盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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レポート

2022-04-30

幸遊記NO.173 「一関への大人の遠足」2014.5.5.盛岡タイムス

 「ジャズ喫茶・ベイシー」に連れてって!と、せがむオジサマ達のリクエストに応えながら、昨年はお嬢様達とで楽しかったなと、盛岡発一関行きの電車に乗り出掛けて来た。途中駅からの参加者もいて、男性6、女性10、計16名のご一行。
 店に入ってすぐ左手に予約席。他に数名のお客様達。ピアノの上には例によって一輪の紅いバラ。その花ビンを見れば、1942年のアルマニャックの空ビン。年号は店主・菅原正二(本名・昭二)さんの誕生年!と意味有。その奥には昨日(4/26)が命日だった店名由来の「カウント・ベイシー」に捧げたと見られる数十本の紅いバラ。彼らしい心使い。
 流来る大音量のレコード演奏は、フィニアスニューボーン・Jr、ケニードーハム、ベニーカーター、マイルスデイビスと続く。先客が帰ってジョニー一行だけになったら「昨日、一日中かけていた」という、カウント・ベイシーの演奏に合わせ、ドラムでレコードと共演する菅原さん!。皆大コーフン、ヤンヤのカッサイ!。
 酔いしれてピアノ脇の貼り紙見れば、故・エルヴィン・ジョーンズ(ジャズドラマー)の名前!。僕の頭が一瞬にして1986年1月17日へとフラッシュバック!。あの日、エルヴィンが日米混合バンドを率いて陸前高田でコンサート。その日、新幹線一関駅に下り立った。エルヴィン氏を僕はベイシーに連れて行った。すると、マスター菅原さんは、ビックリして「ジョニー!驚かすなよな!」と言ったのを今でも鮮明に覚えている。
 コンサート会場(陸前高田市民会館)には、珍しく県内殆んどのジャズ喫茶マスターや関係者達も揃ってたので、終演後、彼等全員を舞台に呼んで会場のファンに紹介プレゼンテーションをした記憶。世界最強のジャズドラマー・エルヴィンジョーンズ・ジャパニーズ・ジャズ・マシーン・新春ビッグ・ジャズコンサート。サンディデブリアーノ(b)向井滋春(tb)高橋知己(ts)辛島文雄(p)。前座には、あの河野和義さん率いる陸前高田・気仙町けんか七夕太鼓保存会。主催したのは僕(陸前高田・ジョニー)。
 その成果?は、誰もがご存知の、陸前高田での全国太鼓フェスティバルの始まり。かたや一関ベイシーにおいては、年末の恒例行事となったエルヴィン・ジョーンズのライブイベントがスタートするきっかけともなったのでした・・・・。どんと晴れ!。
10:26:00 - johnny -

2022-04-29

幸遊記NO.172 「高橋渡の東京シネマ酒場」2014.4.28.盛岡タイムス

 横浜ちぐさから出た金本麻里のアナログレコードをいち早く予約して帰った高橋渡さんから「自己紹介をかねて拙著(といいましてもこれ一冊ですが)を送らせていただきます。再見。」と書かれたメモの様な手紙と一緒に届いたのは「東京シネマ酒場」(あの名作に出逢える店を酔い歩く)という単行本(祥伝社・平成23年初版)。帯には「映画好きで、こだわりが強く、美酒佳肴に目のない渡さん、その飽くことなき飲み歩きに、乾杯!」と戸田奈津子さん(字幕翻訳者)。
 それは寒い2月の事。春の温もりが恋しい季節にピッタシの内容で興味津々。とても楽しくそしてためになった本でした。ありがとう。
 まるで、渡りに舟のごとく、開運橋という高橋を自ら渡って来た舟こそは“彼の本”。酒はふつふつと湧き立ちながら発酵するものと思ったら、彼は何と立教大学仏文科の出だったから、まるでシャレ!。ところがその奥様・紀子さんも同大学の仏文科卒なのだから、当然のフツフツはまさに駄足のダジャレの様だと1人笑い。
高橋渡さんは僕と同じ団魂の世代で1948年9月4日、盛岡生まれ。厨川小学校、城西中学校、盛岡一高の卒。奥様は小中高大と生粋の立教でフランスに2年留学した方。2人は20年前に、子供を1人づつ持ち寄って暮らし始めた再婚同志。渡さんは大学卒後32年間、日本ヘラルド映画社グループに在籍、最初の仕事は「ジョニーは戦場へ行った」の雑用係。1994年には恵比寿ガーデンシネマ開館と同時にシアター支配人となり、アメリカン・ニューシネマ以降の最後の光芒を放ってた時代を見届けた、いわばシネマの上映・鑑賞の達人!。
本は友人の記者が勤めていた「内外タイムス」に、1年半連載したものを、土台に1年かけて加筆したもので「酒を飲みながら見聞した楽しいことを書いた」と高橋さん。「時代と友達に恵まれたから」なのだとも。
現在は盛岡駅前北通りにある実家と、東京世田谷区を往き来しながら“3丁目の夕日”ならぬ4丁目の夕陽を背に「盛岡のバーや居酒屋。割烹などを見聞して歩いてみると、そのレベルの高さに驚かされ、楽しい、素晴らしい街」と故郷・盛岡を大絶賛。歩いて見つけた本「てくり」にはまって全号そろえ、今は、実家の周囲環境がいいので東京からオーディオを運ぶ計画を立てている様子。
10:24:00 - johnny -

2022-04-28

幸遊記NO.171 「千葉隆弘の名盤録音」2014.4.21.盛岡タイムス

 2006年5月に出版されたジャズ批評社の「和ジャズ1970~90」。それに紹介されている名盤200枚中、カラーページに掲載された96枚の中に、僕がプロデュースして、発表した自主レーベル「ジョニーズ・ディスク」の作品が3枚も入っていた。その後2009年に出版された「和ジャズ・ディスクガイド・1950s~80s」(株・リットーミュージック)では、巻頭ギャラリーでの10枚中、1ページ目で紹介されたのも、ジョニーズ・ディスクの「海を見ていたジョニー」。これにも僕はギョウテンしたが、この作品は本の裏表紙にも載っていた。ここでは、426作品が取り上げられ、その中にも僕の3作品が当選していたのです。
 それらの作品中2作の録音担当者が、当時20代だった住田町の千葉隆弘さん(57)。坂元輝ピアノトリオによる「海を見ていたジョニー」は、作家・五木寛之氏の同名小説にちなんだ作品で、ライナーノートも五木氏が書いてくれたものだった。もう1作は「みどりいろの渓流」小栗均ピアノトリオの作。彼は新潟在住で、日本有数のジャズピアニスト「山本剛」を育てた人物。前作は僕の店でのライブ録音。後作はオープンしたばかりの「住田町農林会館」での録音で、1980、81年のこと。
 千葉隆弘さんは1956年住田町生まれ。高田高校時代からアルトサックスを吹き、卒業して住田町役場の職員となった。中学時代からのめり込んだ音楽関係の明るさから農林会館オープン以来ずっと何課になっても兼務を続けさせられて来た彼は「人生就職を間違えましたが、僕の唯一の実績は岩手朝日テレビの“ふるさとCM大賞”(32市町村対抗)の30秒コマーシャルを作り3年連続の特別賞、4年目で大賞をゲットし、1年間毎日放送されたことくらいさ」と笑いとばし、19才から57才まで38年いた職場を最近リタイヤした。
 そして、ここに来て、1980年に陸前高田市民会館で行われた秋吉敏子ピアノトリオのコンサートで、PA担当の彼にプライベート録音して貰ったカセットテープが見つかり、僕が秋吉さんの許可をもらいそれをCD化。34年振りに日の目を見て輝き出し、今月(2014・4月13日)読売新聞で全国に報じられ、連日注文電話が鳴り止まない。聴いた人は皆、これ名盤と絶賛する日々。
10:22:00 - johnny -

2022-04-27

幸遊記NO.170 「玉澤裕子のバックスタイル」2014.4.18.盛岡タイムス

 今年3月26日の夕刻6時~7時、横浜にある寄席のホール「にぎわい座」(定員290名)を満席にして、NHK横浜の番組サウンドクルーズに出演、今田勝ピアノトリオをバックにスタンダードジャズを歌い、生放送された盛岡のジャズ歌手・金本麻里。
 その後盛岡に戻って、同トリオと共に4月5日、6日の二日間、盛岡のホテルで行われた、横浜ちぐさ賞受賞記念・Mari Sings Jazz StandardのCD&レコード発表記念祝賀会が盛大に行われ、ジャズ歌手としてスタートを切ったその晴れ舞台は大絶賛だった。
 ジャズを歌い始めて8年目を迎えたその「ホープガールこと金本麻里」の成長を陰で支え続けてきた盛岡のミュージシャン達。中でもとりわけ、ライブや、コンサートなどの日程が決まる度、常に練習台に徹し、彼女の唄の成長を無償の愛で支え続けてきたのが、玉澤裕子さん(53)なのだ。本来なら自宅で大好きなビールが飲める時間を、それこそ“ビーバップ”なジャズの時間に置き替えさせて貰った!とは僕のシャレだが、嫌な顔ひとつせず真剣に練習のためのピアノ。ライブでのバック演奏を引き受け続けてきた人。
 聞けば彼女はとにかくピアノが好きなのだ。小学生の時、彼女のおばあちゃんの友達とその娘さんに習い始めたのがきっかけだった。途中ブランクはあったけれど、15~6年前からは、こういう音楽(ジャズ)に目覚めたが、始めはクラシックのドミソから抜けられず、コード名でなく音符の和音を書いてもらわないと解からなかったらしいが、今や米澤秀司(as.fl)カルテットと澤口良司(ds)トリオのレギュラーピアニストである。
 その玉澤裕子(旧姓・桑島)さんは昭和35(1960)年7月4日盛岡生まれ。上田小学校、岩大附属中学校、盛岡3高、そして盛岡短大を卒業してOLになった。社会人になってからは、クラシックとジャズを鈴木牧子氏に師事し、今もって習っている程、ピアノが好き。それでも本当のこと言えば、聴く方がもっと好きなのだと笑う。バッハやモーツアルト。ビルエヴァンスや本田竹曠、自動車ワイパーの如くクラシックとジャズを自在に行き来しながらも、「思っている半分位しか出来ないの」と言う彼女。でもすでにユーコリンスタイルが出来ている様に、僕には聴こえる。
10:20:00 - johnny -

2022-04-26

幸遊記NO.169 「永野貴子のウォーク・ドント・ラン」2014.4.7.盛岡タイムス

 「夏の終わりに」「希望の光」。東日本大震災のあった2011年に陸前高田で書いた曲。そう言って、開運橋のジョニーでピアノを弾いてくれた永野貴子さん(43)は、電気技士だった父の転勤で小学生の時1年間、大船渡市末崎小学校に通ったという。当時住んでいた家は津波で流された同町太田団地の入口付近だったらしい。実家は盛岡市。
 ピアノが大好きでたまらなかった子供の私を見ていた両親からは「ちゃんとした仕事に就きなさいよ」と言われ、その狭間で悩んだ彼女は、盛岡三高をドロップアウトし、ピアノを猛練習。親には理系の学校に行って将来は研究者になりたいからと、単身アメリカに渡って「ウイスコンシン大学」に数学で登録したのだったが、大好きなピアノならAをとれるかなと思い、試験の時「目の前に楽譜を置いてくれたら何でも弾きます」と言ってたら、ラッキーなことに「メンデルスゾーンの無言歌集」と「モーツアルトのソナタ」だった。楽勝!と演じながら弾いたら合格。弾ける日本人が入って来たと噂になったらしい。
 ところが、先生はとても大きな手をした方で、彼女の手を見て、そのあまりの小ささに、教室の先生にはなれても、ピアニストにはなれないと言われ、あきらめざるを得なかったらしい。だが、持ち前の負けん気で親に誓った数学と自分のためのピアノで単位を取ってから、親には期待に添えなくてごめんなさい。でもやりたいことをやりたいと言ったら許してくれたのだったらしい。
 そこで想い付いた楽器がマリンバ、又一からやり直しなのだが、ピアノの鍵盤を大きくしたようなものと挑戦したらこれ又合格。そしてその奏法をマスターし、きわめたと思ったら、「マリンバの先進国は日本よ、凄い演奏家も日本人よ」と言われ帰国して更に習った。何という遠回り!
 現在彼女は大阪に住み、作曲をしながら6つのマリンバ教室を開いて教え、時折、ジャズ演奏もするし、歌伴もするという。「そう言えばウイスコンシン大学にはジャズ科があったのに、当時は興味なくスルーしてしまった。今思えばもったいなかった!私って本当に遠回りばっかりなの」と笑いながら、17才の時に作ったという「無題」を弾いた。なんと、それは、ジャズっぽい曲なのでした。
10:18:00 - johnny -

2022-04-25

幸遊記NO.168 「工藤正輝の都山流・盛山尺八」2014.3.31.盛岡タイムス

 彼と出会ったのは2001年。ア・ウンの呼吸の如く、すぐさま友達になった。帽子を取るとツルツルと輝く立派な頭で、年上かと思いきや、6才も下で当時はまだ48才。その頃彼は、盛岡の稲荷町で1993年からコンビニを経営しながら、ローソン本部の東北代表理事までやっていた。
 常に尺八を持参し、いつでもどこでも誰の前でも後でも、どんなジャンルの曲であっても、すぐにさわりを吹いて皆を注目させるのがうまく、話せば大好きな僕のダジャレまで、アッという間に自分のものにして笑わせては、皆には「ケチの工藤」と名乗っていたが、そうではなく、店が終るとよく僕を誘って他の店に飲みに連れ歩いてくれた。
 そしてよく吹いていた。邦楽(方角)の違いか、ポピュラー曲でのリズム感には相当無理があるのだが、出て来る音だけは本当に素晴らしいので、僕はよく、即興演奏や、都山流本曲をリクエストした。特にも「鶴の巣篭もり」などは皆をシーンとさせる好演なのだ。平成14(2002)年、19年かかったけれど実力だけでやっと都山流師範の免許を取ったと喜んで知らせに来てくれた時、僕は“盛山”と名付け、彼はその名を都山流本部に登録したのだった。
 彼の家は27代続く本家(旧厨川村長宅・屋号・稲荷の駿河盛繁)から、分家した5代目の旧家で、家には琵琶と尺八があったことから興味を持ち、城西中学校から一関高専へ進んだ時、一関で民謡尺八を習った。就職先の電気工事会社で福井の原子力発電所「もんじゅ」の電気設計を担当、岩手に戻る直前の夜に尺八の音楽が聴こえて来たので、その家のドアを叩いて聴かせて貰ったのが、都山流の山本倖山氏だった。その氏に紹介されたのが伊藤鷲山先生で、岩手県の三曲協会会長だった。「民謡のくせがついていて、初心者より手に負えない」と言われながら習ったものだったらしいが、先生が亡くなる直前には菊池遠山師を紹介され、そこで28才の時、準師範を取った。
 「開運橋のジョニー(当時は陸前高田ジョニー盛岡店)」に来たのは、ジャズにもチョット興味があり、尺八で“テイク5(ファイブ)”という5拍子の曲に挑戦していたこともあって、ルパンというカクテルバーからの紹介で来たのだった」と、自ら「うん」とうなずき、“テイク5(ファイブ)”を吹き出したのだった。
10:17:00 - johnny -

2022-04-24

幸遊記NO.167 「ケニー・菅沼のジャズソング流し」2014.3.24.盛岡タイムス

 “あれは3年前”という出だしの歌があったけれど、ケニー菅沼が開運橋のジョニーへ現れたのは4年前だった。毎月開いていたジャムセッションや、ヴォーカルナイトに来ては、独特の軽妙酒脱な歌い方で皆を驚かせたのち、今度はある日ギターを持って現れ、「実は流しを始めたんです」と言った。
 流しと言えば昔は演歌と決まっていたが、彼が流しで歌うのは、スタンダード曲なのだから、僕は両手を上げて喜んだ!。イタリア・フランス・タイ料理などのレストランからスナックやワイン・ショットバーなど。まずは店主に聴いて貰えれば、たいがいはOK!いつ来て歌ってもいいと言われ、毎月や毎週から、パーティー、結婚披露宴など様々に受け入れられてきた。でもjazzの店だけはどうしてなのか?どこも聴いてさえもくれず門前払いでしたと淋しそうな彼。本当に歌いたいのはジャズの店だったはず。何せレパートリー曲の殆んどがジャズの曲だったから、「いわばケニーさんはジャズの宣伝マン!なのになぁ」と僕は彼に言って慰めた。「門前払いだけはしないで欲しい」と彼は言う。
 ケニー菅沼(菅沼賢)さんは5才の時、近所のギター弾きのお兄ちゃんからヘッドホンで「レット・イット・ビー」(ザ・ビートルズ)を聞かせて貰い「これは何だろう?」と思ったらしい。中学時代にバンドを組んでロックをやり歌とギターを担当。高校入学7ヶ月後には中退しバンド活動に専念。17才の3月には意を決してアメリカ・ロスアンゼルスに渡り、現地のバンドやライブハウスを見聞。帰国後R&Bのバンドで歌ってみたが満足出来ず、もう一度高校生活を送ろうとNHKの通信講座を受け38才で卒業。
 33才の時大手建築資材製造会社に入社。転勤で4年前盛岡に来た。ある日路上で唄っていたら警察官に「ジョニーへ行って見たら」と言われ、来て見たらパッと景観?が開けたらしい。
 ジャズは40才から本格的にレッスンを受け、2年後には大阪で歌い始め現在48才。今また新たなリズム楽器ボンゴ叩きに没頭して唄っていると言うが、子供の頃外国人と遊んでいたせいか、日本語の歌にハマッタことは無く、本当にハマッテしまったのはフランク・シナトラの「フライ・ミー・トウ・ザ・ムーン」で踊ったアイススケートの華麗な美しさに感動してからだった。転勤で大阪に戻ると、その報告に来て盛岡を語り唄ってくれた。
10:13:00 - johnny -

2022-04-23

幸遊記NO.166 「菅原敬三のカフェ&バル・ルポゼ」2014.3.17.盛岡タイムス

 大船渡市立根町岩脇のカジュアルショップ「アメリカヤ」が、震災後に店名を「LOVOA」(愛とオアシス)に変えた。人が身につける全ての物からセレクトしたショップへ、より広がりのある品揃えで、理想ともいえる女性7男性3のバランスになったと店主の菅原実(まこと・60)典子(よりこ・59)夫妻。かつてのアメリカヤは実さんの父・故・富也さんが、東京台東区坂本で始めた、衣類や皮革、ゴム製品、ミシンなどの古物商が前身。
 大船渡は昭和32(1957)年にアメリカ軍の払い下げ品を日本人サイズに加工し直して売るアメリカヤとして富也さんが始めた店だった。実さんの代になって、現在地にオープンしたのは1995年の秋。その頃実さんの長男は5才の幼稚園児。彼が小学1年の時僕に見せてくれたお習字の素晴らしさは、今だに忘れることが出来ない位、伸び伸びとした、とても気持のいい字だった。その中の1枚「“ひげ”は、ひげのおじちゃんにあげます!」と言うので、貰ってきた。その作品を額に入れ大切にして来た僕。
 さてその敬三くんは小学時代に劇団四季に憧れ、遂には昭和音大ミュージカル科に入学したのだったが、2年の時、思うことがあって中退し、東京のセレクトショップに就職。そして今年1月、家に戻った。震災後、被災した喫茶店に店の一角を無償で貸していたが、新築して出て行ったので、そこを敬三君が使って「カフェ&バルREPOSER」(くつろぎ)という店をやることになった。開店は4月14日・11時。僕はそのルポゼで使用する「オーディオ」の相談を受け、以前「開運橋のジョニー」で使用していたスピーカーなどを中心にメンテナンスしてコーディネイト。それが又、くつろげる音で鳴ってくれたので、ホッと一息。
 「音大に行きたかった。丸の内でOLをしたかった。(娘・英恵は今、丸の内OL)40年前学生アルバイトに行った店が南青山のパイ菓子店・ルポゼだった。(今も都立大前にある!)自分達の店も35年かかって理想に近づいた。夢はいつか現実になる。それに向っていれば応援する人が現れる。だから、あと10年の間に敬三も地元に愛されるようになって欲しい!」と「ローバの休日」を夢見る彼の母・典子さん。「ガンバレ・敬三!」これは“ひげ”のおじいさんからのエールです!
10:11:00 - johnny -

2022-04-22

幸遊記NO.165 「米倉洋子のルーツ音楽への旅」2014.3.10.盛岡タイムス

 「何年も前から来たくて計画を立て、今回やっと初めて岩手に来れました。年に一回好きな旅行を主人としてるの」そう言ってこの3月1日開運橋のジョニーに現れたのは、福岡県直方(のうがた)市の米倉洋子さん(53)。
 僕が彼女と初めてお会いし?言葉を交わしたのは、確か2008年11月3日。長崎で行われた穐吉敏子ウイズ・アートクロウジャズアンサンブルの「長崎から平和を願って」と題されたコンサート。本当はそれ以前に北九州市、その後は東京での、オペラシティ、昨年のブルーノート東京など、色んな所のコンサートで顔を合わせる、熱烈な穐吉ファン。
 問えば、90年代半ばにNHKのTVで見た穐吉敏子さんの「世界 我が心の旅」で故郷中国(旧満州)の遼陽や女学校時代の大連を訪れ、当時ピアノを教えてくれた揚(ヤン)先生の前で弾いたロング・イエロー・ロード(黄色い長い道・穐吉敏子作曲)を聴き感動してしまったと洋子さん。彼女は、それまでは子育てに夢中で、音楽を聴く余裕がなかったそうだが、以来、今日までずっと穐吉ファンで、公演日程を見つけると、出来るだけ足を運んで聴いてきたのだと言う。
 4年前、母・石丸千鶴子(旧姓藤井)さんが78才で亡くなったそうだが、その母も実は満州で生れ育った人で、終戦後満州を引き揚げる時には丸坊主にして、博多に引き揚げたと聞かされていた。
 その母の2つ先輩にあたる穐吉さんの体験と母と重なることが多く、穐吉さんの文庫本「ジャズに生きる」も読み、母がよくうたって自分を育ててくれて中国(満州)時代のうたの印象が自分に残っていたことも、穐吉さんの曲を聴く様になった理由の1つだった。
 好きな旅行とはいえ、主人が行く所にくっついて行くだけですが、今回は宮澤賢治を訪ね花巻まで飛行機で来て、花巻、盛岡、小岩井、平泉を2日間で回るのだという。来る直前には陸前高田で撮影された映画池谷薫監督作品「先祖になる」を見て感動。ジョニーでは、賢治研究家で盛岡タイムスに「賢治の置土産」を連載中の岡澤敏男さんと偶然に出会い、大正6年の新聞記事から、ある通説をくつがえす良い証拠を見付けたという、第40世報恩寺住職・尾崎文英の話を聞いて感激してました。
10:08:00 - johnny -

2022-04-21

幸遊記NO.164 「秋吉敏子の1980年イン陸前高田」2014.3.3.盛岡タイムス

 「幻のピアノトリオ・30年以上の時を経て蘇る。ジョニー・ライブ」そう表書きされた手焼のCDを、気仙郡住田町から、昨2013年開運橋のジョニーへ奥さん同伴で持参してくれた、千葉隆弘さん(57)。その音源たるや1980年に初めて陸前高田を訪れ、市民会館大ホールでコンサートを行った、世界の「秋(穐)吉敏子ピアノ・トリオ」の実況録音だった。
 僕の頭がパッとあの日の光景に経ち帰った。そう、あの日PA(拡声装置)を担当したのが彼で、記念に録音しようとテープデッキをセットしたら、穐吉さんから録音は駄目ですと断られ、録音機材を撤去した。それでも、彼は機転ををきかせて、会館の調整室に信号を送りカセットテープでプライベートに録音したものだった。(穐吉さんゴメンナサイ)
 33年振りにあの、歴史的で運命的だったコンサートの一部始終を聴いた僕は、体が震えた。何とすばらしい演奏だろう。聴衆はもちろん、穐吉さんも初体験の小さな街でのコンサートとあって大変な熱演!聴衆これまた大興奮、大歓声がホールに響き渡った“ただならぬ2時間”の生録。僕はそのテープが唯一津波から逃れたものであることなど、昨年10月NYから来日来盛してくれた穐吉さんに正直に話し、CD化の許可を頂いた。
 ベース・ボブ・ボウマン。ドラムス・ジョーイ・バロン。このメンバーによるトリオ演奏のレコードはリリースされておらず、しかも当時渡米20年にして、トリオでの帰国公演は初だった。今となっては穐吉さん自身においても、ファンにとっては尚更に貴重な録音であった事が、調べてみて分かった。2014年4月16日、僕のレーベル・ジョニーズ・ディスクから、東京のレコード会社、ウルトラヴァイヴを通じて全国発売されることになった。CDの解説文は最高評論家の瀬川昌久氏。そして後藤誠一氏。ともに渡米50年日本公演の穐吉敏子スーパーカルテットのCD(SJ・日本ジャズ賞特別賞を受賞)制作をした時の、解説を書いてくれたお二人。
 その原稿をNYの穐吉さんにFAXしたら折り返し、「レコード・ノート結構ですと傳えて下さい」と返信があり、そのFAXには、7月スペインの「ライフタイム・アチーブメントアワード」を受賞。25日が授賞式。26日、サンセバスチャンでコンサートとある。僕も行って聴いてみたいナア!。
10:05:00 - johnny -

2022-04-20

幸遊記NO.163 「紺野拓実のラジコン・ドリーム」2014.2.24.盛岡タイムス

 昭和38年(1963)僕は望んで県立高田高校の定時制(夜間)に入学した。出身が平泉中学だったから、同級生では一番遠くからの入学。次に遠かったのは住田町下有住中学から入った紺野拓実君だった。僕は叔父(父の弟)が経営する照井クリーニング工場に住み込みで。紺野君は、馬場歯科医院の技工士見習いとして、やはり彼も住み込みで就職。お互いよそから来たので知り合いが居ないということもあって、友達になろう!と互いに契りを交わした高校時代の最初の親友。
 その彼、拓実君(65)が奥さんのてつ子さん(61)と連れたって開運橋のジョニーへ現れたのは昨2013年12月のこと。「長男拓郎(37)が結婚することになったので、出席してくれないか!」喜んで!と二つ返事の僕。そして東日本大震災で被災し、高台に移転・再建し昨年オープンした「キャピタルホテル1000」での結婚式に、つい先日の2014年2月16日出席して来た。
 拓実君の3人の子供のうち次男の実君(34)は盛岡在住ですでに2女の可愛い子供(孫)。3男光君(26)は独身。拓郎君と亜也枝さんの結婚披露宴のスピーチに立った、キャピタルホテルの代表取締役会長・小山剛令さんによると、何と拓郎君はホテルの和食を担当する総料理長であるらしい。もちろん抜擢したのは小山さん。全員に料理を作って貰ったら味とアイデアに、一番秀れていたという。拓郎さんはキャピタルで働くことが夢でドアマンから上りつめたらしい。
 「ソチオリンピックでの羽生結弦選手は雲の上の世界一ですが、僕も今日は天にも昇る世界一の幸せ者です」と拓郎君。父・拓実は橋幸男、舟木一夫、西郷輝彦、そして吉田拓郎が大好きで、いつも彼等に成り切って歌ってた高校時代。そうだ!高1の時「照井!お前は、詩が好きなようだがら、これ読んで見ろ」そう言って三田明のシングル盤レコードの歌詞カードを僕の机の上に置いていった彼。僕はそこに書かれてあった、夜の定時制高校のことを歌にした、「みんな名もなく貧しいけれど」に心を打たれ、そこから、僕の音楽人生がスタートしてしまったのです!。今もって懐(ふところ)は貧しいけれど、音楽のお陰で、気持だけはこの上ない幸せな毎日。旧友、紺野拓実君も、3・11で住まいを流されはしたが、まだ昔からの趣味であるラジコンで夢を飛ばし続けている。
10:01:00 - johnny -

2022-04-19

幸遊記NO.162 「井阪紘のカメラータ・トウキョウ」2014.2.17.盛岡タイムス

 「仙台での講演を頼まれたので、翌日、盛岡まで足を伸ばして照井ちゃんの所に行きます」そう言って彼、井阪紘さん(72)が開運橋のジョニーに現れたのは2013年6月30日の夜だった。その前に会えたのは2007年。偶然にも「第19回ミュージック・ペンクラブ賞」の受賞式会場でだった。彼の著作本「一枚のディスクに=レコード・プロデューサーの仕事」が最優秀著作出版物賞を受賞。その時の僕はといえば、穐吉敏子・ルータバキン・スーパーカルテットの「渡米50周年日本公演」をプロデュースして、制作したCDが最優秀録音賞を受賞し、出席していたのでした。
 井阪さんとの出会いは1986年の秋吉敏子ジャズオーケストラ・陸前高田公演の時、招聘元「カメラータ・トウキョウ」だったから嬉しくて仕方がなかった。何しろ彼は、僕と穐吉さんとの出会いとなった、彼女のオーケストラ・デビュー作「孤軍」のプロデューサーであり「ロング・イエローロード」「インサイツ」などなど歴史に残るレコードを手掛けた人だ。しかも制作当時彼は、ビクターの中に、クラシックの他、ジャズのレーベルを立ち上げるに当たって、親会社の松下(現・パナソニック)の幸之助氏に直談判。自分の給料を抵当に入れ、秋吉敏子のカーネギー・リサイタルホールでのコンサートを収める「ザ・パーソナル・ディメンション」を制作実行。そして2作目の「孤軍」は見事に大ヒット作となり1984年度のジャズディスク大賞の銀賞に輝いた。
 1978年彼は「カメラータ・トウキョウ」を設立。クラシックやジャズのレコード制作や演奏家の招聘、国際的な音楽ソフトビジネスを展開。更にあの1980年から続く「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」の創立者であり事務局長兼・プロデューサー。
1940年和歌山生れの彼は、高校時代に新聞部の編集長をやり、全国大会で入賞し、東京へ行ったとき、何とあの伝説のバンド「秋吉敏子のコージーカルテット」を聴いた事も運命的始まりだったのかもしれない。現・NHK朝ドラ「ごちそうさん」の音楽を担当しているのも彼で、昨年ウイーンでの録音だったらしい。昨年、今年、2度にわたって大きなダンボールにぎっしりと何百枚もの貴重なレコードが、彼から僕に届けられた。僕はステレオを再メンテナンスして最善の音で聴いている。ありがとう・・。
10:59:00 - johnny -

2022-04-18

幸遊記NO.161 「清川花朴の歌方音楽」2014.2.10.盛岡タイムス

 ロイヤルとは“老いて益々盛ん”という老やるということらしい。発表会に向けて時折、昔のお嬢様たちが開運橋のジョニーに参集しては、仙台在住・遠山邦夫さんのピアノをバックに唄のリハーサル。バラのタンゴ、セシボン、アマポーラ、黒いオルフェなどなど、ポピュラーな歌の数々。僕は最初、その彼女たちの歌に取り組む真剣な姿勢に感心していたが、知らぬ間に、唄にも感動している自分がいた。
 指導しているのは清川花朴さん(本名・厚子・77才)。NHK文化センターやイオンカルチャーの講師であり、他にも雫石、花巻、自宅などにて、子供から大人まで歌とエレクトーンとピアノを教えている方で、日本オペレッタ協会に所属する声楽家。
 「やろうと思えば思いは叶う。吸収しようとすればうまくなる。だから真剣に教え、極力良いものが出せる様、根気良く努力する。」と、果報は寝て待てじゃない花朴さん。昭和11年(1936)5月27日岩手県葛巻町生まれ。民謡が大好きだった父が交通事故にあったため、ピアノが出来なくなり進みたかった音楽大学をあきらめ上京。バイトしながら短大を出て銀行員と結婚。だが音楽への思いはつのるばかり。主人の理解を得て国立音楽大学声楽家に入学。自らも働きながら、声楽とピアノを必死になって勉強。
 シャンソン、カンツォーネ、フォルクローレ、タンゴ、フォークなど、歌のデパートとの異名を持ち、かつてフランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、などでも公演し成功を収めた。40代から、これらポピュラー音楽への転向は3人の子供を育てながらという、自分への再挑戦でもあった訳だから、とりわけ1968年の「ミュージカル芸術祭賞」の受賞は最高嬉しかったに違いない。
 「百合の花ほどの気高さはないが、いつも上に向って、真っ白に咲いている朴の花、そういう印象だから」と大学時代の仲間の詩人が名付けてくれたのが「清川花朴」という芸名だった。人生の半分を東京で暮らし、白百合学園高校時代に住んだ盛岡に戻って来たのは10年前。ピアノを習う子にさえ、音符をうたいながら弾くことを教えると、教えられる方も楽しくなるのだと言う。確かにジャズピアニスト達も凄い人程、音をうたいながらのアドリブ演奏である。
10:53:00 - johnny -

2022-04-17

幸遊記NO.160 「三ヶ田伸也のジャズベース趣味」2014.2.3.盛岡タイムス


 「5才から小学4年生までエレクトーンを習ったが面白くなくてやめ、野球をやり、中学3年生の時最後の試合に、父の見ている前で負けてしまった。そしたら建築士だった父がその日に倒れて亡くなった。それで僕も、使い回されてばかりいた野球に、サヨナラをした。と三ヶ田伸也さん(29).。
 中学3年の文化祭で現在彼の奥さんになった麻衣子さん(29)のドラムを叩く姿にあこがれ、盛岡三高では吹奏楽部でパーカッションを担当。高2の時、先輩にジャズのことを吹き込まれ、3年の時にはジャズ喫茶に誘われて、入った店が「開運橋のジョニー」だった。
 そしてギター少年だった中村慎を中心とするカルテットを、先輩のピアノ・柿崎倫史、遠藤大作(b)と組んでドラムを担当、定期的にジョニーに出演。すると若者達が演奏するスタンダードなジャズがなかなか素晴らしいと評判になり、IBCラジオで特集を組んで放送され、テレビにも映った。バンドが解散し、セッションに加わる頃から、ベースに転向、これがドラムよりうまいんじゃない!と皆が言うようになった。
 岩手大学工学部を卒業した日だった。彼は店を親ってたことからか、大学の卒業証書をその日に持参して僕に見せてくれたこと、就職して貰った初月給で、一升瓶の芋焼酎を買って来てくれた時の笑顔、想い出す度、僕は涙がにじんでしまう。
 就職先だったソフトウエア開発会社から、東日本大震災後に、文部科学省予算で設立された、エネルギー関連のプロジェクトに抜擢され、東北大学環境科学研究科の助手として勤務する日々も3年目を迎えた。波力や潮力でタービンを回して発電する研究。微細藻草類を使ってのバイオマス発電研究。EMS(エネルギーマネージメントシステム)の3部門中、彼はEMSのソフトウエア部門で自給自足のソーラーや、熱の有効利用、例えばガス給湯器の逃げる熱で電気を作り出す方法など、現場での声を聞きながら消費と蓄電の全てを管理するソフトウエア研究開発管理の毎日。
その疲れを癒すのはウッドベースでのジャズ演奏。「今、仙台市内のジャズライブハウス“カーボ”に月1回カルテットで出演中です!」と笑った。
10:57:00 - johnny -

2022-04-16

幸遊記NO.159 「細川煌正の真空管魂」2014.1.27.盛岡タイムス


 五球スーパーなどと言われた昔の真空管ラジオ全盛時代、並四と呼ばれたラジオの組立にはまったラジオ少年は、そのまま大人になり、おやじいになった現在も、真空管アンプにこだわり、自分の好きな音楽を、いい音で聴く、あくなき音楽再生を追求し続け、自宅は勿論!仕事場さえも、ステレオだらけ。しかも、そのほとんどを自分で組立た細川煌正(正彦)さん(60)。
 若き日、シカゴ、チェイス、スリードックナイト、サンタナなどの来日公演を聴き、かぐや姫など日本のフォークロックを経て、今はズーッとジャズのソフト・LPやCDをインターネットで買い聴く毎日。そして時折、生演奏会へも足を運ぶ。
 6B95・6GW9・6GB8・6V6・PCL84・KT88・2A3・300B・350B・はたまた送信管の845など、玉子焼きがあっという間に出来そうな位の熱量を発する真空管アンプ群。大形スピーカー群、そのどれもが細川さんの手が入ったものばかりなのだ。
 細川正彦さんは昭和29(1954)年1月24日矢巾生まれ、盛岡農業高校園芸科を卒業して埼玉の植木屋で修業。高校時代にあこがれた「ザ・ベンチャーズ」のエレキがきっかけで音楽が好きになり、ステレオ組立の方は、現在の仕事である火災報知器などの弱電機器工事の本業が高じたことからの様なのだが、自分の家の1町7反、他から預かる1町2反。その全ての作業を1人でこなし、コンバイン組合で彼が刈り取る広さも10町歩。2年前からは、不耕起直蒔栽培実験を始めて作った米だから食べて見て!と2足の草鞋(わらじ)をはいて、ずっしりと重い米をかついで来たりする。
 ウィスキーを飲みながら、ジョニーの再生音を楽しみ、ステレオ談議。声はデカイが、心は優し。数年前ネットで見つけた同姓同名のジャズピアニスト「細川正彦」のジャズアルバムを手に入れて以来、彼のCDを全部揃え、僕にまで、笑いながらプレゼントをしてくれたりした。
 「必要は発明の母なり!鳥肌立つ、真に迫る再生音は真空管でしか味わえない!リアルかどうかということが一番なんだから!とCDを聴くのでも違う。倍音が聴こえてくるからね」と、嬉しそうに話す彼の瞳は、いつも煌々と輝いている。
10:53:00 - johnny -

2022-04-15

幸遊記NO.158 「皇后・美智子様への曲」2014.1.20.盛岡タイムス


 2014年1月16日、小野田寛郎(元・陸軍少尉)が91才で亡くなった。彼がフィリピンのルバング島で発見されたのは1974年。テレビに映し出された、敬礼の姿が目に浮かぶ。終戦を知らず、戦後30年近く一人で戦い続けた小野田少尉。当時、20年近くアメリカのジャズの世界で孤軍奮闘し続けていた、日本人としての自分を重ね合わせて作曲した穐吉敏子の「孤軍」(1974年彼女のビックバンドデビュー作)は僕にとって、穐吉敏子さんとの出会いとなった曲。以来40年、僕も穐吉敏子を旗印に和ジャズに生き、生かされ、今日に至った。
 その世界に冠たる芸術家としてのジャズピアニスト・穐吉敏子さんと皇后・美智子様はお互いに深い尊敬の念をお持ち合いになっている間柄。2012年6月、穐吉さんは皇后様に御呼ばれになって皇居へと出向き、お会いし、50分間お話しをして来たのでした。そして皇后様の誕生日だった同年10月20日、東京国立劇場でのコンサートに、穐吉敏子さんは皇后様に捧げる曲を持参して演奏した。
 その曲はそれこそ“こうごうしい”すてきな曲で、聴衆の胸々に静かに深く届けられた。それを昨年、穐吉さんはご主人のルータバキンさんと一緒に献上するためニューヨークでCDレコーディングしたと、今年1月5日に川崎ミューザの楽屋で聞いた。しかも皇居にて演奏して頂けないかとの皇后様の希望により、1月20日の本日、ご主人ルーさんも、そのために来日されて二人で御前演奏をされるのだそうです。
 それこそ、国歌「君が代」を学校での入学・卒業式などで、歌う、歌わない。伴奏をする、しない。起立さえ、する、しない。の裁判ざたがあとを断たない。公務員が拒否するのはいかがなものかと僕は思う。そんなことより、曲として素晴らしい「君が代」をジャズやロックで演奏したり、発売したりすることを禁ずる方がよっぽどおかしい。「君が代」が「ジャズ」となってTVに映し出されたのは1979年のこと。九州若松高校の教師だった小弥信一郎氏が即興演奏をした“君が代”の素晴らしさを、僕は未だに忘れることが出来ないでいる。翌年密かに、とある雑誌の付録(ソノシート)になっていた。
 今日、2014年1月20日。それこそ“君が代”の皇后様は、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんによって奏でられ音楽となり歴史的な“JAZZ・DAY”になったのだと、この日を僕も密かに嬉しく思っている。
10:52:00 - johnny -

2022-04-14

幸遊記NO.157 「今田勝のアンダルシアの風」2014.1.13.盛岡タイムス

 ジャズ界一、明るく好くスイングする品格のある音と曲を創り出すピアニスト・今田勝さん(81)。彼のヒット作「アンダルシアの風」は特にも最高。果たせなかったが俳優で歌手でもあった故・勝新太郎氏が唄にしようとさえした曲だった。
 そうあれは80年代初頭、僕の店があった陸前高田市の隣町・宮城県気仙沼市のジャズ喫茶「珈琲館ガトー」のマスター・故・吾妻博さんは大の今田勝ファンで、毎年彼を呼んでコンサートを開いていた。勿論僕も店のお客たちと連れ立って毎回聴きに行ったものだ。ベース奏者も毎年古野光昭さんだったと記憶する。
 昨秋、横浜に現存する日本最古のジャズ喫茶の「ちぐさ賞」を受賞した、盛岡のジャズ歌手・金本麻里さん(34)が縁で、最近懐かしい今田さんの生音を聴くことが出来た。NHK横浜放送局での50分間の公開生放送ライブ。そして横浜ランドマークタワー・スタジオでのレコーディング・ライブ。そのどちらも歌は金本麻里。その事はもう何度となく、マスコミが大きく取り上げ、今田さんも「表に出れば良い線行くと思います」と太鼓判。
 それはともかく今田さんのエンディングテーマ曲?「自由への賛歌」は、故・オスカー・ピーターソンの曲。彼今田さんは1953年JATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)の来日時、百万ドルのスターと言われたオスカー・ピーターソンのダイナミックで強力にスイングする彼のプレイに興奮し、胸が躍った。それが彼の原点となったらしい。
 以来彼は、ハンクジョーンズ。ビルエバンス。ハービーハンコック。チックコリア。等々の来日の度、コンサート会場に早々と行っては、彼らのリハーサルをまるでアシスタント然として、間近でそのプレイを実況見分。そして研究したのは、鬼才と言われたピアニスト・レニー・トリスターノの奏法だった。
 幼稚園で足踏みオルガンを覚え、小学校からピアノ。終戦の頃には「日本軽金属」でゼロ戦の部品作り。明治大学時代には米軍キャンプで演奏。卒後プロの厳しさを知る。1980年発表以来未だに売れ続けているあの名曲「アンダルシアの風」に、今回作家の筒井康隆氏の弟・筒井之隆氏が作詞し、金本麻里の歌になった。2014、3・11、LP&CD発売決定!。
10:50:00 - johnny -

2022-04-13

幸遊記NO.156 「廣橋理美のセンチメンタル・ジャーニー」2014.1.6.盛岡タイムス

 あれはNHKの朝ドラ「どんと晴れ」が放送されていた2007年夏のこと。見知らぬ一人の女性客が現れて、カウンターに座った。ステージでは来るべきコンサートに向けて練習中だったBBカプチーノの二人。肝心の曲がうまくいかないと、繰り返し、繰り返し歌っていた曲は「センチメンタル・ジャーニー」、かつて「ドリス・ディ」が歌って大ヒットした曲で、邦題は“感傷旅行”「さあ気分直しの旅に出かけよう、心に安らぎを与えるために、、、、」という意味の詩。
 四国の松山から来たというその彼女は言った。「朝ドラを見ていたら、急に盛岡に行って、開運橋から岩手山を見たくなり、直ぐに来ちゃったの」と。彼女は松山で「十六夜」という会員制クラブを経営している方だった。タバコを切らして、隣に座ってた人から2本いただいたら、四国に帰ってから、松山の様々な名物と一緒にタバコの方に渡して下さいと、2箱のお返しがきた。よほど印象深かったのだろうと想像した。
 そして昨2012年「開運橋ジョニー様・この度、移転リニューアルオープン“祝”おめでとうございます」と、彼女が描いた“菜の花”に「春はもうすぐそこ、、、、“ゆらゆらと菜の花続く青い空”」の俳句を添えた手紙が届いた。何でも、あの日以来、彼女は“センチメンタルジャーニー”を口ずさみつつ日々を暮らしているのだと。電話では、ジョニーに来た翌年には、穐吉敏子コンサートを松山で聴き、ジャズの火が灯った。それに、昔、松山のライブハウスにはジョニーというベースマンもいたという。
 2013年11月9日に放送されたNHKFM「児山紀芳のジャズ・トゥナイト」での穐吉敏子デビュー作誕生60周年記念特集番組のエアチェック・カセットテープを、センチメンタル・ジョーニー?に贈ってもくれました。「花が好き、音楽が好き、その中で生きられる今がすき」と花々のハッピネスカードが添えられ、「温泉の露天風呂で“センチメンタル・ジャーニー”を口ずさむのが私の至福の時。元気と現金あれば、盛岡に珈琲飲みに行けるので、がんばります」と病と闘っている様子。その後には母恵夢(ぽえむ)のブランデーチョコケーキ「夜明けのブルース」が届けられ、今、タバコの人と僕たち夫婦でその五木ひろしの曲を歌っている。
10:48:00 - johnny -

2022-04-12

幸遊記NO.155 「吉見正信の宮澤賢治研究」2013.12.30.盛岡タイムス


 「俺は出たきり老人」そう言って、元気に出掛けては講義や講演をして歩いてる吉見正信さん(85)が、久し振りに、ひょっこりと現れて「照井顕様」と書いた封書を僕に差し出した。中味は一冊の本「宮澤賢治の心といそしみ」という吉見さんの著作本だ。宮澤賢治の研究を60年以上の長きに亘って続けている彼の、賢治に関する7冊もの著作集が東京の出版社「コールサック社」から出ると言う。
 頂いたのは第一回配本の第二巻・評論集。帯には「東北の悲劇に立ち向かうため賢治の“いそしみ”の精神を提言する」とある。それはそうと、先月(2013.11.28)埼玉県久喜市に講演を頼まれて行って来たのだという。宮澤賢治全集第五巻の文語詩「著者」に見た「造園学」の一語と、賢治の手帖にあった賢治筆跡のメモ「本多静六博士・造林学前論」からの抜き書き。そのなかの「石灰ハ濶葉樹ノ生育ニ特ニ必要ノモノ」とあり、賢治の中には本多静六がいて影響を与えていたという思いを彼は抱き直した。それが縁となって本多の故郷での講演と相成った様子。しかも彼・吉見さんのお母さんと同じ小学校に通った本多静六博士(1866~1952)のことは幼い頃からよく母から聞かされ知っていたのだという。
 「講演の帰り駅まで乗ったタクシーの運転手がまた陸前高田の出身で「たかはし・さんぞう」さんという方で、ジョニーのことよく知ってたよ!これも縁」と彼。そういえば吉見さんが陸前高田時代の僕の店に現れたのは、1980年代だから30年にはなる。
 吉見正信さんは1928(昭和3)年杉並生まれ。東京で雑誌記者を経て、昭和26年1月10日岩手に国語の教員として来た。以来、啄木、賢治にはまってしまい、あっという間に60年以上も過ってしまった訳だが、いまなお“デクノボーの賢治体験をしながら「変人。過激。まともじゃない。」を一番大事にし腰痛にもめげずに頑張っている姿は、オーラにさえ包まれている。
 開運橋のジョニーから北上川を眺め「北上川は日本の五大河川だが北から南へ、一直線に流れている日本に唯一つきりしかない凄い川なんだよ!だからもっとアピールすべきだ!」と熱がこもる。
10:47:00 - johnny -

2022-04-11

幸遊記NO.154 「藤原章雄の実音・落花生」2013.12.12.23.盛岡タイムス


 「FUSIE/Midi・World」という私家版CDを僕に差し出し「私が作った音楽です。聴いて見てくれませんか」と言ったのは、藤原章雄さん。昔お世話になった新聞記者の藤原正教さん(現・戯曲・演出家)の弟だった。あれは2001年6月9日の事。聴いて見たら中々に良かったので、後日、当時僕が担当していたFM岩手のジャズ番組で使わせて貰うことにした。
 ところが、僕は盛岡に店を出したばかりで、忙し振り?をし、そのCDをしまったまま、すっかり忘れてしまっていた。彼もFMにいつ流れるか心待ちしていたハズだったが、2年ちかくたったある日、今度は「Mix・Nuts」というアルバムや、兄の芝居の音楽作曲集など彼の作品集を持参してくれた。
 そのCDから、「キウイ」「レディ」「ゴンパパ」のオリジナル3曲をFMで放送したのは2004年7月20日の夜のこと。ピーナッツ藤原(章雄)のドラムスを中心にマカデミア千葉(sax)ピスタチオ岩井(1st・g)、ジャイアントコーン佐藤(2nd・g)、カシューナッツ工藤(key)、アーモンド近藤(b)という全員ビールのつまみ的ナッツ名冠したバンドで、バラエティに富みハードなのに楽しいオリジナルサウンドは、無二の存在だった。
 その後発展的にバンドを解散。新たに「ジャフロサンボ」を結成し、盛岡大通「ビックストリート・ジャズ・フェスティバル」に出演、大喝采を受けた。演奏は、ジャズ、アフロ、サルサ、ボサノバをミックスした藤原さんの理想のサウンドで、聴衆の体も動いた。
 藤原章雄さん(55)は昭和33年10月22日盛岡に生まれ、下の橋中学校から盛岡四高、亜細亜大学経済学部へと進んだのだが、四高時代に「鬼瓦」というオリジナルロックバンドを組んでたことから上京し、プロになろうと全員で同大学へ入学、学園祭などで演奏。デモテープを作ってはコンテストに何度も応募したが、ザンネンデシタが続きプロをあきらめ、ヤクルトに入社、現在に至る!。なのだが、自分の子に「実音(みおん)」と名付けた程の音楽好き。店に来て飲めば、時折、「俺ジョニーが好きなんだ!」と男泣きもする。
10:43:00 - johnny -

2022-04-10

幸遊記NO.153 「千崎秀樹の記念日花束」2013.12.16.盛岡タイムス

 白いカスミ草、薄紫のスイートピー、白の小百合(アルストロメリア)、そして真赤なバラ2輪の花束を抱え、千崎秀樹さんが開運橋のジョニーへやって来た12月12日は、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの84回目の誕生日。そして僕と小春の結いの記念日。
 さっそくピアノの上に花を飾らせてもらい、先客の女性から届けられた大きな特注ケーキにナイフを入れて、居合わせたお客様たちと一緒に、プチパーティー!。煮豆。ハタハタ。横浜からのノリで包んだおにぎり。ビールにワイン。ハーブティー。何の脈絡もない、不思議な取り合わせ。だが一番のピッタシは千崎さんと僕が、20才違いの同じ4月20日生まれだった事。
 彼がジョニーに現れ出したのは、今年の夏頃。長期出張の派遣で本社から、盛岡支社に春から来ていて、「ある日開運橋のジョニーを見つけて、エレベーターに乗ったら、まるでタイムマシンのような気分になった!」と。彼は店に来ると、必ず何かを手帖にメモり、店で流れるレコードのジャケットや、その日の店内を、あちらこちらとカメラに収めながら、ニコニコと、エビス顔で例のビールを楽しみながら飲む。釣りはいつもさりげなく「希望」のビンに入れて立ち去る心遣い。ありがとう、、、、、、。
 彼がジャズを聴き始めたのは、中学時代のFM放送。エアチェックして「渡辺貞夫」さんのカセットテープをよく聴いたという。高校に入って間もなく「地元島根の浜田市にあった“サテンドール”というジャズ喫茶によく通った。マスターがサイフォンで入れてくれた“モカ”をベースにしたコーヒーが抜群で、ジャズとマッチして最高でした」。
 生れてこのかた46年。外国だと思ってたくらい遠かった岩手だが、盛岡に降り立ち、開運橋から眺めた岩手山が最高だった。冷麺、じゃじゃ麺、そしてジョニーのジャズ麺?にはまった。時折奥さんにも来盛してもらい、一緒に盛岡の街や、中津川べりを散策する。今では、この街・盛岡が最高に気に入って、住みたいとさえ思い始めてると言う。が、しかし彼にも、ジョニーの眼下にある“二度泣きの開運橋”を涙して?渡る日が刻々と近づいている様子だ。
10:42:00 - johnny -

2022-04-09

幸遊記NO.152 「ラヂオ体操第三の管弦楽とピアノ」2013.12.10.盛岡タイムス

 僕が昨年の11月と今年の11月に東京で見付けた幻のSP盤「ラヂオ体操第三」の事がこの12月3日付の本紙・盛岡タイムスで報じられた。その翌日、開運橋のジョニーへ「記事になってた、ラヂオ体操第三のレコードを聴かせて下さい」と一人の女性が現れた。その方は大崎和子さん(86)「昭和22年頃、岩手師範学校(現・岩手大学)の技能科の体育研究部員だったことから、第三を習い踊ったものなの」と言う。彼女は県立盛岡高等女学校(現・盛岡二高)から師範へ進んで教員となり、渋民、仁王、そして結婚後は母校だった桜木小学校で17年間も教えた元先生。あの頃、桜木小学校には、全校で1800人もの生徒がいたと当時を振りかえりながら、第三は習い覚えたけど、すすめる場がなかったとも。
 今年発見した盤(震災前陸前高田市立博物館にあった貴重な資料盤と同じ番号のSPレコード)ピアノ・丹生健夫のラヂオ体操第三と、昨年見付けた、少し若い番号の東京放送管弦楽団・指揮・丹生健夫のラヂオ體操・第三。の両方を聴いて貰ったら「当時踊ったのは管弦楽団盤のほうですね。いい曲ですよね。音楽的で,しかも楽しい大人の体操って感じ、これはもう芸術ですね」と彼女。
 ピアノ伴奏盤の方は、現在の、ラジオ体操第一、第二よりテンポの早い舞曲ような体操用レコードである。これが最初に話題となったのは、1995年」10月から11月にかけてのこと。陸前高田市制40周年記念特別企画「陸前高田市の昭和史展」開催中に元教員で書の大家だった故・佐藤氷峰氏が持っていたものを奥様が市に寄贈したものだった。その後の調べでは総務省にも、NHKや製造元のキングレコードにも保管されていない「日本で唯一の資料」との折紙が付されたことから、陸前高田には、ラヂオ体操第三のレコードがあるぞと、市民の自慢となっていた。
 ラヂオ体操そのものは、昭和3年に第一、7年に第二、14年に第三が制定され放送されたが終戦の日に放送中止。その後、21年4月に新しい第一~三が作曲放送されたが、これ又、22年8月放送中止となった。現在の第一、第二は27年6月16日からの放送。今般発見のSPレコードの第三は21年から22年放送の第2世代もの。だが管弦楽団の盤は、もしかして?第1世代のものだったりして!。
10:40:00 - johnny -

2022-04-08

幸遊記NO.151 「阿部美佳子の百万本のバラ」2013.12.2.盛岡タイムス


 紫波町彦部にあるコスモス畑にちなんで名付けられたコーラスグループ「コールコスモス」の指導、指揮者であり、同町古舘地区のコーラスグループ「パープルウエーブ」のピアノ伴奏者でもある安部美佳子さん(59)が、先日ひょっこりと開運橋のジョニーに現れた。
 20年以上も自宅で近所の子供達にピアノを教えて来ている彼女だが「同級生たちから、頼まれたのが始まり。通う子供が音楽を好きになってくれればいい。一人一人の自信になり、人生に役立つピアノであればいい」。と一度も教室の発表会を開いたことはなく「子供より親たちがやらせたいのだから」と、やりたくない気持も自分に重ねあわせる。彼女自身ピアノは小学1年から盛岡二高時代まで。
 卒後上京し東京電子専門学校でコンピューターを学び、全農計算センターのプログラマーとして勤務し東京で結婚。実家の父が亡くなり再婚相手だった義母が子供たちを連れ家を出た為、実家に戻り、祖父母が94才、96才で天寿をまっとうするまで介護し看取った。
 紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」でレコーディングしたCD「ALAEBISU」
の発表記念「ケイコ・ボルジェソン・ピアノソロコンサート」が行われた2007年6月10日、ケイコさんと共演した急こしらえの「あらえびす合唱団」で「百万本のバラ」(あの加藤登紀子の歌で有名)を原語のラトビア語で歌う合唱団の指揮をしてくれたのも美佳子さん。
 歌は日本語詩とは違い、強国に支配され続けたラトビア共和国の苦難の歴史から生れた詩人・レオンス・ブリエディスの作詞。作曲は同国の元・文化大臣・ライモンズ・パウルス。「神は娘に命を与えたけれど、幸せをあげ忘れた、、、、、」と母娘の悲しい人生を綴ったもの「作者はジャズマン、私は本人から直接許可も貰って歌っているの」とあの時ケイコさんから聞いた。
 2007年あの時「宿命の闇を明かすものジャズ!」と詩に綴った川村明香さんの笑顔と、あの2ヶ月前にご主人を亡くし、激流をくぐり抜けてきて、今の笑顔がある美佳子さんの2人の顔が重なった。これも又、コーラス!か。
10:36:00 - johnny -

2022-04-07

幸遊記NO.150 「芦野真弓の盛岡少年少女合唱隊」2013.11.25.盛岡タイムス


 鮭が溯上する季節が近づいてくると、盛岡紺屋町にある「白沢せんべい店」が発行していた30年程前の栞本「旅の詩集」に書かれていた「それぞれの川を下り、大海を知り、天の深さをも知りながら、また帰ってくる魚、命を終えるその瞬時まで、一生懸命に生きることを鮭に学びたい」との文章を、僕は今も思い出す。
 著者は芦野真弓。盛岡少年少女合唱隊の指揮者。ブルガリアの歌を当時100曲あまりもレパートリーに持っていた、世界無二の存在だった彼女は、ブルガリアの国賓として迎えられ、訪ブ歓迎のパーティには毎回大統領が出席した。駐日大使の日本での公式パーティにも大使夫人公認での日本ワイフ役を務めたりもした。
 だが僕が盛岡に店を出してこの方13年、ついぞ、盛岡少年少女合唱隊の名を聞くこともなく、淋しく思い起こしたら、合唱団のレコードが無性に聴きたくなった。彼女が選んだ宮澤賢治の詩に、ブルガリアの作曲家・ペーター・ストーゥベル(国家功労芸術家)が曲をつけた合唱の為の組曲「日本への歌」。そう!あの「海だべがど おら おもたれば やっぱり光る山だたじゃい」のフレーズが浮かぶ。だがレコードは陸前高田に置いてきてたから、それこそ海がさらって行ってもくずとなった。
 それで最近彼女に幾日か、朝昼夜何度か電話してみたが留守。ところがその直後、盛岡駅でバッタリと必然的に出会った。彼女は後日ご主人と一緒に僕の店に来てくれた。母の介護にあけくれた十年余りだったらしい。一週間後僕はあのレコードに会いに彼女の自宅に伺ってそれを頂き、十数年振りに聴いた。1982年10月9日、岩手県民会館で開いた「盛岡少年少女合唱隊の特別演奏会(創立20周年。父から引き継いだ高2の時からの新発足15周年)の記念盤。
 彼女とブルガリアの出会いは県民会館落成時のこけら落しのコンサート。ソフィア少年少女合唱団の歓迎相談を持ちかけられたのが始まり。僕と彼女の出会いは、79年TVI番組「街角に文化を築く青春群像」だった。その後、彼女は僕とのいきさつを、1988年・合唱隊冬に歌うのパンフレットに書いてくれた。1950(昭和25)年7月17日、秋田出身のバイオリニストの父、故・文雄と東京日本橋生れの母、故・斐子の間に盛岡で生れたのが真弓さん(63)なのでした。
10:35:00 - johnny -

2022-04-06

幸遊記NO.149 「畔上佳成のヒア・カムズ・ジョニー」2013.11.18.盛岡タイムス


 かつて岩手県三陸町(現・大船渡市)にあった北里大学水産学部のジャズ研究会「浦崎スタンダーズ」のベーシストだった畔上佳成君が、久し振りに僕の前に現れたのは2011年8月9日。穐吉敏子・ルー・タバキン夫婦による、東日本大震災復興支援チャリティー・ジャズライブ「ホープコンサート」を、僕等が紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」で開いた時だった。
 ほぼ20年振りの再会。その時、「ケンちゃんこれ!」と言って僕に持参してくれたのは、何と!1992年11月に、僕が大船渡市農協会館と盛岡・岩手教育会館で開いたコンサート「穐吉敏子ジャズオーケストラ」の全メンバーから彼がサインを貰った貴重な一枚の色紙だった。一瞬の内に頭の中がフラッシュバックした!そうだった。あの時の二大イベント。北里大学のジャズ研のメンバーに、コンサートを聴かせるからと、先のオーケストラ。翌93年の6月のカルテット。「陸前高田市ふれあいセンター」と「盛岡劇場」での公演時に当日のスタッフとして手伝って貰ったのだった。
 しかも、彼等が卒演を僕の店・陸前高田ジョニーで行ったとき、なんと4回聴いて覚えた穐吉敏子さんの新曲「ヒア・カムズ・ジョニー」を演奏し僕を驚かせたことも、まるで昨日の様に鮮烈に思い出したのだった。
 畔上佳成、彼は昭和46(1971)年・東京渋谷に生まれ、小学生の時に父と釣りに行ったことがきっかけで、魚の勉強がしたいと、都立千歳ヶ丘高校を卒業して北里大学水産学部へ入学し三陸町へ。大学でロックをやっていたら、児玉教授から3年生の時にジャズ研に引っ張られ転向。卒後は東京で本格的にジャズベースを習ったと言う。横浜に障害者の通所施設建設のための、チャリティーコンサートを開いた時、藤原清登(ベース)トリオを、開港記念会館に呼び、大きな話題と成果を上げたのは2011年6月25日のことだった。
 そして彼は今年(2013)、僕が主催した10月31日の穐吉敏子さんのコンサートを東京・原宿に聴きに来てくれ、すぐ又、盛岡の開運橋のジョニーへと現れたので、僕は嬉しくて仕方がなかった。
10:34:00 - johnny -

2022-04-05

幸遊記NO.148 「葛岡恒久の書棚貸し」2013.11.12.盛岡タイムス


 僕が良く行く「本のくずおか」のご主人・葛岡恒久さんと、初めて会話出来たのは2011年11月。巽聖歌の童謡曲集の楽譜(CD付)の出版会議の時が最初で、会議終了後に彼をそのまま店まで追いかけて話をした。以来僕は彼の魅力にとりつかれ今日に至る!。その間店に集う文筆家たちにも出会った。
 彼は彼で「店にジョニーのCD置くから」と「ジョニーズ・ディスク・コーナー」を設けて、開店から閉店まで、一年間も店内に流し続け、相当の枚数を売ってくれたのです。本当にありがとうございました。
 そんな彼が「本のくずおか」として紫波町役場付近の国道4号線沿いに店を開いたのが昭和59(1984)年。それ以前は、東北自動車道紫波インターの西側、上平沢で薬と化粧品と本の「くずおか商店」を営んでいた。本を導入したのは結婚した昭和50年から出版社の企画物の番付で岩手の1、2を陸前高田の菅勝書店と伊東書店が競っていて、盛岡よりも高い本を買う教養人が多いといわれ昭和53年に視察に行き、僕の店「ジャズ喫茶ジョニー」にも寄ってくれたらしい。55年全13巻の園芸大百科事典を頑張って売ったが「くずおか」さんの上にはやはり高田の2軒。販売は家と人を知ることが大事だと外交した結果が表れたのは昭和60年。全24巻の少年少女文学全集。秋田「川井書店」490。仙台「高山書店」が480。山形「歳新堂」が310。岩手は陸前高田「伊東」210。「菅勝」100。盛岡「東山堂」170。このとき「くずおか」は250部を達成し、念願の県内トップとなった。
 彼、葛岡恒久さんは1948(昭和23)年紫波町生まれ。花巻北高校。東北学院大学・経済学部卒。薬品会社に就職後、家業の薬屋を継ぐために戻ったのでした。現在は末の弟・青山学院大卒の武男さん(48)が、かつて盛岡・上の橋通でやっていた「みみずく書房」を閉じ「本のくずおか」を継いだ。恒久さんは「捨てるのにはもったいない本を預かって安く売る古本屋(書棚を貸す)を店の片隅で始めたら、ある人の本は600冊。ある人の本は300冊も売れた程、好評ではあっても、「折半の売り上げは酒代に及ばず!」と笑い飛ばす彼。
10:32:00 - johnny -

2022-04-04

幸遊記NO.147 「津田龍一のブルーエース」2013.10.28.盛岡タイムス


 1952(昭和27)年から続いている「LYON」というピアノ・バーが横浜にある。現在の店主・4代目の津田龍一さん(72)が、突然「開運橋のジョニー」に現れ、ビックリしたが、実は前日、僕も女房と休み中の「リヨン」に行って来たばかりで、メチャうれし!と抱き合った。ピアノも弾いてくれた。
 2011年「横浜(ハマ)のブルース」がカラオケに。かつては「渡辺プロダクション」や、その親が経営した「マナセプロ」専属だった龍さん。1973年、麻薬問題で入国出来ず急遽中止になった、あの超有名バンド「ローリング・ストーンズ」の初来日公演の日、前座を演るはずの、日本のバンドは、何を隠そう当時人気上昇中の「津田龍一とブルー・エース」だった。そのバンドは、1968年、小畑ミキ「恋のシーサイド」をヒットさせ、テレビのエレキトーナメントや日テレ音楽院の初代講師を務めたり、シャボン玉ホリディ。ヒットパレード。スター誕生。等々に深く関わってきた彼。しかし、テレビ歌伴のオーケストラ・アレンジを、一日10曲などと殺人的に仕事をこなしてた時、突然土砂降りの雨の如く目に異状。医師から中心性網膜炎と診断され絶望、楽譜読み書きを断念せざるをえなく、芸能界から蒸発。42才の時だった。
 ウエスタンカーニバル、芸術座、ACB、ドレミ、新世界、モンテカルロ、クラウン、梅田コマ劇場や、地方公会堂、等々様々、エレキから、ムードコーラス、ラテンロック、ジャズ、など自分のバンドでの演奏ツアーが、走馬灯の様に浮かんでは消える20年間の音楽ブランクは、彼にとってはどん底だった。
 楽に死ねる方法を考えながら、酒に溺れ、街をふらついていたある日、ライブハウスから聴こえてきたピアノで、ハタ!と心の目を覚まし、音楽の道へ復帰。すると彼の音を聴いた人が彼に「リヨン」をプレゼントした。そんなことから彼は「団塊の世代を癒したい」と、2009年「ひき潮」というCDを制作発売した。
 彼の祖父・三右衛門は台湾移民治安維持のボス。両親ともに台湾生まれ。そのことから彼・津田龍一(本名・竹津忠則)さんも台湾で1940年に生まれた。7才の時に九州に引き揚げ、高校を中退して上京し、プロデビュー。
10:31:00 - johnny -

2022-04-03

幸遊記NO.146 「ちぐさ賞の受賞・金本麻里」2013.10.21.盛岡タイムス


 横浜市中区野毛町の桜木町駅近くに、現存する日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」。店主だった故・吉田衛さんが20才の時(1933年)に開店。戦時中の大空襲で店舗と6.000枚のレコードを焼失。しかし兵役を終えて帰った33才の彼氏に、多数の人達がレコードを提供して、店を再開させたハマ人達の心意気。
 1950年代、若き日の穐吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正らが、吉田氏を「おやじさん」と親って勉強しに通ったその店は、2007年土地開発で移転を余儀なくされ閉店。だが「ちぐさ」を愛してきた人々が、その後「ちぐさ会」を立ち上げ、昨2012年、1階をジャズ喫茶、2階を吉田衛記念館とする昔風の「ちぐさ」を野毛町に開店させたのです。
 更には、多くの日本人ミュージシャンを育て支援し続けてきた吉田さんの遺志を継ぎ、今年「ちぐさ開業80周年」「吉田衛生誕100周年」を記念し、ジャズの専門レーベル「ちぐさレコード」を創設。更には優秀な新人を発掘、表彰する「ちぐさ賞」を制定した。かつて「横浜文化賞」を受賞していた吉田氏が亡くなった翌年(1995)、あの穐吉敏子さんに「ちぐさ賞」を贈った経緯。
 そしてあらたに、この2013年・第一回「ちぐさ賞」の発表!なんと!!盛岡を中心に活躍中のジャズヴォーカリスト・金本麻里さん(34)が受賞者に!。2006年に活動開始以来、僕の店「開運橋のジョニー」を拠点に唄い続け、そのジャズの基本に忠実に、透明な歌声で、スタンダードを素直に歌い上げる歌唱力が評価された。(ちぐさ賞委員会・瀬川昌久委員長“ジャズ評論家”)。副賞でレコード化される。
 このニュースが共同通信社より全国のマスコミに配信された翌日(10月12日)には、日本ジャズピアノ界の巨匠、今田勝のトリオ(古野光昭ベース・田鹿雅裕ドラム)をバックに、横浜ジャズプロムナードのNHK横浜放送局オープンステージに出演。50分間の生放送。関係者達大興奮。終演後ご年配のかたが「若い人なのに、私はまるで母の胸に抱かれて子守唄を聴いて居る様な心地だった」とインタビューに応えていた。そして今日(10月18日)金本麻里さんは、障害者施設で働くヴォーカリストとして産経新聞第二面で「きょうの人」となったのです。
10:30:00 - johnny -

2022-04-02

幸遊記NO.145 「平川真作のアコーディオン流し」2013.10.14.盛岡タイムス


 あれは丁度1年前の2012年10月20日、美智子皇后様の誕生日に行われたジャズマスター・穐吉敏子さんの東京・オペラシティ・コンサートを盛岡から聴きに行くツアーを企画し、僕のジャズ講座生たちと新宿のホテルに泊った日の翌朝、僕は中古レコードを探しに出かけた。だが店はまだ開いておらず、とっさに頭に浮かんだのは、そうだ!あの「ゴールデン街」。朝はどんな姿をしているのだろう?と行って見ることにした。(新宿ゴールデン街は、盛岡で言えば桜山神社前の飲食店街みたいな所)。
 アーチになっている“ゴールデン街”の看板をくぐろうとした時、ふと瞼に浮かんだのは、平川真作さんという流しのアコーディオン弾きの姿だった。あれはもう25年前、昭和が終る直前の真冬。ゴールデン街にある「シムラレン」というジャズの店に行こうとして、平川さんの立ち姿に、僕が立ち往生。「外で演ってもらえますか?」と言うと「お兄さんにお似合いのタンゴでも演りましょうか」と弾いてくれた。
 話を聞けば、彼は昭和9年愛知の生まれ、上京して30年ということだった。「家が貧乏で、小学2年までしか学校に行けなかった。でも家の近所に凄いアオーディオン弾きが居たので、流れてくる音楽を聞いて、ハーモニカを吹き、字ぐらいは書ける様にと一生懸命勉強し、楽譜の読み方から弾き方まで教えてもらった」のだと。
 「大人になっても童謡かくせず」は僕のダジャレだが、平川さんは、童謡みたいな曲が好きで、自分でも作詞作曲した「しの竹子守唄」「いなご子守唄」「モグラの唄」なんてのもあるよと、言って笑った顔が素敵だった。
 当時ですら、新宿のアコーディオン流しは彼1人になってしまった様子を語りながら、少し淋しそうでもあったが、「野球の長嶋茂雄さんは、僕の演奏だと、いつもよく歌い、しかも上手なのだ!」と、誇らしげに話した彼は、今も元気だろうか?
 新宿ゴールデン街は、店1軒1軒の佇まいが、実にアートで、その朝日があたるハーモニカの様な長屋の店の殆んどを、僕は写真に収めてみた。それはまさに、絵画や彫刻、インスタレーションを見てるような芸術性に満ち溢れていた。
10:29:00 - johnny -

2022-04-01

幸遊記NO.144 「小曽根真のメイケッツ・ハプン」2013.10.7.盛岡タイムス

 天才的な日本人ジャズピアニスト現る!みたいに、テレビで映され、ニューヨークのカーネギーホールでピアノを弾く小曽根真さんがクローズアップされたのは1983年9月、米音大卒直後の事。日本人で初めて米CBSと専属契約を結び、ゲイリー・バートン(ヴァイブ奏者)のプロデュースにより、デビュー作「OZONE」を発表(日本では翌84年6月発売)されて好スタートを切った彼。
 ジャズピアニストの父、宝塚出身の母との間に神戸で1961年(昭和38)3月25日に生まれ、子供の頃にハモンドオルガンを習った。11才(小6)の時来日した、オルガニスト・ジミー・スミスのコンサートを父と聴きに行き、ジミーと知り合いだった父と楽屋を訪ね、そこにあったピアノでジミーの曲「ザ・キャット」を弾いたら、ジミーが連弾で伴奏。「Fのブルース」では、ケニー・バレルがギターで加わり、イリノイ・ジャケーがテナーサックス、アート・ファーマーがトランペットで加わりジャムセッションになっちゃった!の。と僕に語ってくれたのは、それから20年後の1991年のことだった。(超凄初体験談)
 その後イリノイは、父にこの子をアメリカに行かせろと言ったという。その、翌年、オスカー・ピーターソンのピアノに魅了され、高校を卒業するとバーグリー音大に留学。フェア。グッド。ベリーグッド。エクセレント。の4段階に振り分けられる聴音テストで唯一人完答して、トップクラスで作編曲を学んだ。卒業後、ジャズピアニストとなった彼だが、本当は穐吉敏子のビックバンドを聴いて憧れ、ビックバンドの作編曲家になりたかったのだとも。
 入学して直ぐの頃、イリノイがボストンのジャズクラブに出演した時、聴きに行き「あの時あなたがアメリカで勉強せい!と言ったから、今来て勉強している」と言ったら、次のステージに1曲登場させてくれて、来週はニューヨークの名門ジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」に来いと言われ、そこでも演奏させてもらい、感激!。「だが、学校では誰も信じてくれなかった」と言う。ジャズは即興でどれだけいい音楽を作ってゆくかってことが「メイケッツ・ハプン」だから、何かを起こしてゆく、何かをハプニングさせるってのが僕はジャズだと思う」と言った彼は今もそう生きている。
10:28:00 - johnny -
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