盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.198 「加藤アオイの葵繭(あおいまゆ)」2014.10.27.盛岡タイムス
 伝統ある日本最大級のジャズ祭「ヨコハマ・ジャズ・プロムナード・2014」そのプロデューサー・柴田浩一さんからの招待を受け夫婦で行って来た。そのメイン会場だった、横浜「みなとみらいホール」ロビーで、偶然に出会ったのは、出演者でジャズ歌手兼ピアニストの加藤アオイ・真由さん親子だった。
 加藤アオイさん(62)が初めて、僕(ジョニー)に電話や手紙をくれたのはもう20年も前。誰かの紹介だった。以来時折の手紙や、彼女の活動を知らせる通信が絶えることなく今日に至っています。そのまめさに、応えなくてはと思い、初めて彼女のライブを開催したのは、10年近くも経過した、2003年のことでした。
 その時、僕は彼女の唄もさることながら、気に入ったのは、歌のあい間のアドリブ演奏とその音の素晴らしさにだった。それが、頭の中に残った。6年後の2009年1月24日、「開運橋のジョニー」でライブを演り、翌25日、北上市のさくらホールで、あの美しいピアノ、ファツ・オーリを使用して、彼女の弾き語り。そして彼女の娘・真由さんとのデュエットを録音した。
 アオイさんの本名である「葵」と、娘さんの真由の名を「繭」にしたタイトル、「葵繭」(AOI・MAYU)として、僕のレーベル・ジョニーズ・ディスクより、東京のレコード会社、ウルトラ・ヴァイヴを通じてCDを全国発売。彼女たちのコンサートやライブ会場での手売りも又、頭が下がる程、まめで今だに一生懸命なのである。
 僕等が9月の第一日曜日に開催している「オータムジャズ祭・イン・紫波ビューガーデン」にも何度か出演して頂いたが、久し振りに来年のジャズ祭にお願いします!と言うので、OKして、みなとみらいホールで彼女の「ワークソング」をじっくりと聴いた。
 加藤アオイさんは1952年大阪生まれ。京都市立芸大ピアノ科卒。上京してフルバンドのピアニストとして、ジャズ界入り。79年渡米し、シカゴを中心にライブ活動。91年「モーヴ」を発表。96、99ヨーロッパツアー。ウイーンやドイツで好評を博した。娘とのデュオは、平成8年8月から。その同質の声によるハーモニーが、なんとも魅力的!。

幸遊記NO.197 「開運橋からの手紙」2014.10.20.盛岡タイムス
 拝啓、今年2014年も、例年の様に芸術の秋になりました。盛岡タイムスをお読み下さっている皆様、又、新聞はとっていないけれども、月曜日だけは楽しみにしていますと、コンビニに走ってタイムスを買い、幸遊記を読んで下さっている僕のファン。そしてネットで読まれている全国の皆様の中にも、「幸遊記が載らない日の分を送ってくれないかなあ」というジョニーファン、その様々な声にはげまされ、僕の頭もだいぶ薄くなりましたが、皆様はお変わりなくお過ごしでしょうか。
 僕達の店「開運橋のジョニー」も昨年(2013年)の1月、開運橋通のリージェントビル地下から、開運橋際のテレビジョンのある宮田ビル右隣のMKビル4Fに移転し、40年前1975年創業時の初心に帰り、本業のジャズ喫茶の姿に戻した「カフェ・ジャズ・開運橋のジョニー」と成りました。午後2時から夜半12時まで開店。店内禁煙と致しましたところ「えっ!ジャズ喫茶が禁煙!」とびっくりされたり、喜ばれたり、反応様々でしたが、店外(ベランダ)に喫煙所を設けており、これが又眺望が素晴らしいので、タバコも格別の味わいがあると好評です。
 12月になりますと開運橋がライトアップされ、クリスマスには川向いのホテル・ルイズや、駅西のマリオスビルに、窓の灯を利用したハートマークを灯してくださるサービスは感激的です。その二つのハートと駅前の北上川に架かる開運橋が美しく観える、数少ないスポットなのでもあります。
 現在の店は以前の「黒」から「白」へと変身「明るい照明と音の良いステレオ(オーディオ)気さくな照井さんのお宅にご招待されて、お茶やお酒を飲んでるみたい」と言う方々もおります。ジャズの店(開運橋のジョニー)は基本的に忙しくないので想像以上に、ゆったりと、時間を気にせず、音楽と会話が楽しめる、「文化サロン」と僕は思っております。
 最近は、家で大きな音で楽しめないのでと、SP・LPレコードやCDをご持参になって聴いていかれる地元の方達もいらっしゃいます。料金はソフトドリンク、アルコール共に800円。ジャズ麺、スパゲッティ、カレー、お好み焼きなど900円。テーブルチャージはありませんので、ご来店心待ち致しております。     敬具。

幸遊記NO.196 「今洋一・優子の“森田村の四季”」2014.10.13.盛岡タイムス
 青森県森田村(現・つがる市)が「つがる地球村構想」という名の新しい村づくりビジョンを策定したのは、昭和63年(1988)神繁春村長時代のこと。世界うら声民謡大会に始まったそれは、平成年号になると石神ストーンパーク計画の第一弾として、ギリシャの野外円形劇場を参考に、村の全人口(5.500人)を収容出来る「森田村円形劇場」建設を押し進め完成させたのでした。
 米とりんごと民謡の村が、世界に誇れる大舞台を造り、そしてそこから発信させた音楽を世界中の桧舞台へ乗せ、一躍森田ビレッジ(村)を有名にした。その音楽はジャズ。曲は「フォーシーズン」(森田村の四季)。作曲者は我らが世界に誇る、穐(秋)吉敏子。四季折々に足を運び年月かけての作曲は「クラシックで有名なヴィバルディの“四季”を凌駕するつもりで創りました」と穐吉さん自らステージで言う様に、彼女のオーケストラによって、冬に始まり秋で終る「リポーズ」「ポリネーション」「ノリト」「ハーベスト」からなる組曲。
 その完成発表会が落成なった円形劇場で行われたのが1994年8月14日。以来彼女は世界中で、その曲を演奏。ソロのステージでさえも「リポーズ」は必ず演奏し、森田(つがる)の名をジャズで広め続けているのです。
 そして発表20年の時を経た今年2014年10月25日(盛岡・23日)、穐吉敏子さん(85)は、娘のマンディ満ちるさん(51)と初めて、母娘二人だけでアメリカから帰国してつがる市役所前の「松の館ホール」の舞台に立つ。企画は僕だが、主催するのは、36年前に僕が創設した、ジョニーズ・ディスクに、当時の青森県柏村から、心強い応援をしてくれた一人、今(旧姓・対馬)優子さん(57)と、ご主人の洋一さん(60)ご夫妻。
 今年から森田村中学校勤務の優子さんは「顔合わせの時、高橋幸治校長が、穐吉さんのジャズ「フォーシーズン」の曲になった素敵な森田村なんですよ。と子供達に伝えていた」とやる気満々。なにせ二人は大の穐吉ファン。何度も盛岡まで聴きに足を運んでいるし、二人が出会った場所もまた、当時、五所川原市にあった故・工藤功さんのジャズ喫茶「プリンセス」だった。「だから私は彼・洋一さんの“プリンセス”になったのよ!」と笑う優子さん。二人で競い合って券を売り、ほぼ満席だという。ごくろうさん!。

幸遊記NO.195 「根子精郎の本藍型染め」2014.10.6.盛岡タイムス
 「青は藍より出(い)でて藍より青し」という中国のことわざがあるけれど、本物の「藍は青より深く紺より淡し」昔から日本人が最も愛し好んできた味わいに満ちた色である。その原料である「蒅(すくも)」と呼ばれる江戸時代から続く古法で作られる藍染の原料を作る藍師も日本にはもう5人しか居ないのだそうである。同じ藍色であってもインディゴ(化学的な大和藍)では、のっぺりとしたきれいさで、洗えば色落ちし、他に移るが、本藍は、色落ちがなく体にも優しく殺菌作用まである。
 その藍に見染められたのか見染めたのかは知らないけれど、本当に愛して藍の型染め屋を始め「ねこの染物屋」という看板を掲げた根子精郎さん(60)は、そこにたどり着くまでに山程の職務経験を積んだ人。何もかもが便利なデジタル時代に、超アナログな藍に魅せられてしまった彼だが、紫波に生まれ、盛岡工業高校にデザイン科が出来た時に入学、卒業して、入った会社が東京の玩具研究所。朝から晩まで何をして遊んでもいい会社。ゼロから特許、生産ラインに持って行くまでの、ありとあらゆるアイディアを生み出す仕事の青春時代が今につながっている様子。
 僕が根子さんに出会ったのは、盛岡手作り村にある藍染屋の「たきうら」さんの「ゴツボギャラリー」で「藍書展」を開かせて貰った2007年5月。藍書といっても僕は墨の替りに“藍色のインク”を使って書いているのだが、その「たきうら」さんで彼は修業していたのだった。その時、根子さんは僕に何点かの書をリクエストした。それが始まりで、彼の店のロゴ(看板)を書かせてもらい、作品となる染字も、随分と採用して頂き、手拭いや、暖簾(のれん)となり、僕の店に飾らせて頂いておりますが、とてもうれしくて、うれしくて仕方が無い。時が経つほど藍着(あいちゃく)が増しています。
 2014年9月、盛岡の新商業施設「Nanak(ななっく)」の平金ギャラリーで開かれた彼の藍染作品展示即売会で、贈り物として飛ぶ様に売れたのが、手拭いや、のれんならぬ“フンドシ”だったという。買った方は、藍(愛)で見染めた人の雑菌を殺菌する効果をねらってのことだろうか?と、1人悦に入り笑った僕でした。

幸遊記NO.194 「金子飛鳥の炎立つバイオリン」2014.9.29.盛岡タイムス
 盛岡市在住作家・高橋克彦氏原作のNHK大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」が、舞台劇となり、2014年8月9日の東京Bunkamuraのシアターコクーンを皮切りに、愛知、広島、兵庫で上演され、9月21日、一千年前の「炎立つ」舞台であった「岩手」県民会館大ホールで千穐楽を迎えた。
 その千穐楽前日の公演を終えた深夜、舞台音楽担当の金子飛鳥さんたちが、開運橋のジョニーに現れた。一人はギタリストの宮野弘紀さん、彼は1970年代の末頃、僕がプロデュースしたジョニーズ・ディスクに初レコーディングし上京。以来ギター一筋に生きてきて漣(さざなみ)奏法を生み出し、ギターに恩返しをした男。来盛の度、僕を招待してくれる恩義の人でもある。バイオリニストの金子飛鳥さんは、50を超える国々で演奏活動を行い、20タイトルを超えるアルバムを発表して来たひと。東京芸大時代からプロ活動で多くの有名歌手や演奏家たちをサポートし、盛り立てるプロ中のプロストリンガー。
 翌日、僕等夫婦は、県民会館の一階招待席12列24・25に。10列の席には何と原作者の高橋克彦氏(67)が座っていた。一千年前、藤原清衡によって築かれた百年の平安浄土“平泉”「その万物平等の理想郷は、軍事力でも支配力でもない、運命を引き受けた人間の凄まじい意志の力によって実現した」そこに至るまでの戦いと、心の葛藤を舞い・演じ・歌い・語り・で描いた作品。
 キヨヒラに片岡愛之助。イエヒラに三宅健。アラハバキの神に平幹二郎。そしてキリ(キヨヒラの妻)役に岩手(盛岡と奥州市)出身の親たちから東京で生れた宮菜穂子。昔、蝦夷(えみし)の者は百人分の力を持っていたとされるが、出演した舞姫たちは、何千、何万人分もの表現者となる演出照明。その素晴らしさに驚きながら、それぞれの動作所作と一体化し、それらをより鮮明に浮かび上がらせる黒子役の音楽に感動しまくった。
 前夜、飛鳥さんはホテルに戻ってから最近のアルバム5枚から選りすぐった9曲をCDRにまとめ、ホテルのメモ用紙に曲名などを書いて届けてくれたのです。とっさに僕は、よろこび・のう・ひびき・とぶ「喜脳響飛(きのう・きょう・あす)」。と、以前に書いた「書」を思い出していた。あと31年(戦後100年)不戦の国日本は“平泉”を越せるのだろうか?。

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