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僕が、盛岡開運橋通りに「ジョニー」という生演奏を中心とする、ジャズスポットを開いた翌年の2002年6月、かつてのクラブやキャバレーで演奏していたミュージシャンたちが、ジョニーで再会し結成したバンド「サウンド8(オクターブ)」リーダーは、故人となったトランペッター・及川健さん。サウンド作りはアレンジャーでピアニストの藤原建夫さんだった。
そのバンドを連れて、大船渡市の「ウェディングパレスまるしち」が主催した「ジャズライブ&ディナーショー」へ出演したのは同年の12月、自慢の創作料理に舌鼓を打ちながら「ストレイト・ノー・チェイサー」や「ソー・ナイス」などのジャズナンバーを聴き楽しむというもので、司会は僕だった。 以降、藤原建夫さん(70)は、トリオや6~8人編成のバンド・スイングタイムで定期的にジョニーで演奏する様になり、十指に余る新人女性ヴォーカル育成のために、惜しみなく、時間を使ってくれたのだった。熊谷絵美、絵美夏、金本麻里。今、県内外に少しは知られる様になってきた彼女等も、皆ここから巣立った。 藤原さんは満州(現・中国)北京に1942年8月九州出身の母・クミコ(当時30)と盛岡出身の父・忠(当時32)の長男として生まれ、日本領事館の武官だった父の沖縄への転勤で昭和20年(1945)年に引き揚げ、その後長崎を経て、盛岡へ。 桜木小学校、下の橋中学校、盛岡農業高校普通科へと進み、高校時代に、キャバレー歌手からギターの手ほどきを受け、ベースも出来る様になり半年でマスターし、親に買って貰ったウットベースを担いで上京。3年程クラブバンドで演奏後、盛岡へ戻り、キャバレー・ソシュウやクラブ・五番館などで演奏し、再上京、再帰郷と3年ごとに繰り返し、30才でピアノへ転向。ピアノは演奏する上での音楽理論を勉強するために始めたはずが、すっかりその奥深さにはまり、独学5年。 その後は盛岡のクラブ女王蜂、セラヴィ、ダンヒル、キャバレー・ミス東京などでバンドマン生活をし、40才で自分の店「エルラパン」を開店、ピアノを弾き続けた。のち転職し10数年経ってもピアノからは離れられずにいた時、ジョニーが盛岡に来たのでした。どんと晴れ!
誕生日を迎えた日の朝だった。シャワーを浴び、体を拭いていた時、下腹部右側がはれていることに気がつき、そのまま裸で女房の前に立って見せたら「あら!りっぱにふくらんでますね!」となった。
僕の店の常連で、古い友人の医師・八木淳一郎さんが店に来たのをつかまえて、そのへんをむりやり?さわってもらったら?ソケイヘルニアとのこと。入院しなくてはと言う。アーア!考えてみれば店の引越しで何ヶ月間も、重い荷物を運んだり、移動させたりで疲れてた所に、ピアノの位置を直すために前日一人で持ち上げたのが、どうやら原因の様であった。 それでも2、3日病院へ行きがらけしていたら、そこへヒョイとタイミング良く、久し振りにやって来たのが、盛岡市立病院の医師・佐々木一裕さん。「何故か急にジョニーへ行かなくちゃ!と頭に浮かんだから来たんだよなぁ!」と言う。彼からは、2003年4月に、ジャズとフュージョンのLPレコードを、たくさん貰っていたことを思い浮かべながら、ヘルニアの話をしたら「僕が外科に話しておくから、明日市立病院に来て!」と相成り、覚悟をさせられた。「入院かぁ~。入院といえば19才の時、免許を取って三ヶ月の深夜、居眠り運転をし、峠道から沢川まで84メートル車ごと転げ落ち、フランケンシュタインの様になって一ヶ月間も入院したことがあった。あれ以来47年振りの入院。今回も病気ではない体内ケガの様なもの!」と、一人勝手に骨休めとし、半分は楽しもう!と、そして、あの事故以来の読書三昧、4泊5日の入院で、その間女房も休養? 全身麻酔をかけられての手術中、僕はジャズピアニスト・穐吉敏子さんに話しかけられている夢を見ていた。手術が終って腹を見れば、ヘソに透明な絆創膏が貼られていただけ。そこから下3寸へ“メッシュ”なるものを入れ穴ふさぎをしたらしい。病室のベッドは606-4。66才4月生まれの僕としてはその数字も嬉しかった。 退院後、「ボクノカフクノソノモトヘ、カワイイソノコアソビキテ、カエリタクナイトダダヲコネ、ソノミチノソノアナヲ、イシニ、メッシュ!トフサガレテ、ソノコモヤットコ、オトナニナリマシタ」と書にしたためて病院の6Fに送ったら詰所の「真壁」に貼りましたと外科の先生!
シンコーミュージック・エンタティメントから2012年12月30日発売になった“ジャズギター・レジェンズ”のVol・2は、ジャズに品格を与え続ける巨匠「ケニー・バレル(81)」の本である。「洗練されたブルース感覚で華麗にスイングする王道ジャズの重鎮、その音楽と生涯」と扉にある。
この本を、僕に「プレゼントします!」と持って来てくれたのは、おちずさんとバレルが命というケニーの超大ファン「サンライズマン」こと高橋日出男さん(55)。彼がケニーバレルのギターに出会ったのは中学時代の1972年。FMから流れてきた「グリーンスリーブス」その美しいメロディとギターの音色に感動して、名前をノートに走り書きしたのが始まりだったと言う。その年、ケニーは41才。すでに26枚ものリーダーアルバムを発表していたが、サンライズ少年は、生涯かけて彼の作品を全部集めようと思ったと言う。 高校生になった彼は、早速盛岡駅前にあった「ファンタジー」という喫茶店でバイトを始め、お金を貯め買ったレコードがあのラジオで聴いたLP「ギター・フォームズ」(1965年録音)だった。それ以降は、ケニーの新譜を買い続け、修学旅行のお土産さえも、彼のレコードだった程。そしてナイトソングという1969年に録音されたLP、デュークエリントン作曲「Just A・Sittin’ And A・Rockin’」の無伴奏ギターソロに聴き惚れた事が決定的となり、一音で彼と判る本物のケニーバレルファンになりジャズファンになった。 以来今日までの40年間に10回コンサートを聴き、78枚の全リーダーアルバム(海外オリジナル盤はもちろん、再発盤や日本盤の全て)を収集。更にサイドメンとして録音した数百枚もの全ての盤(名前のクレジットが無いが、弾いているのは彼という貴重盤を含む)まで収集してしまった人は、どうやら、ほんとに世界で唯一人らしい!。だから先の本では、ケニーバレルの全リーダーアルバムの完全ガイドを、録音順に、曲目とそのアルバムの解説を記したディスコグラフィーの執筆を、シンコーミュージックエンタティメントからおおせつかったのです。まさに執念!(集念)?でハイブリッジを架けた男なのです。
「ベルアベドン」という即興演奏の4人組が、盛岡から陸前高田へやって来たのは、1996年頃の事だった。面白い名前だったから僕は地元紙に広告まで出したのだったが、客が一人も来なかった。最近、リーダーだった金野吉晃さんにあのバンドの名の意味を聞いたらなんと、利尿剤(ベルアベトン)の名前だった。どうりで客離れまで良かったはずと今になって納得した。
金野吉晃(ONNIK)さん(56)は、陸前高田市にあった“金清薬局”の長男で、のち、盛岡での開業医故・宏太郎(1926~2011)さんを父に持つ、盛岡生まれの気仙系2世。岩大付属小学校・中学校、盛岡一高、岩手医大歯学部へと進んで、そのまま今も、医大の矯正歯科講師を勤めている。 だが彼が言うには「困ったことに、何かに習熟しようという気が無い」のだと、だから「楽器は何でも一応こなせるが、実は何も出来ない、応用が利かないから、音楽も矛盾的演奏で、俺という“ソフト”を楽器という“ハード”に入れると音が出る、ダンナ芸なのだ」と笑う。だが、どんな種類の楽器で演奏しようとも、歴然とそこには“彼の音”が存在する不思議。 だからなのだろう、その道の巨匠、ジョンゾーンやフレッド・フリス。豊住芳三郎等々との共演歴を持ち、1980年代にはLPやEP。CDになってからも、僕の手元にあるだけでも10枚を下らず、しかも国内はもとより、外国レーベルからの出版も何枚かあるのだ。そして遂に、今度は、1976年から2000年までの音源と、1983年から2010年までの映像が、CD3枚、DVD1枚の4枚組作品集「第5列」(スパイ・後方撹乱部隊の意)が2013年4月24日にディスクユニオンから発売(制作元・ユース)になった。 中味はありとあらゆるジャンルの演奏家たちとの共演による即興演奏。CDジャケットも又、独特の変な絵心がある彼の作品。音源には計60名が参加していることから鳴禽(めいきん)反動集団とし、中味はズボンの裏に生えたカビの如き音だと言う。確かに2001年から、時折僕の店で彼が主催していた、フリーやノイズといった一種異様なジャンルのコンサートに集う音者たちにとって、彼はまさにカリスマ的塾長であると言えた。
1992年のある日、FM岩手のジャズ番組の収録後に立ち寄った喫茶店で、僕は佐藤潤さんという、若いオペラ歌手に、バッタリと出合った。とはいえ、それまで名も知らぬ、会った事も無い初めての人。彼は店のマスターの紹介で、僕のために、実に本格的なオペラを歌ってくれた。その表現力の豊かさと、ずば抜けた歌唱力に、驚きと、感動のあまり、胸が打ち震えた、僕の記憶。
のちに、彼の家を訪ねた時、彼が書いたという、分厚い私家本を頂いた。数百ページにも及ぶその本をめくると、まるで活字の様な、立派な手書き。更に驚いたのは、その本にある色々様々な宗教の団体へ、自ら身をとうじて、体験しながら徹底的に書いた凄い本だった。おかげで今は、全部の宗教を差別無しに見れる様になったと言う彼。 その著者・佐藤潤さんは1961(昭和36)年、盛岡市に公務員の子として生まれ、仁王小学校、下小路中学校、岩手高校を卒業して、東京声専音楽学校の教員養成科に学び、日本人初の国際コンクールで優勝したテノールの奥田良三氏に師事。首席で卒業出来た者(一人)だけの権利を獲得して芸大教授でバリトン歌手・栗林良信氏のオペラ科に進み、学園の入学式や、卒業のトリを務めた。その後、藤原歌劇団から声はかかったが、自信が持てないからと断り、自分の故郷へ戻って来たのだった。 盛岡に帰ってからは、何と肉体労働者として働いたが、会社倒産。職安での訓練校に応募し三度も拒否されたが、ようやく入ることが出来、パソコンのP検3級を取得。 篆刻(てんこく)家で、書道の教室を持っていた母が倒れてからは、アニメソングの女王と言われる、高橋洋子氏(47)のすすめもあって、母の教室を継ぎ、盛岡と滝沢の教室で子供達に書道を教えている現在だが、もちろん、今も時折、ステージや教会で唄っている。 「音楽もドイツのうたは繊細で、イタリアのうたは声量がある。言い替えれば、ドイツはみみっちいし、イタリアは下品となって平行線。だから認め合えばいい。幸い僕はどっちからも認められ、使い分けが出来たのだ」とも。時折、彼は僕の店にやって来て、うたのリクエストに応えてくれるが、彼の歌は本当にすばらしい!と皆が言う。 |
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