盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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レポート

2022-02-28

幸遊記NO.112 「村田柴太のエーデルワイン」2013.2.25.盛岡タイムス

 33才から28年と6ヶ月、大迫町(現・花巻市)の町長だった故・村田柴太さんのことが今でも時折頭に浮かぶ。「どこから来ても峠を3つ越えなければ大迫に入れない盆地、炭焼きと馬とタバコを三種の神器で暮らしてた貧乏な町、そのへき地性を打ち破ろうというのが町長生活だった」そう僕に話してくれたのは21年前の1992年2月のことだった。
 今をときめくエーデルワインと早池峰神楽。その「神楽とワインの里・大迫」の礎を作った村田さん。民選初代の農民知事・国分謙吉氏(1878~1958)が、村田家のブドー畑を見たことから「あっ!ここは葡萄もいいんだな。ボルドーに良く似た石灰質の古生層土壌だよ。これはいけるかも!」での県立葡萄試験地を、全国で一番早く手掛けた岩手県。その知事の先見の明に呼応した彼、柴太さんのパイオニア精神と相まって始まった。
 そして、葡萄農家との共存共栄を計りながらの“エーデルワイン”造り。コルク栓ではなく、スクリューキャップ、550mlの瓶。彼がドイツ語辞典を引いて書いた文字、ラベルには早池峰山とうすゆき草、すべてが彼の手によるオリジナル。それはもう中味以前にいい味を出していたものでした。そういえばワインコロンも開発したっけ。
 「エーデルワイス」に似た「はやちねうすゆき草」を兄弟花としてオーストリアのベルンドルフと姉妹提携を結んだ人。パーティーでも「うたの一つも出ないなら面白くも無い」と、逃げ出すほど音楽が好きな人だった。
 神楽ににしてもホイドカグラと称されてたものを町議時代から会員になり光を当て続けた結果が1976年(昭和51)国の重要無形文化財に指定されたのでした。(2009年・世界無形遺産登録)。「異文化真似て人様にすすめるもんじゃ無いってことだよ。まず自分たちのものをたててから」それが彼の信条だった。
 村田柴太1926年(大正15年2月21日・大迫生まれ)妻の泰子さんは1915年(昭和4年)小牛田生まれ(盛岡裁判所の所長の娘)。昭和26年に見合いで結婚。「女房はほとんど連れて歩いたことがないもんな、俺は外で飲むべしで、嫁、嫁と言われながら祖母、母、叔母に囲まれて子育てしたのさ」が今も、僕の耳に残る。2001年僕の写心展を盛岡エスポワールに観に来てくれたのが最後でした。
11:04:00 - johnny -

2022-02-27

幸遊記NO.111「吉田ユーシンのハーモニカ」2013.2.18.盛岡タイムス

 ホーナーハーモニカの工場や、その大学校があるドイツ・トルシンゲンで、1993年に行われた第4回ワールドハーモニカ・チャンピオンシップスで、2位、3位なしのダントツの1位でチャンピオンになった、日本のハーピスト・吉田ユーシン(当時38才、現58才)。
 彼はそれ以前1983年から日本大会に出場し入賞。1986年日本チャンピオン。世界大会へはイギリスでの第1回大会(87年)で特別賞。以来ドイツ、アメリカでの大会で連続入賞を続けてのチャンピオン。第5回世界大会では前チャンピオンの彼を招待しジャパンタイムをもうけてくれたのだとも。
 彼の父吉田左膳は、住田町下有住出身の銀行マンだったことから、彼は花泉町(現一関市)で1954年に生まれ、有信(ありのぶ)と名付けられた。小学校を三陸、藤沢、大東、中学を種市、高校を盛岡(四高)。大学は武蔵野美術短大商業デザイン科に学んだ。ハーモニカとの出合いは、放送局のバイトをしていた8才年上の兄が仙台から送ってくれたレコードの中にあった「ラヴィン・スプーンフル」そのヴォーカリスト、ジョン・セバスチャンのブルースハーモニカに小学5年生の時に魅せられてしまったのが運命のはじまり。
 1991年アメリカのデトロイドで行われた第3回世界大会に出場した時、ハーモニカのカスタムメイダーだったドイツ生まれでシカゴ在住のジョー・フィリスコ氏から彼の自作ハーモニカをプレゼントされ、お前も作ってみたらと言われたことから、セミナーを受け、はまってしまった。以来、吹き易く、大きな音の出るハーモニカ作りに没頭、吹き口を四角から丸に変えて、テクニックを使い易くしたり、振動を通す人工大理石「デュポン・コーリアン」を世界初利用するなど、今や彼のカスタムメイド・ハーモニカは引っ張りダコ。
 大きな弁当箱程もあるバスハーモニカとコードハーモニカそして彼のハーモニカによるトリオ・ザ・ブー・フー・ウーのCDは聴きものである。そういえば、彼と石井啓介(p)とのデュオの名演奏が流れる映画があった。若くしてこの世を去った、フリージャズの伝説的サックス奏者「阿部薫」の伝記映画で若松孝二監督作品「エンドレス・ワルツ」である。あれは凄い。
11:03:00 - johnny -

2022-02-26

幸遊記NO.110 「菅原恭子の黄色い絵画」2013.2.11.盛岡タイムス

 2011年8月9日、紫波町・野村胡堂あらえびす記念館で開かれた、渡米55年のジャズピアニスト・穐吉敏子さんが、夫のルー・タバキンさんとデュオ(二重奏)による、東日本大震災支援チャリティー「ホープ・コンサート」を聴いて大感動してしまった画家・菅原恭子さん(70)。
 彼女は、その時の音を心にしみこませ、演奏する二人の姿や動きを脳裏に焼き付けて持ち帰り、キャンバスに向った。背景の黄色、穐吉の服の緑、寄り添うルーと金色のサックス「一瞬の永遠ともいうべき素晴らしい絵が誕生した」と、僕がそう思ったのは、彼女からその絵の写真を見せられた時だった。
 その菅原恭子さんは、僕の店「開運橋のジョニー」で2009年から開いているNHKカルチャーのジャズ講座に2010年から通い始めた方で、昨2012年穐吉敏子ピアノソロ・ラストツアーの最終日となった6月16日のジョニーライブの時、その絵「ロング・イエロー・ロード」を穐吉さんに贈ったのでした。
 「頂いた絵をこちら(NY)でクリスマスカードにして使わして頂いたところ、とても素敵な素晴らしい絵ですね。と皆さんがすごく気に入ってくれましたので、その事を菅原さんにお伝え下さい」そう言って穐吉さんから1月に電話を頂いた僕。
 菅原恭子さんは1942年4月2日秋田市生まれ。宮古市で、小・中・高を過し、岩大教育学部ではバレーボールや美術に夢中だった。卒後は小学校の先生になり校長の話が出た時辞職して大好きな絵の世界へ転身。イルディーヴオなどの音楽を聴きながら、収入の無い仕事をライフワークとして死ぬまで描きたいとキャンパスに向い続けている毎日。
 あの名門黒澤バレエ出身の大沼まゆみさん率いる「スタジオ・ダンス・ワン」がマリオスホールでステージ発表した時、恭子さんが描いたダンス絵をロビーに展示、更にその絵をステージ上のスクリーンにも映し「絵と同じポーズで絵から飛び出して来る様なダンスコラボにはビックリするやら感動するやらでしたが、今回の穐吉さんのお話といい絵の公募展に出さずに来ても、それ以上のものを与えてもらいました」と目を潤ませた。
11:02:00 - johnny -

2022-02-25

幸遊記NO.109 「小泉とし夫の復興電子書籍」2013.2.4.盛岡タイムス

 「82歳の朝とエリーゼのために」という小泉とし夫さんの歌集が、岩手復興書店から電子書籍として発売になった。いわゆるパソコンやタブレット、アイホーンなどで買い、ダウンロードして読んだりする、デジタル本。500円+税なのです。ダウンロードがむずかしいという方には、CD版の書籍も同時発売になっており、直接パソコン等に取り込んで観れるこちらは800円+税。
 中味は小泉とし夫さんが創作した口語短歌を、右利きの僕があえて自由の利かない左手に毛筆を持って書いた「書」の籍。自由が利かない分、書は、自分の意志というよりも、歌の力によって書かされているという感じ。
 第一章「赤いベレー」に始まり「エリーゼのために」「むずがゆい春」「ツユクサのブルース」「渡りの季節」「しんしんと雪が降る」「今日も暑いぞ」「木枯らし紋次郎」「ソネット風/バラとの対話」「こいわい・四季の手帖。春、夏、秋、冬」「穐吉敏子の世界を詩う」の14章からなる百数十首の作品が収められていますが、それぞれの章ごとに全部書体が違っていて、自分で言うのも何ですが、中々に良い出来。とはいえ第一章の第一首「走り去る車にまかれからからとわらうほかない団塊落ち葉」まさにそのとおりの1947年(昭和22)生まれ団塊世代の僕。ちなみにこの作品は2006年6月盛岡市立図書館で開催して頂いた「短歌DE書展」小泉とし夫・詩、照井顕・書の全作品に最終章をプラスしたもの。
小泉氏は1949年創刊の県内で最も歴史ある「北宴」文学会の現編集長。本紙盛岡タイムスには本名の岡澤敏男名で「賢治の置き土産」を連載中。以前連載の「賢治歩行詩考・長編詩“小岩井農場”の原風景」(未知谷刊)で2006年、宮澤賢治奨励賞を受賞した。1927年(昭和2)盛岡市生まれの85才。盛岡農林専門学校獣医畜産科(現・岩手大農学部)卒。釜石の高校で6年教鞭を取り、最後は、小岩井農場展示資料館長を97年まで務めた。彼は詩人・故・村上昭夫の同級生でもあり、昭夫の肖像研究については、最終編を書くにあたり、どうしても満州(現・中国)へ行って見聞しなくてはと、ロトくじで旅費の当たるのを待っている日々。
11:01:00 - johnny -

2022-02-24

幸遊記NO.108 「小野寺英二の白いバラ赤い薔薇」2013.1.28.盛岡タイムス

 「テルイは、アテルイのような人。アテルイはテルイのような人」というために英語の文法を持ち出してから、カンパイの音頭をとった小野寺英二さん(75)。盛岡駅前のホテル・ルイズで、この2013年1月23日(大安)の「開運橋のジョニー・オープニングパーティー」。
 頭の中には「白いバラ」胸の中には「赤い薔薇」をずっと咲かせ続けてきた彼。出合ったのは、かれこれ30年近い前になるのだろうか。
 その昔、盛岡開運橋通のカワイビルにあった「どんぐりコロコロ」という店で、そこの客だった小野寺さんと出合った。その夜、その店の主人で、シャンソン歌手の早坂孝幸(公公)と3人で店がはねたあと、やはり当時八幡町にあった「一番」というラーメン屋へ出かけ、そのあと、陸前高田へ帰る僕が逆方向の青山町まで、小野寺氏を送って行ったことから、彼との交流が始まった。
 当時彼は県庁職員。岩手出身の父と北海道出身の母との間に札幌に生まれたのは、1937年7月10日のこと。2才の時には一家で盛岡へ。下の橋中、盛一、岩大、そして県庁へ。
 僕と知り合ってからは、陸前高田へ出張の度に当時のジョニーへ何度も来てくれた。しかも、来店の度にぞろぞろと人を連れて来たのです。聞けば「何、市役所で今夜俺をジョニーに連れて行ってくれと言うだけだよ」と言って笑うのでした。しかし会計はいつだって自分持ち。それは、2001年に盛岡へジョニーが移ってからも変わらなかった。
 退職後は、彼一流の愛を込めて言う「うちの使い古し」(奥様・茂子さん)と一緒に、いつもオシャレをし、手土産持参でやって来て、必ず「顕さんも飲め!」と僕がグラスを空けるのを待って僕と同じ量を、何杯でも同じペースで付き合ってくれるのです。しかもいつだってニコニコ酔い知らず。
昭和40年に結ばれた6才下の奥様茂子さんと知り合ったのは通勤電車の中だったらしい。だからなのか、退職後のお出かけは、どこへ行くにも一緒なのだが、最近は英二から英爺へと名を変えたらしく、古い様な新しい様な名で白蘭が届いた。
11:00:00 - johnny -

2022-02-23

幸遊記NO.107 「カフェジャズの開運橋ジョニー」2013.1.21.盛岡タイムス

 ジョニーが開店したときは2間半四方ばかりの小さな店だった。名前は「音楽喫茶・ジョニー」。中身はジャズとロック、タンゴにポピュラー、クラシックの果てまでのレコード音楽を聴かせる店としてスタート。「職業として一日中音楽を聴いていられる仕事は何か?」「四六時中音楽を聴いていたい」それが動機。思い付いたのが喫茶店。ただそれだけのことだった単純な考えの僕。その後一大決心をしての「日本ジャズ専門店」。
 振り返れば今年で丸38年。ジョニーの前身「音楽酒場・北国」から数えれば40年だが中でも「日本ジャズ専門店」は35年にも及んだ。よくぞ続いてきたもの「音楽が何よりも好き」その根っこの部分があるからこそ続けられて来たのだとも、続けて行けるのだとも思う。そうした僕の思いを受け入れてコーヒーやお酒等を楽しみたい時に「同じ飲むならジョニーに行ってやるかな」と言う人が、少なからず、どんな時でも居てくれたからこそ、店を続けてこれたのだと感謝せずにはおれない。
 2001年の春、盛岡開運橋通のビルの地下に店を開いて丸12(ジョニー)年。開運橋という素敵な冠を付けたジョニーは、遂に橋を見渡せる橋際のMKビルの4階に移店することが叶いました。県内一ののっぽビル・マリオスを背景にした盛岡駅と美しいアーチの開運橋、下を流れる北上川。円いジェネラスマンション下の大樹はまるでジョニーの庭木の様。川の向い岸は啄木の「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」の光景。今君は白い雪や霜の花を咲かせていますが、芽吹きの春はいかばかりかと待ち遠しい。そう思っていたら、1月17日・大安吉日の開店日には「とくとごらんあれ」とばかりに蘭の花を中心とした白、黄、紅、紫等の花々で店は花屋さん状態。本当にありがとうございます。
 そしてこの12年間に店にレコードを寄贈して下さった20数名の皆様本当にありがとうございます。これからジョニーは御提供頂きましたアナログレコードを活かすべく、五木寛之の「海を見ていたジョニー」のジョニーは五木氏の言う「下山の時代」をゆっくりと初心のジョニーへ戻って参りたいと存じます。
10:59:00 - johnny -

2022-02-22

幸遊記NO.106 「菅原正二の一関ベイシー」2013.1.14.盛岡タイムス

 一昔振りに同業の先輩、一関の「ベイシー」に行って来た。この10年、2~3年に一度は訪れているのだが、あうんの呼吸に至らず、行く度シャッターが下りていただけのこと。チョット昔のお嬢様たちに、「ベイシーに連れてってくれませんか」と、言われていたことから10人程で、見聞に行って来たのだ。今回はそのため2度も電話を入れてのこと。
 ドアを開けるとマスターは笑顔で迎えてくれた。彼の肩越し、ピアノの上には真紅な薔薇が一輪、リンとした美しさで立っていた。入口レジカウンターの上には彼、菅原正二さんの原点とも言うべき「HOLLYWOOD」のミニボード。それは彼が1967年3月、早大・ハイ・ソサエティ・オーケストラを率いて初のアメリカ演奏旅行をしたカルフォルニアで、ハイソがTV出演した時のメダルのような記念品。その下に掛けてあるオブジェは、かつてトランペッターのハリー・ジェイムスに憧れて、トランペットを吹き始めた時に、ハリーと同じモデルのペットを買ったのだったが、自分には合わないと、そのまま飾りにしてしまったのだ。
 菅原正二・1942(昭和17)年5月23日一関生まれ。父が聴いていたSPレコードに興味を持ったのは小学生の時、ジャズには一関一高時代。大学ではハイ・ソサエティ・オーケストラのドラマーとしての活躍が有名だが、彼は早大文学部の卒。だから今も昔も文筆活動にいとまがない。朝日新聞岩手版への「物には限度、風呂には温度」、JR「大人の休日倶楽部」への「アズタイム・ゴーズ・バイ」の連載などなど忙しい日々を送る。
 かつて「ジャズ喫茶ベイシーの選択」という全国版の本が出た時、僕は中学卒業後10年間クリーニング店で働いたことから「ジャズ喫茶ジョニーの洗濯」という地方版の本を出版した思い出が甦る。彼は僕と生まれ年も店の年令も5コ先輩。しかも僕は一関の隣平泉の出身だから、ベイシーが一関に開店した1970年以来、ずーっと、先を行く、彼の巨大な背中を見ながら、僕はジャズでも別の道を歩みながら過ぎ去る光景を見てきたという感じ。
 1987年、ベイシーの菅原さんがジョニーの僕に語った「音楽に向えば音は大きくなる。逃げようとすればうるさくなる」「音はその人のスタイルだよ」は、今も忘れずにいる。
 
10:58:00 - johnny -

2022-02-21

幸遊記NO.105 「高橋龍山の尺八工房」2013.1.7.盛岡タイムス

 照子と浩、二人合わせた“照ひろ”食堂の名で親しまれて来た、盛岡市飯岡新田の店が盛南開発の道路拡張にともない、34年間も続けた店を閉め、新しく音楽のためともいえる「ギャラリーてるひろ」を開いた龍山さんこと、高橋浩さん(65)の自宅兼工房兼ギャラリーが2年目を迎えた。
 彼は、民謡尺八を師・高橋竹水氏に16年学んだ後、尺八の可能性をもっと追求してみたいと、様々な音楽のジャンルへ挑戦。現在、即興演奏も自由自在。その音の良さは勿論吹く人の腕しだいと言うことなのだが、尺八という楽器そのものにも起因することから、自分で使う楽器は自分で作ってみようと始めた尺八作りも、振り返れば間もなく30年。
 店をやりながら、尺八作りを習うために夜行バスなどを乗り継ぎ神奈川の足柄上郡の先生・大橋鯛山氏の元へ3年通って習得した努力家の製管師でもある。今では鯛山氏を通じて、龍山尺八は海外へも届いている。
 合えばいつもニコニコ。と気さくな高橋さん。出合ったのは2006年1月。僕が紫波の新住民になった時、そのことを歓迎してくれた、紫波町日詰にある文化館「権三ほーる」が開催して「ジョニー・てるいけん・わーるど」という、書と写真とアートの展示をしてくれた時だった。聞けば館主の畠山貞子さんと、高橋さんは同級生で幼なじみの間柄。
 以来、彼は僕の店にも時折、笑顔を見せにやって来ては、楽しい話をしながら飲んで、帰る時には、僕の女房にそっとチップを渡す心遣いを欠かさない、昔人のような方なのだ。
 それこそ「権三ホール」の敷地にある日詰地区最古とされる井戸を再び街づくりに役立てようとした10年前、その井戸前で尺八を吹いたブルース・ヒューバナーさんは、その時、彼、龍山製尺八に出合い「心に残る音だった。」また「彼は熱心。研究してるし、ほんとうのプロですよ」と言う。1976年全米№1になった秋吉敏子・ルー・タバキンビックバンドの音楽に魅せられ、ルーのフルートに憧れて日本に留学、東京芸大で尺八も習得した、そのブルースさんも、以来この10年、龍山尺八とその音を世界へと、そのセールスマンも買って出ている。
10:57:00 - johnny -

2022-02-20

幸遊記NO.104 「高橋比奈子の司会から国会へ」2012.12.31.盛岡タイムス

 年の瀬は1年を振り返ってみたりするものだが、27年前の1985年(昭和60年)日本ジャズ祭に出演した「大迫ジャズコンパニオン」のトランペッター・村田英作さんからハガキが届き「あの陸前高田での日本ジャズ祭でお世話になった、比奈子アナウンサーも“国会議員”懐かしい思い出、私も還暦」とあった。
 はい!そうでした。あのジャズ祭のトリに出演したジャズ界の大御所・歌手「マーサ三宅(ミヤケ)」さんを、比奈子女史は「マーサ・ミタク」と紹介してしまった。それが強力な印象として僕の中に残っていますが、よく間違えることの多い僕は、逆に親近感を感じたものでした。
 2年後の87年、千厩町(現・一関市)職員・佐藤広徳さん等の実行委員が開催した、2日間の「ホット・ジャズイン・せんまや」ボブ・ミンツアやミロスラフ・ヴィトス、タイガー大越、大給桜子、大橋美加、ヨーコ・サイクス、チャリート等が出演したビックイベント。そのプロデュースを頼まれ、僕が彼女に再登板を願ったそれは、とても素敵な司会だった!と今も記憶する。
 高橋比奈子さんは、1958年(昭和33年)1月19日伊保内生まれ。盛岡下小路中、白百合学園高、日大芸術学部放送学科卒。大学4年の時、テレビ東京の朝番組アシスタント等を務め、卒後テレビ岩手に入社。父・横田綾二氏が市議選に出る時退職し、フリーアナウンサーになった。
 比奈子さんの父は共産党で市議や県議をやった方だが、祖父(忠夫)は無産党で戦争反対を叫んだ人。その意志を引き継いだ祖母(チエ)は社会党で市議や県議をやった人で、盛岡先人記念館の100人のうち、唯一人の女性。父が選挙に出馬してからは、そのマイクを握り「評判いいのが負ける選挙戦、父横田は大丈夫と言われるけど、あなたが投票してくれるお陰で当選するのです」と応援し続けた。
 司会などのアナウンスでは“うまく”より“こころをこめて”がモットーだった彼女。どうして自民党からなのかは別として、一浪しての今年2012年末、衆議院選での比例当選。良かったですね。おめでとう!こころを込めて頑張ってね。

10:56:00 - johnny -

2022-02-19

幸遊記NO.103 「サンタクロースからのプレゼント」2012.12.24.盛岡タイムス

 白いヒゲ、赤と白の帽子と服に身を包み、ジングルベルを鳴らしながら、空を駆けるトナカイのソリに乗った、あのサンタクロースのおじさんがやって来る、クリスマスの夜。語られる物語は、1843年から続く「クリスマス・キャロル」(ディケンズ作)からなのだろうか?
 僕の店「開運橋のジョニー」は2001年4月8日の「釈尊降誕日」の開店だったが、今年(2012年12月25日)「キリストの降誕日」を最後に閉店と、決心した!その日、突然と開運の扉開き、まるであの穐吉敏子さんが演奏するジャズ・バージョン「サンタが街にやって来た」かの様に、見知らぬ素敵な方が、僕の前に現れて、「ジョニーさんは、ジャズと盛岡の文化に随分貢献して来た様ですから、灯を消さないで、、、、、、、」と、店の移転費用をプレゼントしてくれたのです。まさか、まさかのサンタ・マリア様!
 これまた実は、実話なのですが、数年前から本物のサンタさんがクリスマスの頃になるとジョニーにやって来るのです。しかも通訳者(八木ゆかりさん)付き、サンタは音楽大好き。ある年、三味線や太鼓、トランペットやギターと一緒に僕も一曲唄ったら、何と、サンタクロースの本に紹介されて、世界を駆け巡ったのです。サンタールチーア!。今年も一週間前の18日、フィンランドエアラインに乗ってサンタさんはジョニーにやって来た。今年のプレゼントは、サンタクロース・パッカネンさんの友人・スカンジナビアンロックギタリスト、ハッセウリさんから預かってきたと彼のオムニバスベストDVD。
 パッカネンさん(TimoAlarikPakkanen)は、1961年から50年以上も、18万個もの湖がある美しい国、あの北欧フィンランドが公認している首都ヘルシンキで唯一人、本物の「サンタクロース」なのである。サンタは世界20ヶ国を飛び回る忙しさだが、「日本ほど、赤ちゃんからお婆ちゃんまでサンタさんが大好きな国はない」のだとも。
 「ムーミン」はフィンランドを代表するが、パッカネンサンタさんは「日本で有名な“あわてんぼうのサンタクロース”というクリスマスファンタジーのフィンランド版を作る計画を立てている」と言う。メリークリスマス!
10:55:00 - johnny -

2022-02-18

幸遊記NO.102 「村上徳行のジャズ音頭まつり」2012.12.17.盛岡タイムス

 二姫一太郎だった末っ子の長男、一行くんが受験した医師国家試験合格発表の2011年3月18日。我が息子の合格を見届けに戻って来たというかのように、3・11に行方不明となった一行くんの父で歯科医だった村上徳行さん(当時63)の遺体が見つかった。
 震災前日の3月10日、岩手医大卒業式の日に親子三人、卒業証書を持って撮った記念写真が遺影となった徳行さんは、自分の言いたいことの10分の1すら口にすることなく、無言実行。独り言を喋る様に人の心をいたわった。村上歯科医院を開業する時に大東町(現・一関市)出身だった彼は、妻・律子さん(釜石市出身)、二人の故郷の間にあって、親戚のいる陸前高田市を選んだのも、妻に対する彼一流の心使いからの理由の様だった。
 根っからジャズが好き、オーディオにも相当凝った。陸前高田の高台、鳴石団地に自宅を建てた時には、半地下にオーディオルームも造るからと、僕に相談してくれて、オーディオ評論家であり、その実験と研究で知られる江川三郎氏からのアドヴァイスなども受けて、総栗材による音楽鑑賞室を創った。そしてそのお披露目会には、何と当時、日本ジャズピアノの重鎮だった故・八城一夫のピアノトリオを呼びたいと言うので、僕が仲立ちをして実現。オーディオルームでの生演奏。そう、それはまるで小さなジャズ喫茶そのものでした。
 僕が陸前高田でジョニーをやっていた時も、盛岡へ移ってからも、店に時折やって来ては、飲食代は常に釣り銭を受け取らないばかりか、釣り銭の方が多いのだったし、歯科の治療費さえも必ず無料にしてくれたものでした。陸前高田における、ジャズ活動で窮々としながら走っていた僕を見かねての事だったと思う。ある時「マスター、何かドーンとやっぺぁ」と僕に赤字になってもいい大コンサート企画をさせてくれた。それは、1984年4月2日の「陸前高田ジャズ音頭まつり」宮間利之&ニューハード・オーケストラと弘田三枝子、北原ミレイ、そして杉野喜知郎トリオと園田まゆみ。主催者はジョニー・アンド・ヒズ・ジャズフレンズ。17名の実行委員による、ジャズと歌謡曲の融合を夢見たまさに「バラの革命」であった。あれから30年。今や由紀さおりも森山良子も松田聖子も八代亜紀さえもジャズとの融合である。
10:53:00 - johnny -

2022-02-17

幸遊記NO.101 「長柴政義の天命歌謡詞」2012.12.11.盛岡タイムス

 陸中海岸の自然に恵まれた山と海の街にあこがれ、出身地・宮城県古川市(現・大崎市)の古川工業高校土木科を卒業して釜石の建設会社に就職したのは、1958年(昭和33)のことだったと話す長柴政義さん(72才)。ところが会社は一年半でつぶれてしまい、仕方なく土方の飯場に寝泊りする日雇い暮らしをしていた時、先輩のすすめで釜石市役所の入所試験を受け、技術職員として採用された。以来、現場の実践から立案まで41年間技術職一筋に定年まで働いた。
 定年後すぐに「今だから語れる私の人生60年史」という自分史を出版。更に2年後の2002年には「企業城下町の苦悩と再生」という、釜石の今昔物語を出版。それは近代製鉄の祖と言われる大島高任(1826~1901)が1857年に釜石の大橋に高炉を築き、鉄鉱石による出鉄に成功した彼の没後百年を記念しての歴史本だった。
 長柴さんが市職員となった時の市長は、あの鈴木東民氏。60才の1955年から3期市長をやり、その後市会議員となった語り草の人で、東大卒、朝日新聞を経て読売新聞に入社。日本初となったストライキを先導し勝利した。釜石市長時代には、製鉄所の公害追放運動を展開し、国の環境庁以前に公害課をつくり、市民の健康と漁民の生活を守った。川の上には「橋上市場」水路の上には「のんべい横丁」と、釜石の文化をつくり、道は舗装してなければ道路ではないと、舗装用機械を整備し市直営で失業対策事業と合わせて実践。すべての市道を舗装し、県下一とした人。
 以来、彼、長柴さんも「有言実行」自らに誓い「自然と歴史と文化の伝承」を心に掲げ、我が身を粉にし、釜石のための交流の街づくりをし、その全てを歌にした。僕が長柴さんと出会ったのは平成元年。彼が立ち上げた「釜石オリジナル歌謡同好会」のカセットテープの製作を手伝ったり、その歌手を選ぶカラオケ大会の審査員や顧問などを仰せ付かりながら見て来たものは、長柴さんの鉄人ならぬ哲人振り。
 3・11では自宅と歌謡スタジオなど被災しながらも、すぐさまそれを「天命」という歌にして、育てた歌手達に唄わせてリリース。年5回14年続けてきたカラオケ大会も復活させ、心の復興をうたい、実践し続けている。
10:51:00 - johnny -

2022-02-16

幸遊記NO.100 「伊藤博康のアキュート事始め」2012.12.3.盛岡タイムス


 何事にも初体験というものがある。僕がレコード会社?を立ち上げ、地方から中央へ全国へと、地方復権の狼煙を岩手からあげたのは1978年のことだった。待ってました?と、新聞や雑誌が取り上げ話題を蒔いてくれたことが昨日のように想い起こされる。そしてそのレコードが初めて電波に乗った日のことも鮮明だ!。
 それは翌年の79年1月28日。岩手放送の「アキュート・かわら版」という番組の中で5分間、僕が制作した中山英二の「アヤのサンバ」が流れた時の感激は、相当のものでした。放送が決まった時、僕は表通りの店の壁に、放送を知らせる、大きなポスターを貼り出して心待ちしていたものでした。
 あの時の感激を色んな人に味わって貰いたいものだと、85年から2010年まで25年間続いたFM岩手のジャズ番組「オールザットジャズ」に、DJだった僕は、勝手に実に様々な人々をゲストに招き、出演して頂いた。それはさておき、街頭放送の東洋有線放送から始まったという、現・東洋アドシステム(株)は、今尚も続く、情報誌・月刊「アキュート」を出版する会社。その社の立ち上げた1972年から初代編集長を務めながら、それこそ僕の最初の放送をしてくれた人は、伊藤博康さん(61)だったことが、最近彼に出会って分かり、感激再びで嬉しかった。
 彼は1951年、秋田県大館市に生まれ、秋田県立大館工業高校から東京銀座にあった広告企画研究所の一期生として糸井重里等と、コピーライター養成講座を終了!Jターンし、盛岡短大法経科を卒業。アキュートに始まり、盛岡レクリエーション協会初代理事長はじめ、様々な方面において資格や趣味を活かし、多方面で活躍してきた人。現在では「いとをかし企画」のプロデューサーとして、人生を愛し、楽しく毎日過し、一日一日に全身全霊を注ぎながら「人生楽ありゃ苦はいらネ」というパーティーや、結婚式等等の司会進行演出を手がけている日々。
 若き日の東京から秋田(帰る時に乗り継ぐ駅の)盛岡に降りた時、開運橋から眺めた岩手山に惹きつけられて、そのまま盛岡人となった彼の半生そのものの様に、人と人を新鮮につなぐ開運の橋渡し役として今日に至っている。
12:20:00 - johnny -

2022-02-15

幸遊記NO.99 「後藤新平の演説・政治の倫理化」2012.11.26.盛岡タイムス


 15年の運動が実り、遂に盛岡天文台が出来ることになった!と喜びながら飛んできた親友で医師の、八木淳一郎さん(盛岡天文同好会)の手には何故か、以前から持っていたという赤瀬川原平の写真集「正体不明」。表紙には国会議事堂の塔部写真。実に面白い!。
その直前には俳人の菊地十音さんから「政治の倫理化・後藤新平」という演説レコードを頂いた。大正末期にSPレコードに吹き込まれ、のち水沢市(現・奥州市)が、20センチLP盤に復刻したもので、早速聴いてみたら、翌日には現国会で衆院解散発表ときた。凄いタイミング!と僕はその後藤新平の演説を、今度立候補する政治家と国民に伝えたいと、これを書きだしている。
 「政治家が金の力第一義となれば、現在の如く俗悪な政治。これに反し、心の力第一義となれば、政治は正道に進むことになり、これによって国民生活の改造、又は改善となる。これが私の首唱する政治の倫理化」「我が国の現政治に対する不満は果たして誰の責、、、、。人に責むよりも各人まず自ら省るべきものと信じます」。
 当時も日本の政党を見て、国民は、あれは国家の公の政治団体ではない利権株式会社、我利我利亡者の寄合世帯であると言ったそうだが、彼は「政党がただ頭数を問題とし政権獲得のみを目的として没頭するが故に、選挙は国民政策、国民生活の大策から離れて、手段を選ばぬ政権争奪をなすのみを目標とするがために、我党内閣などという珍妙な言葉が発明され、その脱線の末、横車を押し廻すような結果に陥る」と語り。「国民一人一人が同じ国家を体現しておるということ、故に国民は有機的に協同して一心同体となる国民精神力」の大切さを訴えている。
 後藤新平(1857~1929)水沢生まれ。明治時代愛知病院に勤務。板垣退助の負傷の手当てが縁で内務省衛生局に転じ、ドイツ留学し帰朝後、内務省衛生局長となる。41才で台湾総督府民政局長となり同郷の新渡戸稲造らを採用。49才で満州鉄道総裁。63才で東京市長。65才少年団連盟総裁。66才内務大臣として関東大震災の復興にとりかかり帝都復興院を設置。68才大正14年(社)東京放送局設立(現・NHK)し、さらなる政治の倫理化を展開した。
12:19:00 - johnny -

2022-02-14

幸遊記NO.98 「鈴木清の写真・鈴木光」2012.11.19.盛岡タイムス


 TV神奈川の福島俊彦氏と連れたって、サキソフォンを吹くという鈴木光さんが、開運橋のジョニーに現れたのは、2012年5月2日のことだった。名刺には鈴木清・フォトオフィスとある「えっ!光さんって、あの写真家の娘さんなの!」と、僕の頭は30年前のアサヒカメラ誌に掲載された写真「残照の街」へと戻って行った。
 光さんは、その後、2度ジョニーへ来店して、今回は、その30年前のカメラ誌に鈴木清氏の写真や彼についての事を、僕が親しくさせてもらった写真家の故・朝倉俊博氏が書いた記事をコピーして持参してくれたのでした!。僕は僕で、それと同じコピーを用意して、光さんが現れるのを待っていて、同じコピーを交換し合って、泣き笑いした。
 そしてもう1つ、その写真家・故・鈴木清氏(光さんの父)が1972年に自費出版した初めての写真集「流れ歌」が、何と「40年の時を経て復刻なりました」と、僕への手土産として持参してくれたのです。嬉しさのあまり、僕は深夜だというのに、朝倉さんの奥様・憲子さんに電話を入れ、3人で代わる代わる、感激的な不思議なめぐり合わせについての長話をした。
 鈴木清(1943~2003)は福島県好間村(現いわき市)生まれ、高卒後漫画家を志し上京したが、土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」に出合い、写真に転向。東京総合写真専門学校を卒業し、カメラ毎日に、「シリーズ・炭鉱の町」全6回を発表し写真家としてデビュー。「天幕の街」で第33回日本写真協会賞で新人賞。「夢の走りで」写真の会賞。「修羅の圏」で第14回土門拳賞を受賞した。
 彼の作品は彼亡き後により輝き、2008年オランダとドイツで大規模な回顧展。2010年には、東京国立近代美術館にて回顧展。今もパリフォトへ陸前高田市出身の畠山直哉らの写真と共に海外出張中と再注目され続けている。
 その娘・光さんは1975年9月28日横浜に生まれ、現在も横浜に住むランドスケープデザイナー。岩手へは震災ボランティアで来て、写真を拾う「思い出探し隊」への参加や、復興マップ作り、復興商店街での演奏。横浜と気仙をジャズでつなぐメディア活動などで、被災者に光を与え続けている。
12:17:00 - johnny -

2022-02-13

幸遊記NO.97 「古里昭夫の南部盛岡とうふの会」2012.11.13.盛岡タイムス


 若い時カメラ業界の雑誌社にいた、古里昭夫さんは、古里岩手に戻って、やはり編集者として印刷会社に勤め、フリーとなった今も編集業で、それぞれ15年前後の時を過して来た。編集の達人。
 その彼が、「楽しい街の探偵団」にて、盛岡らしさを探していた時、出会った「豆腐買地蔵尊」。縁起は400年ほど昔のこと、病に臥した母が「食べたい」と言った「豆腐」を孝行息子が毎日買って食べさせたら、母は元の様に元気になったことから、その息子がたいそう喜んで、地蔵さんを寺に寄進。そのことから「豆腐買地蔵尊」と呼ばれるようになったと。
 「オンカカカビサンマエイソワカ」とお唱えするこの地蔵様の縁日は、1月と7月の22日。1月ならば当然「いいふうふ」7月ならば「おあついふうふ」ふたつあわせて「煮たものふうふう」豆腐に梅干のせれば国旗のような日本食と、頭はまるで寄せ豆腐的連鎖だが、年令と共に「がんこ豆腐」が口に合う僕。
 2012年10月2日(とうふの日)、盛岡南大通2丁目にある湯殿山、連正寺(川村政加住職)にて「第10回とうふまつり」が開催され「ジャズと落語とトーフ」のゲストスピーカーに招かれ、シャレばかり喋って来た。その時、ビックリしたのは、6年前、紫波・あらえびす記念館から頼まれて「書展」を開いた時、見に来た古里さんが「とうふ」と書いて欲しいと言うので、彼の前で書いて渡したその書が、なんと連正寺の地蔵尊の横に額装されて飾られていたことでした。
 陸前高田時代、本の取材に。四十四田時代にカレーを食べに、盛岡大通にビックストリートジャズを聴きにと、つかず離れず、ふるさとのように、AB型的関係をずっと保ってきた僕達。
 彼は1949年(昭和24)8月15日、川井村(現・宮古市)生まれ。盛岡農高の食品化学科に学び、ブラスバンドでアルトホルンを担当した。卒業後上京し、雑誌社へ。「とうふの会」を始めたのは、当時、盛岡ターミナルビルの社長だった萩野洋氏が「盛岡は豆腐消費日本一」ということを見つけ出して来たのが始まり。2006年、南部盛岡とうふの会発行の「とうふー」という本も、もちろん彼の編集。とてもいい本でしたね。
12:13:00 - johnny -

2022-02-12

幸遊記NO.96 「伊東美砂代のブナの森絵画」2012.11.5.盛岡タイムス


 今年2012年の夏、店に兵庫から来たご夫妻。話を聞くと二人は全国のブナの森を訪ね歩き、その生命力に満ちたブナの巨木をご主人は写真に撮り、奥さんはスケッチし、帰ってからそれをもとに、二人三脚で油絵に仕上げるのだと言う。
 その時持参していた美術屋百兵衛のアート雑誌を見せられたら、「ブナから得た感動を作品を通して観る者に伝えたい」と言う、画家・伊東美砂代さん(51)の作品が8ページに亘って特集されていた。ブナの巨木のたくましい根元、深い蒼色空に登って行く幹と枝、山の水源木とされるブナの様々な木姿が描かれていた。その時ふと!ブナと言えば菊池如水さん!と頭に彼の絵が浮かぶ。
 「丁度今、紫波の“名曲喫茶これくしょん”で如水さんの、[90才の卒寿展]が開かれています!」と、伝えたら何と二人は観に来て、如水さんと意気投合!流れる音楽にも興味を示すことから、聞けば美砂代さんは、何と大坂の相愛女子音大の作曲科音楽学を専攻し卒業していた人でした。
 ブナの森を歩き出した頃は水彩。油絵は約10年と言うが、ミレー友好協会のフランス本部展に初出品した「ブナの森・睡蓮と語る」で奨励賞。その後、協会賞。ヴァンセンヌ市長賞。優秀芸術家賞など受賞し、ヴァンセンヌ支庁舎に飾られた。そして仏国が主催する伝統の公募展「ル・サロン」でも2011年12年と連続入選。
 更には今年2月、東京上野の森美術館で開催された第17回「日本の美術・全国選抜作家展」に初出品した「ブナの森早春の妖精」は、いきなり大賞を受賞し、その副賞が、パリでの個展というおまけ付きの夢の様な物語。しかも美沙代さんにとっては、初めての個展だった。
 そこで想い出したのが如水さんの1996年の話。宇都宮での個展の時、当時、芸大の教授だった、あの日本画の大家・故・平山郁夫氏が会場に来て、如水さんの作品に驚き14分間も会場入り口に立ちつくし、そして「芸大の学生たちに絵の話をして欲しい」と頼まれ、翌日講演して来たとの話、美砂代さんの話が、今回(10月)の再会時に僕の頭の中で重なった。
12:00:00 - johnny -

2022-02-11

幸遊記NO.95 「早川泰子のオールドチャーター」2012.10.29.盛岡タイムス


 秋田市のジャズクラブ「5スポット」を中心にワールド・ワイドな活動を続けている、ピアニスト・早川泰子さんが、アルトサックスの第一人者、山田穣(44)さんを連れたってひょっこりとジョニーへ現れた。嬉しい突然のサプライズにハグハグ。
 早川泰子カルテット+山田穣の2001年10月27日、ジョニーでの満員ライブの光景が頭をよぎる。その後の盛岡公演日の深夜にも、よく店に顔を出してくれて、山田さんと演奏をプレゼントしてくれたことも何度かあったが、或る日の二人が演奏した音楽は、僕の心の奥深くに鮮明に刻み込まれ、生涯忘れないであろう、大切なシーンの一つになっている。
 その二人のデュオアルバム「オールド・チャーター」が2012年11月22日に全国一斉発売されるというから、楽しみです。二人の演奏に共通することは、聴いてる人々の、胸の深い所にまで沁みこみ、頭では考えられない幸福感を伴う、濃厚な一瞬を作り出してくれるところにあると言っていい。
 彼女は北海道の伊達紋別生まれ。道庁職員だった父が交通事故で亡くなり、中学校の時から母の故郷、秋田市へ。聴いた音はすぐに何でも弾ける程好きだったピアノに夢中になり聖霊女子短大音楽科へと進んだ。毎日8時間も練習すると、曲は完全に自分のものになり、演奏を変えたくなるのだったと言う。その変え方がジャズへと向かわせたのだが、ジャズにたどり着くまでには、あらゆるジャンルの音楽を演奏したのだとも。
 そして知り合った「5スポット」のマスターと結婚。ジャズレコードからバップスタイルのピアノを徹底コピーし、演奏者それぞれの考え方を知ったうえで、自分なりの個性を磨いた。「日本の10本ではなく、ニューヨークで認められなければダメ」と「自分の師匠だった故・大野肇(三平)氏から言われた言葉を頭に置き続けてきて、今があるの」と、彼女。
 バリーハリス。レイブライアント。ケニーバロン。等一流ピアニストたちの前で演奏するチャンスも多々あった。NHK・FM「セッション505」には最多?の6度。山田穣さんとは5度出演している名コンビ。互いの心はまさに!オールドチャーターそのものなのだ。
11:58:00 - johnny -

2022-02-10

幸遊記NO.94 「米澤秀司のDrスイッチ」2012.10.23.盛岡タイムス


 冬の足音が近づいて来た。ストーブにスイッチを入れても点火しないなどの話を聞く。そんな時には、買い換える前に修理やさんに見て貰ってから!直すか、買うかを決めた方が得!。かつては街の電気店。少し前までは修理専門のチェーン店もあったが、今盛岡市内に残っている修理屋は、何と「Drスイッチ」唯一店。
 そのDrであり、経営者、ジャズサキソフォニストでもある米澤秀司さん(53)は言う。様々な家電が持ち込まれますが、直るのは七割。あとの物は、以前の様に部品調達が出来なくて、工夫しても修理出来ない物もある。
 確かに様々な業種にいえることなのだが、もう、修理ではなく、部分交換する作業に変わっていることから、かつてのエンジニアから、チェンジニアと呼ばれて久しい。メーカーもすでに修理を念頭に置かない価格競争の時代。それでも物への愛着から直して使いたい人も居るのである。僕もその一人だ。
 2001年僕が盛岡へ店を出して間もなく、ステレオのアンプが故障して困っていたところに現れたのは、昔、盛岡八幡町にあったジャズ喫茶・伴天連茶屋で番頭さんをやっていた米澤さん。彼は家電修理店を始めたと言うので、すぐ様お願いしたら、さっそく直してくれ、修理代は「開店祝」と言って受け取らなかった。
 以来、今日も尚、僕の店のステレオDrであり、演奏者でもある。店に出演するアマチュアミュージシャン達の鏡の様な存在、素晴らしいアルトサックス&フルート奏者なのだ。とにかく演奏が好き、日に3時間以上の練習は欠かさないという、プロ並みの生活。そんな父の姿を見てきた岩大生の息子(健汰)さん(21)も「仕事も演奏も楽しそうに続けている父を尊敬しています」と、はっきりと言う。
 米澤秀司さんは、1959年栃木県今市市(現・日光市)生まれ。父の実家雫石町に小学校の時引っ越して来て、中学ではフォーク。盛岡一高ではロック、3年生の時、デート場所だったジャズ喫茶でアルバイトを始め、そののち、伴天連茶屋のマスター・瀬川正人夫妻の仲人で結婚。ジャズを演奏する様になってから、東京のジャズクラブへ出演したこともある。ジャズは生活の一部、趣味を超え体に馴染み日記と一緒。それは若い時から今も尚、彼にとっての自由への憧れそのものなのである。
12:47:00 - johnny -

2022-02-09

幸遊記NO.93 「30年振りの様々な再会」2012.10.16.盛岡タイムス


 「ジョニーへ30年振りに来ました。随分いろんな処に行きましたが、こんなに音のいい本格的なジャズ喫茶は、もう、一関のベイシーと、盛岡のジョニーぐらいなものです!」。と言った人が居た。話を聞けば「デジタルの先端技術を開発し海外に売る。そして県外で得たお金を、岩手に持ち帰り、岩手で使う」。そう言いながら、「やっぱりアナログの音は最高!」と言ってボトルを入れ、僕に、店を続けて来た事への感謝の言葉と、そして今後のパワーをプレゼントして帰った「真司」さん。
 30年前は子供だった僕の親友の娘が、母親となり、素敵なご主人と連れたって自分の子を見せに、東京から僕の店に来て、亡くなった父の昔話をしながら、涙ぐみ、僕と親子の記念写真を撮って帰った「かな」さん。僕も嬉し涙がにじんだ。
「30年前の僕のレコード“開運橋ブルース”の事を照井さんが盛岡タイムスに書いた記事をコピーし、いろんな人に読んでもらいました。そうしたら、何とあの曲が、今年(2012年7月)第一興商のカラオケに入ることになったんですよ!本当にありがとうございました」と、電話をくれた歌手・大船わたるさん(70)。9月には「先日カラオケで歌ってきました。感激でした」と、東京から盛岡へ弟子の歌手・美月優さんを連れ、僕に会いに来てくれて「今カラオケの事を、ラジオでも喋って来ましたよ」と、嬉しそうでした。
 穐吉敏子さんのご主人、ルー・タバキンさん率いる国際トリオの、ジョニーライブを聴きに来て「30年振りのジョニーです。今夜の素晴らしい演奏光景、東京じゃ考えられません」そう言って帰り際に、名刺を差し出した東京都板橋区長・坂本健氏。「僕の娘も板橋に住んでます」と言ったら、名前は?と聞かれたので、名刺の裏に「照井泉沙子」と書いて渡した。娘は僕が30才の時の子、彼女も、もう35になった。
 一人で来店し、会計時に女房に名刺を渡して帰った人が居た。それを見て多々思い浮かぶ事があり、僕が電話をすると彼は戻って来て、共通の友人とジャズ談議に花が咲き、時を忘れた。「たきび」で知られる巽聖歌が住んでいた、東京日野市旭ヶ丘。そこの交通遺児学生寮から、大学に通った彼・菅原直志氏(44才・一関市出身・日野市の市議会議員5期目)は、7才の時父を亡くしている。37年後の今、名刺の裏には、プロフィールと共に幸せそうに我が子を抱いて撮った自分の写真が添えられている。
12:43:00 - johnny -

2022-02-08

幸遊記NO.92 「星吉昭のせんせいしょん」2012.10.8.盛岡タイムス

 あれは1981年の正月頃。レコード店で見た「奥の細道」。平泉中尊寺の月見坂途中にある、同名の看板と宇宙が直結したシングル盤(EP)のジャケット。レコードを取り出して見たら「見本盤」の文字。試聴したら欲しくなり、定時制高校時代から、通っていた陸前高田の「金繁レコード店」の店主、故・金野善夫さんから、その見本盤を貰って帰った記憶。
演奏していたのは岩手の「姫神せんせいしょん」星吉昭、当時(34).佐藤将展(21)等。その時、レコード聴いた僕も33才。農作業しながら踊っている様な、日本の原風景的シンセサイザーのリズムに魅力を感じた。
 当時はまだ、バンドとしての態勢はとれていなかったため、実現はしなかったけれど、姫神のコンサート開催を申し込んだ第一号者は僕だった。新譜が出る度レコードを買い、全作品を何度も何度もジョニーで聴き続けた。彼が滝沢の巣子から田瀬湖畔へスタジオを移した頃からは、僕が陸前高田から盛岡へ出かけた帰りに、幾度か勝手にお邪魔し、音や話を聴かせて貰ったりした。
 かつて僕が担当していたFM岩手のジャズ番組に出演して貰ったことや、彼の番組、IBCラジオに、僕を呼んでくれたこと。そのずっと以前のNHKTV取材時、ジョニーでピアノを弾いてくれた感激!。あの時彼はまだ、カーリーヘアだったことなどが思い浮かぶ。
 星吉昭(1946~2004)さんは、宮城県若柳生まれ。若柳高校を卒業し、デキシーランド・ジャズを演りたくて上京。電子オルガン全国コンクールでグランプリ。ビクターの音楽教室が盛岡に出来た時、嘱託で来て、のち結婚した悦子さんに出会った。
 「奥の細道」ヒットのきっかけは、岩手放送が番組の合間合間に流していたことだった。発売前から、曲名を言って買いに来る客が居るとあちこちで評判になり、発売と同時にハガキリクエストがベストテン入り。1、2ヶ月後には第一位。確か松田聖子や近藤真彦を抜いてのことだった。以後は、喜多郎やYMO以上に世界へと広まったことは、誰しもが知る。                       
根底に流れていたものは、彼の言う「北人霊歌」(東北の民謡)。自然と共存する東北の姿を、音にして伝えた姫神サウンドの原点こそは「南部牛追唄」。力強く、風の音にも似た、故・畠山孝一氏の声の響に、彼が、心を打たれたことだった。
12:43:00 - johnny -

2022-02-07

幸遊記NO.91 「山崎俊之の真夜中を数えて」2012.10.1.盛岡タイムス


 「先日お話ししたCDを進呈します。ヴォーカルは赤崎町(大船渡)出身。ピアノは私の甥(宮古出身)です」。そう走り書きしたメモを添えてCDを贈ってくれたのは、当時、岩手県大船渡振興局長だった岩切潤氏、1991年秋のことでした。タイトルは「THE・THANKS」。僕はそれを、当時DJを担当していたFM岩手のジャズ番組で放送した。
 それから3年後の94年。そのCDのピアニスト・山崎俊之さんが、盛岡から陸前高田へやって来て、2枚目のCDを出すことになったので、そのライナー・ノーツを僕に、書いてほしいと言った。
 話を聞けば、彼は宮古高校一年生の時に、地元にあったジャズ喫茶「美学」で、宮古出身のピアニスト・故・本田竹曠さんが弾いた「浜辺の歌(成田為三作曲)」に大感激し、ジャズコード(和音)を教わり、その場で、彼に譜面まで書いて貰ったと言う。
 そこから、山崎さんはジャズにはまり、坂元輝の教則本を買い、ジャズピアノの勉強をした。1981年、僕が陸前高田で製作した坂元輝のLP「海を見ていたジョニー」(五木寛之の同名小説にちなむ)を知り、宮古から自転車に乗り、途中のジャズ喫茶に寄りながら、僕の店、陸前高田のジョニーまでそのレコードを買いに来たのでした。これも感動!
 そんなこともあって、僕が盛岡へ店を出して間もなくの2001年6月17日、彼は彼なりに「海を見ていたジョニー・ストーリー」のライブを考え、開店したばかりの開運橋「ジョニー」で開いてくれた。それは、山崎さんらしい歓迎の仕方。僕は、とてもうれしく思ったものでした。
 僕が、平泉中学校から高田高校へ入学した1963年(昭和38)。4月29日(昭和天皇の誕生日)に山崎さんは宮古で生まれた。彼は、宮古高校から日大芸術学部の作曲科へと進んだ。理由は「映画音楽を作りたかったから」だそうだが、2枚目のCDに入っている「舞踏会が始まる前に」は、映画「口紅」に使われた。自ら脚本を書いた2006年の自主制作「真夜中を数えて」にはピアニストで登場。この映画(DVD作品)は、彼がピアニストとして25年間務めている、盛岡大通「にっか亭」の制作。サントリーの様な「山崎」さんが、ニッカの様な店「にっか亭」で日課として、ピアノを弾いている。それも、おシャレ!  
12:35:00 - johnny -

2022-02-06

幸遊記NO.90 「津田匡義の徳間文庫マーク」2012.9.24.盛岡タイムス


 かつて盛岡中央通3丁目に、僕が大好きだった版画家・津田匡義さん(1941~2002)が住んでいた。樺太のシスカに生まれ、熱病で小児マヒになり体が不自由だったこともあり、家の中での仕事を指して、穴倉生活者だと言っていたが、不思議なパワーを感じさせる人だった。
 彼が住んでいた家のある細い道の端には、かつて「ジャズ喫茶パモジャ」があった。そこで彼と知り合い、何度か自宅へお邪魔し話をした。陸前高田のジョニーで、彼の版画展を開いてもらったこともあっし、ハンクジョーンズのピアノ、尾田悟のサックス、それにバイソン片山のドラム(1979年僕のレーベル、ジョニーズディスクからレコードデビューした人)等のコンサートを陸前高田で開いた時のポスターにも彼の作品「JANZU」を使わせて貰ったりした。いい作品でした。
 彼が使う和紙は「店の片隅に追いやられ、すすけてシミのついたものなどで、それを見つけては、俺と同じだなあ、一緒にやろう!」と、紙に語りかけることから始めていた。そして基調となる藍色は特にも、昔の藍を追求し、それに海の緑色や、砂の色を好んで使った。
 版を掘るノミは、子供が使う当時365円だったという6本セット。話を聞いた時には10年間一度も研がずに使っていた。無理の無い自然な角度で彫っていれば、それは研ぐことと同じなのだと言う意味、ハッとした。それは、レコードプレイヤー「ウェルテンパード」のトレースの仕方と同じなのでした。柄も手の油で黒く光っていて、その彫刻刀すらまるで彼の作品そのものの様だった。
 版画はギチッと色が押ささるものだが、彼は、どうしようもない位、柔らかな伝わりが表現出来なければ俺の作品じゃない!とふわりと包みこむような色が出てくれる様にと祈る様な気持で刷っていた人でした。
 原稿用紙に、太字の万年筆で描く藍版画の様な、力強くも心のぬくもりが伝わる字で、何枚もの何通もの、手紙やハガキが届いた。僕が盛岡に店を出してから、何かの案内を出した2002年、彼が、その年5月に亡くなった由、奥様の弘子さんからのハガキで知った。残念だけれど、彼の作品である徳間文庫のロゴマーク(男女の双顔)は、今も、日々全国津々浦々に届けられている。
12:34:00 - johnny -

2022-02-05

幸遊記NO.89 「西田耕三の気仙沼大島の記憶」2012.9.17.盛岡タイムス


 宮城県気仙沼市を流れる大川の河口あたり、内の脇という所で「耕風社」という、地方出版社を営みながら、数百冊を数えた本の出版。自らの著書も120冊余りを出版していた、ノンフィクション作家・西田耕三さん(79)と、久し振りに電話で話をした。
 今彼は、山形の鶴岡市にて古い一軒家に、奥さんと二人避難生活をしているという。かつての気仙沼の家は津波にあい、過去の全てを失ったけれど、人気レストラン「アルケッチャーノ」のシェフとして働いている息子さんのいる鶴岡にて、孫の子守をしていると。
 そうは言え、今年(2012年)3月にはもう、東京の彩流社から「気仙沼大島の記憶」という、詩人・水上不二(本名・佐蔵・1894~1965)の人と作品を出版した。この本は、2007年4月~2009年3月まで、270回にわたって河北新報気仙沼版に連載した作品を補訂してまとめたもの。その素早さには、それこそ、作家という者の不二(?)身さを、見せつけられた思いがした。
 彼には、僕も昔日に「ジョニーのらくがき帳」「日本ジャズ専門店」「陸前高田ジョニー」などの本を出版して頂いたことが頭をよぎる。本とはいえ、あちこちに書き散らした様々な僕のエッセイを、彼がもう一度、原稿用紙に、万年筆にてリライト、それをタイピストに打たせて編集し、印刷所に持ち込むという方法だった。
 今にして思えば、気の遠くなる様な手作業を、ずっと、やっていたのでした。その根気こそが、彼の原動力であり推進力、考察力の素であるのだと気付かされる。
 彼にとって新しい土地である山形でも、すでに庄内日報紙に「月山」で知られる、今年生誕百周年の芥川賞作家・森敦(1912~89)の作品を読み解くアンソロジー「私の私的リテラシー」を連載中である。「脳のレッスン」と笑う彼だが、庄内地方と気仙沼地方の交流の橋渡し役も買って出、今年は、そのブナの自然林に囲まれた月山湖畔に、気仙沼八幡太鼓の子供達を呼び、野外でのまつりを行ったと言うし、10月には、気仙沼の水産物を紹介するサンマまつりや、もどりガツオを食べる会なども企画していると、心技体の三つを耕す名の如く、衰えず、益々盛んな様子である。
12:33:00 - johnny -

2022-02-04

幸遊記NO.88 「黒沼忠雄の風土建築」2012.9.11.盛岡タイムス


 9月8日の夜、ひょっこりと、久慈市から黒沼忠雄さん(72)が、開運橋のジョニーにやって来た。顔を見て真っ先に浮かんだのは「琥珀」。そう、地質百選の琥珀の邦・久慈にて掘った証明書付琥珀を「01・A・08」の形に加工、それを、大野の木工と初ドッキングさせ、漆を塗って仕上げた、楕円形の美しい、オリジナル・トレイ。それは、彼、黒沼さんが考案して、発注したもので、開運橋のジョニーの開店日、2001年4月8日に、お祝いとして、彼から頂いたその記念品には、琥珀の神秘と男のロマンが込められていた。
 彼は、30年前に久慈市に山根六郷研究会を発足させた初代会長。その中山間6集落の山村文化に着目し、継承しながら、その山里に水車小屋を創り、山根六郷写真美術館・ラボ端神を造り、街からかつての造り酒屋の蔵を移築して陶芸工房「遠島焼」や「ピリカ焼」を開かせた。それ以前には、山根を山桜の里にしよう!と十数年かけ、地域との二人三脚で一千本の桜を植樹し、開花させた人でもある。
 又、一方では「くんのこほっぱ(琥珀堀場)」愛好会の会長も務めて、この会の創立15周年の2001年には、先人の努力を紹介しながら、郷土を学ぶ「くんのこほっぱ昔語り」という琥珀の里の歩みを刻んだ記録集を出版。琥珀の案内板も設置するなど等、八面六臂の行動力。「岩手県まちづくり」アドバイザーでもある。
 昨2011・3・11の震災後には、ロータリークラブが取り組んだ「心の杜づくり」の担当委員長も務め、海から2キロ先にある里山の市有林に、その「心の杜」公園を開いたという。「震災で負った物凄い心の傷をどうやっていやし、もとに戻すかが、その最も大切な復興なのでは」と。海と少し距離をおいた森に、散策路や、海望デッキを造ったという。これからも、毎月11日2時46分、祈る人々の心に、こだま(木霊)する鎮魂歌は、きっと海までも届くはず。
 大坂の建設専門学校を卒業し、京都、奈良で建築の基礎を学び、施工会社で修業。32才で「黒沼建築設計事務所」を立ち上げ独立。宮古から八戸まで、主に地元産材を使った木造建築を中心に据え、地域景観に彩りを添える土着文化、それを「風土」に学び、実践し、40年間共生してきた建築士。僕も彼に学んだこと多々。
12:31:00 - johnny -

2022-02-03

幸遊記NO.87 「伊勢崎勝人の花々の肖像画」2012.9.3.盛岡タイムス


 14年振りの再会だった。この幸遊記(№70)で紹介した画家・鷺悦太郎さんと連れたって開運橋のジョニーに現れた、仙台在住の画家・伊勢崎勝人さん(64)。なんでも、盛岡市中央公民館で開かれる「つながるアートコミュニケーション」での公開制作の講師役を、二人が頼まれたとの事だった(8月5日~19日)。
 鷺さんは、陸前高田に生まれ育ち今も在住する専業画家。伊勢崎さんは、八丈島に生まれ、40代の時、6年間陸前高田に移り住み、絵を描いていた画家で、昼は3人の子供達と一緒に自然とたわむれながらスケッチ。夜には、昔、高田文化服装学院だった廃校を利用したアトリエで絵を描き、深夜や未明になると、僕の店「ジャズ喫茶・ジョニー」にやって来て、ウイスキーを飲んでいたことが想い浮かぶ。
 陸前高田に来た1992年、自己紹介的な個展を市民会館で開き、その後には、同市のキャピタルホテル1000、盛岡の川徳デパート、でと、次々思い出していたら「今度盛岡でやるよ」で、盛久ギャラリー(2012/8/28~9/2開催)を観に行って来た。
 「見続けられて耐えてゆく凄さ。そこに自分の根本的な考え方を置く」そう言っていた陸前高田時代に、彼のアトリエで見た彼の描き方は、独特の背景処理後に描かれ、ヨーロッパ的重厚な気品が漂っていた。今はそれを逆転し、花を先に、あとで背景処理するという描き方だという。そのせいか、僕には、花が、より明るく生き生きと見えた。それは、まるで花の肖像画。
 「ひまわり」「バラ」「ボタン」「トルコキキョウ」など50点。今年は生まれた所の八丈島に30年振りに行って描いたという風景画も数点あった。親は小笠原の出身、疎開で八丈島へ渡り、そこで生まれた彼。子供の頃に東京世田谷へ移住。カメラで花を撮るのが好きだったが、予備校の御茶の水美術学院時代に油絵を薦められ、3浪して東京芸大に入学。4年間学祭で個展を開き続け、教授たちを驚かせた。そして、30数年を過ぎた2011年、震災ガレキの上に置かれた、種の異なる5つのカボチャで原点かえり「それでも大地は甦る」の作品で、第8回「北の大地ビエンナーレ大賞」を受賞した。勿論これ以外の受賞歴多々!
12:30:00 - johnny -

2022-02-02

幸遊記NO.86 「福田憲二の極致的象嵌陶」2012.8.27.盛岡タイムス


 49才でこの世を去った20世紀陶芸界の鬼才・加守田章二(1933~83)展が、岩手県立美術館で開催されたのは、2006年の夏。彼は、1967年、最終回となった第10回高村光太郎賞を受賞した時、新たな製作の場を求めて、益子から遠野を訪れ、2年後には陶房を開き、彼の代表作を次々と発表して、遠野時代(1969~79)と呼ばれる黄金期を築いた人。
 「彼は、亡くなる直前まで、入院先の病室にまで、土を持ち込み作陶していた」そう言っていたのは、加守田氏の遠野時代の弟子だった、象嵌陶芸作家の福田憲二さん(1950~2008)。彼の病も師と同じ血液疾患。偶然にも病院は違えど、同じ先生に治療して貰った。
 加守田章二展が開催された2006年は、宮城県立美術館で、福田憲二展が開かれた年でもあり、岩手県立美術館に師・加守田章二展を観に来た福田さんは「やっぱり偉大だな」と一緒だった妻・まさ江さん(63)に、もらしたという。その話を聞いた時、僕はすぐ様、加守田氏のかつての言葉「福田は弟子なんかではない、ライバルだ!」を想い起こした。
 福田憲二(史)(1950~2008)気仙沼市生まれ。気仙沼高校から和光大芸術学専攻科に進み、油絵を学んだが、在学中に大学に窯を造って、陶芸に転向。その後、益子にて陶研究。1976年、地元気仙沼に戻り、祖父が残した土地に陶房をかまえ、1977年から加守田氏に師事した。
 初個展は1996年。気仙沼・リアスアーク美術館が主催した「福田憲二・象嵌陶の世界」。直径60cmもある大皿や陶盆、扁壺など、これ焼き物なの?という位、土肌色にこだわった繊細緻密な美しい象嵌陶。その根気を裏付ける高い技術力と幾何学的模様のデザイン。
 彼がノートに書き、いつも読んでた師の言葉「緊張感を崩してはいけない。器用や旨さに溺れてはいけない。狂ってしまう程の作品を創ってみろ」を常に心に置き、いつでも、どこでも、おもしろい話で人を笑わせるのが得意だった、彼の笑顔が浮かぶ。あの加守田氏も、かつての師・富本憲吉氏から「形から形を造らず、紋様から紋様を描かぬ創作こそ陶芸の真の在り方」と教わっていた。
そういえば1996年初個展の時、気仙沼市内のホテルで催された、彼を祝うパーティーで僕は、彼の「あんば窯」という冷や汗ものの歌を作って、披露したことも想い出してしまった。あ~あ!
12:29:00 - johnny -

2022-02-01

幸遊記NO.85 「林尚武のSTAX」 2012.8.20.盛岡タイムス


家に居て深夜や未明に、ある程度の音量で音楽を聴きたい時、僕はSTAX社のコンデンサー型ヘッドフォンSR-5「イヤースピーカー」を耳に掛ける。何という素晴らしい音なのだろうと、聴く度に、30年以上も、そう思い続けてきた。
 初めて聴いたのは20代の前半の1970年。その忘れられない美しい音色の、本物のスピーカーに出会ったのは10年後の1980年、東京の友人宅。翌日僕は、その彼を拝み倒して、STAAX社に連れてってもらった。所は雑司ヶ谷、1907年建造の古い洋館の本社屋にて。その試聴室にあった畳一枚分もある大きな、つい立型のコンデンサースピーカー、ESL-6Aを安く譲って貰ったのだった。
 コンデンサースピーカーとは、人間の鼓膜の百分の一の薄さという特殊なフィルムを振動板とし、その両側面の電極板に数千ボルトの電圧をかけて信号を送り、そのフィルムを引っ張り合いっこすることで音が出るという不思議なスピーカー。近づいてもうるさくない音圧を全く感じさせない自然な音なので長時間聴いても疲れない。
 開発したのは故・林尚武氏(スタックス工業社長)。戦前の帝国蓄音機(テイチク)の録音技師だった彼が、1938年昭和光音工業を創立。録音用コンデンサーマイクをヒントに1959年、スタックスブランドのコンデンサーヘッドフォンを試作し、発明展に出品したのが始まり。翌60年に発売したSR-1以来、コンデンサー型ヘッドフォンは、STAXの独壇場。再生には専用アンプが必要のため高価だが、理想主義をつらぬいた驚異的な音楽再生機器。
 林尚武ご夫妻には、生前何度かお会い出来た事も僕の幸せ。とても素敵な方達でしたが1995年会社を閉め、翌96年ラックス社に居た方が社長になり、ヘッドフォン事業だけの(有)スタックスとして引き続き運営されていたが、2011年12月、中国の音響機器メーカーに買収された模様。
 林尚武さんの一人息子健さん(65)は今、その聴こえる技術を更に高めるために必要なケーブルや、その接点コンタクトを高める液・セッテン79(金の原子番号)等を開発している、オーディオアクセサリー関連の(株)ナノテック・システムズで、クリエイティブ・デザイン室長を務めている。
12:28:00 - johnny -
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