盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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Mari's Night 金本麻里(vo)&高橋秀(p)[03/18]

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レポート

2022-03-31

幸遊記NO.143 「村田浩のBOP・BAND」2013.9.30.盛岡タイムス

 日本で唯一人とも言える“レギュラーの5人編成による、ハード・バップバンドを率い続けること38年の大ベテラン、ジャズトランペッター・村田浩さん(70)が、昨年に続き、今年(2013)も又、開運橋のジョニーに出演し、心が静かに沸き立つ熱演を繰り広げてくれた。
 彼がその「BOP・BAND」を結成したのは1975年。そう、僕がジョニーを陸前高田に開店した年であることから、彼の存在は勿論、レコードもよく聴いていたのだが不思議にも、何故か最近まで縁が無かった。
 出会ったのは2006年8月6日のBE・BEPPU・JAZZ・INN。かつて僕は、デューク・エリントンの「C・JAM・BLUES」という曲をもじって「SEA・JAM・BLUE」とし、店のキャッチフレーズにしていたことがあったけれど、大分県別府市のジャズファンたちは、ジャズスタイルの「BE・BOP」を「BE・BEEPU」とシャレて、ジャズ祭をやっていたのだった。
 ジャズは時代と共に、社会背景を取り込みながら、常に変化し生き続けているのだが、トランペッターのディジー・ガレスピー(1917年10月21日~1993年1月6日)等に始まった、モダンジャズの原点ともいえるビーバップスタイルを変えることなく、極め尽くすかののごとく追求してきた信念の人・村田浩。彼は1943(昭和18)年6月20日、横浜に生まれたが、父はその2ヶ月後に亡くなってしまい、母は駄菓子屋を開いて、彼を大学(日大商学部)まで通わせたのだ。小学5、6年の頃、映画でラッパを吹く真っ黒い人(ルイアーム・ストロング)に憧れ、高校、大学と吹奏楽でトランペットを吹き、サラリーマンを1年経験後の1967年プロデビュー。
 1992年発売のアルバム「THE・BLUES・WALK」は世界的なヒットを見せたが、彼は決しておごることなく「喜んで貰えるかという意識。夢を売るのではなく、夢を買って貰う様な、スムースな演奏が出来て嬉しかったと思えること」。「僕のバンドは僕よりもいいメンバーに恵まれて幸せ」なのだとも。「ジャズはたいがいカバー曲の演奏だが、中味は演奏者それぞれによって、全然違うオリジナルみたいなものだから自分の曲を書く気持にはならなかった。だから、作曲はたった4曲だけ」と恥ずかしそうに笑うのだった。
11:51:00 - johnny -

2022-03-30

幸遊記NO.142 「澤口良司のドラマーな人生」2013.9.23.盛岡タイムス

 僕が盛岡に来て、最初に気に入ったドラマーが澤口良司さんだった。あれは2002年の春のこと。TAKESやSOUND8でのプレイを聴いて、何でも叩ける人という印象から、オルガン奏者・鈴木清勝さんが東京からやって来るという時、ドラマーを探してると言うので澤口さんを推薦した。以後彼は藤原建夫トリオのレギュラーを務めながら、自己のトリオでの唄伴も随分とやってくれている。
 4月から10月までの第二日曜午後に、2010年から始めた「盛岡大通・ビック・ストリート・ジャズライブ」も3年で20回。そして今年2013年8月はビック・ストリート・ジャズフェスティバルと4年間毎回文句の一つも言わず、只ひたすら汗を流しながら楽器や機材を車で運んでくれて、勿論後片付けもし、ストリートライブを支え続けてくれた事に、僕は感謝しても、しても、しきれない位なのだ。彼が居なかったら、とても続けられなかった。
 それなのに、冬には茶餅。春になれば山菜を。夏には岩魚。秋にはきのこ。などなどを自分で採って直ぐ料理出来る状態にまでして、店に度々持って来ることすでに10年。新鮮この上ない天然物を居ながらにして食べさせて頂ける幸せ。
 澤口良司さん(64)は松尾村(現・八幡平市)に昭和24年4月22日、農家の長男として生まれた。盛岡農業高校と畜産講習所を卒業し、家畜の人工授精師の資格を持つ人だが、ビートルズが来日した時にTVを見て以来、バンドをやれば女の子にもてると思い、親に頼み込んで買って貰ったのがドラム。エレキバンド全盛時テレビの演奏を見ながら、ドラムを練習したから、右利きなのにドラムだけは左利きになったと笑う。
 高校時代から他高生とバンドを作り、オリジナル曲をやり遠征もした。学卒後は、昼は農業、夜はドラムを叩く2重生活を15年も続けたと言う。そんな生活の足を洗い、ふとん店に勤めることすでに30年。だがドラムだけは止められず、アマチュアとして楽しんでいる今も、勉強熱心。そういえば、小学校の先生になった彼の一人娘・志穂さんが、初めて演奏を聴いたという2003年「お父さんって、かっこいい!」と涙ぐんだ日の美しい光景が目に浮かぶ。
11:50:00 - johnny -

2022-03-29

幸遊記NO.141 「20年~30年振りの再会」2013.9.16.盛岡タイムス

 陸前高田で音楽喫茶。ジャズ喫茶。日本ジャズ専門店。ジャズクラブ。などと冠を変えながら「ジョニー」という名の店を自分が経営していた1975~2000年までの25年間を、時折、振り返えさせられる人、人、人が現在の盛岡・開運橋のジョニーまでやって来る。
 大船渡から時折、幼稚園や小学生の頃に父親に連れられて店に来ていた、可愛い坊やが大学時代に父と又来て、今度は盛岡に就職したと言って、一人でジョニーに来てくれた新川君。
 高校、大学時代に店に通い、今、仙台太白区でクリニックを開業していると言う、陸前高田出身の内科医、熊谷裕司君が、先日は自分の娘さんを連れて店に来てくれた。
 汽車(ディーゼルカー)通学で大船渡から高田高校へ通って来る生徒の中には、時折学校に行かず、授業が終る時間まで「ジョニー」に入り浸っていたり、学校帰りに寄る生徒たちが少なからず居た。その中の一人だった前田哲也君も先日ひょっこりやって来て名刺を見せられたら東北銀行・大通支店長の肩書き。
 店は最初、陸前高田の荒町というところにあった小さな店だったが、どうしても表通りで店を開きたいと2年余りの後、駅前通り突き当りT字路の大町商店街の入口に、ジャズ喫茶(日本ジャズ専門店)の大きな看板を掲げた。すると今度は、学校帰りの小学生たちが、店のドアから覗き見する様になり、ドアを開けると、ワーッと逃げてた子たちが、いつの間にか堂々と、表のドアから入って店内を眺め、裏口から出て行く通学路と化した。のどの渇いた子に水をあげたり、時折ジュースを振舞ったりもした。ところが最近、「その小学生の一人が僕でした」と、開運橋のジョニーに宇都宮から現れた畠山綾希くん。
 「僕が小学生の時?もしかすると千厩中学の頃だったか、ジョニーさんが学校で講演した時、ヒゲをはやしたら皆にヒゲされる様になったと言ったのを、今ようやく理解出来る様になりました」と言って来た、青森朝日テレビのカメラマン・伊藤耐治郎君。
 「昔、私の母が陸前高田に来た穐吉敏子さんのコンサートを聴きに行っていたので、今度、10月30日盛岡に来る穐吉さんのコンサートを聴きたい」と予約してくれた陸前高田出身、遠山病院の管理栄養士・志田さん。時の流れのありがたさを感じる今日この頃です。
11:49:00 - johnny -

2022-03-28

幸遊記NO.140 「佐藤靖の国際ニュース」2013.9.10.盛岡タイムス

 47才の誕生日前日(1994年4月19日)僕は、それまでの20年間、陸前高田での500回余りのコンサート主催にピリオドを打った。その最終回となった無料コンサートに出演してくれたのは、1980年に僕のレコードレーベル、ジョニーズ・ディスクからデビューし大活躍中のドラマー「バイソン片山」さんだった。
 そのことを、全国ニュース、更に国際ニュースとしたのは、朝日新聞大船渡支局に同年4月に赴任したばかりの東京出身の佐藤靖さん(当時30)だった。次に彼が報じたのは同年10月21日付「ジャズの友情演奏」。ニューヨーク在住のピアニスト・穐吉敏子さん(当時64)が、ライブ活動で赤字を抱えた僕を応援する為に陸前高田ジョニーにやって来て、「ご奉仕です」と言って演奏し、出演料の40万円を僕にプレゼントした記事。これまた国際ニュースとなって、記事を読んだというカリフォルニアのFM局から夜中に(向こうは昼)、放送したいと電話が来てビックリしたものだった。
 先日、ひょっこり「陸前高田に行って来た帰りです」と開運橋のジョニーに寄ってくれた佐藤靖さん(49)。「そういえばあの時、僕はそのことで深夜に照井さんから電話で起こされたっけ」と昔を懐かしんだ。その時彼は入社10年目。浦和、大船渡、佐渡、会津若松、函館、熊谷、現在は塩釜、支局長として歩んで来て、移動の度に葉書をくれ、時折、店にも来てくれた。
「変わり者が居た大船渡時代が一番好き。食べ物もおいしかった。親しくしてた陸前高田の写真屋「和光堂」菅野有恒店主(2011・3・11の津波で亡くなった)から、毎年届いていた家族写真の年賀状を息子さんに渡そうと思って来た」とのことだった。
 彼、佐藤靖さんの大船渡への転勤が発表されたのは、今NHKTVの朝ドラ“あまちゃん”に登場する三陸鉄道の車両が風で吹き飛ばされた日。彼が当時ジョニーに飲みに来るのは、「大船渡線上り最終列車、陸前高田駅19時30分着。店に向う駅前通りの道の上に寝転んでみたことがあったほど、車さえ通らない陸前高田だったな」と彼。
11:47:00 - johnny -

2022-03-27

幸遊記NO.139 「大給桜子の女子ジャズ」2013.9.2.盛岡タイムス

 ジャズピアニスト故・大給桜子さんの生演奏を初めて聴いたのは1985年1月、所は六本木“ボディ&ソウル”。所用で丁度上京した日の夜に出演するのを情報誌で見て演奏を聴きに行った。演奏はレコードの何倍も素晴らしく、感動したことを、今でも彼女のレコードを聴く度に思い出す。以来僕は幾度となく彼女のコンサートやらライブを企画し、陸前高田や盛岡に来て貰ったものでした。その最大のステージは、穐吉敏子ジャズオーケストラがトリを務めた時の日本ジャズ祭(1989年・陸前高田)。
 1949(昭和24年)12月25日それこそ新潟の高田(上越市)生まれ。父が大学の音楽教授だったことから小さい時からピアノを習っていたが、ピアノが嫌いな子だった。それがどうしてジャズピアニストになったのかといえば、高校を中退し20才過ぎてもまだ目標定まらずにいた時、上京して聴いたジャズの生演奏がきっかけだった。
 「以来、様々なことを解決してゆくその積み重ね。ジャズを演奏するってことは最低でも同時に四つのこと、譜面やテーマを確実にやれて、その中で個性を出し、凄く大切なリズムや、アドリブという即興をやっていかなければならないから大変なの」と話してくれたのは1987年の夏。
 当時「東京でも純粋に演奏がやれて聴かせられる店は、“ピットイン”“アケタの店”位しかなく、殆んどの店はそうじゃないから、地方の方が仕事に行くって感じ。行く方も迎える方も力がこもっているから朝から違う感じ。ステージって演奏する側と聴く側で創って行くものだから」と、地方の聴きたい僕らの気持も汲んでいた。
 「自分を空しくして誠実に」をモットーとした大給桜子さん(1949~97)に当時女性演奏家の少なさを尋ねたら「余裕のなさ。ヒステリック。小さくまとまる。乱れる。共演者の気持が解かんなかったりとかがモロに出る演奏をしちゃうから」と自戒を込めて言ったことが思い出される。あれから4半世紀。大先輩、穐吉敏子さん(今年84)は67年も前の最初からその欠点を克服していたパイオニア。今、世界のジャズシーンは女子ジャズブームである。
11:46:00 - johnny -

2022-03-26

幸遊記NO.138 「谷内誠のオーガニックな実践」2013.8.26.盛岡タイムス

 岩手で初めての開催となる“オーガニックフェスタinいわて”が2013年8月31日(土)、9月1日(日)、紫波中央駅前のオガールプラザで行われる。「食べること、暮らすこと、もっと大事にしたいから」と有機農法で作られた安心安全な農作物や、オーガニックな食材で作られた加工品。更には住まいと省エネを学ぶオーガニックライフの紹介。プラス心のオーガニックとも言うべき音楽イベントまで提供するのは、まさに岩手ならではのこと。
 主催の中心になっている人物は、オーガニック建築設計を手がける、谷内誠さん(62)。彼は開運橋のジョニーにやって来る度、あちらこちらのパンを手土産に持って来る。いつぞや“麦”というパン屋の大好物クリームパンを持ってきてからは、僕は秘そかに彼を無二の親友ならぬ“麦のポン(パン)ユウ”と言う事に決めた。
 彼の言う、住の隅々(炭)までの心遣い。天然素材を生かした住環境作りへのこだわりには頭が下がる。昭和26年盛岡に生まれ、盛岡工業高校から工学院大学建築学科(夜学)へ、働きながら通った。その学生時代に京都出身の同級生から教わった“ジャズ”にハマリ、彼と共に京都のジャズ喫茶を巡り歩いた時、そのアンダーグラウンドな世界で経験したアンニュイ(倦怠感)は、まさに癒しの様なエクスタシーそのものだった。
 以来「人間の体にダメージを与えない、真実,本物、自由な発想による、マクロビオテックな生活へとシフトを変え、平和な今日、弱い生き物を食べることは、人間のとるべき道ではないと思うようになり、草食男子となったら、体調もすこぶる良い」と言う。
 ある時、ジャズ喫茶で考えたこと「そうだ!昔は全てが一体だった!今は分離的な考え方が進んだために、様々な歪みが出て、住いまでが病の元になってしまっている。それを戻すのには、やはり自分も革命を起こすことから始めなくてはならない!気付かせてくれたのがジャズ。そう!ジャズは音楽の革命だった」。オーガニックの世界もシェアは0.2~3%。だからこそ彼は、自らの革命論を実践すべく行動を開始した「誠」の話!。
11:45:00 - johnny -

2022-03-25

幸遊記NO.137 「増田玄洋の全国ジャズ喫茶行脚」2013.8.19.盛岡タイムス

 「ギター弾きの恋」という映画(ウディ・アレン監督・1999年・アメリカ)を観てジャズに興味を持ち、そのサントラ盤CDを買って聴き、その中の「オール・オブ・ミー」が好きになった。そのことから同曲が入った「ジミー・スコット」の東京ライブ盤CDを買い求めたら、曲のイントロ(前奏)でのサックスとピアノに衝撃を受けてしまった。それが始まりでした。と増田玄洋さん(29)。
 地元神戸の店「JB-5」へ行ったら「昔はジャズ批評社から出た“ジャズ日本列島”という本を持って、若者達がよく全国ジャズ喫茶めぐりをしたもの」と聞かされ「自分も30才までに納得出来ることをしたい!」と、ジャズ喫茶全盛時代の1960~70年から数十年経た現在、そのジャズ店の有り方を見聞して見よう!と思い立ち、2011年12月から、会社の休日を利用しての全国行脚。すでに38都道府県250店以上の店を訪ね歩いて来たと彼。
 今回は神戸の店で知り合った先輩の佐藤裕志さん(32)と一緒に、北海道を車で6日間27店を回って来た帰りだと言う。開運橋のジョニー新店舗の様子や、僕達が元気にしているかを見届けに再来してくれた様子で、遂々朝方まで話がはずんだ。
 聞けば「やめようかと考えている店も沢山あって、でも本当にジャズが好きだから頑張ってやっている。そのことに、意気を感じて応援する人、支え続ける人がどの位、その街に居るか居ないかの違いだけ。店主はある意味、皆変人。ガンコでおこりっぽく、そのくせ優しい。その人間的な魅力にひかれる。店(主人)はファンの代表。ジャズを発信するヒーローだと思う」と、キッパリ!
 増田玄洋(げんよう)1984(昭和59年)3月4日、神戸生まれ。父は弘前出身。祖父は漢方薬の大家だった元養(げんよう)氏だったことから“ゲン”を担いで付けられた名前。兵庫県立工業高校を卒業して、JR西日本の保線会社に勤めながらの、ジャズ喫茶見聞。「今、ジャズの店は夢を持つのが難しい時代。だからこそ“あこがれ”があり、それが大事なのだ」と。自分の「夢」の実現に向ってジャズロードをひた走っている。
11:44:00 - johnny -

2022-03-24

幸遊記NO.136 「須藤宏明の東北近代文学事典」2013.8.13.盛岡タイムス

 東北近代文学事典という、840ページにも及ぶ、B5判の分厚い本を抱えて、10人程の若者達と共に開運橋のジョニーへ現れ、「この本の“て”の欄を開いて見て!」と、我が女房・小春に言ったのは、昔の文士着物姿の須藤宏明さんだった。
 本を開いてビックリした小春は「ジョニー!大変だよ!寺山修司さんと同じページに、照井顕が載ってるよ。しかも次のページは土井晩翠だよ」と興奮しきっている様子。「えっ!」と僕。考えるまでもなく、単なるアイウエオ順だから、たまたま並んだだけなのだが、大変なことだと気付き、落ち着かない。
 それにしても、ジャズや音楽関係本とかならあっても?だが、何故僕が文学事典に??、、、。読んでみると「ジャズ喫茶店主。音楽プロデューサー。執筆者」とある。僕と店の楽歴(秋吉敏子ジャズオーケストラをはじめとする多数のコンサート活動)。レコード制作。特に、この事典にも載っている詩人・村上昭夫(1927~1968)の詩集「動物哀歌」の作品に“くつわだたかし”さんと共に曲をつけて歌ったCDについて「照井らの解釈による曲、声音によって村上昭夫の詩に、あらたな境地を切り開いている。」とある。
 又、以前、たった一作だけ書いた小説・幻想の縄文ジャズ物語「瑠璃色の夜明け」(1996年)について「自身の経験も取り入れたと思われる生き生きとした描写と、ユーモアをちりばめた軽妙な筆致が注目される」とあり、どうやらこれらが“当選”理由のようである。(筆者は佐藤大裕氏)
 岩手出身者では、啄木、賢治、昭夫、をはじめ金田一京介、野村胡堂(あらえびす)、巽聖歌、新渡戸稲造、森荘己池、須知徳平、三好京三、中津文彦,藤井逸郎、深沢紅子、西塔幸子、沢野起美子、大西民子、宮静枝さん等故人。現役では、高橋爾郎、高橋克彦、斉藤純、松田十刻、澤口たまみさん等が目に止まる。
 編集者名を見ると東北6県の大学教授たち6名。岩手は県立大学教授の松本博明氏。プラス日本現代詩歌文学館学芸員。そして編集者代表者には何と須藤宏明(盛岡大学教授)の名。執筆者数234人が5年の歳月をかけて出来上がった大文学事典(勉誠出版刊)15750円である。
11:43:00 - johnny -

2022-03-23

幸遊記NO.135 「松原みきのJAZZY・NIGHT」2013.8.5.盛岡タイムス

 ポップス歌手の松原みきさんが、ジャズ曲を唄ってリリースしたアルバム「ブルー・アイズ」(1984年発売)を聴いて、ジャズ歌手とは違う歌い方に興味を持ち、彼女のステージを聴きに行ったホテルにて、終演後の彼女と直接話が出来たのは1987年の夏のこと。
 話の中で僕が、高田松原海水浴場の松の木話を持ち出して「松原の松は、あなたみたいに、本当に幹が美しいのですよ!」と言ったら、「ワーッ!うれしい今の言葉、必ず残して下さい」と物凄く喜んだ。3・11で消えた松原に残った一本松が話題にのぼる度に、松原みきさんの顔とことばが、僕の頭の中に浮かんで来る。
 そういえば、最近彼女の名を聞かないなと思いながら、久し振りに彼女のシングル盤「JAZZY・NIGHT」を引っ張り出して聴いてみたら、彼女の今が気になって、パソコン見ると、2004年10月7日、子宮頸がんのために44才で亡くなっていた。いきなりのショック!僕の頭の中で梵鐘の音がした。
 彼女は1959年11月28日、岸和田生まれ、3才からピアノ、中学でロック。プール学院高校時代にはキーボード奏者として京都のライブハウスに出演。1977年、プロになるため上京し、文化女子大学付属杉並高校へ転校。「高校の時、東京の“バードランド”で友人に紹介されたのがジャズピアニストの世良譲さん(1932~2004)だった。その時、対応の声が気に入ったとスカウトされ、周りの人達がプロダクションやレコード会社に紹介し、あれよあれよという間に全てのお膳立てが出来て仕上がったのがデビュー曲“真夜中のドア”(1979年11月発売)でした」と彼女は言った。
 そのデビュー曲は何と30万枚を超える大ヒットを記録し、様々な賞に輝いた。彼女の母もとこさんは、スマイリー小原とスカイライナーズの専属歌手だったと言った。「私も歌は言葉が全てだと思いますから、伝えようとする心が大切なので聴いてくれた人の中に“一言でも残ってくれたらなぁ”というのが人十倍も強いので唄い続けて行きたい」と僕に話してくれたのだった。がんと知りレコードや楽譜を全て燃やし音楽に一切触れることをやめていたらしい。生きることに専念するために。
11:42:00 - johnny -

2022-03-22

幸遊記NO.134 「ジョージ川口のビッグフォー」2013.7.29.盛岡タイムス

 日本最大のドラマーとしてその名を欲しいままに人生を送った「ジョージ川口」さん(1927~2003)。ジョージ川口といえば「ビッグフォー」。1952年、「ゲイ・セプテット」を退団した彼と、ベースの小野満。それに「渡辺晋とシックスジョーズ」に居たテナーサックスの松本英彦と、ピアノの中村八大が合流して出来たコンサート専門のバンド。名付けたのは、リーダー兼、ドラマーのジョージ川口(当時25才)。バンドは結成時から売れに売れ、爆発的、熱狂的に連日連夜、日に10回もステージに立ち、女性ファンに追いかけられ、芸者衆からお座敷が掛かる程の超人気。以来幾多のメンバーチェンジを繰り返しながら、不屈の精神で最高水準のバンドを最後まで保ち続けた彼・ジョージ川口。
 彼の父は日本ジャズの草分けサックス奏者・川口養之助(1896~1952)。「海外へ出てプレイしたのも、アメリカの船や、上海で演奏したのも第一号じゃないかな」と彼が僕に語ってくれた時の誇らしげな笑顔が今も浮かぶ。
本名・川口譲治。京都生まれ。6才からの14年間を父が居た大連で過し、ピアノやヴォイオリンを習い学校ではラッパとサックスと小太鼓など一通りの楽器を演奏したという。しかし戦争中は欧米音楽が禁止されたので飛行学校へ行って短波放送から流れるジャズを「カッコイイナー、凄えなー」と聴いたのだと。
 戦後大連でドラムを叩き始め、日本に引き揚げ、ジャズ界にデビュー。一般的には、豪放でエキサイティングなドラマーとしての定評。本当はデリケートで叙情的なプレイも好んだ様だが、ファンの期待に応える演奏をし続けた。彼の息子・雷二もジャズドラマー。
「何でも、その道の超一流になればよい。それは自分の努力。答えは簡単!努力の仕方だよ。本当の芸術家って世界にほとんど居ない。皆商売人になっているからね。僕に関して言えばプロに徹しているってことだね。皆にも厳しい。いい加減なプレイは許さない。どんな場所でも、たとえ客が居なくても、目一杯行け!と、そうじゃなかったら、プロとして失格だからね」そう語ってくれたのは、僕が、ミュージシャンを目差す若者へのアドヴァイスをお願いした時のこと。平成元年。第一回全国太鼓フェスティバルで和太鼓奏者の小口大八さん(1924~2008)と競演する日のことだった。
11:40:00 - johnny -

2022-03-21

幸遊記NO.133 「宮沢昭のジャズの魚たち」2013.7.22.盛岡タイムス

 音楽になる前のたった一音で、僕を魅了させ、ジャズを感じさせてくれた故・宮沢昭さん(1927年12月6日~2000年7月6日)は、日本のモダンジャズ胎動期の1950年代前半、伝説のピアニスト・故・守安祥太郎や穐吉敏子と邂逅し、白熱の演奏で日本のジャズ界を刺激し、成長させた、日本最高峰のサックス奏者。
 自ら作曲した曲には「山女魚」「岩魚」「虹鱒」「川鱒」「あゆ」「ブラックバス」「キャットフィッシュ」「キングサーモン」「シーホース」。はたまた「ブルーレイク」「ダンディフィッシャーマン」「フライキャスティング」など、魚の名前、釣り場、釣り人、釣りの仕掛けに至るものまで、その徹底したタイトル付けをしたジャズマンは、世界広しといえど、釣り好きの宮沢昭唯一人であった。
 「演奏も、そのイメージ、たとえば、山女魚はスリリングですばしっこく。岩魚は神秘的に、鮎は優雅に。キャットフィッシュ(なまず)はおとぼけと、そういう風に!」と、僕にわかり易く語ってくれたのは1987年。
 彼は1950~60年代に日本ジャズ界を牽引し、70年のアルバム「木曾」を発表後は、歌手・越路吹雪(1924~1980)の伴奏に徹した。80年代はジャズ界に復帰し「マイピッコロ」「グリーンドルフィン」「ラウンド・ミッドナイト」などのアルバムを次々と発表、その度に、SJジャズディスク大賞・日本ジャズ賞を受賞した凄腕だが、とてもあたたかく優しい人でした。
 長野県松本市に生まれ「中学卒業後に陸軍戸山学校の軍楽隊で音楽を勉強、同級生に、作曲家の故・団伊玖磨・芥川也寸志等がいた。終戦後上京し銀座のクラブでアルトサックスを吹いたが、楽器を盗まれ、仕方なく友人から中古のテナーサックスを譲ってもらい、テナーマンになった」と言う。
 「ジャズは常にチャレンジ。つまり即興ということでは世界選手権と同じ真剣勝負。ジャズの中に日本人を表すこと、その土地、土地の性を出す。それが世界に通用するってことです。ハングリーは仕方がない。しかし“心のゆとり”はある」そう言って、幾度となく日本ジャズの街だった陸前高田に来て演奏してくれたものでした。
11:39:00 - johnny -

2022-03-20

幸遊記NO.132 「富樫雅彦のスピリチュアル」2013.7.15.盛岡タイムス

 一切の妥協を拒絶し、独自の音楽世界を追求し続けた車椅子のパーカッショニスト・故・富樫雅彦さん(1940~2007)。彼が、スイングジャーナル誌のディスク大賞で「金賞」「日本ジャズ賞」「最優秀録音賞」の3部門を独占受賞したアルバム「スピリチュアル・ネイチャー」が話題になったのは、僕が陸前高田にて「音楽喫茶・ジョニー」を開いた1975年のこと。そのLPは、聴く度に精神の高揚(昂揚)と清々しさを感じさせてくれる、崇高な作品。
 「1940年(昭和15)東京に生まれ、6才からヴァイオリンを習った。SP盤で、JATPやショーティロジャースを聞いてジャズを演りたくなり、小学6年でジャズメンになる!と決めた。奥田宗宏さんに弟子入りし中学2年からビックバンドやダンスバンドで働き、15才の時には、松岡直也のバンドで月給を貰ったのがプロの始まり。だから学歴は中学までだよね」。そう僕に話してくれた彼。
世界的な天才ドラマーとして、日本ジャズの歴史的重要シーンの数々に登場し、共演者をも魅了させた彼・富樫雅彦が、突然の車椅子生活を余儀なくされたのは、1970年1月。それ以降「生まれた時からこんな体の者が打楽器を使うなら!」を考え、首と手を一緒に持ってゆくことで体を動かす方法や、打楽器の取付けを工夫し、世界最高のパーカッショニストに生まれ変わったのだ。
 「どんな時でも演奏は、只一生懸命!裸のままの自分を見てもらい、一瞬一瞬に最善を尽くしてゆく!それしかない。昨夜は感動的なコンサートだった」。そう彼が言ったのは、1988年4月16日、僕が主催し、数百人が聴いた、富樫雅彦カルテットの陸前高田市民会館での演奏会。
 そういえばあの富樫さんの演奏姿を撮った写真家・朝倉俊博さんの写真を、版画家の加地保夫さんがシルクスクリーンで刷り、富樫さん、朝倉さん、加地さん、そして僕の4人がサインした30部の作品。その残部があったはず!と最近思い出し、陸前高田の加地さんに電話をすると、何と津波は彼のアトリエの庭先で止まり、作品は無事!と、彼は残部を即贈ってくれたので、関係者に配り僕も額装し店に飾った。
11:38:00 - johnny -

2022-03-19

幸遊記NO.131 「中村寛昭の江戸ぺん屋」2013.7.8.盛岡タイムス

 昨2012年の9月「このジャズヴォーカリストを応援しているので聴いてみて下さい」。と開運橋のジョニーへ飯田久美子さんのCDを持参してくれた中村寛昭さん(67)は、その場で彼女に電話して僕と彼女をつないでもくれた。その時、一緒に「お土産です!」と手渡されたものは、彼が考案した「江戸ぺん」というボールペンだった。
 スケルトンのボールペン芯に、様々な柄の千代紙を巻いた、オシャレなペンで、見せると誰もが「ワー、キレイ!」と言う。ジャズ講座に通ってくる皆さんに配り、そのペンでそれぞれ名前を寄せ書きにし、それを中村さんに送ったら、再度、再三、再四に亘って「使って下さい」と、送ってくれたり、持参してくれたりで、随分お客様にプレゼントした。
 中村さんは昭和21年(1946)豊島区長崎の彫刻家・中村留雄氏の長男として生まれた。実の兄弟は5人だが、父が39才で亡くなる時、友人だった神田の日本美術工芸社の柳沢保基(やすもと)さんに、自分の妻子の面倒を頼んだという。頼まれた柳沢さんには2人の奥さんが居て、それぞれに7人、5人の子がいたから、しまいには17人兄弟になったのだと笑う。
 その柳沢さんは戦後の疎開先・平泉に「日本美術工芸社」を移し、神道を広めるためには、神社も布教活動をしなければならないと、お札や破魔矢、祭壇、神棚作りをやり、実用新案の神葬祭用のお墓の考案から、新しいものでは太陽系第3惑星國土大神の「地球神社」トラベルラッキーカード(世界旅行願意成就)なるもの等々。2006年に98才で亡くなるまでに100種を超える発案。昭和30~40年代は霊友会が作った日本一大きな弥勒菩薩像(10m)や釈迦像(13m)などを一本の木で彫らせた立役者、それを手伝った寛昭さん。
 工芸社を継いだのは寛昭さんの末弟・基文さん(53)。寛昭さんは、機械が好きで、練馬工業高校へと進み、現在は精密機械を使っての非平面の凸凹や球面体へのパッド印刷を手掛ける会社「キンテツスクリーン工業」の経営者。以前はクラシック現在はジャズ。5月に飯田さんと彼は、僕達と一緒にブルーノート東京で穐吉敏子ジャズオーケストラを聴いた。
11:35:00 - johnny -

2022-03-18

幸遊記NO.130 「村井洋介の響奏ドラムス」2013.7.1.盛岡タイムス

 岩手出身のジャズピアニスト・故・本田竹広(彦)のレコードデビューがジャズを好きになる決定的出会いとなった僕。以来今日までジャズを聴き続けてきた40数年の想いは、本田に続くプロのジャズミュージシャンが岩手から生まれ出てくれることだった。
 大槌から、臼沢茂(tp)のちに宮古から畠山芳幸(b)等が上京しプロ活動。僕は何よりも、その決断と実行に拍手を贈ったものでした。盛岡出身の村井洋介さん(51)もその一人。彼は世界的な名ドラマーだった故・小津昌彦さんの弟子で、彼のボーヤからの叩き上げドラマーであることからか、マーサ三宅、テリー水島、細川綾子、水森亜土、小美濃真弓、ドリーベイカー、フレディコール等、トップクラスの歌手たちからの絶対的信頼を受けながらも、新進やアマチュア歌手の果てまで、実践的歌伴に付き合い、それを録音し、アドヴァイスする、個人教授的存在でもある。
 時折盛岡に帰省し、僕の店でも演奏してくれる。毎年9月に開催している、紫波の「あづまね山麓オータムジャズ祭」にも何度か彼のグループにも出演して貰ってきた。そう!1989年、陸前高田で開いた第2回「日本ジャズ祭」(女性がリーダーの8グループ出演)に、ニューヨークからの「秋吉敏子・ジャズオーケストラ」の招聘元ロードマネージャーとして、来たことも鮮烈。
 彼、村井洋介さんは1962年3月11日生まれ、上の橋の盛岡正食普及会が実家。岩手高校を卒業、ソシュウ、セラヴィ、真珠苑でバンドマン生活を4年送ったのちの上京だった。「師匠のボーヤをやったお陰の人脈が今の僕を支えてくれている」のだと、今も師に感謝の日々。父・村井良和さん(79)、母・栄子さん(88)も共に正食で元気。
 夢は、いつ何処で演っても「来てくれたお客さん達に幸せになって帰ってもらうこと」。「演奏を聴いた人に“ありがとう”と言われる事はこの上ない喜びでもある」と言う村井さん。結婚3回、3度目の正直で、よくケンカをしてお互いの気持を響かせ奏で合うことで生まれた2人の子供だから、名前は響くん(10)と奏ちゃん(5)。結婚12年目である。
11:25:00 - johnny -

2022-03-17

幸遊記NO.129 「黒江俊のジョン・コルトレーン」2013.6.24.盛岡タイムス

 盛岡市若園町で1978年から歯科医院を開業しているソプラノ&テナーサックス奏者の黒江俊さん(65)が率いる「ジョン・コルトレーン・メモリアルバンド」が、コルトレーンの命日である7月17日に、ちょうど、もりげきライブ(毎月第三水曜日)にあたることから、久し振りに盛岡劇場でコンサートを開くと言う。
 黒江俊さんが、ジャズの巨人・ジョン・コルトレーン(1926~1967)の音楽に出会ったのは中学3年生の頃。彼自身も当時はブラスバンドで吹いていた。ハンククロフォード、ソニーロリンズ、に次ぐ3枚目に買ったLPレコードが運命的出会いとなった「アフリカ・ブラス」だった。
 高校入学時には念願のテナーサックスを親から買って貰い、コルトレーンそっくりに吹きたいと、毎日毎日練習したと言う。トレーンのスピード感、疾走感のカッコ良さにハマリにハマッて、大学に入った時には、当時まだほとんどだれも持っていなかったソプラノサックスをフランスから輸入。それとて、コルトレーンが吹いていたから欲しかったのだ。
 彼、黒江さんは産婦人科医の父・富雄と母・八重の長男として1948年(昭和23)3月14日、青森県弘前市に生まれ、弘前南高(同級生に、いなかっぺいさん)を卒業し岩手医大歯学部に入学。卒後医局に4年在籍後、気仙沼市と紫波町でそれぞれ1年づつ勤務医を経験し独立。
 音楽は当時父が持っていたレコードの全部を、小学生のときから電蓄で聴いて覚え、グレンミラーから江利チエミまで、その全てが彼の血となり肉となって、大学時代はクラブやダンスホールで週3回3ステージづつ舞台を掛け持つ、バイト三昧。
 60年代前半を引っ張ったコルトレーン。17回忌(1984)の頃にはトレーン派の連中も皆フュージョンになってしまった淋しさから彼は、コルトレーンの黄金期のスタイルを再現するバンドをつくった。翌年(1985)僕は、彼等に陸前高田で開催した真夏の「日本ジャズ祭」に、20年後の2005年には、開運橋のジョニーに出演してもらったのでした。メンバーは今も変わらず、鈴木牧子(p)下田耕平(b)戸塚孝徳(ds)黒江俊(ts)。JCメモリアルバンド結成からすでに29年、コルトレーンはまだまだ生きている!
11:24:00 - johnny -

2022-03-16

幸遊記NO.128 「藤原建夫のピアノフォルテ」2013.6.17.盛岡タイムス

 僕が、盛岡開運橋通りに「ジョニー」という生演奏を中心とする、ジャズスポットを開いた翌年の2002年6月、かつてのクラブやキャバレーで演奏していたミュージシャンたちが、ジョニーで再会し結成したバンド「サウンド8(オクターブ)」リーダーは、故人となったトランペッター・及川健さん。サウンド作りはアレンジャーでピアニストの藤原建夫さんだった。
 そのバンドを連れて、大船渡市の「ウェディングパレスまるしち」が主催した「ジャズライブ&ディナーショー」へ出演したのは同年の12月、自慢の創作料理に舌鼓を打ちながら「ストレイト・ノー・チェイサー」や「ソー・ナイス」などのジャズナンバーを聴き楽しむというもので、司会は僕だった。
 以降、藤原建夫さん(70)は、トリオや6~8人編成のバンド・スイングタイムで定期的にジョニーで演奏する様になり、十指に余る新人女性ヴォーカル育成のために、惜しみなく、時間を使ってくれたのだった。熊谷絵美、絵美夏、金本麻里。今、県内外に少しは知られる様になってきた彼女等も、皆ここから巣立った。
 藤原さんは満州(現・中国)北京に1942年8月九州出身の母・クミコ(当時30)と盛岡出身の父・忠(当時32)の長男として生まれ、日本領事館の武官だった父の沖縄への転勤で昭和20年(1945)年に引き揚げ、その後長崎を経て、盛岡へ。
 桜木小学校、下の橋中学校、盛岡農業高校普通科へと進み、高校時代に、キャバレー歌手からギターの手ほどきを受け、ベースも出来る様になり半年でマスターし、親に買って貰ったウットベースを担いで上京。3年程クラブバンドで演奏後、盛岡へ戻り、キャバレー・ソシュウやクラブ・五番館などで演奏し、再上京、再帰郷と3年ごとに繰り返し、30才でピアノへ転向。ピアノは演奏する上での音楽理論を勉強するために始めたはずが、すっかりその奥深さにはまり、独学5年。
 その後は盛岡のクラブ女王蜂、セラヴィ、ダンヒル、キャバレー・ミス東京などでバンドマン生活をし、40才で自分の店「エルラパン」を開店、ピアノを弾き続けた。のち転職し10数年経ってもピアノからは離れられずにいた時、ジョニーが盛岡に来たのでした。どんと晴れ!
11:22:00 - johnny -

2022-03-15

幸遊記NO.127 「盛岡市立病院のその子」2013.6.11.盛岡タイムス

 誕生日を迎えた日の朝だった。シャワーを浴び、体を拭いていた時、下腹部右側がはれていることに気がつき、そのまま裸で女房の前に立って見せたら「あら!りっぱにふくらんでますね!」となった。
 僕の店の常連で、古い友人の医師・八木淳一郎さんが店に来たのをつかまえて、そのへんをむりやり?さわってもらったら?ソケイヘルニアとのこと。入院しなくてはと言う。アーア!考えてみれば店の引越しで何ヶ月間も、重い荷物を運んだり、移動させたりで疲れてた所に、ピアノの位置を直すために前日一人で持ち上げたのが、どうやら原因の様であった。
 それでも2、3日病院へ行きがらけしていたら、そこへヒョイとタイミング良く、久し振りにやって来たのが、盛岡市立病院の医師・佐々木一裕さん。「何故か急にジョニーへ行かなくちゃ!と頭に浮かんだから来たんだよなぁ!」と言う。彼からは、2003年4月に、ジャズとフュージョンのLPレコードを、たくさん貰っていたことを思い浮かべながら、ヘルニアの話をしたら「僕が外科に話しておくから、明日市立病院に来て!」と相成り、覚悟をさせられた。「入院かぁ~。入院といえば19才の時、免許を取って三ヶ月の深夜、居眠り運転をし、峠道から沢川まで84メートル車ごと転げ落ち、フランケンシュタインの様になって一ヶ月間も入院したことがあった。あれ以来47年振りの入院。今回も病気ではない体内ケガの様なもの!」と、一人勝手に骨休めとし、半分は楽しもう!と、そして、あの事故以来の読書三昧、4泊5日の入院で、その間女房も休養?
 全身麻酔をかけられての手術中、僕はジャズピアニスト・穐吉敏子さんに話しかけられている夢を見ていた。手術が終って腹を見れば、ヘソに透明な絆創膏が貼られていただけ。そこから下3寸へ“メッシュ”なるものを入れ穴ふさぎをしたらしい。病室のベッドは606-4。66才4月生まれの僕としてはその数字も嬉しかった。
退院後、「ボクノカフクノソノモトヘ、カワイイソノコアソビキテ、カエリタクナイトダダヲコネ、ソノミチノソノアナヲ、イシニ、メッシュ!トフサガレテ、ソノコモヤットコ、オトナニナリマシタ」と書にしたためて病院の6Fに送ったら詰所の「真壁」に貼りましたと外科の先生!
11:21:00 - johnny -

2022-03-14

幸遊記NO.126 「高橋日出男のケニーバレル収集」2013.6.3.盛岡タイムス

 シンコーミュージック・エンタティメントから2012年12月30日発売になった“ジャズギター・レジェンズ”のVol・2は、ジャズに品格を与え続ける巨匠「ケニー・バレル(81)」の本である。「洗練されたブルース感覚で華麗にスイングする王道ジャズの重鎮、その音楽と生涯」と扉にある。
 この本を、僕に「プレゼントします!」と持って来てくれたのは、おちずさんとバレルが命というケニーの超大ファン「サンライズマン」こと高橋日出男さん(55)。彼がケニーバレルのギターに出会ったのは中学時代の1972年。FMから流れてきた「グリーンスリーブス」その美しいメロディとギターの音色に感動して、名前をノートに走り書きしたのが始まりだったと言う。その年、ケニーは41才。すでに26枚ものリーダーアルバムを発表していたが、サンライズ少年は、生涯かけて彼の作品を全部集めようと思ったと言う。
高校生になった彼は、早速盛岡駅前にあった「ファンタジー」という喫茶店でバイトを始め、お金を貯め買ったレコードがあのラジオで聴いたLP「ギター・フォームズ」(1965年録音)だった。それ以降は、ケニーの新譜を買い続け、修学旅行のお土産さえも、彼のレコードだった程。そしてナイトソングという1969年に録音されたLP、デュークエリントン作曲「Just A・Sittin’ And A・Rockin’」の無伴奏ギターソロに聴き惚れた事が決定的となり、一音で彼と判る本物のケニーバレルファンになりジャズファンになった。
 以来今日までの40年間に10回コンサートを聴き、78枚の全リーダーアルバム(海外オリジナル盤はもちろん、再発盤や日本盤の全て)を収集。更にサイドメンとして録音した数百枚もの全ての盤(名前のクレジットが無いが、弾いているのは彼という貴重盤を含む)まで収集してしまった人は、どうやら、ほんとに世界で唯一人らしい!。だから先の本では、ケニーバレルの全リーダーアルバムの完全ガイドを、録音順に、曲目とそのアルバムの解説を記したディスコグラフィーの執筆を、シンコーミュージックエンタティメントからおおせつかったのです。まさに執念!(集念)?でハイブリッジを架けた男なのです。
11:20:00 - johnny -

2022-03-13

幸遊記NO.125 「金野吉晃の4枚組第5列」2013.5.27.盛岡タイムス

 「ベルアベドン」という即興演奏の4人組が、盛岡から陸前高田へやって来たのは、1996年頃の事だった。面白い名前だったから僕は地元紙に広告まで出したのだったが、客が一人も来なかった。最近、リーダーだった金野吉晃さんにあのバンドの名の意味を聞いたらなんと、利尿剤(ベルアベトン)の名前だった。どうりで客離れまで良かったはずと今になって納得した。
 金野吉晃(ONNIK)さん(56)は、陸前高田市にあった“金清薬局”の長男で、のち、盛岡での開業医故・宏太郎(1926~2011)さんを父に持つ、盛岡生まれの気仙系2世。岩大付属小学校・中学校、盛岡一高、岩手医大歯学部へと進んで、そのまま今も、医大の矯正歯科講師を勤めている。
 だが彼が言うには「困ったことに、何かに習熟しようという気が無い」のだと、だから「楽器は何でも一応こなせるが、実は何も出来ない、応用が利かないから、音楽も矛盾的演奏で、俺という“ソフト”を楽器という“ハード”に入れると音が出る、ダンナ芸なのだ」と笑う。だが、どんな種類の楽器で演奏しようとも、歴然とそこには“彼の音”が存在する不思議。
 だからなのだろう、その道の巨匠、ジョンゾーンやフレッド・フリス。豊住芳三郎等々との共演歴を持ち、1980年代にはLPやEP。CDになってからも、僕の手元にあるだけでも10枚を下らず、しかも国内はもとより、外国レーベルからの出版も何枚かあるのだ。そして遂に、今度は、1976年から2000年までの音源と、1983年から2010年までの映像が、CD3枚、DVD1枚の4枚組作品集「第5列」(スパイ・後方撹乱部隊の意)が2013年4月24日にディスクユニオンから発売(制作元・ユース)になった。
 中味はありとあらゆるジャンルの演奏家たちとの共演による即興演奏。CDジャケットも又、独特の変な絵心がある彼の作品。音源には計60名が参加していることから鳴禽(めいきん)反動集団とし、中味はズボンの裏に生えたカビの如き音だと言う。確かに2001年から、時折僕の店で彼が主催していた、フリーやノイズといった一種異様なジャンルのコンサートに集う音者たちにとって、彼はまさにカリスマ的塾長であると言えた。
11:19:00 - johnny -

2022-03-12

幸遊記NO.124 「佐藤潤のオペラ歌手」2013.5.20.盛岡タイムス

 1992年のある日、FM岩手のジャズ番組の収録後に立ち寄った喫茶店で、僕は佐藤潤さんという、若いオペラ歌手に、バッタリと出合った。とはいえ、それまで名も知らぬ、会った事も無い初めての人。彼は店のマスターの紹介で、僕のために、実に本格的なオペラを歌ってくれた。その表現力の豊かさと、ずば抜けた歌唱力に、驚きと、感動のあまり、胸が打ち震えた、僕の記憶。
 のちに、彼の家を訪ねた時、彼が書いたという、分厚い私家本を頂いた。数百ページにも及ぶその本をめくると、まるで活字の様な、立派な手書き。更に驚いたのは、その本にある色々様々な宗教の団体へ、自ら身をとうじて、体験しながら徹底的に書いた凄い本だった。おかげで今は、全部の宗教を差別無しに見れる様になったと言う彼。
 その著者・佐藤潤さんは1961(昭和36)年、盛岡市に公務員の子として生まれ、仁王小学校、下小路中学校、岩手高校を卒業して、東京声専音楽学校の教員養成科に学び、日本人初の国際コンクールで優勝したテノールの奥田良三氏に師事。首席で卒業出来た者(一人)だけの権利を獲得して芸大教授でバリトン歌手・栗林良信氏のオペラ科に進み、学園の入学式や、卒業のトリを務めた。その後、藤原歌劇団から声はかかったが、自信が持てないからと断り、自分の故郷へ戻って来たのだった。
 盛岡に帰ってからは、何と肉体労働者として働いたが、会社倒産。職安での訓練校に応募し三度も拒否されたが、ようやく入ることが出来、パソコンのP検3級を取得。
 篆刻(てんこく)家で、書道の教室を持っていた母が倒れてからは、アニメソングの女王と言われる、高橋洋子氏(47)のすすめもあって、母の教室を継ぎ、盛岡と滝沢の教室で子供達に書道を教えている現在だが、もちろん、今も時折、ステージや教会で唄っている。
 「音楽もドイツのうたは繊細で、イタリアのうたは声量がある。言い替えれば、ドイツはみみっちいし、イタリアは下品となって平行線。だから認め合えばいい。幸い僕はどっちからも認められ、使い分けが出来たのだ」とも。時折、彼は僕の店にやって来て、うたのリクエストに応えてくれるが、彼の歌は本当にすばらしい!と皆が言う。
11:18:00 - johnny -

2022-03-11

幸遊記NO.123 「吉田衛の横浜ちぐさ」2013.5.13.盛岡タイムス

 1954年から55年にかけて、横浜の海軍将校(シーメンズ)クラブに、穐吉敏子の伝説的バンド「コージーカルテット」が出演していた時、クラブに程近い桜木町野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」に寄ってレコードをリクエストして聴くのが日課だった穐吉敏子さん。
 マスターの故・吉田衛さんは、レコードを聴きながら採譜する穐吉さんのために、何度も同じ所をかけ直して聴かせた。この話は、すでに60年近くたった今でも、必ずステージでしゃべり続けている程、彼女にとっては大切な店であり、勉強の場だった。
 その「ちぐさ」は、吉田衛さん(1913・大正2年)横浜生まれが、昭和8年(1933年)に開店したジャズ喫茶の草分け。昭和17年太平洋戦争に召集され、中国大陸で終戦を迎えた吉田氏が横浜に帰って来たのが昭和21年(1946)。召集された頃は、一億総火の玉時代。政府は、一切の米英音楽を国内から追放しレコードも一掃させた。その時、吉田氏は天井裏にレコードを隠しておいた。帰ってきたら、「昭和20年の大空襲で街も店も焼失して、一面焼野原だった」と、スイングジャーナルの編集長だった大熊隆文氏と一緒に「ちぐさ」の2階で吉田さんから僕が聞いたのは、昭和55年(1980)のことだった。
 新生・穐吉敏子のニューヨーク・ジャズ・オーケストラを僕の店ジョニーの10周年記念として陸前高田へ呼んだ1984年吉田衛さんは「私は秋吉さんが生まれる以前から音楽を聴いているが、基本は照井さんと同じで、“日本にいいミュージシャンが生まれること、これが一番の念願なんだね”それだけに、あなたのやっていることには感謝しています」というメッセージをくれたのでした。
 その吉田さんが亡くなり、店を受け継いでいた妹さんも亡くなったが、店を閉める時、僕は女房や友人たちと共に、横浜野毛の「ちぐさ」の店の前に立っていた。あれは2007年の1月31日のこと。
 そして今年2013年10年振りに復活した穐吉敏子ジャズオーケストラを東京で聴いた翌日の5月2日、それこそ復活なった野毛の「ちぐさ」で「ちぐさ会」が、「照井顕を囲む会」を開いてくれ、昔が縁の友、知人たちが、岩手からの一行十数名を大歓待してくれたのでした。ありがとう、、、、、、。
11:17:00 - johnny -

2022-03-10

幸遊記NO.122 「成田隆のRORANジャズ」2013.5.6.盛岡タイムス

 中国とヨーロッパの交わるあたりに、漢、魏時代のオアシスとして栄えた都市「楼蘭」から、名付けたというジャズ喫茶「RORAN」が秋田県鷹巣花園(現・北秋田市)に存在したのは1976年から2001年。
 店主だった1951年生まれの成田隆さんが店をたたみ、東京出身の彼女と一緒に暮らすため上京することになった2001年6月1日、彼は僕の店に現れ「ジョニーが盛岡に来てたこと知らなかったが、何故か呼ばれてしまった様だ」と笑った。以来これまで東京にて、医局の仕事人である彼女を支える専業主夫として家事の一切をこなしている。
 上京後丸10年、ジャズを封印し続けていた彼だが、2年前のある日ラジオから流れてきた、黒人開放のキング牧師への音楽「フリーダム」にゾクッときてからというもの、又、ジャズ喫茶通いをし、押入れに仕舞い込んでおいた、アンプやスピーカーを取り出し、音を出すための修理をコツコツ始めたという。
 最近、1年に397軒もの関東周辺のジャズ店を廻ったという、70代の平田さんという人に、お茶の水“アデロン・ダック・カフェ”で出会った彼。その人は音の聴き分けが凄く、「西早稲田の“ナッティ”の音が最高!美音じゃないが、高音域に荒さがあり“ジャズの熱気”を感じさせられた」と。そんな風に熱い会話は、久し振りだった。
成田隆さん(62)は、秋田県立二ツ井高校2年生の時に生徒会長を経験。卒後、札幌パークホテルでボーイ勤めをしていた時、上司にすすき野のジャズ喫茶に連れて行かれたのがきっかけでジャズに目覚め、のち神戸の飲食店で働き上京。ジャズ喫茶を見聞し地元に帰り翌年店を開いた。18~19才の頃に上に従うのでは満足出来ない人間だと、根拠のない自信を持っていたという彼。形態は飲食店だが、“ジャズの文化を伝える”という熱い思いでの開店だった。その資金は、明治生まれの父が、末っ子の彼に勘当料として出してくれたのだと。
以来懸命に働き店は繁盛、調理の勉強にも熱を入れ、グランドピアノを入れ、店を3度拡張改装し、ジャズファンクラブも結成し大活躍していた。「それらの全ては地元の先輩達やお客さんから教えてもらっていたと実感です」と、謙虚な彼。12年振りに北秋田に帰省したら、昔の友人、客達があっという間に集まってくれたのだとも。今彼は、妻・裕子オンリーに生きている。
11:16:00 - johnny -

2022-03-09

幸遊記NO.121 「境田憲一の音楽鑑賞絵画」2013.4.29.盛岡タイムス

 2005年11月から、毎月末頃の日曜夜に、開運橋のジョニーで開いているクラシックレコード鑑賞会は、盛岡クラシック音楽愛好会・LYRA(ライラ)の主催。現・二代目会長の境田憲一さん(66)は、音楽好きが高じた、根っからのオーディオマニアでもある。
 今から27年前、自宅を建てた時には、鉄筋コンクリートの基礎に力を入れ、6年前のリフォーム時には、更なる振動対策に万全を期し、オーディオルームをリニューアルした。
 大好きな音楽をクリアに聴きたいと、電源には最大限にこだわり、スピーカーをマルチチャンネルで駆動させるその再生音は、生命力と臨場感に満ち溢れている。
 胃を全摘出する病にも打ち勝ち、今は音楽を聴き、絵を描く悠々自適の毎日だが、16才から59才までの43年間、東北電力の社員として働いた彼。子供の頃から母子家庭だったこともあり、城南小3、4年の時には豆腐売り。5年生から下小路中学を卒業するまでは新聞配達をしたのだとも。東北電力の入社試験では、180人中16番目の成績だったらしいのだが、入社できたのは15人。だがその中の一人が高校へ入学することになってのラッキーな繰り上げ当選?。
 当時会社では、技術要員のための養成期間として3年間勉強させてくれたというが、彼は更に入社一年後に盛岡工業高校の定時制にも通って勉強した程の努力家。会社の寮で先輩に聴かせられた「電蓄」でのベートーベン・ピアノソナタ「月光」のSPレコードに感激し、自分の給料で買ったのが、ソノシート盤・ヨハン・シュトラウス1世の「ラデッキー行進曲」。そのせいか、のち会社でも“後進”のための教育担当となり、パソコンなども教えた。「社員時代の俺の財産?的設計は、盛岡の東北電力裏の中津川端通りにある、細くて色のついたカラー電柱かな」とニッコリ。
 絵は退職してから教室に通い、1年目から県芸術祭に出品入選、以後連続入選し続け年1度の個展もすでに3回。最近は、地元のジャズ演奏者たちを描き、これまでドラマー、トランペッター、ベースマン、サキソフォニスト、ヴォーカリストなど、モデルになった本人たちも大喜び。まわりのギャラリー達からも、よく似ていると評判。
11:15:00 - johnny -

2022-03-08

幸遊記NO.120 「さいとうれいこの絵本ミサミック」2013.4.22.盛岡タイムス

 「おしゃれっぽきつねのミサミック」という絵本が、昨2012年12月25日、東京新宿区の(株)草土文化から発売になった。その作者・さいとう・れいこさんは1977(昭和52)年9月盛岡生まれ、現・東京在住の主婦。
 「ミサミック」は森一番のお洒落なきつねの女の子。自分で作った赤い花のワンピースを着て、大好きなお絵かきムウムさんに見せに行く。ミサミックは絵に、ムウムは服に、お互い感動しあい、その感動がまたそれぞれの作品となった時、ムウムは絵に合わせて作ってもらったお日様色の服を着、ミサミックはムウムが夜に描いた星空色の服を着て、野原でたった一枚の絵の展覧会。集まって来たのはたくさんの森の仲間たち。るーらららー、 るーらららー。
 この素敵な絵本に登場するほかの動物キャラクターたちも、実は別キャラとしての名があって、すでにその新作展示をこの2013年3月東京・綾瀬市のナチュラルカフェ「コンポステラ」で絵本の販売と合わせて行った。
 さいとう・れいこ(斉藤玲子)さんは、松園中から盛岡一高、武蔵野美術大卒・同大学院造形研究美術専攻を終了。これまでに「文学の教室」「文章の教室」「新文章の教室」等の本の扉絵や「日本語の教科書」等の挿画に採用され、今回の文と絵、いわゆる彼女の処女出版へとつながった。主人公の「ミサミック」は玲子さんの姉・聡子さんの子供たち「ミサキちゃん」と「未来ちゃん」二人の名を合わせて出来たキャラクターの名前と言うからなおカワイイ!
 この本を僕にプレゼントしてくれたのは、玲子さんの父・國忠さん(66)。彼と出会ったのは2004年北上川上流の四十四田ダム入口で僕等夫婦が一年間だけ開いたカレー屋「喫茶ギャラリー1244」来てくれたのが始まり。その後は「開運橋のジョニー」へもよく来てくれるようになっての今日。彼は市の会計課に始まり資産税課で卒業した盛岡市職員。定年後は、憧れ続けていた自由人となりヒゲをはやし、好きだった庭を心ゆくまで観たいと京都で一ヶ月以上もの一人庭三昧。音楽好きが高じてのサックス三昧。夫婦での絵画鑑賞。そんな彼だから娘の絵本作家としてのデビューは、ことさらに嬉しそうなのだ。
11:14:00 - johnny -

2022-03-07

幸遊記NO.119 「松永裕平のタンゴピアノ」2013.4.16.盛岡タイムス

 「国立音大音楽教育学科・ピアノ教育専修4年生の12月、学校の掲示板で、岩手県盛岡市にある“アンサンブル”でピアニストの募集をしてたよと、同期の学友に言われて、オーディションを受け2曲弾いたら、一週間程した元旦に電話があり採用されました。応募は30人程だったらしいです」。
以来2004年4月から2013年3月まで、その「アンサンブル」のオーナー兼バンドネオン奏者の森川倶志(ともゆき)さん、ヴァイオリンの花田慶子さんと一緒に、「タンゴ・アンサンブル」のピアニストを務めてきた松永裕平君(32)が、フリーのプロピアニストに成るべく、盛岡を巣立ち上京する。盛岡在住時代に知り合った、タンゴやジャズ系のミュージシャン達と、都内を中心にした演奏活動やコンサートなどで生計を立てると決めた。
彼は埼玉県浦和に1981(昭和56)年に2人兄弟の弟として生まれた。父が好きだったレコードを聴いて育ち、母のピアノに座っては、ひたすら指を動かすピアノ遊びが好きな少年時代を過したことから、ピアノの成績だけは、1番だったが、弾くこと以外の知識、楽典など勉強しなかったが芸大を受け2浪したのだと。
盛岡に来てからは「ジャズも勉強したい」とトランペッターでピアニストでもある箱石啓人(ひろと)氏に師事し、開運橋のジョニーで店の開店時間前に箱石氏等と随分ライブ練習をし、僕もその度付き合って聴かせて貰った。彼は本当に古いジャズのスタイルまで遡って、音の研究をよくしていた。時折、タンゴでも、その根元的なリズムが、メロディの様に聴こえるアルゼンチンタンゴ的な激しさと、感情の発露が垣間見える彼の演奏に、彼の将来を期待してしまう自分もいた。
アンサンブルの森川さん花田さんに厳しく鍛えられ、毎日のお客様方にも育てられた彼。最近は「客を一歩リードする必要」に目覚めたのだとも。また「ピアノも音楽も知れば知る程、その存在が大きくなる。あたりまえのことが、あたりまえに出来るって事が凄いことなのだと思う様になった」と松永君。そう言えば穐吉敏子さんのピアノクリニックを彼にも受けて貰った時、彼女から指の長さを羨ましがられ、リズム感をほめられていた。また彼には彼女の曲「ホープ」を採譜してもらったこともあった。ガンバッテネ。
11:13:00 - johnny -

2022-03-06

幸遊記NO.118 「堀内繁喜のBar Cafe the S」2013.4.8.盛岡タイムス

 僕がジャズにのめり込むきっかけとなったのは、1969~72年にかけて、宮古出身のピアニスト故・本田竹彦(のちの竹広1945~2006)のデビューアルバム「本田竹彦の魅力」。続く「ザ・トリオ」、「浄土」を夢中で聴き、彼の生演奏を初めて聴きに行ったことからだった。
 その後の77年に本田の「トリオ」を陸前高田に呼んで感激。85年の「日本ジャズ祭イン陸前高田」に彼の「ネイティブサン」。99年には盛岡のマリオスホールでの「本田ファミリー」など幾度となく主催した。僕が盛岡に店を移した翌年の2002年に、彼がご祝儀演奏をしに「開運橋のジョニー」に来てくれ、演奏とその想いに胸が熱くなった記憶。
 その本田が、彼の故郷に新しくジャズの店が出来たことを喜び、アップライトのピアノを持ち込んでコンサートした。その「Bar・Cafe・the・S」店主の堀内繁喜さん(現・43)はそれ以前の2年半ほど、DJバーをやっていて、更にそれ以前といえば宮古水産高校時代から、車が好き。バイクが好き。オーディオが好き。サーフィンが好き。バリ島が好き。と、その全部を実践体験。仙台自動車整備専門学校で2年間学び、宮古に戻って中古自動車販売会社を8年手伝ったのだと言う。
 開店10年目だった彼の店の「S」の字は、マイルス・デイビス(tp)が書いたShut UpのSを使ったおしゃれな店だったが、2011・3・11の津波で被災した。本田が生前「ピアノを買うなら、ベーゼンドルファーがいいぞ」と言っていたことから古いベーゼンを探し見つけ、群馬から購入したのは2008年、本田が亡くなってから2年後のことだった。
 どちらかと言えばクラシック系の人々に好まれて来たベーゼンのピアノ。それがジャズの店に入った。それも1つの話題になった。3・11では弦が被災を免れたのが幸いし、購入先だった「ピアノプラザ群馬」が無償修理してくれたことから、店を沿岸の宮古から県の都(みやこ)へ店を移したのは、被災から4ヶ月後の7月だった!。その素早さに拍手した僕。
 以来彼、堀内さんは一生懸命店をやり、客も一所懸命の店に通う。店はいつも繁喜に満ち、米国製JBLスピーカー「パラゴン」から流れるジャズの音もまた、もう1つのシゲキとなって、いまや盛岡を代表するカッコイイジャズの店と評判です。
11:11:00 - johnny -

2022-03-05

幸遊記NO.117 「畠山宏樹の南部杜氏錦酒」2013.4.1.盛岡タイムス

 紫波町の名曲喫茶「これくしょん」で2013年3月に行われたマーラーのレコードジャケット展。珈琲を飲みながら大音量で、その第一交響曲「巨人」を聴かせて貰った。そのレコードが両面回っている間、僕はマスターの小畑さんに差し出された古い写真集に釘付けになっていた。昭和52(1977)年に主婦と生活社から刊行された「筬(おさ)音の残響」
 小畑氏は言う「ダスタフ・マーラー(1860~1911)の“巨人”は自分の心の扉を開いてくれた曲であり、最大の衝撃を受けた」と。僕は僕で目の前の写真に写し出された年輩の機織女性たちの表情に衝撃を受けていた。「たとえ錦の風吹く時も 外へなびかぬ糸柳、機織女(はたおりおなご)と馬鹿にするな 大和錦は誰が織る」(秩父機織唄)の歌詞の如く、その自信に満ちた内面が表れている女性たちの、まるで織物のようなシワジワの顔が並ぶ白黒写真。持って来たのは、秩父に行って来た杜氏・畠山宏樹君(紫波町出身)だと言う。
 彼は全国一位を誇る杜氏集団・南部杜氏協会(153名)中の最年少杜氏。昨年10月から今年3月にかけては会長の鷹木祐助氏とともに250年続く秩父錦の蔵、矢尾本店で酒造り。僕も先日その甕口酒(かめくち)という生原酒を頂いて飲んだが、絶品といえる、おいしい酒だった。酒造りの一番の要は「米ふかし」と言う彼。味覚を表現する言葉さえ世界の10倍、200余りの現し方があるほど、味に繊細な日本人。その日本独特の麹菌は「国菌」にすべきという発酵学の権威・小泉武夫氏(東京農大教授)もまた東北福島酒造の出身と聞く。
 宏樹さんは昭和46(1971)年1月5日紫波町生まれ。中2の時神奈川秦野南中学校へ転校し、方言でいじめられコンプレックスに悩まされ両親を恨んだとも。20~30代は祭りに没頭。真剣にいい加減に生きていたが、杜氏になってからは、自分との戦いだった。最近母に声でもらった愛のムチで「ようやく母親を理解し、我に返った」と彼。
 「咲くは山吹つつじの花よ、秩父なぁ、秩父銘仙機どころ、トントンカラカラ筬の音、トントンくるりと糸車」僕の好きな秩父音頭の一節が、酒の印象とともに味わい深く、頭の中に浮かんで来た。機織女たち、酒造男たち、それは大地に根ざした巨人たちなのだ。
11:10:00 - johnny -

2022-03-04

幸遊記NO.116 「土井一郎のプレリュードとフーガ」2013.3.25.盛岡タイムス

 僕が陸前高田で「ジョニー」という名の音楽喫茶を開いた翌年の1976年5月21日陸前高田市民会館大ホールでヴァージンジャズと題して初コンサートを主催した。バンドは東京からの「山口真文(ts)カルテット」。その時のピアニストが土井一郎(当時24・現61)であった。
 「幼少からピアノを習い高卒と同時にプロ生活に入り、よくピアノが弾けたことから大坂の先輩バンドマンたちには随分いびられた!」。その事から大阪教育大・特音作曲科で学び卒業。上京すると「東京の方が自分にあってる」とすぐに思ったと言う。以来大阪には
絶対近寄らないで来たのだとも。
 新宿のクラブで弾いていた時、ゲストで吹きに来た、故・松本英彦(ts)に認められバンドに誘われ、以降、山口真文。ジョージ大塚(ds)。鈴木勲(b)。小宅珠実(fl)等のグループで活躍ののち、独立。自己グループ「ミリオンパラ」を結成し、クラウンレコードから8枚のリーダーアルバムを発表。
 その間に何度か陸前高田にも演奏に来てくれて、おしゃれな彼らしく、いつぞやは、僕にも花柄のカッコイイシャツをお土産に買って来てくれた。僕はよくそれを自分のステージで着たものでした。盛岡へ移ってからは、全ての経費を自分で負担し、東京からバンドを連れて来てジョニーで演奏をプレゼントしてくれもした。
 あれからもうすでに10年。僕は久し振りに彼に電話をし、店を移転したことを伝え、ピアノソロとジョニーで育ったヴォーカル・金本麻里の歌伴と二つ引き受けて貰い、この2013年3月20日に、それは実現した。久し振りに聴く彼の生演奏の音に心奪われ、思わずジーンとなった。ありがとう。
 日本でも人気の高かったピアニスト・ビル・エヴァンス(1929~80)に憧れ、朝から晩まで聴いてはコピーしまくった学生時代の1973年1月、エヴァンス初来日の時、最前列で聴き何もかもが解からなかった程のレベルの違いに物凄いショックを受け、以来むちゃくちゃ練習し今日まで来て、遂にはショスタコビッチの作曲時間にヒントを得て、24のプレリュードとフーガを作曲し楽譜(カワイ出版)と自演の2枚組みCD(スタジオソングス)を発表してしまった、不思議なジャズマンである。
11:09:00 - johnny -

2022-03-03

幸遊記NO.115 「ジョン・バーネットのNPRニュース」2013.3.18.盛岡タイムス

 国際ジャーナリストのJohn・burnett(ジョン・バーネット)氏が、NPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)から2人目の通信員として、3・11の津波被災地・陸前高田を取材に来た日の夜(2011年4月1日)、彼は僕の店・「開運橋のジョニー」へもやって来た。
 なんでも東京から一緒に来た通訳者・小林智恵さんと盛岡駅前の焼鳥屋「いこい」で一緒になった気仙沼出身の主婦・佐藤律子さんとジャズの話になり、店に来たのだと言う。そして彼は、NPR・ニュースブログに「ツリー・オブ・ホープ(希望の木)」として唯一残った一本松をいちはやく世界報道したのでした。
 その時の通訳者だった智恵さん(47)が2年振りにジョニーにやって来て、ホープガールの歌を聴き、翌日には律子さん(61)と連れ立って又来てくれたのです。話は当然あの日の夜に戻って行くのだが、智恵さんは「東北に来たことで、日本は手、足、体を動かして考える東北から学べば良い国になるのに!と感じました」と言う。律子さんは昔、七十七銀行員時代に通った気仙沼の老舗ジャズ喫茶「ヴァンガード」の復活話なども聞かせてくれて、僕はとても嬉しかった。
 ジョン氏は1986年以降、野蛮で恥知らずな暴れん坊通信員といわれながら、世界各国の隠された事実を調査報道し続け、エドワード・R・マロー賞。ナンシー・ディカーソン・ホワイト・ヘッド賞。海外記者クラブ賞。などの賞を受賞した有名人。生まれ故郷・オースチンのテキサス大学でジャーナリズム学士号を取得卒業。父はテキサスケーキを宣伝し有名にした人だと言う。「テキサスといえば、我等が世界に誇る、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんから、30年以上もXマスに贈って頂いているフルーツケーキがあるよ」と、その空き缶を見せたら、彼は飛び上がって驚き「これだ!僕は生まれた時から食べている!」と。何という偶然?。
 彼はとても気を良くし、カバンにしのばせていたハーモニカを取り出して金本麻里と「テイクジ・A・トレイン」をアドリブセッションまでしてくれたのです。後日、彼のブログには「開運橋のジョニー」のことや、僕のこと、麻里さんとセッションしたこと、ジョニーが津波後も欠かさずジャズのライブを続けたことなどが、写真入りで書かれていました。
11:07:00 - johnny -

2022-03-02

幸遊記NO.114 「菅野信夫の音楽船」2013.3.11.盛岡タイムス

 先日、音楽の友だった村上軍記さんの三回忌に陸前高田の光照寺(高澤公省・住職)に、軍記さんと共通の音楽の友・陸前高田の菅野信夫さんと一緒に行って来た。3・11の津波で逝った軍記さんの三回忌を知らせるメールが彼の息子さんで埼玉に住む聡さんから届いたからだったが、僕達の顔を見て驚いたのは軍記さんの奥様・順子さん。でも聡さんが撮ってくれた写真には、三人とも顔がほころんでいた。
 その菅野信夫さんは、僕が平泉から陸前高田へ行った頃だから、もう50年にもなる最も古い音楽で結ばれた親友である。歳も同じ65才。血液型も僕と同じAB。違いといえば、僕は二度結婚したが、彼は今も独身。彼の妹で故人となった愛子さんは、青春時代に「高田わかもの会」なる団体で一緒に活動、明治百年を記念し、20才前後の僕達が、おじいさん、おばあさん達に、昔の時代劇(チャンバラ)を観せようと「松平朝之助劇団」を呼んで、昔あった映画館「セントラル劇場」を借りて主催した記憶もまるで昨日のようによみがえってくるが、止まれ!
 菅野信夫さんは出会った時から、今尚船大工一筋に働いてきた人。彼は兄や姉たちの影響で音楽が好きになり、働き始めてすぐポータブルプレイヤーを買い、間もなく足付のアンサンブル。セパレーツ、そしてコンポとグレードアップし、スピーカーも30センチウーハーを使った、独自のデザインによる立派なボックスを作り聴いていた彼だったが、自宅もろとも津波に持ち去られ、現在は仮設住宅住まい。そのため、唯一の楽しみである音楽を普通の音で鳴らせない住宅事情も、僕もだったらと思うと悲しくなる。
 中卒後、気仙沼の浦島造船所、木戸浦造船、大船渡のFRP造船と、木造船、鉄工船、FRP船と時代とともに進化しながらの船大工仕事は、図面を原寸に起こすことから始めるのだという。
 そういえば彼の父、故・良平氏も船大工。三井造船で働き、労組を立ち上げた人。リストラで社員が首を切られる時、自分だけ社に残る訳にはいかないと、辞めたいさぎのよい人だった。慰留させようとした会社も、良平氏が辞めた後、丸3年彼のために年金をかけ続けていたのだったという。
11:06:00 - johnny -

2022-03-01

幸遊記NO.113 「遠藤広隆の南部駒写真」2013.3.4.盛岡タイムス

 「仕事を終えて盛岡から西根町(現・八幡平市)へ帰る車の中で、時折流れてくるジョニーさんの放送、FM岩手の“オール・ザット・ジャズ”を聴いて興味を持った時、叔母さんに盛岡にジョニーが来たよと聞かされ、初めて店に来たその日は“鉄腕アトム”の誕生日で、大人たちがアトムの人形とケーキを囲んでいました」。
 そう言うのは東京に本社のある(株)佐藤写真に籍を置くブライダル写真家の遠藤広隆さん(34)。仕事は主に、盛岡グランドホテルで行われる婚礼のスナップ写真撮影。その結婚披露宴の流れを逃さず撮るための緊張感あふれる仕事なのだと言う彼・遠藤君が、写真にはまったのは中学時代に親戚の人からもらった古いカメラからだった。そのカメラに初めて入れたフィルムは、何といきなりのリバーサルだった。(映画のワンシーンと同じポジ)だから今もスナップ写真による婚礼映画を写してるのかも。
 小学生の頃からTVで映画を見るのが好きだった彼は、映画に憧れ仕事にした場合には、自分は協調性が無いので、無理だと思い、自分一人で出来る映画の一コマ(写真)の道へ進もうと、平舘高校から渋谷の「日本写真芸術専門学校」へ入学、白黒写真技術をメインに学んだ。学生時代にテーマを決めて撮り続けることを教えられて以来、地元の放牧地を中心に「馬」を撮り続けている。「最近は、馬自体の仕事もほとんど無く、頭数も減ってきて、愛玩動物的に飼っている様なのです。何で飼っているのか、誰からも納得のゆく答えが返って来ない」のだとも。
 「サラブレットなら動物としてのカッコよさもありますが、南部駒はカッコ悪い駄馬ですから」そう言いながら、そのカッコ悪いカッコ良さに心引かれ続け、撮り続けること20数年。千本近いフィルムに馬を写し、馬の写真展はもちろん「南部駒の里」という写真エッセーを2011年5月から2年間の予定(2013年4月まで)当、盛岡タイムスに連載中である。
 「南部片富士 裾野の原は 西も東も馬ばかり、、、、」(南部馬方節)。かつて馬と人間が一緒に同じ屋根の下で暮らしていた独特の南部曲り家も無用となって移築され、和風レストランや民宿へと変身して今に生きている。彼の写真も又、色あせず未来に生きるのだろう。
11:05:00 - johnny -
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