盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.597 「葛城ユキの哀愁夜」2022.7.4.盛岡タイムス
 「ボヘミアン」の大ヒット曲で知られた歌手・葛城ユキ(本名・田中小夜子)さん(73)が腹膜癌で6月27日(2022)に亡くなった。入院したことをネットで知ったのは昨年。気になっていたが、やっぱり彼女でも駄目だったのか。それでも、今年4月1年ぶりに車椅子で「夢コンサート」に出演し、あのベッドミドラーの「ザ・ローズ」を自らのラスト曲として歌唱し去って行ったというニュースに接し、彼女らしいなあ、と僕は思った。
1979年のアメリカ映画「ザ・ローズ」の主題歌、ミドラーの迫真の名演技やローズのコンサートシーン、マネージャーとの決別、恋人との別離、母親への電話のシーンなど鮮烈に蘇って来る程、凄い映画だったなと、僕は僕で葛城ユキの「哀愁夜」を聴きながら、想い出している。「Ladyマニュキアの爪を磨いてcrazy乱れそな心鎮めてあふれる逢いたさを唇でひきちぎる」(竹花いち子詞)
葛城ユキさんは岡山県高梁市の散髪屋に五人兄弟の末っ子として生まれ「子供のころから歌が好き、いつも鏡の前で大人の歌ばっかり唄っていたの。童謡とか学校の歌とかつまんなくて、絶対歌手になる!て決めていたんです」。
運動も得意、陸上とバレーで倉敷翠松高校特待生、寮生活しながら国体や全国大会にはキャプテンでエースアタッカーとして出場。実業団からスカウトされ入団したもののやっぱり歌をやりたいと夜逃げ!?大阪の歌謡学校へ。ポプコンオーディションのテープを耳にしたヤマハの会長が探して来いとで!ポプコンはもちろん、世界歌謡祭で審査員特別賞。ポピュラーソングコンテストで最優秀賞に輝きメジャーデビューを飾ったのがあの「ボヘミアン」。「一夜に燃え落ちて甘い夢見て狂おしく抱きしめたあなた旅人、ボヘミアン恋の矢の痛みに嘆くあなたの愛が今もぬけない」(飛鳥涼・詞)
以来「千年愛して」と、熱く「激しい夜」のステージを駆け巡った女性「ランナー」。「哀しみのオーシャン」でロックの女王と呼ばれた‘80年。日本人女性として初の中国公演を成功させた‘86年。’03年には人間ロケット体験までした野生動物的感覚の持ち主でした。「唄は全身全霊でハートを込め、優しい気持ちで、聴いてる人を愛し、うたってあげようという思いが反映されて自然体のいい唄になるの」と、僕に話してくれたっけ。嗚呼!あれからすでに33年。今は「遠い絆」の歌が聴こえて来る(力を歌にoh Help me 漂う難民にひとかけらのパンもない、、、、、)。

幸遊記NO.596 「戦争はいらないという希望」2022.6.27.盛岡タイムス
 2019年9月、女房が捨てた古いタブレットを拾い遊んでいたら、ジョニー照井顯という自分のフェースブックが出来上がって、以来今も時折様々な写真にコメントをくっつけてアップし続けている僕。最初の投稿は、ヨーロッパを処点に活躍するジャズピアニスト・高瀬アキさん、その弟さんが開運橋のジョニーに来た時二人で撮った記念写真。その彼6月(2022)再来してくれて、それこそアキさんのCD「イズント・イット・ロマンティック?」(2020年8月ブタペスト・BMCスタジオ録音)をプレゼントされ毎日聴き入っている僕。
 高瀬アキさんと言えばで想い出したのは1982年のこと。ジャズ喫茶ジョニーで、高瀬さんとベースの池田芳夫さんがデュオライブした3月5日。あの日確か週刊誌の取材もあったなあと想い出し、衆議院会館に勤務する友に、その記事探しを頼んでみたら、国立国会図書館で見つけましたと2020年3月コピーを送ってくれました。
 そのコピー「1982年7月3日号週刊宝石」8ページにわたって紹介された写真と記事は「日本のジャズにこだわり続ける男の物語」(ローカルジャズ発掘伝。三陸ジャズ魂は燃えている。日本のジャズシーンを撃つ。ジャズと五木寛之。縄文ジャズが聞こえる。ジョニー流オーディオ術)などの見出し。見開きページには高瀬アキさんが、ピアノを弾くライブシーンの写真もありましたので、そのコピーをそれこそ弟さんにもお渡ししました。
 それはそうと、その彼が差し出したもう一つの手土産。それがなんと「穐吉敏子さんが表紙の英語と日本語のジャズマガジン「JAZZNiN(ジャズ人)」2005年4月号」(穐吉敏子インタビュー特集)だったのでビックリ。しかも僕は初めて目にした本でしたから、超嬉しい。更に、今は亡き松坂妃呂子さん(ジャズ批評誌・オーナー編集長)の記事もあり、感謝2倍。ありがとう!高瀬さん。
 その記事の頭で、インタビュア・ミッシェルプロンコ氏は「全ジャズ界で最も革新的な穐吉の50年間にわたる仕事は批評家の称賛を浴び、不動の人気を博して来た。しかし彼女が“公”に認められたのは、ほんの昨年(2004)10月「国際交流基金賞」である。アメリカのジャズ語法に日本の音楽的影響と文化テーマをもたらし、二つの文化の架け橋になった」というものだったと。そこで穐吉さんが強く語っていたのは、「ジャズはソーシャルアートですから、世界に向かって戦争はいらないと言いたいのです。戦争には何一ついいことはありません。私たちはこのことを言い続け、希望を持ち続けなければなりません」とありました。

幸遊記NO.595 「ケンちゃんからケンちゃんへの手紙」2022.6.20.盛岡タイムス
 このタイトルは1980年9月号・スイングジャーナルの連載記事「日本ジャズ風土記」(第7回陸前高田編)に掲載なった手紙文の見出しでありジャズ評論家の藤井健夫氏が僕に宛てたものでした。地方復権の狼煙として僕が‘78年から始めたレコードレーベル「ジョニーズディスク」の第一弾だった中山英二(b)のファーストアルバム「アヤのサンバ」をリリースした時「求めたい!」とハガキを送ってくれた唯一のジャズ評論家が彼でした。当時僕にとって評論家たちは雲の上の人達でしたから、コーフンしたものでした。
 そして80年6月世界の穐吉敏子トリオを陸前高田に迎えるにあたって「店の壁面には、穐吉さんのレコードジャケットによるディスコグラフィを飾り、ロングイエローロードと書かれた黄色いテープ。それはダウンビート誌国際批評家投票2年連続首位に輝く穐吉さんの渡米以来20年の苦闘を物語るとともに日本のジャズの長い道であり、ケンちゃんの誇りでもあり日本人のレコードを専門にかけレコードまでつくっているジャズ喫茶は本邦只一店」と当時の同誌大熊隆文編集長の記事文。
 そのスイングジャーナル誌がトリオレコードと共催した「キースジャレット(p)ソロの世界」のジャズ懸賞論文の募集に応募した藤井健夫(当時32才、日本興業銀行勤務)が最終選考10名の中に残り、見事、最優秀賞を受賞し、評論家としての確固たる地位を築いたのは‘74年のこと(75年1月号)。論文の対象となった「キースジャレット・ソロコンサート(3枚組・’73年録音、ECMレコード)」この解説の中でキース自身「音楽が全てを語っている。付け加えるべき言葉は何もない。今まで作られたことのない種類の音楽であり、やがて一般化されることが望ましい音楽」と。
 健夫さんは「ジャズサークルの人達のみならず、より広い音楽愛好家に受け入れられる可能性を示すものであり、“ジャズの大衆化”という古くて新しい問題の進展にきっかけを与え、人々の心に何物かを残すに違いないと私は確信している」とした。のちの「ケルンコンサート」や「サンベアコンサート」は真にその実証であり、キースの時代を築いたのですから、まさに彼・健さんの予言とも言えた。
 2003年僕が原宿で「写心展」を開いた時には見に来てくれて、二人で写真に納まった日の優しいお顔に2度惚れした僕。今秋(2022)オープンする穐吉敏子ジャズミュージアムへご寄付して下さった後「3月18日残念ながら夫は80才で帰天いたしました」と、治子奥様からのメール。嗚呼。ケンちゃん!

幸遊記NO.594 「現代歌人協会の土岐友浩」2022.6.12.盛岡タイムス
 5月(2022)の連休に京都からの若者が店に現れた。初めての東北旅行で盛岡へ来たのだという。何か聴きたいレコードある?と訊ねてみたら「バドパウエルをお願いします」(若き日の穐吉敏子さんが憧れたピアニスト)だった。話を聞けば短歌をやっている人で、それこそ啄木気分で盛岡城跡にのぼり寝転び「空に吸われし十五の心」を呟いて見たかったそうだが、あの日はあいにくの雨。そこで彼は思い立って目指したのが北上川の開運橋と、ジョニーだったと言う訳。短歌なら「北宴」、啄木なら「啄木遺骨の行方」などいかがと言いながら何冊かの本を並べ見せたりした僕。彼は帰り際に「一首詠みます。紙とペンを貸して下さいませんか?」と言って書いたのが「春雨は、開運橋に降りそそぐ ジョニーと呼べば、みなが振り向く」。僕は嬉しくなってすぐさま筆と半紙を取り出し例によって左手でその短歌をしたため彼に持たせたのでした(フェイスブックにアップ)。
 そして一ヶ月が過ぎたこの6月、一通の封書が彼から届いた。「旅から戻って”海を見ていたジョニー“(CD)を何度も聴きました。あいにくの雨でしたが、そのお陰であの日紛れもない名盤と貴店に出会えたことを思うと幸運なめぐり合わせでした」と。更に「僕が所属する”現代歌人協会“のホームページに、この想い出話を聞いて貰おうと書かせて頂きましたのでアクセスして御笑覧下さい」と、そのコピー。
 会員エッセイ(第9回)「開運橋のジョニー」土岐友浩。とありました。短歌もさることながら、その文章もなかなかのカッコ良さで、あの日の彼と僕の事「春雨は開運橋に降りそそぐ」と上句をかいたあとはジョニーだ。「ジョニーと呼べばきみは微えむ」はどうだろう。「きみは振り向く」は?と2,3の下句を思い浮かべた後、これだ!と感じた一首「“みなが振り向く”を笑顔とダジャレを絶やさない好々爺(僕)に献上した」とある。
 その土岐さんが会員の「一般社団法人・現代歌人協会は1956年(昭和31)1月62名の発起人に始まり、現在は900余名の会員を有する職能的性格を持つ団体。現理事長は1954年生まれの栗木京子氏。京都大学理学部時代から歌を詠み、読売文学賞、毎日芸術賞などの受賞者で「観覧車回れよ回れ想い出は君には一日(ひとひ)私には一生(ひとよ)」が代表作。土岐友浩さんは1982年愛知生まれ。京都大医学部卒の精神科医。歌集「Bootieg」「僕は行くよ」がある、「西瓜」同人。僕は「ああおなかスイカ!滝沢西瓜の季節まもなく」と言いながら、一人、土岐英史(ss.as)の暖かなJAZZ「Toki」(TBM-46)を聴いています。

幸遊記NO.593 「ミュージアム・West 38」2022.6.6.盛岡タイムス
 今秋落成の新盛岡バスセンター3階に設置なる「穐吉敏子ジャズミュージアム」に関連する店の名が「Cafe Bar・West38」に決まった。ウエストと書けば腰回りの事をすぐ想像してしまうのですが、それはウェスト(waist)。Westは説明するまでもなく、と言いながら説明しようとしている僕。バスセンター3階に出来るホテルのロビーと中庭をニューヨークのセントラルパークに見立てればそのすぐ西側に位置する穐吉敏子さん宅の様にジャズルーム(敏子の部屋)を設(しつら)え、ロビーの西側には38という店(まるでシャレのような偶然!必然?)。
 そこで皆さん“38”は?となる。ホテル内だけに蜜峰!なんて想像する方もいらっしゃるかもしれませんが、実は違いますとも言えません。かつて東京葛飾区金町に「ジャズスポット・38」という店がありました。店主の故・早井敏成さん(僕よりずーっと先輩)が、かつて僕の店があった陸前高田にやって来たのは丁度30年前の‘92年5月。戻るとすぐに手紙が届いた。「曽々念願の貴店を訪問出来、本当に幸せでした。帰りにベイシーにも立ち寄り、多々貴重なお話を伺うことが出来ました。ジョニーには今後何度も何度も訪ねて見たいと思います」という内容でした。
 そして‘96年10月品川のホテルで開催された「穐吉敏子ジャズ生活50周年を祝う会」に出席した時の事、あの「ニュース23」でお馴染みだった筑紫哲也氏、ジャズ評論家の油井正一氏、児山紀芳氏、オーディオ評論家の江川三郎氏、ジャズドラマー・ジョージ川口氏等が挨拶に立ち、そして穐吉・ルーご夫妻が立つと、どこからともなく、それこそミツバチの如く背を丸め、屈みながら舞台に近づいて行き、しゃがみ込んだままじっと見入っていた人。それが38のマスター早井敏成さんだった。
 その姿見て僕は、彼も又穐吉さんと同じ満州からの引揚者、彼女のジャズに魅せられ憧れ続けてきた人なのだと察し、いつか彼の店で穐吉さんに演奏して貰おうと思い、それは2001年10月4日に実現したのでした。店には立すいの余地もなくぎっしりの人々。「穐吉さんをお迎えすることの重さをひしひしと痛感する日々を送っております」「実行委員会作りました」「お陰様で店はようやく一流になれました」「感動のあの一日は永久に忘れることが出来ません」でした。その38は偶然にも穐吉さん宅の地番「West38」と一緒だったし、早井さんの店は三丁目の助六(6)ビル二(2)階(いわゆる38?)でした。ドントハレ!。

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