盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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レポート

2021-11-30

幸遊記NO.22  「疋田多揚のスイングな日々」2011.6.6.盛岡タイムス


 朝日新聞盛岡総局の記者・疋田多揚(ひきた・さわあき)さんが、5月末久しぶりに開運橋のジョニーにやって来た。本社政治部への転勤だという。そう、あれは3年前・・・古い歌の文句がふと浮かぶ。「スイングな日々」という、僕がジャズピアニスト・穐吉敏子さんに魅せられた様子を読者に伝えるべく、同誌の岩手県版に08年5月10日から一週間6回の連載記事を書いてくれた若き記者である。
 「穐吉敏子」の資料が未整理のまま、ほぼ肥料化していたものを発掘させられ、あいまい極まりない頭の中の整理までしなければならないことになった、大変な取材だった。彼は、自分の休日までも返上して何度も何日も店や自宅に通ってインタビューし、それを裏付ける資料を探し出し、記事にまとめるという作業をやってのけたのだった。
 お陰で僕はその翌年(09)から10年までの2年間、盛岡タイムスに「トシコズ・ドリーム」と題するコラムを百回連載することが出来たきっかけを作ってくれたと感謝している。
○1「店主の熱意に根負け・ソロコンサート」○2「秋吉の“孤軍”に衝撃・日本ジャズ専門店」○3「企画次々借金膨らむ・500回ライブ」○4「人間秋吉が身近に・曲のプレゼント」○5「最後のCD録音も・記念館の夢」○6「夢追う楽しさ見守り・巣立ち」というタイトルでの連載は僕にとっては「恥ずかしくも誇らしいもの」でした。
 その彼・疋田さんが「3・11の津波で街がさらわれた陸前高田へ行った時、“ジョニー”があった近くの泥の中から、掘り出してきたレコードです。」と言って僕に差し出した一枚。
それは、ズタズタに傷ついた裸のもので、ラベルを見れば、これまたビックリ!の、30年前に僕が制作・発売した(和ジャズ名盤200選)新潟のピアニスト小栗均(山本剛の師)トリオの「みどりいろの渓流」だった。
何という“再会”だろう。まるで6月の今を想わせる「霧にけむる深い山々の懐を、透明な美しさを湛えて流れるジャズのひととき。新潟のベテランピアニスト・小栗均のブルースをあなたに」のキャッチフレーズを想い出させたそれは、幻想の縄文ジャズレーベル「ジョニーズ・ディスク」の盤だった。
13:48:00 - johnny -

2021-11-29

幸遊記NO.21  「小畑倉治のこれくしょん」2011.5.30.盛岡タイムス


 本日2011年5月30日・77才の誕生日を迎えた小畑倉治さんは、紫波町高水寺の国道4号線のJA古館支所交差点を西へ100メートル程入ったところにある喫茶店「これくしょん」のマスターである。
 僕がこの店を知って通うようになって9年目になるが、この店は盛岡から紫波に移ってから19年になるという。「昭和20年代、盛岡の柳新道に出来た名曲喫茶“田園”から始まり“ボア”“文化”“ウイーン”といった店を一人黙って、ぐるぐると聴きに歩いたものでした」という小畑さん。
 4年前から店内の壁を、ギャラリーとして開放。書・写真・絵画・手芸・切手・などなどの展示を約1ヶ月という長期間展示してくれることから、いろんな方面の方たちが店を訪れる様になったが、初めて来た方たちが一様にビックリするのは、もうほとんどの喫茶店から姿を消した、アルコールランプサイフォンで珈琲をいれてくれること。LPレコードでクラシック中心の音楽を聴かせてくれること。そう、昔の喫茶店は,皆こうだったと、すっかり忘れ去ってしまっている記憶を呼び戻してくれるのだ。夏ともなると“かき氷”さえも出す。
 ドイツの通俗音楽作曲家といわれたブルック・ミュラーの「天使のささやき」に魅せられてしまったのがレコード収集の始まりだったというが、ある時SP・EP・LPの何百という数のいやし系レコードを全部捨て去った。その絶望から彼を、救ってくれたのは同悲の音楽・マーラーの「第一交響曲」だった。悲しみの渕から、自分を甦えさせる力を与えてくれたマーラーが生涯に書いた11の交響曲を聴き、特にも9番4楽章の「アダージョ」からはいやしとは違う、安らぎの境地を見出すことが出来たのだという。
 かつて中学の美術の先生だった小畑さんは何十年振りかに、鉛筆をにぎり、店の近くの城山公園に通い、そこにいる今年の干支(兎)の絵を描き「半年間のいきものがたり」という素描画展を「これくしょん」で昨年12月に開いた。一度引いた線は決して消さないで描いたという兎は美しく、そして優しかった。
13:47:00 - johnny -

2021-11-28

幸遊記NO.20 「坂元輝の“海を見ていたジョニー”」2011.5.23.盛岡タイムス


 渋谷ジャズ維新シリーズの一枚として、2007年に初めてCD復刻された、ジョニーズ・ディスクの「海を見ていたジョニー」。坂元輝ピアノトリオの演奏によるLPレコードが、この11年5月16日にHQ(ハイクオリティ)盤のCDとして、再復刻された。
 “五木寛之の小説「海を見ていたジョニー」に捧ぐ・坂元輝のレフト・アローン。バッファロー・ジョニーの魂が今、陸前高田ジョニーで甦る”。として発売したものだった。ジャケットは、故・朝倉俊博氏が「アサヒグラフ」81年4月10日号に発表した「日本人のジャズを夢見る東北のジョニー」で使用した写真。演奏者ではなく僕が写っているジャケットなのだ。(撮影場所・陸前高田市黒崎仙峡の突端)
 ライナーノーツ(解説文)は、当時、休筆中だった五木寛之さんに無理言ってお願いし、半年かかって書いて頂いたもの。その400字詰原稿用紙数枚に、万年筆で書かれた生原稿は僕にとって「聖書」のような感じで、時折引き出しから取り出しては何度も読み返した。
 このレコードが注目を浴びだしたのは、僕が本業として掲げ続けてきた「日本のジャズ」が「和ジャズ」という表現に変わり、その和ジャズとしての名盤が様々な本に特集されるようになった。その中に当時の大手レコード会社が制作した作品に混じって、僕の自主制作レーベル「ジョニーズ・ディスク」の作品が必ずと言っていい程紹介されている昨今だが、その和ジャズ名盤の筆頭的作品として頭角を現しているのが、本作品「海を見ていたジョニー」(陸前高田ジョニーに於ける1980年の実況録音)なのだ。
 今回の再復刻盤は、発売当時のまま復元。CDではあるがLP盤紙ジャケットと解説書まで当時のまま縮小した、原盤オリジナルにこだわった装丁。制作発売元は、ソリッド・レコードの「株・ウルトラ・ヴァイヴ」で、社の25周年記念盤としての位置付けである。
 小説よろしく僕も「海を見ていた・・・・」と過去形となり、今、盛岡北上川辺りの「ジョニー」にいる。30年振りに坂元さんと電話で話をした。彼は当時と変わらず今も高田馬場でジャズピアノ教室を開いていた。
13:45:00 - johnny -

2021-11-27

幸遊記NO.19 「向井田郁子の太鼓の響に誘われて」2011.5.16.盛岡タイムス


 5月10日「開運橋のジョニー」への手紙が届いた。差出人は向井田郁子。一瞬目を疑った。
えっ!もしかしてあの人?そう、かつて「盛岡タイムス」の記者をしていた方で、今でも時折紙上でその文章を見かける名前。封を開くまでの間に、僕の頭は26年前の1985年8月2日へとさかのぼる。
 陸前高田市の酔仙酒造の中庭で8月4日(日)に開く「日本ジャズ祭」の宣伝の為に「悟空」という名のジャズドラマーにトラックの荷台でドラム演奏してもらい、陸前高田から盛岡へとやって来て「さんさ」が始まる直前の街で人々の目と耳を釘付けにしながら、上盛岡駅へ着いた時、「盛岡タイムス社」から飛び出して来て、名刺を差し出した人。それが向井田郁子さんだった。多分、お会いしたのはその時一度きりかも?
 どうして忘れ易い僕がその時の事を覚えているかというのは、多分に作家の故・向田邦子に字が似ていることからの印象かも知れない。なぜか僕は今、向田さんが愛聴していたという「ミリー・バーノン」という幻のシンガー唯一のアルバム(‘56年の2月録音)
の「イントロデューシング」を聴きながらこの原稿を書いていて「スプリング・イズ・ヒア」の歌詞・春が来たというのに私の心は浮き立たない・・・・「セントジェームス病院」「今年のキッス」(37年の映画・陽気な街の主題歌)など心に沁みる。
 そう、向井田郁子さんからの手紙には、彼女が書いた70行からなる一編の詩がそえられていた。「水仙の花咲く海辺で」というタイトル。「太鼓の響に誘われて 水仙の黄色い花を見に行った 南の街で 春の日の晴れた午後 大地が揺れた 中略~ 時間の流れが 一瞬止まり 水仙の花がいち早く咲く 川原の土手も 朝日に賑わう港の街も ジャズが似合う街並みも みんな呑み込んだ 中略~ ここは太鼓の命が息づく南の街 春の息吹がいちはやく訪れる街 その時が再び来る日を 私は信じて約束しよう その時、私は必ず訪れる この街の素敵な季節を探しに 会いに来る」。彼女もまたジャズ・ピアニストの穐吉敏子さんと同じ中国の遼寧省遼陽市から引き揚げてきた女性でした。
13:43:00 - johnny -

2021-11-26

幸遊記NO.18 「菊池コージのジャズインとおの」2011.5.9.盛岡タイムス

 地震、大丈夫でしたか?と、電話をくれた、ジャズドラマーの川口雷二さん。彼の温かな気遣いの声を聞きながら、思い出したのは、菊池コージさんのことだった。
 彼は遠野市で看板業を営みながら、アマチュアのドラマーとしても活躍し、2007年1月6日、71才でこの世を去った人。本名、幸吉。かつてのクラブやキャバレーでの歌謡ショウのバックバンドやジャズの演奏などなどで食べてた人だが、病気になったのを期に、中学時代から描かされていたという肖像画の才を生かし、絵も描ける看板屋さんとして独立し、年間数百件を超える、こなしきれない程の仕事を30年余り続けた。
 だがどんなに忙しい時でも、ドラムを叩く話が来れば、仕事よりも優先し、ドラマーな看板屋と言われ親しまれた。自ら企画した「民話の里にジャズが流れる」をテーマとした「ジャズ・イン・とおの」を何度も何度も開いた人だった。それに出演するプロのジャズ演奏者たちの調達係と司会役は僕だった。
 1987年5月11日・遠野市民会館での「ジャズ・イン・とおの」に出演したのは、かつて、人気・実力共に日本一のドラマーとして知られ、親しまれた、あの「ジョージ・川口」(川口雷二の父)率いる「ニュー・ビック・フォー」。そのステージ上で、ジョージ・川口と菊池コージが、ドラム・バトル(競演)を演じるのだから、遠野の市民が喜ばない訳がなく、当時の遠野市長だった小原正己氏も大興奮し、打上げの席に現れた程だった。
 「東京新橋あたりで一流芸者として知られた母(キミさん)の子として仙台で生まれ、母の仕事柄、小学校は東京、中学は岩手等8回も転校したもの」と話してくれたことがあった。「今でも母は三味線だけは離さず弾いてるけど、やっぱり凄いよ」と誇らしげに笑った25年前の顔も忘れられない。
 彼、菊池コージさんが遺(のこ)した音は、フリージャズ・サックスの怪物と言われた、故・高木元輝(リー・ウォンヒー)とのデユオ・アルバム「グロー」で聴くことが出来ます。
13:30:00 - johnny -

2021-11-25

幸遊記NO.17 「榊原匡章の手描版画」2011.5.2.盛岡タイムス

 3・11の夜、大丈夫やったか?と久し振りに聞く声の主は、榊原匡章(きょうしょう)さん(71)からの電話だった。三日後には、四国八十八箇所を車で回って来たとこや。だったか、回って来てから、だったか、うろ覚えだが「兎に角、絵を描くから被災者に届けてや。津波に家も家族も寺も墓も仏壇も位牌も全部流されてしまった北国の人達、手を合わす対象となるものがないだろう。その人達に仏様の絵を描いて、あんたに送るから、届けてや!」
 それからしばらくすると、手すきの和紙に墨で描いた仏画が数十枚送られてきた。般若心経の終章を書き入れた仏画を中心に、ノート大のものから、携帯用の小さなものまで、一枚一枚手描きしたもの。何度か沿岸に足を運び届け、盛岡の陸前高田だと思って「ジョニー」にやって来る被災者や、その関係者たちにもあげたら、有難がられ、喜ばれました。
 彼と出合ったのは1983~4年頃の事。彼と同じ三重出身のギタリスト・中村ヨシミツのレコード「魂のギター」を制作する時、ジャケットの絵を描いて頂いたのが始まりだった。当時彼は「神のお告げでな、突然絵が描けるようになったんや、その絵を東京の小田急百貨店で個展やったら、一枚10万円で飛ぶように売れたんや」と言っていたけれど、その個展を16年間も連続でやった手描きの版画家である。
彼、榊原匡章は伊勢神宮神官の子として生まれ、伊勢神宮神事写真家として活躍。東京で写真展などを開催のほか、雑誌などに掲載されたが、彼の最大の仕事となったのは、画家になってからの90年代に10年かけて、北は弘前から南の沖縄まで50城の絵を一枚の和紙に描いた事だった。一枚の和紙とは言え、巾2m30cm、長さ270m、重さ300kgという想像を絶する和紙ロールを、車載し持ち歩き、現地に広げて描いた作品。勿論ギネスモノ。三重伊勢道開通時には、108m(煩悩の数)に及ぶ1200ピースの現代版・東海道53次を描きジグソーパズルにして、インターで展示。福井県今立町「紙すき・おすまさん」の絵本(1ページ四畳半)という巨大本を作った男。黒鍵だけを使うホワイトロック・キーボード奏者でもある。
13:27:00 - johnny -

2021-11-24

幸遊記NO.16 「及川正雄のミシシッピー号」2011.4.25.盛岡タイムス

 開運橋のジョニー開店記念日4月8日付けの東海新報に「津波に負けず無傷でケース入りの漁船模型が見つかる」という記事が載っていた。この模型の漁船を作ったのは、大船渡市大船渡町赤沢在住の及川正雄さん(83才)。
 今から19年前の1992年4月、白血病で49才の若さで亡くなった義弟、佐藤進一さん(妹福子さんのご主人)の供養のために作った船だったという。進一さんが機関長として乗船していた「第18昭福丸」の50分の1の模型で四十九日の法要に合わせて仏前に供えたものだったらしい。家は津波で流されたが、アルミフレームをボルトで固定した頑丈なプラスチックケースに入っていたため、沈まずに航海し自宅近くに戻っていたというのだから、まさに奇跡。今は高台にあって無事だった造船所(及川さん宅)に帰って、あったかいシャワーで洗ってもらい、日なたぼっこしながら、津波を乗りきって戻った船体を休めている。
 製作者の及川さん自身は、かつての東京大空襲から逃れ、両親の故郷、大船渡市に17才で疎開して来た。北海道から東京へと巨大な筏(いかだ)の木材を曳航する、タグボートが大船渡に寄港した際から、その蒸気船の釜焚人夫として乗船した経験を持つことから、定年後は、自宅の四畳半に「サンアンドレス造船所」と名付け、数十隻も造ってきた。
 模型の船とはいえ、実船の設計図と、現地の港へ足を運びあらゆる角度から船体の写真を撮り、それを元に、木、ゴム、銅、真鍮などの本物素材を用いて部品作りから始め、船上の機械器具や手すりに至るまで形状や色、その位置、灯まで、正確に作り付ける入念さには驚くばかりだ。
 90年代中頃だったろうか、及川さんは陸前高田まで時折「やぶや」のそばがおいしいと食べに来て、帰りに「ジョニー」に寄って珈琲を飲んでくれた。ある時その美しい木造船をジョニーの窓に飾ってくれと持って来た。それは何と1910年代から20年代にかけてジャズ誕生の地、ニューオリンズからジャズを乗せて、ミシシッピー河をシカゴへと上っていったリバーボート「ミシシッピー号」だった。あの船も津波を乗り越えニューオリンズへ向かっているのだろうか。
13:26:00 - johnny -

2021-11-23

幸遊記NO.15 「小山忠五郎の魚濫観世音」2011.4.18.盛岡タイムス

 気仙沼市の「宮城の名工で銅板打出しの第一人者・小山忠五郎」さん宅に、何年か振りにおじゃましたのは2010年11月のことだった。久し振りの再会に顔をくちゃくちゃにほころばせ迎えてくれた彼も73才になっていた。
 父が創業した「ブリキ屋」を子供達が一心同(銅)体になって、「小山金属板金工業」へと家業を発展させた仕事一筋一丸の努力社。忠五郎さんの父は大五郎という名。1970年73才で亡くなったのだが、その命日は父が叙勲を受ける日だったらしい。
 小学4年から板金のハンダ付けを手伝い、中卒以来、大人になっても酒・たばこ・バクチに一切手を出さず、仕事のかたわら、朝・夜・休日を返上し銅板打出しに熱中。他に一から十まで全て銅板製のお宮、寺院、五重塔など十指をこえる建造物も制作。自宅の庭にそびえる五重塔などは高さ7メートル、7.000枚の瓦葺、瓦は3センチ角の銅版で出来ており十坪の屋根が葺ける量、塔全体に使われた銅板の総重量は1トンにも及ぶ。制作年数6年。しかもその建築は宮大工が虎の巻とする「実用差金宝典」を元に設計図を書きステンレス魂で型をおこし、瓦や銅柱、垂木などを一つ一つ作る気の遠くなる作業。
 家の中に安置されている色んな観音様の打出し像もその出来の美しさから、毎日近隣の人達がお参りに訪れて、その観音様をなでて行くのだと言う。だから観音像の全身が鈍色の光を放っているのだった。縁側に置いてあった銅額装の打出し「魚濫観世音像」を僕に渡し、「盛岡の店さ持ってってけろ」と言った。魚濫観音とは三十三観音の一つで、何種類もの形態があるようですが、小山さんの打出した図柄は「葛飾北斎」が描いたものを参考にした仏様。巨大な鯉に似た魚の背に衣姿の観音様が立ち、まるでサーフボードのように、魚を操って波に乗っている姿なのだ。
 数年前、宮城県庁内で行われた「宮城名工展」で、ただ一人実演を頼まれ二時間内に打出した作品だったと言う。「盛岡に持って行ってけろ」まるで津波を予知してたかのような言葉だった。今回の東日本大震災、小山さん家族そして家も無事でした。
12:30:00 - johnny -

2021-11-22

幸遊記NO.14 「ホープガールの希望」2011.4.11.盛岡タイムス

 「希望/それは/こころ/あふれやまぬ/ひとのいのち/よみがえる草木/朝日とともに/明日へとこころは/かがやいて/忘れられぬ/日々も/子どもたちの/未来のため/こころよ飛べ/夢見る世界へ/希望/あふれて」
 この3月16日、全国発売になった「ホープガール」こと「金本麻里」のデビューアルバムのタイトル曲の歌詞である。ジャズピアニスト(NEA・ジャズマスター)の穐吉敏子さん作曲「ヒロシマ組曲の最終章・第三楽章“希望”」に、あとから詩人の谷川俊太郎氏が詩をつけたもので、穐吉さんの娘さんで歌手の「マンディ満ちる」が歌い話題となった曲。穐吉さんはこの曲を、あのいまわしい9・11のテロ以来、自身のコンサートの最後に必ず演奏する曲。
 金本麻里もこの曲を歌うようになってから、自身のコンサートやライブではもちろん、リクエストによる2~3曲の時でも、穐吉さんの心を受け継いで必ず歌い、すでに何百回も人前で歌い続け、ホープガールとして定着している。
 さてその気になるCDの評価、報じられ方ですが、CDの解説者・後藤誠一氏は「歌に込められた作者の魂を表現する歌唱力には聴く者が皆圧倒される」とし、瀬川昌久氏は「9曲中6曲をアカペラで歌ったのが大特色、声量が人並み外れて豊かで音程も確実な未完の大器」という。
 盛岡タイムス(2月4日付)は「大器の予感、豊かな声量と歌唱力」。朝日新聞(2月11日付)は「修行4年ジャズ喫茶に通い磨いた歌声、豊かな太い声量で勝負」。岩手日報(3月5日付)「ジャズ歌姫のホープ、歌唱力に自信がなければ出来ない構成、のびやかな厚みのある声が魅力」。ジャズジャパン(4月号)は「スケールの大きいソウルフルな歌唱でその存在感を印象づける。ある意味挑戦的な構成には彼女の決意も感じられる」。ジャズワールド(4月号)「日本ジャズを標榜する盛岡市“開運橋のジョニー”の照井顕が世に送った新人歌手」。
 インターネットのジャズページ(4月3日アップ)では「穐吉敏子のお墨付きをもらったデビューアルバム。今、筆者が聴くと東北関東大震災の被災者への励ましにも聞こえる。会心作」とある。
12:29:00 - johnny -

2021-11-21

幸遊記NO.13 「みよし・ようじの“心情”」2011.4.4.盛岡タイムス

 「爺さまは歌う、婆さまは歌う、孫らは手拍子、父ちゃん母ちゃん踊りだす。家族皆
んな揃ってヨ~、金札米食べ食べジャズをする。みちのく江刺のジャズシンガーど~、おらのごど。鶏にぎやかコケコッコゥ、裏の畑でハ~ポチおしっこもらしたの~。」
 凄いジャズの演奏と共に熱唱した「みよし・ようじ」の「ながらジャズ音頭」は、1986年から87年にかけて、ラジオ日本の「オール・ナイト・ニッポン」で何度も流れ、聴きながら走っている深夜のトラックが思わず蛇行するとまでいわれた傑作。
 作詞・作曲・歌「みよし・ようじ」本名・柳田美吉。「ミキチ」を「みよし」とし、つまようじの柳に引っかけ「ようじ」としたシャレの芸名。このシングルレコード以前の84年に出したLP「心情」も、全10曲彼のオリジナル作品。自らのギター弾き語りの「青い鳥」をはじめ、二階堂修のクラシックギターをバックに歌った表題曲の「心情」そしてB面最後のメイン曲であった「浦島太郎」では、超!フリージャズの板倉克行トリオとの共演「ちれいな人魚ちらちらちらっとちらめいた、腐った魚のこだれだようなあの目つき、魚心あれば水心、ビッど水得た魚のように本能さっそぐくすぐった、こっちこっちと呼んでいる、釣った魚にゃエサやらん、おいしい話にゃ気ィ付けろ、ふぐはちょうちんなってもまだこわい」はまさに日本のジャズだった。
 彼独特のメチャクチャなチューニングでギターをかき鳴らし、ドラムの菊池コージ、サックスの高橋幸世と3人「ながらジャズトリオ」いわゆる仕事を「しながら」のアマチュアバンドを組んで、休日利用のツアーを重ね、東京のジャズライブハウスにまで出演し「出前一丁手前ミソ」という、エッセイ集の本まで出版し、笑えば顔半分を口にした人。2001年3月(僕は開運橋のジョニー・開店準備中)彼は亡くなった。
 あれから丁度10年、大津波後の11年3月28日陸前高田のジョニーがあった場所に立ってみた。街も店も、あった無数の物もあとかたもない。なのに離れた所でチラッと見えたたった一枚のLPジャケット、拾って見たらそれは何と!彼の「心情」だった。
12:28:00 - johnny -

2021-11-20

幸遊記NO.12 「宮静枝のわたしはここにいる」2011.3.28.盛岡タイムス

 連日、東日本大震災の報道が続く。三月も下旬というのに、雪まで降る毎日。ふと、故・宮静枝さんの詩、二編が頭に浮かんだ。「海に雪降る 海うずめよと むなしく杳(とお)いそのいとなみの 海をうめつくした時 雪の衣を身にまとい 若者よ あなたは海の底からふたたび還ってくれるだろうか 海に雪降る 海うずめよと 雪ぞ降る」“さっちゃんは戦争を知らない”という詩画集に載っている一編だ。僕はこの詩を書にしたため曲をつけ、2007年2月11日彼女のお別れ会で唄わせていただいたのだったが、いつもベットで、このうたのカセットを聴いてくれていたと聞かされ涙が出た。
 宮さんが開運橋のジョニーにやって来たのは開店した年の2001年11月4日。そして02年の11月4日「村上昭夫の動物哀歌をうたう」というライブに来てくれて、村上昭夫について涙を流しながら語ってくれた光景が想い浮かぶ、あの時すでに92才。杖はついていたが地下から階段を一人で上がって行く後姿にはビックリしたものだ。
 もう一編は「わたしはここにいる 失うものはすべて失い 截(き)る者を切に耐え 来ぬ者を待ち続け さりげなくうたい 白いひとすじを下る 人はわたしを川と呼んだ 旅をここまで来た 静かな日だまりだから 過ぎこしは指折らず あの日より少し悲しく みちのくの城下町の川のほとり わたしはここにいる」これは03年に盛岡の馬場町に建立された宮静枝さんの詩碑に刻まれている詩なのだが、何故か僕の今の心境そのものなのだ。この詩を昭和38年4月19日に川原の小石に書いた少年?のこと、その石を拾って、ずっと持っていた当時の少年のことなどの記憶が戻ってくる。共に彼等は60代半ばだろうし、僕もすでにさしかかっている。
 この3月24日、陸前高田から新沼茂幸さんが開運橋のジョニーにやってきた。母が盛岡の病院に入院したのだという。彼の会社も津波で流されてしまい、醸造直販という配達方式でお客に届ける昔ながらのおいしい醤油をつくってた人ですが、陸前高田の街はもう、この盛岡のジョニーにしか残っていないと泣いた。
12:27:00 - johnny -

2021-11-19

幸遊記NO.11 「照井顕の希望音楽会」2011.3.21.盛岡タイムス

 3月11日マグニチュード9.0という大地震に見舞われた直後、巨大な津波の襲来により東北沿岸の街のほとんどが甚大な被害。その沿岸部では一番平地の多い陸前高田市の惨状は想像を絶する壊滅状態。
 平泉中学卒業時の1963年3月から2001年2月までの38年間住んで、お世話になった第二のふるさと陸前高田市、僕の父の弟が経営する照井クリーニング工場に住み込みで働きながら、、高田高校の定時制に通わせてもらった4年。足掛け10年間に及んだ、洗い場と集配業務のお陰で、市内の隅々までの地理や、多くの家庭と人を知った。
 1967年に開いた希望音楽会を継続して、75年8月。五木寛之の小説「海を見ていたジョニー」に由来する「ジョニー」という名の音楽喫茶を開店。2年後には列島唯一の日本ジャズ専門店としたジョニーのテーマは、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんの曲「黄色い長い道」。
経営苦にあえぎながらも、中央のプロミュージシャンを陸前高田に呼び続けていた時、その孤軍奮闘ぶりを見かねた市内の医師たちが中心となって会員をつのり、「ジョニー後援会」という資金援助団体まで結成して応援してくれた文化の薫り高かった陸前高田。
 日本で初めての「日本ジャズ祭」を開いた1985年8月。その会場となった酔仙酒造が津波によって押し倒される光景をTVで見た時、陸前高田の街の全てが消えた事を想像出来た。もちろん、元妻が続けていた「ジョニー」とて形跡もないだろう・・・・・と。
 その元妻や大船渡の2男夫婦、クリーニング関係の親戚の無事などを知ってホッとしたのは数日も過ぎてからで、全て東京経由の情報によってもたらされたが、友知人の無事を祈る毎日。その一方で何十年振りの人たちからまでの電話やメールによる安否確認や見舞いのたくさんのはげましの言葉。本当にありがとうございます。ニューヨーク在住の陸前高田ふるさと大使・穐吉敏子さん(81歳)からは、8月は復興に役立つコンサートにしたいとFAXが来た。「希望音楽会」の開催だ。
12:26:00 - johnny -

2021-11-18

幸遊記NO.10 「高田和明の三陸旅情」2011.3.7.盛岡タイムス

 「樹氷エレジー」(関根恵子主演・大映映画主題曲)を歌って、1970年にコロムビアからデビューした歌手・高田和明(本名・菅野健一)には、10万枚を記録した「三陸旅情」と「夜の指輪」という二つのヒット曲がある。
 メディアにのり、火がついての10万枚という一般的なそれとはまったく違い「地道な努力」という言葉がよく似合う、自らの手売りによってのみ達成したヒット曲なのである。それにかけた情熱もまた9年、10年と、気が遠くなりそうな年月をかけて、キャンペーンしながら唄い歩いた不屈の根性が成せたもの。
 単純計算で一日30枚づつ10年間も自らの出前歌唱のみでの達成となれば、そこそこの歌手が逆立ちしたって出来るものでも、続けられるものでもないことは誰の目にも明らか。だから当時の所属元であったビクターは「特別賞」としての「ヒット賞」を2度、彼に贈った。
 「マニキュア占い」のB面だった「三陸旅情」を、発売から7年後の1983年、三陸鉄道の開業(84年)に照準を合わせ再発売し、三鉄ブームの火付け役として、3年で4万枚を売り上げた彼の一生懸命な姿に、ジャンルは違えど、同じ音楽に生きる者として感動を覚えた僕は、まだアルバムの無かった彼のLPレコードを作ろうと決心したのだった。
 全12曲、書き下ろしのオリジナル。僕も一曲作った。演奏はジャズ系のミュージシャンに頼んで、東京でスタジオ録音。その「去りゆく季節」(86年)の発売に合わせて、東京杉並公会堂で、オーケストラをバックに初のワンマンリサイタル。彼の出身地で、僕の店ジョニーがあった陸前高田からは、大型バス一台を貸し切って応援に駆けつけた。会場は超満員、これも彼の手売りだった。
 8枚のシングル。1枚のアルバム。この数もまた歌手生活40年余りの彼、高田和明にとっては、少なすぎる数字ではあるが、自ら手売りした数十万枚もの数となれば、何十タイトルものリリースに匹敵するだろう。最新盤は2007年にキングレコードから発売した「棄てましょう / その名はフジヤマ」のシングルである。
12:25:00 - johnny -

2021-11-17

幸遊記NO.9  「明田川荘之のカリフア」2011.2.28.盛岡タイムス

 僕の店「ジョニー」が「音楽喫茶」から「ジャズ喫茶」へと一度目の変身を計った1976年8月23日。類希れなる日本のジャズを生み出す男に出会った。その人の名は「あけたがわ・しょうじ」。
 「センチメンタルな、レッグのリズムに乗って、野蛮なスキャットが舞う。強靭な指が、今一挙に振り落とされた。荘厳なるピアノは、真っ黒い鳥肌を立て、地軸を揺るがす程に身震いをした。一人三役、奇妙なるセッションは、不思議なまでの興奮を撒き散らし、人々の息を喘がせ、行進してゆく。そして、何の前触れもなく、突然の絶頂感。けだるさの中で、気がつくと、いつの間にか、ホールの中に降り出した雨は、紛れもなく、天才と称する男の、エネルギッシュな汗のシャワーだった。」
 これはその時の私的な詩的な感想文だが、以来彼は35年間、毎年ジョニーにやってきて演奏すること50回は優に超える、最多出演プロジャズマン。ピアニスト・オカリナ奏者・作編曲家・オーケストラリーダー・エッセイスト・評論家・ジャズライブハウス「アケタの店」とオカリナ製作所の「レル民族楽器研究所」とレコード会社「アケタズディスク」社長兼プロデユーサーと、いくつもの顔を持つ。
 彼との出合いは、74年に店を開き、彼自身が立ち上げたレーベルの第一作「エロチカルピアノソロ&グロテスクピアノトリオ」という彼のデビュー盤の「カリフア」というアフリカのような曲。そのレコードたるや、シロジャケットと称された何も印刷されていないサンプル用ジャケットに手書きしたジャケットコピーをベタッと貼り付けただけの、まさに手作り。
 「このレコードは佳作。僕は天才。ちょっと気軽に聞くレコードじゃない。人間修練の聖者みたいなレコード。理解に苦しめば未だ人間未熟だと思いなさい」というライナーコピーに、何ともいえない味わい深さを感じた僕も、書いた彼も当時はまだ20代。彼の店に出演するミュージシャン達のレコードやCD発売もすでに百数十タイトルを超え、今や押しも押されぬ業界一、二の名門レーベルとなった。
12:24:00 - johnny -

2021-11-16

幸遊記NO.8 「レイ・ブラウンの時には幸福」2011.2.21盛岡タイムス

 ジャズピアニスト「オスカー・ピーターソン」の名盤「ザ・トリオ」(1960~61年シカゴ録音)のLP・B面2曲目の「サムタイムズ・アイム・ハッピー」(時には幸福)が当時、ラジオから流れてきたのを聴いた菅原孝少年は、「曲の中間での124小節にも及ぶ長~いベースソロに、たまげでしまった!」のだ。以来彼は、レイ・ブラウン(1926~2002)を神とした。
 そして「ブラウン」の名を冠したジャズ喫茶を水沢市の吉小路に開いたのは74年。21才の時だった。当時はジャズ喫茶全盛時代とはいえ「カッコばっかり、の人が多かった。いわゆるホヤモノョ」と厳しかった彼も、家庭事情から9年後の83年に店を閉じた。
 70年代、レイ・ブラウン来日の度に親交深め、閉店5年後の88年の12月には、店のお客さんだった洋子さんと結婚。式の当日、来日公演中だったレイ・ブラウンはもちろんのこと、彼の奥さん「セシル」さんまでもが、アメリカからお祝いに駆けつけてくれたのだった。その宴には僕もご招待され出席。感動的な結婚披露宴だったのを覚えている。
 家業だった「せんべい屋」春から秋の「公園の売店」冬期間の「日通」と体がいくつあっても足りないために23年間ものジャズ喫茶休業。それはもう、言い尽くせない程「悶々」の日々。「なんだあアイツ。とバカにされれば燃える性質だから、今に見てろ!にっしぁたち。」と思ってきて、2006年奥州市水沢の日高神社前に自宅兼店舗の家を建て「ジャズ喫茶・RAY・BLOWN」を再びオープンした。
 マイクロのプレイヤー。マッキントッシュのアンプ。JBLのスピーカー。天井までの壁一面に膨大な枚数がビッシリと収まっているレコード。それを再生する生粋のジャズ喫茶復活激に、僕も激拍。
 久しぶりに店を訪れてみたら、僕の天女・穐吉敏子の「TOSHIKO」をさりげなくかけてくれた。嬉しかったね。何せオスカー・ピーターソンに見出され、彼のサイドメンだった「レイ・ブラウン」と録音した穐吉敏子の60年程前のデビュー盤。孝と顕はビールでビバップ!。
12:23:00 - johnny -

2021-11-15

幸遊記NO.7 「くつわだたかしの動物哀歌」2011.2.15.盛岡タイムス

 高校時代から、ギターを持って歌い始めたという、シンガー・ソング・ライター「くつわだ・たかし」が、岩手を代表する詩人のひとり、村上昭夫の「動物哀歌」に出合ったのは1978年。早稲田の学生だった22才の時だったという。
 以来彼は全国行脚する歌旅の友として、いつでもその詩集「動物哀歌」を持ち歩いていた。彼は石原吉郎。清水昶。村上昭夫。等の詩に曲をつけて歌い、もちろん彼自らも詩を書いた。村上昭夫の詩には「生きる希望が存在している」と語り、僕の店にやって来る度に“犬”や“ねずみ”“すずめ”“雁の声”を唄っては、僕の胸を振るわせた。
 85年秋、「くつわだ」が旅の途中で盛岡に降り、街をさまよいあるき高松の池のほとりに建つ村上昭夫の詩碑と対面した時、どっと涙があふれたという。
 昭夫の二つ目の詩碑が、彼の本籍地である父の故郷・陸前高田市矢作町に建立された98年、彼はその碑前にて動物哀歌の唄を捧げた。そして僕たちは「村上昭夫の動物哀歌をうたう」というCDを作ろうということになった。盛岡市青山に住む昭夫の弟,達夫氏宅をたずねると達夫ご夫妻はもちろん、昭夫の母・タマカ。昭夫の妻・ふさ子さんまで顔をそろえて待っていてくれた。
 そんな話に感動してくれた榎並和廣という知り合ったばかりの方が、制作費の足しにとウン10万をポンとだしてくれてCD化が実現した。
 出版されたCDを持って盛岡市立図書館をたずね、詩碑の前でコンサートをやろうということになり、それは2000年11月3日と2002年11月10日の2回、図書館集会室で開催され、一度目には詩人・宮静枝さん、二度目には昭夫の弟さん達、和夫・達夫・成夫と3人が顔をそろえてくれ、かつて昭夫が郵便局に勤めてた時の同僚だったという中村フミさんまでが集まってくれたのでした。
 ふりかえってみればまだ10年そこそこ。だが、昭夫の母、妻、弟2人、それに宮さん。くつわださんまでもが、この世を去ってしまった。動物哀歌をしみじみと読み聴く。
12:22:00 - johnny -

2021-11-14

幸遊記NO.6 「浅川マキの裏窓」2011.2.7.盛岡タイムス

 1975年に開店した陸前高田のジョニーで毎日、何度も流れていた浅川マキの唄。その暗闇の底から聴こえてくる様な、ブルースともジャズともロックともつかない、まったく彼女独特の世界、そう、70年のデビューアルバムのタイトルそのものであった「浅川マキの世界」のスタイルを40年間変えることなく唄い続け、2010年1月17日に、公演先のホテルで亡くなった彼女はその時67才だった。
 僕は、その死を新聞の記事で知り、開運橋のジョニーに時折やって来る鶴飼曻さんに電話を入れると、何で電話が来たのかということを彼はすでに知っていた、後日、僕達は深夜に、涙をこらえながら、彼女の古いレコードを聴き口ずさんだ。
 盛岡にジョニーを開いてから10年、僕の知る盛岡の浅川マキファンは彼以外誰も知らない。だから、浅川マキのレコードをかけるのは、彼が来た時だけなのだ。それも決まって他に客の居ない深夜に、「ジョニー・ドラム」というバーボンウイスキーを片手に、彼女の唄に聴き入るのだ。
 僕が生の彼女に出合ったのは、たしか78年東京西荻窪のジャズライブハウス「アケタの店」でだった。店のライブが終ってから全身黒服に身を包んだ彼女が店にやってきてベースとのリハーサルを始めてビックリ。それから、彼女と何度も何度もコンタクトを取り、岩手に陸前高田に来てくれる様に頼み続けて、4年後の81年7月1日、30人入ればギッチリの店に60人も座らせて、まさか、まさか、のジョニーライブが実現したのだった。
 メンバーは、浅川マキが亡くなる直前までピアノを弾き続けた渋谷毅。そしてトランペッターの近藤等則。ベースの山崎弘一。彼女は椅子の並べ方にまでこだわり、僕を感動させた。
 20枚の色紙やレコードにサインをお願いした時、彼女は、タタミの上に正座して、机に向い、その、すべてに歌詞の一節を書き添えてから、浅川マキとサインを入れた。僕はそれまでも、これまでも、沢山の人にサインを頂いてはいるが、彼女程とても丁寧な、美しい字でサインをしてくれた人は、今だかつていない。
12:21:00 - johnny -

2021-11-13

幸遊記NO.5 「バイソン片山の“初飛行”」2011.1.31.盛岡タイムス

 2010年31年振りにCD化され再発売された「片山光明・ファーストフライト」を聴きながらライナーノーツを読んだ。その冒頭に、ジャズドラマー。作曲家。教育打楽器専属講師。CMタレント。映画&舞台俳優。気仙沼大使。の文字。当時彼は28才。
 その最初の肩書き“ジャズドラマー”兼作曲家として、レコードデビューさせようとしたのは1979年。彼はすでに東京に出て活動していたのだったし、宮城出身とはいえ、となり街の気仙沼出身だったことも、陸前高田でジャズ喫茶をやっている僕にとっては地元からジャズスターをと、友知人、彼の兄や姉たちの協力のもと“初飛行”させたのだった。
 演奏のサポートをしてくれたのは、当時彼の師であったピアニストの故・杉野喜知郎さん。東京六本木交差点角のビルにあった「パッサ・テンポ」という店のオーナー。彼のピアノも曲も、若い僕らにとっては食べ足りなさを感じさせる位、渋くてカッコいいジャズだった。ベースの詩人北原の音も心にしみた。おかげで初飛行は成功しバンザイ三唱。
 気仙沼在住の画家・あい沢一夫氏(心象作家協会)がレコーディング風景を見て描いてくれたジャケットも評判になったものだった。2007年に「ジャズ批評誌」が選定した「和ジャズ1970~90年の200選」の巻頭カラー100選の中に3枚僕がプロデュースした当時のレコードが選ばれており、その中の1枚が、現バイソン片山の「ファースト・フライト・片山光明」というアルバム。
 録音当初から僕は、このレコードは名曲名演オリジナル名盤になると思ったが、時を経て、やはりそうなったことが、ことさらに嬉しい。
 この初飛行から5年後にはアメリカに飛行して活躍。帰国後に即、バイソンバンドを結成し、サッポロビール・ジャズオーディションで「ファーストフライト」を編曲し直した「ホライゾン」で見事グランプリを獲得し、87年のスイス・モントルージャズ祭に出演。ハービーハンコック。パットメセニー等を向こうに回し、岩手出身のトランペッター・臼沢茂を加えた「3管編成の彼等の熱演は曲毎に大きな拍手が沸き起こった」と報じられた。
12:20:00 - johnny -

2021-11-12

幸遊記NO.4 「三上寛の“職業”」2011.1.24.盛岡タイムス

 「陸前高田のジョニーでジャズを聞く/ 古澤良治郎のドラムを聞く/ 渋谷毅のピアノを聞く/ 海鳴りが聞こえてくるすぐの街にジョニーはあった」で始まり「僕はなぜかジョンコルトレーンになった様な気がしたのである/ それはなぜだかわからない/ わからないけれど/ 頭の上を/ うんざりするほどつまらない照井氏の駄ジャレが/ はっきりとした意志をもってむしろかがやきながら/ ものすごい/ いきおいで/ 通りすぎてゆくのだ/ 遠くで誰かが言っている/ 「楽しそうだノオ」で終る70行からなるこの詩「海鳴りが聞こえてくるすぐの街に」を「80年代」という雑誌(80年9月号)に発表した、シンガー・三上寛。
 その三上寛が79年6月9日、陸前高田市民会館で、脈動のドラマーと呼ばれた古澤良治郎とコンサートを行ったのだ。その模様を記録しとこうと、僕は当時ソニーが開発したエルカセットで録音しておいた。その後三上寛は、どうしてもあのコンサートが忘れられないと、唄いに来る度言い続けたので、僕はそれを10年後にレコード化した。1000枚完全限定のモノラルLP。ホールが興奮のルツボと化した、すさまじくも感動的で、幸せな一夜の記録。
 あの日から30年過ぎた2010年7月8日、三上寛が盛岡の東家本店隣の「九十九草」でライブを行うという日、東京のレコード会社ウルトラヴァイヴの前田氏から連絡が入って、10月にあの三上・古澤のLP「職業」のCD化が決定とのこと。その日「九十九草」からご招待を受けていた僕は、三上寛のステージを感慨深く見聞させて頂いた。感謝感謝。
 再発CDの解説の中に三上の言葉「当時、ライブハウスは極めてアンダーグラウンドな場所で、今より特別な意味があった。その関係者の中でも照井は日本人というものに強いこだわりがあって欧米との音の違いを追求していたひと。そういう稀有な存在があって、今という時代があることをみんなに知ってほしいね」とあって、僕はジーンとなった。
 職業というタイトルについては「当時は非常に厳しい状態だったから“天職=仕事”と自己暗示して乗り切ろうとしていた」のだと三上。ジャケット絵は黒田征太郎。
12:18:00 - johnny -

2021-11-11

幸遊記NO.3 「中山英二・宮野弘紀のデビュー」2011.1.17.盛岡タイムス

 札幌市を中心に、北海道で活躍していたジャズベーシスト・中山英二から、東北地方で演奏したいと、手紙とともにデモテープが送られてきたのは1977年の初夏。
 カセットテープに収められた、彼のオリジナル曲「大地を走り抜ける風のように」を聴き、すっかり魅せられてしまった僕は、コンサートを主催することにした9月12日まで、彼等の音楽を、百回は軽く繰り返しながらそのテープを聴いた。
 新鮮なメロディー、それを奏でるトリオの美しいサウンド。力強いベースラインとともにまるでリード楽器のようにメロディーを奏でる一人二役?の中山英二のベース奏法。何故にこんなにも素晴らしいミュージシャンが、無名のままで北海道に居なければならないのか!と、僕は彼等の生演奏を耳の当たりにし、一大決心をした。
 ジョニーズ・ディスクの創設であった。大げさに言えば、岩手でレコード制作会社?を立ち上げたのである。当時、レコードと言えば、東京中心の大手メーカーが作ったものを耳にするだけの地方、それに反旗をひるがえし、地方から東京へ、全国へ、出来ることなら世界へと、第三者である僕の耳を通した作品を世に問うてみようと思ったのである。
 だが問題はお金の工面。無一文に近い僕は、知っているほとんどの人に手紙を出して、一人一口一万円の出資者をつのって始めたレコード制作は珍しがられ即完売!同78年には、上京してスタジオ録音。一年で2枚もリリース。と、これまた話題となって再プレス。
 ここから、中山英二は大躍進、二作目のメンバーと共にバンドごと東京へ進出して行ったのである。ギターの宮野弘紀(現在、歌手の綾戸智絵の伴奏者も務めている)彼は、その時が初レコーディング。今では二人共、世界的に見ても指折りのジャズミュージシャンの一人に数えられる程だ。
 その記念碑的レコード「アヤのサンバ」「マイ・プレゼントソング」の2作が32年振りの2010年に渋谷のレコード会社・ウルトラ・ヴァイヴからCD化され再発売になった。
12:09:00 - johnny -

2021-11-10

幸遊記NO.2 「本田竹彦の破壊と抒情」2011.1.10.盛岡タイムス

 1969年、ステレオメーカーのトリオがレコード制作も始め、岩手県宮古市出身のジャズピアニスト・本田竹彦のデビューアルバム「本田竹彦の魅力」を発売し、渡辺貞夫との共演!で、話題になった。その本田の本格デビュー盤ともいえる自己のトリオで録音した「ザ・トリオ」も豪華な見開きジャケットのLP盤だった。
 僕は当時」22~23才。寸時も惜しんで色んなレコードを夢中になって聴いていた時代であった。定時制高校を卒業と同時始めたレコードコンサートも続けていた。更にレコードが定価より安く買えるからと、片手間に、レコード屋まがいの店を開き、その時「本田竹彦」(竹広)の音楽に出合ったのだった。
 それは運命的であったと今更に思う。本田竹彦の「ザ・トリオ」というレコードの中に収められていた「破壊と抒情」は、それまで夢中になって聴いてきた音楽の全てが、その一曲の中に集約されていると感じてしまったのだから。
 その2年後位だったろうか、本田が故郷の宮古に帰ってきて、コンサートを開くと聞き及び、それこそホンダのNⅢで陸前高田から宮古小学校まで聴きに出掛けたのだった。その演奏の凄さたるや、ピアノの椅子には、まるでバネでも入っているかの様な本田の大スイング。
 あれが、僕の最初のジャズライブ体験。打上げに残って色紙にサインを貰ったら「With・My・Soul」そう、演奏は彼の魂そのものなのだった。
 そして念願の陸前高田での彼の初コンサートを市民会館ホールで開催したのは77年2月6日のこと。75年8月から開いた「ジャズ喫茶・ジョニー」に通う人達のサークル「三陸・ジャズ・クラブ」が主催した第2回目の企画。メンバーは本田のピアノ。岡田勉(ベース)、守新治(ドラム)、によるトリオ。
 本田という凄いピアニストは岩手出身。しかも僕をジャズに引き込んでなお、陸前高田で開いた音楽喫茶をジャズ喫茶へとかりたててくれた男であり、ジャズに携わる僕らにとっては偉大なスターピアニストだったのだ。

12:09:23 - johnny -

幸遊記NO.1 「照井顕 ジャズが好き、人が好き」2011.1.4.盛岡タイムス


 僕にとって幸せなことは、何と言っても音楽を常に聴き続けてこれたことだ。
  音楽は実態のない幻想。言葉もそう。演奏している時、しゃべっている時には実在しているが、終わってしまえば消える。だが、見たり、聴いたりした人たちが感動したものは、その人たちの心に記憶あるいは印象として残る。
  やがて少しずつ薄れることはあっても、その人が生きている間は残り続ける。いずれ記憶はその人と共に消えるが、その消えた人を愛していた人の心の中には、その人が生きている限り存在する。
  だが自分自身の記憶をたどってみれば、そのほとんどが消えかかっていることに、毎日のように気付かされる。その消えゆくものを消さぬようにとするためには、いつも記録する作業が必要なのだが、筆不精の僕は、そのメモすらしないで来た。
  たとえメモを取ったとしても、そのメモをどこへしまったか忘れてしまえば、メモ(目も)あてられない。とシャレで過ごしてきた。そのことは、あいまいな記憶の話はできるとしても正確な記録とすることはできない。そのためには調べる時間が膨大に必要になる、僕自身へのツケなのだ。
  少年の頃に読んだ五木寛之の小説「海を見ていたジョニー」の一説に「ジャズを好きだってことは、人間を好きだってこと」という主人公・ジョニーの言葉があったと記憶する。自分が生きてきた道程を振り返ってみれば、さまざまな音楽と出合い、その音楽を歌い奏でる人や、それらを愛する人々との交流、そして親しくなった方たちからは、少なからず自分の生き方については影響を受けてきたのだと思う。
  僕を、63年前に産んでくれた母・キノエ。父・省平はもうこの世にはいないが、僕が生まれてから中学を卒業するまでの間に、僕という人間の形成に大きく関わっていたのだと今さらながら考えさせられる。記憶には無いが、もちろん兄や姉の影響も、たぶんに含まれているのだと思う。ジャズを好きになり人を好きになった僕の「幸遊記(こうゆうき)」を次回からつづってみようと思います。

12:04:25 - johnny -
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