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「駅に向って歩いていたら、ジョニーの看板が目に入ったので上がってきました」そう言いながら来店した人の顔見れば、鈴木先生だった(元・陸前高田市立小友小学校長)。「今日、岩手教育会館での教員退職者囲碁大会に参加して帰るところでした」。彼は確か小友小学校が最後の勤務校だったはず(1995~7年頃)。故・やなせたかしさんの大ファンでアニメのはしり映画だった「やさしいライオン」に出会ってからというもの転勤先の学校や公民館で20年以上16ミリ映写機を廻し上映!子ども達に見せ続けながら、やなせさんとの交流も深め、96年陸前高田で「やなせたかし展」まで開催した方。
今どうしているんですか?と問えば「一関で週4~5回囲碁道場へ。週1で市のシニアプラザで頼まれ囲碁。あと一関ケーブルTVの“囲碁入門講座”を1ヶ月交替で担当」だと言う。そうだ彼は一関市川崎町の住いだったとおもいだしたら、小友小学校長時代、将棋クラブで子ども達を指導し、地区の70才以上の先輩達(有段者を含む)を学校に招き「孫とおじいさん方の将棋交流会」を開くと聞かされ、へぼ将棋が好きだった僕も見学に行ったら、爺組1人欠席で参加のはめに。「下手と見て見くびるな」「負けて学習、勝っても学習」などのクラブ七訓が教室に貼り出されていて感心したことなども思い出す。 その鈴木明氏(81)が退職する年「詩を書いてみたので曲をつけてもらえないかなあ!」と渡されたのが「海の灯の想い出」。当時僕は「アテルヰじゃんず楽団」というバンド練習は一切しないぶっつけ本番の当日舞台集合即興バンドを率いて自作曲を唄っていたことから、作曲し、1997年、僕の初CD同楽団での「潮騒の森」14曲入りに収録した。彼はCDになるなら自分の名前でははずかしいと、女性名・岸本和子でのクレジット。「向こう岸の灯がわたしを誘う、出張(しごと)帰りの道すがら、車停めて見つめる海、あの時別れなくてもよかったのに、幼さゆえになぜか、あなたから去ってしまった、海の日の遠い想い出」久し振りに鈴木さんと2人で聴き、FMに出た時の話など昔語りした翌日の11月9日(2018)仙台の高橋真砂子さんと言う方から電話がはいり「友人から預かったCD「潮騒の森」を聴いて感動しています。私も欲しいのですが、、、、、」でした。発売から21年CDも成長し大人のうたになったのかもね。
例えば東京で行われている岩手県人会みたいな同郷会もあれば、たった2人で昔の友と語らい飲む会まで世の中には様々な会が存在する。そんな中のひとつに県都、盛岡からは一番遠い所にある気仙地区の大船渡、陸前高田、住田町、三陸町(現・大船渡市)、いわゆる気仙郡を古里としながらも、それぞれの理由のもとに盛岡地区に住んでいる人達の会「気仙同郷会」なるものが存在し、それが何と、百周年を迎えたという平成30年の今年、その会が11月2日「エスポワールいわて」にて開催され、参加した。
今年参加人数は60余名、毎年、市長や町長あるいは副の付く方たちもかけつけて、同郷の現在を語ってくれるので、懐かしいやら新しいやら様々なことが頭をよぎる。それに気仙地区の代表的な企業,例えば東海新報社、酔仙酒蔵、マイヤ、さいとう製菓などの社主や代表者たちが語ってくれる、会社と地場の現在あるいはその販拡のことなども貴重である。僕も同会に登録されている一人だが、実は気仙出身ではなく、平泉、いわゆる西磐井郡出身。でも高校時代から約40年間も陸前高田に住んでいたのだから、中学、高校卒後に気仙を離れた人達に比べ、より気仙人であるといえるかも?だが、生まれ里ではないので、まったく違和感が無いとは言えない。だがそんな僕が盛岡に来た年(2001)の同郷会は9月に盛岡グランドホテルで行われ、その時僕は会のゲストととして呼ばれ,少しばかりの話をしながら、弾けないギターを持って自作の歌を何曲か披露した冷や汗モノの記憶が戻る。 当時の同会会長は岩手放送の社長だった菊池昭雄氏(陸前高田市高田町出身)で、それこそ僕の故郷、平泉で毎年5月に行われている祭り、義経東下りに菊池会長が出演した年で、そのビデオも上映されたりしたが、それより先の4月8日僕のジョニー盛岡店、開店時、菊池氏から「祝・開店、IBC岩手放送」と名札のついた大きな花鉢に植えられた蘭の花が届けられた時はビックリするやら嬉しいやら誇らしいやらの気分でした。その菊池昭雄氏が作詞した気仙同郷会讃歌(千昌夫の“北国の春”替え歌、遠藤実作曲)の「気仙よいとこ岩手の湘南、寒九の雨にああ紅い椿咲く、風光明媚で人情豊か、ああ気仙は故郷よ」を皆で合唱!合掌!一本締め!の夜の宴!でした。
「佐藤卓史(たかし)さんという、素晴らしいピアニストがいるんだけど、ジョニーさんのところでやってみませんか」4年前にそう言ってくれた千葉県在住の望月美咲さん。彼女がいうには、いとこの目黒久美さん(父の兄の子で目黒、望月、共に旧姓高井)が、それこそ卓史さんが小さい時から中学卒業するまでピアノを教えた関係で、知っているのだということだった。そうして始まった毎年恒例ライブの素晴らしさに、聴く人、心奪われ皆唖然!
卓史さん4才の幼稚園時代にピアノを弾く子がいて僕も弾きたい!と思ったのが始まり!「やりたいのなら買ってあげるよ!」と、おばあちゃん。目黒先生宅に通って週一のおけいこ。一年生の時、学校の先生だった父に連れられ秋田市のピアノコンクールを聞きに行き「僕も出たい!」と翌年初出場で5位入賞。県大会へ行ったら2年3年と2位。4年生で1位、仙台での東北学生ショパンコンクール金賞。6年の時、東日本東京大会で1位。で、めきめきと成長。だが全国大会で同い年の福岡代表に負けて2位。 そこからメラメラ炎燃え上がり、やるのなら東京に出ないと!と芸大附属高校へ進学。するとそれまで競い合った連中が殆んど入学してきていたと笑う。3年の時、初挑戦した毎日日本音楽コンクールでいきなり1位を獲得。以来コンサートピアニストなる決意を固め、「あらえびす学芸財団」から奨学金を貰って芸大へ直進。卒後は更に5年間世界最高の音楽機関といわれるドイツハノーファ音楽演劇大学へ留学。その後、ウイーン国立音大で2年!と30才まで猛烈な勉強に打ち込み数々の名だたる国際コンクールで1位を独占しての帰国。 一曲一曲はなかなか合格させてくれませんでしたが、おおらかで、楽譜の書き方、作曲の仕方、歌い方まで教えてくれた目黒先生。そして、よく弾ける子たちのために芸大から上原興隆先生を月1回呼んでくれた秋田のピアノの先生方に感謝しつつ、非常に厳しい上原先生にビクビクして基礎的なことを間違えると、何しに来た!帰れ!と言う人だったけど「楽譜は予見でマップ的に全体を頭に入れ、その全体の中の、ここを演っているんだから、大きな流れの、ここを考えなさい」と教えられた昔。今、N響、東交、日フィル、その他のソリストとして、又、ソロピアニストとして、はたまたBSジャパンの音楽交差点で大谷康子氏(vin)のアシストとしても活躍中。
あれは確か1990年12月12日、陸前高田市民会館で僕が開いた「ハンク・ジョーンズ(p)・ウイズ・尾田悟(ts)トリオのエレガント・コンサートの時だった。尾田さんの楽屋に行ったら、親しく話されていたのが盛岡のピアニスト山内洋さんご夫妻。ハンク、尾田、山内、このお三方はその後この世を去ってしまわれたけれども、僕が2001年に開運橋のジョニーを開いてから、ご夫妻でいらしてくれて、自分達の山内洋ファミリーコンサートを店で開いてからあの世へ。
洋さんの奥様だった路子さんは、ご主人が遺した録音をCDにまとめ、それを僕にも一枚プレゼントしてくれたのは2004年の事。出会った頃の1990年代は、盛岡市の上の橋町一丁目にある門の形をした建物の2階に彼女の事務所「オフィス・ヤマウチ」という結婚相談所があった。その階下には当時から今もある喫茶「DAN」。僕はその向かい側つまり門形2階建ての左下1階にあった「萌」という喫茶店によく通っていたから、路子さんの事務所にも顔を出したことがあった。僕が盛岡に来てからは、それこそお見合いパーティを店で開いてくれたこともあったし、登録会員のためのコンサートをお世話したりと、それこそ活発なブライダルコンサルタントとして300組以上結んだ路子さんでしたが、気が付くといつの間にか陶芸家になり画家になり、書家となって、あれよあれよのうちに国際的な賞を受賞したりと、まるで洋さんがピアノを弾いていた東日本ホテルのスカイレストランの名前「オーロラ」のような人になっていた!。 その山内路子さん(72)は最近も紫波町あらえびす記念館での絵画展や、かもめの玉子のさいとう製菓盛岡本町通店2階の「COCOA」で「ほっこりひと息いやし展」を開催、「和」 をテーマに色紙に福地蔵を描き、自分が自然に生んだ言葉「正しい人から楽しい人へ、優れた人より優しい人に」「幸も不幸も存在しない、そう思う自分の心があるだけ」「広げてくれる出会い、深めてくれる別れ、どちらも人を成長させてくれる」「許すの語源は”ゆるます“幸せは感じるもの気づくもの」「笑顔は最高のおしゃれ」と、すでに歴史に残る著名人のような名言の数々。日本ヨーガ学会本の表紙絵を描き、歴史紀行小説「瀬織津姫浮上」(上下、加藤美南子著)では実名で物語に登場し、その本の表紙絵も手掛けている不思議さに「路とは子の自足で歩むものなりか」と僕。
陸前高田に置いてきたジャズ関連と自歴物の全てを、2011年3月の大津波で海に持って行かれた僕は、2013年1月、自分の初心に立ち返るべく、地下のライブ中心だった店をたたみ、地上4階で元のジャズ喫茶へと方向転換。同時に社会人大学?“穐吉敏子学科”の店を目指そう!それには、彼女に関する資料収集が先決!と、上京の度、昔のジャズ本と中古レコード探しに明け暮れて来た5年。帰る列車の時間までに、少しでも余裕ある時は、駆け足でジャズ喫茶へも向う。
僕が知る限り都内で一番音がいい文京区白山のジャズ喫茶“映画館”へ久し振りに伺った。汗だくなのでコーラを飲みながら耳傾ければ、この上もないほど気持ちよい再生音でピアノ、ギター・デュオ。そこへ、あの昔聞いたジリリーン、ジリリーン、アナログ黒電話の音。店主の吉田昌弘さんが大きな受話器で応対している姿を見ていたら半世紀も前に置き忘れたままの光景が甦って来る様な、まるで大都会のタイムマシン!そういえば店の入口だって穴の様な窪地?にある不思議。 店内は、映画館というだけあって上映も出来る装置と関連本。そして歴史的資料価値のある本の数々。そこで目にした“ジャズ批評”の第1号(1967年6月創刊号)に驚いて写真を撮らせて頂くことに。何しろ血眼になって探し歩いてきても、この創刊号だけは未だ手に入らずいたものだったから。するとマスターはすかさず「見れば判るように本物より厚いでしょ?実はこれ国会図書館から、とあるツテでコピーして貰った物なんです!」と言って更には「ジャズ批評150号巻末にこの創刊号が付いていますよ」と言うのだった。確かにありました!(ありがとう)。それにしても凄い記憶力!と感心していると「江川三郎実験室にジョニーの記事載ってましたよね」。別のAA誌開いたら「照井さんが昔作ったそのレコード持ってますよ!」とパッと取り出す早業であった。脱帽!と思った瞬間!アッ!列車の中に帽子を忘れて来た!と気付きガックリした僕(アーア)。ジャズ喫茶“映画館”は1976年開店。吉田さんは映画自主上映の草分け的人物。自作管球アンプで1960年代のスピーカーをこれまた自作の木製ホーンとボックスでマルチ駆動させる音作りの達人。“この音聴かず”は、人生半分損する様なもの、と僕は店に行く度にそう感じてきた。 |
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