉さんをソロで寺に迎えた時にお願いし、資料をニューヨークへ送ったのだという。
 穐吉さんは原爆投下3日後に撮影されたその写真集を見て「悲惨すぎて私にはとても書けない!。そもそも50年以上も過ぎてから、たくさんの人が亡くなりました。恨めしい恨めしいという曲に意義があるのかな?」と思い、断るつもりだったらしい。だが最初見落としていた1枚の写真「地下壕にいて原爆から逃れた若い女性が地上に出て微笑しているのを見た時、これなら書ける」と心を決めた。それは「どんなに悲惨な状況の中でも希望を持たなければ人間は生きてゆけない」と、終章をHOPEとするヒロシマ組曲を書き上げたのでした。
 その初演は2001年8月6日、広島厚生年金会館「予想以上の聴衆でぎっしりと埋まり、用意した当日用のパンフが足りなくなったのでした」と中川さん。だがその初演から1ヶ月後の9・11、NYでのテロ事件!以来穐吉さんは、コンサートの最後には必ず終章のホープを演奏し続けていますが、その組曲をアメリカで初演したのは2003年10月17日、NY・カーネギーホール。穐吉オーケストラ最後の演奏を聴こうと世界中からファンが参集しNHKはTV放送。その後「ホープ」は一人歩きをして世界中で歌われ演奏され続けている。
10:39:00 - johnny -

2022-12-06

幸遊記NO.393 「えっ!あの水俣病の救済終了!って?」2018.7.30.盛岡タイムス

 「平和な村」「繁栄とその結果」「終章」からなる「ミナマタ」というジャズの組曲がある。録音は1976年6月。作曲したのは秋吉敏子。演奏は彼女と夫のルータバキンが率いた「秋吉敏子=ルータバキン・ビックバンド」。プロデューサー・井阪紘。トータル21分37秒のこの曲が収められたアルバム「インサイツ」は1976年度の第10回ジャズディスク大賞の最高賞である「金賞」に輝いた。
 ミナマタ(水俣)とは、地名であり病名(公害病)である。公式認定患者第1号が発病したのが1953年12月。この時、魚を好物とする猫が「おどり病」で死亡。水俣湾周辺には胎児性水俣病が多発。水俣川河口で魚が浮上、湾の貝類は死滅、漁獲量は激減。環境汚染とその食物連鎖にとるまったく新しい公害病は、水俣病として公式に確認され、その原因はチッソの廃水ではないかと疑われはじめたのは、3年後の1956年11月。原因は廃水に含まれていたメチル水銀による中毒病であった。その患者たちが企業との死に物狂いの闘争を過て、やっと裁判に勝ったのは17年後の1973年3月20日。その時チッソはその晩のうちに水銀被害の評価額を定め9億3千万円の小切手を用意して支払ったという早業だったらしい。
 1953年は秋吉さんがオスカーピーターソンに見出されて、アメリカのレコード会社にデビューアルバムを録音した年。1956年は彼女が渡米した年。73年はビックバンドを結成した年。ミナマタ組曲のイントロで「村あり、その名をミナマタという」を唄った秋吉の娘マンデイ満ちるが生れた1963年は、チッソの工場廃液が原因であることがつきとめられた年。もう1つの必然は日本ジャズのパイオニアである秋吉さんがアメリカのパイオニアにステレオ修理の依頼に行った時、テーブルの上にあった本に水俣病の論文が載っているのを偶然に読んで「これを忘れてはならぬ」と、記録に残す決意を固め、ジャズ音楽語を通じてつづった社会的な記録であった。確認から62年の今年(2018)、チッソの現社長は熊本県水俣市で開かれた犠牲者慰霊式に参列後報道陣に「水俣病特別措置法の救済は終了した」と語った。しかし今なお1900人が患者認定を申請中で訴訟も各地で続いている。
10:38:00 - johnny -

2022-12-05

幸遊記NO.392 「松田智雄のジャズとバイクの和睦」2018.7.23.盛岡タイムス

 天下の台所と称された都・大阪は上本町坂あたりからの大坂や低地の大洲処(おおすか)からの語源と聞くが、国道1号線、2号線が始まった大阪キタの曽根崎、お初天神近くにひときわ目立つオレンジ色の建物(梅田オレンジビル)。その2階にあるジャズとバイクの「Bar・真湯」店主の松田智雄さんは、店の看板通り、ジャズとバイクが大好きな人で、店にはそんな仲間が楽しそうに集う。
彼のことは、ほとんど何も知らない僕だが彼が初めて開運橋のジョニーに現れたのは2007年、1人バイクに乗って日本一周をしている途中寄ってくれた日のことは11年たった今も覚えている。それから1年が過ぎた頃、彼から手紙が届き、「実は僕も大阪でジャズとバイクの店というのを立ち上げました!大阪と盛岡では遠いですけど、仲良くしていただけたらなと思っています!」と店内で撮影して帰った写真を同封してきた。以降もツーリングの企画やら、店にピアノやその他の楽器を入れたこと、何周年のご案内、年賀状などなど時折の通信を必ずよこしてくれていたことから、何年か前大阪で仕事のあったジャズ歌手の金本麻里さんに寄ってきてもらったことがあった。そして今回僕も大阪に行ったついでに初めて店を訪ねた。 
 9階建てのビル1Fには2階でバー真湯やってますの看板板、2F店の入口には「初めてのお客さんへ!2階のバーって入りにくいですよね!僕かって入りにくいです。しかしお客様には“落ち着く”とか、“わりと普通や!”とか、よく言われます。フードメニューもありますし、是非1度入ってみて下さい!よろしくお願い致します!!」のパネル。
 ドアを開け店に入ると正面に数人が座れるカウンターがあり、酒類のビンが並ぶ棚「なるほど!一見普通のバー。左奥にピアノその奥にはレコードやCDなどの棚、さらにその奥のトイレの中には何枚もの写真が飾ってあり、何と、開運橋のジョニーへ来た時の記念写真もあって、あ!そうか!松田智雄(待つだ!友を)の真湯は,新友から親友へと深めるジャズの真のお湯」すなわち湯暖体適な店なのだということに気がついた。バイクで大きな鍵盤坂を上る看板絵もまたバイクとピアノ。(輪木のヤマハ?かとも!)さすが大阪人!
10:36:00 - johnny -

2022-12-04

幸遊記NO.391 「永井初男の安芸高田市教育」2018.7.16.盛岡タイムス

 5月18日2018年雨の夜だった。初めての東北旅行で広島から来たと言う2組の夫婦が店の玄関ですれ違った。もちろんどちらのご主人もジャズファンで、2組目の永井初男さん(65)は数年前からJAZZに魅了され、手当たり次第に聴いて楽しんでいることから、初めての盛岡、インターネットでジャズの店を検索していたら、開運橋のジョニーにヒットし、駅前のホテルで場所を聞いて来たのだという。
 しかも安芸高田市から!僕は陸前高田市から盛岡へ!と感激の握手!高田と言えば、新潟の上越高田、九州の豊後高田!と高田繫がりで他所より尚の親近感。しかも高校は定時制(岡山県倉敷市立精思高校定時制・夜学)の卒と聞き、僕も高田高校の定時制!と又握手!。彼は自力で名古屋の中京大体育学部へ進学しグランドホッケーに夢中になった。大学卒業後は民間の会社に就職したが、定時性高校時代の先生の影響もあり、自分の信念でもって、経済的に恵まれない子のために!わからないことを大事にする教員になろう!と意を決し教師に!今は「安芸高田市の教育委員会に」と本人。「教育長なの」と奥様が付け足した。心の温もりがじんわりとくるめずらしいケースの本物教育長だと僕は心の中で大きな拍手をした!
 6月13日今、広島に着きました。明朝、善正寺にて住職にお会いします!のショートメールを送ったら、明朝は仕事のため朝早く帰らなければなりませんが、今から広島へ向います。宿も3人分予約しました!と2時間かけて広島まで2人でやって来て。繁華街の郷土料理店に!そこで僕に飲ませてくれた酒が、「加茂鶴特選ゴールド」という金箔入りの日本酒。「実はこれ!日本にアメリカのオバマ大統領が来た時、安倍首相が彼にすすめた酒ですよ!」と永井氏。その言葉で緊迫感が先に立ち、金箔酒の味忘れて仕舞う、やはり首席になれない、ただの酒席者だった僕と反省。
 3才年上だった先妻・輝美さんを2000年に亡くし、19才年下の現奥様、博美さんとは同じ勤務先だった関係で2007年に再婚。それこそ今年第8回となる公立定時制高校の神楽甲子園大会は安芸高田市の神楽ドームで行われるが、先日の大雨災害で開催があやぶまれたけれど、はげましの意味でも開催することに決まり、7月22日から28日岩手からは伊保内と葛巻の2高が出演!広島岩手県人会も県産品などを販売しながら応援にかけつけるという。
10:35:00 - johnny -

2022-12-03

幸遊記NO.390 「上村雅代の能面と絵画とガラス」2018.7.10.盛岡タイムス

 ジャズピアニスト・穐吉敏子さんが言うところの「姉トリオ」(穐吉さんのお姉さんと2人のお友達)。その一番下1937年生まれの上村雅代さんは、福山の出身。東京から現在の高槻市に移って25年。「東京は気の読み過ぎ!大阪は開けっ広げ!それがよくわかったのよ!」という彼女は今も海外を歩き、山へも登る健脚。教育者だった両親の影響もあり、武蔵野美大で絵画を専攻し、のち彫刻をやり、ステンドグラスも!と、気のおもむくまま?やりたいことを同時進行でやって来た彼女は今も元気百倍のバイタリティに溢れている!。
 絵は一貫してモデルを使っての人物画だけを描き続け、隣町の枚方市(ひらかたし)まで今も教えに通う。ニューヨーク・セントラルパーク・ウエストの穐吉さんの自宅へ伺えば、真っ先に目飛び込んで来る真っ白い女性の能面!それは彫刻家としての彼女の最高傑作とも言えるもので、のめりにのめり込んで彫った作品!「でも少しゆがんでるでしょ」と彼女は言うのだが、僕は作者の表情の表し方なのだろうと思いながら、その面を幾度も拝見し、写真にも撮った。大工さんにつき、立ち木の勉強から、木目利用の仕方、寝かす時間、ノミの研ぎ方を学び、彫の師匠からは四角の木材を彫りすすめ面へと形創っていく方法を教わったのだという。
 彼女は平面的油絵を立体的に観せるために?あるいは実際にモデルを使って描く時の光の変化や向きによる人の表情の移り変わる様を能面という固定された表情をつくることで面と立体を動体に帰してゆく光(ステンドグラス)までを手掛ける人間的な総合芸術を目指して生きて来た方なのだと気付かされる。しかもステンドグラスに至っては、ガラスの厚さが3センチもあり、透過する光がこの上も無く美しいことからと、バー、クラブ、レストラン、他ブティックなどに置かれていた。
 「今はね、暇つぶしに絵を描いている人が多いけど、昔はね“女が絵描きだと!!”と言われたもんですよ。作品の数?!1部屋ぎっしり!見たくもない!見せたくもない絵ばっかりですよ!」と謙遜するが、「でもね、1枚だけビル群を背景にしたシュミーズをつけた女性の絵は気に入ってるのよ!お呼びがかかったら送ってあげようと思ってるんですよ興味ある?照井さん!30号の絵だけど」はい!それは見たいですね!
10:33:00 - johnny -

2022-12-02

幸遊記NO.389 「春名道子の穐吉敏子ステージ衣装」2018.7.2.盛岡タイムス

 2000年4月1日、ワシントンDCの米国立ケネデイセンターでの穐吉敏子ピアノソロ。2003年10月17日、ニューヨークのカーネギー大ホールでの穐吉敏子ジャズオーケストラの解体(解散)コンサート。2006年3月31日、再度のケネデイセンターソロと3度アメリカへご一緒した兵庫県尼崎市の服飾デザイナーの春名道子さん(86)とは、東京などでの穐吉敏子さんのコンサートでも何回もお会いした仲。
 彼女は前回幸遊記に登場して頂いた穐吉さんの姉、折田美代子さんの親友で、彼女の着用服をずっと作ってきた方でもあることから、美代子さんがある時「あなたも春名さんに作ってもらったら」と穐吉さんに春名さんを引き合わせたところから、春名さんによる、穐吉敏子さんのステージ衣装作りが始まったという話を、僕は美代子さんから聞いた。
 春名道子さんの経営する尼崎市の「アトリエ・ミドー」には穐吉さんが仮縫いに店を訪れた時の写真なども残っており、それを見せられたら僕は実際に穐吉さんが立派なステージ等々に立つ時の、特別な、何種類ものステキな衣装を見てきたし、ホテルからタクシーで移動して会場の楽屋入りする時などは実際にその衣装を手に持ったりしてきたことがあることから、ほとんど見覚えのある衣装の数々の写真であった。実際それらは穐吉さんのコンサートが映されるTVなどでも必ず着ているし、衣装についてインタビューされたりしているのだから、春名さんの名前こそ出てこないけれど世界中の人々が彼女の創った衣装を見ていることになる。
 店の中には夏用の数多くの素敵な布地が沢山あって、その中から2~3引き出しマネキンにふわりと掛けてこうすればと、着衣に早替りの手腕に驚いていると、製図を使わない立体裁断なのだという。終戦後いち早くヨーロッパに渡った京都の藤川延子先生に学び、立体3次加工までを学びたいとフランスへ何度も足を運び、岩田屋百貨店で3年、阪急百貨店で10年デザイナーをやり独立。ランバン、ジバンシー、ミラ、ディオール、などなどのカラフルな生地棚を見渡しながらふと、僕にもらしたことばは「ほんとに店で寝起きしたいと思うのよ。美しい生地に囲まれている時が最高に幸せなの、、、、、」そう言って笑った顔の瞳はまるで未来をみつめる少女のように輝いていた。
10:31:00 - johnny -

2022-12-01

幸遊記NO.388 「穐吉敏子の姉・折田美代子」2018.6.25.盛岡タイムス

 ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの姉・美代子さんは毅然として「5才年下の妹は歳ですねーと自分で言っているけれど、私は歳だなんて思ったことはありませんよ!」という。生まれたのは満州(現・中国)4人姉妹の2女。白に赤紫の縞模様の入ったふわりとした上着に真っ白いパンツ。美しいキラキラ刺繍の入ったシャツにコテコテッとした真珠のネックレス。濃い紫に髪を染め、同系のサングラスをかけ、深い赤色のマニキュアと口紅。右の小指と左の人差し指には銀色の指輪。それがなんとも自然な美しさをかもし出していて最高!よくファッション雑誌から抜け出た様だと、ステキな女性をたとえるものだが、年令を考えても、考えなくとも、雑誌の方が逃げ出す程の美しい装いはまさに「ファッショナブル」の真実。魅せられてしまいました。
「私たち姉妹は敏子とは呼びません!“クリちゃん”と呼んでましたし、私は今でもクリ!と呼んでます。彼女が生まれた時、男の子が欲しいんだったら“クリ子”とつければ次は男の子、と言われたのでみんなでくりちゃんと呼んでたが役所に届けた名が敏子で、次の子は生まれなかったしで、くりと呼んだの。
穐吉さんはアメリカでも日本でもマネージャーという人を持たず、全てを自分でやって来た人だが、1961年の初帰国からつい最近の5年前まで、日本に帰って公演先をあちこち飛行機で移動するその航空券手配は全部お姉さんが一人でやっていたというのだから驚きだ!しかも未だにあの博物館もの的なダイヤル式の黒電話での用達なのだという。
「母はレコードが好きで、長唄や小唄、はたまたピストン堀口(東洋フェザー級チャンピオン)の唄まで聴いてましたし、政治の話も好き、よそには殆んど無い時ピアノがあった家でしたし、錦絵のようだといわれた綺麗な母でしたが、70才過ぎても英語の勉強してましたね。敏子は試験の前の日でも夕御飯までピアノを弾き、食べてまた弾く、それでも大連の女学校での成績は1番か2番でした。私は勉強嫌いで学校休みたい!すると母は休んでもいいですから、一日中仏壇の前に座っていなさい!というスパルタでした」
そう言う美代子さんは今年2018年1月2日、93才になった。朝ベットの上で体操して、お散歩15分、週1度プールで首までつかってのウォーキングを続け、転ばぬ先のチエ(杖)をつく!
10:29:00 - johnny -
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.