盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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幸遊記NO.93 「30年振りの様々な再会」2012.10.16.盛岡タイムス

 「ジョニーへ30年振りに来ました。随分いろんな処に行きましたが、こんなに音のいい本格的なジャズ喫茶は、もう、一関のベイシーと、盛岡のジョニーぐらいなものです!」。と言った人が居た。話を聞けば「デジタルの先端技術を開発し海外に売る。そして県外で得たお金を、岩手に持ち帰り、岩手で使う」。そう言いながら、「やっぱりアナログの音は最高!」と言ってボトルを入れ、僕に、店を続けて来た事への感謝の言葉と、そして今後のパワーをプレゼントして帰った「真司」さん。
 30年前は子供だった僕の親友の娘が、母親となり、素敵なご主人と連れたって自分の子を見せに、東京から僕の店に来て、亡くなった父の昔話をしながら、涙ぐみ、僕と親子の記念写真を撮って帰った「かな」さん。僕も嬉し涙がにじんだ。
「30年前の僕のレコード“開運橋ブルース”の事を照井さんが盛岡タイムスに書いた記事をコピーし、いろんな人に読んでもらいました。そうしたら、何とあの曲が、今年(2012年7月)第一興商のカラオケに入ることになったんですよ!本当にありがとうございました」と、電話をくれた歌手・大船わたるさん(70)。9月には「先日カラオケで歌ってきました。感激でした」と、東京から盛岡へ弟子の歌手・美月優さんを連れ、僕に会いに来てくれて「今カラオケの事を、ラジオでも喋って来ましたよ」と、嬉しそうでした。
 穐吉敏子さんのご主人、ルー・タバキンさん率いる国際トリオの、ジョニーライブを聴きに来て「30年振りのジョニーです。今夜の素晴らしい演奏光景、東京じゃ考えられません」そう言って帰り際に、名刺を差し出した東京都板橋区長・坂本健氏。「僕の娘も板橋に住んでます」と言ったら、名前は?と聞かれたので、名刺の裏に「照井泉沙子」と書いて渡した。娘は僕が30才の時の子、彼女も、もう35になった。
 一人で来店し、会計時に女房に名刺を渡して帰った人が居た。それを見て多々思い浮かぶ事があり、僕が電話をすると彼は戻って来て、共通の友人とジャズ談議に花が咲き、時を忘れた。「たきび」で知られる巽聖歌が住んでいた、東京日野市旭ヶ丘。そこの交通遺児学生寮から、大学に通った彼・菅原直志氏(44才・一関市出身・日野市の市議会議員5期目)は、7才の時父を亡くしている。37年後の今、名刺の裏には、プロフィールと共に幸せそうに我が子を抱いて撮った自分の写真が添えられている。


幸遊記NO.92 「星吉昭のせんせいしょん」2012.10.8.盛岡タイムス
 あれは1981年の正月頃。レコード店で見た「奥の細道」。平泉中尊寺の月見坂途中にある、同名の看板と宇宙が直結したシングル盤(EP)のジャケット。レコードを取り出して見たら「見本盤」の文字。試聴したら欲しくなり、定時制高校時代から、通っていた陸前高田の「金繁レコード店」の店主、故・金野善夫さんから、その見本盤を貰って帰った記憶。
演奏していたのは岩手の「姫神せんせいしょん」星吉昭、当時(34).佐藤将展(21)等。その時、レコード聴いた僕も33才。農作業しながら踊っている様な、日本の原風景的シンセサイザーのリズムに魅力を感じた。
 当時はまだ、バンドとしての態勢はとれていなかったため、実現はしなかったけれど、姫神のコンサート開催を申し込んだ第一号者は僕だった。新譜が出る度レコードを買い、全作品を何度も何度もジョニーで聴き続けた。彼が滝沢の巣子から田瀬湖畔へスタジオを移した頃からは、僕が陸前高田から盛岡へ出かけた帰りに、幾度か勝手にお邪魔し、音や話を聴かせて貰ったりした。
 かつて僕が担当していたFM岩手のジャズ番組に出演して貰ったことや、彼の番組、IBCラジオに、僕を呼んでくれたこと。そのずっと以前のNHKTV取材時、ジョニーでピアノを弾いてくれた感激!。あの時彼はまだ、カーリーヘアだったことなどが思い浮かぶ。
 星吉昭(1946~2004)さんは、宮城県若柳生まれ。若柳高校を卒業し、デキシーランド・ジャズを演りたくて上京。電子オルガン全国コンクールでグランプリ。ビクターの音楽教室が盛岡に出来た時、嘱託で来て、のち結婚した悦子さんに出会った。
 「奥の細道」ヒットのきっかけは、岩手放送が番組の合間合間に流していたことだった。発売前から、曲名を言って買いに来る客が居るとあちこちで評判になり、発売と同時にハガキリクエストがベストテン入り。1、2ヶ月後には第一位。確か松田聖子や近藤真彦を抜いてのことだった。以後は、喜多郎やYMO以上に世界へと広まったことは、誰しもが知る。                       
根底に流れていたものは、彼の言う「北人霊歌」(東北の民謡)。自然と共存する東北の姿を、音にして伝えた姫神サウンドの原点こそは「南部牛追唄」。力強く、風の音にも似た、故・畠山孝一氏の声の響に、彼が、心を打たれたことだった。


幸遊記NO.91 「山崎俊之の真夜中を数えて」2012.10.1.盛岡タイムス

 「先日お話ししたCDを進呈します。ヴォーカルは赤崎町(大船渡)出身。ピアノは私の甥(宮古出身)です」。そう走り書きしたメモを添えてCDを贈ってくれたのは、当時、岩手県大船渡振興局長だった岩切潤氏、1991年秋のことでした。タイトルは「THE・THANKS」。僕はそれを、当時DJを担当していたFM岩手のジャズ番組で放送した。
 それから3年後の94年。そのCDのピアニスト・山崎俊之さんが、盛岡から陸前高田へやって来て、2枚目のCDを出すことになったので、そのライナー・ノーツを僕に、書いてほしいと言った。
 話を聞けば、彼は宮古高校一年生の時に、地元にあったジャズ喫茶「美学」で、宮古出身のピアニスト・故・本田竹曠さんが弾いた「浜辺の歌(成田為三作曲)」に大感激し、ジャズコード(和音)を教わり、その場で、彼に譜面まで書いて貰ったと言う。
 そこから、山崎さんはジャズにはまり、坂元輝の教則本を買い、ジャズピアノの勉強をした。1981年、僕が陸前高田で製作した坂元輝のLP「海を見ていたジョニー」(五木寛之の同名小説にちなむ)を知り、宮古から自転車に乗り、途中のジャズ喫茶に寄りながら、僕の店、陸前高田のジョニーまでそのレコードを買いに来たのでした。これも感動!
 そんなこともあって、僕が盛岡へ店を出して間もなくの2001年6月17日、彼は彼なりに「海を見ていたジョニー・ストーリー」のライブを考え、開店したばかりの開運橋「ジョニー」で開いてくれた。それは、山崎さんらしい歓迎の仕方。僕は、とてもうれしく思ったものでした。
 僕が、平泉中学校から高田高校へ入学した1963年(昭和38)。4月29日(昭和天皇の誕生日)に山崎さんは宮古で生まれた。彼は、宮古高校から日大芸術学部の作曲科へと進んだ。理由は「映画音楽を作りたかったから」だそうだが、2枚目のCDに入っている「舞踏会が始まる前に」は、映画「口紅」に使われた。自ら脚本を書いた2006年の自主制作「真夜中を数えて」にはピアニストで登場。この映画(DVD作品)は、彼がピアニストとして25年間務めている、盛岡大通「にっか亭」の制作。サントリーの様な「山崎」さんが、ニッカの様な店「にっか亭」で日課として、ピアノを弾いている。それも、おシャレ!  


幸遊記NO.90 「津田匡義の徳間文庫マーク」2012.9.24.盛岡タイムス

 かつて盛岡中央通3丁目に、僕が大好きだった版画家・津田匡義さん(1941~2002)が住んでいた。樺太のシスカに生まれ、熱病で小児マヒになり体が不自由だったこともあり、家の中での仕事を指して、穴倉生活者だと言っていたが、不思議なパワーを感じさせる人だった。
 彼が住んでいた家のある細い道の端には、かつて「ジャズ喫茶パモジャ」があった。そこで彼と知り合い、何度か自宅へお邪魔し話をした。陸前高田のジョニーで、彼の版画展を開いてもらったこともあっし、ハンクジョーンズのピアノ、尾田悟のサックス、それにバイソン片山のドラム(1979年僕のレーベル、ジョニーズディスクからレコードデビューした人)等のコンサートを陸前高田で開いた時のポスターにも彼の作品「JANZU」を使わせて貰ったりした。いい作品でした。
 彼が使う和紙は「店の片隅に追いやられ、すすけてシミのついたものなどで、それを見つけては、俺と同じだなあ、一緒にやろう!」と、紙に語りかけることから始めていた。そして基調となる藍色は特にも、昔の藍を追求し、それに海の緑色や、砂の色を好んで使った。
 版を掘るノミは、子供が使う当時365円だったという6本セット。話を聞いた時には10年間一度も研がずに使っていた。無理の無い自然な角度で彫っていれば、それは研ぐことと同じなのだと言う意味、ハッとした。それは、レコードプレイヤー「ウェルテンパード」のトレースの仕方と同じなのでした。柄も手の油で黒く光っていて、その彫刻刀すらまるで彼の作品そのものの様だった。
 版画はギチッと色が押ささるものだが、彼は、どうしようもない位、柔らかな伝わりが表現出来なければ俺の作品じゃない!とふわりと包みこむような色が出てくれる様にと祈る様な気持で刷っていた人でした。
 原稿用紙に、太字の万年筆で描く藍版画の様な、力強くも心のぬくもりが伝わる字で、何枚もの何通もの、手紙やハガキが届いた。僕が盛岡に店を出してから、何かの案内を出した2002年、彼が、その年5月に亡くなった由、奥様の弘子さんからのハガキで知った。残念だけれど、彼の作品である徳間文庫のロゴマーク(男女の双顔)は、今も、日々全国津々浦々に届けられている。


幸遊記NO.89 「西田耕三の気仙沼大島の記憶」2012.9.17.盛岡タイムス

 宮城県気仙沼市を流れる大川の河口あたり、内の脇という所で「耕風社」という、地方出版社を営みながら、数百冊を数えた本の出版。自らの著書も120冊余りを出版していた、ノンフィクション作家・西田耕三さん(79)と、久し振りに電話で話をした。
 今彼は、山形の鶴岡市にて古い一軒家に、奥さんと二人避難生活をしているという。かつての気仙沼の家は津波にあい、過去の全てを失ったけれど、人気レストラン「アルケッチャーノ」のシェフとして働いている息子さんのいる鶴岡にて、孫の子守をしていると。
 そうは言え、今年(2012年)3月にはもう、東京の彩流社から「気仙沼大島の記憶」という、詩人・水上不二(本名・佐蔵・1894~1965)の人と作品を出版した。この本は、2007年4月~2009年3月まで、270回にわたって河北新報気仙沼版に連載した作品を補訂してまとめたもの。その素早さには、それこそ、作家という者の不二(?)身さを、見せつけられた思いがした。
 彼には、僕も昔日に「ジョニーのらくがき帳」「日本ジャズ専門店」「陸前高田ジョニー」などの本を出版して頂いたことが頭をよぎる。本とはいえ、あちこちに書き散らした様々な僕のエッセイを、彼がもう一度、原稿用紙に、万年筆にてリライト、それをタイピストに打たせて編集し、印刷所に持ち込むという方法だった。
 今にして思えば、気の遠くなる様な手作業を、ずっと、やっていたのでした。その根気こそが、彼の原動力であり推進力、考察力の素であるのだと気付かされる。
 彼にとって新しい土地である山形でも、すでに庄内日報紙に「月山」で知られる、今年生誕百周年の芥川賞作家・森敦(1912~89)の作品を読み解くアンソロジー「私の私的リテラシー」を連載中である。「脳のレッスン」と笑う彼だが、庄内地方と気仙沼地方の交流の橋渡し役も買って出、今年は、そのブナの自然林に囲まれた月山湖畔に、気仙沼八幡太鼓の子供達を呼び、野外でのまつりを行ったと言うし、10月には、気仙沼の水産物を紹介するサンマまつりや、もどりガツオを食べる会なども企画していると、心技体の三つを耕す名の如く、衰えず、益々盛んな様子である。


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