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女房の小春が機種変更し使わず何年も放っているタブレットを拾い上げ、色々いじくりまわしていたら、いつの間にか「ジョニー照井顕」という自分のフェイスブックとやらが出来上がった。それならばとシワだらけのTシャツ姿を女房に撮ってもらい、自分の顔としてアップ(2020年8月18日)。以来1日平均1投稿、写真付きを心掛けて実行中。なんせパソコンはおろか、ワープロにも触らず、今だに鉛筆と消しゴムで原稿書きをしている僕。携帯は20年前から、必要に駆られやっと持った人だから今もって柄に似合う?ガラケイタイ!ショートメールがやっとの僕ですから、もう何時間もの悪戦苦闘!間違いだらけの毎日です。
何の役に立つのやら店閑をいいことにニラメッコしているから、女房のカミナリ、落ちてくる毎日。只いいことは何十年もご無沙汰での連絡の取りようのなかった人とつながってその人の空白期や今を知ることが出来たりとてもいい面がある反面、見知らぬ人や外国人達からの良否の判断つきかねる友達リクエストもたくさん届くのと、自分の投稿に対するコメントへの返信はけっこう大変なので、僕の得意技である?ダジャレ返信のみにしたら、案外いけますが「その意味わからない!」と帰ってくる始末。あ~ぁあ。 そんな日々の最中昔からの友から電話あり「以前俺が使っていたドコモアンドロイド「mo-01j」というスマホ?をつかわないか?というので貰いに行って来た。中のデーターは初期化したという。新品?女房に見せたら2016年製だからまだ新しいよ!という!ありがとう。少し練習してみて使えるようになったらガラの番号をそのまま進化させてみます。 それにしても周りを見渡すまでもなく、世はまさにデジタル社会。自宅でも外でも交通機関の車中でも、だれもかれもがスマホに夢中!Uチューブなるもの開いてスタート印押せば大好きな人たちの演奏がただで視聴出来、その歴史的映像までも、あっという間に出て来る。その音は、僕の超旧式ステレオでも再生できるが、注意深く音聴けば、アナログには敵わない!それはそうと映画「ジャズ喫茶ベイシー」が老トルはモチロン、若者の間で「新しい」と評判でロングセラー続け、今、東京等のジャズ喫茶は若者が注目しているという。やっぱ何の業界でも必要なのはスターですね。
2011年10月17日付本紙本欄№41「守口忠成(ただしげ)生き方の教え」を読み返してみた。というのも先日、電話の後に彼から小包が2個届いたからだ。開けてビックリ「Tailor.Otomo(Sendai)」仕立てのWのスーツ。手紙には「医師の伯父に頂いたものです。体形に合えばお使い下され」と。さらに「袋閉じ付録・春画」とあり「心もだえ、身もだえした、青春時代の絵画など」と春と画に丸印。高校の教諭だった彼26才時の水彩の、まるで油絵のような青春自画像。それに木彫愛染明王壁掛け。更に僕がジョニーを開業した1975年・彼30才時の仁王像水墨画など20点。他、今年(2020)10月に写真を見て描いたという僕がモデル?「“ジョニー・ボサツ”こと南無和来(笑)菩薩(平和が来ますように)」の水彩画。「稚拙な恥部をさらけ出し、毛し分け無いです」(未成年者厳禁)の添えメモがあったので、その封切前の包みを女房に見せたら「なに!それ!店で開けないでよ!」とあわて立ち去った!アハハッ。
その“ジョニー・ボサツ”のお話。あれは1982年、高さ約20㎝、台座幅約6.5㎝の木彫りに彩色された僕35才時の髭面立拝の仏像?を彼が製作して僕の店に寄進してくれたのです。像の後ろは絶壁になっており、まさにそのような立ち位置だった(今もですが)ので、その像をピアノの横に安置して、お賽銭箱を置いたら、お客様たちがチャリン、カサッ!とお金を入れ拝んで帰るのでした。それこそ、お坊様達までも。 しかし、あの2011・3・11の大津波で、陸前高田に置いてきた僕の過去40年分の90%以上(少しは盛岡に持って来ていた)は、仏像?もろとも海に消え去ったのですが、仏像?は又、このように絵となって舞い戻って来てくれました!守口さんありがとう、感謝至極です。なので贈っていただきました守口さん若き日の作品を中心に、これまで頂いてきた数百通もの中から絵手紙などピックアップした守口忠成展を文化の日(われらが穐吉敏子さんの51回目の結婚記念日)にあわせ、一ヶ月間、開運橋のジョニーに展示することにいたしました。と紙上報告です。その穐吉さん(90)は2022年4月、ニューヨークより盛岡に直行してコンサートを開いてくれることになりました!タアちゃんその時には秋ちゃんの春画描いてネ!
幸遊記(486)の太田代伸夫さんに連れられ、今年の春から今月まで何十回山へ行ったことだろう。行く度に頭に浮かんでくるのは澤口良司さん(幸遊記142)。春の山菜、夏の岩魚、秋のきのこ、数えてみれば15年間も採って来て僕等に食べさせてくれた。彼、(2017・70才没。裕天良音禅信士)今月10月7日は彼の命日。「澤口さんのお墓に行って手を合わせてきました」と、あの日の夜、開運橋のジョニーへ報告に来てくれたのは上関晃さん(RSMB・良司・澤口・メモリー・バンドのギタリスト)。
彼は、僕の店が地下から地上4階へ移店の‘13年、澤口さんと一緒に店の引っ越しを手伝ってくれて、それ以来、澤口さんの後継者的存在。澤ちゃんを見習い、盛岡大通商店街での歩行者天国「ビッグ・ストリート・ジャズ・ライブ・フェス」への機材運搬等々を率先してやり続け、時折、各地の産物を持参しては一緒に酒を飲み交わしシャレまでかわす仲に!。それこそ彼が良!とするギタリストはグラント・グリーン(1935~‘79・米)。そうか!山菜(グリーン)採取地(グランド)か!と納得の僕。 澤口さんの戒名「裕天良音禅信士」の地所ならん、辞書引いて、「心豊か、広い自然な力量。真理を悟り、万物の響、善導して、耳に届ける境地に至れり。“音に聞こえし名人”」と、僕訳。確かに一つ聞き知れば即座に十倍ふくらませた結論言う人でもあったから、共演者にはもってこいのドラマーだったはず。 その十倍の話を澤ちゃん流にいえば、「沢は川に合流する上流階級!」。北上川水系(北上川支流)には太田代川あり、太田代地名(現・奥州市)もある。九州の豪族、菊池氏の流れを汲む太田代の氏。僕の親友、太田代伸夫さんは宮守村(現・遠野市)の出身だが彼の生家墓地の大きな石碑には、何かそのようないわれも書いてあった様な気が?。それはそうと、その太田代川上流のほとりには、北東北会員のための、広大な「創価学会みちのく池田記念墓地公園」。そして、盛岡市営運動公園に隣接する同学会岩手文化会館。そのどちらもの土地探しと仲立を(無償)やったのも彼・太田代伸夫さん。その彼は今、広大な岩手の山々の懐に僕をそれこそ、無償で連れて歩いてくれる、春夏秋山のドライブです。ああ、山に幸あり!心の幸あり!
もの凄く厳しかった今年の残暑日「盛岡冷麺が食べたいので送ってほしい」と電話で別府の徳丸さんから頼まれていたのをすっかり忘れ、常温?に戻った最近想い出し、ようやく送った「ゴメンナサイ、本当に、冷たい麺になりました!」。彼はジャズの大先輩で、昔は「ファンク」「ザドー」「タイム・ストリーム」というジャズ喫茶のオーナーで九州三羽烏の1人。鹿児島の「パノニカ」(中山信一郎・2018年没)福岡の「コンボ」(有田平八郎・1999年没)そして彼、大分の徳丸泰蔵さんである。この三人、日本のジャズシーン、とりわけ九州では絶対に欠かせない大きな存在の人物であった。
特にも彼は僕と同じく、ことのほか穐吉敏子さんが大好き。2018年11月、NYのカーネギーホールで開催された彼女のコンサートにも僕と一緒した。穐吉さんから僕は「ヒア・カムズ・ジョニー」という曲を。彼は「タイム・ストリーム」という曲をそれぞれ贈られていますが、穐吉さんは旧満州の生まれで、彼女の父は大分出身、そんなことから終戦後日本に引き揚げて、ピアニストとしてスタートしたのが別府。片や岩手のピアニストと言えば、僕がジャズにのめり込むきっかけとなった本田竹彦(のちの竹広・2006没)。徳丸さんは本田さんがまだ東京以外でのライブをやっていなかった時に、いち早く九州に呼び最初の店「ファンク」(1967年から3年と3ケ月で閉店)に、なんと27回も来て貰ったというのだから驚き。そのファンクの閉店時には三日間も演奏して、おまけに「セカンド・カントリー」という曲を贈った(浄土・‘71年トリオレコード)。彼の家にある娘さんのピアノには穐吉サイン「好きなピアノをよく勉強すればいつかは世界一になれます」。 それはともかく、1967年穐吉さんの前夫・チャーリーマリアーノと渡辺貞夫さんのアルト・バトルの開催、‘73年から城島高原での「キジマ・ジャズ・イン」で全国にその名を轟かせ、10回目には音楽デイレクターに穐吉敏子さん、プロデューサーにジョージウェイン、児山紀芳、両氏を起用し超一流日米ジャズマンを集結させて、県、市を挙げての「’82別府国際ジャズフェステイバル」を開催!3日間で延べ2万人の集客。その時、彼の役はアシスタントプロデューサー(黒子役)。カッコイイナア!いつぞやはその一部始終を記録したDVDをプレゼントして戴き、空前絶後の演奏に絶句した!嗚呼JAZZ!トクマル。
完成したばかりの住田農林会館で、‘81年4月に録音した小栗均ピアノトリオ「みどりいろの渓流」レコード解説書に「アンダンテ・カンタービレ」という一文を書いてくれた当時の住田町長(‘81~’85)佐熊博さん。彼が一期のみで町長を辞した翌’86年6月、住田で「岩手鉱業」や「種山ヶ原共働」を経営していた稲葉紀雄さんに案内され、佐熊氏や当時の佐々木助役(副町長)、のちの町長で、きのこ博士の菅野剛氏等と一緒に僕もおまけで連れて行ってもらい、各地で大歓迎会まで開かれたアメリカ・オレゴン州への農業視察。
むこうは見渡す限りの大規模農業。かたや切り立つ山々に囲まれた猫の額ほどの土地で、酪農、ブロイラー、イチゴ栽培等を率先!日本一の生産量と価格を勝ち得た複合集約「住田型農業」で全国から注目の的となった気仙郡住田町。それを確立させたのは他ならぬ佐熊博氏であった。彼はどこか僕の父に面影や性格が少し似ていたし、年齢が近かったこともあり、大好きだった。町長を一期でやめた理由を旅の途中で話してくれて「人口一万人の小さな町といえども、長たる者というのは、あらゆる面で凄いものだよ!だから、出来るだけ多くの人に経験してもらいたいよ!」。「どんなにすすめられても、行かなかったが、今度こそ、秋吉敏子さんのコンサートには行くからね」と約束してくれたのですが「日本に戻ってきたら、やはり行けなくなった」のハガキが届いたので「役所ならいざ知らず、民間!特にも僕等ジャズの世界では口約束は必ず守るのが当たり前です」と返信したら「あんたにはズッパリやられたよ」と、笑顔で来聴! 佐熊博 (1910~‘87)岩手師範学校卆。1929~’49年小学校教師。‘45年(昭和20)県内の各学校へ教員組合の組織アピールを書き送り、翌年1月盛岡で県教員組合結成準備会を開いたのが今日の岩教組の始まり「私は教員をやり、社会運動をやり、拘置所に入り、土方をし、農業運動に入り、そのいずれについても“生きるに値する”との充実感の中で生きてきました」(私の歩いた道・佐熊博)。と「日本農業の矛盾の本質をきわめる」ことから再出発して、15年間にわたった農協組合長他、県農協連絡協議会・会長などを歴任して町長になった人。大東亜戦争時、子供たちを義勇軍や少年飛行兵として送り出したこと、自責の念にかられ、学校で子供たちに自ら膝をついて誤ったという。温厚篤実、清廉潔白なひとでした。 |
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